「読者の皆様からの暖かい励ましのお便りコーナー」
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このページは、皆様から、「60年代通信」宛てに頂戴したEメールを紹介させていただくコーナーです。
いただいたEメールは、誹謗・中傷やそれに類するもの、あるいは、公序良俗に反するものでない限り、基本的に、原文のまま、掲載させていただく方針ですが、用字用語の修正をさせていただく場合があるほか、お名前は、イニシャルあるいはペンネームに代えさせていただいておりますので、ご了承いただければと思います。
頂いたEメールの掲載について、ご意見、ご希望のある方は、ご遠慮なくお申し出ください。
皆様から頂戴するEメールだけが、シコシコと家庭内手工業でページを作っている主宰者の唯一の励みとなっておりますので、異論・反論・ご批判など、何でも結構ですので、よろしくお願いいたします。
米国ペンシルバニア州・MSさん(男性)
1999.12.31 
… よいお年を!
東京都武蔵野市・初恋天使さん(40代男性)
1999.12.31 
… 忘年会報告、吉祥寺、及川弘子さんのこと
Hitomiさん(女性)
1999.12.31 
… 和田アキ子とジュリー
テツオ君(40代男性)
1999.12.31 
… 水野久美さん+パンパカ学園 +NHKFM「リクエストコーナー」
Kazzさん(40代男性)
1999.12.31 
… 昔の長岡懐かしい
米国ペンシルバニア州・MSさん(40代男性)
1999.12.29 
… FM東京他
東京都武蔵野市・初恋天使さん(40代男性)
1999.12.29 
… 「子供の科学」、中央模型など
nakanisiさん(男性)
1999.12.29 
… 「意地悪ばあさん」について
東京都武蔵野市・初恋天使さん(40代男性)
1999.12.29 
… 60−70年のエアチェック環境
katzさん
1999.12.28 
… 早速ありがとうございました
Hitomiさん(女性)
1999.12.28 
… 丸物百貨店(+和田アキ子+真赤な太陽)
SaToshiさん(10代男性)
1999.12.28 
… メールどうもです
米国ペンシルバニア州・MSさん(40代男性)
1999.12.28 
… 続き
米国ペンシルバニア州・MSさん(40代男性)
1999.12.28 
… ゲルマラジオ、ラグビー
東京都武蔵野市・初恋天使さん(40代男性)
1999.12.27 
… FM放送の思い出
t2536さん
1999.12.27 
… HP拝見しました(吉永小百合さん)
東京都武蔵野市・初恋天使さん(40代男性)
1999.12.26 
… FM歌謡バラエティのパソナリティー
東京都武蔵野市・初恋天使さん
1999.12.26 
… 「雨」から始る欧風洋楽など
米国ペンシルバニア州・MSさん(40代男性)
1999.12.26 
… 都電ほか
米国ペンシルバニア州・MSさん(男性)
1999.12.31 … よいお年を!
鈴木様、今年は、私にとり、ろくでもない年だったのですが、「60年代通信」に出会えて救われました。
来年も、どうぞよろしくおねがいします。
本当にありがとうございました。
主宰者から
1999.12.31
「60年代通信に出会えて救われました」などと主宰者冥利に尽きるお言葉をいただき、本当にありがとうございます。 微力ではありますが、また、皆様に喜んでいただけるホームページであることが出来るよう頑張らせていただこうと思っておりますので、引き続きまして、よろしくお願いいたします。

東京都武蔵野市・初恋天使さん(40代男性)
1999.12.31 … 忘年会報告、吉祥寺、及川弘子さんのこと
鈴木 様
年末年始大変御忙しいようですね。相変わらず御世話になります。
さて、小学校時代の同窓会ですが、2000年問題で出席の悪い男性軍に比べ、圧倒的パワーで勝る女性軍の隆盛は大変なものがありました。そのためか、話題は60年代話題真っ只中で有りながら、持参した学研の「科学」は支持を得ることができませんでした。
それも納得できるかもしれません。「科学」から目覚めて工学系へ行ったのは男性陣であり、電気やコンピュータへ進んだ人間は今まさに起ころう?している2000年問題へ対応するために出社や待機で忘年会どころではない・・・こんなところでY2Kの影響がおよぶとは昨日までの小生には考えもつかないところでした。
「科学」に関して言えば、「付録がスコスコと組み立った派」「苦手で敗北感を味わった派」この2派は鮮明に「科学」を記憶しているが中間派は時空に全てを置いてきている・・という方式がなりたつようです。
これは同級生でも言えることで好きだった女の子や嫌いだった男の子は覚えているが、どうでも良かった子は覚えていない・・という図式ですね。
出席したS君の家、母上は学研の取次ぎをしていたので、本が出る日は帰りの彼の家へ立ち寄るのが小生たちの風習でした。そこで最後の望みをかけたところ彼は「学習」派で小生自身が時空のハザマに落ちこんでしまったのです。
なかなか、Kiyomi様や、メールで御見かけするような方々は同世代にもそう多いわけではない・・小生は飲み会に何か古く如何わしいものを持参して立ち往生した、言わばふいについた照明で発見され、釘付けとなったゴキブリのような失態をしてしまい・・ました。皆さん、こだわりのない方も多い・・小生の場合はKiyomi様のご指摘のように果たせなかった夢のために異様に「時間旅行」願望が強いのかもしれません。
という訳で「科学」に関しては自分なりに研究を進めKiyomi様や皆さんからまた新しいヒント頂こうと意を硬くした次第でございます。それまでは、古物を大切にする変なおじさんを演ずると心に決めました。
しかしながら、リベンジで出しました。
35年前の年賀状攻撃は友人は大変好評で、モノを大切するというより人の心を大切にすることの素晴らしいを一同感じていただくことができた訳です。
なお、Kiyomi様のホームページは、パソコンの扱えるオジさん・オバさんばかりではないので、直接の勧誘にはなりませんが、皆、関心しておりました。
●吉祥寺その昔
吉祥寺駅周辺に40年前から住む妻によれば、駅の高架工事の前後で時代が分かれるようです。その昔、現在の東急百貨店(オリンピックビル)のところは確か「名店会館」であり、1階では何か揚げ物か饅頭かの自動製造機が生産を繰り返しており、その上の階にはおもちゃもあったような、現吉祥寺パルコあたりには映画館があった?ターミナルエコーは始め井の頭線吉祥寺駅ビル的傾向があった?テナントは歯が抜けるがごとく減っていったようですが、地下に関しては15年前くらいまで、スーパー(シズオカヤ)、不動産関係もあったような記憶があります。ローカル話題ですみません。
●及川 弘子さん
今でも、記憶に声が残っている感じですが、確かに振る舞い発言は個性的な感じでした。中村こずえさんなんかとは随分違う感じでした。ますます、ステバラ企画楽しみです。
さて、本年か来年かのハザマで75年ころのFM東京番組表平日篇がメールできるかな・・というところまでまいりました。Y2Kで時空のハザマに落ちないようにしようと思います。
主宰者から
1999.12.31
同窓会の様子をお伝えいただくメール、どうも、ありがとうございました。
そうなんです。
おっしゃるように、同じ地域で育ったとか、同時代に思春期を過ごしたからといって、皆さんが一様に、同様の拘りをお持ちになるわけではなく、「こだわりのない方も多い」のが現実であります。
ホームページでも、折に触れ書かせてきていただいておりますが、そもそも、「60年代通信」というのは、ニュースレター形式の同人誌のような形で始めさせていただいたのですが、私の場合も、60年代に長岡で過ごした同世代の皆さんが全て、こうしたテーマに関心をお持ちになっていらっしゃるわけではないことを知り、物理的な行動範囲の中での展開には限界があることを痛感し、ピンポイントで広く深く、こうしたテーマを色々な皆さんと共有させていただくためには、インターネットが一番ではないかと考え、ホームページを始めさせていただいたのでありました。
お蔭様で、地域や世代を越えて、「60年代」への拘りをお持ちになっていらっしゃる多くの皆さんに、ホームページをご覧いただける形となり、本当に、感謝しております。
最近では、米国ペンシルバニア州のMSさんのように、東京生まれで東京育ちでいらっしゃる方に、ある意味では、同郷で同世代の仲間たち以上に「長岡」関連ページの思い入れに共感していただけたりしていることを、本当に嬉しく思いましたし、そういうケースは、これまで、地域を越え、世代を超え、何度もありまして、ホームページを開設させていただいてよかったと繰り返し喜ばせていただいている次第です。
私も、以前、そのニュースレター形式の「60年代通信」を同窓会に持参し、「ふいについた照明で発見され、釘付けとなったゴキブリのような失態」に近い状況に陥ったことがありまして、今回の富沢さんのメールを読ませていただき、その時のことが鮮明に甦ってまいりました。
今年は、本当に、富沢さんには、色々とお世話になり、ありがとうございました。
また、来年も引き続き、よろしくお付き合い下さいますよう、お願い申し上げます。
奥様に、そして、初恋天使さんの「60年代」への思いの原点になっていらっしゃるKさんにも、よろしくお伝えください。

Hitomiさん(女性)
1999.12.31 … 和田アキ子とジュリー
こんにちは。
本年は、いろいろお世話になりました。
ペンシルバニアのMS様
和田アキ子とジュリーの間のつながりですが、ジュリーは、タイガースがまだアマチュアのファニーズだったころ大阪のナンバ一番というジャズ喫茶にでていましたが、同じくナンバ一番出演のグランプリズというバンドがありました。このバンドのヴォーカルだったのが、なにをかくそうアッコさんでした。
アッコさんは、ファニーズの用心棒的なこともやったことあるらしいです。
だから、ジュリーと和田アキ子は、バンド仲間という同士的な意識のつながりだったから、噂にならなかったのではないかと思います
ちなみに、このグランプリズのキーボードは、赤松愛の後任としてオックスに加入した田浦ユキ(夏夕介)です。
和田アキ子の初期の録音は、最近 私のまわりの洋楽マニアで,リアルタイムで彼女を知らなかった人たちにも評価高いです。やっと時代が、彼女に追いついたといったらほめすぎでしょうか。
エスカレーターが不便といえば、かつてジュリーが住んでいたこともある中野ブロードウェイもエスカレーターの乗ると2階をとばして3階へ行ってしまいます。ここは、出来た当時は、24時間ガードマン常駐の高級マンションということで、ファンに追いかけられていたジュリーが住んでいたほどなのですが今では、天井の低さが時代を感じさせます(住居部分は、入ったことないので、店舗部分のほうです)元々あったお店は、かなり消えていますが、そのかわりまんだらけを中心としたマニア向けの店舗が入ることで、なんとか維持されているようです。
でも、まだ、昔の雰囲気残っているように思います。
主宰者から
1999.12.31
メール、ありがとうございました。 こちらこそ、本当に、色々とお世話になりまして、ありがとうございました。
Hitomiさんから頂戴するメールやお書き込み、掲示板“Cutie Morning
Moon”の充実した展開など、何れも、「60年代通信」を維持していく上での、貴重な励みとさせていただいておりますので、来年も、引き続きまして、よろしくお付き合いくださいますよう、お願い申し上げます。
P.S.
中野ブロードウェイといえば、最近、「意地悪ばあさん」でも話題になった青島幸男さんもお住まいのマンションですよね。私も、かつて、荻窪に住んでいた頃、ブロードウェイには、よく遊びに行ったものでありました。

テツオ君(40代男性)
1999.12.31 … 水野久美さん+パンパカ学園 +NHKFM「リクエストコーナー」
12月19日付け初恋天使さん
水野久美さんの主な出演作に「フランケンシュタイン対地底怪獣(バラゴン)」を是非付け加えて下さい。この作品における水野久美さんの役所は大変重要なもので、太平洋戦争後の広島で発見され、ドンドン巨大化していくフランケンが、唯一慕う科学者を演じておられました。
「フラバラ」はご覧になっていないとのことなので当然ではありますが、水野久美が出演した特撮ものの中でも代表作に私は揚げたいほどであります。
彼女は1年後に「サンダ対ガイラ」にも続けて出演、前作のストーリーをちゃんと引き継いだ設定となっております。
少年誌の読み物記事について質問
「60年代のマンガ」番外編1において「少年マガジン」1969年2月9日号で紹介されていた「パンパカ学園」という読み物タイトルをみつけ、思わず「これだ」とひとり言。
実はこの読み物については今でも思い出すことがあり、いずれ「60年代」で誰かに教えてもらおうと思っていいたものであります。
中身は詳しく覚えていないのですが、登場人物の中の「肉井親父」(字は間違いがあるかも)という名前だけよく記憶しているのです。確か、用務員の役柄でした。
人気のある読み物だったかどうかはわかりませんが、ともかく、私が少年誌の読み物の中で唯一読んでいたもので、皮肉の効いた、読ませるコーナーだったと記憶しています。
登場人物の名をひととおり書いていただけないでしょうか。
また、どなたか「パンパカ学園」を詳しく語れる方はいらっしゃいませんか。
何か情報があったら教えて下さい。
12月23日付け初恋天使さんの発言
NHK−FM日曜6時からの「リクエストコーナー」は僕も大変懐かしい番組です。ご承知かどうかわかりませんが、新潟県では(当時)耳にできるFM放送といえばNHKだけ。クラシック中心の番組編成の中で(いまではそのことを支持すらしていますが)、ポピュラーソングをわかりやすく解説して流してくれる、ありがたい番組でした。たしか、常連組の人たちのリクエストが必ずといっていいほど読まれていた記憶があります。初恋天使さんとか、稲葉小僧さんとか・・・。それは違うか。それほどリクエストが少なかった可能性もありますが。
オープニングの音楽は「真珠貝のうた」でしたよね。その時の流行りだけでなく、スタンダードも聞かせてくれる、良質の番組でした。進行役はベテランの局アナだったと思うけど、名前は忘れました。
それに続けてぜひどなたか教えていただきたいのですが、みのもんたが進行をやっていた「オールジャパン・ポップスベストテン」というラジオ番組。
新潟県唯一の民法ラジオ局・BSNではこの番組を、あるときは1時間まるまる(たぶんフルが1時間番組だったと思われます)、あるときは30分や20分に編集して短いバージョンで放送したりしていました。おまけに時間帯もころころ変わっていたような気もする。
主宰者ほど音楽に明るくない私は、海の向こう・アメリカでどんな歌が流行っているのか、ラジオを聞きながら必死にメモを走らせていた記憶があるのです。
初恋天使さんが紹介してくれたほとんどの曲はこの番組で聞いたような気がします。番組の終わりには必ず「みのみのもんたみのもんた」という短い呪文のような歌(?)。
主宰者から
1999.12.31
「パンパカ学園」は、先日の自宅の部屋の片付けに伴い、資料を全部、別宅に運び込んでしまった関係で、手元に何も残っておりませんので、機会を改めて、報告させていただきます。
どなたか、お詳しい方がいらっしゃいましたら、ご教示いただけますでしょうか。よろしくお願いします。
NHK−FMの「リクエストコーナー」というのは全国放送だったようですが、週日に毎日やっていた夕方6時からの「くらしの話題」(だったと思いますが…)というローカル番組も懐かしいです。私にとっては、「昼のミュージックコーナー」に次ぐ、エアチェック対象番組でした。NHKからテレ朝に転じた千田アナが新潟勤務時代、型破りのDJで話題になったものでありました。

Kazzさん(40代男性)
1999.12.31 … 昔の長岡懐かしい
ごきげんよう、わたくし東京に住む「親父K」を名乗るものです。
こんな懐かしさに浸れるHPがあったとは!(そりゃそうだ。パソコン初心者だから)。
何ら知見を深める情報提供は、いまできませんが、感激でお便りします。
わたくしは1957年生まれ。父は見附市本明(トッテツでもちろん勤労動員や旧制長岡中へ通った)、母は長岡市麻生田出身(母には古志郡山本村で認識されているらしい、トッテツで大手高校へ通った)。
私の小学生時代まで、夏休みは母の実家へ帰省することが多かったので、長岡駅から浦瀬行きのバスに乗って麻生田へ行きましたが、遊びに行くときは田んぼの中を通って、トッテツにも乗ったものでした。
あれは小さな電車でした。
3尺玉の花火も見ました。
そうそう、マミーストアーもありましたなあ。
みなさまに比べると、単なる一時滞在者でしたが、懐かしく昔の長岡を見ました。もちろん他の60年代の思いでも懐かしい。
もっとメモ魔にでもなって、いろいろ記録しておけばよかった。
http://www.hello.co.jp/~kazufumi
主宰者から
1999.12.31
浦瀬という地名は、大変に懐かしい響きがあります。小学校5〜6年くらいの頃は、トッテツに乗って、浦瀬辺りまで、友人同士で遊びに行ったものでした。
長岡関連のページは久しく更新させていただいておりませんが、また、ボチボチと更新させていただこうと思っておりますので、「単なる一時滞在者」などとおっしゃらずに、また、お立ち寄りいただければと思います。
どうも、ありがとうございました。

米国ペンシルバニア州・MSさん(40代男性)
1999.12.29 … FM東京他
鈴木様
年の暮れ,なんだかものすごくお忙しそうで、どうかお体には、くれぐれも御気を付けください。
なお、私が、落としたマグロを食べなかったのは、足元が泥水だったからで、もう少しましな所に落としていたら迷わず食べました。
Hitomi様のメールで、「真っ赤な太陽」の不思議が解けてほっとしました。
和田アキ子がレイチャールズと歌ったというのは、知らなかったので,なんだかとってもうれしいです。中3の時,学校で、和田アキ子がいい、といったら、変人扱いされ悔しかったのを思い出しました。レコード大賞の歌唱賞か何かもらって、和田さんが泣き出して、隣にすわってた沢田研二さんの手をつかんで「ジュリー」と叫びながら舞台に引っ張っていった有名な場面を覚えています。舞台で横に立っていてあげたジュリーは、いい人だったですね。でも、あの後で全然二人は噂にならなかったのはなんでだろう。レコードも持っていない「あの鐘をならすのはあなた」(というのが題名なのでしょうか)を、私はまだ歌えます。
Tetsu様のメールにあった丸物のエスカレーターの事で、また、妙な事を思い出しました(ずーっと忘れていた事がどんどん湧いて出てきて自分で驚いています)。
話は吉祥寺にとびます。
吉祥寺の駅ビルには、いまユザワヤという大きな工芸手芸材料店が入っているのですが、そこは元は,70年頃にできたターミナルエコーという雑居型のデパートでした。上の方には、銀座山野楽器や神田すずらん通りの東京堂書店が店をだし、食堂街には、ベニハナや,築地の寿司屋が支店を出すという、当時の吉祥寺としては、精一杯気張った店揃えでした。ところが、2−3年のうちに、店舗が消え始め,75−6年には、ビル全体が空家になってしまいました。ユザワヤになるまで、20年近くも吉祥寺の駅ビルは,空家だったのです。で、店がなくなり始めた頃,買い物に行った時に母が、「こういう、エスカレーターの配置が駄目なデパートは、つぶれちゃうのよ。丸物もそうだった」みたいなことを言ったのでした。
エコーの場合は、丸物と違って(私は丸物のエスカレーターは、全然おぼえていません。そう言う事だったのですか。)上下揃ってはいたのですが、3階くらいまで上がると、続いて行けず,店内を半周して乗り継ぐ配置になっていたのでした。客に店内を長く歩かせようという設計意図だったのでしょうが、たしかにうっとうしいものでした。はたして母の理論が当たっているのかわかりませんが、20年も空家になっていた理由の一つくらいではあったかもしれません。
噂話で、有名な「Mの猫肉バーガー」というのは、競争相手のL社が流した、という論文を大学生のころに読んだ覚えがあるのですが、本当のことなんでしょうか。社会学者が調査してつきとめたというのだと思いましたが、今考えてみると、そんな研究が成立するというのは、ちょっと変です。私が捏造した記憶でしょうか。
本題に入ります。というような物でもありませんが。
FM東海からFM東京に変わったのは、1970年で、城達也さんがずっとやっていた「ジェットストリーム」は、FM東海時代からの生き残りです。望星高校講座も、ずいぶん後までやっていましたが、FM東京になってからも放送免許の上で、なにか条件でも付けられていたのでしょうか。
私が,FM東京を自分で聞き始めたのは,1970年で、そのころ夕方5時頃「ちびっこパーティー」というおかしな番組がありました。どなたかが触れられていたような気がしますけれど、劇団テアトルエコーの主宰者、ケペル先生の熊倉和雄(字はあっているのでしょうか)さんが、子供からの手紙を読んでお話するのですが、ちっとも面白くないのでした。
私は中1で、生意気盛りですから、こんな子供向けの番組なんか、と馬鹿にしていたわりには、「ぼーくの手紙も、わーたしの手紙もクマタンに読んでもらいましょう。ちびっこパーティーわっはっは」というテーマソングを、まだ歌えるのはなんででしょう。とにかく唐突に、FM東京に、こんなそぐわない子供番組があったのは、教育放送の免許であったからではないか、と推理した次第です。
さらに、今のテレビ朝日は、 NET(NipponEducationalTelevisionかな?)日本教育放送として免許を得たために、ずっと申し訳で、教育番組とも呼べないようないい加減な教育番組をやっていました。
アメリカの学校放送番組みたいなのが多かったようですが、今もおぼえているのは、(これは本当に忘れたいです)何を考えたのか、こんな言葉をつかうのはいやですが、畸形の亡くなった胎児のホルマリン漬けを、いくつもいくつもみせた番組で、あれはいったい何だったのでしょう。60年代半ばのことです。
話を戻すとFM東京の70年,平日午後4時に、「ヤングハウス80(エイトオー)」という,1時間番組があり、これがすきでした。川村尚(よく各局に出ていたDJ)、ゲイル石井という、二世だかハーフだかの女の人、それに「かぐや姫」加入前で、シュリークスというバンドで、のちのイルカと一緒だった山田パンダの3人が、パーソナリティーでした。
このシュリークスは、作者の森繁久弥や、大ヒットした加藤登紀子と競作の「知床旅情」をだし、この番組ではしょっちゅうかけましたが、まるっきり売れませんでした。
この番組は、日本のフォークやロックをかけ、私が初めて「はっぴいえんど」を聞いたのはここでです。70年の暮れには、終わってしまったとおもいます。悲しかったです。
時期がさがって、FM東京「ステバラ」金曜の及川弘子さんは、すこし変っていました。
70年代末、そのころ無闇にあった、名前も知れぬ女の子3人組のグループがゲストで、例によってプロダクションのお仕着せの「ちょっぴりたれ目の何某でーす。」みたいな自己紹介をしたら、及川さんが、ふーっと深いため息をついて、「いつもそんなふうなんですか?」と尋ねたのでした。
私は、その時は,この人はすごいと思ったのですが、今考えてみると、あの女の子たちも、18歳位だったのだろうし,好きであんなしゃべりをしていたのではないだろう、あれでは,立つ瀬もないではないか、と思います。掟破りです。
一方、宇崎竜童さんが出た時は、宇崎さんが、どうしたことか及川さんを、さんざんにいじめて、及川さんは、本当に泣いてしまったみたいでした(及川さんは,当時30才くらいだったでしょうか)。
とにかく、何が起こるかわからない,予定調和を拒否する番組でした。
また思い出しましたが、70年のTBSラジオ日曜午後に「ホリデーインポップス」というのがありました。
これが私の洋楽の先生だったのです。
八木誠(そのころ何人もいた、ポップス専門のDJ/評論家の一人です)、若山弦蔵(ナポレオンソロ)、それにニッキー山室というこれも二世かハーフの英語使いの女の人の3人が,パーソナリティーでした。
4−5時間にわたってAM局で,日曜の午後に洋楽をかけるというような番組は,あまり例がなかったのではないでしょうか。全国ネットはされていたのでしょうか。
大仰な事にこの番組は、機関誌も出していました。サイモンとガーファンクルの「コンドルは飛んで行く」と、もう忘れ去られたオリジナルキャストというグループの「ミスターマンデー]という曲が,「今週のトップ40(20だったかもしれません)」の1位争いをし、「ミスターマンデー」が好きだったので、どきどきしながらききました。
これが、70年の9月末に終わり、その最後の日曜日が八高線の蒸気機関車の最期の日に重なって、買ったばかりのラジオ、SONYのスポーツ11、を肩からかけて,イヤホーンで「ホリデーインポップス」を聞きながら、蒸気機関車に別れを告げたのでした。すきなラジオ番組の最終回という、その後何度も味わった悲しい出来事の初めでした。お別れのダブルパンチで、大変つらい思いをしたのでした。
また長いメールでごめんなさい。
もう、そろそろ、思い出すことも尽きると思います。
それまで、ご容赦下さい。
さようなら。
主宰者から
1999.12.29
前回のメールの返信で書き落としてしまいましたが、日本ラグビー界にとっての聖地である秩父宮のグランドでプレーをしたことがあるというのは、極めて貴重な体験でしょうし、大変に羨ましく思います。
試合が始まる前の秩父宮のグランドを支配する凛とした空気が、私は、とても好きです。
あの雰囲気は、例えば、同じ界隈にある国立競技場にしても、神宮球場にしても、サッカーや野球の時には、感じたことがありません。
国立の場合でも、早明戦の前には似たような雰囲気がグランドに漂いますので、恐らく、応援の仕方による部分も大きいのだろうと思いますが、ラグビーという競技の特有のものなのでしょう。
そのメッカのような存在である秩父宮のグランドにお立ちになった経験は、本当に、貴重だと思います。
さて、一気に話はとびますが、私は、70年代半ばから後半にかけて、ステレオ歌謡バラエティーは相当の頻度で聞いておりましたけれども、率直に言って、金曜日の及川弘子さんによるDJが一番好きでした。
佐藤さんがおっしゃるように、自分の考えていること、感じていることを、飾らずに曝け出していくスタイルは、非常に好感の持てるものでありました。
及川さんの担当分は、エアチェックしたカセットの本数がかなりあるはずですので、是非、発掘して、また、聴いてみたいものだと思っています。

東京都武蔵野市・初恋天使さん(40代男性)
1999.12.29 … 「子供の科学」、中央模型など
鈴木様
またまた、失礼をいたします。
MSさんのメールを見て懐かしく・・・メールの嵐となりご迷惑をおかけします。
●子供の科学
「子科」なつかしいです。小生が電子技術者になれたのも、「子科」と「マイキット」(学研)があったからで。私も「ゲルマラジオ」から始めましたが。「子科」は電子工作も鉄道模型も、楽しい工作や科学の話題がいっぱいでした。話題の長岡鉄男先生もオーディオではなく普通のコラムやクイズを書かれていたはずです。巻末には通販のコーナーがあって(紙が粗悪で地色が青か緑で凄く見難い)科学教材社ですね。先日仕事である会社に行って帰ろうとしたら2,3件先に科学教材社が残っておりました。10数年前に一度ものを探しにいって以来ですが神田錦町あたりで営業をされております。非売品ですが当時の工作雑誌が微小ですがあり店頭閲覧ができました。(模型と工作の別冊?)
●パルコの前は?長野県松本市の場合
池袋丸物が話題ですが、小生が小学生時代住んでいた松本にあった2大デパートは「井上」と「はやしや」で、「はやしや」は今「松本パルコ」となっております。幼稚園でいっしょのクラスの井上君が「井上デパート」のご一族と知ったのは東京に転校してからのことでした。
●中央模型
吉祥寺あたりで今でも伝説的に話題なることが多く、小生はリアルタイムでは知らないのですが、武蔵野一中であった妻によればたしかにあったようです。妻によると現在の西友の近くというのですが、実は吉祥寺には3件模型屋があったという説もあり・・。残りの一件は駅前ハモニカ横丁で健在の歌川模型。店主の歌川勝吉さんは今でも御元気です。年末年始は元旦のみ休み、営業すると言っております。歌川さんによれば近年、無くなった模型や探しに来られる方が多く、歌川模型と混同されることも多いとか、歌川模型はすでにTV・雑誌で何度となく扱われおりますが、私の知る35年前と変わらないたたずまい、まさに60年代そのものスポットと言えるかもしれません。
そして、本日夜は恒例の小学校当時の忘年会です。まさに60年代リアルタイム状態。同期会、反省会、など理由をつけては集まります。話題はいつも変わりません。それでも良いんですね。話題はkiyomi様のホームページそれと本年入手した学研の「科学」あたりでしょうか?。
あこがれのKさんですか?・・違う小学校ですから。
MS様
レイアウトですが、「鉄道模型趣味」「Nゲージマガジン」などに掲載されております。最近出た書籍では機芸出版「Nゲージレイアウト6」(本年6月刊)、車両であれば「Nゲージマガジン32号」(本年12月)に微量ですが収録されております。まるまる1冊は主婦の友社「鉄道モデラーのためのデジタルクラフト」拙著、CD−ROM付でJPG、ムービーで入っております。(本年2月刊、完売かと思っておりましたが先日、秋葉原のLAOXホビー館に平積みであり赤面致しました。)以上、宣伝になってしまい大変失礼いたしました。小生、三鷹一中を昭和45年に卒業しております。接点も大変多いようですので今後ともよろしくお願い致します。
主宰者から
1999.12.29
連続メール、ありがとうございます。
小学校の同窓会は如何でしたでしょうか。
事後になってしまいましたが、また、機会がありましたら、皆様にも、よろしくお伝えください。

nakanisiさん(男性)
1999.12.29 … 「意地悪ばあさん」について
どうもnakanisiです。
意地悪ばあさんのネタではあやふやでどうもすいませんでした。
反省して、その後すこし調べましたので報告します。
初の意地悪ばあさんは 1967年から1969年までYTV(読売テレビ)系で初代青島幸男、2代目古今亭志ん馬、3代目高松しげおで放送されました。
二回目の意地悪ばあさんは青島幸男で 1970年から1971年8月までNTV(日本テレビ)系で放送され、その後どういう訳かその2ヶ月後にFNN(フジテレビ)系で意地悪ばあさんを藤村有弘が劇場中継方式で演じていたそうです。
ただ10月から12月までの短期間に終わったそうです。
やはり青島幸男のインパクトが強かったのかもしれません。
その後1981年FNN(フジテレビ)系で国会議員であった青島幸男氏が意地悪ばあさんを演じて今日に至ったようです。
以上ご報告致します。
それと、バッテン助川の事、確かにバッテン荒川の間違いです。謹んで訂正させて頂きます。
これで年内は年越しの準備でお便りできないと思います。
どうかKiyomi様もよい年をお迎え下さい。
来年も宜しくお願い申しあげます。
主宰者から
1999.12.29
ご丁寧にお調べいただきまして、恐縮です。
今年は、色々とお世話になりまして、ありがとうございました。
来年も、また、引き続きまして、よろしくお願いいたします。
nakanisiさんも、どうぞ、良いお年をお迎えください。

東京都武蔵野市・初恋天使さん(40代男性)
1999.12.29 … 60−70年のエアチェック環境
鈴木 様
オーディオシリーズ第2弾でございます。
引き続きメールを数十行書いたところで、かな入力が入り、IMEをローマ字に切り替えたところで、ニフティーマネージャが強制終了してくれました。どうも、ゴア様が時空を超えて私がメールを書くことを阻んでいるようです。
皆さん、こんな時はどうされるでしょうか・・本などによれば、次にかけばもっと内容が良くなる・・とか思うと良いなどあります。
こんな時はこころ中で「宇宙少年ソラン」歌う・・何か勇気が湧いてくる・・ウうすすんでいるぞ、う・時計の針も負けずに進んでいる。
ということでBSの思い出の紅白歌合戦でも流しながれ、昭和58年ではイマイチですね。
さて本題に。
1960−70年代のエアチェック環境
kiyomi様のメールによると、随分速くからカセットで収集されていたようですね。
コンパクトカセットは1963年、オランダのフィリップス社が発表、ライセンスを公開したため、その後に大きな発展が生まれたとされています。
オーディオ装置の周辺としてデッキというタイプは1968年に、松下、ソニー、ティアック各社よりが出ていますが、もともとはモノラルのメモ用的なところが発端なようで、それがいつかHiFi(ハイファイ=高忠実度;ハイフィデリティー)として認知されるようになったようで、やはり4トラック、2チャンネルつまり左右2チャンネルの往復が良かったようです。
オーディオとラジカセ、後のウォークマンと発展する訳ですが、ラジカセの隆盛は74年頃からとされています。
出発から10年がかかっている訳ですね。いろいろな技術・仕様がありましたが・・
小生の家では父が1963年頃、日立のテープレコーダを買い、何故か松下幸之助の本の冒頭を読み上げて録音しておりましたが、子供心にそれならナショナルのテレコを買えば良いのにと思っておりました。
当然オープン方式で5インチ(リール径、他に規格は3インチ、7インチ、10インチがあった)でテープ速度も9.5センチと4.75センチでした。
このテレコでは紅白や番組のテーマを録音したはずですが、すでにテープは時空のかなたに消えております。
1969年にそのころ珍しかったコンポーネントステレオを家で買い、晴れてFMステレオ放送を受信しておりましたが、1971年にティアックのオープンデッキを購入してFM録音をしておりました。
ただ、7インチリールまでで、その頃はまだ留守録機能を持つテレコは殆どないので、家電用のタイマーにテレコのスイッチに細工をするという過激派さながらの高校生であったのです。
大学生になりアルバイト収入が入るとソニー10インチリールのオープンを買ったので長時間録音が可能に、さらにナカミチのカセットデンスケを買ってオープンからカセットへのライブラリー化を歩みました。
従って、カセット導入は1975年以降ということになります。
ラジカセという名称は実はP社の商標だったそうで、後年就職してラジカセの製品担当になって知りました。
ラジオ+カセット+テレビの「ラテカセ」はV社で、たしか1977年頃だったと思います。
カセット音楽の思い出
大学では音響研究会というマイナーなクラブに入ってしまったのですが、これが世の中のオーディオブームに乗り大躍進、オーディオ6大学というと、早慶明中そして東海、何故か小生が在学したM工大というところで学生オーディオ連合の発起校でもありました。
そのころオーディオは若者のファッション的な部分も有り、専門誌だけでなく、一般誌にも掲載がありました。
クラブの先輩の紹介で、1977年頃、S学館の「G」という篠山紀信さんの激写グラビアで有名な男性雑誌のオーデォオ頁の取材や頁作りを学生ながらしておりました。
隔週刊の雑誌でしたが、2ページの活版から特集グラビアで1 年ほどながら大変な仕事量で、大学の研究室を夕方でて出社し、稿了前は深夜帰宅から明け方帰宅が殆どでした。
その時知り合った学生のNさんは変わった人でした。とにかく音楽好きで24次間音楽派、小型ラジカセを黒いマジックバッグに入れ大きなヘッドホンをして街中を歩き、バスの中も電車の中も音楽を聞くのです。「だって音楽好きだったいつでも聞きたいよね?」大きなヘッドホンをし黒いマジックバッグを持った宇宙人のようなNさんと街中で別れる時、街並に消える姿を見て我ながら恥ずかしく、絶対あんな真似はしない・・・ソニーから「ステレオウォークマン」が発売されるのはその2年後の1979年です。
今思うとアルバイトながらオーディオやもの書きで御金を頂いていたあの頃は今の下地を作らせてもらったいい時期だったと思います。
周囲にはNさんを始め、変わった人、及川正通さんやスタッフに方が働いていたり、時には紀信さんがモデルさんと来りと小生のような平凡な工学系の学生にとってオーディオブームだったからこそ体験の出来た小説の中のような毎日でした。
最近、あこがれのKさんに再会し、大学の入試で合否連絡を聞きそこなって合格が不意になり、思い通りでない大学生活を送った話しを聞いた時はショックでした。どこかで華やかな生活を送ったとばかり思っていましたから。
オーディオの一般化と衰退はご存知のとおりですが、いつかエアチェックなどというもの遠くなってしまい、FMの多局が実現した頃にはFMの有り方も70年頃の期待とは大きく変わってしまいました。
小生も曲こそカセットで残っておりますが、番組が残っているということでKiyomi様は凄い!!
是非企画ものの実現を御願い致します。
年末、年始お忙しいとは思いますが、くれぐれもご自愛下さい。
P.S.
画像ファイル説明です。御手数かけます。
画像ファイルで見る当時のエアチェック環境
1)赤井電機の広告より(1974年)
70年代中期はオープンと台頭しはじめカセットが張り合っていたのだけど、手でテープをつなぐ・・これはオープンの独壇場。カセットテープをワカメにしてセロテープで繋いでいたなんて人はいなかったですよね?
2)松下電器の広告より(1973年)
この時期のカセットデッキはフラットタイプから縦型ローディングへ変わって行く時期。もともとのフィリップスの仕様が平坦なローディングのため、縦型は特性的に疑問が持たれていた。今では縦型が当たり前で、平坦ではホコリもたまるし、スペースもとるし。広告が平面的なので判り難いがこれは従来型のフラットのタイプ。スイッチもヨイッショっと上から元気に押すタイプ。
3)SONY製品の評価記事より(1974年)
FM誌やオーディオ誌には評論家先生の評価記事が掲載された。星印などで性能や仕様がしめされることが多かった。「星三つ!」今の料理バラエティーも変わっていない?あれは3つ星レストランからきてるんだと思うけど。この製品は縦型のローディングでスイッチもソフト。ほとんど今見ても不思議のない形態。コンポなどでエアチェックした人はこのタイプが多かったかも。
4)ヤマハ製品広告から(1975年)
斜めというのもあった。デザインは凝っているけど、どことなく不安定。こういうのを置く家は何か近未来風の建物なのかなっと当時思っていた。色もご丁寧に2種あった。
主宰者から
1999.12.29
毎度のことながら、詳細にわたる60年代〜70年代オーティオ事情と貴重な画像をお送りいただき、ありがとうございました。
私は、大学の後半に至るまでラジカセ一本ではありましたが、コンポへの憧れも強く、当時も、広告やらカタログなんかは、よく見ていましたから、お送りいただいた画像は、懐かしいものでありました。
渥美清さんの寅さんシリーズで、何作目か忘れましたが、確か、私が高校2年生くらいのときですから、1972年頃だと思いますが、マドンナ役に八千草薫さんが登場し、寅さんの恋敵として東大教授の役で米倉斉加年さんが出演された「寅次郎忘れな草」とかいう回の時に、米倉さんの部屋だったかに銀色に輝くコンポが置いてある場面が出てきて、映画館で観客の間から「オーッ」というどよめきの声が上がったのを覚えておりまして、私も、そのどよめきに参加した一人だったわけですけれども、ですから、その頃から、それまで、せいぜいスピーカーが分離するくらいのセパレート型とかいうタイプしかなかったステレオに代わり、コンポというのが、一般的にも注目され始めたのだろうと思ったりしております。
ところで、「カセットテープをワカメにしてセロテープで繋いでいたなんて人はいなかったですよね?」と書いていらっしゃいますが、実は、この不器用な私が、そういうことをやっておりました。
もちろん、編集のためではなく、ピンチローラーなんかにテープが巻きついて、泣く泣くテープを切断したりしたことも二度三度ではありませんで、そういうときに、例えば、どうしても、残っているテープに貴重な音源がある場合など、編集用のテープや接着剤など持っていませんでしたから、まず、セメダインでテープ同士を張りつけ、さらに、その裏から、セロテープで補強し、1回限りの再生に耐えられる状態にしてから、ダビングしたりしていました。
ダビングするテープを買う余裕がないときなどは、その応急措置のまま、繰り返し、聞いたりしたこともあったような気がします。
ずっとカセットを使っておりましたが、オープンリールのデッキに対する憧れも強く、独身時代に、荻窪でソニーのデッキが半額で売られていたことがあり、たまたま、手元にお金がなく、買いそびれてしまいましたが、当時、もし、カードを持っていたりしたら、間違いなく、衝動買いしただろうと、今でも、時々、思い出したりしています。

katzさん
1999.12.28 … 早速ありがとうございました
こんにちは。
鈴木さん、百恵ディスコグラフィーが更新されているのを拝見しました。
とても楽しかったです。
鈴木さんの文章を見るといつも発見がありますね。当時の梓みちよの話などは全く知らないことでした。
これからも続けていただきたい、というのが本音です。
主宰者から
1999.12.28
すみません、百恵ディスコグラフィーは「更新」ではなく、ページ間のリンクが不十分だったので、その修正をかけた結果、これまで、その存在が分かりにくかった以前に更新したページが分かりやすくなっただけのことです。
新たに更新もしていないのに、以前の更新を感謝されて、何か、申し訳ない気持ちです。
来年は、本当に、少しずつでも、百恵ディスコグラフィーの更新を行っていこうと思いますので、引き続きまして、よろしくお願いします。

Hitomiさん(女性)
1999.12.28 … 丸物百貨店(+和田アキ子+真赤な太陽)
こんにちは。いつも楽しませてもらっています。
カウシルズというとメロディーより先に大橋巨泉の「牛も知ってるカウシルズ」というくだらないギャグが脳裏を横切ってしまいます。
新宿の丸物百貨店は、たしか伊勢丹の新館だった場所だと思います。いずれにせよ伊勢丹がその場所を買い取ったことは、まちがいありません。
和田アキ子の初期のR&BのカバーやR&Bっぽいオリジナルは、「ダイナマイトソウル 和田アキ子」というCDになって発売されています。また最近では、レイ・チャールズとの共演も果たし、むしろ当時は、理解されなかった、元祖R&B女性シンガーとしてやっと再評価された印象があります。
「真っ赤な太陽」は、黛ジュンがレコーディングしていたのを美空ひばりが時流にのって自分で歌いたいということで、黛ジュンのほうがお蔵入りになったのだと思いました。デビュー当時の和田アキ子が、柄が大きいので、先輩男性歌手がとなりに並ぶのをすごく嫌ったとか、当時は、上下関係がきびしくてずいぶんいじめられたという話もあるので、どの程度はっきり、いわれたのかわかりませんが、とても競作という雰囲気では、なかったのでしょうね。
主宰者から
1999.12.28
掲示板の方の書き込みが低迷する中で、掲示板への書き込みをいただいて、本当に有り難く思っているところに、メールまでお送りいただき、恐縮しまくっております。
丸物百貨店のお話も、和田アキ子さんのお話も、「真赤な太陽」のお話も、過不足なく情報を補っていただき、感謝しています。
本当に、ありがとうございました。

SaToshiさん(10代男性)
1999.12.28 … メールどうもです
Kiyomiさん、こんばんは。SaToshi N.です。
もともとは、僕だって、井上大輔ファンというよりも、「機動戦士ガンダム」ファンでした(今でもガンダムファンですよ)。
井上大輔というと、僕の中ではなかなか歌の上手い滅多に名前を聞かないシンガー、くらいの印象でした。しかし、去年の3月に、「言葉がヘタだから」というシングルCDをゲットして、「この歌手いい声してるな」とファンになりました。
しかし!!おふくろはブルコメファンだったにもかかわらず、井上大輔=井上忠夫に気付かず、しばらく井上大輔=謎の上手い歌手くらいな感じでした。
10月に「驚き桃の木」を見たのは、全くの偶然でした。テレビをつけると、ブルーコメッツというグループが歌っています。
「あ、真ん中の人サックス持ってる。(この時、すでに井上大輔がサックス奏者だということはしっていました)まるで井上大輔みたいだなぁ。さっきから作曲井上とかいってるなぁ。ひょっとしてこの人井上大輔?」
あわてて東京の伯父に確認をとりました。結果はご存じ、正解でした。
謎の歌手・井上大輔は、この日から、元ブルーコメッツ・井上大輔へと変わりました。
さて、インターネットを始めた僕が、最初に始めたのが井上大輔のファンサイト探しでした。しかし、井上大輔ファンのページはなかったのです。
最終的に、オフィシャルホームページを発見することに成功しました。
http://thor.prohosting.com/~expo70/dai.htm
しかし、ご覧の通りコンテンツがないのです。そこで、僕は決めたのです。
「僕が井上大輔ファンページを作ってやる!!」
http://village.infoweb.ne.jp/~nomura/daisuke/
こうして着手して2ヶ月あまり。ようやくリンク集を作り始めました。
よろしかったら見てください。
ではでは。
主宰者から
1999.12.28
「ガンダム」から入られたそうですが、元ブルコメのメンバーのホームページを10代の方がお作りになっていらっしゃるということに、感動しまくっております。
本当に、ありがとうございます。
「60年代通信」の方は、これからも、60年代のブルコメを追求していきますが、野村さんも、90年代の井上大輔さんを追求していただきますよう、お願い申し上げる次第です。
これからも、よろしくお付き合いください。
どうも、ありがとうございました。
P.S.
こちらからも、正月に予定しているリンク集のページを更新する際に、野村さんのページにリンクを張らせていただこうと思いますので、よろしくお願いします。 ブルコメ・ファンだったお母様にもよろしくお伝えください。

米国ペンシルバニア州・MSさん(40代男性)
1999.12.28 … 続き
また、間違って送ってしまいました。どうして、「後で送信」と言っているのに、こいつはきいてくれないのでしょう。
もうこわれてしまったのだろうか。
失礼しました。
ラグビーの思い出を書きたいと思います。
「鬼のキモケン」が亡くなったのは、存じませんでした。まだ御若かったでしょうに。
私の育った武蔵野市は、日本代表の名FB植山選手を擁した横河電機の本社とグランドがあり、また70年代前半までは、関東大学対抗戦で,四強に次ぐ位置にいた成蹊大学もあって、ラグビーが盛んなところでした。
67年,4年生のとき底辺拡大をめざす小学生のためのラグビースクールがはじまって、私は肥満児で他のスポーツはだめだったのですが、ラグビーなら大丈夫と薦められて、はいりました。
時々,大学の試合をみせてもらったりして関心をもちはじめました。
68年の日本選手権で近鉄が法政に勝った試合をテレビでみた覚えがあります。
しかし、その年の、日本ラグビー史上最大の金星であったオールブラックス・ジュニア戦の勝利の事は,リアルタイムでは何も覚えていません。残念です。
そういえば、私達は6年生の時,何かの前座で,実に秩父宮で、タッチラグビーをしたのでした。すごい!忘れていました。
もっと自覚的に見るようになったのは、中学校のときでした。わが母校、武蔵野四中には、当時数少ないラグビー部がありました。なにしろ、関東八中学大会というのが、唯一の大会で、首都圏にラグビー部を持つ中学は、8校しかなかったのかもしれません。たしか他は皆私立で、公立は、私達だけだったとおもいます。ラグビー部の友達と見た中で一番印象強く覚えている試合は,72年の正月の,早稲田が二連覇を決めた日本選手権です。〔この次が木本さんの時のはずです)。
雪が降ったあとで、グランドの状態は悪かったとおもいます。
改装前の、木のベンチの古い秩父宮ラグビー場でした。
元陸上競技の選手であった俊足BK金指選手が,パントから駆け抜けて逆転トライをきめ、三菱自工京都をくだしたのでした。
なんだか,あれから時代が随分変わってしまいました。
まず、あのころは、大学が勝って当たり前でした。今なんか社会人ティームに100点差位付けられて負けるわけで、どうなっちゃったんでしょうか。
つぎは、試合場です。日本選手権とはいえ、秩父宮で、しかも満員ではなかった覚えがあります。切符は当日買ったのでした。
生意気に吉祥寺で寿司折を買って持っていって、一つだけ入っていたマグロをおとしてしまったその真っ赤な色と黒いコンクリートの床の対比を今でもはっきり目にうかべられます。意地汚い証拠です。
大学ラグビーが、最大の観客動員を誇るアマチュアスポーツになったのは、80年代になってからだと思います。
今はまた、人気低落で、この夏日本に帰ったとき大学生と話していたら「昔はラグビーって人気あったそうですね」なんていわれて、がっかりしました。
この早稲田のティームには、FWの都留崎さんとBKの藤井さんという武蔵野四中の先輩がおられ、お目にかかった事はなかったけれど、大変誇りに思っていました。
四中からは、83年のウェールズ遠征〔同志社の大八木選手が相手の大きなFWをふっとばし、もうちょっとで勝てそうだった試合です)の日本代表FBに選ばれた早稲田の安田選手も出たし、私が一緒にスクラムを組んだやつは、久我山高校から、高校代表に選ばれました。というような古い他人自慢をして、ばかみたいですが。
60年代のラグビー最高のヒーローは、同志社−近鉄の坂田選手です。もしかしたら、日本人のラガーマンで唯一人本当に世界に通用した方です。
同じ近鉄の大型LK小笠原選手が,私には思い出深いです。一人で大きくて角刈りで、時には怪我をした額から血を流しながら突進する姿は,忘れられません。この小笠原選手が、184cmしかなかったと後から読んでなんだか信じられませんでした。
70年ころは、日本代表のFWでも、180cmなかったり70kg台だったりしたのでした。
それで、ABJに勝ったり、イングランドに3−6の接戦で負けたりしたのだから、すごいことです。
早稲田ーリコーで、よく、でかい外国人に天を仰いで突っかかっていった「ファイター」石塚選手など、172cmだったはずです。
八幡製鉄の草津選手のラグビー時代には、間に合わなかったので、わかりませんが、当時どれだけ大きな選手だったことでしょう。かれは、191cmあったはずです。
私は、こちらに来て,NFLにもずいぶんいれこんだし、野球は、地元パイレーツの試合に、毎年10回は行くファンですが、しかし、いまでも,見てもやっても一番面白いのは、ラグビーだとおもいます。
アメリカでは、ワールドカップも見られなかったし、つまらないです。
長々書いてしまいました。止まらなくなってしまうのが問題です。
さようなら
主宰者から
1999.12.28
続きまして、極めて濃厚かつリアルタイマーならではの詳細にわたる60年代ラグビーのお話、誠にありがとうございました。
大変に興味深く、読ませていただきました。
私の場合、ラグビーを本格的に見るようになったのは、大学を卒業してからでありまして、國學院久我山にいた本城が早稲田で活躍をするようになってからのことであります。
ですから、神宮球場には、ほとんど毎週のように通っていたものの、学生時代に早明戦を見に行ったことはありませんでした。
また、私が在学していた頃は、早稲田ラグビーの低迷期で、大学全体が、野球に比べると、ラグビーの人気が低かったように思います。などと書いておりますが、同時期に佐藤さんも在学されていたわけですから、そういう認識でよろしいのでしょうか。私の場合、所属していたサークルが野球一本槍だったこと、ちょうど、六大学に江川というスーパースターが存在し、早稲田にも、後に巨人で活躍することになる松本や山倉などがいたため、野球人気が高かったこと、などによるものかもしれません。
当時の、早稲田の一般学生にとってのラグビー人気の状況などは、ぜひ、佐藤さんに教えていただきたい気がします。
ただ、在学中も、1年の時に、1度だけ、この「60年代通信」のホームページで自分のコーナーを持っている私の幼馴染みのテツオ君などと一緒に、国立競技場で行われたオール早稲田vsオール・ケンブリッジ&オックスフォード連合軍(だったと思いますが…)の試合を見に行き、確か、早稲田が100点以上の差をつけられて負けたのを覚えています。
社会人になってからは、就職した会社に明大スポーツのOBが多かったこともあり、そちらの筋から早明戦のチケットを入手して、何度か、国立競技場で早明の試合を見ておりますが、早稲田が勝った試合は一度もありません。
結婚してからは、最初は京王線の多磨霊園駅から歩いて4〜5分の借家、それから、中河原駅から歩いて3分くらいのアパートに住み、どちらも府中市内で、多磨霊園の時は、リコーのグランドがそばでしたし、中河原の時は、東芝府中のグランドがそばでしたので、よく、練習試合なども見に行きました。
木本さんが2度目の監督になられて早稲田がトヨタを破って日本一になった時のスポーツ紙は、今も、全部とってあります。また、木本さんが3度目の監督になられた時の早明戦で、リードされた後半のインジュアリータイムで、自陣ゴール前での明大のノックオンをアドバンテージでパスを繋ぎ、最後は、ハーフウエーライン付近から山本が60メートルの独走トライを決めて逆転勝ちした試合も忘れられません。木本さんが亡くなられたのは、その僅か数年後だったと記憶しています。
ところで、今年のラグビー大学選手権ですが、早稲田・明治ともに、準々決勝で姿を消してしまい、早明ファンにとっては、極めて淋しい正月を迎えなければなりません。早稲田は、佐藤さんが「60年代のラグビー最高のヒーロー」とおっしゃる坂田さんの出身校である同志社に43対6という大差で、しかも、ノートライという完敗でありました。
この試合は、テレビでも見ておりませんが、新聞によると、先日の早明戦の時と同様に、基本プレーでのミスが続発し、ほとんど自滅状態だったようです。 一方、明治は、今年も、関東学院に破れました。スコアこそ21vs17ということで、ワントライで逆転できる得点差でしたが、明治の斎藤主将自らが試合を振り返って「今までで一番良かった」とコメントしていることからも分かるように、完全に力負けだったようです。後半22分には、ゴール前のラインアウトからモールを押しこまれてダメ押しのトライを奪われており、3年連続して、大学選手権で関東学院に苦杯をなめさせられる結果となりました。
正月二日に行われる準決勝は、同志社vs慶応、関東学院vs大東大という組み合わせです。
早稲田と明治は出ませんが、結構、新鮮な顔合わせで、楽しめそうです。特に、今年は、上田監督が復帰して、対抗戦グループでも、明治と早稲田を撃破した慶応が、大学選手権に入ってからも2試合連続で逆転勝ちを収めるという勝負強さを見せており、私がカミさんと国立競技場で慶応の大学日本一を見届けた13年前の再現もありうるかもしれません。
戯言も書かせていただきますと、佐藤さんは、秩父宮で「マグロの寿司を落として、その赤い色とコンクリートの黒い床の対比を今でもはっきりと目に浮かべられるのは意地汚い証拠」と書かれておりますが、私だったら、色の対比を見つめて終わりにならずに、きっと、拾って食べていたと思いますので、私の方が、絶対に意地汚いです…とつまらないことを自慢させていただきます。 私は、学生時代、たった一つ残っていたインスタントラーメンを作って、ナベから丼に移すときに、1年に一度掃除するかしないかというような非常に汚いアパートの自室の台所の床にナベを落としてひっくりかえしてしまい、一瞬、迷ったものの、すかさず水道の水で手を冷やしてからラーメンを掬い上げ、スープは掬い上げるわけにもいきませんので、お湯を足して醤油を差して食べたことがあります。やたらに、髪の毛が口の中に残ったりして、非常に、後味の悪いラーメンでありました。 というようなことで、ラグビーの話となりますと、私も熱くなってしまい、いつにも増して長い返信となってしまいました。つまらない戯言まで書かせていただき、誠に失礼をいたしました。

米国ペンシルバニア州・MSさん(40代男性)
1999.12.28 … ゲルマラジオ、ラグビー
鈴木様
初恋天使さんが、正しく書いて下さったのですが、96年にJTBから出たのは都電が走った街ー今昔」でした。また間違えて、ごめんなさい。以後気をつけます。
それにしても長岡鉄男さんといえば、オーディオの神様とよばれた方ですよね。そんな方に聞いてもらったというのは、本当にすごい事だとおもいます。
初恋天使さんがお作りの,鉄道レイアウトも是非拝見したいと思います。
私は、一度だけラジオを作ったことがあります。67年か68年に,子供の科学にのっていた、「かまぼこ板ゲルマラジオ」を,組んだのでした。子科(と呼ばれていました)には、そのころ泉さんと言う方が、入門者向けのラジオの作り方を連載されていました。丁度プラスティックの食品容器が,出回ったころで、それらをケースにした物が多くかっこよさそうだったのですが、ドリルで穴を開けねばならず、私のうちには、そんなものはなくて、あきらめていました。そうしたら、かまぼこ板です。これなら大丈夫。乾物屋で、ラジオを作るのにいるんです、といってかまぼこを買って,感心されました。
私は、後にも先にもかまぼこなんか買ったのは、このときだけです。
板なら何でもよくて、別にかまぼこでなくたってよかったわけですが、なにしろ、よくわかっていないので、忠実に記事に従いました。
あとの部品は、そのころ吉祥寺にあった中央模型という店で買いました(ちなみに、この店の在った所は、いま「元町通り」という言うも恥ずかしい商店街になっています。吉祥寺に元町なんていう地名はないのです。横浜のまねっこ。ああ恥ずかしい)。
何にもわからないので、雑誌をもっていって、店のおじさんに部品を集めてもらいました。
ダイアルのついているバリコンという物があったとおもいます。バリコンてなんでしょう。
はんだごては、親に頼んで,近所の金物屋で買ってもらいました。
いよいよ組んだ時は、はんだをおとして、たたみにこげをつくっておこられたものの、なんとかできました。
ゲルマニウムというのは熱に弱く、下手がはんだ付けするときは、アルミの洗濯バサミで線を挟んで熱を逃がさねばならないと言うのを,覚えています。
今の子が、ゲルマラジオを作る時はアルミの洗濯バサミなんかもうないだろうし、どうするんでしょう。
わたしのはんだなんかパチンコ玉みたいに大きくなってしまいました。
やっとできたラジオのアンテナ線を電話線にからませて、イヤーホーンからきこえてきたのは「ある日突然」でした。
主宰者から
1999.12.28
理工系には絶望的に弱かった私ですが、やはり、電池がなくても聞こえるラジオというのを自分で作ったという信じられないような記憶がありまして、でも、佐藤さんのように、自分で色々なパーツを用意してアセンブルするというようなことは出来るはずがありませんので、何か、雑誌の付録とかイージーキットのようなものを買ってきて、ほとんど、本体とそのカバーを組み合わせるだけでいいようなシロモノだったのだろうと思います。
その辺のことを覚えていないのも、自分で苦労して作っていないからなのでありましょう。
私の場合、電池がなくても音が聞こえるという点は驚異に思ったものの、イヤホンでしか聴くことができないというところに不満を感じ、ほどなく、2000円くらいのラジオを買って、サイクリングに行くときなどに得意そうに持っていったのを思いだしました。
そのラジオからブルコメの「草原の輝き」が聞こえてきたときの嬉しさを良く覚えておりますので、中学1年だった昭和43年の夏の話であります。

東京都武蔵野市・初恋天使さん(40代男性)
1999.12.27 … FM放送の思い出
鈴木 様
こんばんは、宿題はまだですが、連日メールで失礼します。
昨日は年賀状のデザインと印刷(妻の分も含め)160枚を済ませました。デザインは、会社でのPOP作りで鍛えた腕のせいか、何か、DMのハガキのようになってしまいましたが、春に買った2万円弱のプリンターが活躍、値段じゃないですね。早く済んだので到着したパソコンのインストールをしました。Win98も3台目ともなると手馴れたものです。
さて代休1日目の本日は本格的に片付けに入るや、仕事の電話が入り、会社へEメールを2本出して時間を稼ぎました。深夜までには自社のホームページの更新部分のチェックするという休み1日目にして在宅勤務状態になってしまいました。
「FM放送の思い出」
片思いの傷心の小生が音楽が友達という状態になった1968年はものの本によればFMブームが立ちあがった年と言われています。以前メールしたように何でも顔をつっこむ小生は中学生ながらオーディオマニアになって行くのでありました。
1969年はNHK−FMの本放送が始ったとされているので、それまでは、それなり(実験放送)だったのかもしれません。
AMで聴くのとは偉く違って音はいいし、番組も大人が聞くようなクラシック(つまり学校の音楽の鑑賞曲なんかじゃないんですね)、マーラーの交響曲とか、ワーグナーがどうの、マタイ受難曲がどうの、現代音楽がどうのとか、有線ネウマとか言う五線譜以前の記譜の曲とかそれはもう大変に高尚・荘厳な音楽で。グレゴリ−聖歌あたりを、ビートポップスを聴いていた「鼻たれ小僧族」の小生が何故か聴いていた訳です。
とにかく、その当時、FMは音楽ファンのための選ばれた放送でありました。
FM東京がFM東京として80MHzで放送を開始したのは確か昭和46年であったと思います。それまではFM東海として、東海大学の実験放送であったと記憶しております。そのなごりか、FM東京には夜6:30−9:00の望星高校講座という放送時間枠がありました。
FM誌はFMファンが昭和41年かららしく、小生は中学生時代はもっぱら立ち読みをしておりまして、週刊FMが昭和46年に創刊されると(これでFM東京と同年と記憶)買い始め、従って創刊号から持っていた訳なんですが・・・どの時空に置き忘れてしまったのか・・・
FM誌を買い始めたのはエアチェック環境が完備されたためでもあります。
音楽之友社の週刊FMは、FMファンよりも少し音楽の幅が広がった感じあったのと誌面が見やすかったこと、オーディオの企画ページがしっかりしていたことで購読しておりました。
この後、小学館のFMレコパルが昭和49年に創刊されるという流れですね。週刊FMも何回か誌面が変わっていますが、昭和49年4月に装丁・誌面を大きく変更、その後(失念)、隔週刊になり、友人と2週刊FMだねなんて言って笑っていました。
FMは貴重な音楽ソースとして新譜情報、ライブなど音楽ファンにはたまりませんでしたが、やはりレコード購入代用としての音源として最高であった訳です。
深夜枠などは特にAM放送にない雰囲気があり、音楽好きのためのものという感じでしたね。
FM放送を聴くための装置として、当時普通のラジオはFM受信できるものばかりではなく、高級なラジオかオーディオ装置(ステレオ)が必要であった訳です。
当然オーディオ好きな小生は工学系の大学へ進み音響工学を専攻することになりますが、やはりFM誌は製作記事などのある週刊FMがご指定で、週刊FM主催のスピーカ自作コンテストに応募、書類審査が通って、作ったスピーカを編集部の試聴室に持ち込み、オーディオ評論家の長岡鉄男先生に聞いて頂いた記憶があります。
先生から「軽くてダメ」という意味をやさしく直接言って頂いた記憶があり、記事はもっと柔らかく書いてあったのは先生の優しさかと思っております。
話しは戻りますが高校1年の春、あこがれのKさんと違う高校へ進んで姿さえ見ることもできなくなった小生は、Kさんの16才の誕生日に手紙を送った記憶があります。
でも、内容が子供というか、変というか、「拝啓、アンケートです。FM受信機は持っていますか?」・・
数日して手紙で返事が有り、「FM受信機、持っています。今つきあっている人がいて・・」。
それから四半世紀が流れて、偶然Kさんの消息が判り同期会に出席してもらうことになり、妻に「あんな手紙出すんじゃなかった」というと言うと「まあ覚えていないよ」ということで幹事であった小生は勇気を持って出席依頼の電話しました。
Kさんは手紙のことにはふれず「人間、ある年齢になるとどんなことでも美しい思い出になるもので、思い出はないより絶対あったほうがいいもの・・・」
妻いわく「変な手紙出したから覚えていたんで、結果としては良かったのよ」
「FM受信機」という響きには小生の場合、特別な、甘酸っぱいものがあります。
主宰者から
1999.12.27
本当に、連日のメール、ありがとうございます。
ここ数日、ホームページのアクセス数も、目に見えて、落ちてきておりまして、2週間くらい前までと比べると、半分くらいまで激減しております。既に、お休みに入られている方、年賀状作りに忙しい方、社内の忘年会や取引先への挨拶回りで忙しい方、年末のドン詰まりまで仕事に忙しい方と、色々、いらっしゃるのだろうと思いますし、それより何より、ホームページのデータ更新の停滞が最大の原因であることは間違いないのだろうと思いますが、私の方も、とにかく“貧乏暇なし”状態が続いていて、どうすることも出来ないような状況です。
毎度、同じことを書いておりますが、そういう中で、頂戴するメールは、本当に有り難いものであります。
私も、カミさんと長女と長男の年賀状を、一昨日と昨日の週末に50枚ほど印刷しましたが、それぞれが違うデザインのものを数種類ずつリクエストしていたため、大変な時間がかかってしまいました。
別宅には、先週、カミさんに内緒で買った2万円台前半のプリンタが隠してありまして、それで印刷しているのですが、E社やC社、H社などのプリンタ御三家ではないメーカーのものではありますが、御三家の4万円台のプリンタとスペック的には遜色なく、1200×1200dpiという高精度の出力の美しさに、今更ながら、驚いております。
自分の年賀状を印刷できるのは、休みに入ってからになりそうで、大晦日に投函できるかどうかといった状況に追いこまれそうです。
ちょっと前触れが長くなりすぎましたが、本題に入らせていただきます。
私の場合、富沢さんのように、手先が不器用な上に、理科系の知識が乏しかったため、スピーカを自作するなど、夢のまた夢という感じでありました。
従いまして、FM誌を買う際に、製作記事の多寡やそのクォリティなど、全く購買基準としては勘案されなかったはずですが、じゃ、なんで『FMfan』だったのか、自分でも、もう覚えていません。ただ、何となく、初めて見たのが『FMfan』で、印象的には、『週刊FM』よりも重厚な印象を受けた記憶が残っています。
それと、私の場合、エアチェック(といっても、本格的なコンポなどではなく、パナソニックのラジカセでしたが…)の主たる対象が、NHK−FMでお昼のニュースの後にやっていた「昼の軽音楽」(のち、「昼のミュージックコーナー」となり、私が東京に出てきた昭和49年頃から「昼の歌謡曲」になったと記憶しております)という番組で、その中で放送される曲目については、『FMfan』の方が詳しく載っていたというようなことが理由だったのではないかと思われます。でも、それも、もう、定かではありません。
小学館やダイヤモンド社などからもFM専門誌が創刊され、新聞にもFM放送の1週間分のプログラムが掲載されるようになり、やがては、『ぴあ』でもFMの番組表が加わるようになっていきましたが、私は、ずいぶん後まで、『FMfan』を買い続けていた記憶があります。
長岡鉄男さんのオーディオ関連の連載記事は、『FMfan』にも掲載されておりましたが、その長岡鉄男さんに、直接、自作のスピーカを聴いてもらえるというのは、大変なことだったのではないかと思います。
富沢さんのFM放送に対する思い入れは、そうした技術的な関心という側面に、初恋の切ない思いという心理的な側面も相俟って、私などよりも、はるかに強いものなのでいらっしゃるのだろうと推察させていただいている次第です。

t2536さん
1999.12.27 … HP拝見しました(吉永小百合さん)
1966年7月号の表紙は、絶対に吉永小百合さんです・・
私は小百合さんのファンクラブに入っていたくらいです間違いはありません・・
そして昭和40年頃の『平凡』、『明星』は、3ヶ月に一度は小百合さんが表紙になっていたような気がします。
主宰者から
1999.12.27

東京都武蔵野市・初恋天使さん(40代男性)
1999.12.26 … FM歌謡バラエティのパソナリティー
鈴木 様
こんにちは。判明したところを御知らせします。ご利用下さい。
1973年(10月1日−10月7日)
月曜 瀬能 礼子
火曜 松島 トモ子
水曜 ひのきしんじ
木曜 池田 和歌子
金曜 及川弘子
1974年(4月1日−4月7日)
月曜 芹 洋子
火曜 松島 トモ子
水曜 ひのきしんじ
木曜 沢 チエ
金曜 及川弘子
1975年(5月19日−5月25日)
月曜 芹 洋子
火曜 松島 トモ子
水曜 ひのきしんじ
木曜 中村こずえ、伊藤強
金曜 及川弘子
ちなみに前のメールの奇麗な方は中村こずえさんとおいうことになりそうです。
1973年10月1日はステレオ歌謡バラエティー3周年記念番組となっています。
やはり月曜、木曜は変化があったようで、記憶があいまいなのはそのためだったようです。
番組構成は
2:05番組始り
リクエストコーナー
クイズ、 交通情報
フレッシュコーナー
パーソナルレコード
3:00
ホットコーナー
クイズ
リクエストコーナー
クイズ解答/当選者
3:55
ニュース
3年に渡って基本構成はほぼ変化ないようです。
小生がやはり知りたいのは71年、72年です。「いつでも本だな」はもう動作しないかな?
気まぐれドラえもんの気持ち次第でしょうか。
正月休みを利用して「FM東京73−75年番組表」を作成してメールさせて頂きます。
鈴木様の企画に、ご参考になれば幸いでございます。
とりあえず、内容のみのそっけないメールで失礼します。
主宰者から
1999.12.26
連続メール、誠に恐縮です。
しかも、懐かしい「ステレオ歌謡バラエティ」の年度別パーソナリティリストまでお送りいただき、本当に、ありがとうございます。
私が東京に出てきたのは、昭和49年の3月でしたが、お送りいただいたパーソナリティのラインナップを見せていただくと、私の記憶と完全に一致するのは昭和50年のリストですので、「ステレオ歌謡バラエティ」を本格的に聴き始めたのは、昭和50年に入ってからだったかもしれません。
高校時代には、共同通信社から出版されていた「FMfan」を購入しておりましたが、NHKのFMしか入りませんでしたので、一緒に掲載されていたFM東京の番組表は、ただ見ているだけでありました。ところで、FM東京は、初期の頃は、FM東海とか言っていた時期があったように記憶しているのですが、違いましたでしょうか。

東京都武蔵野市・初恋天使さん
1999.12.26 … 「雨」から始る欧風洋楽など
鈴木 様
ご返事ありがとうございます。
60年代通信流「洋楽史」嬉しく思います。微力ながらご支援申し上げます。
土曜まで出勤で、日曜より代休をとり正月明けまで休みとなりました。
●欧風洋楽のしらべ
ジリオラ・チンクエッティの「雨」は今聴くとマッチの「ブルージーンブルース」ですが、洋楽サウンドとして欧風サウンドの代表でしょう。この欧風サウンドがあの当時の日本人をシビレさせたようです。
遡ると「アイドルを探せ」シルビーバルタン、同名の映画は小学生5年の時ウィン少年合唱団の出てくる映画との2本立てで見ました。音楽というところがキーワードだったんでしょうか。
「イザベル」シャルルアズナブール、「恋は水色」ヴィッキー、「雪が降る」アダモ、から始って、「オー、シャンゼリゼ」ダニエル・ビダル、「二人の天使」ダニエルリカーリと言った具合ですね。 70年代に入るとポップなものとしては「青春に乾杯」ミッシェル・デルペッシュ、歌謡曲に近いところで(日本語も有り?)「バタフライ」ダニエル・ジェラール、「夕映えの二人」ウドユルゲンスは、ペドロ&カプリシャスの「別れの朝」。これって、夕が朝に、コーヒーが紅茶になるんでしたっけ。
競作も多い中では「マミーブルー」ポップトップスもヒットしましたね。欧風ポップスで私にとって謎なのは「さよならを教えて」フランソワアルディーは日本語で「悲しみが涙にかわるまで」?という曲がカバーされていた?、それとも似た曲だったのか?・・
FMの深夜では盛んに聴いた気がするのですが。歌手も真偽のほども記憶の闇の中です。
●懐かしや「サイモンセッズ」
うーん懐かしい。「魔法」リー・クリスティー、「ウィンディー」アソシエイション、「シュガーシュガー」アーチーズ、「イエローリバー」クリスティーなんかも。「夢のカリフォルニア」ママス&パパスは高校の学園祭でも良く聴きました。ママス&パパスは「マンデー・マンデー」もありますが、私は「ミスターマンデー」オリジナルキャストが軽く大好きでした。逆に重く好きだったのは「スーパーバード」ニールセダカ、「雨を見たかい」CCRのも良かったです。「男の世界」ジェリーウォレスはうーんマンダムでした。やはりkiyomi様も指摘された、「ヴィーナス」ショッキング・ブルー、「悲しき鉄道員」いい曲でしたね。「ナオミの夢」ヘドバとダビデ、レターメンの「涙のくちづけ」「ラブ」「ミスターロンリー」「ビコーズ」、ブレッド「イフ」、ジャクソンファイブ「ABC」・・
インストでは、ハーブ・アルパート「マルタ島の砂」。
にわかポップスファンであった小生ですが 70年代前半だけでもいろいろあって止まりせん。
●GSカバー曲
有名なところではグラスルーツ「今日を生きよう」「キサナドゥの伝説」あたりでしょうか。これはピュンピュンというのが入る。
話し変わりまして
●話題の丸物百貨店
小生の文化圏は1964年を境に前が渋谷、後が新宿で、リアルタイムの池袋を知りません。渋谷は東横デパートの前は都電の海で通路で東急文化会館当然プラネタリウム。東横デパートの地下にお菓子がぐるぐる回って計り売りのあれって何ていうのでしょうか。妻も同じ記憶があるそうです。
さて、丸物デパートの写真がご指摘の「都電の消えた街−山手編」に出ておりました。
同じような本はご指摘の「東京都電の時代」「都電の走った町今昔、1,2」「焼け跡・都電・40年」「おもいでの都電」(カラーブックス)などありまして(もともと鉄道ジオラマが専門で昭和30年代、40年代の町並みを作っておりますので、その参考書として所有)いずれにしても、大好きだった「ランダム写真館」のような写真集ですね。
この手の本を見ると自然には中島みゆきの「時代」が鼻歌ででてきてしまいます。
kiyomi様、本日はこのあたりで。
じつはドラえもんに「いつでも本だな」を頼んだら「週刊FM」が3冊出てきました。73年、74年、75年各1冊です。という訳で、ステバラのパーソナリティーの謎がとけそうです。気を持たせてすみません。
年賀状作成と新しいパソコンが届くという盆と正月状態なもので。
主宰者から
1999.12.26
メール、ありがとうございます。
洋楽ヒット曲リストの続編をお送りいただき、ありがとうございました。
ダニエル・ビダルといえば、メリー・ホプキンの「悲しき天使」のちょっと後に、同じ“天使”モノで「天使のらくがき」が大ヒットしましたよね。あれも、確か、日本だけでのヒットだったと記憶しております。
ウド・ユルゲンスの「夕映えの二人」は、大学時代、ドイツ語で弾き語りなどをしていた懐かしい曲です。原題は“Was
Ich dir Sagen will”というものでありました。
フランソワ・アルディーの曲は、残念ながら、私は記憶にありませんので、どなたか、お詳しい方からの情報を待たせていただきたいと思います。
都電の写真集は、私も、早く発掘して、じっくりと見てみたいものだと思います。

米国ペンシルバニア州・MSさん(40代男性)
1999.12.26 … 都電ほか
鈴木様、 弘田三枝子の字を間違えたのを、直していただき有難うございました。まるで、忘れておりました。余計なお手間をとらせてしまいました。
中尾ミエは、私が渡米するころ、「口先女」とかいって毒舌をはくような仕事ばかりだったみたいで、悲観していたのでした。安心しました。
以前書かれておられたと思いますが、「かたおもい」というのは、胸が痛くなる名曲で,私はLPも、持っていました。服部克久の書いた曲が、とてもよかったのを覚えています。カンツォーネで,えらそうな事をいってしまいましたが、よく考えてみたら、私が知っているカンツォーネ歌手ってそのお二人だけです。
丸物からパルコというのが、直接のつながりであったとは知りませんでした。子供の時の知識の限界です。勉強になりました。
私の家族は、私が生まれてから1歳まで、板橋区の祖父の家に住み、そのあと初恋天使さんのお住まいの武蔵野市に引越し,渡米する85年までそこにずっと住んでいました。78年に,祖父が亡くなるまでは、毎月のように板橋に遊びにいっていたので、乗り換え駅の池袋には、なじみがありました。
「都電が消えた街角」は、先だってお伝えした「東京都電の時代」と同じ版元の大正出版から、83年ころに出ました。私も,日本の実家に持っております。その著者の林順信さんは、大手出版社の編集者だった方で,67−69年に日曜ごとに都電の路線全てを写真におさめに歩かれたそうです。今は,駅弁の研究や昔の絵葉書の収集の専門家として「旅」などによく書かれています。「鉄道廃線跡を歩く」と同じJTBのシリーズで「都電の消えた街角ー今昔」というのを、2年前位に出されました。
その90年代版の「都電が消えた街角」にも、丸物とパルコが対比されて写っています。
私は,東京と言っても郊外だったので,都電はわざわざ乗りに行くものでした。67年銀座線の最後の日に,母に連れていってもらったのをよく覚えています。お名残乗車で満員で、こんなに惜しむなら普段から乗っていればいいのに,と子供ながら矛盾を感じました。
中学生になって、一人で出歩けるようになった時に、都電が荒川線だけになる前の、最後の路線網に間に合ったのは、僥倖でした。
高校受験の迫った72年晩秋の最後の廃止日の夜,下町の路線に別れをつげにいけたのは、いい思いでです。
話は飛んで,Lカセットですが、妹の知人が、これにのめりこんで手をつくして、テープの買い溜めをしていたものです。最後の一本を使ってしまった、ときいたのは、90年代に入ってからだったと思います。ご苦労様な事です。ほんとうに、こういうので「負け組」に入ってしまうと、えらいことですよね。
70年代初期に売られていた物でいまも不思議な物があります。コロンビアの「ボイスマトリクス」というステレオの機構で、ラジオのCMによると、普通のLPやテープの歌手の音だけ消せて何でもカラオケに出来る、というのでした。実物を見た事は無いので,一体どういうことだったのか、わかりません。そのころの技術で、声の部分だけ消せるようなイコライザーを安いステレオにのせるような事ができたのでしょうか。それともいんちきだったのでしょうか。
前に読ませて頂いた事で、一体いつのメールだかメモをとっていなかったので、今ごろそんな事を書かれても困ると言われてしまいそうですが,厚かましく書かせていただきますと、「鉛筆が一本」という歌は、毎日新聞の看板記者であった大森実が、ベトナム戦争報道を巡る対立でやめさせられて,「東京オブザーバー」という個人紙を出すと言う時に彼を応援する歌として書かれたのだと記憶しています。大森さんは,その後アメリカに住まわれて80年代には、活発に本を書かれていましたが、まだご健在なのでしょうか。
私は、これまで日本語のワードプロセッサーに触れたことが無かったので、かぎ括弧がどこにあるのか、とか促音をどうやって書くのかとか、探すのが大変だったのですが、もうわかったので、天下無双の男であります(いまの英語版のウインドウズ98では、読むだけならば日本語が普通に出るのです)。
今ごろ、「どうしてアルファベットを打つと漢字に変わるんだろう」なんて、他の人たちが,15年も前に通過した事に感心しています。うつ速度も大分はやくなりました。
お言葉に甘えて,またお便りさせていただきます。
さようなら。
当地は昨夜寒波で台所の窓際においてあった液体石鹸が、室内なのに凍りました。
主宰者から
1999.12.26
手書きと違って、ワープロやパソコンの場合、文筆業の方などでもタイプミス・変換ミスによる誤字・脱字は日常茶飯事でありまして、原稿の赤入れが主な仕事だった時期もある私にとっては、殆ど、無意識のうちに直しをいれさせていただくような修正がありますので、そうした手間なども、どうぞ、お気になさらないでください。などと言いつつ、ホームページにしても、掲示板にしても、自分の書いたものでも、その手の誤字・脱字の多さに愕然することも少なくありませんが…。
中尾ミエさんは、かつて、森山良子さんと2人で、その毒舌を売り物にしたトーク番組にレギュラー出演されていた時期があり、それが、多分、佐藤さんが渡米される前後のタイミングだったのではないかと思いますけれども、当時、その番組をベースにた2人によるコンサートツアーなどもありましたし、トーク人気とは別に、しっかりと歌の上手さも認識されていたと思います。
前回のメールでは、都電の写真集のタイトルをウロ覚えで書かせていただきましたが、確かに、「都電が消えた街角」というタイトルだったと思います。
私も、勤務している会社が今年の4月まで麹町にありまして、ほぼ20年間、四ツ谷から半蔵門に至る新宿通り界隈で過ごさせていただきましたが、横断歩道を渡る際など、途中で信号が「赤」に変わり、中央分離帯で信号待ちをする間、「昔は、ここに都電が走っていたんだなぁ」と感慨に浸ったりしたものでありました。
栃尾鉄道が廃線になるときも、やっぱり、さよなら電車には、かなりの人が乗っていたものでありますが、私も、そういう光景を見ながら、「普段から、もっと利用してくれていれば、廃線にならずに住むのに…」と思ったものでした。
栃尾鉄道長岡線の廃線も、佐藤さんがお一人で都電にお別れに行かれたのと同じ、1972年のことでありました。 90年代に入るまで、Lカセットを使っていた方がいらっしゃったとは、驚きであります。その妹さんの知人の方とお会いになられるような機会でもありましたら、よろしくお伝えください。
コロンビアの「ボイスマトリクス」というのは、リアルタイムでの記憶が殆どありませんが、私が、結婚する直前に買ったSONYの「サウンド・ジム」というラジカセとミキサーが一体になったようなマシンでも、ヴォーカルを小さくして、カラオケが楽しめるような機能がついておりましたし、その後の、SONYのミニコンポなどでも、「カラオケ・ポン」とかいうモードで、同様のことができるように思いますが、あれは、単に、音の位相を変えるだけのものなのだろうと思いますけれども、「ボイスマトリクス」というのは、どんな仕掛けだったのでしょうか。
「エンピツが一本」が大森実さんへの励ましの歌だったというのは知りませんでした。浜口庫之助さんが書かれた本に、毎日新聞の記者の方が匿名で登場されたりしていた記憶ありますけれども、その方が、実は、大森実さんだったのかもしれません。

あなたも「60年代通信」に是非お便りしましょう
E-mail:kiyomi60@bb.mbn.or.jp
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