読者の皆様から「60年代通信」にいただいた
暖かい励ましのお便り


その1(1997年4月〜1998年3月)
その2(1998年4月〜1998年6月)
その3(1998年7月〜1998年9月)
その4(1998年10月)
その5(1998年11月〜1998年12月)このページ
その6(1999年1月)
その7(1999年2月〜)

「60年代の謎」:お便りの疑問コーナー




“「60年代通信」掲示板”(http://www64.tcup.com/6405/kiyomi60.html
を開設いたしましたので、ご活用ください。よろしくお願いします。


「読者の皆様からの暖かい励ましのお便りコーナー」
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 このページは、皆様から、「60年代通信」宛てに頂戴したEメールを紹介させていただくコーナーです。
 いただいたEメールは、誹謗・中傷やそれに類するもの、あるいは、公序良俗に反するものでない限り、基本的に、原文のまま、掲載させていただく方針ですが、用字用語の修正をさせていただく場合があるほか、お名前は、イニシャルあるいはペンネームに代えさせていただいておりますので、ご了承いただければと思います。
 頂いたEメールの掲載について、ご意見、ご希望のある方は、ご遠慮なくお申し出ください。
 皆様から頂戴するEメールだけが、シコシコと家庭内手工業でページを作っている主宰者の唯一の励みとなっておりますので、異論・反論・ご批判など、何でも結構ですので、よろしくお願いいたします。




千葉県市川市・HMさん(40代男性) 1998.12.31
… 来年もよろしくお願いします!

主宰者から 1998.12.29
  … 「名犬ロンドン」について

祝 進さん(男性) 1998.12.29
  … 名犬ロンドン

主宰者から 1998.12.28
  … 私にも教えてください

JHさん(男性) 1998.12.28
  … 教えて下さい

JHさん(男性) 1998.12.28
  … はじめまして! & 「名犬ロンドン物語」の主題歌

KHさん(女性) 1998.12.27
  … 原田雅彦さんのドラマを今一度

岩手県一関市・YMさん(40代男性) 1998.12.26
  … 懐かしの写真拝見しました

東京都台東区・GOさん(30代前半・男性・武神館道場7段) 1998.12.26
  … 風のフジ丸 ふたたび

千葉県柏市・KTさん(40代男性) 1998.12.24
  … 返信ありがとうございました

HFさん(男性) 1998.12.24
  … つれづれなるままに

HFさん(男性) 1998.12.23
  … お尋ねの件について

主宰者から 1998.12.22
  …大鷲に乗るシーンなら覚えています

千葉県柏市・KTさん(40代男性) 1998.12.22
  … 「神州天馬侠」について

SESAMIさん(女性) 1998.12.20
… 「怪獣王子」のお返事ありがとうございました

稲葉小僧さん(男性) 1998.12.19
  … 福井英一氏と怪獣王子のこと

SESAMIさん(女性) 1998.12.18
  … 福井英一について

KMさん(40代男性) 1998.12.18
  … ウェスタンカーニバルを見た中3の夏

主宰者から 1998.12.16
  … レナウンのCMソングについて

KMさん(男性) 1998.12.16
  … レナウン「イエイエ」キャンペーンの歌

SYさん(30代男性) 1998.12.13
  … 教えてください

千葉県市川市・HMさん(40代男性) 1998.12.12
  … ホンダS500について

稲葉小僧さん(男性) 1998.12.12
  … 福井英一って漫画家、ご存知ですか?

主宰者から 1998.12.07
  … 久しぶりのブルコメ関連メールをありがとうございました

MKさん(40代男性) 1998.12.07
  … ブルーコメッツの思い出

はすぴーさん(30代男性) 1998.12.01
  … はじめまして

主宰者から 1998.11.29
  … 原体験とも言うべき「東映動画」と「ディズニー・アニメ」

稲葉小僧さん(男性) 1998.11.29
  … 「アニメの昭和史」、私の感想です

主宰者から 1998.11.27
  … 昭和30年代の東映動画は感動でした

千葉県市川市・HMさん(40代男性) 1998.11.26
  … 「アニメの昭和史」を見て

simonsさん(男性) 1998.11.25
  … ありがとうございます

KMさん(男性) 1998.11.25
  … 大魔神

神奈川県葉山町・祝進さん(男性) 1998.11.24
  … 久美かおり、小橋玲子

むむむさん(女性) 1998.11.22
  … 久美かおりの新人賞の時期

simonsさん(男性) 1998.11.22
  … 長岡の景観構成に関するデーターを集めています!

SESAMIさん(女性) 1998.11.19
  … はじめまして

神奈川県横浜市・KHさん(20代女性) 1998.11.14
  … あらためて「60年代」について

神奈川県葉山町・祝進さん(40代男性) 1998.11.11
  … ディズニーランド

稲葉小僧さん(男性) 1998.11.10
  … ファイトだ!ピュー太、および、ピッカリビー・・他も少し

神奈川県三浦郡葉山町・YUさん(40代男性) 1998.11.09
  …月刊平凡

神奈川県三浦郡葉山町・YUさん(40代男性) 1998.11.09
  … ホームランバー

千葉県市川市・HMさん(40代男性) 1998.11.08
  … 「青い瞳」のジャケットに写っている車は?

Oさん(『特選街』編集ご担当) 1998.11.06
  … 雑誌掲載許可のお願い

神奈川県横浜市・KHさん(20代女性) 1998.11.05
  … 『驚きももの木20世紀/ブルコメの苦悩』を見て




千葉県市川市・HMさん(40代男性) 1998.12.31 … 来年もよろしくお願いします!

“60年代通信”御中
 市川のMです。
 今年は、途中からですが、いろいろ楽しませていただきました。
 本当に、ありがとうございました。
 これからも、健康第一でがんばってください。
 ところで、先日NHKBS11chの「このひと、このまち」という番組で、“新潟県三条市・ジャイアント馬場”が放送されました。
 プロレスもそこそこ好きだったので(馬場・猪木タッグチーム時代からのファン)つい見ていたら、長岡市の近くなんですか?
 長岡という言葉がでたので、つい60年代通信を思い出してしまいメールを書いているわけであります。
 その当時の馬場が通っていた小学校や中学校などや町並みが頻繁に映っており、60年代にあった“38豪雪(?)”などという大雪の写真などが当時の出来事としてコメントしていました。
 番組としては、馬場がいかに、高校時代から野球少年だったということからジャイアンツにスカウトされて、勇んで東京に出て行ったことや、巨人を解雇され、失意のうちに、プロレス入りした心境などを馬場がどこかの舞台に上がり、淡々の司会者の質問に答えていくものでしたが、なんとなくユーモアがあり、会場に詰め掛けた地元同級生たちからの“一生現役でいてほしい!“コールなどが起きたりして面白かったです。
 馬場が、プロレスでトップとなった時、初めて、地元で開催した国際プロレスについては、ジャイアンツ入団で地元を離れて以来はじめての帰郷であり、友人たちに20000枚の入場券を、配ってもらい、馬場の出身校の校庭で開いたそうでした。
 そして、当日は超満員で、大成功だったそうです。(覚えていらっしゃいますか?)
 あまり、60年代通信の内容とは違うとは思うのですが、こんな番組がありましたので、報告まで。

祝進さん(男性) 1998.12.29 … 名犬ロンドン

 名犬ロンドンの主題歌はヤッチンこと、田辺靖夫が歌っていたはずです。
 当時は疑問にも思わなかったのですが、ロンドンという名前がついているところから考えるに、イギリスの番組だったのでしょうか。
 でも、記憶に残る風景や人物像はアメリカだったような気もするのですが。
 この物語は1話完結で、ロンドンが飼い主を捜し求めて旅をしながら、様々な人間と出会い別れていくという、「逃亡者」がこのシチュエイションをパクったのではないかと疑われるようなドラマでした。
 もう一度見ることができるのでしょうか。
 また、JHさんの疑問の「友よ・・・・・・」に関してですが、はっきり覚えていませんが、多分「ともだち」とかいうタイトルだったのではないかと思います。
 この歌は鰐淵晴子が歌っていました。
 森繁久弥とかがでていたと記憶しています。
 「七人の孫」「ただいま11人」とかに連なる番組だったのではないでしょうか。

主宰者から 1998.12.29 … 「名犬ロンドン」について

 祝さんからのEメールを頂戴した後、たまたま、手元の資料の中で、「名犬ロンドン」に関する部分を発見しましたので、以下に引用させていただきます。
------------
シェパードが走る!「名犬ロンドン」
 主役があくまでも犬という、ちょっと毛色の変わった番組であった。
 主人公であるシェパード犬のロンドンは、ただの犬ではなく英語、独語、仏語など三カ国語(四千語ほど)を理解できるスーパードッグである。
 そして、ロンドンには飼主はいない。つまり毎回ロンドン以外は出演者が替わる訳なのだ。昭和38年当時としては、とてもすすんだストーリーだったが、それほど注目されなかった。というのは、やはり内容が十年早かったという事かもしれない。
 ストーリー自体も、少年ヒーロー物というより、おとな向けの感じで、スリルあり、サスペンスあり、ユーモアあり、風刺ありといった中身の濃いものであった。この、ロンドンに扮した犬は本名をボボといい、ドラマを離れた面でも大変頭の良い犬であったという事が、裏話として残っている。
 「名犬リンチンチン」「名犬ラッシー」など一連の名犬シリーズの中では影が薄い存在ではあったが、子供たちの心には確かに残っている。昭和38年10月スタート。NTV
------------
「ブラウン管のスター・ヒーロー・名場面1700〜TVグラフィティ(1953年〜1970年)」(講談社)から

JHさん(男性) 1998.12.28 … 教えて下さい

前略
 皆さんの話を聞いていて、ふと思い出しました。
 テレビで放送していたあれは何という番組だったのだろう・・
 たしか主題歌は、
  友よ 悲しい時 あなたに逢いたい
  友よ 苦しい時 あなたに逢いたい
  ???
 こんな歌詞だったと思うのですが、どなたか正確な歌詞を知らないでしょうか?
 たしか青春ドラマ?だったような気がするのですが(題名も覚えていません。ただ、主題歌だけが頭の中から離れません)・・・
 また、「記念樹」の主題歌を知っている方、教えて下さい。

主宰者から 1998.12.28 … 私にも教えてください

 「記念樹」というのは、木下恵介アワーの番組でしたよね。
 我が家も、毎回、一家揃って見ておりましたので、今日は、一日中、何とか歌詞を思い出そうとしていたのですが、学校の校庭のようなタイトルバックのシーンは甦ってくるのに、肝心の歌詞は、まったく、浮かんできません。
 木下恵介アワーと言えば、「喜びも悲しみも幾歳月」も思い出されますし、あの頃は、「青年の樹」とか、「若者たち」とか、いわゆる青春ドラマでも、結構、社会派の作りというか、テーマ的には重いものが多かったような気がします。
 もちろん、お洒落なトレンディー・ドラマなんかはありませんでしたが、今、考えてみると、お茶の間のテレビを大人から子供までが楽しんでいた、あの時代のドラマというのは、世代を超えて共感できるような骨太の作品が多かったように思います。
 そんな感じ方をすること自体、「あの頃はよかった」式の感慨にすぎないのかもしれませんが…。
 ちなみに、私も、いわゆる青春ドラマで、主題歌は覚えているのに、題名やストーリーをきちんと思い出せない番組があります。
 主題歌は、
  昨日 見つけた 机の端に
  誰が書いたか 三つの言葉
  真理 人生 ああ友情(だったかな…)
  刻んだ奴の 心根が
  今 偲ばれて わが胸の
  ああ 我が胸の 血は燃える
 というような歌詞で、大学のボクシング部か何かが舞台になっていたような記憶があります。
 JHさんの質問とも併せまして、どなたか、ご存知の方、ご教示いただければと思います。
 よろしくお願いします。

JHさん(男性) 1998.12.28 … はじめまして!&「名犬ロンドン物語」の主題歌

 いつも楽しく拝見させてもらっています。
 HFさんが、この中で、「名犬ロンドン物語」の主題歌を歌っている人は誰、というお尋ねでしたが、僕の記憶に間違いがなければ、エイトマンを歌っていた克美しげるではなかったでしょうか?
  見知らぬこの街 さまよい歩けば
  遥かな思い出 胸によみがえる
  友を求め行く 旅は果てなく さすらい行く
 たしか、こんな歌詞だったような気がします。
 何しろ、あれから20数年が経っていますので、間違いかも?

KHさん(女性) 1998.12.27 … 原田雅彦さんのドラマを今一度

 はじめまして。
 ホームページを拝見しました。
 私もあの感動的なドラマに涙しました。
 もう一度振り返ってみたい。
 年末のお忙しいところ誠に申し訳ありませんが送っていただければ幸いです。

主宰者から 1998.12.27 … 暫くお待ちください

 最近、画像の圧縮率を高めてきておりまして、サーバー容量に、若干の余裕が出てきましたので、改めて、あのドラマの直後にアップした形でページを再構成することにします。
 いま、しばらく、お時間をいただければと思います。

岩手県一関市・YMさん(40代男性) 1998.12.26 … 懐かしの写真拝見しました

 初めてメール発信しています。
 私、YMです。
 S33.6.23生まれ。S52長岡高校卒です。
 「長岡市」という地名で検索していたら貴殿のホームページに辿り着き、昔懐かしい写真・文章に引き込まれ、初めてメールを作成するに至りました。
 私が、高校に通っていたころは、もう栃尾鉄道は廃線になっており、長岡駅から歩いて通学していました。
 高校の思い出は、当時は強かった野球です。
 我々の代は、決勝まで駒を進めましたが惜しいところで逆転負け(確か?)。翌年、東京の大学へ進みましたが、その年、見事に優勝を果たし、56年ぶりに甲子園出場を決めてくれました。
 当時は、母校の大先輩である山本五十六元帥の56に引っかけて話題になった記憶があります。
 現在は、岩手県一関市へ会社の関係で出向中で、もうすぐ2年半になります。
 今度のお正月も地元(宮内)へ帰る予定です。
 また、時間を見つけてHP覗きたいたいと思います。
 期待しています。

東京都台東区・GOさん(30代前半・男性・武神館道場7段) 1998.12.26 … 風のフジ丸 ふたたび

 ご無沙汰しています。武神館道場のGOです。
 10月29日にコメントしてから50日ちょっと経ちましたが、その後もほぼ毎日チェックさせて頂いています。
 今日もチェックしたところ、「読者の皆様からの暖かい励ましのお便りコーナー」に「風のフジ丸」についての新たなコメントがあるのを発見しましたので、その関連で一筆したいと思います。
 実は2、3年前のことですが、初見良昭宗家の「白土忍術の本質」という文章のコピーを稽古の際に頂きました。
 この文章はおそらく『忍者旋風 1』(白土三平著、小学館)という本にコメントのひとつとして掲載されたものだと思いますが、あいにく詳しいことは分かりません。
 で、その中に以下のようなクダリがあるのです。
*************
 この『忍者旋風』は『風のフジ丸』(東映)というタイトルに変身してテレビで放映されました。
 この動画は、とにかく贅沢に作られました。当時、三十分の動画を作るのに三千枚の画を使うのが普通だったのですが、『風のフジ丸』は六千枚も使ったのです。
 主人公・小太郎の名は、スポンサーの意向で変えられたそうです。某薬品会社がスポンサーだったのですが、その会社の最初の漢字「藤」をとって「フジ丸」としたのです。
 白土さんはこの作品のあとがきの一節に、「藤の花が咲いている今頃、いつものようにあの道はほの明るく光っていただろう」と書かれたことがありますが、この情景が『風のフジ丸』の動画に通じているように思えてなりません。
 この番組は二六話2クール続きましたが、毎回最後に「忍者千一夜」というコーナーが設けられ、本間千代子さんと私が出演して忍術の解説をいたしました。
 動画中に出てくる術や小道具などを解説して一つの呼び物にしたいという東映側の企画でしたが、これは、白土三平さんの描いた原作の中にある忍法の解説欄からヒントを得たのだと思います。
 この「忍者千一夜」は、二六回分を二日で撮ってしまったのですが、当時のスタジオは冷房がなく、ライトが強烈で、私たちの背後に置かれた花は僅か二十分で凋んでしまうので、何回花を変えたことか、おわかりになるでしょう。
 流汗、泳ぐような二六話を撮り終えたときには背広は汗まみれ、洗濯屋さんが「火事場の焼け残りかい?」とジョークを飛ばしたほどでした。
*************
 なお、宗家の『秘伝 戸隠流忍法』(土屋書店)のpp.208-209にも同様のことが書かれているのですが、そこには「本間千代子さん(現在は守屋浩さんの奥さん)」とあります。
 以上、ご参考までに。

千葉県柏市・KTさん(40代男性) 1998.12.24 … 返信ありがとうございました

鈴木 様
 柏在住のTです。
 ご多忙の中、わざわざの返信、ありがとうございます。
 と、これだけでは、何ですので、別件について。
 「風のフジ丸」ですが、すでにご存知かもしれませんが、私自身は小学館から漫画文庫で出て初めて知り、驚いたのですが、第一部の「竜煙の書」部分は、白土三平の「忍者旋風」そのものです。
 白土版では、主人公が風魔小太郎ですが、筋立てはそのままでした。
 主人公の名をスポンサーのフジサワ薬品にちなんだものに変更して、アニメ化したものと思います。
 「ぼくら」の連載は、先にアニメ、もしくはアニメの企画があって、開始されたのではないでしょうか。
 「フジ丸」第二部は、「南蛮魔術」で、あまり記憶にありません。
 確か、南蛮体術「壁いなずま」とかいう技があったような気がします。
 第一部と第二部の落差は、原作の有無にあるのではと、想像してます。
 「忍者旋風」を読んだのが、大学生当時で、20年以上前ですから、ちょっと記憶があいまいですが、報告させてもらいました。

HFさん(男性) 1998.12.24 … つれづれなるままに

前略
 前回は、ほんの一部だけしか見ずにメールをだしましたが、今回は、とっくりと全部拝見いたしました。
 うん、面白い、とても面白い、それが感想です。
 こういう企画は大好きなほうです。
 では、気がついたことを少々。
 「俺あ三太だ」で、三太を演じた俳優さんは、”渡辺篤”ではなく、”渡辺篤史”です。
 当時”渡辺篤”という人は別におりまして、「お笑い三人組」で三遊亭小金馬の父親役をやった方です。
 ちなみに、その他の役は、おとう”市村俊幸”,おかあ”七尾怜子”、ばあちゃん”原泉”、花荻先生”中西妙子”という配役でした。
 また、「忍者部隊月光」では、第一回目のお話で、すでに、隊員が一名死亡します。
 役名はわすれましたが演じていたのはあの”広川太一郎”です。
 そして、またまた、「怪傑ハリマオ」ですが、彼の本名は海軍中尉”大友道夫”です。
 以上、資料などというものは全くなく、すべて記憶にたよって書いたので、間違いがあるかもしれません。
 最後に、以下の番組について、何かご存知でしょうか、おそらくあまりにも古すぎて、あまりにもマイナーなので、誰も知らないかもとおもいつつ。
 「ピカ助捕物帳」、「竜巻小天狗」の2本です。
 また、外国テレビ映画「名犬ロンドン物語」の主題歌を歌っていたのは誰でしょう。
 当時は、外国テレビ映画の主題曲に、日本語の歌詞をつけ、日本人が歌う、ということがはやっていました。
 「ギャラントメン」”フランク永井”、「スーパーヒューリー」”雪村いずみ”、「ライフルマン」”小坂一也”などです。
 しかし、「名犬ロンドン物語」は、思い出せません。
 といったところで、話が長くなりすぎましたので失礼いたします。
草々

HFさん(男性) 1998.12.23 … お尋ねの件について

前略
 怪傑ハリマオに登場する悪役のおじさんは、タイトルバックに出ている”大竹タモツ”さんという俳優さんです
草々

千葉県柏市・KTさん(40代男性) 1998.12.22 … 「神州天馬侠」について

 はじめてお便りします。
 半年ほど前は、よく遊びによらせてもらっていましたが、ここしばらく来ることができませんでした。
 しばらくみない間に、ここ(謎)も充実していて驚きました。
 Q10の「信州天馬侠」もしくは「新州天馬侠」ですが、吉川英治の著作としては、現在「神州天馬侠」になっています。
 gooで検索すると、「信州」は存在せず、「新州」と「神州」は双方ヒットしますが、「神州」の方が数が多い結果となりました。
 いずれも、映画関連でヒットしており、ごく初期が「新州」で、その後(戦前から)「神州」になったようです。
 このあたりの事情は、吉川英治全集あたりを調べると判明すると思います。
 なお、検索結果によると、出演者に松方弘樹の名は見えません。里見浩太郎が、1番にあげられています。
 テレビでは、私の記憶では「神州」だったと思います。
 覚えていることは少なくて、主題歌の中に、「お家再興」という単語があったこと、最後が「あ〜あ、神州天馬侠」だったこと。
 大鷲(確かクロウとかいう名前だったような)が出てきて、それに乗るシーンがあったこと。
 武田の末裔の証拠が、武田菱の入った鎧櫃みたいなものだったことぐらいです。
−−−千葉県柏市在住の、Tといいます(イニシャル希望です)。KT・40歳代ですので、A10−2の方と、その部分は一緒です。

主宰者から 1998.12.22 …大鷲に乗るシーンなら覚えています

 「60年代の謎・なぞ・ナゾ」のページのQ.10で、私は、この番組について全く覚えていないようなことを書きましたが、今回、柏市のTKさんから頂いたEメールで出てくる「大鷲で出てきて、それに乗るシーンがあったこと」という部分なら、私も覚えています。
 ただ、私の場合、そのシーンが、時代劇だったことは覚えていましたが、番組の名前までは覚えられるような年齢ではなかったためか、タイトルは全く思い出せないままでおりました。
 ですから、私は、勝手に、自分の記憶に残っていた「紅孔雀」とか「変幻三日月丸」とか「風小僧」とか、その辺で出て来た場面だろうとずっと思い込んできておりまして、先日も、あるレンタルビデオ店から映画版の「紅孔雀」を借りてきて、あの大鷲に乗る場面が出てこないかなと期待しながらビデオを見ましたが、そうした場面は出てこなかったので、がっかりしたものでありました。
 今回の、KTさんから頂いたEメールは、そういう意味で、私にとっては、極めて曖昧でモヤモヤとしていた一部分を晴らしていただいたような気分でありまして、そういうことであれば、是非、その「信州(新州)天馬侠」という映画のビデオを買うなり借りるなりして入手し、私にとって夢幻のようになっている“大鷲に乗る”場面というものを、この目でしかと確認してみたいという欲望に駆り立てられている次第であります。
 柏市のKTさん、どうも、ありがとうございました。

SESAMIさん(女性) 1998.12.20 … 「怪獣王子」のお返事ありがとうございました

 鈴木様、ご丁寧なメールをありがとうございました
 稲葉小僧様には、主題歌までつけて下さって、とっても感動しました。
 「怪獣王子」はテレビでも見ましたし、当時の東映まんがまつりで、長編アニメ映画「アンデルセン物語」との同時上映にも入っていて、私としては印象が深かったんですけど、あまりにも周りに知っている人がいなくて、主人には「お前の妄想じゃないのか」とまで言われていたので、やっと溜飲が下がる思いです。
 ブーメランひとつで敵と戦うのが、確かに笑えましたね。
 そういえば、「アイアンキング」の石橋正次も、アイアンキングが出てくるまでブーメランみたいなもので戦っていましたね。
 なんでブーメランなの?って思いましたが、手元に戻ってくる能率的な武器だったからかもしれません。
 とってもなつかしいうれしい気分です。
 本当に感謝しています。

稲葉小僧さん(男性) 1998.12.19 … 福井英一氏と怪獣王子のこと

 うーむ・・あまりに古い漫画家では、資料くらいしかわかりませんか・・残念!
 ちなみに、生年没年は、その通り(以前書いた没年は昭和と西暦がゴッチャになっていた為、間違いです)
 作品は、ほぼ間違いなく絶版状態でしょうし、再評価すらされていない現在では、再出版なんてのも望むべくもないんでしょうね・・
 はぁ(ため息)
 ただし、当時のインパクトは絶大だったようで、あの「手塚治虫」ですら、その漫画の勢いに焦りを感じていた(その証拠に、とある作品にて福井英一の傑作「イガグリくん」をクソミソに貶しています)ようです。
 手塚先生の癖、なんでしょうか?とも思われるのが、勢いのある漫画家に対し、敵対心を持って、雑誌や作品で貶す・おとしめる事を、よくやっています。
 その一例が石森章太郎の「ジュン」を雑誌上で貶し、石森氏がジュンを中断してから、その間違いに気づいて謝りに行ったと言う・・
 それと同じ事を、福井氏にも行ってしまった(でも後で謝っていますがね)
 もっともっと、昔の漫画家の再刊をお願いしたいし、漫画家の再評価も切に願うものです(心から)
 さーて・・と。
 次は、お久しぶりのセサミ様(とは言うものの、私はセサミ様のホームページにも、ちょくちょく行かせてもらっていますけれど・・)からのリクエスト!
 「怪獣王子」についてです。
 怪獣王子といえば、「オーオラー!」ですよね(これは見てた人だけわかる、って典型ですな(^.^))
 セサミ様の書いてます通り、マグマ大使の後番組として登場し、怪獣ブームにも乗って、大人気でした。
 ちなみに、双子の兄弟「タケル」と「ミツル」(タケルのほうが、いわゆる怪獣王子ね)は本物の双子で配役してたそうです。
 ではでは・・主題歌を。
1.飛ばせ! 青い空に ブーメラン(ブ・メラーンー、と歌っています)
  吼えろ! 燃える海に ジャングルに
  オーラ!(ここも、オ・ラー!と歌っています)
  恐竜の頭に またがって 七つの海でも ひとまたぎ
  オーラ! オーラ! オーラ! 行け!
  宇宙の正義 守るんだ 怪獣王子
2.飛ばせ! 海を蹴って ブーメラン
  砕け! 山も岩も ジャングルに
  オーラ!
  恐竜の頭に またがって 地球の果てまで かけめぐり
  オーラ! オーラ! オーラ! 行け!
  宇宙の敵を 倒すんだ 怪獣王子
3.飛ばせ! 風のように ブーメラン
  響け! 雲の果てに ジャングルに
  オーラ!
  恐竜の頭に またがって 太陽背にして まっしぐら
  オーラ! オーラ! オーラ! 行け!
  宇宙の平和 守るんだ 怪獣王子
 作詞:土屋啓之助 作曲:半間厳一 歌:天地総子(ピッカリ・ビーと同じ)
 ストーリーは、赤ん坊の頃に太平洋上で行方不明になった息吹タケルが、とある火山島での怪獣発見と、その頭に人間が乗っていた!という、センセーショナルなニュースから日本にいる家族に発見されることから始まる・・
 まあ、手っ取り早くいえば「ターザン」ですわな(^.^)
 でもって、この火山島(怪獣島?)での彼ら(人間+恐竜)の生活と、何とかして息子を日本へつれて帰りたいと願う家族に、こともあろうに宇宙からの侵略者が絡むから、さあ大変!ってな物語・・(って、これじゃ余計にわからんがな・・)
 ラストは、確か、恐竜ネッシーと別れるのが嫌なタケルが火山島に残り、家族は未練ながらも日本へ・・って事だったと思うんですが・・
 これは漫画のほうのエンディングだったかなぁ・・
 ビデオ無いので自信なしです。
 放映はフジテレビで昭和42年10月2日から翌43年3月25日までの1年間です(しかし、レーザー銃や電子ビーム砲相手に、木のブーメラン一つで相手をして、それで勝ってしまうってのは、いくらなんでも無茶苦茶な・・って、そう思いませんかぁ?^_^;)

SESAMIさん(女性) 1998.12.18 … 福井英一について

60年代通信さま
 久しぶりにお便りします。
 毎日、必ず寄らせていただいてます。
 私の拙いホームページにも寄って下さりありがとうございました。
 さて、稲葉小僧さんのご質問にあった福井英一についてですが、図書館から主人が借りてきた「ニッポン漫画家名鑑」に少し載っていましたので書いてみます。
 ご参考になれば。(でも稲葉小僧さんもこの程度の情報なら知ってるだろうな)
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福井英一(1921〜1954)
 郁文館中学卒業後、日本映画社、新日本映画社を経て、昭和24年ごろより漫画家として活躍を始める。
 「漫画少年」(学童社)の人気マンガ「バットくん」の井上一雄の急死により、そのピンチヒッターとしてデビューした。
 「漫画少年」の「ドンマイ君」がデビュー作である。
 昭和26年「冒険王」で「イガグリくん」が人気を得て、29年「少年画報」の「赤銅鈴之助」の第1回目を描いたところで急逝した。
 三十三歳の若さである。
 「イガグリくん」は、清水春雄、竹山のぼる、有川旭一らに描き継がれ、「赤銅鈴之助」は、武内つなよしによって大ヒット作品に育った。
 付録など、多量の頁をこなすための過労死だったという。
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 私の場合は、直接、この方のマンガを読む機会はありませんでしたが、「ドカベン」の最初、柔道編のときイガグリくんが出ていたような覚えがあります。
 水島新司氏の敬意の表れかもしれませんね。
 ところで、私もずっと気になっているテレビがあります。
 確か、「マグマ大使」の後番組ではなかったかと思われるんですが、「怪獣王子」という番組がありました。
 「なつかしのテレビ」のような特集番組でもまったく取り上げられないんですが、私は結構好きで楽しみにしていました。
 船か何かで遭難した赤ちゃんが、ロスト・ワールドみたいな島で恐竜に育てられて、兄弟恐竜の背中にのって敵と戦う話だったような。(主人公の子役が可愛かった!)
 最後はどうなったんでしょう?
 どなたかご存じでしたら教えて下さい。
 私のホームページも、試行錯誤を重ねて、当初よりは読みやすくなったかと思います。
 また、是非見に来てくださいね。
 マンガの数も少しづつ増やしています。
   セサミのお庭 http://www2.justnet.ne.jp/~eureka/
それでは、また。

KMさん(40代男性) 1998.12.18 … ウェスタンカーニバルを見た中3の夏

 初めまして。
 1967年の8月のある日、友人と夜中の1時に待ち合わせて、日劇に向かいました。
 日劇前に並んで始まるまでの間に、1冊本を読み終えてしいました。
 どういう理由だったかは覚えていませんが、スパイダースが出演できずタイガースが「モナリザの微笑」を発売した月で、丁度勢いが始まった頃でものすごい歓声でした。
 その時の出演バンドは、ブルーコメッツ、ワイルドワンズ、タイガース、バニーズ、アウトキャスト、シャープホークス&シャープファイブ、491、デビューしたばかりのジャガーズ、カーナビーツ、ゴールデンカップス、ビーバーズ、そしてデビュー前のテンプターズ等でした。
 テンプターズは新人バンドということで、「ストップ・ザ・ミュージック」とデビュー曲になった「忘れ得ぬ君」の2曲だけでした。
 でも、ショーケンはカッコよかった。
 その時の印象は、アウトキャストの「エブリーシングス・オール・ライト」がカッコよく思えました。
 そして、御大・寺内タケシ先生の「運命」を初めて聞いてぶっとんだ記憶があります。
 丁度その2,3ヶ月前にバンドを作ったばかりだったので(今思い返してみると、幼稚なもので恥ずかしい)、我々のデビューである中学の謝恩会で「忘れ得ぬ君」と「運命」を演奏しました。
 学校側との折衝には、本当に苦労しましたが、よく認めてもらえたと思います。
 ライブの迫力に初めて触れ、それ以来自分で演奏するという事に熱中し、大学を出るまでバンド活動を続けました。
 このページに出会い、30年以上前の事を思い出して書き込みました。
p.sその翌年の正月に2度目の日劇に行ったのは、黛ジュンのリサイタルでした。ここがいかにも中学生ですね。

KMさん(男性) 1998.12.16 … レナウン「イエイエ」キャンペーンの歌

前略。
 レナウン「イエイエ」キャンペーンの歌を思い出して、懐かしく思っています。
 まだティーンエイジャーだったシルヴィー・ヴァルタンが歌ったという記憶があるのですが、違いますでしょうか?
 68年頃でしょうか?
 歌の歌詞の頭程度でも覚えていたら教えてください。
 「・・・に春が来た・・・」という歌です。
 宜しくお願いします。

主宰者から 1998.12.16 … レナウンのCMソングについて

 レナウンのCMソングについて、レナウンの宣伝部でTVコマーシャルを担当されていた今井和也さんという方がお書きになった『テレビCMの青春時代』(中公新書)に、詳しく経緯が書かれていますので、簡単にまとめてみます。
 レナウンでは、1960年の春に、アメリカのテレビ映画の「カメラマン・コバック」というNET(現テレビ朝日系)で放送された番組のスポンサーとなることが決まりますが、そのCMフィルムを作る際に、当時、繊維CMの中では人気の高かった野坂昭如といずみたくの「いいタッチ、このタッチ、カシミヤタッチのカシミロン」と同じ様な企業CMソングを作ることになり、当時、レナウンの宣伝部に小林亜星の妹さんがいたことから、小林亜星にCMソングの作曲を依頼したのだそうです。
 CMソングの仕事は初めてだった小林亜星が10曲ほど作った曲の中から選ばれたのが、亜星自身が詞もつけた「ワンサカ娘」で、この曲が、MoriさんもEメールの中で言及されていたものでありまして、今井さんご自身も書かれている通り、ほとんど、レナウンの社歌のようになった曲です。
 ですから、この「ワンサカ娘」は、「60年代のCM」で紹介させていただいた 1967年の「イエイエ」キャンペーンよりも、6年ほど先行して作られたことになります。
 最初は、平尾昌章に歌わせる予定だったそうですが、ギャラが高すぎるということで、結局、一番初めに、このワンサカ娘を歌ったのは、スパイダースに入る前の、いわゆるロカビリー歌手時代のかまやつひろしでありました。
 歌詞も、最初は、「銀座並木に春が来りゃイェイェイェイェーイェ、片瀬の海に夏が来りゃイェイェイェイェイ、エイエ、志賀高原に秋が来りゃ…」といった東京ローカル的な詞だったため、「銀座」や「片瀬の海」を全国的にも通用するように、「ドライブ・ウェイ、プールサイド、テニスコート、ロープウェイ」に変えることにしたそうであります。
 この歌詞の変更は、今井さんもお書きになっている通り、日本の高度成長期のモータリゼーションやレジャーブームを先取りしていて、それもヒットする一つの要因となったようです。
 このヒットを受けて、レナウンでは、毎年、同じ曲をアレンジだけ変えて、色々な歌手に歌わせていくことになり、デューク・エイセス、ジェリー藤尾と渡辺とも子、弘田三枝子という風に、歌い継がれていくことになります。
 私の世代は、何といっても、弘田三枝子の歌唱による「ワンサカ娘」が鮮やかに記憶に残っております。
 Moriさんがお書きになっていたシルビー・バルタンのバージョンは1965年と66年に放映されており、65年に来日公演した時のCM出演料は1万ドル(360万円)だったそうです。平尾昌章の10万円のギャラが払えなかった時からは、4年しか経っていませんが、この4年間にレナウンの売上は、93億円から162億円に伸びており、社内のテレビCMに対する評価も大きく高まっていたそうです。
 この「ワンサカ娘」が伏線となって、伏線というには、あまりにもメジャーなCMでしたが…、日本CM史上に燦然と輝く、あの組み合わせニット「イエイエ」のキャンペーンCMが誕生したのでありました。

SYさん(30代男性) 1998.12.13 … 教えてください

 Yという36歳の会社員です。
 「60年代通信」楽しく拝見させていただきました。
 お願いですが、貴殿が楽しまれております、サッカーゲーム盤のメーカーを教えていただけませんでしょうか?
 息子と嫁さんとでバトルしたいと思っていますが、トイザラスのような大型店にも置いていませんでした。
 メーカーを聞いて注文したいと思っております。
 お暇でしたら、回答お願いいたします。
 これからも、楽しいホームページを期待しております。
 がんばってください。

千葉県市川市・HMさん(40代男性) 1998.12.12 … ホンダS500について

「60年代通信」御中
 市川市のMです。
 「60年代通信」が『特選街』に出られたということで、早速私も購入してみました。
 このように、みんなに認められたということは、ファンとしてとてもうれしく思っています。
 これからも頑張ってほしいと思います。(体調には、くれぐれも気をつけて、末永く続けてください。)
 ところで、恥ずかしながら(どっかで聞いたせりふです!)
 “「ぼくら」村の少年”をいつも楽しく拝見させて頂いてます。
 自分で、答えるのも何なのですが、「ホンダS500」について知っている限り書いてみたいと思います。
 「ホンダS500]の“S”は、“スポーツ”の意味で、1963年、東京モーターショーにおいて、それまで2輪メーカーであったホンダが、初めて、4輪車を発表したのです。
 それは、「ホンダS360」と「ホンダS500」でした。
 “S360”は、ついに市販されなかったのですが、“S500”は、1964年1月にめでたく販売されたのでした。この車は、その年の11月ぐらいまで生産が続けられるのですが、その後、よりパワーのある「S600」に引き継がれてしまうのでした。
 その生産台数は、約1300台ほどで、現在存在する日本においての登録数は、約20台ほどであるといわれています。
 では、なぜ、この「ホンダS500」が貴重なのかというと日本の“乗用車”ではじめて、DOHCエンジンを載せた車だからなのです。(DOHCとは、ダブル・オーバー・ヘッド・カムの訳で、それまでは、特殊なレーシングカーでしか使われておらず、欧米の車の中でも珍しかった)”というわけですが、もっと詳しく分かる方がいらっしゃいましたら、教えてください。
 私が、なぜ、貴重な写真かと思ったのか分かっていただけたでしょうか。
by hirofumi makino

稲葉小僧さん(男性) 1998.12.12 … 福井英一って漫画家、ご存知ですか?

 題名だけでわかる方は、かなりの年齢じゃないかなと思います。
 作品としては、有名な「イガグリくん」の作者といえば、わかる方も多いと思います。実は「赤胴鈴之助」の第1回目の作者でもあるんですが・・(え?イガグリくんって、清水春雄、有川旭一、小林一夫の競作じゃない?と思われた方、若いですね^_^;もともとの作者の福井さんは昭和54年に亡くなられています。上にあげた3名は、その後を継いだ作者達です)
 年代としては、完全に50年代であり、60年代通信にはそぐわない話題かと思いましたが、個人的に、どうやっても探すことができず、鈴木様に神頼み^_^;と、あいなりました。
 あまりに古い作品と作者のため、返事がくる可能性は、ほとんど無いと考えられますが、あの「手塚治虫」に嫉妬心・焦燥感すら抱かせたという偉大な漫画家が、再評価すらされないという現実を知っていただきたいとキーボードを叩いたわけです(それに、ここなら、見つかる可能性も少しはあると期待するものですから・・)
 ぼくら、まんが王、少年、冒険王、等などの月刊雑誌時代の前、貸し本漫画の時代を担った漫画家たちの再評価を、もう少しなんとかして欲しいと切実に願う、稲葉小僧でした。
ps、鈴木様、いつもいつも楽しいホームページを、ありがとうございます。毎日、拝見させていただいておりますが、見飽きることがありません。これからも、お身体には気をつけて(寒いですからねぇ)頑張ってくださいませ。

MKさん(40代男性) 1998.12.07 … ブルーコメッツの思い出

 はじめまして。
 Kと申します。
 私は昭和30年生まれで,子供の頃,ブルーコメッツの大ファンでした。
 しばし、ブルーコメッツのことなどすっかり忘れてましたが,先日テレビ放映された「驚きももの木20世紀」で懐かしさがよみがえり,関連するホームページを探索したところ,「60年代通信」に行き当たった次第です。
 ブルーコメッツに関する豊富な情報が掲載されており,大変感銘しました。
 テレビ放映された内容の多くは,既にこのホームページに書かれていましたが,それもその筈,ディレクター氏のメイルにあったように, TVの方がこのホームページを参考にされてたのですね。
 脱帽。
 子供の頃は,あまり深い理由がなく漫然とブルーコメッツが好きだったのですが,先日の番組を見て,他のグループと違って演奏技術は本当のプロだったという,彼らの素晴らしさが初めてわかったような気がします。
 元タイガースの森本太郎さんが「自分達はレコーディングの時は演奏させてもらえなかった」と言ってたのが印象的でした。
 以下は,私自身のブルーコメッツの思い出です。(支離滅裂ですが)
●子供のとき初めて買ったレコードはブルーコメッツの「草原の輝き」でした。後のアグネス・チャンの同名の曲の方が有名になりましたが。
 その後,彼らのレコードは,発売済の物も含めて,手に入るものすべてそろえましたが,最後に買ったは「海辺の石段」で,その後急速に熱が覚めてしまい,今やそのレコードはどこへ行ってしまったかわかりません。
 というわけで,手元にレコードが残っていればクイズの答えは簡単だったのですが,一応回答します(あっ,クイズの締め切りはとっくの昔でしょうか?)
 【クイズの答えはconfidentialとさせていただきます】
●当時B面だった「すみれ色の涙」は大好きでした。「こころの虹」よりも,こちらをA面にした方が絶対ヒットすると思ったものです。小田啓義さん作曲の名曲は多くありますが,結局シングルA面になったのは1曲もなかったですね。のちに岩崎宏美さんが唄って大ヒットしましたが,嬉しかったような,悔しかったような。
●「北国の二人」の「強く,強く,強く,強く,かわす,くちーずけー」の歌詞は子供心に非常に恥ずかしかったです。(今や「くちずけ」は死語ですが)
●「マリアの泉」のシングル盤ジャケットの写真で,ジャッキー吉川さんだけがそっぽ向いてたのが妙に印象的で,今でも覚えています。
 ここで,本ホームページに対するわがままな要望を。
●シングルだけでなく,LPに関する記事も是非掲載して下さい。私は「ヨーロッパのブルーコメッツ」というLPが大好きでした。シングルで発売してもヒットしたであろう名曲が惜しげもなく入っていたと記憶しています。
●彼らの近況などがわかれば,掲載していただくと嬉しいですね。井上忠夫さんはホームページも出されており,だいたいわかりますが,ほかの人は今どういった活動をされてるのでしょうか。
 最後に下記について,わかる範囲で教えていただけたら,非常に嬉しいです。
●コロムビアから発売されている「ジャッキー吉川とブルーコメッツ ベスト・セレクション」というCDを最近買ったのですが,これ以外に,現在手に入る(発売されている)CDはあるのでしょうか?
●確か,1度だけ彼らが主演で映画に出ていますね。この映画のタイトルなどわかりませんか?
 確か内藤洋子さんと共演だったような記憶があります。主題歌は「空の彼方に」でしたね。
 また,この映画で「こころの虹」の歌詞が一部当初のものと変えられていたのが,妙に記憶に残っています。
●ブルーコメッツ関連のホームページは他にご存じありませんか?
 以上,初めてなのに,長文でかつ要望・質問など大変不躾なメイルで申し訳ありませんでした。
 今後ともよろしくお願い致します。

主宰者から 1998.12.07 … 久しぶりのブルコメ関連メールをありがとうございました

 すでに、昨晩のうちに、以下のようなメールをMKさんにはお返しさせていただきました。
--------------------
 はじめまして。
 「60年代通信」をご覧いただいた上に、Eメールまで頂戴し、ありがとうございます。
 私と同じ昭和30年生まれでいらっしゃるそうで、同年代の方からのEメールに、喜んでおります。
 ブルコメのファンでいらっしゃったということで、色々と書かせていただきたいのですが、ちょうど、ホームページのデータ更新を行った際に、メールを頂いていることを確認し、もう午前2時を回って、体力の限界と睡魔に襲われているところですので、今回は、メールの質問にお答えするだけにさせていただきます。
> ●コロムビアから発売されている「ジャッキー吉川とブルーコメッツ
> ベスト・セレクション」というCDを最近買ったのですが,これ以外に,
> 現在手に入る(発売されている)CDはあるのでしょうか?
 5年ほど前だったと思いますが、コロンビアから、4枚のCDが発売されました。
 「ブルー・コメッツ/オリジナル・ヒット第1・2集」、「ブルーコメッツ/インヨーロッパ・インアメリカ」、「ブルーコメッツ/ライヴ&モア」、「ブルーコメッツ/シングルズ」の4タイトルです。
 私は、もちろん、全部購入しましたが、基本的には、LPレコード2枚分くらいの曲が1枚のCDに収められ、値段も2300円ですので、お買い得です。
> ●確か,1度だけ彼らが主演で映画に出ていますね。この映画のタイト
> ルなどわかりませんか? 確か内藤洋子さんと共演だったような記憶が
> あります。主題歌は「空の彼方に」でしたね。また,この映画で「ここ
> ろの虹」の歌詞が一部当初のものと変えられていたのが,妙に記憶に残
> っています。
 おっしゃる通り、内藤洋子が主演で、「年ごろ」という映画です。
 こちらも、私はビデオを購入しましたが、大きなレンタルビデオ屋さんなら、多分、置いてあると思います。
> ●ブルーコメッツ関連のホームページは他にご存じありませんか?
 私が知る限りでは、ブルコメだけに特化したホームページというのは無いと思います。
 私が、この「60年代通信」というホームページを始めたキッカケの一つは、テレビなどの「60年代」ものが、いつも中途半端で、消化不良だったことが理由としてありますし、ホームページでも、ブルコメをはじめ、「60年代」を徹底的に追求するようなページがなかったことが最大の理由となりました。
 井上大輔さんのホームページがあるのは知りませんでしたので、早速、明日にでもアクセスしてみようと思います。
 ということで、簡単ですが、取り急ぎ、お返事のメールということにさせていただきます。
 まだまだ、お伝えしたいことがありますので、また、改めて、メールを送らせていただきます。
 それから、頂いたメールは、早速、「読者の皆様からの励ましのお便りコーナー」や「60年代の謎・なぞ・ナゾ」のコーナーで紹介させていただきますので、よろしくお願いいたします。
 どうも、ありがとうございました。
--------------------
 というEメールをお返しした後、昨日の早明戦観戦が災いしたのか、どうやら風邪をひいたらしく、一気に体調が悪化して、発熱してしまい、今日(12月7日)は、結局、会社を休ませてもらいました。
 本来であれば、このメールも、即、「60年代の謎・なぞ・ナゾ」のコーナーでも紹介させていただきたいところですが、まだ、体調が万全ではありませんので、取り敢えず、この「お便りコーナー」で紹介させていただくにとどめさせていただきます。

はすぴーさん(30代男性) 1998.12.01 … はじめまして

 はじめまして。
 昭和33年生まれの「はすぴー」といいます。
 ハンドルネームはかわいいのですが、おっさんです。
 またまた偶然にこのHPを見つけました。
 実は私の拙いHPも「懐かしもの」に企画を置いていまして、「60年代通信」を見つけた時はうれしくなってしまいました。
 いやー、上には上があって、よくもここまで、、、、と自分のHPが情けなくなってしまいましたよ。すごいなぁ、、、
 お暇でしたら、私の方にも遊びにきてくださいませ。
 そしてもし「このHPとなら、リンクしてもいいかな?」と思っていただけるようであれば、ぜひ相互リンクさせてください。
 また、ちょくちょく遊びにきますので、今後ともよろしくお願いいたします。
  『はすぴー倶楽部』
  http://home3.highway.ne.jp/hasu

稲葉小僧さん(男性) 1998.11.29 … 「アニメの昭和史」、私の感想です

 うー、私も、あの番組については言いたいことがあったんですが、よろしいでしょうか?
 あくまで、マニア(自他ともに認める)の一意見として聞き流していただければ結構なんですけれど・・
 まず、最後に出ました鉄腕アトムについてです。
 私、このLDボックス持っています(20万以上したなぁ・・)
 今、じっくりと見なおしても、すばらしい作品であると思います。
 「止め絵」の多用や口パク、遠景での台詞回しなど、フルアニメーションを作っている「職人」からは子供だましにすぎないと言われようが何しようが(実は、撮影機材もロクな物が無かったそうですよ、あの頃の虫プロには)、あれだけの低予算で、毎週30分(正確には24分少々です)の連続アニメを作るなんてのは、映画で、ぬるま湯体制(予算は高額、公開時期は延ばせる)にどっぷりと浸かっていたアニメ映画監督達には想像もつかなかったんでしょう(止め絵や口パク、遠景での台詞回しなんてのは今でも使われている手法ですね)・・
 所詮、後から批判するのは易しいのであって、あの否定的な言葉は先駆者に対する「やっかみ半分、嫉妬半分」ととられても仕方の無いところでしょう・・
 次、白蛇伝等のフルアニメについてですが・・
 私、個人的にフルアニメについては「気持ち悪い」と思っています(年代的なものなんでしょうか?これは)
 ディズニーアニメを否定する気持ちは、これっぽっちもありませんが、フライシャーや他のフルアニメを見ると(例えばアニメ版スーパーマン・・古いなぁ^_^;)、無理やりフルアニメで動かしているような気がします。
 実写とアニメーションを無理やり一緒にしようとしても、根本的に違う物だということが、彼らには理解できないんじゃないかなぁ・・
 それにくらべて、リミテッドアニメ(例えば、チキチキマシーン猛レース^_^;)には、なんとも言えない面白さ(空想できる余地、とでもいいましょうか)、空白の妙とでもいうべきものが感じられます。
 歌舞伎だとか何だとか日本的な物に無理やり結びつけようとしていたようですが、これは日本だけじゃなく世界的に通用する感覚だと思うんですけどね(リミテッドアニメが、いわゆる「ジャパニメーション」を作った元々の基礎なんですよ。フルアニメだけじゃ、日本のアニメは世界に受け入れられるものには成り得なかったと思っています)
 ちなみに、フルアニメーションの手法で作られた作品には、白黒ですが戦争中に作られた「桃太郎 海の神兵」なんてのもありますよ(技術的には、東映動画の作品と、ほとんど変わらない[そりゃ、年代的に無理な技術もあるけれど]ものになってます。ただ、完全に戦争賛美、国威発揚映画なので、アニメ映画史からは抹殺された作品ではありますが・・)
 ま、一人のアニメマニアのタワゴトとでも思っていただいて結構ですが、あまりに「映画が主」という番組の作り方に疑問を抱いた一人の意見として書かせていただきました。
稲葉小僧

主宰者から 1998.11.29 … 原体験とも言うべき「東映動画」と「ディズニー・アニメ」

 稲葉小僧さんがお書きになっていた「フルアニメは気持ち悪い」というのは、何となく分かるような気もしますし、確かに、私も、何度か、ディズニーアニメの製作工程を本などで見たことがありますが、「バンビ」にしても、「白雪姫」にしても、特に、初期の作品がそうだったようですが、例えば、ホンモノの鹿を360度さまざまな角度から、複数のアニメーターがデッサンを繰り返して、一枚一枚のセルをどういう風に繋げていけば、よりリアルな動きを表現できるか、あるいは、実際に、白雪姫のコスチュームを着たモデルについても、同じ様な作業を繰り返していることを知り、そこまでやるんだったら、初めから実写版で撮ればいいのに、と思ったりもしたものでありました。
 ディズニーについては、子供の頃に講談社のディズニーシリーズの絵本で刷り込まれた「これぞアメリカ文化」というような強烈なイメージが、それが、私にとっての原体験となっておりまして、そのディズニーへの憧れというのは、大人になった今も、私の中に、抜き難く存在しております。
 初めて、アナハイムのディズニーランドに行った時には、正面ゲートのすぐ脇に、アメリカの民主主義の歴史を辿る記念館のようなものがあり、そこで、ディズニーの底流に、その是非の議論はあるかもしれませんが、「自由・博愛・平等」という思想があることを知り、ディズニーアニメを再認識させられたような経緯もありまして、私にとっては、ほとんど、手塚治虫や赤塚不二夫と同様に、絶対的な存在となっておりますので、ディズニーについては、盲目的な部分もあるかもしれませんので、今後も、何かありましたら、折りに触れ、色々と、ご意見をお聞かせいただければと思います。
 同様に、あの昭和30年代、まだ、家にテレビもなかった頃、映画館で見た東映動画の感動も、やはり、絶対的なものとして、私には、忘れられないものとなっております。
 何れ、「60年代通信」でも、「60年代のマンガ」ではなく、「60年代の映画」で取り上げさせていただこうと思っておりますので、また、その時にでも、稲葉小僧さんから、また、Eメールを頂戴できればと思っていますので、また、よろしくお願いします。

千葉県市川市・HMさん(40代男性) 1998.11.26 … 「アニメの昭和史」を見て

「60年代通信」御中
 市川のHMです。
 この「60年代通信」の意向に合うかどうか迷ったのですが、11月25〜26日にかけてNHK教育テレビで放送された「アニメーションの昭和史」にとても感銘を受けましたので、ぜひこのホームページを見ているファンの皆様の意見を聞きたくメール投函させていただきました。
 この「アニメーションの昭和史」は、戦前の動画から“宇宙戦艦大和”までのアニメーションの歴史を当時携わった人たちの経験談などを交えて構成されており、なかなか興味深い内容だったと思います。
 私は特に戦後“東映”が目指したアメリカのディズニーアニメーション技術の追求によって作られた「白蛇記」や「少年猿飛佐助」などの完成度の高さにとても感動しました。(少年時代゛東映漫画祭り”などで、「少年猿飛佐助」や「狼少年ケン」が2本立てで放映された時はうちの父親に連れられて楽しく見た記憶があり、今でもその時にもらった“シール”は大切に持っております。)
 また、その後手塚治虫のテレビアニメ「鉄腕アトム」の製作記も興味ある話しが聞けたと思います。何せ、当時30分のアニメーションを作るのに“東映”方式の作り方をした場合半年掛かったところを手塚は、“口ぱく”などの画面省略を行うことにより“経費削減”“製作期間短縮”を実現し、後に続くテレビアニメブームを作っていったのですからたいしたものです。(東映製作者は、手塚アニメを手抜きなどと酷評していましたが・・・。)
 以上が私が感じたことですが、戦前の動画についてはあまりにも昔のことなのでただただ見ているだけでした。
 もし、この番組を見ていた方がいらっしゃいましたら感想を教えてください。
 また、主宰者の了解も得ずにこんな文章を送りました事を深くお詫びいたします。

主宰者から 1998.11.27 … 昭和30年代の東映動画は感動でした

 HMさん、Eメール、ありがとうございました。
 基本的に、メール投函などは、ご覧いただいている皆様の意のままに、ご自由にいただいておりますので、「主宰者の了解も得ずにこんな文章を送りました事を深くお詫びいたします」などというお気遣いは、まったく不要ですので、どうぞ、いつでも、お好きなようにメールをお送りいただければと思います。
 私も、HMさんが感銘をお受けになったという「アニメーションの昭和史」は新聞のテレビ欄で気が付き、ビデオに撮らなければと思いながら、忙しさに紛れて、見逃してしまい、HMさんのメールを読ませていただき、大いに後悔しているところです。
 実は、私も、ディズニーのアニメが大好きで、日本語版のビデオが販売されるようになる前から、英語圏の国へ出張に出るたびに、ビデオを買い集めてきています。
 ご指摘になられていたように、昭和30年代の東映動画の作品は、非常にクォリティの高いものであり、私も、子供心に感動したのを覚えています。
 さすがに、「白蛇伝」は見た記憶がありませんが、「安寿と厨子王」や「西遊記」「シンドバッドの冒険」などは映画館で見ておりまして、その動きのなめらかさには、本当に驚いたものであります。
 これらの東映動画は、メンコの絵柄としても使われていましたので、本当に、思い出深く、懐かしいものがあります。
 どうも、ありがとうございました。

simonsさん(男性) 1998.11.25 … ありがとうございます

 先日、突然のメールをお送りした新潟大学都市計画研究室のsimonsです。
 メールにて頂いた情報を、確認させてもらいました。あいにく一度触れた文献資料のようです。
 長岡は戦災で焼けてしまった街であるため、資料が乏しいのはしょうがないのかもしれません。
追伸 今回ブックマークに60年代通信を加えさせて頂きました。更新の日を楽しみにしています。本当にありがとうございました。またメールさせていただきます。
新潟大学都市計画研究室 simons

KMさん(男性) 1998.11.25 … 大魔神

 60年代通信を楽しく拝見させていただいています。
 さて、ベイスターズファンの妻によって「ハマの大魔神」という日本酒で毎日晩酌させられていることもあり、子供のころ見たときの記憶も少しずつではありますが蘇ってきました。
 その一つは、大魔神は伸長が4.5mとされていましたが、それよりもずっと大きく見えたこと、二つ目は、頭から抜くときと、左馬之助を刺し殺すときに手の中で杭の向きが変わるのを不思議に思ったことです。つまんないことですけど・・・。
 昨年、大映系の特撮作品をCD化している映像屋さんとお話する機会がありまして、大魔神のリニューアルのほうがガメラより絶対にうけますよ、と素人考えを披露させていただいたところ「大映内にもそういう意見があったと聞いていますが、いま、あそこまで精緻なセットを作るとなるとガメラの何倍ものお金が必要になるので・・・」と教えられました。
 東宝が、大掛かりなセットが必要となるゴジラを葬り、空中戦メインで済むモスラに乗り換えたのもそういった理由があるのでしょうね。
 このページには、アマチュアが一人でこつこつと、よくもここまで、と感心させられます。
 これからもがんばってください。

祝進さん(男性) 1998.11.24 … 久美かおり、小橋玲子

 久美かおり、なつかしい名前ですね。
 私、ファンでした。「くちづけが怖い」持っています。青地をバックに彼女の横顔のアップのジャケットが目に浮かんできます。 B面の「潮風の・・・・」のほうが私は好きでした。
 小橋玲子、覚えています。小学校の遠足で東京巡りをしたときに、日比谷公園かどこかで弁当を食べているときに誰かが、たまたま遠足に来ていた彼女を見つけ、からかって怒らせてしまったことがありました。
 子供の間では有名でした。
 ヤング720に出ていたのは確かで、これを最後に引退したのではないでしょうか。
 ところで、ヤング720の今週か今月の歌の中で、高山ナツキが歌っていた「故郷よおまえは憎い奴」という歌を知っていますか。
 小橋玲子も関口宏か竹脇無我と一緒にデュエットしていたことがあります。
 60年代と一口でいっても、次から次ぎへと色々な話題が止めど無く湧き出してきて、きりがありませんね。
 だから、こだわりを捨てず、決して妥協をせず、50年代や70年代に話をひろげないほうが良いと思います。
祝 進

むむむさん(女性) 1998.11.22 … 久美かおりの新人賞の時期

 いつも楽しく読ませてもらっています。
 ところで、小橋玲子のところに久美かおりのことが出ていましたが、彼女は、ザ・タイガースの「世界はボクらを待っている」がデビューだと思っていたのですが・・・。
 少なくとも「口づけが怖い」でレコード大賞の新人賞を受賞したのは、「世界はボクらを待っている」の後だと記憶しています。
 違うかな?
from むむむ

simonsさん(男性) 1998.11.22 … 長岡の景観構成に関するデーターを集めています!

 突然のメールですみません。
 自分は新潟大学都市計画研究室に所属する大学院生です。
 現在、修士論文旧城下町都市(長岡)における街並み景観変遷の研究をしているのですが、研究に使用する写真データ(昭和初期)のものが不足しています。
 研究では、明治・大正時代の近代建築物が出てくることによる長岡の街並みとの関係の変化を「絵的な要素による隣との関係(屋根・軒下・開口部・ボリュームなど)(連辞的意味)」で明らかにすることを主旨としています。
 言い換えれば、近代建築がでてきたことによる当時の人々が感じていたであろう景観の急激な変化(景観的な絵的な変化)を捉えることが、研究の主旨です。
〈お願い〉
 研究対象地である、昭和初期の大手通りと表町通りの街並みの写真(建築物の詳細が把握できるもの)などがありましたらご一報ください。まことに勝手ながら、宜しくお願いします。

SESAMIさん(女性) 1998.11.19 … はじめまして

 いつも懐かしく拝見させていただいてます。
 私は1960年生まれの主婦です。
 実家が名古屋なので、青柳ういろうや大須ういろうのCMもしっかり聞いて育ちました。
 今、65〜70年頃の少女マンガのホームページをつくっています。
 まだまだパソコン初心者なので、「60年代通信」には遠く及びませんが、自分なりに思い入れのあるものばかり選びました。
 もし、お時間がありましたらのぞいていただけると幸いです。
 よろしくお願いします。
   セサミのお庭 http://www2.justnet.ne.jp/~eureka/
セサミ

神奈川県横浜市・KHさん(20代女性) 1998.11.14 … あらためて「60年代」について

 しかし、あらためて「60年代」というくくりはすごいですね。
 この激動の10年間に起こった事象を取り上げていくのは、大変な作業ですよね。
 ロンドンで「60年代」をテーマにした展示を見たことがありますが、あらゆることがありすぎて、音楽はこんな、ファッションはこんな、といったただの羅列になっていましたが、「60年代通信」の場合、かなり主観的な愛情により、各資料が選択され、解説されているのが、逆に、主宰者の気持ちが見えておもしろいです。
〈市川のMさまへ〉
 気軽に書いた質問に対し、お答えというより丁寧な解説をしていただき誠にありがとうございました。
 お礼が遅くなって申しわけありません。
 なぜ、あの車がジャガーのEタイプかわかったかというと、先日パシフィコ横浜で開催されたブリティッシュモーターショウでジャガーの車を見たこと、先ごろまで上映されていた「アベンジャーズ」という映画を見たからです。
 この映画は60年代のイギリスのテレビシリーズ(日本でも「おしゃれ梺T偵」というタイトルで放映されていた)リメイク版。
 ジャガーがミニに追われるシーンが印象的でした。それがジャガーのEタイプだったのです。
 ブルーコメッツの番組で、レコードジャケットでメンバーの方々がジャガーとともにポーズを取っているのには驚きました。
 やはり、ジャガーのEタイプ(シリーズ1ですか?)は、60年代の象徴という感じがします。
 また、富士で行なわれた66年の日本グランプリに出たとは知りませんでした。
 私は60年代生まれとはいえ、60年代カルチャーを現体験していませんが、ポップカルチャーが花開いた60年代という時代に興味を持っています。
 これからも、主宰者とともに、60年代の体験情報をいろいろ教えてください。 

神奈川県葉山町・祝進さん(40代男性) 1998.11.11 … ディズニーランド

 ディズニーランドの4つの国は、お伽の国、未来の国、開拓の国、冒険の国です。
 これは、まさに当時、アナハイムにできたばかりのディズニーランドの4つの国の構成と同じですから、東京ディズニーランドもこうなっているのではないでしょうか。
 この番組は、当初金曜日夜8時から9時まで、隔週で、力道山の活躍した頃のプロレスと交代で、日本テレビで放送されていました。提供は三菱電機です。
 お伽の国は漫画(決してアニメとは言わない)が多く、私は’チップ&デール’が好きでした。
 冒険の国は動物の出てくる実写物、未来の国と開拓の国はあまり材料がなかったのか、放送される割合は少なかったようです。
 開拓の国で放送されたコヨーテの家族の漫画があったのですが、庄野潤三の「夕べの雲」という小説にこのエピソードらしきものが出てきます。
 これが同じものかどうかが、私にとっての謎ですが、こればかりは庄野潤三に直接聞かなければ永遠の謎となるでしょう。

稲葉小僧さん(男性) 1998.11.10 … ファイトだ!ピュー太、および、ピッカリビー・・ 他も少し

 毎度毎度の、稲葉小僧でございます。
 さて、今回はtg様のリクエスト(になるんでしょうか?)より、ファイトだ!ピュー太と、かみなり坊やピッカリ・ビーのご紹介です。
 まず、ファイトだ!ピュー太から・・主題歌です。
    ファイト! ファイト!
    ファイトだ!ピュー太 ファイトだ!ピュー太
    山を越えれば 山がある シェイイェイイェイ
    海を渡れば 海がある シェイイェイェイ
    どこまで行っても シェイイェイ
    途中で やめない シェイイェイ
    かもめの お喋り ノンノノン
    火を吹く 岩でも ノンノノン
    黄金の雲でも ノンノノン
    だから最後はファイト ゴーゴ・ゴ・ゴー
    ファイトだ!ピュー太 ファイトだ!ピュー太
    レッツゴー!
 原作はムロタニ・ツネ象さん(怪奇漫画で有名ですね)
 で、作詞:ユニ・グループ 作曲:萩原哲晶 歌:フォア・ジェッツでした。(昭和43年4月6日から同年9月28日まで放映)
 次は、かみなり坊やピッカリ・ビーです。
    「ピッカリ・ビーちゃん」
    ピッカリ ピッカリ ピッカリ・ビー ピッカリ ピッカリ ピッカリ・ビー
    ピッカリ・ハットを ちょいと被り(ララララ)
    空に浮かんだ 変な奴
    ちっちゃい雲から ザーッと雨降らせれば
    ワンパクシックス アップップノプ
    ピンタラポンタラ ピンタラポンタラ ピンタラ逃げるなゴエモン!
    ピッカリ光線 おへそに おへそに 花が咲く
    ピンタラポンタラ ピンタラポンタラ
    ピンタラポンタラ ピンタラポンタラ
    ウーヒャ ウヒャウヒャ「まいったでござるヨー」
 これも原作はムロタニツネ象さん・・今じゃ考えられん^_^;
 作詞:ピッカリ・ビー・グループ 作曲:萩原哲晶 歌:天地総子(今じゃ代議士のセンセイだもんねぇ・・時代は変わった・・)
 昭和42年4月2日から翌43年3月30日までの放映でした。
 ちなみに、ジャイアント・ロボですが、ロボの声って「ダ」なんですね(ま、に濁点なんて結構な発音考えた人もいましたが、ダ、で正解です。だって、主題歌で歌ってるんだもの!でもって、歩く音は「マッシ、マッシ」だって・・気が抜けるような音させて歩いてるのね、GR1って^_^;)
 今回は、ここまでです。
 稲葉小僧でした。
PS、主宰者(鈴木)様、お仕事とホームページ管理で大変な事になっておられるようですね(それに加えてTV関係の資料整理まであって・・お察しします・・)くれぐれも、お身体を大切に・・主宰者様あってのホームページですから。決して無理はしないでください(お互い、あまり無理はきかなくなってきている年齢なんですから・・)

神奈川県三浦郡葉山町・YUさん(40代男性) 1998.11.09 …月刊平凡

 月刊平凡の1966年7月号の女性タレントは吉永小百合、8月号は和泉雅子ではないでしょうか。
 私、サユリストでしたので、7月号は自信があります。

神奈川県三浦郡葉山町・YUさん(40代男性) 1998.11.09 … ホームランバー

 私の記憶では、バニラ味の他にバナナ味とコーヒー味があって、バニラの包み紙の青い部分がそれぞれ黄色、茶色であった。
 あのバナナアイスクリームが食べたい!!
 まだ全部読んでいませんが、60年代というより昭和30年代に郷愁を覚える世代なので、ついメールを出してしまいました。
 昭和30年から39年までを(まさに30年代だ)東京の品川区、大井町線の下神明駅の近くで過ごしました。
 現在は神奈川県三浦郡葉山町に居住しております。昭和26年生まれの47歳です。

千葉県市川市・HMさん(40代男性) 1998.11.08 … 「青い瞳」のジャケットに写っている車は?

 市川のMです。
 横浜のKHさんからのジャッキー吉川とブルーコメッツの「青い瞳」のレコードジャケットに写っている車は何?について、私の知っている限りですがお答えしたいと思います。
 KHさんの言う通り、イギリスのジャガー・カーズ社で1961〜62年頃に作られた「ジャガーEタイプ」です。
 正式には、“シリーズ1”と呼ばれており、エンジン排気量が、3800ccで当時としては大型のエンジンを積んでいたと思います。(のちに、4200ccに排気量アップしましたが・・・。)
 「ジャガーEタイプ」は、1971年には、アメリカを意識して、5300ccのV12気筒エンジンを搭載した“シリーズ3”を発表したが、1975年には惜しまれながらも生産を中止してしまうのです。
 日本にとっての「ジャガーEタイプ」は、当時の若者にとっての“憧れの車”であり、“ステータスシンボル”であったと思います。
 1966年に開催された「第3回日本グランプリ」には、数台の「ジャガーEタイプ」が出場して、高級スポーツカーのイメージを決定ずけていました。
 この車には、“クーペ”と“ロードスター”の2種類がありこの写真の車は、“クーペ”(屋根付)のほうです。
 また、“ロードスター”とは、“オープンカー”のことです。
 「青い瞳」にこの「ジャガーEタイプ」が使われたことは、当時の憧れとステータスを追求したための結果ではないでしょうか。

Oさん(『特選街』編集ご担当) 1998.11.06 … 雑誌掲載許可のお願い

 突然、メールをお送りする失礼をお許し下さい。
 私、『特選街』という月刊誌の編集をしております大石と申します。
 実は弊誌1月号(12月3日発売予定)で、貴HP『60年代通信』 を紹介させていただきたいと考えております。
 付きましては、弊誌への掲載許可をいただければと思い、ご連絡差し上げました。
 スケジュールの都合上、申し訳ありませんが、11月14日までにご返答をいただければ幸いです。
 ご多忙のところ、誠に恐縮ではありますが、よろしくご協力をお願い申しあげます。

神奈川県横浜市・KHさん(20代女性) 1998.11.05 … 『驚きももの木20世紀/ブルコメの苦悩』を見て

 『驚きももの木20世紀/ブルーコメッツの苦悩』の感想を書かせていただきます。
 先ず、彼らがスタジオミュージシャン出身ということ知りませんでした。
 だったら、なおさら「エド・サリバンショー」で不評を浴びたからといって辞めるのではなく、もっとオリジナルな音楽を追及するバンド活動を続けて欲しかったと思います。大衆に認識される実力派のバンドとして、日本での土壌を築いて欲しかった。
 他のGSがアイドルで終わり、その後の日本には結局90年代まで作られたアイドル文化としてしかエンターテイナーが活躍できなかったのは、ここに問題があったと思うのです。自分たちで曲を作って歌うフォークやロックというジャンルは、どちらかというとアングラで、ヒットチャートにのった人だけが大衆化されていった。
 イギリスではビートルズは自作を作り演奏もするバンドで、アイドルでもあったのに、日本ではこの手の形態の音楽が根付かなかったのは60年代のGSのあり方、そして実力で売っていたバンドがブルーコメッツしかなかったという層の狭さにあったという気がしてならないのです。
 要するに欧米におけるアイドル=たいていは実力の伴うバンドや歌手に対し、日本ではアイドル=歌手という図式が、日本のGSブームが数年の流行で終わってしまったことによって、成り立ってしまったのです。
 ブルーコメッツがスタジオミュージシャンの地位向上、自作自演バンドの実力向上にもう一躍買ってくれれば良かったものを、当時の芸能界の中では単に中途半端な存在として終わってしまったように思えます。
 その後に続いていく日本のロックは、あまり陽の目を見ないまま単にマニアなものとして存在し、実力があっても売れない、食えない、続かないの三重苦から制作側に回った人、辞めた人も多いと思います。
 ブルーコメッツがしっかりと基盤を作ってくれたら、70年代には実力のあったバンドが日本でも地位を得て、その後の80年代のバンドブームや、現在のビジュアル系のバンドが出た時に、海外でも通用するレベルのものがもっとたくさん出てきたのではと思えるのです。
 結局、彼らも、GSにこだわらないように意識する分だけ、GSにこだわっていたのだと思います。
 アメリカでは、TOTO(60年代ではないですが)なんかもスタジオミュージシャンの集まりのグループで、ルックスで売って入るバンドではないですが、しっかりチャートに入る曲を出してますよね。
 そういう文化が日本にはないのですよ。
 その根源がこのGSブームの盛衰にあったのではないか、そんな風に思ってしまいました。
 それから、質問ですが、『青いナントカ』というレコードのジャケットで、メンバーの後ろに写っていた車はジャガーのEタイプですか?
 あと、美空ひばりが『真っ赤な太陽』で、ブルーコメッツをバックに歌っている場面は、やっぱりすごかったですね。





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