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読者の皆様から「60年代通信」にいただいた
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清美さま
60年代絡みのHPを見つけたのでお知らせします。
ホンダのHPの中ですが、50年代からのホンダの歴史を振り返るものです。
『レーシングな会社』ホンダの源流を1960年代に訪ねます。
写真の中の年号はその年のホンダのドラマへ、
右側の年表の赤数字はその年の時代背景へ、
マシンの写真はそれぞれのマシンの詳細への入り口です。
という紹介文に続き、年ごとにホンダの足跡が紹介され、文章の中の単語をクリックするとその解説が現われるという親切で読みやすいページです。
さらに、時代背景なども紹介され、参考文献まで明記している凝りようです。
あくまでホンダが行なってきたことが中心なのですが、特に60年代への回顧とその文化を残そうという情熱が感じられることが、清美さんのHPに通じるものがあると思いました。
アドレスは、 http://www.honda.co.jp/motorsports/spirit/index.html
ここからENTERをクリック。
または、 http://www.honda.co.jp/motorsports/spirit/index2.html
にいきなり入る。
時間がある時に覗いてみてください。
主宰者から 1999.02.11
早速、ホンダのホームページを見せていただきました。
素晴らしいです。
ぜひ、「60年代通信」からリンクをさせていただこうと思い、ホンダのホームページのトップから色々なページへ飛んで、広報のメールアドレスを探しましたが、見つかりませんでした。
仕方がないので、勝手に、ホームページの画像を紹介させていただくと同時に、KHさんから伝えていただいたURLからリンクで飛べる形にさせていただきました。
ホンダの関係者の皆様、ご理解のほど、よろしくお願い申し上げます。
もし、不都合がおありになるようでしたら、恐縮ですが、ご連絡いただければ、直ちに、対応させていただきます。
よろしくお願いします。
ということで、一応、勝手に仁義をきらせていただいた上で、このホンダのホームページについてですが、企業のPRサイトでありながら、そういうサイトにありがちな無機質のつまらなさとは無縁の、作られた方の熱い思いが伝わってくるページでありました。
KHさんが紹介されているように、「年ごとにホンダの足跡が紹介され、文章の中の単語をクリックするとその解説が現われるという親切で読みやすいページ」であり、「60年代への回顧とその文化を残そうという情熱」がひしひしと伝わってまいります。
モーターファンならずとも、ついつい引き込まれてしまうページでした。
皆様も、是非、ご覧になってはいかがでしょうか。
KHさん、どうも、ありがとうございました。
テツオ君(40代男性)
1999.02.11 … 馬場さん特集+ゴロンボ波止場
ジャイアント馬場追悼特別企画、拝見しました。
主宰者氏らしい、スポーツ紙6紙を比較分析しながら馬場さんの人となりを紹介していくあたり、読みやすくできていて、すっきりしております。
続編では、第1回の客観的な記述よりもっとエモーショナルな、馬場さんへの(あるいは馬場さんとともに自分が歩んだ時代への)熱い思いなど、語ってはいかがでしょうか。
話はそれますが、「6紙」とは画面から推測するにスポ日・日刊・サンスポ・デイリー・トウチュウ・報知のことのようですが、この日の「東スポ」の一面はどうだったのか、セオリーどおり馬場さん死去の報道をはずして人面犬だか何だか、全然違うネタをもってきたのでしょうか。みてみたかった気がします。
小生も長岡生まれの長岡育ちであるため、近隣の三条市が生んだ世界の巨人は小生にとって最も馴染み深いヒーローでありました。当時の新潟県出身のビッグヒーローというと、田中角栄とか、三波春雄とか、年頃(?)の青少年にとっては決してイメージのよくない、できれば他人に知られたくない人ばっかりでありまして、ついでにいえば日本医師会の武見太郎とか。
新潟県以外の人と会ったときには自分から出身地をいわない習慣がいつのまにか身についておりました。(今ではどの人も快く振り返られるほどに、小生も人間が熟してまいりました。)
そんな、年頃の小生にとってはうれしくもないヒーローたちばかりの中にあって、馬場さんは比較的恥ずかしさが薄いヒーローでした。
ただ、胸をはって誇らしげに言いふらしたくなるほどではなく、「新潟県? ああ、あのきたねえ政治家の角栄の新潟三区か」と人にいわれるよりは、「新潟県? ああ、ポアーッの馬場の新潟県ね」といわれるほうがまだましだったということです。
亡くなったばかりの人についての話題ですので、表現には気をつけなければなりませんが、はっきりいって力道山の後のプロレスラーの最大のヒーローは、アントニオ猪木でした。かっこよさから、まるで比ではなかった。それなのに「格」としてはまず第一が馬場であるという、大人のルールが既にできあがっていて、そういった「大人の側」からのルールの押しつけみたいなものを、2人のバックに感じ取った(勝手に感じ取ったのですが)私は、大人のルール自体へのイメージを馬場という存在そのものにダブらせてしまい、よからぬ印象を彼に対して持ちつづけていたのです。彼のほんとうの面白さを知ろうとしなかった。
おまけに、あの風貌です。誰かが「巨人病」という知識を小生にくれました。悪印象は加速していき、プロレスごっこで馬場の真似をやっては笑い合うという扱いをするようになりました。プロレスはもともとショーですが、あまりにいんちき臭い演技をやってる馬場さんはやはり笑いの対象に位置づけ、本気っぽいファイトをする猪木がほんとのヒーローであるという認識は、当時の青少年一般のものだったのではないでしょうか。「そういったショービジネスの味も、それはそれでいい」といった大人の見方を、当時の私たちはとうてい持てなかったように思います。
亡くなった方の歴史を汚すつもりなど、さらさらありません。
しかし、ほんとうは当時どう思っていたのか、我々の間では彼がどんな扱いを受けていたのか、歪曲することなく思い起こすことのほうが、その人が我々に与えてくれたたくさんのことに対して何かを返していくことになるのではないでしょうか。
それが、「嫌いだったけどその後好きになった」ジャイアント馬場さんへの、小生のはなむけであります。
なぜか、だんだん力こぶだけ大きい文章になってしまいました。
2月6日付け主宰者発信「ゴロンボ波止場」と「だまって俺についてこい」について
「だまって俺についてこい」の歌詞を正確に知りませんが、「ゴロンボ波止場」の主題歌は、小生の記憶では植木等による,次のような歌詞の歌です。
金のないやつぁ、おれんとこへ来い!
おれもないけど、心配するな
みろよ、青いそら,白い雲
そのうちなんとか、なるだろう
「だまって俺についてこい」というフレーズはこの中にはありませんが、歌詞が一致しているなら、間違いないと思います。
したがって、主題歌をうたっていたのは植木等。藤田まことが歌っていたというのは他の番組との勘違いということはありませんか。
「ゴロンボ波止場」はなつかしい公開舞台ドラマです。茶川一郎という、やたら目が大きいことだけが芸になっしまう、やや哀愁のある俳優の顔が、まず第一に浮かびます。
確か、関西系の芸人に東京のお笑いさんも混ざったような番組ではなかったでしょうか。
主宰者から 1999.02.11
敢えて、馬場さんにとってはネガティブな意見をいただき、その真摯な姿勢に、友人ながら、敬意を表したいと思います。
たしかに、あの頃、例えば、長岡駅前の厚生会館で見たプロレスの試合では、前座として、小人(こどもではなく、コビトです。差別用語だと思いますが、当時は、そういう言い方をしていましたので、当時の時代背景を知る意味合いも含め、お許し下さい)レスラーによるバトル・ロイヤルなども行われており、馬場さんは、その対極に位置するキワモノ・レスラーとしての見られ方が全くなかったと言えば、やはり、それは事実と反することになってしまうと思います。
また、アントニオ猪木さんとの対比でも、テツオ君が指摘するような見方は、一時期、私もしておりましたし、それも、また、事実の一側面であります。
しかし、今に思えば、馬場さんのポジショニングは、そういうこととは全く別の次元にあったわけですし、『サンデー毎日』でターザン山本さんが指摘されていたように、特に、50代に入ってからの馬場さんの人間的魅力というのは、他のレスラーとの対比における意味合いだけではなく、「60年代」的価値観が急速に失われて来た時代の中で異彩を放ち、馬場さんの存在自体が貴重なものであるというようなことは、多くの人が感じていたはずですし、それこそが、馬場さんの根強い人気の源だったのだろうと、私は考えています。
それから、2月2日の『東京スポーツ』は、当日、仕事が忙しかったこともあり、入手しておりません。
どなたか、当日の『東京スポーツ』の1面ネタをご存知の方がいらっしゃいましたら、ご教示下さいますようお願いいたします。
私は、アントニオ猪木さんが特別手記が掲載された2月6日の『東京スポーツ』は確保してありまして、馬場さんの追悼企画の続編の中で、その内容を紹介させていただこうと思っています。
「ゴロンボ波止場」につきましては、その主題歌を藤田まことが歌っていたという私の記憶が、だんだん怪しいものになってきておりまして、何れ、きちんと事実関係を突きとめて、報告させていただきます。
「宇宙少年ソラン」や「鉄腕アトム」など、少年少女合唱団のフレーズがあるもの、ほとんどが「上高田少年少女合唱団」となっています。
確かに、私の手元にあります『名盤復刻!朝日ソノラマ・テレビ漫画全集』(日本コロンビア)という3枚組みのLPの1枚目だけを取り出してみても、ご指摘の「アトム」や「ソラン」だけでなく、「ビッグX」「スーパー・ジェッター」「宇宙パトロール・ホッパ」などの主題歌も「上高田少年合唱団」とクレジットされています。
ところで、本来、この「お便りコーナー」ではなく、別のコーナーで取り上げさせていただかなければならない話題なのだろうとは思いますが、「西六郷少年合唱団」については、1960年代から、その名前に親しんできた世代として、ちょっと気になるニュースが、最近の新聞で伝えられていました。
また、お便りします。
色々と、混乱を招いてしまっているようで、申し訳ありません。
いきなりのメールで、大変失礼いたします。
お問い合わせの件ですが、「映画、音楽など芸術的な面」というのが、どの程度の範囲までおっしゃられているのか判然としませんけれども、取り敢えず、私の手元にある資料で分かる範囲で、お伝えしようと思います。
KIYOMIさん、調子に乗ってまた書いています。
確かに、「月光仮面」「七色仮面」「ナショナルキッド」「ハリマオ」などの頃って、女の子は何を見ていたんでしょうか。
前略
今回のジャイアント馬場さんの追悼企画ページは、いつにも増して、画像の出来が悪く、皆様には、誠に申し訳なく思っています。
MK様のリクエストにあるものと、それに加えて、戦え!オスパーもご紹介します。
オスパーの主題歌は、ずっと、望月浩が歌っていたものと思っていましたが、山田太郎や河原タケシ(清原タケシの誤りではないかという気もしますが…)というような名前も出てきているようであります。
KIYOMIさん、益々、面白くなってきて、自分の掲示板どころではなくなってきました。
クイズの続をします。
ということで、昨日に続き、「60年代の紅白歌合戦」の「1962年&63年のWho's
who?クイズ」にご回答いただき、今回も全問正解でありました。
とんま天狗の主題歌です。
久しぶりの稲葉小僧さんの登場であります。
初めてメールを差し上げます。
「驚きももの木」のHP詳報版につきましては、この週末は、ジャイアント馬場さんの追悼特別企画に時間をとられてしまいそうですので、次の週末以降に持ち越しということになりそうですので、よろしくお願いします。
MDさん、ミキって柳美樹とかいうんじゃなかったですか。
祝さん、毎度、貴重なお話をありがとうございます。
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ということで、祝進さんが指摘されていた通り、大橋巨泉、星加ルミ子、木崎義二などが出演していたという番組は、写真で見る限り、非常にリラックスした雰囲気が伝わってきております。
A・XXXX B・XXXX C・XXXX D・XXXX E・XXXX F・XXXX
ということで、レイカ雅さんからのEメールは、冒頭に「60年代の紅白歌合戦」の「1960年&1961年
Who's who?クイズ」への回答が書かれておりまして、全問正解でした。この「紅白歌合戦」の「Who's
who?クイズ」には、この「お便りコーナー」の常連でいらっしゃる祝進さんからも回答を頂いておりまして、祝さんは、既掲載分の1960年〜1967年までの48人について、全問正解されております。
はじめまして。
「光速エスパー」は、私も、リアルタイムで見ておりました。
鈴木さんへ。
鈴木さん、御返事遅くなってごめんなさい。
ということで、NHさんからのEメールは、私のワガママなお願いにお応えいただいたものです。
KIYOMIさん、ご無沙汰しています。
ということで、Mさん、お疲れのところ、大部のEメールを頂戴し、誠にありがとうございました。
市川のMです。
日本テレビが7日にジャイアント馬場さんの追悼番組を放送する予定だということはスポーツ新聞で読みましたが、時間が2時からというのは、初めて知りました。
また、お便りいたします。
ということで、HFさんは、私が改めて申し上げるまでもなく、テレビ黎明期のドラマについては、もう、ほとんど、生き字引のような方でいらっしゃるようで、私などは、ただただ、呆然と読ませていただくのみであります。
市川のMです。
過分な評価のお言葉をいただき、こそばゆい限りで、恐縮しております。
またまた、お便りいたします。
Kiyomi san
いやー、ということで、「60年代通信」始まって以来、初めて、外国の方から英文のEメールを頂戴しまして、感激しております。
ビートポップスに関して、HMさんの勘違いを指摘させていただきます。
すみません、私の怠慢で、皆さんを混乱させてしまいました。
鈴木さんへ。
60年代通信御中
ジャイアント馬場さんが亡くなられたことは、夜の10時ちょっと前に頂いたHMさんからのメールで始めて知り、慌てて、テレビのスイッチを入れ、さきほど、日本テレビのスポーツニュースで詳しい報道を見ることができました。
アナウンサーの仕事が何をさすのかよくわかりませんが、私が黒柳徹子を知ったのは「はてなのお姉さん」としてでした。
先日も書かせていただきましたが、1955(昭和30)年生まれの私の場合、黒柳徹子さんとの出会いは、「おかあさんといっしょ」の中でやっていた「ブーフーウー」ですが、ウーの声を黒柳さんがやっていたと知ったのは、もちろん後年のことでありまして、リアルタイムで黒柳さんを認識して見た最初の番組というのは、「魔法のじゅうたん」でありました。
MKさん(男性)
1999.02.10 … 上高田少年少女合唱団
私の住まいが、東京都中野区上高田なのですが、関係があるのでしょうか?
主宰者から
1999.02.10 … 西六郷少年少女合唱団
寡聞にして、その名称の由来は正確には知りませんが、というか、どこかで、読んだような気もしておりまして、多分、泉麻人さんの著書だったような気もしておりますけれども、恐らく、MKさんがお住まいの中野区上高田に由来するものではないかと思います。
僕らの世代にとっては、以前も、どこかで書かせていただきましたが、「上高田少年合唱団」と「西六郷少年合唱団」というのは、ほとんど、ヘンゼルとグレーテル、あるいは、安寿と厨子王、ジュンとネネ、ヒデ&ロザンナ、K&ブルンネン、ヘドバとダビデ…、と段々訳が分からなくなってきておりますが、要するに、一対の組み合わせとして、しっかりとインプットされております。
同じレコードを見ると、「鉄人28号」の「進め正太郎」、「狼少年ケン」、「風のフジ丸」の「たたかう少年忍者」、「ハッスルパンチ」などで「西六郷少年合唱団」がクレジットされています。
この「西六郷少年合唱団」の場合、東京都大田区西六郷という地名がその名称の由来となっておりますので、「上高田少年合唱団」も、同様に、中野区上高田という地名に由来している可能性が大きいのではないかと思われます。
どなたか、この辺りの事情をご存知の方がいらっしゃいましたら、ご教示いただけませんでしょうか。

先月(1999年1月)28日付けの『朝日新聞』朝刊の社会面(東京版35面・14版)トップに、「指揮棒、燃え尽きるまで/がん闘病の鎌田先生/5月『最後の舞台』/『西六郷少年少女合唱団』/『近く退院、ひと勝負』」という見出しの記事が掲載されています。
それによりますと、「西六郷少年少女合唱団」は、鎌田典三郎さん(70)が大田区立西六郷小学校に赴任して5年目の1955年に、初来日したウィーン少年合唱団の歌声を聞き、「西六郷の子どもだってできるはず」と、約30人の児童を集めて作ったものだそうで、以来44年にわたり一人で運営・指揮を続けてきたということです。1955年に誕生し、今年44歳となる私は、「西六郷少年少女合唱団」と同い年になるわけであります。
その「西六郷少年合唱団」は、毎年、演奏会を続けてきており、今年も5月に東京・芝の郵便貯金ホールで定期演奏会が予定されていますが、闘病生活を続けている鎌田先生は、既に、活動を終える気持ちを固めていらっしゃるため、演奏会も実質的に最後ということになるそうです。
「西六郷少年少女合唱団」の“素朴で楽しさあるれる歌声はNHK「みんなのうた」などで全国的に受け入れられ”たと、この朝日新聞の記事にも書いてありますが、私達の世代は、テレビアニメの主題歌よりも先に、「おお牧場はみどり」とか「線路は続くよどこまでも」などが歌われていた頃の初期の「みんなのうた」の放送を通じて、「西六郷少年少女合唱団」の名前を覚えたものでありました。
「西六郷少年少女合唱団」も、また、私たちの世代にとっては、やはり、紛れもなく「60年代」そのものであり、「最後はすべてを発散して終わる」と決意を語っていらっしゃる創設者・鎌田先生のお気持ちを思うと、胸に込み上げるものを感じて、言葉を失ってしまいます。
「60年代」への強い思い込みを持つ者として、ただただ、5月の演奏会の成功をお祈り申し上げるのみであります。
HFさん(男性)
1999.02.09 … 戦え!オスパー & ゴロンボ波止場 &好き!好き!魔女先生
まず、「戦え!オスパー」の主題歌についてですが、歌っていたのが”山田太郎”以外にいたというのは初耳です。
これは、相当見ていましたが、他の人の歌う主題歌は聞いたことはありませんでしたので。
他のバージョンがあったとしても、山田太郎のバージョンが主だったのではないでしょうか?
次に「ゴロンボ波止場」についてですが、これは見たような記憶はあるんですが、内容が思い出せません。
ですから、藤田まことが歌っていたかどうかはわかりません。
通常、クレージー・キャッツの歌を藤田まことが歌うというのは考えにくいんです。
ただ、これと前後して「俺の番だ」という番組がありました。クレージー・キャッツのハナ肇、植木等、谷啓と藤田まことの四人が、交代で主役を務め、数話完結物でした。
このとき、主題歌は、主役を務めた人が歌っていました。つまり、同じ曲で4パターンあったわけです。
それを思い出して、通常は考えにくくても、やはりそういうことがあったかもしれませんね。
最後に、「好き!好き!魔女先生」は、主人公の月ひかるを演じた菊容子という女優さんがかわいいので、ついつい見てしまいました(もうこの年代になると、そういうこでしか反応しない年になっていたのですね)。
たしか、主人公は学校の先生なのですが、その正体はある星から派遣された平和監視員という設定でした。
シリーズの前半は、コメットさん風のほのぼのとしたものでしたが、後半は、がらりと変わって、変身物へと路線を変更してしまいました。石ノ森章太郎の原作がそうなっていたのか、局の都合によるものかわかりませんが…(そういえば、あの時期、変身物がはやっていました)。
そして、この番組が終了して数年後、彼女を襲ったある不幸な出来事のため落命したという新聞記事を読み、驚いたことを覚えています。
また、この番組が再放送されない理由の一端は、この出来事にあるらしいというのも残念なことです。(LD,ビデオは出ているようです)
では、本日は失礼いたします。
主宰者から
1999.02.09 … 戦え!オスパー & ゴロンボ波止場 & 俺の番だ
「戦え!オスパー」の主題歌については、問題が早急に解決されるよう、継続して調査したいと思います。
皆様も、何か、情報をお持ちでしたら、是非、ご教示いただければと思います。
「ゴロンボ波止場」は、情報を追加させていただきますと、基本的に上方コメディでありまして、あの「オク目」の岡八郎(でしたっけ?)が出ていたことだけは、明確に覚えています。人見明さんなんかもでていたような…。こちらも、引き続き、調べてみます。
「俺の番だ」も私の好きな番組でよく見ていましたが、私の記憶の中では、すでに、主人公は、植木等と藤田まことしか残っておりませんでした。あるいは、この辺りの記憶の薄れ方が、「ゴロンボ波止場」についての勘違いを引き起している、というような可能性は十分にあるような気もしてきています。
「俺の番だ」の主題歌は、
お前の番だと 声かけられて
どひゃっとする奴ァ 女の子
どうせ 男と生まれて来たからにゃ
待ってましたと出かけよう
というような感じだったですよね。
ちなみに、「ゴロンボ波止場」の主題歌は、
銭の無い奴ァ 俺んとこへ来い
俺も無いけど 心配するな
見ろよ 青い空 白い雲
そのうち 何とか なるだろう
というような、とんでもない歌詞でありまして、私のその後の人生は、この歌によって運命づけられたような気さえしております。
ATさん(女性)
1999.02.09 … 教えてください
実は、仕事の関係で、お客様が「今年は60’sだ」とおっしゃっていて、確かにファッションはそうなのですが、映画、音楽など芸術的な面で、60’sリバイバルはやってきているのでしょうか?
もし、お分かりになれば、教えていただけると大変ありがたいのですが・・・
よろしくおとりはからいくださいませ。
主宰者から
1999.02.09 … 60'sリバイバルについて
まず、昨年12月12日『朝日新聞』夕刊の「ウィークエンド経済」で「ヒットは
60年代に学べ」という特集記事があり、この記事の中では、「ミゼット、ウクレレ、イエイエガール、人生ゲーム、駄菓子屋…」などがリバイバルされていることにスポット当てられていました。
高田さんのおっしゃる「映画、音楽など芸術的な面」ということに絞ると、昨年の夏に公開されて話題を呼んだインド映画「ムトゥ踊るマハラジャ」が取り上げられています。
以下に、該当部分を引用します。
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今年夏公開されたインド映画「ムトゥ 踊るマハラジャ」。東京・渋谷の映画館1カ所だけで、観客動員12万人を数え、単館上映としては市場4位の記録となった。
ストーリーは単純明快。調子のいい正義の味方が美女と恋して、悪いやつらをやっつける。それを過剰なまでの演出で盛り上げる、徹底した娯楽作品だ。
配給会社のザナドゥー(東京)の市川篤社長は「インドの現状は、ちょうど高度成長が始まった時代の日本に似ている。現実にはまだ貧しいけれど、社会には夢がある。中高年の人が見て、そこに懐かしさを感じるのかもしれない」と話す。観客からは「60年代にヒットした植木等の『無責任シリーズ』に似ている」という感想が多い。
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それから、音楽ということでは、同じ朝日新聞の記事の中で、ウクレレ・ブームが取り上げられていますので、こちらも、引用させていただきます。
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泥臭さは、温かさとも言い換えられる。東京・有楽町の「山野楽器 有楽町店」。午後7時からのウクレレ教室は若い女性から中高年まで、20人ほどの生徒で満席だ。
店を訪れる客に「開講して欲しい講座」を聞くとウクレレが圧倒的な人気だったため、今年4月から始めた。受講生の50代の女性は「どこか心なごむところが気に入って…」と、千葉から一時間以上かけて通ってくる。
初心者にもすぐ弾け、最近の電子音楽にはない音色が人気の理由らしい。30年ぶりのブームに対応し、ヤマハは6月、ウクレレの販売を再開した。80年代には大きく落ち込んだアコースティックギター全体の売り上げも、エレキギターに方を並べる水準にまで回復している。
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それと、もう一つ、音楽ということでは、60年代に、夥しい数のアメリカン・ポップスの翻訳をされた漣健児さんの作品ばかりを集めたCDが複数のレコード会社から共同企画で販売されたり、その頃の音楽雑誌の復刻版や楽譜集などが販売され、話題になっています。私も、色々と購入したりしております。
これについても、昨年12月21日の『朝日新聞』夕刊に「60年代ポップス、一気に復刻/訳詞の達人・漣健児をたたえ」という関連記事が掲載されています。
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今年、1960年代のポップスに再び光が当てられた。平尾昌晃、弘田三枝子、森山加代子ら、パンチのきいた歌声で一世を風びしたスターたちの歌が「ルーツはシックスティーズ」の標語のもと、レコード七社からそろってCDに復刻された。その生みの親とも言える、アメリカンポップスに日本語の歌詞をつけた漣(さざなみ)健児の功績をたたえようという企画でもあった。
音楽雑誌「ミュージック・ライフ」の編集長だった草野昌一が、最初に手掛けた訳詞が坂本九のデビュー曲「ステキなタイミング」。以後、「ルイジアナ・ママ」「可愛いベイビー」「子供じゃないの」「大人になりたい」など、訳詞した曲は四百を超える。ディズニーの「ミッキーマウス・マーチ」や「イッツ・ア・スモール・ワールド」も、草野、ペンネーム漣健児の翻訳だ。 「数多くのアメリカのヒットパレード情報の中から、日本人好みの歌を選ぶことがまず大変な仕事だった。幸いにヒットした歌の多くは、原曲の持つカッコよさとメロディーラインの確かさ、それに歌手たちの魅力に、私のコトバが支えられたのだと思う」 とはいえ、それまでの歌謡曲の常道だった七五調ではなく、話し言葉のポップス調の詞を生み出し、ロックのリズムにものった日本語詞を成功させた。後の日本のロック、ポップス界に与えた影響は計り知れない。
タイトルも工夫した。「ユー・ドント・ノウ」の「悲しき片想(おも)い」、「ランナウエイ」の「悲しき街角」などは苦心の作だ。 「ルーツはシックスティーズ」のCDは計七枚、百四十五曲にのぼる。その発売を祝う会には、平尾、弘田、森山のほか、伊東ゆかり、九重佑三子、飯田久彦、鈴木ヤスシらが顔をそろえ、元気いっぱいのステージを見せた。 「これらの歌のどれかが、だれかの耳に残り、次の世代につながっていけば、やりがいのあった仕事といえるでしょう」。いまはシンコー・ミュージック社長の漣は明るく笑っていた。
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私の知る限り、新聞記事などにはなっていませんが、キングから「ホッと倶楽部・キングCD文庫」というシリーズで60年代のポップスや歌謡曲などを中心にしたCDが20枚くらい発売されたり、ワーナーミュージック・ジャパンから渡辺音楽出版が版権を持っている曲ばかりを集めた“J-POP
HIT PARADE”という40枚くらいのシリーズのCDも出ていますし、テイチクは、以前、フィリップスからレコードが出ていたスパイダースやテンプターズ、ジャガーズ、カーナビーツなどの復刻CDを、やはり、シリーズで発売しています。
また、こうしたリバイバル・ブームに合わせて、新星堂なんかは、そういうCDばかりを集めてカタログをシリーズで4冊ほど作成し、店舗に置いて、販促につとめています。
ということで、とりあえず、私の知る範囲の動きを書かせていただきましたが、この辺の事情を、さらに色々とご存知の方がいらっしゃいましたら、ATさんや私のために、また、ご関心をお持ちの皆さんのために、ご教示いただければと思います。
よろしくお願いします。
米国ロサンゼルス・MDさん(女性)
1999.02.09 … お大事に(& リッキー&960ポンド)
お身体の具合はいかがですか? くれぐれもお大事になさって下さいね。
KMさん、「ワッハッハ」をご存知でしたね。
この曲はリッキー&960ポンドのデビュー曲で、亀淵さん、前野曜子さんが初代ボーカル、私は1973〜74年のボーカル(このときは3人ボーカル)で三代目でした。
二代目ボーカルの一人が、現ジャズ歌手の水町理沙です。
バンマスのリッキー中山、「別れの朝」の曜子さん、また、私と一緒にボーカルをやっていて、960ポンド解散後「アンクルリッキー&ファミリー」になったタミや、トロンボーンの人も若くして亡くなってしまいました。
ところで、「60年代通信」は、主宰者が男性であるせいか、男の子向きの番組が話題になることが多いですね。
というより、当時は「月光仮面」「七色仮面」「ナショナルキッド」「ハリマオ」など、男の子の番組が主体だったのでしょうか?
女の子は何を見ていたのでしょうかねぇ?
「ビーバーちゃん」とか「名犬ラッシー」ドラマでは「ただいま11人」をかすかに覚えているくらい。
主宰者から 1999.02.09
「名犬ラッシー」や「わんぱくフリッパー」なんかは、子供向けということで、男の子も女の子も見ていたのでしょうが。
何れにしても、あの頃は、「ちびっこ大将」にしても、「トムとジェリー」にしても、日本のものではない番組の方が、男の子も女の子見る内容のものが多かったのかもしれません。ちょっと大人向けでもありましたが、「奥様は魔女」とか…。
昭和40年代に入ると、アニメもので、「魔法使いサリー」とか「秘密のアッコちゃん」なんかも出てきますし、ドラマでも、「コメットさん」なども出てくるようになるわけですが…。
60年代の女の子たち、皆さんは、どんな番組を見ていたんですか?
KMさん(男性)
1999.02.08 … 哀悼 G馬場(&ビートポップスのお話)
いつのころからか、プロレスを見なくなりました。
それでも、G馬場さんのことだけは、常に、頭のどこかに残っていました。
きっと馬場さんや、長島さんは、死ぬということが、我々の世代の中では、考えられない人なのです。
憧れであり、夢であり、勇気であり、希望であったのです。
力道山の死から馬場・猪木時代を、分裂後もずっと応援し続けてきましたが、「私たちのプロレスは終わってしまった」というのが実感です。
昨日の追悼番組で、懐かしいレスラーとの試合が見られたのは、嬉しいのと同時に、すごいメンバーを集められたものだと感心しました。
バーン・ガニア、ブルーノ・サンマルチノ、ペドロ・モラレス、勿論、ルー・テーズ、ドリーF.ジュニア…etc。
当時の超一流レスラーが次々と来日したことを、興奮しながら見ていたのが、昨日のことのように懐かしく思い出されます。
60年代通信らしく、チョット記憶の曖昧なことを書かせていただきます。
少年マガジンで連載されていた、「チャンピオン太?」というプロレス漫画があったと思いますが、それが日本テレビか、TBSかよく覚えていませんが、力道山は勿論、G馬場、豊登、マンモス鈴木(懐かしいでしょ)、そしてアントニオ猪木が謎のレスラー役ででていたことを突然思い出しました。
確か、必殺技が漫画ではQの形を描いて高く投げあげるものだったと記憶しているですが......。
力道山が亡くなる直前だったと思うので、昭和34、5年のことだと思います。
その時の主人公に話しかけているG馬場さんの顔が、突然よみがえってきたので、書せていただきました。
それから、TBSの番組で、アントニオ猪木がコメントの中で「馬場さんに謝りたい」というようなことを言っていたのを見て、色々な経緯で別れた二人でしたが、何かホッとしました。
このような特集を組んでいただいたkiyomi様に、改めて御礼を申し上げます。
.......合掌
P.S ビートポップスのお話は、大変おもしろく拝見しています。
当時、土曜日の午後、一生懸命ミリアム・マケバの「パタパタ・ステップ」やT・ボーンズの「真っ赤な太陽」のステップを、クラスのチョット進んだ女の子に教わった記憶が蘇ってきました。(中学3年の頃)
ロサンゼルスのMDさんは、リーッキー&960ポンドにいらっしゃたそうですが、あのペドカプの前野曜子さんや、亀渕由香(亀渕昭信)さんがいたバンドですよね。
確か、「ワッハッハ」?という曲をやっていませんでしたか?
ヤング720で見たような気がします。(ヤング720?...懐かしいなあ)
小柳徹、小橋玲子、小山ルミもでていたなあ。
「レッツゴー!ヤング・ミュージック」、マリー・オリギンの「星占いコーナー」....
際限が無くなってきましたので、この辺で失礼します。
主宰者から 1999.02.08
画像は全て、原紙を直接デジタルカメラで撮ったもので、カバンに入れたまま、何度も読み返していましたので、きつく折り目がついてしまった上に、かなりシワシワになっておりました。シワシワならシワシワなりに、アイロンをかけるとか、ガラス板の下に敷いて撮影するとか、いろいろ工夫すれば良かったのでしょうが、時間もなかったため、ああいう形となりました。諸般の事情をご賢察いただければと、お願いする次第です。
さて、KMさんがプロレス・マンガに言及されたことで、私も、「ジャイアント旋風」という、文字通り、馬場さんを主人公にしたマンガがあったことも、突然、思い出しました。
「ジャイアント旋風」が掲載されていた雑誌も別宅にあったような気がしますので、後日、「60年代のマンガ」辺りで取り上げさせていただこうと思いますので、よろしくお願いします。
KMさんがお書きになっていらっしゃる「ペドカプ」って何だろうと思っていらっしゃる方もおありになるかもしれませんので、念のため、注釈をさせていただきますと、ペドロ&カプリシャスのことでありまして、最初のヒット曲「別れの朝」は前野曜子さんが歌っていらっしゃいました。高橋真梨子さんがヴォーカルになられたのは「ジョニイへの伝言」からだったと記憶しております。
稲葉小僧さん(男性)
1999.02.06 … 歌詞担当の登場! 光速エスパー、戦え!オスパー、好き!好き!!魔女先生の歌詞です
まずは、光速エスパーです。
歌は、主人公のヒカル役の三ツ木清隆さんが歌っていました。
1.ババババ バビューンと 空を行く
ババババ バビューンと 空を行く
光より 速いのさ 輝く強化服 かっこいいぞ
*僕らの 僕らの 光速エスパー*
2.ピピピピ ピキューンと 誰か呼ぶ
ピピピピ ピキューンと 誰か呼ぶ
すぐに行く 助けるぞ 7つの能力 かっこいいぞ
*繰り返し*
3.ババババ バキューンと どんな敵も
ババババ バキューンと どんな敵も
へいちゃらさ 負けないぞ KO(ケーオー)パンチだ かっこいいぞ
*繰り返し*
4.ババババ バビューンと 燃えている
ババババ バビューンと 燃えている
太陽の エネルギー ファイトは満々 かっこいいぞ
*繰り返し*
次は、戦え!オスパーです。
戦え!オスパー、の主題歌は・・あれれ?山田太郎バージョンと、河原タケシのバージョンがあるぞ?
どっちが正解なんだろう・・
作詞:寺山修司 作曲:富田勲 なんですけどね。
オスパー!(大声)
1.大きな声で 呼んでごらん オスパーの名前を 呼んでごらん
闇夜に 光る星よりも 地上を 明るく照らすもの
その名は ホラ
*オスパー オスパー ぼくらの味方 オスパー オスパー ぼくらの味方
2.空を見上げて 呼んでごらん 困った時には 呼んでごらん
たとえ 地上は嵐でも いつかは 晴れるさ朝がくる
その名は ホラ
*繰り返し
3.声をあわせて 呼んでごらん オスパーの名前を 呼んでごらん
海のかなたに届くまで 正義の その名を高らかに
みんなで ホラ
*繰り返し
ユミの歌(エンディング)
1.海さん 海さん 祈ってください オスパーさんが 勝ちますように
夕日の丘に 一人来て 今日も見ている 月見草
*この世がみんな いい人で 戦いなんか なければいい*
海さん 海さん 祈ってください オスパーさんが 勝ちますように
*繰り返し*
さて、次は、好き!好き!!魔女先生、です。
作詞:丘灯至夫、辻真先の共作 作曲:渡辺岳夫 歌:堀江美都子
放送は昭和46年10月3日から47年3月26日まででした。
まずは、主題歌「かぐや姫先生の歌」
1.どこから来たのかな 魔女じゃないのかな
明るい笑顔で 優しくて
指輪が 光れば あらあら不思議 人のできない 事ばかり
*おんな先生 ピカピカ光る すてきな先生 みんなの みんなの かぐや姫先生*
2.どこから来たのかな 月の世界かな
悲しい子供は なぐさめて
弱い子供は 励まして 今日も 正しく 逞しく
*繰り返し*
3.どこから来たのかな ちょっぴりお茶目だな
信じていこうよ どこまでも
そばに居たいな いついつまでも どこの誰でも あこがれる
*繰り返し*
かぐや姫先生
エンディング「月光(つきひかる)の子守唄」です。
作詞:石森章太郎 作曲:渡辺岳夫 歌:堀江美都子
1.青い月の夜は そよ風の歌う子守唄 おやすみなさい よい子達
あなたに 夢をあげましょう
*ムーンライトリング ムーンライト・リング*
2.赤い月の夜は むら雲の歌う子守唄 おやすみなさい 黒い猫
あなたに 罰をあげましょう
*繰り返し*
3.白い月の夜は 星空の歌う子守唄 おやすみなさい 恋人よ
あなたに 愛をあげましょう
*繰り返し*
ふう・・長かった・・
ちなみに、この頃は、海外テレビ物も多かったですよね(古くはフライマン、キャプテンナイスとか、マイナー作品ばかり憶えている私は一体・・
^_^;)
では、お身体に気をつけて・・
稲葉小僧
主宰者から
1999.02.06 …望月浩か山田太郎か河原(清原?)タケシか???
ご存知ない方のために、申し添えますと、望月浩というのは、昭和30年代後半から40年代初めにかけて活躍していた歌手で、当時、布施明なんかと同じカテゴリーに分類されるようなタイプで、日劇ウエスタンカーニバルなんかにも出ていました。
山田太郎は、「新聞少年」という歌謡曲の大ヒットで知られる歌手であり、河原タケシではなく清原タケシだとすると、スイング・ウエストというロカビリーの名門バンドの専属シンガーだった人で、清原タケシの前には守屋浩とか佐川ミツオなんかもスウイング・ウエストで歌っていました。ラインとしては、山田太郎よりは、望月浩に近いと思いますが、オスパーの主題歌の雰囲気からすると、清原タケシか望月浩が歌っていたのではないかと思われます。
ということで、日付は1999.02.06と打たせていただいておりますが、既に、深夜2時に迫り、カレンダー的には、2月7日の日曜日となっておりますが、いつもトップページで打たせていただいている日付などは、私が眠りにつくまでは、2月6日という形にさせていただいております。実は、いま現在も、まだ、ジャイアント馬場さんの追悼特別企画ページの作り込み作業が進行中でありまして、このままでは、ヘタをすると、追悼特別企画ページも「お便りコーナー」のデータ更新もできないまま、前後不覚状態に陥って眠りこんでしまう可能性も出て来たため、取り敢えず、追悼特別企画ページの作り込み作業を中断し、「お便りコーナー」のデータ更新作業に切り替えたような次第であります。
日本テレビでは、日曜日の午後2時から、全日本プロレスのメンバーの皆さんなども登場されて追悼特別番組が組まれるそうですので、できれば、その前にアップし、皆さんの事前知識として、少しでもお役に立てればと思っていましたが、かなり厳しい状況となってきました。
でも、出来る限り、頑張るつもりですので、ご関心のおありになる方は、日曜日のお昼過ぎくらいまでは可能性がありますので、ご覧いただければと思います。
米国ロサンゼルス・MDさん(女性)
1999.02.06 … また書いてしまいました
祝進さん、よくご存知ですねぇ。
そうです、柳ミキだった!
顔は覚えてないのですが、後に、当時のオックス(GS)のマネージャー氏から、「柳ミキを小さくしたようだ」と言われたことがありました。
それから、「ジャポップストップテン」は東京12チャンネルで、私が入る前のティーンズがレギュラーで出演していました。
オープニングで、画面両端から踊りながら出てきたと思います。
私も、毎週見ていたわけではないので、あまりよく覚えてません。
司会は「葉室」エツコさんではなく「葉村」さんですね。
ある落語家の方(名前が思い出せない)に顔がソックリといわれていました。
では、また。
M in Los Angeles
レイカ雅さん(男性)
1999.02.06 … クイズの答え2
答え合わせお願い致します。
A・XXXX B・XXXX C・XXXX D・XXXX E・XXXX F・XXXX
G・XXXX H・XXXX I・XXXX J・XXXX K・XXXX L・XXXX
紅白裏話
八代亜紀が「おんな港町」で初トリを取った時の事。
センター階段から、これ見よがしに登場した時に、マイクのコードを踏んで、笑っていたのは、水前寺清子と由紀さおりです。
主宰者から 1999.02.06
八代亜紀が「おんな港町」で初めてトリを務めたのは、1970年代も後半の1977(昭和52)年のことでありまして、この年は、紅組ではピンクレディー、白組では狩人が初出場を果たしております。
稲葉小僧さん(男性)
1999.02.06 … 歌詞担当(とんま天狗、てなもんや三度笠)、登場します^_^;
作詞:花登 筺 作曲:加納光記
歌はもちろん、大村 崑!
1.とんとん とんまの天狗さん
とんまで おセンチ おひとよし
握る刀は 大上段 エイッ!
悪人共を なぎはらう
*姓は おろない 名は なんこう
子供が大好き 僕らの仲間
とんとん とんまの天狗さん*
2.とんとん とんまの天狗さん
強くて ハンサム ほがらかで
振るう拳(こぶし)は 空手打ち エイッ!
悪人共を 懲らしめる
*繰り返し*
ですね。
この頃の番組には、私も人一倍思い入れが強いので、サービス!で^_^;、てなもんや三度笠の歌詞をご紹介しましょう。
作詞:香川登志緒 作曲:林 伊佐緒
歌はもちろん、藤田まこと!
1.雲と一緒に あの山越えて
行けば 街道は 日本晴れ
*おいら旅人(たびにん) 一本刀
「お控(ひけ)えなさんせ」「お控(ひけ)えなすって」*
腕と度胸じゃ 負けないけれど
何故か女にゃ ちょいと弱い
2.南風吹きゃ 花さえ咲くに
可愛い(かわい)あの娘(こ)は 薄情け
*繰り返し*
くやしまぎれに 言うのじゃないが
あんな女は ザラにある
3.捨てた故郷に 未練は無いが
忘れられよか 母の顔
*繰り返し*
祭囃子を しみじみ聞いて
男泣きする 事もある
うーん・・やっぱり良いなぁ・・藤田まことって、歌がうまい!
何故に、この歌が再版されないのだろうか?
必殺より、よほど良いと思うのだが・・
稲葉小僧
ps、主宰者様、インフルエンザは完治されましたでしょうか?お身体には充分に気をつけられるように・・かかったら、もう後は体力勝負ですので、無理をせぬようにご自愛くださいませ。
主宰者から
1999.02.06 …「ゴロンボ波止場」と「だまって俺についてこい」の謎
暫く、お便りを頂戴しておりませんでしたので、心配しておりましたが、お元気なようで何よりであります。
確かに、藤田まことは歌が上手いと思います。あの頃、もともとバンドマンではあったわけですが、東の植木等と西の藤田まこと、という感じで、ヒット曲の数はクレージーキャッツの方がはるかに多いわけですけれども、藤田まことも上手いです。
で、私にとっての「60年代の謎」の一つなのですが、クレージーキャッツの歌で「だまって俺について来い」という私の大好きな歌がありますけれども、この歌は、藤田まことなんかも出ていた(と記憶していますが…)「ゴロンボ波止場」という生中継のような劇場番組の主題歌として使われていて、その主題歌は藤田まことが歌っていたように記憶しているのですが、どなたか、この辺りをはっきり覚えていらっしゃる方がいらっしゃたら、ご教示いただきたいと思います。
よろしくお願いします。
新潟県長岡市・TWさん(40代男性)
1999.02.05 … はじめまして
いつもながらの「奥行きの深さ」に驚くとともに、楽しく拝見させていただいております。
私は、KIYOMI様とは逆に 、東京⇔長岡(3往復しましたね・・・笑)で、現在、長岡在住。
60年代、 GS の末席に少しだけかかわっていたことがあり、現在も 、SOSというエレキバンドに遭遇!
再び エレキを楽しんでおります。
そんな訳で、ブルコメ 関係の記事は、たいへんに興味深く拝見させていただきました。KIYOMI様のような大ファンの方に対して、甚だ失礼なのですが、私のブルコメのイメージは“偉大なるバンドマン”なんです・・・上手く、器用すぎる?「驚きももの木・・」も面白かったんですが、こちらの記事のほうが、はるかに奥深く、面白かったですよ。
次章(シャトー編?)もあるようですので、楽しみにさせていただくとともに、ありがとうございました。
ところで、KIYOMI様はご存知かも知れませんが、井上“青い瞳”大輔氏が、長岡の企業グループ(もし掲示されるようでしたら匿名がよいかとは思いますが・・・)の「社歌」を作曲しているんですね。
残念ながら、私は聴いたことはないんですが、仕事でのお付き合いもあるんで、近いうちに聴かせていただこうと思っております。
これからもよろしくお願いします。
主宰者から 1999.02.05
井上大輔氏が作曲したという「社歌」は、私も、何としても、聞きたいものだと思います。
祝進さん(男性)
1999.02.05 … Beat Pops again
HMさん、ビートポップスは1時間番組でした。スポンサーはあまり記憶にないのですが、下着のコマーシャルを流していたような気がするのですが。ワコールか何かではなかったかな。
その他思い付くままに。
一時、中尾ミエが巨泉の相手で司会をしていたときがありました。星加ルミ子が海外取材で留守をしていた間だったかな。
このころ、家にソニーの重たいテープレコーダがあって、この番組を録音したテープを持っていますが、今はオープンリールのテープレコーダーがなくて聞けません。
番組冒頭で流れるテーマミュージックも覚えていますが、あれはオリジナルだったのでしょうか。多分、違うと思います。
もし演奏者とタイトルを知っていたら教えてください。
ところで、MDさん、当時、10チャンネルだと思うのですが「ジャポップベストテン」という番組があったのを知っていますか。
葉室えつこという、平凡な顔をしたお姉さんが司会をしていました。
このテーマソングもテープに入っていたのです。
青空のよ〜に ・・・・・・・・・・・
・・・・のよ〜に ・・・・・・・・・・・
・・・・とともに ・・・・・・・・・・
情けないことに、メロディーは浮かぶのですが、歌詞は全く出てきません。
こんな番組、すっかり忘れていましたから。10年以上も前に、テープレコーダがあったころ発見したのです。
主宰者から
1999.02.05 … ビートポップスの写真が見つかりました

オープンリールのテープは、是非、大切に保存されて下さいますよう、お願いいたします。
さて、遅れ馳せではありますが、ビートポップスの写真が見つかりましたので、解説文とともに紹介させていただきます。
グループサウンズが主役「ビートポップス」
司会に大橋巨泉、星加ルミ子、木崎義二などが出演していた。若者参加の公開番組。この番組の原形は「ゴー!ゴー!フラバルー」で、後には徐々にバラエティーショーとしての傾向を強めていった。
「ビートポップス」には、モデル時代の小山ルミなどが出演、この番組によってタレントとして成功した。
ゲストはザ・ワイルドワンズ、ザ・ビレッジシンガーズ、ザ・タイガース、尾藤イサオ、アニマルズなどグループサウンズ中心による番組であった。
巨泉と星加ルミ子の軽妙な言葉のやりとりが、この番組をもう一つ、楽しくさせた。
昭和42年11月スタート。フジTV
[『TVグラフィティ』(講談社・1978年)]
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ゲストとして、GSだけでなく、ブルコメが「青い瞳」でデビューする前に(というか、正確には、デビュー後も、ブルコメがバックを務めたLPなども発売されていますが…)バックを務めていた尾藤イサオなんかも出ていたようですし、ここで出てくるアニマルズというのは、あの「朝日のあたる家」や「悲しき願い」のアニマルズのことなんでしょうか。
何れにしましても、私の育った長岡市で見ることのできた唯一の民放であります新潟放送(BSN)は、恐らく、この「ビートポップス」は放送していなかったものと思われ、私は、この番組をリアルタイムで見た記憶は全くありません。
したがいまして、この写真についても、大橋巨泉は分かりますが、その周りにいる人たちは誰なのか、全然、分かりませんので、もし、特定できる人も写っているようであれば、どなたか、ご教示下さい。
ところで、私が覚えているGS専門番組は、以前、どこかのページでも書かせていただいているかと思いますが、昨日メールを頂いたロサンゼルスのMDさんも出演されていた「レッツーゴーヤングサウンズ」という番組だけであります。
この「レッツゴーヤングサウンズ」という番組は、山内賢が司会をしておりまして、山内賢=「二人の銀座」=歌謡曲というイメージしか持っていなかった私は、何故、山内賢なんかが司会をしていたのだろうと、ずっと思っておりました。
が、最近になって、東芝から発売されている「GSアイ・ラヴ・ユーVol.2ひとりGS」というCDで、「二人の銀座」だけでなく「青春ア・ゴーゴー」とか「僕だけのエンジェル」「きっと何処かに」などという文字通り“一人GS”としか形容のしようがないような曲も、日活ヤング&フレッシュとかいうバンドをバックに歌っていたことを知り、その辺りの事情を納得した次第でありました。
レイカ雅さん(男性)
1999.02.05 … クイズの答えを送ります
G・XXXX H・XXXX I・XXXX J・XXXX K・XXXX L・XXXX
楽しく拝見させていただきました。
60年代の歌謡曲に大変興味を持っています。
うわさによると、昭和36年の紅白VTRは高嶋忠夫が所持しているとらしいです。それは寿美花代が出演したため、客席から撮影していたとの事。
みてみたいですね!!
BY レイカ雅
主宰者から 1999.02.05
回答をお寄せいただているのは、まだ、お二人だけですが、ご興味・ご関心のある皆様は、是非、ご覧いただければと思います。
よろしくお願いします。
福岡県福岡市・MKさん
1999.02.05 … 「好き好き魔女先生」と「光速エスパー」
福岡のKと申します。
私は’63年生まれですが,幼稚園の頃だったと思います。「好き好き魔女先生」という番組がありました。終わりの歌がとても良かったので歌詞について知りたいです。
それと,「光速エスパー」という番組もあったと思うのですが,あまり情報がありません。
「好き好き魔女先生」ともどもぜひ,HPで取り上げてください!!
主宰者から 1999.02.05
まだ、「60年代通信」では紹介させていただいておりませんが、あの頃、「電光オズマ」とか「戦え!オスパー」とか、「光」がついたり、「パー」がついたり、当時も、イメージ的に重なりあってしまっていましたが、年を経るに連れて、ますます、その度合いがひどくなってきておりまして、できるだけ、早めに取り上げさせていただかなければ、と思っていたところでありました。
「好き好き魔女先生」の方は、残念ながら、私は、タイトルを聞いたことがあるくらいかな、という程度で、はっきりした記憶がありません。
「光速エスパー」の方は、今月中くらいには、なんとか出来るよう頑張ります。
稲葉小僧さんをはじめ、この辺に詳しい皆さん、どなたか、何らかの情報を提供していただけませんでしょうか。
Kさんと一緒に、期待して、待たせていただこうと思います。
千葉県市川市・HMさん
1999.02.05 … ビートポップスの印象
Mです。
ロサンゼルスのMDさんのメール内容によって、自分で思っていたビートポップス自体の印象が変わるほどの感銘を受けました。(タイガースが出てたことなど覚えてないんですから…。)
NHさん(30代男性・小児科医)
1999.02.04 … 遅くなってごめんなさい(インフルエンザについて)
ちょっと忙しいかったもので…。
下記の通りでいかがでしょうか?
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こちら、インフルエンザ流行中で、ちょっと忙しいです。
子持ちの方に、一言アドバイス。
インフルエンザに、アスピリン、サリチル酸などを飲ませないでください。
ライ症候群という急性脳症になってしまう可能性があります。
市販薬には結構含まれていますので、注意。
例えば、市販の成人用バファリンには、アスピリンが含まれていますし、医療用のPL顆粒にはサリチルアミド含まれているので、ダメです。
高熱が出たら、かかりつけの小児科医を受診して下さい。
今年から認可された(アメリカでは以前から使われていますが)シンメトレルという薬が、A型インフルエンザにはよく効きます。
もちろん、大人も同様です。
発熱後、すぐに飲むと、解熱します。
3〜4日経過してからだと、効きません。
インフルエンザか否か、厳密にインフルエンザと風邪を区別する方法はありませんが、インフルエンザは高熱,関節痛,悪寒戦慄がある、喉が赤くない(喉が痛いわりに,しれっとした喉なんです)が、特徴です。
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主宰者から 1999.02.04
私は、先月(1999年1月)、インフルエンザで1週間ほど寝込んでしまいましたが、回復した後の29日に、この「お便りコーナー」で「インフルエンザの言い訳」を書かせていただき、その中で、私の母校であります新潟県立長岡高校のOBによって管理・運営されているメーリングリストに、NHさんが書き込みをされていたインフルエンザに関するアドバイスを引用させていただけるよう、NHさんにお願いをさせていただいておりました。
当初は、その1月29日の私の「言い訳」の中に、今回、頂戴したEメールをハメ込ませていただくつもりでしたが、それでは、せっかくNHさんから頂いた貴重なアドバイスが埋もれてしまう可能性もあるため、独立した形で紹介させていただくことにしました。
我が家では、私が回復した後も、小学6年生の長女、続いて、幼稚園の年少の次男と、相次いで寝込むハメになりましたが、NHさんの貴重なアドバイスを参考にさせていただきました。
まだまだ、巷では、インフルエンザが猛威をふるっているようですので、皆様も、どうぞ、十分に注意されて下さい。
ちなみに、アドバイスをいただいたのは、「はしもと小児科」(中之島見附インターおりて新潟方面に戻って2つめの信号を左折)のセンセイですので、長岡近辺にお住まいの方、よろしくお願いします
米国ロサンゼルス・MDさん(女性)
1999.02.04 … ビートポップス等々
毎日、特に何をするでもないのに、アッという間に一日が終わってしまいます。
この頃、「主婦/二児の母」と「パソコン」の両立(?)が難しく、自分の掲示板さえも放りっぱなし状態になっているにも関わらず、久しぶりに覗いたこのページで、ビートポップスの話題を見つけ、更に、「Mお姉さま」とご指名(?)をいただきましたので、書かせて頂きます。
昨夜は、眠くて寝てしまったので、やはり、先を越されてしまいましたが、巨泉さんの奥様は、浅野順子さんですよね。
私が子供の頃は、浅野鈴子(字は定かではありませんが…)という芸名でした。
「ともこ、損した」という題名のテレビドラマが印象に残っています。
ビートポップスは、フジテレビのスタジオが会場になっており、生で演奏したかどうかは記憶にありませんが、毎週、タイガース、ダイナマイツ、カーナビーツ、また、ゲイリー・ウォーカーなどがゲスト出演していました。
私は1968年秋から、「ティーンズ」のメンバーとして、東京12チャンネル「R
& B天国」やフジテレビ「レッツゴーヤングサウンズ」などGS系の番組にレギュラー出演するようになりましたが、ビートポップスの頃(中学生)は、東映児童演劇研修所に所属しており、東映のテレビドラマ「悪魔くん」「忍者ハットリくん」「青空に叫ぼう」「青い太陽」などに、台詞もない役で出たりしながら、タイガースに夢中になっていました。
そのタイガースがビートポップスに出るというので、フジテレビに行ったのですが、券がなかったため、同じ児童劇団の友達と2人して、さもテレビに出演するような振りをして、ガードマンに挨拶をし、まんまとテレビ局には入れたものの、ビートポップスのスタジオが何処だか分からず、ガードマンに見つからないように、トイレに隠れたりしました。
ところが、運良く、ビートポップスに出演するゴーゴーガールのお姉さん(この人は杉本エマや小山ルミのように売れている人ではなかった)に会い(トイレで会ったのかもしれません、覚えてない…)、ちょうど、スタジオ入りするようだったので、「お姉さん、お願い、お願い、入れて、入れてー」と、ドサクサに紛れて、一緒にあるドアの中に入ってしまったのです。
そこは、ビートポップスの会場の横というか、裏というか、大道具置き場のようでしたが、私たち2人は、どうしようか迷っていると、外から足音が聞こえ、誰かが入ってくる様子。
ガードマンかもしれないと思い、私たちは、そこにあったグランドピアノの下に大急ぎで隠れ、息を殺していましたが、なんと入って来たのは、大大大好きなタイガースではありませんか!!
もう胸が破裂しそうでしたが、結局、タイガースの誰かに気づかれ、見つかってしまい、ガードマンに怒られ、柱にしがみついて泣いて懇願したにも関わらず、出されてしまいました。
憧れのタイガースの面前で、大恥じをかいてしまった、少女時代の切ない思い出です。
その後、芸能界で、また、芸能界をやめてからも、タイガースの方々と、色々な場面で会ったり、話したりすることが、何回もありましたが、ビートポップスでのことは、私自身、長い間忘れていました。
もちろん、タイガースの方たちは、ティーンズの私が、また、後に(1974年)、森本太郎さんのバンドと対バンで出ていた「リッキー&
960ポンド」のボーカル(1973〜74)の私が、ビートポップスの時、ピアノの下に隠れていた子だとは知る由もなく、記憶にもないだろうと、安心していますが…。
ビートポップス自体の話題からは逸れますが、1969年頃、巨泉さんは、浅野順子さんと一緒に、フジテレビ「巨泉のスター百面相」という番組の司会をやっていて、それがきっかけで、結婚されたんではなかったでしょうか?
この「巨泉のスター百面相」に、ティーンズは、レギュラーアシスタントとして、出演していました。
その頃は、後に、青い三角定規でデビューしたクーコこと西口久美子も、ティーンズのメンバーとして、出ていました。
ティーンズは、当時、多くのGS番組に出ていたので、テレビ的には“ゴーゴーガール”でしたが、実は、きちんと、ジャズダンス、クラシックバレーのレッスンを積んだプロのダンサーズで、しかも10代ということで、当時は、かなり忙しく、私も、学校と仕事の両立に、とても苦労しました。
メンバーは6人でしたが、私が入る前には、後に、ゴールデンハーフのメンバーとなったユミもいました。
私にとって、雲の上のグループだった当時のティーンズ(1965〜)は、フジテレビ「ヤーヤーヤング」や12チャンネル「ジャポップストップテン」のレギュラーで、いつも、GSといえばティーンズ、がセットのようになっていました。
ビートポップスに出ていたゴーゴーガール達は、ダンサーズというより、モデル系の人たちで、BPガールズと呼ばれており、ほかにも、ティーンズがレギュラーだった「祭りだ!ワッショイ」(フジテレビ)などにも出ていました(杉本エマ、小山ルミ、あとなんとかミキという人はBPガールズではない)。
思いつくまま、長々と書いてしまい、本来の話題から大分それてしまって、申し訳ありません。
もうやめます。
アッ、もうひとつ、ビートポップスに出ていた男性アナウンサーは、岡「正」さんではなかったでしょうか?
メール長すぎて、まとまらなくなってしまいましたので、編集、抜粋、校正など、よろしくお願いいたします。
主宰者から 1999.02.04
長いメールではありますが、当時、まさに、文字通り、現場にいらっしゃった方の、非常に貴重なナマの証言でありますので、そのまま、アップさせていただきました。
Eメールにも、お書きになっていらっしゃったように、Mさんは、GSを中心に60年代〜70年代にかけての芸能系トピックをテーマとする掲示板(http://www.tcup5.com/501/desmarais.html)もやっていらっしゃいますので、その辺のマニアックで濃い目の知識を身に付けたい皆様は、一度、立ち寄られてはいかがでしょうか。
Mさん、本当に、ありがとうございました。
これからも、よろしくお願いします。
千葉県市川市・HMさん(40代男性)
1999.02.04 … たびたびお邪魔します
たびたびお邪魔します。
昨日の掲示板を見て、また一つ、思い違いを発見しました。
大橋巨泉の今の奥さんは、HFさんの言う通り、“浅野順子”さんでした。
杉本エマさんという人は、“噂?”になっただけだったようでした。
誠に失礼いたしました。
HFさんありがとうございました。
ところで、ビートポップスの番組スポンサー名と、30分番組だったか、1時間番組だったか分かる方いらっしゃいますでしょうか?
ぜひ、教えてください。
このように、いろいろな方からのメールを拝見して感じるのは、いかに、当時、ビート・ポップスという番組が、多くの人に愛されていたかという証拠ではないでしょうか?
ところで、2月7日(日)2時より、日本テレビにおいて“ジャイアント馬場”追悼番組があるそうです。
全日本プロレスのメンバーが集まり、生中継で行うようですので、ぜひ、私も録画して、見るつもりでおります。
では、失礼しました。
主宰者から 1999.02.04
その番組が放送される前に、私なりの、追悼企画ページも作らせていただこうと思っておりますので、皆様、よろしくお願いします。
HFさん(男性)
1999.02.04 … 月曜の虎?について
「月曜の虎」について、これはおそらく「月曜日の男」と「土曜日の虎」がくっ付いてしまったものとおもわれます。
「土曜日の虎」は、土曜のよる10時からTBSで放送されていた、産業スパイも含めた企業コンサルタントものでした。
主演は、成田三樹夫、共演は、江波杏子、工藤堅太郎でした。
主題歌は、
深い霧はミルク色だった
しじまに響いた不気味な靴音
夜はみんなの恋人なのさ
あなたもわたしも 肩をくみ 歩こうよ
と記憶しておりますが、昔のことなので間違っているかもしれません。
歌っていたのは、はじめは藤?(藤ユキだったら、後のアン真理子ですが、どうも、記憶にある声は、違うように思います)、途中で交代して青山和子(愛と死をみつめて)になりました。
また、最終回は、あの梶山季之の「黒の試走車(テストカー)」がベースになっています。
ライバルの自動車会社の新車の価格を知るために、向かいのビルから8ミリ(ビデオなんてものはまだなかった)で、価格会議をしている人のくちびるの動きを写して、読唇術で読ませるという有名なシーンもあります。
そして、自分の会社を裏切って、ライバル会社と通じていた山形勲扮する専務が、陰謀を暴かれて、がっくり肩を落とすシーンをおぼえています。
映画版「黒の試走車」は、田宮二郎の主演で、叶順子(当時叶順子とモニカ・ビッティのファンでした「太陽はひとりぼっち」なんて、モニカ・ビッティの顔とジョバンニ・フスコの主題曲[当時珍しい8ビートだった]しか覚えていなかった、もっとも、ミケランジェロ・アントニオーニの作品なんてよく見ていたって筋なんてよくわからないけど…)、高松秀郎が出ていて、原作よりも映画のほうが出来がよかったのをおぼえています。
ちなみに、もう一方の「月曜日の男」は、待田京介の主演で、小説家JJの活躍で、事件を解決するというものでした。
もちろん、放送は月曜日夜9時半、TBSです。
主題歌は水原弘で、
暗い夜が俺を呼ぶ
冷たく響く足音が 影をおとして
そして 消えた 月曜日の男
だったとおもいます。
日活からフリーになった後も、映画同様、テレビでニヒルな二枚目を演じた待田京介、同じく、映画でニヒルな二枚目で売りながら、テレビに転じて「サザエさん」で三枚目のマスオを演じた、京浜東北線トリオの一角・川崎敬三、好対照でした。
話は横道にそれたので、元に戻しまして、「白バイ物語」にうつります。
主題歌ですが
走れ白バイ 走れ走れ
僕らの白バイ 走れ走れ
アクセルふかして サイレンならし
・・・・・・・・・・・・
走れ走れ 僕らの白バイ 走れ走れ
・・・・・・の部分が、どうしても出てきません、相当、頭をひねって、出てきそうな気もするんですが、やはり駄目でした。
やはり、年とともに、記憶力が弱ってきたようです。
申し訳ございません。
というところで、長文になりましたが、失礼させていただきます。
主宰者から 1999.02.04
HFさん、今後とも、よろしくお願いします。
千葉県市川市・HMさん(40代男性)
1999.02.03 … 60年代通信は偉大HP!
いろいろご迷惑おかけしてすみませんでした。
「ビート・ポップス」の件は、どちらにしても私の思い違いによるのが原因ですので、主宰者の責任ではありませんので、どうか、あまり自分を責めないでくださいね!
また、思い出せずにいた記憶を祝進さんの指摘により、思い出せたことは,HPにはご迷惑をおかけいたしましたが、霧が晴れたようになり大変うれしく思っています。
祝進さん、ありがとうございました。(フジテレビだったのですね!そして、巨泉と星加ルミ子ともう一人いたなとは、記憶の片隅にあったのもおかげで思い出せました。)
ところで、今回感じたのですが、この60年代通信というホームページは、もはやアマチュアの域を脱し、本当の意味で“権威のあるホームページ”になっているとしみじみ感じました。
なぜならば、いろんなHPは、いくらもありますが、テレビのニュース番組と同じく、正しいことを伝えることが本来のHPの役目でもあると思うのです。同時に他のホームページを見ると、何か仲間内だけで、なあなあにやっていて、とても入っていけないものが多々見受けられます。まあ、それはそれでいいんでしょうが・・・?!。
間違っているものは、正しく直す、そして、正しい情報は、正しく流す、これが、本来のHPではないのかなと思うのですが、どう思われますか?
信頼されるHPは、真剣なファン層で分かります。
そんなことから、考えてみたのですが、自分の体調を犠牲にしても毎日の更新にこだわる主宰者しかり、真実を追究する真剣なファン層しかり、どれを見ても、今現在、最高のHPになったのではないかと私は思います。
なんかとても偉そうなことを言っているようで、大変心苦しく思いますが、とにかく、今回の件で、特に、これらのことを強く感じることが出来ましたし、これからも、このホームページの発展を願うことしきりであります。
ところで、がらっと話しの内容は変わりますが、以前お話したビデオの販売元ですが、「株式会社ゲオ販売」と書いてありました。
お分かりになるでしょうか?
では、長々とすみません。
失礼します。
主宰者から 1999.02.03
改めて言うまでもないような気もしますが、牧野さんが指摘されているように、「60年代通信」がここまで来れたのも、牧野さんはもちろん、祝進さんや稲葉小僧さん、HFさん、JHさんをはじめ、強力にサポートいただいている皆さん、これまで「60年代通信」にEメールをお送り下さった皆さん、それから、「60年代通信」にアクセスしていただいている皆さんなど、本当に多くの皆さんに支えていただいた御蔭でありまして、もし、評価していただける部分があるとすれば、それは、とりも直さず、この非力で不埒な主宰者を暖かく見守り、ご支援くださった皆さんによって実現されたものであります。
これからも、ヨタヨタ、フラフラではありますが、頑張っていきたいと思いますので、引き続き、ご理解とご協力を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。
HFさん(男性)
1999.02.03 … とんま天狗等々
まず、とんま天狗の主題歌から。
とんとんとんまの天狗さん とんまでオセンチお人好し
握る刀は大上段(エイ) 悪人どもをなぎはらう
姓はオロナイン名は軟膏
子供が大好き僕らの仲間
とんとんとんまの天狗さん
つぎに、ダイハツのミゼットの生コマーシャルですが、これは佐々十郎との「やりくりアパート」のオープニングではないでしょうか。
それから、ビート・ポップスについてですが、これは土曜午後二時フジテレビの放送です。
また、”大橋巨泉の奥さんとなる杉本エマ”という記述がありますが、巨泉夫人は初代(?)がジャズシンガーのマーサ三宅(大橋美加の母親)で、次が、現夫人の浅野順子だと思っていたのですが?
最後に、最近発売された月光仮面のビデオについて。
第一話は、確かに、題名も内容も、「パラダイ王国の秘密」(ずっとバラダイ王国だとおもっていました)なのですが、出演者のクレジットが「幽霊党の逆襲」のものなのです。
放送当時から、そうなっていたのか(しかし「パラダイ王国の秘密」は第二部で「幽霊党の逆襲」は第四部であとに放送されているはずです)、それとも、このビデオを作る段階で、なにかあったのか謎です。
ですから、山本記者(花田京介)となっていますが、どうみても若いころの大塚周夫さんですし、シャバナン殿下の野口元夫(事件記者のデカ長です)さんの名前もありません。
それから、以前お知らせしたサタンの爪の武藤英司さんの名前もありませんが、仮面をとらないので、顔は見られませんが、声は紛れもなく記憶にある武藤さんの声です。
以上、脈絡のない話に終始しましたが、これにて終わります。
では、さようなら。
シンガポール・Chia
Tien Cheangさん(女性) 1999.02.02 … Momoe Yamaguchi
I read your webpage on Momoe Yamaguchi.
Love it very much.
I would like to read her book - "aoi toki".
Can you put it on your webpage?
And can you put more news about Momoe on your webpage?
Cheers, Tien
主宰者から 1999.02.02
山口百恵は東南アジアでも人気がありましたし、確か、ドラマの「赤い」シリーズも、何ヶ国かで放映されていたはずだったような気もいたしますが、それにしても、すでに、引退から20年近くが経とうとしているにも関わらず、しかも、日本語のホームページであるにも関わらず、外国の方から、「60年代通信」の一部とはいえ、そのページをお読みいただけたことを、本当に喜んでおります。
山口百恵の特集も、昨年の前半に手を付けかけておきながら、中途ハンパなまま、放ったらかし状態になっていて、実は、とても気になっていたのですが、こうして、外国の方からも「励ましのお便り」を頂いた以上、改めて、ページ作りに励もうと思っておりますので、Tienさん、どうか、暖かく見守っていただきたいと思います。
祝進さん(男性)
1999.02.02 … Beat Pops
ミュージックライフの当時の編集長は星加ルミ子で、司会も彼女がやっていました。
他に音楽評論家の木崎義二、大橋巨泉に「ばかおか」と呼ばれていたフジテレビアナウンサーの岡??とかが出ていました。
もう1つは、TBSではなくフジテレビだったということです。
この番組で一番受けたダジャレは「牛も知ってるカウシルズ」というやつです。
因みに、湯川れい子と星加ルミ子は因縁があって、仲が悪かったそうです。
ビートルズが来日したときに、星加ルミ子はどうやったのか、ホテルの彼等の部屋に忍び込み、インタビューを取り付け、躍起となっていたのを、湯川れい子は冷ややかに見つめていたとかいう話です。
そのやり方がルールに外れていたとか、そんなことだったと思います。
これは竹中労のビートルズ来日にまつわるノンフィクション(タイトルは忘れてしまいましたが名著)に書かれています。
昨日、市川市のHMさんから最初のメールをいただき、この「お便りコーナー」にデータをアップした直後に、改めて、訂正のメールを頂戴したのですが、すでに、深夜の26時を回っておりましたので、訂正メールのアップを丸1日延ばしてしまったのであります。
HMさん、申し訳ありませんでした。
また、早速、素早い対応をいただいた祝さんにも御礼を申し上げなければなりません。ありがとうございました。
しかも、貴重な補足情報まで寄せていただき、大いに参考になりました。
木崎義二さんといえば、たしか、コロンビア提供のラジオ番組「L盤アワー」(だったと思いますが…)のDJもやっていらっしゃいましたし、私が持っているブルーコメッツのLPの何枚かでも、ライナーノートをお書きになっていらっしゃいます。
湯川れい子さんと星加ルミ子さんについては、巷間、色々と言われているようですが、当時、湯川さんもML誌のインタビュー記事などでは頻繁に登場していましたし、HMさんが湯川さんと星加さんを取り違えてしまわれたのも、それほど不自然なことではないような気がしますし、私も、時々、この二人はイメージ的にダブってしまいます。失礼な言い方ではありますが、どちらかというと、湯川さんがキツネ系で、星加さんがタヌキ系というような感じで、お顔のタイプなどは随分と違いますけれども…。
それから、湯川さんは、コロンビアから出ているブルコメのソノシートでブルコメを絶賛しておきながら、その一方で、「ブルコメは大衆をバカにしている」発言で物議をかもされたこともあり、結構、その動き方が派手目でもいらっしゃたのかもしれません。
ということで、何やら、訳の分からない内容になっておりますが、私の怠慢で、混乱を招いてしまったことをお詫びさせていただきたくて、この文章を書いておりますので、よろしくお願いします。
千葉県市川市・HMさん
1999.02.01 … 大きな思い違い!?
市川のMです。
先ほどのメールの中で大変な思い違いをしていたことが今ふと思いつきました。
ビート・ポップスで、大橋巨泉とペアで組んでいた“ミュージックライフ”編集長は、湯川れい子ではなく、“星加るみ子”でありました。
誠に、申し訳ないという気持ちと、思い込みの恐ろしさを痛感した次第であります。
では、恥ずかしながら(横井正一?)失礼いたします。
千葉県市川市・HMさん(40代男性)
1999.02.01 … ビート・ポップス伝説 & 哀悼! G馬場
市川のMです。
「驚きももの木20世紀/ブルーコメッツの苦悩」第4回を拝見していて、“湯川れい子”さんで思い出したのですが、1967〜9年当時、TBS放送だったと記憶しているのですが、大橋巨泉が司会を行い、当時ミュージックライフ(最近、1998年12月号をもって惜しまれながら“休刊”となった)編集長だった湯川れい子がレギュラーメンバーで最新情報を視聴者に伝えるという海外の“ビルボード・ヒットチャート”などを意識した当時としては、画期的だったテレビ番組ビート・ポップスについて思い出を書いて見たいと思います。
この番組のヒットチャートの順位集計の仕組みは、ミュージックライフ関係でわかる海外での週単位のヒットチャートと、テレビ視聴者の投票による順位を合算して行っていたと思いますが、ブルーコメッツの苦悩で三原綱木が話していたように、ほとんど同じ時代ですから製作スタッフにより、かなり番組中心に変えられていたのではないかと今考えると、疑わずにはいられませんが・・・。
この番組は、今でいうディスコ風の大きなステージに、当時で言うと「GO!GO!GIRLS」が各段上にのぼりゴー・ゴー・ダンスを踊っており、下では、一般の人でしょうか?毎週大勢の人が、踊っていました。
当時、この番組で、ダンスの振り付けをしていたのが、のちにゲバゲバ90分!などに出演し、まさに、日本のチャプリンのごとくの活躍をした“藤村俊二”でした。司会の大橋巨泉から、“おひょい”などと呼ばれ人気がありました。
また、後に大橋巨泉の奥さんとなる“杉本エマ”が、ダンサーとして踊っていたことはあまり知られていなかったのではと思います。
私は、中学生でしたが、土曜日の2時から(?)始まるこの番組を見るために、急いで家に帰ったのを覚えています。
今思うと、アメリカで数年後に始まる(すでに始まっていたか定かではないが…)
ソウル・トレインに近い番組だったと思います。ただし、生演奏は、有りませんでしたが・・・。
当時、印象に残っている曲は、“1910フルーツガムカンパニー”というグループが歌っていたインディアン・ギバーを巨泉が“入れ歯の犠歯”などというギャグを飛ばしていたりして、かなり後の“11PM”を彷彿させる会話を湯川れい子とかわしていました。
もちろん、時代が時代ですから、“ビートルズ”のヘイ・ジュードやハロー・グッドバイなどは、ダントツのトップ独走でした。
私は、当時“ローリング・ストーンズ”のファンでしたから、ジャンピン・ジャックフラッシュとホンキー・トンク・ウィメンがトップになった時は、本当に小躍りして喜んだのを覚えています。
最近、NHK日曜夜11時25分から放送している 青春のポップスなどで1960年代の音楽を中心にした番組が人気を得ていますが、そのルーツは、このビート・ポップスがルーツではと思えてなりません。
1968年頃に、日本の企画で第1位になったジェラルディン(イギリスのブーツ・ウォーカーが曲を作り歌ったのだが、ヒットせず、なぜか日本でリバイバルして大ヒットした。のちに、ザ・テンプターズが、ステージで歌っていたと思われるが私の手元に、その証拠がない…)が、今はまったく忘れられており、それが唯一悲しい・…。
思うがままに書いてしまい、主宰者に大変申し訳ないと思っています。
どうか、いつかこの番組の映像等があれば、特集などを組んでもらえればなどとあまいお願いする私なのですが…。
よろしくお願いします。
ところで、このメールを書いている時、テレビから、大変な悲報を聞いてしまいました。
“ジャイアント・馬場”死去!!
レトロ(?)プロレスファンの私としては、先日の土居まさるさんの時以上に、大ショックでした!
当時のライバルであった、“ボボ・ブラジル”も1昨年に亡くなっており、馬場さんより大きかった“アンドレ・ザ・ジャイアント”もすでにこの世にはおらず寂しい限りでありましたが、馬場さんの死去により、日本における良き時代のプロレスは“終わった”のではないかとつくづく思いました。
この“ジャイアント・馬場”追悼企画もぜひやっていただければなどと…。とにかく、寂しいです…。
では、この辺で失礼します。
それによりますと、馬場さんは、昨日(1月31日)の夕方、入院先の病院で亡くなられたそうです。
今年初め、『週刊プレイボーイ』の中吊り広告の見出しに、馬場さんが体調を崩されている記事があり、本屋で立ち読みし、今年の正月の年明け興行の挨拶さえも欠席されたということで、心配しておりましたが、まさか、こんなに早く亡くなられるとは思ってもいませんでした。
昭和30年代後半から40年代前半にかけて、日本プロレスのテレビ中継に夢中になり、その後も、同郷の超有名人ということや、そのストイックな生き方も気になっていた私としては、非常にショックを受けております。
私が小学生の頃、新潟県、とりわけ長岡近辺出身の有名人ということでは、田中角栄と三波春夫とジャイアント馬場の3氏が、文句なしにBIG3でありました。それにしても、今更ながら、3人とも、なんと個性豊かで、強烈なインパクトをお持ちの皆さんでいらっしゃいましょう。
牧野さんのご要請を待つまでもなく、今週末には、私なりの追悼企画を考えさせていただきたいと思います。
また、ご関心のおありになる皆さんは、先月(1999年1月)15日に更新されたばかりの「テツオの部屋」に書かれていた馬場さんのくだりをご参照いただければと思います。
馬場さんのご冥福をお祈りいたします。
さて、「ビート・ポップス」についてですが、さすがに、HMさんは、私より1歳年上でいらっしゃると同時に、東京にお住まいでいらっしゃったこともあるのでしょうか、いわゆる洋楽系の音楽には、私などよりも、早く関心をお持ちになっていらっしゃったようでありまして、ブルーコメッツを通じてビートルズやローリングストーンズやサイモンとガーファンクルを知った私などとは大違いのような気がいたします。
このEメールでは、お書きになっていらっしゃいませんが、HMさんは、ストーンズ以前にも、ベンチャーズに凝っていらっしゃた時期もある方で、当時の洋楽には、あまり詳しくないという私の弱点を大いに補っていただければと、勝手なことを考えている次第であります。
1910フルーツガムカンパニーでは、もうちょっと時代が後になりますが、「サイモン・セッズ」とか「123レッドライト」なんかが懐かしいです。
それから、「ビート・ポップス」の頃の音楽番組については、当時、現役の“GO
GOガール”(という言い方も時代を感じさせますが…)としてテレビにも出演もされていたロサンゼルス在住のMお姉様が詳しいのではないかと思われます。
Mさん、もし、このページをご覧になられるようなことがあったら、私たちに知識を授けて下さい。
よろしくお願いします。
祝進さん(男性)
1999.02.01 … 黒柳徹子
「はてな劇場」という番組で司会をしていました。これは公開放送で会場に小学生が入って、子供が疑問に思うようなことを解き明かしていくといった、今なら教育チャンネルで放送するような内容の番組でした。昭和33年頃のことだと思います。
「魔法のじゅうたん」という番組でも司会をしていました。
毎回、小学生の「おともだち」がゲストとして黒柳徹子と一緒に魔法の絨毯で、自分の小学校まで飛んでいくのです。
これは同じ頃かもう少し後に始まって、かなり長い間放送していたのではないかと思います。
ですから、当時、私は彼女はNHKのアナウンサーだと思っていました。
主宰者から 1999.02.01
「魔法のじゅうたん」というのは、黒柳さんが「アブダーカラブダー」とか何とか言って、スタジオの床に絨毯を広げ、その絨毯にゲストの小学生の男の子と女の子と一緒に乗っかると、その後は、子供が見ても、はっきり合成と分かる画面に変わり、ゲストの子供たちの学校の上空まで飛んでいくというような内容でありました。勝鬨橋の下をくぐっていったりする場面は、今でも、はっきりと覚えています。
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