60年代通信スペシャル

ジャイアント馬場さん 追悼特別企画 その1


ジャイアント馬場さん 追悼特別企画その2(NHK「この人このまち」に見た馬場さんと故郷の原風景)はこちら


馬場さん、「60年代の夢」をありがとうございました!!





 ジャイアント馬場さんが亡くなられました。
 今週の月曜日、夜の10時過ぎに市川市のHMさんからのEメールで訃報を教えていただき、慌ててスイッチを入れたテレビのスポーツ・ニュースで、前日(1999年1月31日)の夕方に息を引き取られたことを知りました。
 非常にショックでした。
 同じ新潟県の中越地区の出身であることもあり、昭和30年代の後半、テレビのプロレス中継に夢中になり、毎年春に長岡にも転戦してきたワールド・シリーズの試合を、長岡駅前の厚生会館で胸をときめかせて観戦したものでありました。
 昨年の暮れには、たまたま、馬場さんが登場したNHKのトーク番組を録画し、今年の正月には、TBSで放送された馬場さんや全日本プロレスの皆さんが実名で登場されるアニメ映画も録画し、子供たちと一緒に楽しませていただいたばかりでした。
 先月の中旬には、電車の中吊り広告で、『週刊プレイボーイ』が馬場さんの体調が悪いことを伝えていることを知り、本屋で立ち読みさせてもらい、春頃の回復に向けて、闘病中であることは知っていましたが、まさか、こんなに早く他界されるとは思ってもみませんでした。
 私にとっては、間違いなく「60年代」を象徴する大きな存在であったジャイアント馬場さんのご冥福を祈りつつ、馬場さんの追悼特別企画ということで、謹んで、このページを作らせていただきます。
 合掌。


 亡くなられたことが明らかになった翌日の2月2日、私は、会社に行く途中、京王線の百草園の駅前にあるコンビニで、スポーツ紙6紙を購入し、通勤の電車の中で、すべて目を通しました。
 当然ながら、全紙とも、1面トップの扱いで、その紙面の画像は、このページのトップに掲載させていただいた通りです。
 デジタル・カメラで撮影したものですが、新聞の折り目が山になって影が出来てしまい、ちょっと、ご覧になりにくいかと思いますが、その扱いの大きさをお分かりいただけるかと思います。このうち、スポーツ報知は、裏面のトップページでも、ジャイアンツ時代の馬場さんを大きく取り上げており、両面トップ扱いでありました。
 さらに、会社に出てから、朝日、毎日、読売、日経、北海道新聞の5紙のコピーを取り、こちらも、すべて目を通しました。
 馬場さんの記事を1面に掲載していたのは、朝日と北海道新聞の2紙だけでしたが、どちらも、カラー写真使いでした。
 次に、私が気になったのは、地元の新潟日報がどんな扱いをしているかということでありまして、最初は、全国の地方紙が閲覧できる日比谷図書館でコピーを取ろうと思いましたが、会社が終わってからの短い時間だと、他の人が見ている場合、改めて出直さなければならなくなることになるため、銀座にある新潟日報東京支社に電話して、2日の朝刊と3日の朝刊に関連記事が掲載されていることを確認し、直接、購入させてもらうことにしました。
 さすがに、新潟日報は、1面の左肩に大きく馬場さんの記事が掲載され、中面でも、本来は、社説と解説記事が掲載されている4面で解説記事を外し、急遽、写真特集を組み、さらに、社会面でも、見開き扱いで詳報しておりました。
 まず、一般紙ながらスポーツ紙なみに合計4ページを馬場さんの関連記事に割いた地元紙の新潟日報に敬意を表しまして、その1面の記事から、事実関係を押さえさせていただこうと思います。

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ジャイアント馬場さん死去/16文キックで一時代築く
(1面)
「全日本プロレス社長で、十六文キックの得意技で知られる人気プロレスラーのジャイアント馬場(本名・馬場正平=ばば・しょうへい)さんが一月三十一日午後四時四分に東京都新宿区の東京医大病院で肝不全のため死去していたことが一日、明らかになった。三条市西四日町出身。六十一歳。自宅は東京都渋谷区恵比寿二ノ二八。本葬の期日は未定だが、近親者らによる密葬が二日行われる。
(写真特集4面、関連記事22・23面に)
 馬場さんは三条実業高校(当時)を二年で中退して一九五五年に巨人に入団。大型投手として期待されたが、故障もあって、五九年のシーズン後に解雇された。通算成績は3試合に登板して0勝1敗だった。
 六○年にプロレス入り。209センチの巨体を生かした豪快なファイトで人気レスラーとなり、米国でも活躍。師匠の力道山の死後、アントニオ猪木らとともに一時代を築いた。
 七二年に全日本プロレスを創立し、社長に就任。ザ・デストロイヤーやアブドーラ・ザ・ブッチャーらとの対戦で人気を呼んだ。全盛期には世界タイトルなども獲得した。ジャンボ鶴田らを育てるなど、後進の指導にも定評があった。
 最近はメーンの試合から離れ、前座でタッグマッチ中心に試合に出場。昨年末までリングに上がっていた」--------------------

 続きまして、各面から、私の目にとまった部分を抜粋して、紹介させていただきます。 

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野球、プロレス 闘い一筋/馬場さん逝く

(4面)
「激動の人生を支えたのは越後人そのものの、温厚で我慢強い性格だったのかもしれない」

巨体に帝王の威厳/存在自体がプロレス
/古典的スタイル貫く

(22面)
「アントニオ猪木が異種格闘技戦でプロレスを膨張させていくのに対し、ジャイアント馬場はかたくなに古典的プロレスを堅持した。その二極化が力道山以後のプロレスの隆盛の要因だった」
「馬場さんにはプロレスを時代に合わせようなどとする必要はなかった。馬場さんそのものがプロレスだった」
「ただ、一度だけ激怒したのを見た。ブッチャーを引き抜かれた時だった。あの時、馬場さんの心の何かが壊れた」
「今は亡き、馬場さんを一言で言うなら『古き良き日本人』だった」
(杉山頴男=武道通信発行人)

レスラー人生 最後まで/馬場さん死去
/還暦過ぎても現役/まじめ人間「選手が子供」
(23面)
「戒律の厳しいモルモン教の洗礼を受けたのは中学三年のころ。酒も、派手な遊びも嫌いなまじめ人間だった。稼いだ金はすべて土地を買って残した。少ない道楽の一つがモデルチェンジのたびに買い替えたキャディラックだった」
「六一年に米国への武者修行に出た。『白人専用』のレストランに入ろうとして足もとに銃弾を撃ち込まれたこともある。スケールの大きなファイトが認められ、二年後には米スポーツの殿堂、ニューヨーク・マディソンスクエアガーデンのメーンイベンターに上り詰め、ギャラも週に一万ドルを超えた。『ババの名前で客が呼べ、下働きの人の給料も高くなるし、尊敬される。それが米国だった』と話す顔は晴れやかだった。馬場さんにとって、米国はまさにチャンスと実力で『アメリカンドリーム』をつかみ取った場所だった」

突然の悲報 地元絶句
(23面)
■近所の人
「生家の隣に住む女性(81)は『正ちゃんは本当に親孝行だった。小さいときから、お母さんのリヤカーを引いて手伝いをしていた。東京で忙しくなってからも、三条に来た時は必ず両親の墓参りにきていた』と肩を落していた」--------------------




 ということで、新潟日報の2月2日付け朝刊から、私なりに抄録させていただきましたが、この紙面での扱いをみていると、東京都の青島知事の「不出馬宣言」がなければ、ひょっとしたら、新潟日報は、「ジャイアント馬場さん死去/16文キックで一時代築く」を1面トップにもってきた可能性もあるのではないかと思えてくるほどであります。
 もちろん、青島さんの「不出馬宣言」は、それでなくても不安定な現在の日本の政局に大きな影響を及ぼすものであり、地方紙にあっても、当然、1面トップに来て然るべきニュースではありますが、そのことは十二分に踏まえた上で、元・新潟県民の一人として、あるいは、馬場さんと同い栄光の中越地区の出身者として、この2月2日の朝刊ということに限定し、極めて個人的な見解を述べさせていただくなら、この日の最大のトップニュースは誰が何といおうと「ジャイアント馬場さん死去/16文キックで一時代築く」であり、スポーツ紙のように、1面全面を馬場さん関連の記事で埋めるとか、どうせ、カラー写真を使うんだったら、この日のスポニチのように、全面を巨大な馬場さんの写真で埋めてしまい、写真にすべてを語らせるというような大胆不敵な紙面作りをしてもよかったのではないかと思うわけであります。
 4面にしたって、どうせ、予定していた解説記事を全部すっ飛ばすんだったら、社説だって「20世紀とジャイアント馬場」とかいうテーマで書いた方が、ふだんよりも、ずっと読まれる社説になったはずだと思うのは、私だけではないのではないでしょうか。でも、やっぱり、私だけかな。
 でも、考えてみれば、せっかく新潟日報という立派な新聞があるんだから、何も、新潟県の地元紙が、全国紙と同じ記事を1面トップにもってこなくても、地元紙ならではの見識を示してもよかったのではないかと、そんな風に考えてしまうのは、私だけでしょうか。やっぱり、きっと、そうでしょう。
 どうも、「60年代」への思い入れが絡む話になると、もう押えがきかなくなってきてしまいますので、話を次に進めましょう。

 新潟日報では、2日の朝刊で馬場さんの記事を1面トップにしなかったことを反省してか、って、結局、話はちっとも次に進んでいなかtったりするわけでありますが、その猛省の上にたって(すみません、しつこくて…)、翌3日の社会面でも、再度、馬場さん関連の記事に、かなりのスペースを割いております。
 その社会面の記事というのは、馬場さんの中学時代の同級生で、馬場さんが、左ひじの怪我でプロ野球界を去り、プロレスの道に入るまでの時期に、馬場さんに手紙を送り続けて励ました方を紹介しているものです。
 これも、私なりに、抜粋させていただきます。

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俺は必ず頑張る/見ていてくれ
/馬場さん、旧友へ熱い思い
/三条の故藤橋さん・文通で転身支える

(23面)
「巨人退団を知らせる手紙には『しかし五年間は良い勉強になった。…俺(おれ)は必ず頑張る君にも色々心配かけてすまん俺は必ず来年はやってみせるぞ死んでもやるぞどうか見て居(い)てくれ 三条にはとうぶん帰らんつもりだ』と再起に書ける意気込みが読み取れる」
「昭和三十五年に大洋に入団するが、一カ月後に左ひじのけがで野球人生を絶たれる。その直後、『しばらく身を隠す』と一也さんに言い残しハワイへ」
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 さらに、その下には、2日に行われた馬場さんの東京の自宅での密葬についても、記事が掲載されています。
 すでに、プロレスへの熱は遥か以前に醒めた私ではありますが、最近のプロレスラーでは唯一、その名前を知っている藤波辰巳さんのコメントも掲載されておりました。実を言うと、カミさんや娘が通っている聖蹟桜ヶ丘の教会の一大イベントとして年に一度「もちつき大会」というのが催されているのでありますが、イヤしい我が家は全員で出かけているわけでありまして、この「もちつき大会」には、毎年、藤波辰巳さんが必ずいらっしゃっているので、そのお顔はいつも拝見させていただいており、普段は、プロレスなんか、あまり見ないくせに、図々しい私達は、次男なんかを抱っこしてもらって記念撮影までしていただいたりしているわけであります。
 その藤波さんのコメントも、あわせて、紹介させていただきます。

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プロレスラー、涙流して別れ/東京の自宅で密葬
(23面)
「弔問に訪れた新日本プロレスの藤波辰巳選手は『自分が入門したとき馬場さんは“雲の上の人”だった。思いだされるのは、笑顔で[頑張れよ]と言ってくれたこと。それだけです」と時折、声を詰まらせながら話していた」
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 次に、全国紙では、唯一、1面で馬場さんの記事を掲載した朝日新聞であります。

 1面の記事内容は、基本的には、新潟日報と同様でありますので、社会面から、私なりに、抄録させていただきます。

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馬場さん死去/16文キック 生涯現役/興行に非凡な才覚
[プロレスから離れるのは死ぬとき]
「巡業先では試合のあとホテルに引きこもった。『目立つのかな。外に出ると酔っぱらいがからんでくる。だから繁華街のことは何も知らない』と、話していた」
祝電に広さ感じた/「私、プロレスの見方です」などの著作のある作家村松友視さんの話
「私の書いた本は、アントニオ猪木さんを中心にした本で、私は馬場さんの敵という役になった。その後に書いた小説で直木賞を受賞した時、馬場さんから『受賞おめでとうございます』という祝電をもらった。馬場さんの大きさ、広さを感じた。これで力道山の息のかかった、『馬場』という王道、『猪木』という異端という二つの潮流が、ともにリングの世界から姿を消したことになった」
契約守る誠実な人/馬場さんと戦ったことのある米国の元プロレスラー、ルー・テーズさん(八二)の話
「馬場さんと私は尊敬しあう仲間だった。米国で試合をした時は私が勝ったが、力道山の弟子らしく、とてもいいレスラーだった。馬場さんはプロモーターとしても優秀で、契約した金は必ず払ってくれる誠実な人だった。これはこの業界ではとても大切なことで尊敬に値する」--------------------


 毎日新聞の社会面からも、一部、抄録させていただきます。

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ジャイアント馬場さん死去・61歳/プロレス/16文キック、ファン魅了
「辺りを払うような巨体と、物静かな口調ににじむ孤影がファンを終生ひきつけた。馬場さんが苦しい時、口ずさんだ望郷の愛唱歌は『砂山』だったという」
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 さらに、続きまして、スポーツ紙各紙からの抄録であります。


〈サンケイスポーツ〉

数々の逸話残した巨人時代が原点
(3面)
「ある日、馬場さんがスパイクをはかず、運動靴のままグラウンドに現われ、当時の別所投手コーチにこっぴどく怒られる事件があった。武宮さんがその理由を聞けば、げた箱に置いてあった馬場さんのスパイクに猫が3匹の子供を産んでおり『どかすのがかわいそうだったから…』と涙目で告白したという」
「馬場さんの原点は巨人にあり。それを訴えかけるかのように、馬場さんはプロ野球キャンプイン前日の1月31日に天国へ旅立った」
さらば16文/忘れない…世界一優しい笑顔
(3面)
「◆家族の思い出 2メートル9センチだったが、父母とも小柄の人だった。小学校時代、新潟・三条市からリヤカーに野菜を乗せて、母・ミツさんととも長岡の朝市に行商に出かけた」


〈スポーツニッポン〉

存在がプロレス
(2面)
「力道山が死んだ時『次は俺の時代だ』と決意を口にしていたけれど、当時はうるさい先輩がいてまとめ切れなかった。『オレは人を押しのけてまで、上に立つようなことはできない』と述懐していた」
「確かに当時の馬場に力道山のような強引さがあったら、日本プロレスは分裂しなかったかもしれない。でも、馬場がワンマンじゃなかったおかげでその後次々に新団体ができて、今のようにプロレス界が発展したと思う。だから馬場ちゃん、天国の師匠には胸を張って会って下さい。本当に長い間ご苦労さまでした。合掌」
(松明邦彦[67]スポニチOB)
ガウン脱いでも一流/馬場さん急死…芸能界も大損失
(23面)
「プロ意識の強い人でもあった。ある時、他の出演者が演出法などについて不満を口にした。その時、馬場さんは当事者がいないところで『僕たちは仕事でやっているのだから、黙ってやればいいのに。趣味じゃないんだから』と顔をしかめた」
「正解率こそ高くなかったが、視聴者の人気は高く、山城新吾らの共演者からも愛された。あまりに強く回答ボタンを押したため、セットを壊してしまったこともあったが、周囲は笑うばかりで、誰にも憎まれなかった」


〈デイリースポーツ〉

61歳で逝った馬場さんの一生
(2面)
「1951年4月 三条第一中学校に入学。野球部では中越地区で優勝。卓球でも中越地区で優勝」


〈東京中日スポーツ〉

馬場さんを悼む・門馬忠雄
(1面)
「絵画が好きで油絵を描く本格派であった。題材は、水ある風景を好み、廃船に日本海といった構図が得意だった。佐渡おけさや砂山と故郷・越後にちなんだ歌をうたいながら、キャンパスを隠すように、絵筆をふるったひとコマが思い出される」
輝いたタレント馬場
(19面)
CM登場18社「ジャイアント馬場さんは、食品や自動車、政府広報まで18社のCMに登場した(CM DATA BANK/CM総合研究所調べ)


〈日刊スポーツ〉

著名人のコメント
(2面)
巨人時代一緒にプレーした川上哲治氏
「俊敏な動きはできなかったですが、一生懸命プレーする人だった。性格もいい人でしたよ。手も大きくて、回転のかからないボールが多かったということも覚えています」
阪神前監督・吉田義男氏(巨人時代の馬場さんが公式戦で初めて対戦した身長167センチの打者)
「あの試合は阪神が一方的にリードしていましたね。馬場さんの速球に、セカンドゴロに打ち取られました。アメリカの選手とも対戦したけど、とにかく大きかった。屋根の上から垂直に落ちてくる感じでしたよ。球はすごく速かったです。選手の時期は短かったけど、鮮明に覚えています」
故郷の新潟・三条市に訃報届く
(2面)
「当時、馬場さんの実家は八百屋を営んでおり、リヤカーを引いて20キロ以上離れた長岡市まで野菜を売りに行っていたという」
馬場さん足跡
(3面)
◆61年7月 芳野里、マンモス鈴木と3人でアメリカ武者修行に出発。


 ということで、この後、本来なら、抄録させていただいたそれぞれの記事の補足説明をさせていただき、さらに、冒頭でも触れさせていただいた去年の暮れのNHKのトーク番組と今年のお正月のTBSのアニメ映画などについても紹介させていだくつもりでしたが、すでに、時計の針は午前5時を回ろうとしております。
 とりあえず、今日のところは、この辺で、一回、切らせていただいて、改めて、続編ということでアップさせていただきますので、また、よろしくお願いいたします。






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