ジャイアント馬場さん 追悼特別企画 その1(馬場さん、「60年代の夢」をありがとうございました!!)はこちら
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前回のジャイアント馬場さんの追悼特別企画ページを作らせていただいてから2週間が経ってしまいました。 こういう企画は、あまりインターバルを置いてはいけないものだということは十分に認識しておりますが、何分にも、心身ともに、絶不調状態が続いているため、それなりの時間がかかってしまっていることにご理解をいただければと思う次第です。 まさか、年明け早々に馬場さんが亡くなるなどということは思いもしませんでしたが、たまたま、昨年の暮れ(1998年12月27日)、地上波のNHK総合テレビで、昨年の5月に衛星放送で放映された「この人このまち」が再放送され、その番組を録画してありましたので、特に、馬場さんと故郷との関わり、というような視点から4つのテーマに絞らせていただき、、同じ新潟県の中越地区で育った人間として、馬場さんのことを偲ばせていただこうと思います。 よろしくお願いします。 |
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この番組は、NHKの徳田章アナウンサーとタレントの松居直美さんが司会を担当しておりまして、ゲストに迎えた著名人の出身地で公開録画されているものであります。
当然、馬場さんがゲストだった回は、新潟県三条市の会場からの録画中継でありました。
番組では、日本テレビから映像を借りて、馬場さんの還暦試合の様子や、馬場さんがNWA選手権のタイトルマッチで勝利した時の様子なども放映しておりましたが、今回の、この追悼企画ページでは、既に、色々な追悼番組などで放映された場面は、敢えて紹介させていただかず、あくまでも、馬場さんと新潟県中越地区との関わりという切り口で、私が興味深く感じたシーンを、ホームページ上で再現させていただくことにします。
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まず、最初は、実家の家業であった青果商を手伝っていた小学校から中学校、高校にかけての頃の、馬場さんの思い出が語られる場面であります。
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徳田 馬場さんのお家は青果業でいらっしゃった。だけど、市に野菜を持っていって売るというお仕事…
馬場 ま、荷物を運ばされたんです。荷物というか、野菜をね。
徳田 ずいぶん小さい時から、やらされていたそうで…
馬場 そうですね、小学校の時も、多分、あったでしょうね。そういうことはしたと思います。
徳田 朝市っていうくらいですから、ずいぶん、朝、早くに出かけるわけですね。
馬場 そうですね。僕が学校に行く前にすることですからね。
徳田 どうやって、もって行くんですか
馬場 いや、リヤカーに載せたり、ソリで引っ張ったり。
松居 え、雪の日ですか。
馬場 ええ、昔はね、この辺は、すごく雪が積もりましたからね。冬は、もう、リヤカーなんてわけにはいかなかったですよ。
松居 雪の日でも、行ったんですか。
馬場 仕事を休むわけにはいかないでしょ。
松居 でも、学生さんだったのに…
徳田 それも、小学校とか中学校ですもんね。
馬場 そうですね。
松居 お家から、どれくらいの距離があったんですか。
馬場 加茂、見附、長岡くらいですから、長岡まで20キロくらいですかね。
徳田 20キロを…
松居 それで、一仕事終えてから、学校へ行くんですか。
馬場 はい、はい、はい。
松居 もう疲れて、明日はいいや、なんて思ったことは…。
馬場 いや、それは、毎日、思ってますよ。そんなもの、したくないんですからね。したくないんだけれども、やらなきゃ、叱られますからね。
松居 鍛えましたね、体…。
徳田 ソリで…。
馬場 鍛えたっていうか、自然に、それはね、鍛えようと思って、やったわけじゃないですからね。
〈主宰者から〉
ということで、右の4枚の画像は、何れも、番組の中で放映された昭和30年代の新潟県中越地区の映像でありまして、私にとっても、懐かしい風景です。
馬場さんもおっしゃっていたように、昭和20年代から昭和30年代にかけては、三条市や長岡市のある中越地区は、毎年、冬になると、大量の降雪がありました。
以前、1963(昭和38)年の通称「三八豪雪」のことを書かせていただきましたが、中越地区を“陸の孤島”にしてしまった「三八豪雪」まで行かないまでも、私の記憶に残っている昭和30年代の長岡周辺の降雪量というのは大変なもので、一冬の積雪が2〜3メートルなどというのはザラだったように記憶しています。
馬場さんの出身地である三条市では、「二七(にしち)の市」といって、二の付く日と七の付く日に市場が立ったそうでありますが、私の育った長岡市では、「三八(さんぱち)の市」といって三の付く日と八の付く日に立つ市場と「五十(ごとう)の市」といって五の付く日と十の付く日に立つ市場と、2つの市場がありました。
「三八の市」は、この「60年代通信」の中の「テツオの部屋」というコーナーの主でありますテツオ君が住んでいた愛宕町界隈に立つ市で、「五十の市」というのは、駅前の大手通りという繁華街を貫く形で、中央郵便局や大和デパート、エメラルド劇場などが面していた細い通り沿いに立つ市でした。
私の記憶では、「三八の市」も「五十の市」も呉服類や生活雑貨などを扱う露店がありましたが、決定的に違うのは、「三八の市」は鮮魚類を扱う露店が大量に入っていたのに対し、「五十の市」では鮮魚類を扱う露店は一切立たず、どちらかというと青果類を扱う露店が多かったように思います。
「三八の市」も「五十の市」も、四季を問わず立っていたように記憶しておりますので、右の画像のように、冬場はソリで物を運んでいる風景も珍しくありませんでした。
私が小さい頃は、馬車で荷物を運ぶという風景も珍しくなく、よく道路の上に馬糞が落ちていたもので、夏場などは、馬糞が乾燥すると、ワラくずの山のようになったのを覚えています。
また、夏場は、近隣の農家のおばさんやおばあちゃんたちが、リヤカーを引いて、私が住んでいた地蔵町あたりには、家々を一軒一軒回り、「いらんかのぉー」と言って、採りたての野菜を売りに来ていたものであります。
ちょっと、話が脇道にそれてしまいましたが、馬場さんがリヤカーを引いてきた長岡の市場というのは、恐らく、「五十の市」の方だったのではないかと思われます。
何れにしましても、馬場さんにとっての“故郷の原風景”であるリヤカーやソリ、市場というのは、同じ中越地区で育った私やテツオ君にとっても、紛れもなく“故郷の原風景”ということになるわけであります。
この「60年代通信」でも、既に、何度も書かせていただいている通り、特に、テツオ君が住んでいた長岡市の愛宕町辺りというのは、1970年代から80年代にかけて、新幹線や高速道路のバイパス道路などの建設によって、古い町並みがズタズタに寸断されてしまっておりまして、あの懐かしい懐かしい風景は、もう見ることが出来なくなっています。
続きましては、ジャイアント馬場さんの愛唱歌として名高い「砂山」にまつわるお話しです。
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徳田 何か、それで、毎日、馬場さんがつらいことがあると、口ずさむ歌があったという風に聞いているんですが…。
馬場 そうですねぇ、ま、「砂山」という、童謡なんですけどね。
松居 どういうところが好きだったんですか。
馬場 いや、それしか、知らなかったんじゃないですかね。
全員 (大爆笑)
徳田 海は荒海、向こうは佐渡よ…。ま、新潟の方なら、本当に、どなたでもご存知じゃないかと思うんですが。
馬場 いや、その後ね、巨人軍に入っても、友達と一緒に遊んだりなんかする時には、そういう歌を歌っていましたね。
徳田 じゃ、その小さい時からの、なんか、本当に、口をついて出る、体に、何か、沁み込んだ歌だったんですね。
馬場 …でしょうかね。
〈主宰者から〉
ジャイアント馬場さんは、「つらいことがあると口ずさむ歌」として「砂山」を挙げていらっしゃいますが、これは、別に、この番組のために、敢えて、「砂山」という歌を引っ張り出してきているわけではありません。
実は、私が高校時代に愛読(?)していた本の中に、光文社のカッパブックス・シリーズの一冊で「日本童謡集」(寺山修司編著)という歌集がありました。
今、手元に、この本がありませんので、正確な記述は再現できませんが、この「日本童謡集」という本の冒頭部分で、ジャイアント馬場と「砂山」の関わりについて、寺山修司が一文をしたためていたのを覚えていますから、かなり早い時点から、馬場さんにとって、「砂山」という歌は、特別な存在だったのだろうと思われます。ちなみに、寺山修司自身は、ジャイアント馬場にとっての「砂山」に匹敵する、自分にとって特別な存在の歌として、「赤とんぼ」を挙げておりました。
馬場さんが亡くなられたことを伝えるスポーツ新聞各紙の記事でも、「砂山」に言及したものは少なくありませんでした。
「絵画が好きで油絵を描く本格派であった。題材は、水ある風景を好み、廃船に日本海といった構図が得意だった。佐渡おけさや砂山と故郷・越後にちなんだ歌をうたいながら、キャンパスを隠すように、絵筆をふるったひとコマが思い出される」(『東京中日スポーツ』[1999年2月2日])
番組の中では、北原白秋の作詞、中山晋平の作曲による「砂山」を、NHK「おかあさんといっしょ」の初代・歌のお兄さんである田中星児さんが、ギター一本の弾き語りで歌い、馬場さんが、胸に込み上げるものがあるかのような表情で、口を真一文字に結びながら、聞き入っていたのが、印象に残りました。
海は荒海 向こうは佐渡よ
すずめ 泣け泣け
もう日は暮れた
みんな呼べ呼べ
お星様 出たぞ
さらに、続きましては、「砂山」を歌ってくれた田中星児さんに贈られた越後名物・笹ダンゴをめぐる談義であります。
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徳田 これ(笹ダンゴ)、あの、各家庭で、家々で作るというようなことだったんでしょうか、馬場さん。
馬場 そうですね、毎日、子供の時は、家で作ってましたよね。ですから、そんなにしてやんないで、こう、上からやった方が早いと思うんだけどな。
田中 それは気がつかなかったですねぇ。
松居 あ、これ、笹のとんがっている方から、開けるんですかあ!?
田中 それが通の食べ方ですか。
松居 いやだ、馬場さん、最初から言ってくれればいいのに…。
徳田 じゃ、馬場さんも、実際に、よもぎを摘みに行ったり…。
馬場 そういうことはないですけどね。これを腰に差して、それこそ、イカ(凧)揚げに行ったことはありますよね。
松居 イカ揚げ?
馬場 凧揚げですけどね…。
田中 イカって言うんですか。
徳田 じゃ、これをおやつに持っていったわけですね。
馬場 そうですね。
松居 これ、いくつくらい食べてました、馬場さん。
馬場 ああ、それは、10個か、そこいらじゃないですか。
松居 ええっ。
馬場 で、砂糖がなくてね、あの、塩餡というのもありましたね。
徳田 じゃ、甘くない…。
馬場 ああ、しょっぱいんですよ。
〈主宰者から〉
今でこそ、長岡をはじめ、新幹線の駅などでは、年がら年中、笹ダンゴを買うことができますが、私が子供のころは、5月の端午の節句の頃にしか、笹ダンゴを食べていなかったような気がします。
童謡の「背くらべ」では、「ちまき食べ食べ兄さんが 測ってくれた背の丈」と歌われておりますが、私たちにとっては、端午の節句といえば、笹ダンゴとちまきがワンセットで思い出されます。
馬場さんの頃には、塩餡なるものもあったようでありますが、さすがに、私たちの記憶に残っている昭和30年代半ば以降には、塩餡というものはなかったように思います。
番組の中では、不器用な手付きで笹ダンゴの笹を横から剥いている他の出演者を見るにみかねて、馬場さんが大きな手で、上手に笹を剥いてみせてくれました。
最後は、野球少年だった馬場正平君のお話です。
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ナレーション
本名・馬場正平さん。
昭和13年1月23日、新潟県三条市西四日町生まれ。四人兄弟の末っ子。
お兄さんは戦争で亡くなり、お姉さんは二人、今も、家業の青果業を継いでいらっしゃいます。
この写真はしたのお姉さんと撮ったものです。
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四日町小学校1年生の時。
この頃は、まだ、飛びぬけて背が高いということはありませんでした。
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そして、5年後、6年生。
馬場少年は一目で分かります。
なんでも、4、5年生の頃から、急に背が伸びたんだそうです。
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三条第一中学校の野球部です。
小学校の頃から野球少年。馬場さんは、右から二番目です。
中学ではファーストを守っていました。
これは、中越地区大会で優勝した時の写真です。
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昭和28年、県立三条実業高校入学。高校でも野球部に入ったものの、すでに、正平君の足に合うスパイクがありません。
幸い、野球部の先生が特別注文のスパイクを作ってくれました。その先生の勧めでピッチャーに。それも、エースで四番。
一試合に18もの三振を奪ったこともありました。
この頃、正平君の前途は洋々。
リヤカーで足腰を鍛える一方、野球部では猛練習。
高校2年の夏の大会の予選では、地元の新聞が馬場投手を擁する三条実業高校を優勝候補にあげていたくらいでした。
徳田 という風に、馬場さんの中学、高校時代を振り返りました。
馬場さん、でも、三振を18も奪っちゃうっていうのは、大変なものですよねぇ。
馬場 それはね、ちょっと、台風に近いくらいの風が吹いていましてね(笑)。
松居 ハッハッハッハッ。
徳田 そうなんですか。
馬場 そうなんです。
徳田 じゃ、若干、それに助けられたということも…。
馬場 そうですね、はい。
松居 風の勢いで。
馬場 ま、そうですね、だと思いますがね。
徳田 いや、ご謙遜…。
松居 体も大きかったから、迫力もあるし…。
徳田 なんせ、優勝候補。
松居 候補っていうより、優勝確実って思っていたでしょうね。で、どうでした、結果は。
馬場 結果は、一回戦で負けました。
松居 どうして?
馬場 いや、どうしてって言われても。やっぱり、ヘタだから、負けたんでしょうね。
松居 その日は、風は吹いてなかったんですか。
馬場 いや、まったく快晴でしたね(笑)。
徳田 じゃ、試合の様子は、今でも、はっきり覚えていらっしゃるんですか。
馬場 え、もう、最後の9回の裏、ツーアウト、ランナーがサードにいましてね、セカンド・ゴロで、セカンドがハンブルして、一塁に投げたんですけどね、ま、僕は、間に合ったと思ってるんですけど、セーフになりましてね、1対0で負けましたね。
徳田 じゃ、0対0で迎えた9回の裏、ギリギリのところで、それがアウトになれば、延長戦だった…。
馬場 ですね。で、校長先生が見てましてね、「抗議はしてはいけません」と言われて、それで、終わりでした。
徳田 高校生…
松居 でも、馬場さんから見たら、どう見てもアウトだったんでしょ…。
馬場 まあね、でも、今ごろ、そんなことは言えませんけどね。
〈主宰者から〉
ということで、馬場さんが、いかに野球に強い思いを抱いていた少年だったかが偲ばれるようなお話でありました。
馬場さんは、中学時代、中越地区大会で優勝されているそうでありますが、実は、私も、長岡市立東北中学校の3年生の時、野球部に所属しておりまして、ファーストで3番を打たせていただき、東北中学校の野球部史上、初めて中越地区大会の準決勝まで進出して3位となり、県大会に初出場を果たしました。それは1970(昭和45)年のことでありまして、馬場さんを擁した三条第一中学校の野球部が優勝してから、17年後のことでありました。
馬場さんは、高校時代も投手として注目され、番組のお話でもあった通り、甲子園の予選で敗退はしましたが、高校2年の秋に読売巨人軍にスカウトされ、新潟県出身の初のプロ野球選手となったのでありました。
番組では、この後、その巨人軍時代のお話や、プロ野球界を去って、力道山道場に入門し、プロレスラーとして故郷に錦を飾り、日本プロレス界を背負って立つまでになった馬場さんのお話が続きましたが、この「60年代通信」の馬場さん追悼特別企画ページとしては、ここまでに止めさせていただくことにします。
(C)1999 Kiyomi Suzuki