「驚きももの木20世紀/ブルーコメッツの苦悩」 HP詳報版


第1回〜プロローグ・新聞三紙に見る放送当日の番組案内
第2回〜番組本編 (1) GS帝王伝説
第3回〜番組本編 (2) 青の革命その1
第4回〜番組本編 (3) 青の革命その2
第5回〜番組本編(4)青い城


第4回〜番組本編 (3)青の革命その2

 今年(1999年)に入ったばかりの1月2日に、「驚きももの木20世紀/ブルーコメッツの苦悩」HP詳報版の「第3回〜番組本編(2)青の革命その1」をアップしてから、あっという間に、1カ月近くが経ってしまいました。このペースだと、ほとんど、「驚きももの木20世紀/ブルーコメッツの苦悩」HP詳報版は今年の年間企画になってしまいそうですが、ま、気長にお付き合いいただければと思います。風邪で1週間も寝込んでしまったこともありますけれども、とにかく、自分で企画しておきながら、こういう言い方も何ですが、この企画は手間ヒマかかって、困っています。でも、前にも書かせていただいた通り、ブルコメが1時間枠の番組で取り上げられるというのは、これが、間違いなく最後だろうと思いますので、しつこく、きっちりとホームページの形で残しておかなければなりません。
 ということで、能書きはこれくらいにしまして、本編をお読み下さい。
 前回までと同様に、私の説明部は イタリック にしてありますので、うざったいと感じられる方は、イタリックの部分 を飛ばしてお読み下さい。
 では、よろしくお願いします。


ナレーション

 昭和30年代から40年代へ、ちょうどテレビが高級品から必需品へと移り変わっていった時代。
《主宰者から》
 すみません、いきなり、割り込ませていただきます。
 「60年代通信」をお読みいただいているような皆様は、先刻、ご承知のことかとも思いますが、日本でテレビの本放送が始まったのは、1953(昭和28)年のことでありまして、当初は、街頭テレビなどが中心で、一般家庭にはテレビの受像機など存在しなかったわけで、1959(昭和34)年の皇太子(現在の天皇陛下)成婚を契機に普及が加速し、1959年時点で200万件だったNHKの受信契約数は、以後、年々倍増のペースで伸び続け、1962(昭和37)年には1000万件を突破、1964(昭和39)年の東京オリンピックで殆どの世帯にテレビが行き渡るようになりました。
 ちなみに、貧乏だった我が家にテレビがやってきたのは、受信契約数が1000万件を突破した直後の1963(昭和38)年頃だったと記憶しております。


 当時、フジテレビに天皇と呼ばれた男がいました。
 視聴率抜群、人気番組「ザ・ヒットパレード」のディレクター、すぎやまこういち。
 彼は、その頃、ある不可解な壁に打ち当たっていました。
 作曲の才能もあったすぎやまは、番組で歌わせるために、人気歌手に何曲も曲を書いていたといいます。
 ところが、そのどれもレコードにならない。
 調べてみると、そこに、巨大な壁が立ちはだかっていたのです。



 それが、レコード会社の専属制度でした。
 つまり、レコードを出せるのは、作曲家であれ、歌手であれ、そのレコード会社に専属しているものだけだったのです。


 そんな馬鹿なことがあるか、フリーの者がいくらいい曲を書いても、専属にしていただかなくちゃ、レコードも出せないのか。
 


 すぎやまが憤っていた、まさに、その頃でした
 奇妙なレコードが発売されます。
 「涙の太陽」
 歌うのは、エミー・ジャクソン。


 でも、このジャクソン嬢、どうも怪しい。

 日本語で質問すると、思わず、日本語で答えてしまうし、
 そう思ってみると、作詞家の名前もどこか、おかしい。

 R.H.Rivers???


湯川
 ま、湯川れい子で出す訳にいかないので、ホットリバー、湯川をホットリバーにして、で、れい子のRと…、R.H.Riversという名前で。
 何しろ、エミー・ジャクソンはアメリカ人ということで出すことになっていたわけですから、日本になんかいないことになってたんで…。
《主宰者から》
 エミー・ジャクソンについては、あまり、ご存知ない方もいらっしゃるのではないかと思いますので、簡単に説明させていただきます。
 復刻版CDの「エミー・ジャクソン/涙の太陽」の解説によりますと、本名はエミー・イートン(日本名・深津エミ)、父方の祖父がイギリス人で、1946(昭和21)年7月、英国エセックス州ランスフォードで生まれました。
 芸能界に入るきっかけは福田一郎さんや湯川れい子さんなんかがレギュラーだったラジオ番組で、英語と日本語の話せるバイリンガルのアシスタントを探していたところ、エミーが採用されたそうで、それが、1964(昭和39)年春のこと。当時、横浜の聖モーリス修道院附属学校に在学中でした。
 オーディションを経て、番組への出演が決まったものの、生放送だった第1回の放送30分前に、エミーは日本語の文字を全く読めないことが判明し、急遽、台本に英語を書き込み、その場を凌いだというエピソードも残されています。
 歌手としての才能を発見したのは、「涙の太陽」を作詞した湯川れい子さんで、歌好きだった彼女が、たまたまギターを弾きながら歌う「ユーアーマイサンシャイン」を聞き、プロとしての可能性を感じたのだといいます。
 1964(昭和39)年の暮れ、後にブルコメの担当となるコロンビア洋楽部の泉明良ディレクターが用意したのが、このテレビでも紹介された「涙の太陽」でした。
 ちなみに、ブルーコメッツは、このデビュー盤だけを除き、シングル盤、LP盤とも、エミー・ジャクソンの殆どの曲のバッキングを務めています。 



ナレーション
 なぜ、そんなややこしいことをしたのかといいますと、そこには、日本の歌謡曲は好調なのに、洋楽は全く売れないという、コロンビア・レコードのお家の事情があったのです。


日本コロムビア洋楽部長(当時)
金子秀氏
 とにかく、あの当時ね、コロンビアが契約していた外国のレーベルに、ヒットがないんですよ。
で、やっぱり、責任者としてはね、どうしても、向こうに、その、待っててもないんなら、作っちゃおうかと。


日本コロムビア洋楽部ディレクター(当時)
泉 明良氏

 ただ、最初ねぇ、あんまり、こういうサウンドに理解してくれる人も、社内的にも少なかったですけどね。
《主宰者から》
 補足説明ということで、復刻CDの解説文から、引用させていただきます。
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 湯川れい子がHot Riversのペンネームで英語の詞を書き(実際にはエミーがかなりの部分をサポートしたらしい)、中島安敏が作曲したこの作品は、日本のファンを意識し、周到な計算をして作ったものだった。当時、流行しつつあったエレキ・ブームをがっちり読んでいたのである。架空のエレキ・バンド“スマッシュメン”がバックに付き(特に、ギターは“テケテケ”をうまく弾ける人間を探して何十人ものオーディションをおこなった)、コーラスもいろいろ試した結果、フィリピンのグループが使われた。そして、4月20日、CBSレーベルよりシングル「涙の太陽/とどかぬ想い」がリリースされたのである。
 当時の邦盤(330円)よりも40円高い370円という洋盤価格で売られるこのレコードに、当然、インチキ盤論争が巻き起こった。しかし、そんな騒ぎをよそに、ラジオから火がつき、レコードは売れまくったのである。ちなみにミュージック・ライフ誌の調査による「東京で一番売れているレコード」では、外国盤ヒット・シングルのチャートで12位(6月)、4位(7月)、5位(8月)というランキングを記録した。当時、上にいたのはベンチャーズの「キャラバン」、「十番街の殺人」といった超強力ナンバーであり、もし国内盤のチャートならば間違いなく第1位だった。
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 ということで、一部には、架空のエレキ・バンド“スマッシュメン”はブルコメのことではないかというような説もあったのですが、このCDの解説による限り、その説は違ったようであります。


ナレーション

 で、思惑どおり、「涙の太陽」はヒット。

 なるほど、洋楽扱いなら、作詞家も歌手も専属でなくても、レコードが出せるのか…。

 すぎやまの番組に英語で歌うエレキバンドが登場するのは、その頃でした。
 そう、それまでバックバンドとして出演していたブルーコメッツです。

 
 BLUE EYES。
 曲は井上、作詞家も日本人でした。


作詞家
橋本 淳氏

 ま、井上さんと、あのぅ、歌を作るっていうことになって、で、作って、すぎやまセンセイにこういう曲でよろしいでしょうか、と、譜面をみてもらって、歌詞をみてもらって…。その、日本語じゃダメだというんで、たまたま、僕の家に、大学生が、なんか留学生が、交換留学生とかいうんで、家にいたんで、あの、英語を聞きながら、インチキな日本語英語っていうんで、作ったわけですよね。


ナレーション

 昭和41年3月、コロンビアの洋楽部門からブルーコメッツ・デビュー。

 すぎやまが、テレビの力を最大限に利用するのは、実は、ここからです。


三原
 その頃っていうのは、もう、ホントに、自分たちの番組だから、勝手に、「今週の第3位、ブルーコメッツ…」、ね、全然、レコードが、そんなに売れていなくっても、今週の1位は「青い瞳」ブルーコメッツって、もう、作っちゃう、勝手に。



井上
 ひどい電波の私物化なんですが、ま、確かに、その、当時としては、画期的な音楽であったことは確かなんです。


ナレーション

 
 そして、英語盤から4カ月後、ついに、日本語バージョン発売。


 (旅路の果ての 孤独な町で 俺は悲しき恋を知ったのさ…)



 ちょうど、その頃、ビートルズ来日。

 新しいスタイル、新しい音楽に、当時、百万人を超えた大学生が飛びつきます。

《主宰者から》
 ビートルズが武道館で公演を行ったのは、1966(昭和41)年6月30日から7月2日までの3日間でしたが、「第1部」ということで、いわゆる前座を務めたのが、ブルコメ、ブルージーンズ、ドリフターズ、尾藤イサオ、内田裕也、望月浩、桜井五郎でありました。
 ブルコメの「青い瞳」日本語版が発売されたのは、この7月のことです。
 その意味合いでは、日本語によるオリジナル曲のヒットでGS時代の幕が開いたという見方をするのであれば、そのタイミングは、まさしく、ビートルズの来日と重なっていたわけであります。
 


 そして、ビートルズと同じスタイルの、歌うエレキバンド、ブルーコメッツの人気も、それと同時に、上がっていきました。


(青い瞳)[日活 昭和42年2月 「二人の銀座」監督・鍛冶 昇]


《主宰者から》
 誠に些細なことで、恐縮ですが、ブルコメがブルコメとして映画に出たのは、この「二人の銀座」が始めてでありまして、この作品を撮った鍛冶昇さんという人は、この2年後に、舟木一夫と松原智恵子が共演し、長岡で全面ロケを行った映画「青春の鐘」でもメガホンを取った監督さんであります。
 ちなみに、ブルコメは、昭和43年には、あの内藤洋子と東宝映画「年ごろ」で共演、ほんのちょっとですがセリフも入ったり、お遊戯までさせられる本格的な映画出演を果たしました。
 この映画については、いずれ、じっくりと、取り上げさせていただきますので、よろしくお願いします。

 
ナレーション

 焦ったのは、専属制度にふんぞり返っていたレコード会社でした。
 そして、同じ頃、登場したザ・スパイダースに続いて、ワイルドワンズ、サベージがデビュー。
 彼らのほとんどが、それまでの大作家センセイたちに書けない歌、自分たちの作ったオリジナル曲を歌いました。
 そう、ブルーコメッツ…、彼らが、日本の音楽界に君臨していたレコード会社の専属制度を崩壊させるキッカケとなったのです。

ナレーション

 その年、ブルーコメッツは、前年に、ザ・ピーナッツのバックバンドとして出ていた紅白歌合戦に、今度は、主役となって出場。

 職人気質の地味なバンドマンだったはずの5人が、あれよあれよという間にスター。

 彼らが、“青い城”と出会うのは、この翌年のことです。

《主宰者から》
 最後は、1966(昭和41)年の大晦日にブルーコメッツがNHKの紅白歌合戦に初出場した時の画像ですが、この時の紅白では、ブルコメは、ビートルズの「イエスタディ」を歌った立川澄人さんのバックコーラスも務めるなど、大活躍でありました。
 ということで、ようやく「青の革命」のパートが終わり、次回から、「青い城」のパートへと移っていくことになります。

(次回へ続く)



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