「驚きももの木20世紀/ブルーコメッツの苦悩」 HP詳報版


第1回〜プロローグ新聞三紙に見る放送当日の番組案内
第2回〜番組本編(1)「GS帝王伝説」
第3回〜番組本編(2)「青の革命」その1
第4回〜番組本編(3)「青の革命」その2
第5回〜番組本編(4)「青い城」


第5回〜番組本編(4)「青い城」

すみません。
この画像はどうしても上手く取り込めませんでした。
メンバー5人が映っている写真の右下に「青い城」と書いてあります。

 またまた、前回の「驚きももの木20世紀/ブルーコメッツの苦悩」HP詳報版の「第4回〜番組本編(3)青の革命その2」をアップしてから、1カ月近くが経ってしまいました。ほとんど月間企画のようになっておりますが、心身の不調などの理由に依るところも大きいこともありますので、どうか、ご容赦をいただければと思う次第です。
 さて、このシリーズ企画の第2回でも紹介させていただいたように、番組本編は、「GS帝王伝説」「青の革命」「青い城」「青の夢」「青の冒険」「青の行方」「それぞれの青」という7部構成になっておりまして、今回は、その3番目の「青い城」というパートを取り上げさせていただきます。
 これまでと同様に、私の能書き部分をイタリックにさせていただきますので、番組の本編だけを追ってみたいという皆さんは、イタリック部分をとばして、ご覧いただければと思います。
 よろしくお願いします。


ナレーション

 井上大輔に作曲家として声がかかるのは、昭和42年のことでした。

ナレーション

 「布施明の“霧の摩周湖”ってあるでしょう。

  あんな感じの曲を木の実ナナに唄わせたいんだけど…」


井上


 その、なんか、曲を作って、最初はできなかった。
 そしたら、橋本淳が、こんな詩があるんだけど、これで、ちょっと、やってみないって、ぱっと持って来た。
 で、その詩で作り始めたらば、ワンコーラス、最初から詩を見ながら、ストレートに曲ができてしまったっていう、1分何十秒でできた。
 そのデモテープを作るんで、ブルコメでやってみようということで、ちょっと、さらってみたら、あの、ま、リバプールサウンドのリズムに乗っけると、すごく、いいわけですよ。
 で、これは、新しいね、ということになって、それは、木の実ナナさん用の曲だったんだけど、そちらには行かずに、僕らの曲になってしまって…。

〈主宰者から〉
 ブルーシャトーの曲のモチーフは「月の砂漠」で、コード進行も似たものになっている、というような話は、私も、以前から、聞いたり、読んだりしておりますが、井上忠夫自身は、『グループサウンドのすべて』(ベップ出版、1976年)という本に掲載されている加瀬邦彦との対談の中で、次のように話しています。
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井上 曲なんか二人はずいぶん違うね。
加瀬 うん、ダイちゃんは日本的なものが多いし、僕はポップス的でしょう。僕は歌謡曲のレコードって1枚も買ったことないよ。この頃、それはよくないって思い直してるけど。
井上 なんで日本的になるのか分からないけど、多分、キャバレー時代の影響かな。キャバレーではモンダン・ジャズばっかりやってて、間でリクエストがあると「無情の雨」とか「潮来笠」とか「雨に咲く花」をやるのね。みんなサックスのソロなんで自然と混じってきたのかな。「ブルーシャトー」を書いたときは、なんでこんなメロディーが出来たのか自分でもわからなかったね。
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 昭和42年のNHK紅白歌合戦の画像

 森と泉に囲まれて 静かに眠る ブルーブルー ブルーシャトー

 あなたが僕を 待っている 暗くてさみしい ブルーブルー ブルーシャトー

 きっと あなたは 赤いバラの バラの香りが苦しくて 涙を そっと 流すでしょう


ナレーション

 レコード売り上げ150万枚。ブルーシャトーは空前のヒットとなりました。

ナレーション

 5人の男達の回りに、女の子があふれ、取材だといっては、スケートまで履かされる。

 バンドマン時代には考えられなかったような事態が、次々と起こります。


三原


 ファンレターががんがん来るようになるし、どっか行けば、キャーって。

 なんで、俺達、急に、こんなに人気でてきちゃったの、みたいな…。


井上

 自分達の感覚でついていけない。ものすごいことになったな、と。

 それで、ファンにもみくちゃになりながら、
 一体、何が起きたのか、よく分からないと…。







 夜霧のガウンに つつまれて


 静かに眠る ブルーブルー ブルーシャトー


 ブルーブルーブルーブルーブルーブルー シャトー


ナレーション


 歌いだして2年で大ヒット。それを、複雑な思いで見ている男がいました。

 そう、すぎやまこういち。 もともと、自分の歌をレコードにしたくて、仕掛けたブルーコメッツ。

 ところが、彼らは、自分たちのオリジナル曲で売れていく。
〈主宰者から〉
 ブルーコメッツをフジテレビの人気番組だった「ザ・ヒットパレード」に起用したのは、すぎやまこういち氏自身でありまして、その辺の経緯について、すぎやま氏は、以前も、どこかで紹介したような気がしますけれども、『サンデー毎日』(1995年1月8・15日号)の「戦後50年ライバル物語〜ブルー・コメッツvsザ・タイガース」という記事の中で、次のように話しています。
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 ブルー・コメッツは上野にあるジャズ喫茶で僕が見つけたんです。当時、僕は暇さえあればいろんなジャズ喫茶でタレントのスカウティングをしていましたからね。
 彼らはGIブルースとかを歌っていてその才能にびっくりしたんですよ。その場でマネジャーに、
 「こりゃぁいいから、絶対、デビューさせなさい」
 って掛け合った。
 それで、僕がディレクターをやってた「ザ・ヒット・パレード」(フジテレビ)でデビューさせたんです。最初はチョボチョボ出て、途中から番組のレギュラーになりました。
 ブルー・コメッツはどちらかというと井上忠夫のきぃ奥がやや歌謡曲路線。「ブルー・シャトウ」もかなり歌謡曲のにおいがありますよね。ブルコメはすでに彼らのスタイルが出来上がっていましたからほとんどいじらなかった。そのへんは新人のザ・タイガースとは違っていた。
 (中略)
 ブルコメにも何曲か作曲しましたけれど、僕の代表作といわれるものはないな。ブルコメは井上忠夫にお任せという感じですね。歌謡ポップスという路線は井上忠夫が敷いたわけです。
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 ということで、ブルコメのシングル盤ですぎやま氏が手がけた曲というのは、「何処へ」のB面に入っている「センチメンタル・シティ」だけでありました。


ナレーション


 すぎやまのもとに

 大阪のジャズ喫茶を

 沸かしていたファニーズがやってくるのは、

 まさに、そのころでした。



すぎやま


 で、見た時に、もう、なんか、非常に、ヴィヴィッドな、躍動的なものを感じて、

 それと、声がとてもよかった。

 いい声を持っている。
〈主宰者から〉
 これも、以前、どこかで引用させていただいたと思いますが、すぎやま氏自身は、初めから、タイガースを演奏もできるバンドというよりも、歌手あるいはコーラス・グループというような捉え方をしていたようで、その辺の認識がうかがえる部分を、同じく『サンデー毎日』(1995年1月8・15日号)の「戦後50年ライバル物語〜ブルー・コメッツvsザ・タイガース」という記事の中から引用させていただきます。
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 沢田研二がとにかくピカッと光るものを持ってましたね。非常にスター性のある人でした。それから、加橋かつみは非常に透き通ったきれいなテノールの声質を持っていたし、岸部おさみは本当のバスの声。森本太郎と沢田は中音部ですね。とにかくみんな声質がすごくよかったです。
 それと音域がものすごく広かった。多分、日本のグループ・サウンズで、バスからハイテノールまでの音域をカバーできる唯一のグループだったでしょうね。
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ナレーション

 すぎやまは、一目見るなり、

 「君たち、関西なんだろ。じゃ、タイガースにすれば」

 そう言ったといいます。

 ルックス抜群のバンド、ザ・タイガース。




 彼らの登場が、若者達をさらなる熱狂へと導くきっかけとなりました。






 そして、歌うエレキバンドは、いつしか、すべて、「グループサウンズ」という名で呼ばれるようになります。



 そう、アイドルとは、ほど遠い、
 バンドマン出身の彼らも含めて。


三宅
 いやー、ブルーコメッツがバックバンドだったというのは、知らなかったですね。

鶴太郎
 いやー、知らなかったですね。ま、そう言われてみれば、地味っていえば、地味だったですもんね。

かまやつ

 ウフフフ…

三宅
 でも、当時、そんなには、感じなかったですけどね。

鶴太郎
 感じなかったですよね。いやー、そうだったですか。

かまやつ
 エッヘッヘッヘ…

鶴太郎
 言ってみれば、裏方さんていえば、裏方さんですよね。

かまやつ
 僕なんかは、ブルーコメッツを見ていて、あの、クリフ・リチャードとシャドウズっていうグループがありましたよね、ああいうことを狙っているのかなって風に思ってたんですけどね。

三宅
 クリフ・リチャードとシャドウズは、もう完全に分かれてましたよね、歌手とバンドって…。
 あと、ブルー・シャトーですか、あれが木の実ナナさん用の曲だったっていうことも、知らなかったですね。

鶴太郎
 あれ、木の実さんが歌っていたら、変わっていたでしょうね。阿国、やってないかもわかんないですよね。

三宅 阿国…、ハハハハハ…、それは、どうかな。

麻木 それで、そのあとに、タイガースが出てきた辺りから、もう、そのグループサウンズ・ブームっていうもの自体が、物凄いうねりに、一気になってきたということなんですね。

かまやつ
 そうですね。

麻木

 そんな中、ブルーコメッツもグループサウンズの熱狂の渦に飲み込まれていきます。
 続きをご覧ください。


ナレーション

 自分たちで演奏しながら、自分たちで作った曲を歌う。

 大なり小なり、ビートルズの影響を受けた日本のグループサウンズ。

 そのスタイルを守ったのは、ブルーコメッツ、スパイダース、ワイルドワンズなど、初期のバンドだけでした。
〈主宰者から〉
 ブルコメとスパイダースは、いわゆるGSの老舗バンドとして、色々と対比されることが多かったわけですが、井上忠夫自身のスパイダース評を、前出の『グループサウンドのすべて』(ベップ出版、1976年)という本に掲載されている加瀬邦彦との対談の中から引用させていただきます。
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井上 スパイダースはすごくかってたな。彼らがはじめて、日劇のウエスタン・カーニバルに出たとき、驚いたよ。ビートルズみたいな衣装つけて、舞台をピョンピョン飛び跳ねて、マイクロホンだって、他はみんな日劇のを使っていたのに、彼らは香港から買ってきたビンソンとかいうやつ使ってたでしょ。
加瀬 いい音だもんね、あれは。
井上 エコーがかかるんだね。ブルコメは、エコーがかかるなんて信じられなかったよ。衝撃は大きかったね。
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ナレーション

 でも、後のバンド、

 そして、それからの若者たちの熱狂は、

 芸能界という巨大なシステムが

 作り上げたものだったのです。



ナレーション


 作られた熱狂の中で、少々、平均年齢が上のオジさん達は、戸惑うばかりでした。
〈主宰者から〉
 その“作られた熱狂"について、またまた、『グループサウンドのすべて』(ベップ出版、1976年)という本に掲載されている加瀬邦彦との対談の中から、井上忠夫氏の発言を引用させていただきます。
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井上 タイガースはいちばん最初にプロデュースされてたグループという気がするね。今までは自分たちで作って来たという気がするけど、大プロダクションがいて、プロの作家が作った歌をうたったし、日本のモンキーズみたいなものかな。その頃のおもしろい話があるんだ。ある雑誌でタイガースは猿回しの猿になっちゃうなんてしゃべったら、渡辺プロに呼ばれてすごく叱られたよ。十人ぐらいの人たちの前で「本気で言ったのか」って聞くから「本気だ」って突っ張ったの。その頃は、いろいろなことに突っ張ってたからね。沢田も怒ってたよ。「それはないよ」なんてね。
---------- いわゆるワカギのイタリということなのかもしれませんが、今に思えば、「猿回し」発言には、自分たちの思いとは全く関係のない世界がどんどん広がっていくことに対する、“戸惑い”というよりも、むしろ“苛立ち”のようなものが強く作用したのではないかと考えたりしています。


ナレーション

 ザ・タイガースは、

 上京直後から、3カ月間の合宿をさせられました。

 目的は、徹底したイメージ作り。


すぎやま

 ザ・タイガースはね、

 歌手の内田裕也さんと渡辺プロダクションがスカウトしたタレントなんですけども、

 これは、むしろ、作家として魅力を感じましたね。

ナレーション

 作曲家が、作詞家が、彼らに与えたイメージとは、どんなものだったのか。


橋本

 当時の大プロダクションの渡辺プロがね、

 やるタレントっていうか、グループとしては、

 ちょっとノーブルな、ヨーロッパの貴族の少年たちっていうのかな、

 なんか、そういう方に、自然に話が流れていって…。


ナレーション


 かくして、
 関西のあんちゃんたちは、
 見事、ヨーロッパの王子様に生まれ変わりました。 

 でも、ファッションも、曲も、
 すべて、与えられたものでした。
〈主宰者から〉
 タイガース・フリークの皆さんには、今更、何をかいわんやという気もいたしますが、タイガースは、渡辺プロにスカウトされて上京してきた直後は、世田谷区烏山の合宿所に入っておりましたが、その後、新宿区四谷のアパートに引っ越し、こちらも、ファンが押しかけて大騒ぎとなったため、短期間で転居を余儀なくされたはずであります。
 その転居を余儀なくされた理由の一つではないかと思われる、当時の『週刊平凡』(1967年9月21日号)の記事が手元にありますので、ちょっと長くなりますが、サワリの部分を引用させていただきます。平気で住所とか部屋番号まで出てきておりまして、大らかな時代だったということなのでしょうか…。
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立入禁止/ザ・タイガースの合宿に潜入する!/仕事をはなれた若者たちのプライベートな生活ぶりをルポ
 タイガースのめんめんが、東京・世田谷区烏山の合宿所から、新宿区四ッ谷のアポートに転居して2カ月。相変わらず女学生ファンがおしかけているが、アパートの中は立ち入り禁止。そこでこの人気男たちの“いこいの城”に潜入し、仕事をはなれたかれらの素顔をルポしてみると---。
 サリーとジュリーが同室
 東京・新宿区四谷左門町。静かな住宅街の、奥まった路地の一角に、ザ・タイガースのめんめんが暮らす“お城”がある。それは新築ではあるが、ごくふつうの二階建てのアパートだ。部屋はAからFまでの六室あり、このうち、A、B、C、Eの四室をタイガースが借りている。
 記者がここへ“潜入”したのは九月七日の深夜。時計が十二時を打ってまもなく、
 「ただいま!」
 という声。
 リーダーのサリーこと岸部おさみとジュリーこと沢田研二のお帰りだ。
 ふたりを出迎えたのは岸辺の姉勝子さん(24歳)と森本の姉文子さん(24歳)。七月のはじめ、烏山からこのアパートに越して来たとき以来、タイガースのせわをするために京都から上京してきたのである。
 「あら、タローとピーは?」
 「うん、ふたりとも美容院へ寄ってくるんだってさ」
 岸辺と沢田が陣取っているのはアパート1階のC室。瞳と森本は隣りのB室。A室には中井マネジャー。お姉さんたちは二階の真ん中、E室である。
 どの部屋も四畳半と三畳の日本間とダイニングキッチンからできていて、バス・トイレ、電話つきだ。
 だが、ふだんみんなのの本拠になっているのは岸辺たちのC室だ。
 お姉さんたちが料理の腕をふるってくれるのは、このC室のキッチンだ。奥の四畳半が、岸部との居間兼寝室。そして、全員の居間、食堂、会議室も兼ねている。いっぽうの壁に、ビニールの簡易ワードローブと整理ダンス。整理ダンスの上には、ファンから贈られた、ぬいぐるみ人形やこけしなどがいっぱいに並んでいる。
 片隅の本棚には「星の王子様」「ハイネ詩集」「ゲーテ詩集」「キューポラのある街」など、人気スターの部屋というより、学生の部屋といった感じだ。が、テレビもラジオもない。若者らしい蔵書が並んでいる。
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 ということで、昭和四十年代前半の都心部にあったアパートの間取りを知ることが出来る基調な記事であります。
 まったく、突然、個人的な話になりますが、私が東京に出て来たのは1974(昭和49)年のことでありまして、タイガースが入居したアパートは、1967(昭和42)年の新築で四畳半と三畳の二間だそうですが、私が入居したアパートは六畳と三畳の二間でした。広さは、タイガースのアパートより広いようですが、お風呂はついていなかったので、銭湯に通っていました。小学校から大学まで一緒だった友人と二人で住んだアパートは、中央線の荻窪駅から歩いて15分くらいの場所にあり、入居当時の家賃は、管理費込みで2万3500円だったと記憶しています。ちなみに、私たちが入居した時点から、今年で、既に四半世紀が経つわけですが、そのアパートは現存しておりまして、1年に一度、高円寺の駅前の検診センターで1泊2日の人間ドックに入る時には、当時、通っていた銭湯などにも足を伸ばして、ノスタルジーに浸っております。
 最後は、ブルコメとも、タイガースとも、GSとも、全然、関係のない話になってしまいました。
 誠に、失礼をいたしました。

 番組に戻ることにいたしましょう。
 といっても、「モナリザの微笑」と「シーサイドバウンド」がちょっと流れるだけですが…。




 どんなに遠く 離れていても

 僕は あの娘の心がほしい…




 踊りに行こうよ 青い海のもとへ…




〈主宰者から〉
 ということで、以上が、番組の中での「青い城」という部建ての部分でありまして、これに続く「青い夢」というパートにつきましては、次回で取り上げさせていただこうと思います。
 引き続き、よろしくお願いします。



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