60年代の町並み
長岡編・映画に見る60年代の長岡
「青春の鐘」(昭和44年・日活)その1
(1)駅舎と大手通りの部
(2)観光会館の部
お待たせしました。いよいよ、この「60年代通信」のメーンエベントのひとつ舟木一夫主演の日活映画「青春の鐘」の登場であります。以前から、折りに触れ、言及させてきていただいておりますので、ご存知の方はご存知かもしれませんが、昭和44年に長岡で全面ロケを張った映画がこの「青春の鐘」でありまして、懐かしい60年代の長岡の町並みが随所に登場してきます。
具体的に、ロケの場面を紹介させていただく前に、この映画について、簡単に説明させていただきます。
主演はいうまでもなく舟木一夫で、共演が松原智恵子、山本陽子、和田浩二、藤竜也など。脚本は、後年、「前略おふくろ様」「北の国から」などのテレビ・ドラマの名作を生み出した若き日の倉本聡であります。さらに、映画と同名の主題歌は、丘灯至夫の作詞に古関裕爾が曲をつけており、まさしく青春歌謡の王道を行くような曲でした。
にっかつビデオのパッケージでは、次のように解説されています。
「名門・依田家に、ひとりの学生・村瀬正吉(舟木)がやってきた。彼は、中学受験を控えた春夫の家庭教師として、ここに招かれたのだ。サッカー部のキャプテンを務める彼の指導は型破りで、あまり家族に評判はよくなかった。そう、春夫の姉・久美子(松原)と、祖母を除いては…。だが、村瀬によって、それまでコンピュータのようだった春夫は、次第に人間らしさを取り戻していった。そんあある日、久美子が周囲公認の合田(藤)の誘いを断って、村瀬と春夫と一緒にコンサートに出掛けるという事件が発生。久美子の母は、村瀬の希望の就職口を世話する代わりに、久美子と一線を画するよう依頼。彼もその取り引きに応じるのだったが…。
さわやかに明るく、そしてのびやかに。若者たちの愛と夢を描いた清々しい作品。」
ということで、長岡出身の村瀬(舟木)が東京で家庭教師をしているわけですが、その教え子と姉の久美子(松原)などを連れて帰省するという筋書きとなっているため、帰省している間の撮影は、全面的に長岡でロケが行われたわけでした。まず、左の場面は、一行が長岡駅頭に降り立ったところで、右から舟木一夫、ひとりおいて、松原智恵子、藤竜也です。懐かしいレンガ作り風な長岡駅を背景に、当時のトップスターであった皆さんが揃ったところは壮観というべきでしょうか。
右の場面は、長岡に到着した一行が、タクシーに乗って長岡市内に繰り出すところで、長岡駅前のロータリーから大手通りを正面に見据えたアングルになっています。左手の角が大黒屋ビルの一部で、その向こうの三菱カラーテレビという看板の載っているのが洋菓子の美松やツモリ・レコードの入っているビル。その間の空間が、厚生会館前の広場です。右手角が、長岡タクシーの案内所や寿屋旅館などのあったところです。その奥に見えるのが大光相互銀行(当時)の入っていたビルです。
左の画像は、上の画像とは逆に、大手通りが紅屋重正なんかのあるブロックに突き当たる場所、つまり、内山パン屋さんやレストラン内山の前辺りから旧長岡駅舎を正面に見るアングルで、消雪パイプの水が夜景に映えるという場面です。
当時は、まだ、消雪パイプが全国でも長岡にしかなく、その存在自体が非常に珍しかったようで、この映画でも、一行が長岡に着くなり、上の場面のタクシーの中で、舟木一夫にわざわざ消雪パイプの説明までさせていました。
大手通りに続きましては、長岡観光会館の登場であります。
長岡駅前の、いわゆる繁華街にあり、というか、この長岡観光会館が出来たからこそ、これを中心に、昭和30年代末から40年代前半にかけての長岡の繁華街が形成されたといってもいいくらいの存在だったような気がします。現在は、この長岡観光会館があった場所は更地になってしまい、駐車場として利用されており、この長岡観光会館があった頃の賑わいを知る世代にとっては、今の状況というのは信じられないものがあります。逆に、当時を知っている世代の方には、むしょうに懐かしい画像ではないでしょうか。
観光会館なんて知らないもんねという若い世代の皆さんに、一応、観光会館の位置関係を説明させていただきますと、長岡駅前の大手通りが旧国道17号線と交わる交差点を、駅前から向かって右側に神田・新町方面に折れ、一つ目の信号を左に入ると、米八寿司なんかがある辺りの対面にありました。この説明では分からないという方は、この「60年代の町並み」の「長岡編・航空写真の部・長岡駅前周辺」で確認してください。右上の画像は、旧国道17号線を神田の方から大手通りに向かい、大平仏壇店の角を長岡郵便局の方へ入る道路に面していた観光会館の入り口だと思います。私は、親父や友達とよく自転車で観光会館に乗り付け、この画像の右側の方、つまり、長岡郵便局の斜め前辺りに自転車を止めたものでした。
観光会館というのがどれほどのインパクトを当時の長岡、あるいは、私に与えたかというと、私が東京に出てきて、初めて新宿の歌舞伎町に行った時、まるでスケールは違いますが、新宿コマ劇場を中心に歓楽街が形成されている様子を見て、長岡で言えば、コマ劇場が観光会館に当たるようなイメージを持ちました。私に、そういうイメージを持たせるほど、当時の観光会館というのは、それなりのパワーを感じさせるものだったのであります。
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観光会館はどんな場所だったのかというと、中心となる施設は、長岡温泉センターと呼ばれていたお風呂で、大きな浴場と、上の画像のような演芸場が一体となった、いわゆるヘルスセンター的なものでした。さらに、70ミリの映画を上映する長岡グランド劇場やピンボールマシンなどのゲーム機が置いてあるゲームセンターなどもありました。さらに、地下には長岡で初めてのボーリング場が造られ、屋上は、これまた、長岡初のジェットコースターなども備えた遊園地になっていました。
以前、他の場所でも書かせていただきましたが、私も、一度だけ、母の母、つまり、おばあちゃんと母と一緒に長岡温泉センターに行ったことがあり、この画像のステージで、1970年代にパナソニックの「クイントリックス」で復活する前の坊屋三郎が、いわゆるドサ回りで来ていたのを見たことがあります。
映画「青春の鐘」では、この観光会館でのロケも行われており、単なる観光会館の紹介としか思えないような演芸場の場面も出てきますが、舟木一夫がこの観光会館の地下の長岡ボーリングセンターでボーリングを楽しむ場面も出てきます。
この観光会館には、冬場にはアイススケートリンクが作られたり、レーシングカーが大ブームになった時には、巨大なレーシングコースが造られたりもしました。
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私も、この舟木一夫ファンだった叔母や姉、従兄弟たちなんかと、この長岡ボーリングセンターでボーリングをしたこともありました。
ボーリングということでは、私が高校生の時に長岡駅前に建てられた長崎屋の最上階に松電ボウルというボーリング場が進出してきて、私はクラスメートと一緒にこの松電ボウルの会員となり、毎日のように学校が終わるとボウリングに行っていた記憶があります。この頃は、もう観光会館は既に過去の遺物というイメージが強く、ボウリングといえば松電ボウルという感じでした。
今に思うと信じられない気もしますが、当時、長崎屋というのは、店内のレイアウトなんかも含めて非常にナウい雰囲気があり、大手通りにあった大和やイチムラ、丸専といったようなデパートが非常にダサいものに見えたものでした。長崎屋の1階には、長岡で初めてのファストフードのハンバーガー店となった「ウィンピー」もあり、私も友人とよくハンバーガーを食べに行きました。ウィンピーは私が東京に出てきて暫くしてからなくなってしまい、結婚して京王線の多摩霊園の駅の近所に住むようになってから、途中の国領駅前にウィンピーを見つけて、非常に懐かしく思ったものです。国領駅前のウィンピーは、現在、マクドナルドに変わってしまいましたし、1970年代当時には高校生が集まるナウい場所だった長岡駅前の長崎屋も、去年の暮れに長岡に帰省した際には、既に取り壊され、跡地は駐車場になっていました。
つまり、1960年代半ばから1970年代にかけて、長岡の先端を行く場所だった観光会館も長崎屋も既になくなってしまったわけです。去年の大晦日、長岡駅前の大手通りを歩いた私は、その人の少なさに改めて驚いてしまいました。多くの地方都市がそうであるように、長岡も郊外型のショッピングセンターに人が集まり、いわゆるドーナツ現象に歯止めをかけることは出来なかったようで、駅前の往年の賑わいを知る者にとって、かつての繁華の寂れ方は目を覆うばかりであります。
「青春の鐘」(昭和44年・日活)その2 はこちら
(3)長岡駅の駅舎&ホームと特急「とき」
「青春の鐘」(昭和44年・日活)その3はこちら
(4)阪之上小学校附近の福島江岸

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