長岡編・航空写真の部
1962(昭和37)年の長岡駅前
下の写真は、1962(昭和37)年の長岡駅前周辺の航空写真です。
35年も前の景観であり、この時点で着工すらされていなかった建物が、現在すでに取り壊されて跡形もなかったりしています。当時の長岡駅前周辺をご存知の皆さんには懐かしいものではないかと思います。私も、わずか7歳の時であり、昭和30年代後半から昭和40年代前半の変化などの記憶もとりまぜて、色々と書かせていただこうと思っておりますので、記憶違いの部分もかなりあるのではないかと懸念しております。皆様の記憶で補っていただいたり、修正していただければと思う次第ですので、よろしくお願いします。
〈写真適用〉
A.レストラン内山
B.大和デパート
C.山本楽器
D.両替屋レコード
E.エメラルド劇場
F.大宮スポーツ
G.島津レコード旧店舗
G’.島津レコード新店舗
H.ニュー銀(?)
I.長銀&銀映(?)
J.ツモリ・レコード
K.坂之上小学校跡地
ア.観光会館予定地
イ. ニューロンデパート予定地
ウ.長崎屋予定地
エ.国鉄関連施設の敷地
オ.平和祈念像の噴水
カ.カタツムリの像の噴水(?)
一応、念のため、写真を簡単に概観しますと、中央右手が長岡駅でありまして、オの平和祈念像の噴水のあるのが駅前広場、そこから伸びる大きな道路が当時の市街地の中心部だった大手通り。写真左手下に見えている川が、市街地を流れていた柿川、右手下をかすめているのが福島江。上越線と一部並行して赤い線で辿ってあるのが、栃尾鉄道長岡線です。
ということで、アルファベットやカタカナが振ってある個別のポイントについて、私の記憶を辿りながら、書かせていただこうと思います。
アルファベットとカタカナは、皆さんが辿りやすいように、左から或いは上から順に降らせていただいたものですので、その順番は無視して進めさせていただきます。
まず、長岡駅に連なる黄色い線で囲まれた「エと」の場所ですが、ここは、私の親父が勤務していた国鉄・長岡車掌区など、長岡駅の各種施設のほか、国鉄労組の購買部やお風呂、床屋などがあったところです。お風呂は基本的には、勤務を終えた職員が利用するものだったと思われますが、私が小学校に入るまで家に風呂がなかった我が家は、家からはるばる、と言っても、今に思えば、大人の足なら歩いて15分くらいのところですが、ここの風呂を銭湯代わりに使っていました。職員の家族は割安で利用できたのだろうと思います。購買部も親父が日用品なども購入していた場所で、私も、かなり大きくなるまで親父と一緒に自転車で、ここまで買い物に来た記憶があります。それから、床屋も、近所に床屋が出来る小学校高学年まで、ここに通っていました。この床屋の待合室のようなところは、床から50センチほど高いところに畳が敷いてある場所で、ここに置いてあった少年サンデーや少年マガジンなどをむさぼり読んだものでした。
次に、その「エ」の場所に隣接する「ウ」の場所が、私が高校生の頃にオープンした長崎屋が建てられることになる敷地です。この写真の昭和37年当時は、駅前の旅館などがあったようです。駅前広場を挟んで、この「ウ」の向かいにある「イ」の場所には、私が小学校高学年か中学に入った頃に、ニューロン・デパートという「デパート」とは名ばかりの、駅前ショッピングセンター風な3〜4階建てのビルが建てられ、私が長岡を離れる頃には、すでに、デパートではなくなっていたように記憶しています。
それから、写真左上の方にある緑の線で四角く囲んだ敷地には、私が小学校5年生の頃に「長岡観光会館」というのが建てられました。ここには、メイン施設となる「長岡温泉センター」という大きなお風呂と演芸など催しのある劇場が一緒になった、いわゆる「ヘルス・センター」のような施設のほか、70ミリの映画を上映するグランド劇場という映画館、ボーリング場、ゲームセンターなどが入った複合施設で、屋上には、短いコースではあったもののジェットコースターなどもある遊園地があり、市街地にある本格的な歓楽施設として、長岡の若者が集う場所となっていた記憶があります。この観光会館が出来たばかりの頃、ここのレストランでオープン記念のカレーライス50円とかいうキャンペーンがあり、毎日のように通ったのも覚えています。親父と一緒によくスロットマシンでも遊びましたし、お袋と一緒に「猿の惑星」のシリーズ第1弾を見て衝撃を受けたのも、この観光会館のグランド劇場でした。友人のK君のお父さんが、この観光会館を経営していたシバタ観光に勤務していたこともあって、小学校の5〜6年の頃、同級生だったK君やY君と一緒に、よく遊びに行ったものです。
この観光会館の地下にあったボーリング場は長岡で最初のものでしたが、冬場は、スケートリンクになっていた記憶もあります。また、レーシングカーが大ブームになった時には、巨大なレーシングカー・コースもでき、1回50円で走らせることができました。
温泉センターには、お袋とお袋の母親、つまり、私のおばあちゃんなんかと一緒に行った記憶があり、70年代にパナソニックのクィントリックスで一世を風靡してカムバックした坊屋三郎が、ちょうどドサ回りで来ていて、あまり面白くもないコントを見た記憶もあります。
この観光会館が出来たばかりのころは、長岡には、長映、銀映、ニュー銀、洋画専門のエメラルド劇場、それにグランド劇場と、ロードショー館が5つもあったわけで、常設館がひとつもなくなってしまった今から考えると、信じられない気がします。
観光会館があった場所は、現在は更地の駐車場か何かになっていますし、ニュー銀跡のかつての市街地の一等地はコンビニになっており、この辺りが、東京で言えば、新宿の歌舞伎町のような雰囲気だったことなど及びもつかない状況になっています。
また別の機会でも紹介させていただきますが、この時期は、シバタ観光が力を持っていた関係もあったのか、舟木一夫や小林旭の主演映画が長岡で全面ロケを張られるなど、私の記憶だけでも3本の映画ロケが長岡で行われています。すでにビデオを入手している舟木一夫の「青春の鐘」では、観光会館のボーリング場も出てきていましたので、そのうち、ご覧いただこうと思います。
ということで、何か、観光会館について書き出すと色々と出てきて長くなりますので、この辺で、ひとまず、止めさせていただきます。
長くなってしまいましたので、あの短い長さに4軒もデパートがあった大手通りの商店街のことは、また、改めて、書かせていただくことにして、今回は、ここまでとさせていただきます。

あなたも「60年代通信」に是非お便りしましょう
E-mail:kiyomi60@bb.mbn.or.jp
ご意見やご感想、甦ってきた記憶や確かめたい事実など、何でも結構ですから、お書き込みください
「60年代通信」掲示板=http://www64.tcup.com/6405/kiyomi60.html
「60年代通信」トップページへ 「60年代の町並み」トップページへ
(C)1997 Kiyomi Suzuki
|