山口百恵デビュー25周年記念特別企画

70年代アイドル“不死鳥”伝説

山口百恵ディスコグラフィー

(01前史〜スター誕生

 山口百恵が日本テレビのいわゆるタレント・スカウト番組「スター誕生」出身の歌手であることは、ある世代の日本人にとっては、例えば、長島茂雄が立教大学野球部の四番打者で東京6大学野球のスター選手として活躍し、そのホームラン記録は田淵の登場まで長らく破られなかったことであるとか、王貞治が早稲田実業の投手として甲子園で優勝しながらも、国籍の問題で国体には出場できなかったことであるとか、あるいは、田中角栄の選挙区が新潟3区で、その後援組織として越山会という強力な地元の支持母体があったこととか、といったような世の中を渡っていく上で欠く事のできない常識となっていた、と言ってもいいのではないかと思われるほど、誰でも知っていることであります。
 そこで、この山口百恵ディスコグラフィーでは、まず、その常識である「スター誕生」出身の山口百恵が、いかにして、この番組からスターとしての第一歩を踏み出したのかを、改めて、検証してみたいと思います。
 まず、事実関係から整理しますと、山口百恵がこのタレント・スカウト番組に応募したのは、1972(昭和47)年夏のことでありました。右上の写真は、その応募書類に添付されていた13歳の時の彼女の写真であります。
 当時の状況について、山口百恵は自身の著である『蒼い時』で次のように振り返っています。

 「中学校に入った頃に、『スター誕生』という、いわゆるスカウト番組が始まった。それは、それまでにあった真剣すぎる番組ではなく、和気あいあいと進行していた。
 私はその番組のファンで、毎週日曜日になるとチャンネルを合わせた。ある日、そこに十三歳の少女が登場した。それまでのスカウト番組では、異例の若さだった。
 私と同い年。
 そう思ったとたん、私にもできるかもしれないという気持ちが芽生えはじめた。中学二年の夏休み、友達と何人かで応募はがきを出した。落ちてもともと、そんな気持ちだった。
 予選の通知がきたのは、それからすぐだった。友人たちと必ず行こうと約束していたのに、友人たちは、当日になってから急に『行けない』と言い出した。仕方がない。私はひとりで、予選会場である有楽町のそごうデパートの八階へ向かった。通知葉書に書かれた番号は101番、私は『回転木馬』という歌を歌った。」


 タレントスカウト番組出身の歌手の皆さんなんかがよく言うように、軽い気持ちで応募した経緯がさらりと書かれています。
 ここで百恵が言っている「それまでにあった真剣すぎる番組」というのは、恐らく、五木ひろしや中条きよしなんかが出てきた勝ち抜きのど自慢のような番組のことをさしているのでしょうが、この流れで先行するものとして、60年代には参天製薬の提供で青空千夜一夜が司会をしていた「サンテ10人抜きのど自慢」というのがありました。それから、ものまね番組でしたが、何と歌謡界の大御所・古賀政男が審査委員長をしていたトクホン本舗提供の勝ち抜き番組もあり、小林幸子は、この番組に出演して、歌手としてデビューしたのを覚えています。これも、結構、「真剣すぎる番組」で、小林幸子が新潟ということもあって、ウチの親父なんかは、本気で真剣に応援していたものでした。スタ誕も阿久悠をはじめとする審査員は素人にここまで言うかというくらいシビアでしたが、確かに、司会の萩本欽一の力に負うところが大きかったと思いますが、百恵が言うように、和気あいあいの雰囲気はありました。この手の番組としては、60年代にも、布施明が出てきた同じ日本テレビのホイホイミュージックスクール、伊藤ゆかりやワイルドワンズがレギュラー司会で泉アキや水戸浩二なんかが出てきた「 あなた出番です」という番組もありました。
 歌謡曲研究会のノリで、スカウト番組の話を広げてしまいましたが、スタ誕での百恵の話に戻りますと、軽い気持ちで応募したとは言え、友人たちが当日になって行かなかったのに対して、山口百恵は実際に行動を起こし、中学生ながら一人で横須賀から有楽町まで出かけているわけですから、そこに、何らかの強い意志を感じないわけにはいきません。
 ちなみに、山口百恵が歌った『回転木馬』という歌について説明しますと、若い世代の方は知らないだろうと思いますが、1970〜71年頃に、ボーイッシュな魅力で売り出していた牧葉ユミという歌手がおりまして、その牧葉ユミの持ち歌でありました。イメージとしては、岸ユキなんかの線のタレントで、この応募写真の山口百恵には、その線の雰囲気も濃厚に漂っております。牧葉ユミという歌手は全く売れなかったわけではありませんし、私も、リアルタイムでその存在はきちんと認識していました。さらに、ちなみますと、「60年代のカレンダー」の「日本レコード大賞受賞者リスト(70年代編)」にもある通り、この牧葉ユミが歌った「冒険」(作詞・北山修、作曲・加藤和彦)という曲で、作詞の北山修は1971年度の日本レコード大賞作詞賞を受賞しているほどであります。
 と、ついつい歌謡曲研究会的方向に流れがちですので、以下、『蒼い時』から、当時の経緯を全面的に引用させていただきます。

 「自分で予想していたよりはるかに順調に、一次、二次と合格し、テレビ予選への出演が決まってしまった。Gパンにオーバーブラウスといった軽い服装で出かけた私を、その時のディレクターが『坊や』と呼んだ。
 その1カ月ほど後に、テレビの録画があるから後楽園ホールへ来なさい、という連絡があった。
 『まァ、あまり合格しようなんて思わないで。頑張ってらっしゃいよ』
 笑いながら見送る母を背に、私はひとりで後楽園ホールへ向かった。
 到着したのは午前十時前。番組のセットの建てつけをしていた。出演者らしい人やオーディションを受ける人はまだ来ていないようだった。響きわたるカナヅチの音を聞きながら、私はひとりで客席に座っていた。
 しばらくして、人々が集まり、リハーサルをして本番になった。ドキドキする胸を押さえながら歌った。審査員のひとりが批評した。
 『君は、例えば誰か青春スターの妹役みたいなものならいいけど、歌は…あきらめた方がいいかも知れないねェ』
 僅かながら持ち合わせていた自信は、ガラガラと音をたててくずれてしまった。それでも、規定以上の点数を集めた私は合格、決戦大会への出場が決まった。」
 「決戦の日、さすがに緊張の中で番組はスタートした。何度かテレビで見たことのある風景の中に、自分が立っている、これが全国に映し出されるんだという実感はなかった。
 前の時と同じ歌を歌った。歌い終わると発表。丸い小さな台に立ち、マイクに向かって自分の名前を言い、『よろしくお願いします』とスカウトマンに言う。スカウトする意思のあるところは、会社名を書いたプラカードを上げる。
 自信があったわけではないのに、合格するだろうということは信じていた。


 思った通り、十何社かのプラカードが音もなく上がった。それまで見ていたテレビでは、この瞬間、ほとんどの人が両手で顔をおおって泣く。私も、そうなるかもしれないと、半ば期待感を抱いていたが、意に反して涙は一滴も流れなかった。
 何故、あの時、合格できると思えたのか、今もって不思議でならない。目に見えない天啓だったのか、単純な自己暗示だったのか、とにかく発表を聞く前に、私は歌手になれることをはっきり確信していたのである。
 しかし、まだこの時の私は、ひとりの少女の幼い夢の実現が、様々な人生のドラマの始まりだとは気がついていなかった。」


 本人は「涙は一滴も流れなかった」と書いておりますが、当時の写真を見ると、「両手で顔をおおって」というところまでは、ほとんどの人と同じ様にやっていたわけであります。
 それはそれとしまして、自ら指摘しているように、ここから、山口百恵という人間の大変なドラマが始まるわけで、このスタ誕にいたるまでの彼女の人生とも合わせ、極めて興味をそそられるテーマではありますが、その辺りは、『蒼い時』に十二分に書き尽くされておりますので、関心のある方は、そちらをお読みください。
 この「山口百恵デビュー25周年記念特別企画」はあくまでも、当時、一地方都市で少年時代を過ごしていた私が、テレビやラジオ、雑誌などを通じて見聞した山口百恵という歌手を軸にした70年代のアイドル達を振り返るという、極めて等身大のミーハーな視点からの企画でありますので、悪しからず、ご了承いただければと思う次第であります。
 ということで、『蒼い時』などを大幅に引用させていただきつつ、結構、大仰な始め方をしてしまいましたが、当時、高校2年生だった私達のことを書かせていただきますと、実は、決戦大会前のテレビ予選の時点から、私の同級生で後に都立大を経て都庁に就職するG君と私とは、クラスで只二人だけ、この山口百恵のことを「あの子はイイ」と教室の片隅で語り合っていたのでありました。私の場合、とっかかりとしては、どちらかというと、小学校・中学校時代に思いを寄せていたた女の子に似ていたという、単に、それだけの理由だった気もしますが、一応、「としごろ」でデビューする前から、注目はしていたのだ、という事実だけは強調させていただきつつ、次回からの“山口百恵ディスコグラフィー”に突入することに相成るのでございます。






(C)1997 Kiyomi Suzuki



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