60年代のテレビ

快傑ハリマオ

 「仮面の忍者・赤影」「マグマ大使」と60年代後半の特撮テレビドラマが続きましたが、いよいよ60年代前半のテレビ放送初期における懐かしドラマの数々に入っていきたいと思います。
 以前から、取り上げさせていただこうと色々なところで書かせてきていただいた「快傑ハリマオ」でしたし、既に、「60年代通信」ニュースレター版では、1996年7月号の「テレビは僕らの宝箱」の第1回で取り上げさせていただきました。
 その「快傑ハリマオ」の漫画で作画を担当していた石ノ森章太郎氏が、1月28日に亡くなられていたことが昨日になって明らかになり、氏を偲ぶという意味合いも込めながら、改めまして、この「快傑ハリマオ」という作品を振り返ってみたいと思います。
 漫画の方は、1960(昭和35)年4月から、前年の3月に創刊されたばかりの『週刊少年マガジン』で連載が開始されました。原作は山田克郎、作画が石森章太郎(当時)ということで、原作付きではありましたが、石ノ森氏の初期の代表作の一つであることに間違いはありません。
 テレビ放送も雑誌の連載とほぼ同時進行で、日本テレビ系列で放送されました。

 このハリマオの場合、何と言っても、三橋美智也の歌っていた主題歌が、幼い私達にも覚えやすく、恐らく、私が始めて歌えるようになったテレビ番組の主題歌が、この「快傑ハリマオ」だったと思います。

 「まっかな〜太陽〜 燃〜え〜ていーる〜
  果〜てェ〜無い 南のォ〜 おお〜ォぞォらァにィ〜
  と〜どろきわたるゥ おたけびは〜
  た〜だしい者に 味ィ方する
  ハリマオ〜 ハリマオ〜 ぼォくらァ〜の ハリマオ〜」

 日本歌謡史上にも燦然と輝く三橋美智也の名前でありますが、後年、民謡三橋流の家元として、レコード大賞受賞2回という大歌手・細川たかしをも門下に従えるほどの筋金入りの民謡歌手として、その本領が如何なく発揮されているという意味でも、この「快傑ハリマオ」はテレビドラマ主題歌として屈指の名曲の一つと言えましょう。
 ところが、左上のタイトルバックの画面では、作詞・加藤省吾、作曲・小川寛興の横の、唄のところには、本来であれば、三橋美智也と入るはずですが、なぜか、名前が消されています。
 この辺りは、何か、いわく因縁がありそうな匂いが漂っておりますので、60年代評論家として、その背景については、追及を試みようと思っています。
 そして、この小川寛興という作曲家は、既に、「仮面の忍者・赤影」の主題歌を作曲した人ということで紹介をさせていただいておりますが、倍賞千恵子の「さよならはダンスの後に」でレコード大賞作曲賞を受賞していることと、この三橋美智也が歌った「快傑ハリマオ」を作曲していることを考え合わせると、あるいは、キングの専属作曲家だったのかもしれません。
 さらに、その下の右側のタイトルバックを見ると、キャプテンK.K.役として、牧冬吉の名前も見えております。これも、既に、「仮面の忍者・赤影」のところでも紹介した通り、牧冬吉という人は、若い世代の方にも「仮面の忍者・赤影」の白影役として登場していたことを知っている人は少なくないと思いますが、この「快傑ハリマオ」や「ジャガーの眼」、「隠密剣士」など、60年代の子供向けテレビ番組では、恐らく、最も多彩な活躍をされていた俳優さんだったようです。
 この「快傑ハリマオ」というのは、戦時中に、マレー半島で活躍していた伝説の「マレーの虎」をベースにした物語であり、映画「男はつらいよ」の冒頭で繰り広げられるフーテンの寅が見る夢の場面でも、「マレーの寅」としてパクられていたほど、ある世代から上の日本人には馴染みのあるストーリーであります。NHKの敏腕ディレクターだった和田勉さんが独立されて、最初に撮った映画も「ハリマオ」でありました。私も、半蔵門の東條会館に試写会を見に行った記憶があります。
 何れにしても、日本人がマレー半島辺りに抱いているエキゾチシズムというか、怪しげな東洋人と怪しげな白人が交わるマラッカ海峡辺りのイメージを巧みに演出効果として取り入れている物語で、このテレビドラマが放映されたいた頃、まだ、物心ついたばかりだった私にも、そうした雰囲気は胸をわくわくさせるものがありました。画像のタイトルバックを見ても分かるように、やたらに、外人の出演者も多いドラマでありました。ただ、今、その名前を改めて眺めてみると、イタリア人風の名前があったりして、出演者も、適当に外人をかき集めたのではないかと想像されたりするわけです。

 右の8つの画像の左上のおじさんは、この頃の子供向けテレビドラマでは悪役として頻繁に登場されていた方ですが、名前を知りませんので、どなたか、ご存知の方は教えてください。
 それから、この頃のテレビドラマの常ではありましたが、この番組でも、ガンベルトを巻いた太郎という少年が出てきて、拳銃の名手ということになっており、ほとんど、天才バカボンに出てくる目ン玉つながりのオマワリのように、やたらに拳銃を撃ちまくったりするわけで、私の頭を悩ます大きな疑問となっていました。
 そして、この「快傑ハリマオ」というと、ほとんどワンセットで思い出されるのが「ジンタン」であります。この番組のスポンサーは森下仁丹で、「ジンジンジンタン、ジンタカタッタター」というCMソングは、この「快傑ハリマオ」の主題歌と同時に覚えたものでした。
 この番組にまつわる話は、すでに、「60年代通信」ニュースレター版の1996年7月号で書かせていただいておりますので、そのまま、以下に引用させていただきます。

 よく見ていた割には、ドラマの骨格については、自分の記憶で語ることができるほどのものはありませんが、『別冊太陽・子どもの昭和史(昭和35年〜48年)』の写真キャプションには、「東南アジアの人々を白人支配から開放するために戦う謎の快男児ハリマオ」とありますから、一応そういうことのようです。確かに、やたら外人の出演者も多く、すべて悪者という設定になっています。
 さらに、番組制作の裏話として、次のようにも書かれています。
 「国産テレビ映画第一号の『月光仮面』や『豹の眼』などもかなり大時代的だったが、『怪傑ハリマオ』は時代錯誤的ですらあった。その原型は戦時中の国策映画『マライの虎』であり、ハリマオの正体は日本の特務機関の手先である。番組スポンサーは森下仁丹。このころ仁丹は敗戦で失った旧植民地の市場を回復しつつあり、そこで“企業イメージに合う”番組として『怪傑ハリマオ』を提供したという」
 そうした裏話はともかく、子ども心にも、エキゾチックな雰囲気が漂う場面設定に、それなりのロマンを感じながら見ていたような気がします。確か、番組は、はっきりした結末もないまま終わってしまい、子ども達の間では、ロケ中に主人公を演じていた俳優さんがゾウに踏まれて死んでしまったため、突然、番組が打ち切られたのだ、という噂がまことしやかに囁かれていたのを覚えています。 この後の番組が、また何れ取り上げさせていただこうと思っている「恐怖のミイラ」というドラマでした。
 今,ビデオを見てみると,ストーリーも含めて作りが粗いという印象は否めませんが,演技そのものは臭いなりに味があるというか,主役の勝木敏之という人は,タモリと井上陽水を足して2で割ったような








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