60年代のTVCM

「イエイエ」(レナウン)

 今年2月(1998年2月25日)に「森永チャピーちゃんキャラメル」のデータをアップして以来、実に、半年ぶりの「60年代のTVCM」ネタの更新であります。
 ここのところ、ブルーコメッツやタイガースなどGSもののネタを取り上げさせていただく機会が多くなってきておりますが、今回、このコーナーで紹介させていただくのは、そのGSが大ブレークしていた1967(昭和42)年に登場したレナウンの「イエイエ」です。この「イエイエ」は、日本のTVCM史上、黎明期と完成期の分水嶺的位置づけを与えられているエポックメーキングな作品として知られており、私自身の思い入れでいうと、恐らく、このCMの系譜に属するものと思われる旭化成(だったと思います)の「エクスラン」のCMが、私の見ていたBSN(新潟放送)で放映されていたGS番組「レッツゴーヤングサウンズ」で流されていたこともあり、このCMの印象はGSのイメージとそのまま重なりあうものとなっています。
 当時の朝日新聞の記事(1968年8月8日夕刊)によりますと、このTVCMは「日曜洋画劇場」で約30回放送しただけだったにもかかわらず、番組スポンサーの形ではない、いわゆるスポットCMとして「イエイエ」を見たと思い込んでいる人が多かったそうでありまして、いかに、このCMの印象が強烈だったかが偲ばれます。
 この「イエイエ」を担当したCMディレクターは電通映画社の松尾真吾という人でありまして、この松尾真吾という人は、日本天然色映画の杉山登志とともに、60年代のTVCMを代表すbるだけでなく、日本のTVCM史が語られる時に、必ず登場する伝説的な人物であります。この2人は、日本のTVCM史上に燦然と輝く不滅の金字塔を打ち立てながら、衝撃的な死により若くしてこの世を去ったことでも知られておりまして、この後も、折りに触れ、言及させていただくことになると思います。
 この「イエイエ」の登場した背景につきましては、幸い、レナウンの宣伝部で当事者として関わっていた今井和也さんという方が『テレビCMの青春時代』(中公新書)の中で、詳しくお書きになっていますので、ちょっと長くなりますが、引用させていただきます。

 「レナウンが『イエイエ』を発表したのは日曜洋画劇場を提供し始めた年(1967年)の春だった。『イエイエ』はセーター、ワンピース、スカート、パンタロンなどニットのヤング・ファッションである。スカートはむろんミニが中心。色は原色に近いヴィヴィッドなものだが全部の色がコーディネートされているので、何着かの上下を揃えると数倍の組み合わせが楽しめる。素材はアクリル繊維のボンネルだから洗濯も簡単である。
 すでにファッション雑誌では『コーディネート』『トータル・ルック』といった言葉が紹介されていたが、ここまで完全にコーディネートされた商品が市販されるのは初めてだった。マスコミ媒体を使った間接宣伝と売り場での直接宣伝をすることになった。レナウンとしては最初のトータル・マーケティングである。
 『イエイエ』のキャッチフレーズを『組み合わせニット』と決めた。次ぎはシンボル・キャラクターである。(中略) 最終的にシンボルに決まったのはソバカスのあるトゥイッギー風の少女の前向きの顔と横顔の組み合わせである。服の種類はたくさんある。全身のスタイル画ではイメージが限定されるので、ターゲットである若い娘の顔をシンボルにしたわけだ」

 「『イエイエ』のCM企画会議では最初にファッション構成表とシンボル・キャラクターのイラストを見せた。松尾真吾は『今度の仕事はこのシンボルがあるから楽です。途中で悩んだらこのシンボルに戻って考えればいい。このシンボルはイエイエの神棚ですよ』と言った。
 『イエイエ』は色がポイントなので、カラーCMを作ることにした。レナウンとしては初めてのカラーCM、みんな張り切った。爆発する娘たちのヤング・パワー、降参する旧体制の男たち、を全体のテーマに決めた。60年代後半の社会状況を写しとったテーマである。
 『表現はワンサカ娘オプアートのカラー版でいこう』というのが松尾真吾の提案だった。つまり実写とアニメーションの合成である。オプアートの成功でこの手法の画面展開には真吾は自信がある。だがカラーで合成がどこまでうまくできるかは未知数だ」

 「ラフ・コンテができた段階で小林亜星が音をつくった。歌はアメリカで売り出していた朱里エイコ。小林亜星のスタジオで『イエイエ』のテープを初めて聞いたとき、ダイナミックな音に驚いた。『すごいね、こんなの聞いたことない。なんというリズム?』と訊くと彼は『今までにないリズム。エイトビートとフォービートが交互に現れるニューリズムだよ。イエイエの商品名はメロディやスキャットでなく、リフというジャズの手法で作ってみた』などと言う。私には宇宙人の言葉のようにまったく理解できなかったのだが。この歌は後にレコード化されて1万5000枚も売れた。
 演出は岩本力。アニメーター出身の実力派で、後に『CAP』で名演出家の誉れ高くなるのだが、当時は『日本アニメーション』の新進ディレクターだった。
 岩本監督は日曜日の新宿や丸の内で3人のイエイエ・ガールの闊歩を撮りまくった。
 ラッシュの試写室で私が『きれいに撮れてるね。とくに青い空の色がいい』と言うと、隣の席の松尾真吾があわてて、『あれはブルーバックといって、あそこにアニメーションが合成で入るんです』とまわりに聞こえないように小さな声で教えてくれた」

 ということで、本当に長々と当事者である方の本から引用をさせていただきましたが、今、改めて、このCMを見ても、60秒という長尺ものではありますが、そのテンポの良さ、画面展開の意外性や楽しさは、強烈なインパクトを持っており、冒頭で紹介させていただいたように、「日曜洋画劇場」の番組スポンサーとして、30回程度しか放映されなかったにも関わらず、このCMを見た多くの人たちが、スポットCMで何度も繰り返し見たような錯覚を持ってしまったという話も肯ける気がします。
 今から30年も前に作られたCMではありますが、その古さは全く感じさせず、それだからこそ、日本のTVCMの歴史が、この「イエイエ」を分水嶺として語られる所以なのでありましょう。
 再び引用になりますが、その辺りのポイントを、既に、当時の朝日新聞の記事(1968年8月8日夕刊)は、次のように書いています。
 「『イエイエ、イエイエ』というただそれだけの単調だが、力強いビートのきいたリズム。ソバカス娘の顔を2つ組み合わせたシンボルマークがぱっと現れて消えファッションモデル3人が素早い身のこなしで肩を触れ合うと着ている服が入れ替わる。広げた英字新聞が破れ、吹き出しで『イエイエ』。大砲のつつ先から、逆立ち軍艦から『イエイエ』。実写とアニメーションを組み合わせ、カメラはロングからアップ、極端に低い角度と、目まぐるしい。一分の間に物語があるでなく、ただパッパッと場面が変わる。この無意味な連続が音楽とマッチして、いかにも現代的な清新さを感じさせ、印象づける。CMという言葉が持つ押しつけがましさ、いやらしさを捨て去り、CMを作る側も見る側も楽しい」

 このCMは1967年のACC(全日本CM協議会)CMフェスティバルでグランプリを取っただけでなく、アメリカンテレビCMフェスティバルでも国際部門の繊維部門最優秀賞を受賞し、先の朝日新聞の記事は、「民放テレビ15年目、ようやく国際級に仲間入りした」と書いています。
 つまり、このCMは1952(昭和27)年に民放のテレビ放送が始まってから15年目に当たる1967(昭和42)年に作られたわけですが、毎度書かせていただいている通り、この1952年から1967年までの時間的距離と、ちょうど、その倍に当たる1967年から1998年までの時間的距離を感覚的に振り返ってみると、私には、どう考えても、物理的には30年という隔たりがある1967年から1998年までの期間の方が、その半分の15年の隔たりしかない1952年から1967年までの期間よりも短く感じられてしまいます。
 私と同世代の皆さんが、どのようにお感じになっていらっしゃるかは知る由もありませんが、すくなくとも私の個人的なタイム・スケールで測ってしまうと、1952年から1967年までの15年間というのは、1967年から1998年の30年間よりも、ずっと長かったように思えてならないのであります。
 それは何故なのか、繰り返し自問しているテーマではありますが、この「60年代通信」というホームページを作りながら、その答えを探っていきたいと、改めて、思い直したりしています。

 ということで、日本のTVCM史上に燦然と輝く伝説の作品だけに、ちょっと重い作りになってしまいましたが、CMの最後に登場するレナウンのロゴと並んでいる「ボンネル」のマークを見て、もう一つのCMを思い出しました。
 私と同世代の皆さんは、きっと覚えていらっしゃると思いますが、ちょうど、この「イエイエ」のCMと同じ頃、私達の世代の子供たちが「現代っ子」などという表現で呼ばれていた頃に、「ボン、ボン、ボンネル現代っ子ルック」というCMソングも流れていました。残念ながら、私の手元に、この「ボン、ボン、ボンネル現代っ子ルック」のCM関係の資料は残っていませんが、何れ、このCMの画像なども何とか入手して、この「60年代のTVCM」か「60年代の広告」で紹介させていただけるよう努力したいと思います。








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