「60年代の謎・ナゾ・なぞ」に続く新コーナーの登場です。 これまで、色々な雑誌やホームページなどで、この「60年代通信」を取り上げていただいてきましたが、そうした際に、よく「50年代生まれの人たちが集まって作った同人誌がベースになっている」というように紹介してもらっています。実を言いいますと、5号まで出した後、もう2年近くにわたって休眠状態が続いているニュースレター形式の同人誌の方も、私が勝手に幼なじみの友人達に送りつけていたというのが実態でありました。 そういう中にあって、数年前に、私が、この「60年代通信」を着想して以来、折りに触れて色々と相談をさせてもらったり、励ましてもらったりしてきたのが、小学校から高校まで一緒だったテツオ君でありました。 テツオ君とは、長岡市立川崎小学校、長岡市立東北中学校、新潟県立長岡高等学校と、通算12年間にわたって同じ学校に通っていましたが、と、結婚式の友人挨拶のようなフレーズになってきておりますが…、一度も同じクラスになったことはありませんでした。にも関わらず、何故か、最も長くお付き合いをさせていただいている友人の一人であります。 現在は、東京の青山にあります法律関連書籍では日本でも最大手の出版社の編集者として活躍をしておりますが、この「60年代通信」とその主宰者である私の最大の理解者ということにもなっているわけであります。 これまでも、色々な形でサポートをいただいてきており、以前から、原稿を書いてもらうような形での協力についても何度も申し出をいただきながら、公私ともに多忙を極めている状況の中で、なかなか、実現にはいたらないままでありました。
今回、久しぶりのEメールで、この「60年代通信」に、一読者としての長大な感想文を頂戴しましたので、これを契機に、「テツオの部屋」という新コーナーを開設させていただき、テツオ君と私によるEメールのやりとりなどを中心に、「60年代通信」裏話的なノリで、皆様にもお読みいただければと思っております。 |
テツオ君からの手紙 2002.01.14 Subject:テツオの部屋 第8回〜即席カレー
テツオ君からの手紙 2000.03.11 Subject:テツオの部屋
第7回
〜再び給食について
テツオ君からの手紙 2000.02.20 Subject:テツオの部屋
第6回
〜 テツオ君の初恋談義(?)&“あなたの60年代度をチェックする”
テツオ君からの手紙 1999.03.07 Subject:テツオの部屋 第5回〜1960年代学校給食大アンケート
テツオ君からの手紙 1999.01.15 Subject:テツオの部屋第4回
テツオ君への手紙 1998.10.01 Subject: Re: 60年代通信感想文第3回
テツオ君からの手紙 1989.10.01 Subject: 60年代通信感想文第3回
テツオ君への手紙 1998.09.29 Subject: Re: 60年代通信感想文第2回
テツオ君からの手紙 1989.09.29 Subject:60年代通信感想文第2回
テツオ君への手紙 1998.09.05 Subject: Re: 60年代通信感想文第1回
テツオ君からの手紙 1998.09.05 Subject: 60年代通信感想文第1回
Subject: 60年代通信感想文第一回
拝啓 「60年代通信」の開設者様=ぼんこ=鈴木清美様。
Subject: Re: 60年代通信感想文第一回
テツオ様
(C)1998, 1999 Tetsuo Ohashi
テツオ君からの手紙
1998.09.05
本日は、「通信」の1読者として初めて(つまり旧友としてではなく)、感想メールを送らせていただきます。
いきなり本論からはずれますが、あなたの文章は概ねプロの域(もともとプロだから当たり前か?)のものといってよく、部分的に書きなぐりの箇所はあるものの、読んでいて苦痛を感じさせない、極めて行き届きいた立派な文章だと思いますが、ただあまりにも「〜させていただきます」が多すぎる。
へり下ることにより表現を和らげ、読者がスムーズに読めるように、という配慮は全く正しいし、現にそれが効果を大いにもたらしてもいるのですが、「〜させていただきます」を繰り返せばいいってものでもない。
2回に1回、「〜します」「〜いたします」に変えるだけでもうちょっと表現のくどさを減ずることができるのではないか。
そう思います。
ま、編集者のよけいなアドバイスとお受け止め下さい。
<初めてちゃんとホームページを拝見して>
この度、初めてじっくりHPをみました。いつの間にか蓄えられたデータ(コンテンツっていうんだってね)の多さに驚き、うろたえ、とりあえず一部を印刷しましたが、これからじっくりみて回ろうと思います。読者のメールも含めてね。
<INDEXについて>
ここにあがっているだけでも十分胸が一杯になるほどに夥しいデータ量のメニューでありますが、「こんなものもあればさらによろしい」ってなことを以下に列挙いたしますので、ご参考になれば。
「60年代のTVCM」
1 便秘にすっきりサラサラリン(ただし「姓はオロナイン」と同じメーカー)
2 のりたま。白木みのるがレストランで「ルライス!」(舌を巻いて発音)と叫んだ後、出てきたライスにのりたまをかけて食べるやつ。
3 すきやきふりかけ。桂小金次(昔ずーっとアフタヌーンショーやってた人)が海賊の恰好して出てきて、船から望遠鏡ですきやきふりかけを見つけるやつ。ひととおり終わった後、「ワンスモア?もう一度ね」って言う。その「いちど」のアクセントが「い」に強烈にかかっていて、越後地方で「苺」を発音するときのような感じで言うんだ。
4 インド人もびっくり(明治キンケイインドカレー)
5 なつかしいー、なつかしいいいい、このーかおーりー、〜エキゾチックなこのかおり ー〜オーリエンタルカレエー〜(オリエンタルカレー。長岡の実家には今も、包装紙を 集めて応募し、送られてきた特製(!)スプーンが残っている)。
「60年代の映画」
1 ゴジラ。これについてはけっこう知識も資料もたまったので提供の用意あり。ただし、ゴジラおたくはたくさんいるし、その専門のHPもあるのではあるが。
2 巡回映画。これはぜひ取り上げねば。小学校の屋内運動場で(我らが川崎小学校ではなぜか体育館とは呼んでなかったと思うが、いかが?)、はたまた地域の公園で、そして桜満開の悠久山公園で夜(わが家は、毎年なぜか平日、の夜に悠久山へお花見に行った )、たしか江利チエミ主演の「サザエさん」(何故かアメリカの、全然サザエさんとは 関係ないミュージカル映画の劇中歌「サラカドゥーラメチカドゥーラビビディバビディ ブー〜」を、サザエサンは日本語で歌っていた)を、野外で鑑賞した記憶があるのです。小学校で見させられたものの中には、感動のあまりぼろぼろと泣いてしまった映画もありました。けっこう素直に泣いてたなあ。
「60年代のテレビ」
1 フリッパー。「ぼーくのフリッパー、海の底ふかーくー、きえてゆーくー、そのかげ ー〜〜。」
2 魔法使いサリー。今でもテレビで取り上げられることも多く有名だが、ぼくにはやはり思い出深い。
3 恐怖のミイラ。たしかこのメニューでもあがっている「怪傑ハリマオ」の後番組だったと思うのだが。
4 東芝日曜劇場。ぼくは実にたくさんのことをこのドラマたちから教わった気がする。「愛と死をみつめて(前・後)」の大空真弓。ああ、懐かしい。(映画ではもちろん吉永小百合)
5 木下恵介劇場(アワー?)。「記念樹」とか「オヤジ太鼓」とか。「女と刀」なんていうくらーいドラマもあったぞ。
<60年代の町並み〔栃尾鉄道編〕>
面白く読んでます。「ます」っていうわけは、全部読めなかったから。(2)の「こうこうまえ〜だいがくまえ」まで終わりました。
そうねえ、貨物列車ねえ。たしかに走ってたかもしれない。今度おふくろにきいてみよう。
ともかく、トッテツはぼくにはほんーっとに思い出深く(この表現今回だけで2回目)、さっき書いた悠久山へのお花見も、いつもトッテツに乗り込んで行ってた。重箱と飲み物抱えて。現地でももちろん酒や食べ物は売ってたけど、貧乏だったわが家は(昔はみんな貧乏?)全部家で用意して持ち込んだっけ。
大きな池があって、その池の中に浮かぶステージを作り、そこで踊りだの歌だのをやっておったぞ、たしか。
今考えると、誰が金を出したんだろう。話が悠久山に移るとまだまだあるのですが、それは(3)「どあいぐち〜ながくら〜ゆうきゅうざん」を読んでからにいたしましょう。
マミーストアね。知ってますよお。だってぼくの住んでたあたご町(「愛」にうかんむり書いて「石」って書く字。このワープロでやると出ないぞー)から一番近い下長岡駅の近くにもあったもん、マミーストア。ぼくが高校2年の終わりに、鉢伏町というド田舎に引っ越した後に、残った家には兄が結婚して住んだんだけど、そこで生まれた姪の名が「真弥」(まみ)。まみちゃんの住むまちにある「マミーストア」っていう強ーい印象がありますよ。
スーパーで思い出したけど、たしか「くま」(YO君のこと)の家は「スーパーレットおぐま屋」というスーパーマーケットでしたね。トッテツの袋町駅の真裏にあった。
さらに脱線して、くまさんのやってた「おぐま珈琲店」なんだけど、地元長岡での成功を元に、新潟で支店を開いて10年くらい経つと思うけど、その新潟支店が閉められたらしい。
この夏の帰郷もけっきょく慌ただしいもので、そのあたりも確かめずに終わってしまった。
それにしても、マミーの1号店は我々が高校生の頃はあったはずだが、実はあまり利用した記憶がないのです。
今回の感想文の最後に、ぼくにとっては重要な質問。
それは、「かせいこうこうまえ」っていう駅は下長岡駅と袋町駅との間の、あの駅のことでしょう?
だけど、その駅名って、最初からそうでしたっけ?
ぼくは違う駅名だったような気がするんだけど……。
重要な質問という意味は、ぼくの通ったみどり幼稚園(ぼくの記憶では最初は保育園。途中から幼稚園に変わった。
しかし、多数説は最初から幼稚園説。ちなみに君が通ったのは聖母幼稚園。ぼっちゃんっぽい幼稚園で、ぼくはなんとなく反感を持っていた)がこの駅に隣接していて、ここから電車で帰るお友だちをぼくは見送ったりしていたので、家の最寄りの下長岡駅の次に、ぼくにとってはなじみ深い駅だった、ということなのです。
あいも変わらず断片的な感想に終始しましたが、このHPは、何もお手伝いしないうちに立派なビルが建ってしまったような感じで、ただただ驚いています。
ま、まめにみさせてもらって(と、これくらいまれに使う分にはいい)、せいぜい感想をしこしこと書くことにいたしましょう。
ところで、栃尾の連中のあのきら星の如きキャラクターたちとは、ぼくは高一のときから付き合ってたわけで、何も自慢するわけではないが、念のため。えへん。
テツオ君への手紙
1998.09.05
長大なる感想文第一回をいただき、多謝。
それと、ほとんど、連絡しないまま、一人で突っ走ってしまったことを、深謝。
インターネットは、やっぱり、基本的にone-to-oneのメディアなんだろうなという気がしておりまして、独断で先行させていただくことにしました。事後で申し訳ないですが、よろしくご諒解ください。
ニュースレター版の方は、何れ、必ず、皆様にご相談させていただきながら、再開しようと思っていますので、いま暫く、お待ちください。
さて、いただいた感想文についてですが、まず、鳩山由紀夫も真っ青の謙譲表現の多用はご指摘の通りでありまして、敢えて、言い訳をすれば、本人としては、照れ隠しのつもりで、臭い表現を強調するために使わせてもらっているところであります。この「あります」文体も、多分に、その照れ隠しの一環ということになります。
でも、やっぱり、読みづらい側面は否定できないと思いますので、今後は、ほどほどにさせていただこうと思います。
メニューの内容に関わる部分で、まず、「TVCM」ですが、さすがに、同世代で、育った地域も同じで、同じローカル局を見ていただけに、懐かしく思い出されるCMというのは、恐ろしいほどに共通しているようです。
すでに、サラリンのCMについては、「姓はオロナイン、名は軟膏」のコーナーで、私も言及しておりまして、これは、画像が入手でき次第、アップするつもりです。
「のりたま」についても、既に、「8マン」だったか「スーパージェッター」だったかのコーナーで紹介させてもらっており、こちらも、画像が入手でき次第、アップするつもりです。私の記憶では、この白木みのるがレストランに入ってライスだけ注文するのは、「すきやきふりかけ」か「チーズハムふりかけ」だったように記憶しています。
桂小金治の海賊バージョンは、言われてみれば、そんなCMもあったかな、という程度で、まず、その確認を急ぎたいと思います。
インド人もびっくりの明治キンケイインドカレーは、すでに、映像を確保してあり、画像の取り込みも終っていますが、キンケイの解釈をはじめ、資料的に確認したいことが幾つかあるため、それをクリアした時点でアップしようと思っています。
それから、うちにもオリエンタル坊やの顔つきスプーンがたくさんあったし、あの「ローンレンジャー」のスポンサーとして、バカボンのパパ風に言えば、忘れようとしても思い出せないオリエンタルカレーの客船の船室で人形が踊っていた(と記憶している)CMの映像は、キリンの天気予報のビンの人形が海中で踊るヤツと共に、私が、一生をかけてでも、確保しようと思っているものです。すでに、あの、演歌風なノリのCMソングの音源は確保してありますので、何としても、映像を手に入れたい!!
カレーの景品だったスプーンについては、テツオは「包装紙を集めて」と書いていましたが、私の記憶では、当たりの場合は、カレーの袋の中に応募用の葉書が二つ折りになって入っていたように思います。
ちなみに、数年前、会社の同僚と山梨方面にキャンプに行った際、途中のヤオハンで、当時と全く同じ包装のオリエンタルカレーを発見して、嬉しさの余り狂喜乱舞して購入し、キャンプでは使わずに持って帰ってきて、カミさんに「これは家宝だから」といってキッチンの棚にしまってもらったところまでは記憶にありますが、残念ながら、どこにしまったのか分からない状態に陥っております。情けない…。
続きまして、「60年代の映画」ですが、「ゴジラ」は勿論、モスラ、ラドン、キングギドラ、エビラなど、あまたある円谷プロの作品は、何としても、取り上げたいところなのでありますけれども、なにせ、円谷プロダクションと手塚プロダクションの場合、時代が「平成」に変わった90年代の今も、立派にリアルタイムでビッグ・ビジネスを展開しているだけに、「ゴジラ」ものや「アトム」ものについては、著作権の問題をどうクリアしたらいいのかと頭を痛めているところであります。すでに、「60年代通信」というホームページ自体が、著作権の無法地帯という観もなきにしもあらずで、今更、何をか言わんやという感じもありますが、一応、アトムについては、漫画やアニメをそのまま取り上げるのではなく、ロッテのアストロボーイフーセンガムのキャペーンという事実を伝えるという形を借りるという、訳の分からない手法を講じさせてもらっていたりもしているわけです。
巡回映画も、「60年代の子供たち」か、まだ、手付かずのままになっている「60年代のくらし」か、どちらかで、取り上げさせてもらおうと思っているテーマです。鉄雄は、運動場で見た記憶を書いていましたが、私は、なぜか、音楽室で見た印象が強く残っています。 地蔵町のお祭りの時に、地蔵公園に作られた急ごしらえの巨大スクリーンで見た映画の話なども、何れ、書かせてもらおうと思っています。
「テレビ」についても、フリッパーもサリーも、何れ、登場します。「恐怖のミイラ」は、既に、牧冬吉さんの追悼企画の中で、さわりだけ、紹介しています。この前、神田の古本屋で「恐怖のミイラ」の単行本も購入してきており、近々、紹介させてもらおうと思っていますが、この前、別宅へ荷物を運び込むミニ引越しをやった際に、どこかに紛れてしまい、現在、せっかく買って来た単行本が行方不明になっていて、データのアップが遅れているのが実状です。これも、本当に、情けない!!!
東芝日曜劇場は、私にも、とっても懐かしく、特に、冒頭の、「ひかーるひかる東芝、まわーるまわる東芝、はしーるはしる東芝、うたーううたう東芝、みんな、みんな東芝、東芝のマーク」というCMソングと共に、私の記憶の奥深くに残っている番組です。我が家の場合、この東芝日曜劇場の最大の名作としては、森光子がパンツ屋を演じ、息子に松山省二、隣のおばさんに園佳也子という顔合わせで、軽妙洒脱な演出が光っていた「天国のお父ちゃん、こんにちは」(だったかな?)が挙げられるかと思います。
「町並み」の中に出てくる「かせいこうこうまえ」は、まだ、謎がとけていません。「ちゅうえつこうこうまえ」というような説もあり、もともとの路線図には、駅名が入っていなかったりして、だいたい、あの辺には、中越高校の家政科というものがあったのか、なかったのか。そもそも、みどり幼稚園は、その家政科の実習の幼稚園でもあったのではないか、など、様々な憶測が流れておりまして、いま一つ、判然としないままになっていますので、これも、じっくりと時間をかけて謎解きを進めていきたいと思います。
簡単に、御礼のメールを書くつもりが、ついつい、長いメールになってしまいました。
ところで、テツオからのメールは長さも長いですし、基本的に、私の共犯者として、「60年代通信」には、長期的かつ継続的に色々な形で関わっていただきたいという私の強い希望もありますので、今回、こうしてメールを頂戴したことを契機に、「60年代通信」ホームページ版の中に「テツオの部屋」という新コーナーを勝手に開設させてもらい、私とのメールのやり取りを、そのまま、「60年代通信」の制作裏話というか、テレビでよくやっている番組編成端境期の定番である「NG集」のようなノリで、公開させてもらうことにしようかと思いますので、よろしくお願いします。
ということで、これで、テツオにも、限りなく定期的にメールを発信しなければならない責任と義務を負ったもらうことになるかと思いますので、ひとつ、よろしくお願いします。
本当に、有り難い感想文第一回をいただき、ありがとうございました。
テツオ君からの手紙
1989.09.29
Subject:60年代通信感想文第2回
いやあ……。テツコでなく、テツオの部屋、ですかあ。
私的な手紙(メール)は、やはり「恥ずかしい」の一言に尽きます。ですが、これも協力のひとつと思えば、なるべく読者など意識せず、ひたすら我らが愛しの開設者に思い出話をするつもりで、思いつくままを書き連ねることといたしましょう。
<第一回感想文への返信への返信>
1.白木みのるのバージョンは「のりたま」でなく、「すきやきふりかけ」?
そういえばそうだったかな?
ただ、「チーズハムふりかけ」ではなかったと思う。
2.「キンケイの解釈」ってことですけど、全然関係ないかもしれませんが、「明治キンケイ」っていう会社があって、そこがこのインドカレーを作ってたんだけど、途中で明治製菓に吸収された、だからインドカレーの製造会社名は、途中から「明治」と表示が変わったのだ、とまことしやかな情報を誰かからきいた記憶があるのですが、それがいつごろか、だれが教えてくれたのか、も忘れてしまいました。やっぱり関係なかったかな?
3.そうですか、オリエンタルカレーのスプーンの応募は包装紙なんかを集めて貰ったのではなく、専用の葉書があったのですか。うーーん、忘れた!
しかし、あんたよく覚えているねえ。そこまで細かいこととなると、ぼくなんか、思い出そうとしても、忘れられないよー。
ところで、あなたが最近偶然その商品を見つけたヤオハンって、名古屋に本拠があるスーパーなんでしょ?
10年以上前だけど、会社で昼休みにそんなバカな思い出話をしていたら、「オリエンタルカレーの本社は名古屋にあるんだ」って、ある女の子が真顔で教えてくれたっけ。
なんか符合するものがありますねえ。
確かに、あのしつこーいコマソンのメロディーは、名古屋そのものかもしれない。
4.東芝日曜劇場の「天国の父ちゃん今日は」は、最初の例にはあげなかったけど、ぼくだっていつももらい泣きした名シリーズ。
仁木てるみの頭のよさそうな広い額が印象的で、「おでこが広いとこだけは、姉貴も似ているなあ」とおもった覚えあり、です。
おでこが広いといえば、なんといってもヒロコ・Fさんですが、この女(かた)の話は、また日を改めたい。
ほかに確認しておきたい女の子たちも10人はいるし。
読者の方々にとってはヒロコ・Fさんといったってぴんと来ようはずもないのですが、要するに、ぼくらのマドンナだった女(ひと)です。
マドンナである以上、ずーっとぼくらの目の前にいてはなりません。
そうです。ヒロコ・Fさんは、転校していったのです。
どこへ?
正確にはわかりませんが、イメージとしては、そう「もちろん東京へ」です。
5.「あの」駅の名ですが……。
ぼくの記憶にあるのは、唯一「中越高校前」です。メールを下さったIさん(ぼくの幼稚園の後輩!)もそうおっしゃってますよね。
自分の記憶と仮説とをない混ぜにして帳尻を合わせると、(1)中越学園(?)が最初線路脇に「家政高校」を作った。ちなみに高校の校舎が幼稚園の近くにあったことは朧気ながら記憶あり。(2)途中、高校名が「中越高校」に統合された。(3)さらにその後、校舎統合のため、その地の校舎はなくなり、下新保か悠久山に移転した。
そういう筋書きになり、駅の名も、それに合わせて変わったのではないか、という説であります。
学校の事情という観点で考えれば、小生の第一回感想文でも書きました「最初は保育園だったのでは?」という記憶も、繋がってくるかもしれません。
ここでなんの脈絡もなく付言すれば、こういうことの記憶でいえばセイジ君(現NHKの音楽番組ディレクター?)にも登場していただくべきではないか。
機会があればぜひけしかけることにしましょう。
<60年代の町並み(続き)>
○「ながくら」の駅の位置については、ご親切に教えて下さる方がいらっしゃったようで、けっこうでした。
ところで、悠久山にある県営プールの新設年代を60年代後半と判断しておりますが、小生の記憶では新潟国体(昭和39年=1964年。オリンピックイヤー)に間に合わせて作ったはずの施設であって、しかし不幸にも新潟地震(6月10日だっけ?)があったために夏期大会が中止になり、ついに国体には使われずに終わったといういわくつきのプールだった、ではなかったでしょうか。
○「トッテツ」が廃止された頃のことについて。
昭和48年の春休み、高校3年になったばかりの小生は、ユキノリ君(このキャラクターも、一度じっくり取り上げたい)と最後の全線乗車を敢行したのでありました。
まず、自転車で悠久山まで行き、そこで電車に乗ります。
栃尾まで行き、また悠久山まで帰ってきて、自転車に乗って帰宅する、というコースです。
栃尾では東京でも多少有名な「栃尾の油揚げ」を作っている店をチェックしたりして、けっこうマニアな高校生をやっていたと思います。
そのときの思い出で一番強烈なのは、確か最後の日はある時間帯にトッテツに乗ると、無料だったということです。
悲しいのは、その「ある時間帯」の認識が我々にはなく、一日中無料だと思い込み、朝早く悠久山から切符を買わずに堂々と電車に乗り込んだことでした。
乗車していて、長岡駅に近づくと車掌さんが来て「切符をみせろ」といってきます。
当然です。
しかし我々は、当日は全日乗車は無料だと信じきっていましたから、「広告で今日はただだと書いてあった」と言い張りました。
車掌はいぶかしげにしながらも他の車両に消えていきました。長岡駅に着く直前、その車掌がまたやってきて憤然といいました。
「オメラー! ただなんてウソらねっかー! ちゃんとはらえーっ!」
あれえ、おかしいなーと思いながらも、車掌さんの剣幕に負け、我々は金を払ったのでした。車掌さんもあの後どこかへ問い合わせたのでしょう。
<町並み編・川崎小学校とその北側周辺について>
○4行目の〔C3〕とあるのは、〔C2〕の誤りではないでしょうか。
○シバタサーカスの下り。〔R3〕とあるのは、〔R4〕の誤りではないでしょうか。
<町並み編・東北中学について>
○前の川崎小学校についても、そして、ここの東北中学についても、語り尽くせない思い出・エピソードがたくさんあるので、小出しに送信していきたいと思います。
ほんとうに懐かしい。
<町並み編・長岡駅前について>
○観光会館ねえ。
開設者は「猿の惑星」で衝撃をうけたそうであるが、小生が初めてグランド劇場で観た映画は、たしか「アパッチ」というタイトルであった。
その映画自体は特にいうこともないのだが、強烈な印象だったのは、入口(待合室を兼ねている)の赤い絨毯と、次の上映予定だった「ブーベの恋人」のテーマ音楽がかかっていたこと。
あるでしょう、クラウディア・カルディナーレが主演するやつ。音楽が悲しいんだわー。
当時(小学生)のぼくには、その雰囲気がすなわち大人の領域だと頭に焼き付けられたわけであります。
○デパートの下りもありますが、どこのデパートの、どんな食堂でどんなメニューを頼んだのか、なんてのもじっくりと掘り起こしてみたいものでありますが、次回以降にとっておきたいと思います。
あーあ、12時40分まわってら。「青春の鐘」と「日本レコード大賞」について書くつもりでありましたが、近ーい後日に回して、今日は寝ることにします。
おやすみなさい。
テツオ君への手紙
1998.09.29
Subject: Re: 60年代通信感想文第二回
テツオ様
第2回感想文、ありがとうございました。
「恥ずかしい」という気持ちは、この際、一切、忘れましょう。
私なんか、「60年代の子供たち」で、自分の幼い時の写真をバンバン見ていただいているわけで、この辺りは、見方によっては、露出狂じゃないかというくらいのものがあり、自分でもどうかと思いますが、言いだしっぺとしては、そのくらいの覚悟は必要なんだろうと思っています。 ということで、テツオ君にも覚悟を決めていただきましょう。
さて、いただいたメールに関連して、いくつか、書かせていただきますと、「インド人もびっくり」は、世の中一般では、明治キンケイインドカレーではなく、SBカレーのCMのコピーだったことになっているようで、改めて、確認してみます。
それから、ヤオハンの本拠地は、名古屋ではなく静岡ですが、オリエンタル・カレーの方は、多分、名古屋が本社ではないかと思われます。60年代ではないですが、70年代に一世を風靡した、例の南利明による名古屋弁丸出しの「ハヤシもあるでよ」はオリエンタル・カレーのCMでしたから。
「天国のお父ちゃん」は、私も忘れていましたが、仁木てるみも出ていたことをテツオ君のメールで思い出しました。 「中越高校前」の駅名をめぐる謎については、私も、恐らく、テツオ君の仮説のような経緯だったのではないかと思っています。何とか、裏付けを取りたいところであります。
また、感想文をお待ちしておりますので、よろしくお願いします。
テツオ君からの手紙
1989.10.01
Subject: 60年代通信感想文第 3回
拝啓
前回の感想文が、自分にとっては中途のままになっているような感じがしますので、これまで見たコーナーの残りについて思いつくままに書きおわらせることにします。
ですから、これは第3回というよりは、第2回の続き。
<青春の鐘(1)(2)について>
1.舟木一夫が主演し、長岡を舞台にした映画を捜し求める作業を開設者が懸命に行っていたのが、何年前でしたっけ。
それは最初思っていた「センチメンタルボーイ」ではなく、「青春の鐘」。よくぞ突き止めてくれました。
それだけで、ふつうなら快挙です。
そのことに終わらずに、映像をつぶさに分析し、当時の町並みを再現してみせるなんぞは、これを労作といわずして何を、というところ。やんややんやの拍手、です。
ちなみに、「青春の鐘」だって舟木一夫の歌があったはず(青春歌謡の王道?)ですが、ぼくには全く記憶がありません。
小生、舟木一夫はもともと好きで、学生時代のある日、新潟には県民会館という、当時同市では最上級のホールでリサイタルをやっており、たまたま小ホールで催されていた違うイベントをみにきたぼくは、それをみずに、友だちを説得してその場で当日券を買って思い出の青春歌謡の数々に聞きほれた、ほどでしたが、そのときのことも含め、主題歌が浮かんでこない。
主題歌については後日、詳しく教えてほしいです。
そこへいくと、長岡とは全然関係ないことがわかった「センチメンタルボーイ」の主題歌は、今でもフルコーラス口ずさめます。ただ、昔のくせで、つい「あーあー、ぼくーはあー、センチーメートルボーイー」って歌っちゃいますけどね。
2.この映画の中で一番印象深いのは、たしか依田家での夕食のシーン。
お父さんかお母さんが、家庭教師の舟木一夫にきく。「ご出身は?」(そういえば、東京へ出てきたころ一番いやだったのが、この質問。なんか、せっかく坂を登ってきたのに、後ろへ引き戻されたような、そんな感じがしたっけ。脱線、脱線)。
それに対し、舟木は当然「長岡です」と答える。「伊豆の長岡?」って、お母さんだったかな、が問い返す。舟木は憤然と「新潟の長岡です!」と答える。
ただ、ほんとに憤然と答えたのかどうか、自信はない。憤然としていたのはぼく自身だったのかもしれない。
今とその当時とではまた違うんだろうけど、東京の人ってのは「長岡」というと伊豆のそれを連想するんだあ、と思ったっけ。
ただ、今冷静に考えると、「伊豆の長岡?」と聞き返したということは、少なくとももうひとつの「長岡」が、その質問者の頭にあったことは間違いなく、それがめでたく「新潟の長岡」であったか、それとも「長岡京市」であったのか、今となってはわからないところです。
脚本家の倉本聡さんにきいてみなければ、わからない。本人だってわからないかも。
3.観光会館について。
向かいの米八寿司はわたしには特に思い出深い。
高校時代、春休みの度に皿洗いのバイトしたから。
それだけ。
<青春の鐘(3)(4)について>
1.坂の上小学校界隈の当時の風景を克明に追ってくれましたね。
福島江の流れは、今もあまり変わってないような気がします。その両岸はずいぶん変わってしまったけど。
ところで、この近所の線路沿いの、林の中に「お化け屋敷」と呼ばれていた洋館(?)があっりよねえ。
あれはなんだったんでしょう。
どうか教えて下さい。
<60年代のTVCM繝~ツワ石鹸>
TVCMについては、順不同で書いていきます。
今回は、ミツワ石鹸。○歌っていたのは確かにスリー・グレイセスでした。人形が可愛かった。今みると、けっこうフィギュアおたくなんか大喜びしそうな、かわいい色気が、あるぞー。
○オリエンタルカレー(のなつかしさ)に同意してくれる人にめぐり合ってなかったの?かわいそうに。
ぼくは会社の仲間に恵まれていたってことかなあ。小生が勤める会社には長野県出身者が多いんだけど、40代〜50代前半のひとたちは、ぼくがその歌を歌ってみせると、けっこう懐かしがる人が多かったですよ。
<60年代のカレンダー・レコード大賞について>
○懐かしい曲ばかり並んでいますが、ひとつ質問。
坂本九の「上を向いて歩こう」も、何年の曲だったか忘れましたが、当然大賞を争っておかしくない名曲。
何故選ばれなかったのでしょう?(ちなみに、小生の小2の娘は、この曲を手話でやれる。ただの自慢話。)
○もう一つ質問。昭和50年の新人賞の一人、「夜の訪問者」を歌った小川順子って誰?
全然記憶ないんです。この人だけは。
本日は、これまで。
しかしこのコーナー、こんなんでいいんですかあ。
悪いところがあったらどうか言ってください。
ほら、奥村チヨの歌にもあるじゃないですか。
「わるいーときはー、どうぞぶってねー、あなたごのみのおー、あなたごのみのおー、おんなにー、なりたーーい」ってね。
おれ男だけど。
(終わり)
テツオ君への手紙
1998.10.01
Subject: Re: 60年代通信感想文第 3回
テツオ様
感想文第三回(第二回の続き)、ありがとうございました。
第三回感想文への返事を書かせてもらう前に、第二回感想文への返事がハンパなままでしたので、そちらを先に書かせていただきます(相変わらず、多用されつづける謙譲表現の嵐…)
悠久山プールについては、ご指摘の通りであります。これまでも、紅白歌合戦のページの中で同様の誤りが指摘されておりますが、「1960年代」と「昭和30年代」をよく取り混ぜて書いているため、今回の指摘の箇所も、本来「昭和30年代後半」と書くべきところを「1960
年代後半」と誤記したものであります。
それから、まだ、あまり指摘は来ていませんが、航空写真などの説明をするところで、かなり頻繁に「右」と「左」を間違えていますので、長岡の地理を知らない方は全く分からないでしょうが、と言っても、基本的に、長岡を知らない人は、こんなページは見に来ないと思いますけれども、分かる方は、すぐに、「あ、また、このバカ、右と左を間違えてやがる」とお気づきになるはずです。
町並み編の航空写真の位置関係については、何しろ、まだ、あまりHTMLファイルの作り方もよく分からない時に作ったページで(というと、今はよく分かっているように聞こえますが、基本的には、基礎的な理解を踏まえないまま、素人オヤジの手探り状態は、まだ続いているのが実状ですけれども…)、ご覧になる方の環境によって、航空写真と私が作ったスケールもどきがずれてしまうような作りになっておりますので、これは、何れ、修正しなければいけないと思っています。
デパートにつきましては、特に、屋上遊園地について、そのうち、大特集を作ろうと思っています。
何しろ、たまたま、今年の春に次男が入った幼稚園のお友達のお母さんで、小千谷出身の方がいらっしゃって、カミさんに頼んで、当時の大和デパートの屋上で撮った写真まで貸していただいたくらいですので、ご期待いただきたいと思っております。
ということで、引き続き、第三回感想文の返信へと移らせていただきます。
まず、「青春の鐘」についてでありますが、このホームページでも書かせていただいたかもしれませんし、テツオ君へのEメールでは、以前、お伝えしたと思いますけれども、私のお袋の妹、つまり、私の叔母が、舟木一夫の熱狂的ファンであり、しかも、プロのカメラマンでもあったため、実は、「青春の鐘」の長岡ロケの際には、勤めていた写真館を休んだのか、そのまま仕事としてだったのか、よく分かりませんが、ロケ現場に立ち会って、相当の枚数のスチール写真も撮っていたほどでした。
はじめから、その叔母に訊けば、何の苦労もなかったわけですが、去年の秋に、「センチメンタル・ボーイ」のビデオを購入し、長岡でのロケ作品ではないことが判明し、がっかりした後、たまたま、叔母と電話で話す機会があり、ワラにもすがる思いで確認させてもらったら、あっさりと、「それは『青春の鐘』という映画だよ」と教えてもらった次第でありました。
主題歌の方は、私も、ほとんど記憶にありませんでしたが、以前、このホームページでも書かせてもらったように、作詞が西沢爽、作曲が古関裕爾という大家のお二人で、昭和40年代前半の作品ながら、青春歌謡の王道をいくものであります。神田の中古レコード屋さんで、このシングル盤を見つけ、喜んで買ったのですが、今年の春に、長岡の実家で、車庫の2階の物置で探し物をしていたら、実家にも、同じシングル盤があり、昔、聞いたことがあると思われるものの、私の記憶からは、完全に抜け落ちておりました。ちなみに、いわゆるサウンドトラックの主題歌とシングル盤の録音とは、バージョンが違っていて、サントラ・バージョンの方が、テンポがゆっくりになっています。
何れにしても、この「青春の鐘」のビデオは、いつか、皆で集まった時にでも、上映会をやろうと思っていますので、お楽しみに。
線路沿いの洋館のお化け屋敷というのは、長岡駅東口のダイエーの裏手にある「如是蔵博物館」の辺りの林のようなところにあった建物のことでしょうか。私も、おぼろな記憶はあるのですが、その建物が「如是蔵博物館」と関係のあるものなのか、どうか、よく分かりません。
これは、きちんと、調べてみたいと思います。
何れにしても、私達がこどもの頃は、あの辺りは、何か、不気味な森という感じだったと思いますが、今は、きれいな公園に整備されています。
TVCMについては、ミツワ石鹸のCMソングは、私も、スリーグレイセスだと思い込んでおりましたが、先日、この辺りに非常に詳しい方からEメールをいただき、スリーグレイセスだと裏付ける資料は今のところ確認されていないということでしたので、引き続き、確認作業を急ぎたいと思っています。
レコ大関連では、「上を向いて歩こう」の謎と「夜の訪問者」の謎は、せっかくですので、先日、新設した「60年代の謎・ナゾ・なぞ」のコーナーで取り上げさせてもらうことにし、私の方から、後日、詳しい説明をさせていただこうと思います。
ということで、テツオ君と私は、どちらも出版社勤務ということもあるのかもしれませんが、とにかく、このEメールの長さというのは、尋常ではないと思います。
当人達以外で、ここまで読んで下さっている方がいらっしゃるとしたら、本当に、感謝しなければならないと思います。ありがとうございます。
もし、「輝く!文字だらけホームページ大賞」というのがあったら、このページは、間違いなく「大賞」を取ることが出来るのではないかと思います。
あんまり、文字ばかりで、申し訳ないので、何か、このメールを「テツオの部屋」にアップする際には、ページのどこかに、アクセントになるような画像も入れ込んでみたいと思います。
ということで、自分でも、いやになるくらいの長い長いメールとなりましたが、ひとつ、よろしくお願いします。
テツオ君からの手紙 1999.01.15
Subject: テツオの部屋第 4回
〔テツオの部屋第4回〕
「輝く!文字だらけホームページ大賞」の最大の貢献者、「テツオの部屋」のテツオでございます。
なにしろ、文字しか打てません、わたしは。文字以外では、「!」とか、「?」とかの記号だけなんでございます。
せっかく、このホームページの主宰者からコーナーを作っていただいたのに、全く個人的な理由で3か月もの間、留守しておりました。言い訳は申しません。
年も改まったことですし、せっせと駄文をお送りすることを誓います。
それにしても、我らが長岡出身のみなさん(ドンガバチョ大統領なら「みなっさーーんっ!」)、関東地域で冬を過ごしていると、空気が乾燥しているため鼻の穴の中の粘膜がひりつきませんか?
つまり、わたくしの場合、粘膜が乾燥してしまい、それを保護しようと、鼻汁が出ては固まって、巨大な「ハナクソ」になってしまうという状態なのです。
ハナクソをほじるのが趣味の方の場合、むしろこれは困るどころか歓迎すべきことかもしれませんが(そういえば主宰者氏は昔よく喫茶店で鼻をほじりながら貧乏ゆすりをしていました)、そんなにハナクソばかりほじってもいられない。だいいち、はがしてばかりいると、血まで出てくるですから、大変です。
さて、今回から「感想文第○回」という看板は取り外すことにしました。理由は1月9日付けの小生の「励ましのお便り」にも書きましたように、これだけ立派な、手の込んだ、行き届いたホームページは、自ずと「お便り」コーナーの水準の高さにもあらわれており、今更、わたしだけ。このコーナーでものを食い散らかすような、無責任な感想を述べるのは「お便り」コーナーとの区別を無視した行為とも思われ、同時にこのコーナーの役割自体まで不明確にすることになる、と確信するに至ったからであります。
これからはこのコーナーでは、
(1)長岡もの、というか、主宰者とわたしとの個人的なつながりのなかから60年代がかいま見えるような話。
(2)長岡ものでない、一般的な60年代関連でも、ただの感想ではなく、もうちょっと創造的な話。
読み返すと「で、何が変わるんだろう」という疑問も湧いてきますが、ともかくも、そのような点を強く意識しつつ、ご披露に努めることとします。
そうはいっても、わたしの場合、主宰者氏や稲葉小僧さんなどほど基礎知識もなければ、このことにそれほど長時間を割くつもりもないので、これからも出来が悪いかもしれないことを、あらかじめお詫びしておきます。
その1 思い出の豪雪
1月10日付け主宰者発「えれじい」欄で38(サンパチ)豪雪が取り上げられていました。
今回は、まず、そのときの思い出話から。
年が昭和38年に改まってすぐ(元旦?2日?)、大雪の神様はほとんど一晩で仕事を仕上げて行ってしまわれました。電気も道も鉄道もすべて遮断され、新潟県中越地方は文字通り陸の孤島になってしまったのです。
主宰者と同様、小生の自宅も平屋でしたので、「二階から出入りする」はなかった代わり、一階の玄関を開けると、7〜8段の雪の階段が待っており、それを上がると屋根が見える世界が開けます。イメージとしては雪の穴蔵生活です。
学校も給食などは当然作れないため、雪道を考慮して毎日遅く始業し、午前中にお帰りとなる、そんな毎日が何週間続いたでしょうか。家でも不便さは同様で、食生活(入れる方)も大変なら、当然「出す方」も大変です。
当時の長岡は、たぶんトイレの水洗化はまだほとんど行われておらず(長岡では汲み取り式トイレを「あっぱんじょ」と呼んでいました。あっぱ(うんこの方言)をする所という意味)、わが家の汲み取り式トイレもやがて満杯となり(道が雪で埋まったままのためバキュームカーが来られない!)、やむをえず一斗缶にうんこを汲み取り、泣きたいような気持ちで父と近くの田んぼへ捨てに行った記憶があります。
もちろん、男性の「小」の方などはなるべく外で済まします。玄関を開けるとすぐ目の前に立ちはだかる雪の壁に、黄色やオレンジ、淡いのややけに濃いのなど実に様々な色の、様々な高さの丸い模様がどんどん増えていきました。おしっこってほんとによくみると色が個性的なんですね。
わが家(あたご町という、主宰者氏の自宅から徒歩10分ほどの所)は広い田園地域に隣接していたので、栃尾などもっと深刻な隣接の市町村へ物資を輸送するための基地にすることになったらしく、ある日学校から帰って来ると夥しい数のヘリコプターが舞い降りて来ておりました。見る間に整地(整雪?)がされ、一帯は立派なヘリポートに生まれ変わりました。不謹慎な話ですが、めったにみられない光景で、小生は興奮とともに見守ったものであります。
当時の豪雪についてはまだ書きたいことがありますが、次回に続きを書くことにして今日は次の話題へ進みます。
その2 お便りでお約束した話のひとつめ
主宰者がこどもの頃からブル・コメ(ジャッキー吉川とブルー・コメッツ)の熱狂的なファンだったことは、わたしの記憶にも鮮明でありまして、あるいは、このことは高校3年生以降に、それまでより親密になってから身についた「記憶」なのかもしれませんが、いずれにしろ川崎小学校の卒業式の後、謝恩会という父母も加わった宴会(ちゃんと酒も飲んだ)でクラス毎にやった演し物の、主宰者のクラスのグループサウンズの真似は、ほんとうによく記憶しております。
ちなみに、わたしのクラスでは、「タイムトンネル」という劇をやりました。
これはNHKで放映されていた米国のドラマでしたが、偶然の出来事から二人の青年(技術者?学者?)がフロリダの砂漠(?)で見つかったタイムトンネルを通して様々な時代を旅することになる、という物語でしたね。
毎回スリリングな見せ場の連続で、いつもはらはらしながらわたしは観ておりました。歴史的な事件に何度も居合わせたりするのも見物でした。
もちろん、少し冷静になって考えればどの時代に行ってもそう都合よく有名な事件に遭遇するはずがないと思うわけですが、そこはそれ、しょせんドラマなんですから、むしろ我々はあり得ない偶然と常識とをどうスムーズにつないでいるかの技術に注目すべきでありましょう。ばかばかしいなら、みなきゃいいんだから。
話が脱線いたしました。
「タイムトンネル」は主宰者様がきちんと取り上げるとして(もう取り上げてるか?)、謝恩会の話を続けましょう。
それぞれの演し物がどういう順番でなされたかなどは全く(忘れようとしても)思い出せませんが、ともかく主宰者氏のクラスはバンドの真似でありまして、主宰者氏は井上忠夫(現:大輔)の、声を張り上げて歌うときのくせである、片足を小刻みに震わせる仕草までそっくりに真似ていたのです。
ま、見方を変えれば貧乏ゆすりのようなものですから、主宰者氏としては大人になってもやめられなかった貧乏ゆすりが、偶然、あのとき出ただけなのかもしれません。
その点は本人の記憶を証言してもらいましょう。
忘れようとしても思い出せないかもしれませんが。
その3 お便りでお約束した話のふたつめ
ジャイアント馬場について。
彼が新潟県三条市の出身であることは特にファンでない方までよくご存じと思います。
三菱電気提供のプロレス中継(日テレ系)でも、実況アナウンサーがいつも「三条が生んだ世界の巨人」と紹介していました。
通った高校は三条商業。伝記などにはそこで野球部に入り、巨人軍への歩みを始めたかのように書いてあると聞いたことがありますが、わたしは直接確認しておりません。
ただ、その話とは全く別の場面で別の人から、馬場は高校生のときバスケットボール部員であって、試合になると大活躍をしていたのを見たことがあるという話もまた聞いたことがあるのです。
馬場が、高校卒業後、巨人軍に入ったのは事実として動かせません。
とすると、バスケ部の話が全くでたらめか、それとも、一度入ったバスケ部を辞めた後、野球部へ入ったのか。
高校で硬式野球の経験を全くしないまま、プロ野球界に入るというのは、ちょっと想像しがたいので、そのどちらかということになるのではないでしょうか。
そのへん、もともと野球少年でもあり、また、一時プロを目指してトレーニングを続けていた山田ヒデエチ君の練習役などを務めていた(小生も何故か居合わせていたときプロテストのための練習の手伝いをやらされた)主宰者様のご意見などもお聞きしてみたい。
今回は、馬場さんの話はこれまでにしておきますが、記憶など若干確かめまして、次回以降にもっと別の、馬場さんと新潟県に関する話をさらにご披露したいと思います。
その4 渡辺のジュースの素について
冒頭にお約束したとおり、主宰者の作ったものの感想はここでは書きません。
特に、エノケンの「わーたなべの、ジュースのもとですよぉ」というダミ声については、わたしも涙が出るのほど懐かしいのですが、ここで書きたいのは、我々が学生の夏休みに八ヶ岳に行ったときのことです。
1975年の夏休み、我々は連日、実家・長岡にある「サファイア」という喫茶店(主宰者氏のおふくろさんは「サフェーヤ」と発音する)に群れ集い、八ヶ岳山岳旅行のプランを練っておりました。食料計画を立てていたときに、主宰者氏が「粉末ジュースを買っていこう。山の水はうまくて冷たい(長岡では「しゃっこい」という)から、それを持っていけば、高いジュースなど買わなくても済む。軽いし便利だ」と言いだしたのです。
わたしは「いまどき粉末ジュースなんてあるのか?」ときくと、「ある。愛用している」との答え。
「渡辺のジュースの素じゃあるまいし」。チクロなど使わない、したがって価格もそれなりのものだったと思いますが、そのときは結局、確かに便利だから持っていこうということになりました。けっこうおいしかった記憶があります。
あの山行は、M・O君の「おめさんがたはいがんかったがかの?」事件やら「リスのキャラバンシューズ」事件やらいろいろ起こり、忙しい山行でしたが、ともかくも楽しく行ってまいりました。
最後は全く意味のない、ほんとうに個人的な思い出話となってしまいました。ここに深く反省いたしますとともに、今日は疲れてしまったので、今回書く予定だった「給食」のことを予告して、第4回を終えさせていただくこととします。
主宰者の年初の施政方針演説にありましたように、今年は手つかずだった「60年代の暮らし」がアップされていくことと思います。
が、わたくしはわたくしとして、気の向くままに、おそらくは「暮らし」の中心のひとつであろう「給食」をテーマに取り上げてみたいのです。
あまり構成などをきちんと考えずに書きますが、どうかお許し下さい。
主宰者が後から系統だった本番の情報をみなさんにお送りすることでしょう。
(第4回終)
主宰者から 1999.01.15
「テツオ君からの手紙」をアップする際は、基本的には、同時に「テツオ君への手紙」もアップしてきましたが、このメールをもらったのが1月15日の真夜中過ぎでありまして、この「テツオ君からの手紙」の部分を作り込みするだけで2時間近くかかり、すでに時計は午前3時に迫ってきておりますので、今回は、改めて「テツオ君への手紙」をアップさせていただきますので、皆様、悪しからず、ご了承ください。
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