長岡編・航空写真の部
川崎小学校とその北側周辺
1962年
左の写真は、1962年の川崎小学校とその北側の周辺の航空写真です。中央下の[C3]:[R4]&[R5]の辺りに位置しているのが川崎小学校です。栖吉川沿いに広がるグランドと敷地の左下にあるプールがお分かりいただけるかと思います。
写真の右上隅に見えている橋が栖吉川と福島江の合流地点にかかる出会橋です。その三角州にひときわ大きく見えている屋根が地蔵町の造り酒屋である高橋酒造、通称「長稜さん」です。
写真の左上隅に広がる大木造建築群が1965年頃に焼失した旧・長岡女子師範学校で、この写真が撮影された1962年当時は、私の記憶によれば、東北中学校と新潟大学付属小学校・中学校の校舎として使われていたはずです。
写真左下から流れてきている福島江が大きく右手に折れる地点の右岸が長岡保健所。さらに、その2ブロック右手に3棟ならんでいるビルが日産化学のアパート、さらに右手に1ブロックおいて見える3つビルのうち、道路に対してちょっと斜めに2つ並んでいるのが石油資源開発のアパート、その上がシバタ観光のアパートです。さらに、その右手の川崎小学校の北側の空き地の上の方に2つ並んでいるのが帝国石油のアパートです。さらに、その北側に規則的に並んでいる白っぽい屋根の住宅地が、津上製作所の社員分譲住宅です。全部、私の記憶だけで断定的に書いておりますので、それは違うゾという指摘があれば、どんどんご教示いただきたいと思います。
日産化学や石油資源開発、帝国石油、シバタ観光のアパートなどは、何れも、私が生まれてから川崎小学校に入学するまでの5〜6年の間に相次いで建てられたものだったと思います。
この「60年代通信」ホームページの「60年代通信original」のコーナーの1996年9月5日号(“僕らの原っぱにサーカスが来た!!”)でも書かせていただいて通り、私が4歳の時、つまり1959年にシバタサーカスがやってきた空き地というのは、写真の[C2]:[R3]の日産化学のアパートの北側の空き地辺りだったと記憶していますが、写真で見る限り、このスペースでサーカス小屋と周辺設備をセットアップするには狭すぎる気がします。恐らく、1959年にシバタサーカスが来た時点では、この日産化学のアパートも建設前であり、同じ号でも紹介させていただいている国土地理院発行の1952年版2万5000分の1地形図のように、保健所が建てれた場所辺りから福島江沿いに広がる北東の土地は、何一つ建物のない広大な田んぼ或いは原っぱだったものと思われます。
私の住んでいた地蔵町や毎日のように買い物に行った東神田の商店街のことなど、書きたいことは山ほどありますが、それぞれ、各町内毎にさらに写真を拡大したものと併せて、改めて詳しく書かせていただこうと思います。とりあえず、今回は、川崎小学校の北側周辺の、特に、私が入学する前後で著しい町並みの変化があった部分を概観するだけにとどめさせていただきます。
1967年
左の写真は、上の写真から5年後の1967年の同アングルの航空写真です。
まず、何と言っても、写真の左上隅にあった旧・長岡女子師範学校の大木造建築群が跡形もなくなり、単なる平行四辺形の広大な空き地に変わっているのが目をひくことと思います。
上の写真説明でも触れさせていただいている通り、東北中学校の校舎として使われていたこの建物は、確か、僕が小学校4年くらいの時だったと思いますが、深夜の大火事で全焼してしまったのでありました。私は、翌日、歩いても2〜3分の距離であるにも関わらず、自転車で焼け跡を見に行き、帰りにバチがあたって東神田から地蔵町に戻る時に、福島江にかかっている地蔵橋から自転車ごと川に転落し、あやうく通りすがりのおじさんに助けていただき、九死に一生を得たという愚かな経験の持ち主であります。その川に落ちたのが、確か、小学校4年の時だったと記憶しています。
その次に目をひくのが、写真右半分のほぼ中央を流れている栖吉川の川幅が広がっていることではないでしょうか。この栖吉川という川は、梅雨時や台風の時などには、ちょっとまとまった雨が降ると、やたらに氾濫してしまう川でしたので、今にして思えば、拡幅工事が急がれていたのだろうと思うわけであります。
それから、川崎小学校の周辺の土地も、上の写真では、日産化学、石油資源開発、帝国石油などのアパートしかありませんでしたが、この1967年の写真では、ほとんどビッシリと住宅が並んでいる様子がお分かりになるかと思います。
私自身の関わりで言いますと、帝国石油のアパートの北側で、津上製作所の社員分譲住宅と栖吉川の間に新潟大学教育学部の女子寮である「和光寮」が建てられており、さらに、その北側も、上の写真では沼地だったところに、地蔵公園という公園も造られています。また、津上製作所の社員分譲住宅の栖吉川と反対側の隣接地には、新潟大学の教授の住宅や新潟日報の社員寮なども建てられました。さらに、写真中央部上の[C3]&[R4]:[R1]の辺り、つまり愛宕から地蔵町に至る道沿いにも何軒かの住宅が造成されています。「60年代通信original」のコーナーの1996年9月5日号(“僕らの原っぱにサーカスが来た!!”)でも書かせていただいた通り、それまで福島江沿いの“片町”と「長稜さん」なんかのあった“両町”にしか住宅がなかった地蔵町は、この時期に、爆発的な人口の増加を記録したのでありました。
地蔵町もさることながら、ちょっと前までは、田んぼと原っぱしかなかった川崎小学校の北側周辺の「干場町」と名づけられた地域は、あっという間に、住宅密集地となったわけで、60年代の高度成長がそのまま町の形成にも反映されていたと言ってもいいと思うわけです。

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