〈埋め立て地にシバタサーカス〉
過去3号にわたって「川崎小学校・木造校舎の見取図を作りたいのだ」プロジェクトを展開してまいりましたが、第5号の今号からは、空間的にも時間的にも川崎小学校の外への広がりを求めながら、お話を進めさせていただこうと思います。
まずは、この「60年代通信」の言い出しっぺの責任として、自分のアルバムの中から60年代の匂いがプンプンとしてくるような写真を紹介させていただきながら、愛しの60年代の懐かし話をお読みいただこうと思います。
60年代というのは世の中全体がまだまだ豊かさからはほど遠い時代だったのではないかということは以前にも書かせていただきましたが、ウチの場合、はっきり言って、そうした時代においてもかなり貧しい家計状況であったと思われるにも関わらず、親父が色々と趣味にお金を使ってしまう人でお袋を困らせていたようで、結構カメラにも凝ったりしていて、二眼レフのカメラ(というよりは写真機と呼びたい機械でありましたが…)でよく写真を撮っていたように記憶しています。したがって、私たちの小さい頃の写真も、当時としては、結構ある方なのではないかと思われます。
そんな中から、プライベート・フォト第1号として、恥ずかしさも顧みず紹介させていただくのが、今号の1ページ目を飾るこの写真であります。写真のキャプションには、親父の字で「昭和34年6月15日(埋立にて)シバタサーカス前にて」とありますから、正確には1960年代ではなく、1950年代ということになりますが、以前にも書かせていただいた通り、私にとって「1960年代」というのは「昭和30年代」とほとんど同義であり、というか、この「60年代通信」の「60年代」というのは、私の頭の中では、私たちが生まれた昭和30年から、私たちが高校を卒業して長岡を離れた昭和49年までをイメージしていますので、そのようにご了解をいただきたいと思います。ですから、ここで言う「60年代」というのは1955年から1974年まで、つまり、本当の60年代に前後5年を足した期間ということになります。
どうも余計な能書きが長くなりがちで恐縮でありますが、色々と言い訳をさせていただきながら書かせていただくことをお許しいただきまして、この写真にまつわるお話を続けさせていただきます。
この私と姉が並んで映っている写真のオリジナルは、名刺版よりもさらに天地が短いサイズの紙焼きで、すでに、色も褪せ始めているようなものですが、拡大してスキャニングしてみると、意外と背景の細かい部分まではっきりと見えるようになって、自分でも驚いています。それはともかく、本来、この写真の主人公であるはずの私が不機嫌そうな顔をしている上に、姉にいたってはソッポを向いてしまっているのは何故でしょうか。ウチの親父は非常に短気ですぐに怒る人でしたので、なかなか思うようなアングルに私たちが収まってくれず、怒鳴りつけた直後の写真なのかもしれません。
で、この“サーカスが来た原っぱ”の場所は一体どこかと言いますと、福島江沿いの保健所があった場所からちょっと下流だったと記憶しています。私たちが川崎小学校に在校していた時期でいうと、能町正治君が住んでいた日産化学(だったかな?)のアパートや小熊和彦君が住んでいた郵便局の職員住宅、それから、鈴木たつる君や私が通っていた関根そろばん塾なんかがあった辺りだったと思います。僕が、まだ、幼稚園に通い始める前までは、この辺りは沼地になっていて、近所の大きいお兄さんたちと筏(いかだ)で遊んだ記憶もあります。ついでに書きますと、私たちが小学校高学年の頃に、地蔵町に地蔵公園という立派な公園ができましたが、ここも、私が小さい頃は、沼地で、やはり、筏遊びをした記憶があります。
写真のキャプションにもある通り、その沼地が埋め立てられて、住宅や公園になるまでの暫くの間、いわゆる原っぱとして私たちの遊び場になっていたということではないかと思われます。
国土地理院の2万5000分の1の地形図でもわかるように、昭和27年当時にはほとんど何もなかった原っぱの場所が、昭和43年頃には、アパートなどが立ち並ぶ住宅地に変わってしまったわけです。参考までに、位置関係を図示させていただきますと、@が川崎小学校、Aが私の家、Bがサーカスが来た原っぱ、Cが地蔵公園ということになります。15年余の間に、すっかり、町並みが変わってしまったことになり、また、何れ、確定版を作らせていただこうと思っている川崎小学校の木造校舎も、昭和27年頃と私たちが卒業した後の昭和43年頃とでは、随分、概観が変わっていることも分かります。何れにしても、僕の記憶では、サーカスが来た昭和30年代の前半の頃というのは、東神田から福島江の橋を渡って地蔵町の方に来ると、右手の方の福島江沿いには保健所辺りまでずっと原っぱだった記憶がありますから、昭和27年発行の国土地理院の2万5000分の1の地形図の状況から、さほど変化はなかったのではないかと思います。その後、僕らが小学校に入学する昭和37年までに、日産化学のアパートや石油資源開発のアパート、帝
国石油のアパートなどが、僕らの遊び場になっていた原っぱに次々と建てられていったのでしょう。
とにかく、こうしたアパートや住宅が出来る前の原っぱは、小学校に入る前、どころか、幼稚園にも行く前だった私にとっては、とてつもなく広大な遊び場で、幼馴染みの丸山ヒロトシ君といつも一緒に走り回って遊んでいたものです。当時は、ヘリコプターで商店街の宣伝ビラを配るというような広告の仕方もあって、川崎にヘリポートがあったためか、地蔵町の上空にもよくヘリコプターが飛んできたもので、ヘリコプターが飛んでくる度に、僕とヒロトシ君は、ヘリコプターを追いかけながら、聞こえるはずもないのに「おーい、ヘリコプター、ビラ撒けェー」と大声を上げて、この原っぱを走り回ったものでした。
その私たちの庭のような原っぱに、忽然としてサーカスが現れたわけですから、私やヒロトシ君の驚きは、それはもう大変なものだったに違いないと思うわけであります(はっきり言って、私はもう、その時の感動を覚えていませんが、その驚愕は想像に難くありません)。私が大きくなってからも、お袋がよく振り返って言っていましたが、とにかく、サーカスの開催期間中、私とヒロトシ君は毎日、雨の降る日でも、朝早くから二人でサーカス小屋の周りをウロウロしていたと言います。当時、長岡には動物園がなく(今もそうですが、当時、悠久山に行けば猿と熊はいました…)、サーカス小屋の周りには、普段見ることの出来ない“猛獣”のライオンやトラなどの檻があって、しかも、それをタダで間近で見ることができたわけですから、私やヒロトシ君の感動は想像するに余りあるものがあります。そのため、ウチの親父なんかは、私とヒロトシ君がサーカス団にさらわれるのではないかと、随分心配していたという話もよく聞かされたものでありました。
そのようにサーカス小屋に日参した私でありますが、この時、このサーカスを見せてもらった記憶は全くありません。後年、長岡駅前の厚生会館の裏にあった坂之上小学校が焼失してできた広場に来たサーカスには連れていってもらった覚えがあります。ちなみに、長岡に来たサーカスということでは、さらに、後年、大手高校がまだ第二高校と呼ばれていた頃、現在の大手高校のある場所に移って、下長岡駅の辺りにあった跡地にサーカスが来たのも記憶しています。
さて、サーカスが来た「僕らの原っぱ」の思い出話に戻ります。
私が小学校低学年かあるいは幼稚園の頃だったかもしれませんが、原っぱが少なくなってきたためだったのか、この原っぱの領有権(?)をめぐって、同じ地蔵町の子供同士で大きな喧嘩があったことも忘れられません。地蔵町は、地形図を見ていただいても分かりますが、東神田から橋を渡って川沿いに左へ曲がり、さらに愛宕方面からの道と交わる地点で道なりに右へ折れて「長稜」の造り酒屋である高橋酒造を経て川崎の方に至る道路沿いに住宅が連なっており、僕が子供の頃は、福島江に面していて道路の片側にしか家がなかった所が「片町(かたまち)」、愛宕方面からの道と交わる地点から高橋酒造に至るまでの道路の両側に家があった所が「両町(りょうまち)」と呼ばれ、子供達の遊びのグループも、片町と両町に分かれていました。基本的には、位置関係から言っても、問題の原っぱは、どちらかというと片町の子供たちの遊び場だったわけで、既に書いた通り、私も、この原っぱが主たる遊び場になっていました。
ある日、この原っぱで片町の子供達が遊んでいるところに両町の子供達がやってきて、恐らく「俺達にも遊ばせろ」とか「ここは俺達の遊び場だ」とか言ったのでありましょう、当然、険悪な雰囲気となり一触即発の状況となり、ついに、双方のグループのガキ大将格だった小学校の高学年の男の子同士による一騎打ちの喧嘩が始まったのであります。私は、まだ、小学校に入学する直前か1年生くらいだったと思いますが、あまりの迫力に泣きそうになりながら、他の小さい子供達と固唾を飲んで、この喧嘩を遠巻きに見つめているだけでした。結局、最後は、片町のガキ大将だったH君が両町のガキ大将だったI君に勝ち、I君は泣きながら仲間達と両町の方に帰っていったのでした。その時の、I君のめくれたシャツから、殴られて赤く腫れた背中が見えていたのを、今でも、はっきりと覚えています。
小学校に入ってからも、地蔵町の西南端には、面積は小さくなったものの原っぱが暫く残っていて、一升瓶の入った木箱が積んであったりしたのを覚えています。登下校の際にこの原っぱを通ったり、放課後や休みの日には2B弾で遊んだり、雨水で出来た池で「ゼロ戦レッド」ごっこをしたりしたものでした。
2B弾は、私達の世代にとっては格別の思い入れのある遊び道具だと思いますので、これについては、別の機会に改めて考察を試みてみたいと思っています。
「ゼロ戦レッド」ごっこについては、若干の背景説明を要すると思われますので、簡単にご説明いたします。「ゼロ戦レッド」というのは、当時、あの「ミラクルA」なんかを描いていた貝塚ひろしさんが、確か、月刊少年漫画雑誌の「冒険王」辺りに連載していた漫画です。これは、正規の部隊から何らかの理由で離脱してしまったゼロ戦のパイロット達が、南海の孤島(?)の滝の裏側にある洞窟を秘密基地とし、自分達の愛機を赤く塗って活躍するというストーリーで、私としては珍しくお気に入りの戦争漫画でした。珍しくとは言ったものの、「ゼロ戦はやと」とか「紫電改のタカ」とかもお気に入りでしたから、結構、戦争漫画も好きだったのでしょうか。でも、これらの漫画は、必ずしも好戦的なテーマの取り上げ方ではなかったような気がします。
その「ゼロ戦レッド」の秘密基地を作るために、まず雨水がたまってできた池からスコップで段差のある原っぱの端まで溝を掘り、そこに人工の滝をこしらえます。あらかじめ水が流れ落ちる辺りの地面の横っ腹に穴を掘って底をくり貫いた空き缶を何本か押し込んでトンネルを作り、底に板を渡して滑走路のようにして、その上に赤く塗ったプラモデルのゼロ戦を並べます。この穴を隠すように水を流して滝を作れば、「ゼロ戦レッド」の秘密基地の出来上がりというわけです。しかし、いったん、水を流してしまうと、ゼロ戦を秘密基地から発進させるためには、泥水の中に手を突っ込まなければいけなくなるし、何とも発進の仕方としてはぶざまなものがありますが、それでも、私たちは、自分達だけの秘密のゼロ戦レッド基地に大満足していたものでありました。
それから、アパートが続々と建てられたこの原っぱには、アパートを建てる際の資材が、それこそ山のように積んであり、恐らくコンクリートを流し込む際に使うものと思われる畳1枚分くらいの大きさの木の板が、僕らの格好の遊び道具となっていました。
この木の板を、まだ、地蔵公園が出来る前の沼地だったところに運んでいって、組み立てて筏にしたり、原っぱの資材置き場の中に、外からは分からないように、この木の板を組み合わせて簡単な小屋を作って隠れ家にして遊んだりしたものでした。今にして思えば、隠れ家にした木の板や木材は、釘を使って固定したりしたわけではなく、単に組み合わせただけのものでしたから、よく崩れなかったものだと思います。筏遊びにしても、筏から落ちてずぶ濡れで家に帰ったこともありますし、夜も、布団の中で筏から落ちた夢を見て、朝起きたら寝小便をして濡れていたという記憶もあります。
親となった今、子供が筏遊びや資材置き場の隠れ家ごっこなんかをして遊んでいたら、すぐに注意するどころか、怒鳴りつけて叱ってしまうところだろうという気がします。昔の子供達は、際どい危ない遊びをしていたものだと、つくづく思ったりするわけです。
そんな原っぱも、私達が小学校に入ってからカステラ工場ができたり住宅が建てられたりして、中学に入る頃には、幅の広い道路も作られてしまいました。
現在、原っぱのあったところは、国道8号線のバイパス道路から長岡駅の東口を経て宮内方面に至る幅の広い舗装された立派な道路が通り、道路の両側には大きなガソリンスタンドやビルが建ち並んでいます。サーカスが来た原っぱや「ゼロ戦レッド」ごっこをやった原っぱがあったことなど、想像もできない景観を見せています。
[「60年代通信」編集室注:当時の状況を航空写真で振り返る「60年代の町並み」の「長岡編・航空写真の部」の「川崎小学校とその北側周辺」もご覧ください]
渥美清さん(以下、敬称略)が8月4日に亡くなっていたことが,3日後の7日に明らかにされました。映画の寅さんシリーズをはじめ、渥美清の出演する作品に愛着を持っていた私にとっても、非常にショッキングなニュースでした。
今回は、その渥美清も主演で、私が小学生の頃に大好きでよく見ていた「泣いてたまるか」というドラマの思い出を書かせていただきながら,渥美清さんを偲ばせていただこうと思います。この「泣いてたまるか」は、私の記憶では、日曜日の夜8時から1時間枠で放映されていたシリーズで、主役は、渥美清と青島幸男が交互に演じていたものでした。番組の制作はTBSと国際放映で、長岡では、TBS系列(といっても、あの頃は長岡では民放はBSNだけでしから、他のキー局の番組もかなりやっていましたが…)のBSNが放送していました。私は、この番組と同名の主題歌も好きで、次のような歌詞の歌を良く歌っていたものです。
「空が泣いたら 雨になる
山が泣く時ゃ 水が出る
俺が泣いても 何んにも出ない
意地が涙を 泣いて 泣いてたまるかよ
通せんぼ」
中学に入ってから、確か山田秀恵智君と一緒にレコードを買って、彼の家でよく聞いていた記憶もあります。
結婚してから2度目の住まいがあった京王線の中河原駅前のレンタルビデオ屋さんに、寅さんシリーズと並んで、この「泣いてたまるか」のビデオが置いてあったので、懐かしさもあって早速借り、約30年ぶりにこのドラマを見ることになりました。そして、その中に、たまたま「男はつらい」というタイトルで、脚本も山田洋次監督が手がけているものがあり、びっくりしたものです。
渥美清が亡くなった際の新聞報道などでも、映画「男はつらいよ」のシリーズがもともとフジテレビの同名のドラマであったことは紹介されており、寅さんファンの間では、そんなことは常識になっていたわけですが、このTBSのドラマ「泣いてたまるか」に言及しているような記事は見あたりませんでした。
もちろん、葛飾柴又を故郷に持つテキヤの寅さんという設定はフジテレビのドラマが最初だったわけで、これがあったからこそ映画のシリーズも誕生したという背景は山田監督自身が指摘している事実でもありますが、その一方で、私が大好きだった「泣いてたまるか」にも、その「男はつらいよ」の原型となるような筋書きのストーリーもあったということを、渥美清の一ファンとして指摘させていただきたいと思うわけであります。
この「泣いてたまるか」のシリーズの中の「男はつらい」という回の粗筋は次ぎのようなものです。渥美清の演じるトラック運転手が、ある雨の夜にチンピラに追い回されていた若い女性を助け、頻繁に立ち寄るドライブインのウエイトレスの仕事を紹介して、この女性に好意を持たれ、それを知りながら、この女性に一目惚れした小坂一也の演じるドライブインのコックのためにキューピッド役を引き受けるというもので、ドラマの基本的な展開は、寅さんそのものであります。ちなみに、映画では、さくらの亭主で寅さんの義理の弟に当たるヒロシ役を演じている前田吟さんが、トラック運転手の助手役で、このテレビドラマに出演しています。
このドラマの中で、山田洋次監督は渥美清に「『据え膳喰わぬは男の恥』じゃなくて『据え膳喰うは男の恥』だ」と言わせていますが、この辺りは、寅さんシリーズでも一貫したポリシーになってきたことを考えると、映画「男はつらいよ」の原型は、このTVドラマ「泣いてたまるか」にあったと言ってもいいのではないかと思えてきたりするわけです。
「泣いてたまるか」の放映時期は手元に資料がないため,正確なところは不明ですが,同じ頃に,やはり,植木等と藤田まことなんかが交互に主役を演じていた「おれの番だ」という番組を見ていた記憶もあり,こちらの方は,『テレビ史ハンドブック』(自由国民社)によると,昭和40年の10月頃にTBS系で放映されていたことになっていますから,昭和40年前後であったことは間違いないと思います。ちなみに,テレビドラマの「男はつらいよ」はフジテレビ系で昭和43年10月から翌44年の3月まで放映され,映画「男はつらいよ」シリーズの1回目の封切りは昭和44年8月でした。
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