60年代の町並み


[栃尾鉄道の部]


(2)こうこうまえ〜だいがくまえ

 前回、この[栃尾鉄道の部]で長岡駅東口を紹介させていただきましたところ、まだ、長岡の関係者の皆さんからは何の反響もありませんが、武蔵野市のSOさんから「『栃尾』というのは駅の名前ですか、地域の名前ですか」という疑問のEメールが届きましたので、今回の対象である「こうこうまえ〜だいがくまえ」に入る前に、まず、栃尾鉄道そのものについての説明をさせていただきます。
 「越後交通社史」によりますと、栃尾鉄道は1915(大正4)年2月14日、まず、浦瀬(うらせ)駅〜栃尾(とちお)駅間の17.7キロで営業を開始しました。ですから、今月で開業からちょうど83年が経ったことになります。同年6月には、下長岡(しもながおか)まで4.6キロ延長し、さらに、翌1916(大正5)年9月9日には長岡駅が開業し、長岡〜栃尾間の23.7キロが結ばれました。そして、1924(大正13)年5月1日に、長岡駅〜悠久山(ゆうきゅうざん)間2.8キロが開通し、栃尾鉄道の最終的な形が完成したのです。「社史」では、鉄道敷設について、「当時、全盛を極めた東山油田の機材運搬を目的に企図され、これに栃尾町の輸送を結びつけるものとして計画された」と説明されています。

 左の路線図は、1924年の全線開通時のものですが、東山油田というのは、長岡の東部に連なる鋸(のこぎり)山脈中の成願寺(じょうがんじ)、宮路(みやじ)、浦瀬、比礼、加津保(かつぼ)などの産油地を総称した言い方です。
 この成願寺とか宮路というのは、私が通っていた川崎小学校の低学年の遠足の目的地でもありましたので、川崎小学校OBの皆さんには、非常に懐かしい地名であります。
 長岡に初めて鉄道が通ったのは、1898(明治31)年の北越鉄道(現在の信越線)開通まで溯りますが、これにより、東京までの旅行の所要時間が15時間余となると同時に、貨物輸送も活発になりました。すでに、1890年代初めには、東山油田は手堀りの全盛時代を迎えており、長岡駅は、旅客とともに、石油輸送の中心基地となり、駅の裏には、石油貯蔵用のタンクが林立したと伝えられます。採掘された原油は油送管で運ばれる一方、2斗2升入りの樽に入れられて人馬による輸送も行われていたそうで、鉱業機材などの輸送も人馬に頼っていたことから、この非効率の解消と輸送力の増強による石油生産の拡大を図るため、長岡市の小林友太郎らによって鉄道敷設計画が企図されたのが、この栃尾鉄道のそもそもの始まりだったということです。
 一方、栃尾町および栃尾郷も、古くから織物の産地として知られ、関東・関西をはじめ、国外へも輸出していたほどだったといいますが、米や豆などの農産物を含め、鉄道敷設以前は、刈谷田川の出水時を利用して楡原から積み出す船道と、人馬による運搬しか輸送手段はなかったといいます。経済的にもっとも交流を必要としていた長岡との往来は、もっぱら東山の峠越えの何本かある山道が利用されていたようですが、豪雪地帯のことゆえ、冬場の峠越えはままならず、わずかに見附にいたる一条の道を頼りに雪道を往来するにとどまったいました。ですから、栃尾および周辺町村の業者はもちろん、関東・関西の商人も便利な交通手段、特に雪に強い鉄道の敷設を願っていた、と「社史」では説明されています。
 ということで、この「60年代通信」はじまって以来の格調高い、アカデミックな文章が展開されてしまいましたが、今回の栃尾鉄道の路線の対象が「こうこうまえ〜だいがくまえ」ということですから、ちょうど、内容的にはピッタリではないかと思ったりしているわけです。
 異様に長い前振りとなってしまいましたが、今回の対象である栃尾鉄道の「こうこうまえ〜だいがくまえ」に入らせていただきます。



 さて、右の写真をご覧ください。何も言葉は要らないのではないかと思われるほど、素晴らしい写真ではありませんか。思わず知らず「あぁかぁ〜い〜ゆうぅひぃが〜、こうしゃをそめぇてぇ〜」という歌が流れてきそうな絵柄のこの写真は、“60年代通信ピューリツァー賞”というものが存在するなら、間違いなく大賞に輝くであろう作品だと確信している次第であります。知らない人は全然知らないでしょうが、この「こうこうまえ」という駅は、私の母校であります新潟県立長岡高等学校の正門前の道を真っ直ぐに歩いて、わずか50メートル足らずくらいのところにあり、文字通り「こうこうまえ」に位置していたのであります。駅と言っても改札など何もありません。私の記憶では、私がよく利用した下長岡から悠久山までの9つの駅の区間のうち、改札があったのは、比較的乗降客の多かった「下長岡」「袋町」「長岡」「悠久山」の4つだけで、残りの「かせいこうこうまえ」、「こうこうまえ」、「だいがくまえ」、「どあいぐち」、「ながくら」の5つの駅には改札などというものは存在しなかっ たような気がします。要するに、都電の駅の感覚だったわけで、電車の車掌が改札業務を行っていたということだったと思います。ウチの高校の場合、栃尾に自宅がある人間も相当数おりまして、このトッテツを使えば通って通えないこともなかったのだろうと思いますが、高校近辺に下宿している人間が多かったように記憶しています。その辺りの事情も、栃尾出身の方で、このページをご覧になっていらっしゃる方がいらっしゃいましたら、是非、教えていただければと思う次第であります。
 特に、私の極めて個人的な部分で言わせていただきますと、マサナオや永橋、酒井大先生、今井ノリちゃん、岡田クンなど、栃尾方面の個性に溢れた皆さんからの連絡を是非いただきたい、何とかしてくれぇ〜、と突然、極めてローカルな呼びかけをしないではいられなくなってしまうわけであります。
 後ろに見えている「即席カレー」の傾いた看板が見えているのは、私も高校時代、ほとんど自分の部屋代わりに使っていた新聞部の部室で食べる食料の調達でお世話になった吉田屋食料品店であります。懐かしい〜っ!!

 続きまして、左の写真が、「こうこうまえ」の次の駅である「だいがくまえ」の駅の写真であります。現在は、長岡市内には新潟大学のキャンパスは全く姿を消してしまいましたが、1960年代には、工学部と教育学部の一部などがあり、この「だいがくまえ」という駅は、新潟大学工学部のキャンパスから、やはり、100メートルも離れていないところにありました。
 前回、長岡駅東口を紹介させていただいた時に、長岡の市街地は駅の西側に広がり、東口は裏手のイメージであると安易に書いてしまいましたが、東口には、県下有数の名門校である長岡高校や新潟大学のキャンパスが控え、さらに、60年代後半には、大手高校という女子高も栖吉川を挟んで長岡高校の向かいに移転してくるなど、極めてアカデミックな地区ではあったわけです。さながら、長岡のカルチェラタンとでも申しましょうか、そうした雰囲気を醸し出していたと言ってしまったら、やはり、言いすぎだと思いますが…。
 何れにしても、その新潟大学のキャンパスが長岡にあったため、栖吉川沿いに1キロくらい離れていた私の住んでいた地蔵町の町内に、新潟大学の女子寮というのが、やはり、60年代に忽然と現れ、私も小学生ながら、女子寮という響きに淡いトキメキを感じたものでありました。この辺りは、また、改めて、別の機会に色々と書かせていただきます。
 もう一つ、この「だいがくまえ」という駅に関わる話を書かせていただきますと、今や、ビールのつまみ、あるいは、子供のおやつ、はたまた、会社で仕事の合間の間食として、全国区の定番となってしまった柿の種は、実は、何を隠そう、この「だいがくまえ」駅に敷地が隣接していた浪速屋製菓がそもそもの発祥の地であったのであります。いわゆる「元祖浪速屋の柿の種」のコピーであまりにも有名な浪速屋は、長岡市民には、この「だいがくまえ」の駅とともに記憶されているのであります。

 ということで、航空写真を使って、今回の対象なった路線区間や関連施設の位置関係などを簡単におさらいしながら、確認させていただきたいと思います。
 黄色いラインでなぞってあるのが、トッテツの線路でありまして、アルファベットの大文字は、Aが「ながおか」駅、Bが「こうこうまえ」駅、Cが「だいがくまえ」駅ということになります。
 それから、アルファベットの小文字は、aが、前回の長岡駅東口周辺の時に、60年代と90年代の2枚の航空写真を同定するポイントとして紹介した坂之上小学校、bが新潟県立長岡高等学校、cが新潟大学工学部です。
 右上のコーナーをかすめているのが、栖吉川(すよしがわ)という川でありまして、この写真では、下から上に向かって流れている形になりますが、この下流、400〜500メートルのところに、私の母校であります川崎小学校、そこから、100〜200メートルほど下流に私の育った実家のある地蔵町、さらに、300〜400メートルほど下流の辺りに、やはり、私の母校である長岡市立東北中学校が存在するというような位置関係になっております。
 また、この写真の下の方を通っている大きな道路が、通称、悠久山街道と呼ばれていた幹線道路で、この道路を右の方に進んでいくと、長岡市民の憩いの場であった悠久山公園に辿り着くことになり、トッテツの線路も、「だいがくまえ」の駅を出た後は、かなり、離れてはいますが、ほぼ、この悠久山街道と並行する感じで、悠久山に向かうことになります。この辺りの道路と線路の位置関係というのは、東京でいうと、甲州街道と京王線のイメージかなと思ったりするわけです。







あなたも「60年代通信」に是非お便りしましょう
E-mail:
kiyomi60@bb.mbn.or.jp

ご意見やご感想、甦ってきた記憶や確かめたい事実など、何でも結構ですから、お書き込みください
「60年代通信」掲示板=http://www64.tcup.com/6405/kiyomi60.html

「60年代通信」トップページへ
 「60年代の町並み」トップページへ

(C)1998 60年代通信