60年代の町並み


[栃尾鉄道の部]


(3)どあいぐち〜ながくら〜ゆうきゅうざん

 前回の「こうこうまえ〜だいがくまえ」に続きまして、今回は、「どあいぐち〜ながくら〜ゆうきゅうざん」ということで、一気に片方の終点まで行ってみたいと思います。
 手元の資料によりますと、「ながおか」「ゆうきゅうざん」間は僅か2.8キロです。駅名を順番に並べてみますと、「ながおか〜こうこうまえ〜だいがくまえ〜どあいぐち〜ながくら〜ゆうきゅうざん」で、6駅5区間ということになります。ですから、駅間の距離は、計算上では平均600メートル弱ということになりますが、実際には、「ながおか」と「こうこうまえ」、「こうこうまえ」と「ながおか」は、恐らく300〜400メートル程度だったと思われ、その他の区間、特に、「どあいぐち」と「ながくら」、「ながくら」と「ゆうきゅうざん」の間が長かったように記憶しています。右の写真は「どあいぐち」から「ながくら」「ゆうきゅうざん」方面に向けたアングルだと思いますが、線路は、ほぼ一直線に伸びており、冬場の積雪時の写真のためもあるでしょうけれども、向こうの方は、かすんで見えないほどであります。それほど、「どあいぐち〜ながくら」間は距離があったということでしょうし、沿線にも、ほとんど住宅はなく、下の写真のように、田んぼの中を線路が真っ直ぐに伸びていくというような状況だったのだろうと思われます。

 左の写真は、恐らく「ながくら〜ゆうきゅうざん」間を走るトッテツの電車ではないかと思われ、「ながおか」駅を挟んで前後3〜4駅の間は市街地を走る市電のような雰囲気でしたが、それ以外の区間では、基本的に、こうした郊外電車の趣きを色濃く漂わせる沿線風景が広がっておりました。
 以前にも、ちょっと書かせていただきましたが、1960年代には、長岡でロケをした映画というのが何本かありまして、既に紹介させていただいている舟木一夫主演の「青春の鐘」のほかにも、小林旭のダイナマイト・シリーズも一本あることが判明しており、さらに、私の記憶では、長岡出身の俳優である近衛十四郎の息子の目黒祐樹(松方弘樹の実弟です)なんかが出演している映画があって、その中で佐野周二がトッテツに乗る場面があり、その時に出てきたシーンは、この写真と同じようなアングルだったように思います。この映画は、実際に動いているトッテツを見ることの出来る貴重な映像資料でありまして、その映画が何だったのかを突き止めることも、私のライフワーク(?)の一つとなっているわけです。
 「どあいぐち」と「ながくら」については、私の場合、個人的には関わりがなかったこともありまして、殆ど書くことがありませんが、私が通っていた聖母幼稚園はトッテツの「ふくろまち」駅から歩いて1〜2分のところにあったこともあり、たしか、この「どあいぐち」辺りから通ってる子供達も少なくなかったことだけは覚えています。また、「ながくら」につきましては、手元に写真資料などが全くありませんので、どなたか、お持ちの方がいらっしゃいましたら、ご連絡をいただければと思います。よろしくお願いします。

 ということで、いきなり、この「60年代の町並み/栃尾鉄道の部」の超大物主役であります「ゆうきゅうざん」駅へと話は進むわけであります。
 左の写真は、花見シーズンもたけなわのころの「ゆうきゅうざん」駅の風景でありまして、ホームには簡易灯篭なども立ち並んだりしております。
 前回の「こうこうまえ〜だいがくまえ」で、栃尾電鉄の生い立ちを簡単に紹介させていただいたように、もともと東山油田開発の機材運搬や石油輸送、さらには、栃尾/長岡間の生活路線としてスタートしたトッテツではありましたが、旅客需要の創出という意味合いからは、この「ゆうきゅうざん」の果たした役割が極めて大きかったことは間違いありません。
 『越後交通社史』は、その辺りの事情について、次のように説明しています。
 「悠久山は大正13年の鉄道開設以来、文字通り市民の憩いの場として、春の花見を中心に冬のスキーまで四季にわたって利用された。当社もまたこれを盛りあげ鉄道輸送の効果を図るべく努めた」
 当初の目玉だったのが大正15年8月に完成した悠久山プールで、当時、長岡〜悠久山間の運賃は片道5銭でしたが、10銭で往復券を買い復券を見せるとプールへの入場は無料、というようなプロモーション施策もとられていたといいます。
 また、プールに先立って、大正13年6月には、悠久山駅構内に移動動物園を開園したり、テニスコート2面を設置したりもしていました。再び『社史』に戻ります。
 「スポーツに、教育に、観覧にと当社沿線のみならず、多数の客の誘致作戦を大々的に展開した」
 「その後も当社は悠久山附近の地域開発と旅客誘致のため力を入れ、昭和3年10月には遊園地へ桜、楓など数百本を植樹、プール給水補給用井戸の掘削などを行った」
 プールはプールとして利用するだけでなく、オフ期間中には、鯉釣り大会をやったり、地下劇場として東京からレビューガールなどを呼んで興行するなど、多面的な展開がされていたようです。
 戦後も、旅客誘致策として、真っ先に悠久山の開発が再開され、悠久山プールの回収に続き、昭和24年7月には野球場も完成、翌25年7月にはプロ野球の毎日対東急の試合も開催されました。また、それまでにもあった悠久館を県道の南側から移転して、8月に悠久山ホテルとして開業。『社史』によると、「旅客誘致策の一つであったこのホテルも、長岡博覧会開催などで多くの客を呼び、その後の施設充実と相まって当社の営業成績向上に貢献した」といいます。
 さらに、昭和29年7月には、悠久山駅脇に布コンクリートを敷いたローラースケート場を開設、昭和31年には、悠久山公園の中に“お猿電車”も運転を開始しています。
 こうした周辺施設や悠久山公園内の施設については、項を改めて、詳しく取り上げさせていただきたいと思っていますので、今回は、略史を押さえるにとどめさせていただきます。
 再び、話を「ゆうきゅうざん」の駅に戻しますと、下の写真でもお分かりになるかと思いますが、「ゆうきゅうざん」の駅は、ホームにも桜の木が植えてあり、花見シーズンになると、ホームの桜も満開となって、利用客は、駅のホームに着いた時点から、花見気分を満喫できるというような仕掛けになっていたわけであります。

 また、右の立て看板の写真を見ても分かる通り、花見期間中は、長岡〜悠久山間は臨時電車が大増発されるほどの賑わいをみせていたようであります。残念ながら、この写真が何年に撮影されたものかは分かりませんが、この年の場合、4月15日から30日までの約2週間にわたって、朝8時から夜11時まで、10分間隔で運転されていたわけですから、その賑わいぶりが偲ばれようというものです。
 左の写真を見ると、車体に手書きで快速と書かれていますから、快速電車というのも存在していたようです。前にも書いた通り、栃尾電鉄は単線でしたから、上り電車と下り電車がすれちがう時には、どこかの駅で片方が通りすぎるのを待つというような形で運転が行われていたはずですから、快速電車というのは、一体、どのようにして運転されていたのでしょうか。
 何れにしても、快速とは言え、その表示が手書きであること、車体のペンキが数箇所にわたってハゲ落ちていること、デッキにはドアもないまま大人だけでなく子供も立って乗っていること、などなど、おおらかにのんびりと運転されていたのであろうことが、この写真からもうかがわれるような気がします。



 右の2枚の写真は、左が「だいがくまえ」から「ゆうきゅうざん」までのトッテツの線路を黄色い線で辿ってみたもので、上の終点が「ゆうきゅうざん」の駅ということになります。左下の線路の上の建物群が新潟大学工学部で、工学部の敷地が終わる辺りから、線路は右上の方に斜めに上っていく感じになっており、私の記憶が正しければ、右上に上り始めて、まもなく左の上から下りてくる大きい道路と交わる辺りに「どあいぐち」の駅があり、さらに、右上に進み、悠久山に向かって左に折れる辺りに「ながくら」の駅があったのではないかと思われます。もし、間違っているようであれば、ご存知の方には、ぜひ、ご教示いただきたいと思います。
 ちなみに、「ゆうきゅうざん」の駅に向かって直進する線路の左側には、あのコシヒカリの母種となった「農林21号」が誕生した長岡農事試験場とその水田が広がっております。
 そして、右の2枚の写真のうち、右側が、小さくて分かりにくいかもしれませんが、「ゆうきゅうざん」の駅周辺を拡大したものです。
 この写真は1962(昭和37)年のものですが、情けないことに、上で説明させていただいたプールや野球場、ローラースケート場がどこだということを確信を持って説明することはできません。
 ちなみに、1960年代後半に相次いで作り直され、現在も利用されている県営プールや市営球場とは、場所は微妙に違っているはずです。それでも、一応、幼いながらもリアルタイムで古い施設を見ている私の曖昧な記憶によると、下の方から上ってきている線路が、駅近くで3本くらいに別れているところの右側、つまり、駅のすぐ右側にプールとローラースケート場があったことだけは、ほぼ、間違いないと思います。

 左の写真は、駅の前のちょっとした広場のようなところで、上の右側の写真でいうと、左から来ている道路(悠久山街道)が駅前で左に折れて上の方に向かっていく角のところが映っているものです。「ゆうきゅうざん」の駅は、駅を出ると、このちょっとした広場があり、その広場の両側に、お菓子屋さんとお土産屋さんを兼ねたようなお店が2軒並んでいて、今でも、お菓子屋さんという言葉を聞くと、この2軒が真っ先に頭に浮かんでくるほど、私の記憶の中では鮮烈な印象を残しているものです。
 それから、今回、この「60年代通信」を作るために、資料を色々と見ていて始めて知ったのですが、この駅前の対面の角にあった建物はホテルだったんですね。小さいころから、何度も見ていた建物で、小学校の高学年くらいからは自転車で悠久山プールにも良く行き、この建物の前に自転車を止めたりしたこともあったはずですが、これが、栃尾鉄道が経営していた「悠久山ホテル」というものだとは全く知りませんでした。東急線で言えば東急ホテル、京王線でいえば京王プラザホテルにも当たろうかというようなホテルがトッテツにもあったわけです。確か、この写真で言うと、左に曲がったところにも、旅館のようなものがあったように記憶していますから、悠久山というところは、泊りがけで遊びに来る人もいたということなのでしょうか。


 ということで、ここまでを作ってアップしたのは、1998年2月14日のバレンタインデーのことでありましたが、昨日(1998年5月15日)、このページで取り上げさせていただいている長倉にお住まいだったIさんから次のようなメールを頂戴しました。
 非常に貴重なお話ですので、そのまま、掲載させていただきます。

60年代通信主宰様:
 はじめまして.私は長岡市出身のIと申します.
 60年代通信HomePageの栃鉄関連のページを見まして,あまりの懐かしさにメールを書いております所存です.但し,私は昭和39 年生まれですので,主宰様よりはるかに若い年代です.
 私が生まれてから2年後に悠久山近くの農事試験場の近くに越して参りまして,実は幼稚園にはこの悠久山駅から栃鉄を使って通っておりました.私の降りていた駅は袋町の次の中越高校前駅でして,聖母幼稚園のライバル(^_^)みどり幼稚園でした.
 こちらのページを見まして,当時(と言いましても昭和40年代前半)の風景を思い出しました.
 栃鉄の説明をされているところで,土合口駅に関しましては,写真から推定されていらっしゃる場所より少し大学前駅寄りと思われます.写真に写っております,新大工学部部分の四角形の下の辺の延長が道路になっておりまして,それが栃鉄と交差するところに駅はありました.長倉駅に関しては,おっしゃる通りのところです.
 また,悠久山駅前の風景ですが,駅を出て向かって左側のお菓子屋さんは,私の友人の親戚でTさんといったはずです.そこから左に曲がったところの旅館は,成田屋さんといって,私の小学校(栖吉小学校)の後輩の家でした.私が小学生の頃,すなわち 20年ほど前には,まだ旅館をやっていたようでしたが,今はわかりません.
 現在私の実家は三条に引っ越しておりまして,悠久山近辺にはずーっと行っておりません.(一昨年少し子供も連れて悠久山公園の動物園に行きました.さる山があったりしてきれいになっていましたが,その上の公園部分はほとんど昔と変わっていなかったのにびっくりしました.)
 あまりの懐かしさに長々と書いてしまいまして,申し訳ありませんでした.
 今後もまたチェックしに参りますので,よろしくお願い致します.
 では失礼致します.



 ということで、Iさんご自身の個人史をベースに、私の曖昧な記憶を、実証的な形で補っていただきました。
 Iさん、どうもありがとうございました。







あなたも「60年代通信」に是非お便りしましょう
E-mail:kiyomi60@bb.mbn.or.jp

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