長岡編・航空写真の部
旧・東北中学から新・東北中学へ
ここでご覧いただく写真は、上から順に、1962(昭和37)年、1965(昭和40)年、1967(昭和42)年の新・旧東北中学校の両方の敷地が入るアングルの航空写真です。 「長岡編・航空写真の部」の「川崎小学校の北側周辺」でも書かせていただきましたが、東北中学校は、私が小学校低学年の頃は東神田の旧・長岡女子師範学校の巨大な木造校舎の一部に入っていました。しかし、私が、小学校4年の時だったと思いますが、夜中の大火事でその大半が焼失してしまい、現在の場所に新しく建てられたのでありました。その辺の経緯を3枚の写真を見ながら、振り返ってみたいと思います。
まず、左の1962(昭和37)年の写真では、左下から右斜め上に流れて行く福島江の左岸に広がる巨大な木造校舎群が確認いただけるかと思います。これが、旧・長岡女子師範学校の建物です。一方、この福島江と中央したから湾曲しながら上の方に流れていく栖吉川とが合流する地点にかかる出合橋から直進する道と初めに交わる大きい道路とが作る十字路の右上角に白っぽい扇型に見える土地があります。この地点が、新しく東北中学校が建築されることになる場所です。写真のキャプションとして「1962(昭和37)年の新旧・東北中学校校舎」と打たせていただきましたが、この時点では、新校舎が立てられる場所には、建物は何もありません。
2枚目の左の写真は、1965(昭和40)年のもので、すでに、旧校舎の方は大火事のため大半が焼失して、ごく一部が残されているだけです。一方、新校舎の方も、鉄筋の建物が一棟しか建てられていません。実は、私には4歳年上の姉がおりまして、この文章を書きながら記憶が甦ってきましたが、確か、姉が中学に入学した年に火災があり、多分、学年によって、例えば、1年生は新校舎、2年生と3年生は旧校舎というような振り分けで授業が行われていたような気がしてきました。当然、新校舎が出来るまでは、教室が足りないことになったわけで、新校舎が一棟できるまでは、どこかにスペースを確保していたということではないでしょうか。
3枚目の左の写真は、1967(昭和42)年のものです。この写真が撮影されたのが、何月かは分かりませんが、新校舎の方も、まだ鉄筋の校舎が2棟しかなく、この時点から、私が東北中学校に入学する翌1968(昭和43)年4月までの間に、もう一つ、一番北側に鉄筋の校舎が出来ることになったものと思われます。旧校舎の方は、この時点で、完全に、木造校舎は姿を消しています。
私が入学した時点でも、まだ、一番北側の校舎は工事中だったかもしれません。とにかく、体育館は、まだ完成しておらず、正門とは反対側、この地図では、右側の方は、かなり後まで、トタン板が打ち付けられていただけというような記憶があります。私は入学と同時に野球部に入りましたが、当初は、グランド作りに大半の時間を費やしていました。水はけを良くするためにグランドに溝をほって、そこに石を並べ、その上から、また土をかぶせるというようなこともやりましたし、マウンドの土もりをしてローラーで固めるというような作業もやりました。また、全校生徒が草刈り用のカマをもって登校する日というのが、1カ月に1度くらいはあり、生徒総出で草刈りをするという行事もあり、正門を入ったところに広がる前庭は、何回か、全国中学校校庭コンテストみたいなやつで入賞したことを覚えています。
正式なバックネットが出来たのも、私達が2年生になってからで、もう時効だと思いますので白状しますと、バックネットの建築のための測量が行われた後、業者の方が位置を確認するため地面に打ち込んでいった杭をチームメートと一緒に40〜50センチほど動かすという、とんでもないイタズラをしたため、このグランドのバックネットはホームベースに対してきちんと180度の角度にならず、ちょっと傾いた感じになってしまいました。
それでも、3年生の時には、立派なグランドが完成し、市内の中学校のグランドの中でも最も水はけの良いいいグランドだという評価もいただき、市内の中学野球大会はもちろん、中越地区の大会でも、正式会場になったほどでした。

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