60年代の映画

「大魔神」(1966[昭和41]年4月・大映)/前編

監督:安田公義 特技監督:黒田義之 脚本:吉田哲郎 音楽:伊福部 昭
出演:高田美和、青山良彦、藤巻 潤、五味龍太郎、島田竜三、遠藤辰雄、伊達三郎、出口静宏、二宮秀樹、橋本力、月宮於登女

 「60年代の映画」で1回目の作品として取り上げさせていただく記念すべき作品は、「大魔神」であります。
 この映画が公開された1966(昭和41)年4月の時点では、既に、いわゆる怪獣ものの特撮映画の分野では、東宝が1950年代半ばから「ゴジラ」や「ラドン」「バラン」「モスラ」などで、その名声を確立していたわけでありますが、大映も、この「大魔神」が公開される前年の1965(昭和40)年11月に「大怪獣ガメラ」で成功を収めておりました。
 しかし、怪獣ものの場合、当時、子供だった私達の目から見ても、やはり、どこか、作り物のウソっぽさというのを、相当強く意識しながら映画を見ていたような気がするのに対して、この「大魔神」という映画は、そのストーリーの骨格がしっかりしていること、時代劇という日本映画の中でも伝統的に確立されていたジャンルであったためか、脚本や演出も、怪獣ものに比べると、非常にこなれているというか、なじんでいるというか、見る方にも安心してその世界に身を委ねることができたというような完成度の高さがあったことなどから、子供心にも、大変に重厚な作品だったという印象が残っています。

 上のタイトルバックを見ていただいても判る通り、恐らく、当時の大映作品の常であったのでしょうが、映画のタイトルに続いて、永田雅一の名前が御真影のように登場し、それから、制作スタッフ、出演者の名前が出てくることになっています。
 ここで、特に注目していただきたいのが、この作品でも、伊福部昭が音楽を担当されているということです。
 知らない人は全く知らないでしょうが、知っている人は非常に良く知っているというか、強く意識しているというような人物がいるわけですが、この伊福部昭という人は、60年代の映画界では、まさしく、知る人ぞ知るという存在の方だったのではないかと思います。

 もともと、ニュースレター形式で同人誌として「60年代通信」を始めた時、私と友人たちの間では、当然、東宝の怪獣映画シとしてリーズが大きな柱になるものとして想定され、その中で、欠かせないテーマとして伊福部昭が意識されておりました。
 ご存知ない方のために、簡単に紹介させていただきますと、伊福部昭という人は、1954(昭和29)年に公開された「ゴジラ」以来、1956(昭和31)年の「空の大怪獣・ラドン」、1957(昭和32)年の「怪獣王・ゴジラ(海外版)」、1958(昭和33)年の「大怪獣・バラン」、1964(昭和39)年の「モスラ対ゴジラ」など、一連の東宝による怪獣ものの特撮映画の音楽を一貫して担当されてきた方でいらっしゃいます。
 私達の世代の人間は、東宝の怪獣映画の場面とともに、伊福部昭の重厚な音楽を強烈に真新しい脳ミソにプリンティングされたのでありました。
 この「大魔神」では、その伊福部昭が音楽を担当し、重厚な時代劇の舞台装置とも相俟って、その音楽は、東宝の怪獣映画シリーズをしのぐほどではないかと思われるほどの効果をもたらしていたものです。

 シリーズ第1弾となった「大魔神」では、既に、この「60年代通信」の“青春歌謡”のコーナーで取り上げさせていただいている高田美和が、実質的な主役として抜擢されております。“青春歌謡”のコーナーでも書かせていただいた通り、高田美和は、「十七才は一度だけ」「わが愛を星に祈りて」といったヒット曲と同名の青春純愛映画でも主役を演じていますが、この特撮時代劇の主演でも見事にハマっておりまして、この辺りは、さすがに、“蛙の子は蛙”といったところでありましょうか。
 また、同じく主役級として登場しているのが、私達の世代には、「ザ・ガードマン」でお馴染みの藤巻潤であります。そういえば、テレビの「ザ・ガードマン」のタイトルバックでは、たしか、「大映」と「国際放映」などという名前も出てきていたのを思い出しました。

 さて、この「大魔神」のストーリーを簡単に説明させていただきます。
 舞台設定は戦国時代の丹波地方で、当時の政治状況を象徴する“下剋上”が物語りの発端となっております。丹波地方の山村で伝わる魔神
封じの祭りの夜、城内で謀反が起こり、城主とその妻は殺害されますが、その息子と娘は、忠誠心の厚い家臣によって、何とか、城外への脱出に成功。城主の遺児である兄・忠文と妹・小笹は、近臣の猿丸小源太とその巫女の伯母と共に、魔神の山奥で隠遁生活に入るのでした。
 謀反を起こした家老・大舘左馬之助は城主として、重税・苦役などの圧政を続け、十年後のある日、苦役を強いられていた父親のもとに母親の死を知らせに来た少年が、魔神の山にも助けを請う祈りを捧げるほどの事態となっていました。
 お家再興を期してきた元家臣達も、その蜂起のタイミングを測っていましたが、城下へ様子を探りに行った小源太は左馬之助の手の者によって囚われの身となり、小源太を救い出そうとした忠文も捕らわれてしまいます。
 事態を案じた小源太の伯母の巫女は、一人で城内に乗り込み、左馬之助に直談判に及びますが、あえなく斬殺されてしまい、巫女が死に際に残した「魔神の祟りは必ずある」の言葉に激昂した左馬之助は、手下の者に魔神像の破壊を命じたのでありました。

 魔神像を破壊するため魔神の山に踏み込んだ左馬之助の手下一行は、魔神像の在処を見つけることができないまま、山中をさ迷い歩き、様子をうかがっていた小笹を発見して捉え、魔神像の在処に導かせ、大槌にもびくともしない魔神像に手をやいた手下一行は、魔神像の額に鏨を打ち込むという暴挙に出ます。
 事ここに至り、遂に、魔神の怒りも爆発し、激しい稲妻と地滑りが湧き起きり、手下一行はあえなく壊滅、陣頭指揮を執っていた家老は地割れに呑まれて最期を遂げます。
 この辺りの場面は、