60年代の歌謡曲

青春歌謡/梶光夫・高田美和の部


わが愛を星に祈りて

十七才は一度だけ


「わが愛を星に祈りて」(岩谷時子・作詞 土田啓四郎・作曲)
   1965(昭和40)年9月発売

梶光夫高田美和

 青春歌謡の部としては、橋・舟木・西郷の御三家以外では初めて取り上げさせていただく曲となるのが、この梶光夫と高田美和のデュエットによる「わが愛を星に祈りて」であります。
 なぜ、「わが愛を星に祈りて」が御三家以外で初めて取り上げさせていただくことになるのかといいますと、この曲は、私が小学生の頃、大好きな曲だったからというだけの理由です。
 自分でいうのも何ですが、筋金入りの60年代評論家として、青春歌謡ベスト10を選ぶとするなら、間違いなく10曲の中に入るものであり、それも、最終段階では、ひょっとして、橋・舟木・西郷の御三家の何れかを弾き飛ばしてベスト3にさえ食い込むことになるのではないかと思われるほど、この曲に対する私の思い入れは強いのであります。カラオケの歌詞カード風にその歌詞を1コーラスだけ紹介させていただきますと、次のような感じになります。

 (男)小さな肩を 後ろから 抱きしめたい 日もあったっけ
 (女)雪解け道で 声かけて 甘えてみたい 日もあったのに
 (男)愛を愛とも知らないで ただ見つめてた僕 許しておくれ
 (男)ああ… 今はひとりで空にいる (男&女)君が淋しくないように
 (男)わが愛を (女)わが愛を (男&女)星に祈ろう

 昭和40年9月発売ということですから、私が小学校4年生の秋に発売されていたわけで、実際に、いわゆるヒット曲として巷に流れていたのは、昭和40年の晩秋から、明けて昭和41年の春くらいまでではなかったかと思われます。
 小学校4年生というのは、そろそろ思春期の入り口に当たろうかという頃でありまして、晩生だった私の場合も、すでに、クラスの女の子の中に、密かに思いを寄せるような相手を意識し始めるような状況になっていたわけです。私が思いを寄せていた女の子は、2年生から3年生に進級する時のクラス替えで同級になり、3年生と4年生の2年間、同じクラスでした。
 私は非常にシャイで晩生な少年でしたので、例えば、放課後、家に帰ってからお使いを頼まれて出掛けたときや、休日に学校のグランドに遊びに行く時など、自分が向かっている方角にその子が見えたりすると、慌てて道路の角を全く関係のない方向に曲がってしまうようなことばかりしていました。ですから、私の気持ちなど相手に伝わるはずもなかったわけですが、一度だけ、その女の子と仲良しだった女の子のグループが私の家に押しかけてきて、その女の子の友達が私に向かって「好きなら、はっきり言いなさいよ」とか何とかマセたセリフを投げつけてきて、ドキマキしたのを覚えています。
 また、私の3、4年生の時のクラスの担任のK先生という方が、児童心理学に長け、自費出版で詩集を出したりする一方、授業中、放屁される時には、わざわざ教壇から下りてきて私達の席のそばまでやってきて放屁されるというようなユニークな方でした。今に思えば、私の気持ちなど手に取るように分かっていたであろうK先生は、確か、理科の授業の時だったと思いますが、「冷たい水を飲むと食道を流れていくのが胸に手を当てると分かる」というようなことをおっしゃり、隣の席の子供同士で確かめ合うように指示し、ちょうど、その時、その思いを寄せていた女の子と隣の席同士だった私が、彼女の胸に手を当てるのをためらっていると、私のそばにやってきて、私の手を掴んで、その子の胸に当てさせるというようなこともあり、その時の驚きは、今でも忘れられません。
 その女の子は、5年生に進級する時に、新潟に転校してしまいましたが、5年生になったばかりの頃、教壇に置いてあった出席簿にその子の名前があり、その名前の上に斜線が引かれているのを見つけ、「転校しなければ、また、同じクラスだったのに…」と切ない気持ちになった記憶もあります。


特別公開!!
1965(昭和40)年当時の川崎小学校4年3組の仲間たち
 前列ほぼ中央に座っていらっしゃるのが担任のK先生、その一人おいて右隣が私、怪しい「60年代評論家」の変わり果てる前の若き日の姿であります

 小学校に入学した時にも、幼稚園の時に好きだった女の子と同じクラスになったばかりか、その子と隣同士の席になって大喜びしたこともありましたが、そうした幼い喜びとは全く異質の胸が締め付けられるような切ない気持ちを感じたのは、この小学校4年から5年にかけての頃が始めてでしたから、これが、私にとっての、いわゆる“初恋”だったのだろうと思うわけです。
 何れにしても、そんな晩生の私でさえも、というか、晩生の私だったからこそ、というべきかもしれませんが、既に紹介させていただいた歌詞の一番の内容というのは、胸が痛いほどに実感として迫ってくるものがあり、春先の長岡の、それこそ「雪解け道」の風景とも相俟って、私にとっては忘れられない一曲として心の中に刻み込まれることになったのだと思います。
 「君といつまでも」や「蒼い星くず」「お嫁においで」「旅人よ」など一連の加山雄三のヒット曲で知られる岩谷時子大先生は、青春歌謡においても、大変な名曲を残され、幼い私の胸を切なくさせてくれたのでした。この歌は、歌詞そのものも何か背景に、前年のレコード大賞受賞曲だった「愛と死を見つめて」に匹敵するような悲恋の実話が隠されているような雰囲気もありますが、手元の資料が十分でないため、その背景や、あるいは、タイアップとなるような映画なりTVドラマがあったのかどうかも分かりませんので、その辺りは、今後、きちんと調べた上で、紹介すべきバックグラウンドがあるようであれば、また、取り上げさせていただこうと思います。
 ということで、ほとんど、私の“初恋談義”のようなツマらない話を軸にする結果となってしまい、誠に恐縮ではありますが、そんな経緯もありまして、この「わが愛を星に祈りて」は、私にとっては、ちょっと背伸びをしていた感じもあるものの、文字通り、実体験(?)を伴なう自分にとっての“青春歌謡”そのものでありまして、冒頭に申し上げましたように、青春歌謡ベスト3には間違いなく入るというようなことになってくるわけです。
 ですから、この曲は、いってみれば、私の“初恋のテーマソング”とでも位置づけられる曲だったのだと、このページを作りつつ今更ながら気が付いた私は、やっぱり晩生だったというべきなのでありましょう。
 ちなみに、この時に思いを寄せていた女の子は、高校に入ってから長岡に戻ってまいりまして、私と同じ新潟県立長岡高等学校に入学したばかりか、3年生の時には、私が活躍しておりました新聞部にも入部してくるという、ほとんど恋愛三文小説か少女マンガのようなクサいストーリー展開になるのでありますが、この辺りの事情は、また、機会を改めて書かせていただくことにしようと思いますので、お楽しみに。と言っても、誰も楽しみになんかしないと思いますが…。


「十七才は一度だけ」(川井ちどり・作詞、遠藤実・作曲)
   1964(昭和39)年12月発売

高田美和

 前回の「わが愛を星に祈りて」では、さりげなく流してしまいましたが、若い方の中には、「高田美和って誰だろう?」と思っていらっしゃる方も少なくないかもしれませんので、まず、最初に、高田美和のことを説明させていただきます。高田美和は、日本の歌う映画俳優第一号と言われている高田浩吉の愛娘でありまして、高名な俳優の娘という意味合いでは、岩井半四郎の愛娘の仁科明子と同じような位置づけでもあったのかなという気がいたします。という風な説明を始めますと、今度は、「高田浩吉なんて知らないもんね」という話になってきそうですので、一応、高田浩吉についても説明をさせていただきますと、戦前から時代ものを中心に映画や舞台で活躍し、「大江戸出世小唄」「伊豆の佐太郎」「白鷺三味線」などのヒット曲を残している人です。
 その高田美和の、恐らく、ソロとしては唯一のヒット曲と言えるのが、この「十七才は一度だけ」であります。発売は1964(昭和39)年の12月ですから、前回で紹介させていただいた「わが愛を星に祈りて」に先立つこと9カ月だったわけです。レコードジャケットには、大映映画「十七才は一度だけ」主題歌と書いてありますので、この映画も恐らく自らが主演したものと思われます。
 前回の「わが愛を星に祈りて」についても、データをアップしてから関連資料が見つかりまして、それによりますと、「わが愛を星に祈りて」は高田美和が主演した映画の主題歌だったそうで、作曲の土田啓四郎という人は、1964(昭和39)年のレコード大賞受賞曲「愛と死を見つめて」の作曲も担当している人ですので、こういう悲恋ものの曲作りの上手い人だったのでしょう。
 今回のテーマである「十七才は一度だけ」という曲も映画の主題歌であるということからもお分かりかと思いますが、高田美和という人は、基本的には、いわゆる、若手の清純派女優として売り出し、歌手としても、結構、活躍していたわけです。
 私は、「わが愛を星に祈りて」も、この「十七才は一度だけ」も、映画は全く知りませんが、この「60年代通信」のメニューとして用意されながら、ほぼ1年間にわたって手付かずのままである「60年代の映画」で近々取り上げさせていただこうと思っている「大魔神」では、この高田美和が主演級の扱いで出ていたのを覚えています。
 高田美和の説明に手間取ってしまいましたが、「十七才は一度だけ」という歌は、詞も曲も、いかにも、いわゆる「青春歌謡」然としておりまして、青春歌謡の中でも、私の好きな一曲であります。1番だけ紹介させていただきます。

 谷のりんどう 山の雪 枝にないてる 鳥の声
 指にちらつく 葉もれ陽に 揺れるこの花 胸のうち
 十七才は一度だけ 十七才は一度だけ

 歌い出しはマイナーですが、サビの「指にちらつく…」からメジャーに転調し、「十七才は一度だけ…」のリフレインは再びマイナーに戻るという曲の構成になっています。
 歌詞のイメージや曲の雰囲気などは、同時期に活躍していた高石かつ枝などに通じるものがあり、当時の典型的な青春歌謡のパターンと言えるものでした。
 それにしても、なぜ、歌謡曲には、十七才をテーマにした曲が多いのでしょうか。すでに、この「青春歌謡」のコーナーで紹介させていただいている西郷輝彦には「十七才のこの胸に」というヒット曲がありますし、昭和40年代半ばに登場する新三人娘の一人・南沙織のデビュー曲にいたっては、ズバリそのものの「十七才」というタイトルで、この曲は、さらに、1980年代の末、年号が平成に変わってから森高千里によるカバー・バージョンもシングルとして発売されたほどでした。私は現在、42才のオヤジでありまして、「42才だって一度だけだ…」とつぶやいても、辺りには白々しい空しさが漂うだけで、「42才は一度だけ」などというタイトルでは到底、歌謡曲としては許されないわけであります。
 昭和40年前後には、『週刊セブンティーン』という十代の女の子向けの雑誌もありましたから、十七才というのは、十代を象徴する年令という捉え方が一般的なのでしょうか。松本伊代の場合、「伊代はまだジュウロクだから〜」という歌詞でしたが…。 







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