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「ブルーシャトー」レコード大賞受賞 30周年記念特別企画 ジャッキー吉川とブルーコメッツのすべて
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1966年にデビューしたブルーコメッツは、何度も書かせていただいている通り、ザ・スパイダースと共に、GSとしては草分け的存在であり、しかも、ロカビリー時代からの歴史を持っているバンドで楽器編成的にも50年代のジャズバンドに通じるものがあったこと、長髪や奇抜なコスチュームが基本型だったGSにあって、短髪を七三に分け、ステージなどでも、いつもスーツ姿のことが多かったことなどもあり、特に、アマチュア・バンドに毛が生えたような(中には生えていないのも結構ありましたが…)若手のバンドが雨後のタケノコのように登場してきた68年以降は、紅白連続出場やレコ大受賞に対するヤッカミなどもあって、若手バンドのファンなどから“オジン”バンドというような、いわれのない誹謗・中傷を浴びておりました。しかし、私のような小学生(当時)も含め、十代の女の子たちにも絶大なる支持を受けていた証左として、68年の年初に相次いで少女漫画雑誌の老舗である『少女フレンド』と『マーガレット』(何れも週刊の方です)の表紙を飾った事実をご紹介させていただきたいと思います。
まず、『少女フレンド』の方でありますが、68年の2月27日号で、当時、少女モデル・タレントとして大活躍していた高見エミリーと共に、表紙写真に登場。高見エミリーは、「じきにん直ってェー」というダジャレ・コピーで有名な風邪薬「ジキニン」のCMなどを経て、現在は、鳩山邦夫と結婚し、立派に国会議員夫人を務めるまでになっておりますが、昭和40年代前半は、30年代の松島トモ子の跡目を継いで、雑誌やテレビでの露出度ナンバーワンの少女タレントでありました。ブルーコメッツはというと、この表紙写真の撮影は恐らく68年の正月過ぎくらいの頃と思われますので、既にレコード大賞を受賞し、「こころの虹」を新曲として歌っていたころかと思われ、時期的にいうと、すでに、少女漫画雑誌の表紙を飾るようなタイミングでもないような気もします。
しかし、「60年代の雑誌」の「月刊平凡」のコーナーでも繰り返し指摘させていただいているように、GSが世代を問わず広く社会的に認知されるようになったのは「ブルーシャトー」が大ヒットした67年の夏以降であります。しかも、少女漫画雑誌にその波が及ぶまでには、それなりの時間がかかり、さらに、タイガースやワイルドワンズ、ジャガーズ、ヴィレッジ・シンガーズといった本当に若い女の子たちに人気が高かったグループが一巡して、表紙ローテーションとしてブルーコメッツが回ってきたタイミングというのは、そんなものだったのかなともいう気もしてくるわけです。テンプターズやオックスがメジャーになってくるのは、もっと後の68年春以降であります。
さらに、この『少女フレンド』に先立って、同じ68年2月11日号の『マーガレット』でも、少女モデルと共に表紙写真で登場しており、この時期のブルコメ人気というのは、本当に、ぶ厚いものがあったということができるのではないでしょうか。
ブルコメとは関係ありませんが、当時の『少女フレンド』と『マーガレット』はどちらも60円で、特に、『少女フレンド』の方には、「テレビ天使」のちばてつや、「ピッピーちゃん」の赤塚不二夫などの名前も見え、時代を感じさせます。
少女漫画雑誌に登場した68年2月から2カ月後、長岡市立川崎小学校を卒業し、長岡市立東北中学校に入ったばかりの私は、朝日新聞朝刊の社会面にブルーコメッツの名前を見つけてびっくりすることになります。
当時、ブルーコメッツは、TBS系で放映されていた「ヤング・ジャンボリー」という歌謡バラエティ番組に、司会もやっていた西郷輝彦と共にレギュラーで出演しており、68年4月8日に、その番組のロケ先で、『週刊平凡』のスチール写真撮影(左)があったのですが、その際、沢山の風船をバックに撮影を行っている時に、突然、風船が爆発し、メンバーが火傷を負ってしまうという事故があったのであります。
翌日の朝日新聞の記事(右)は、次のように報じています。
ブルーコメッツご難/風船爆発 四人がやけど
【所沢】8日午後1時半ごろ、埼玉県所沢市所沢クレー射撃場で、TBS渡辺旺文ディレクターの「ヤングジャンボリー」のビデオ撮りの休憩中、スチール撮影の小道具に使っていた風船数十個が爆発、出演の“ジャッキー吉川とブルーコメッツ”のメンバーのうち4人が顔や手に2〜3週間のやけどをした。
爆発は休憩を利用した週刊誌のスチール撮影中に起きた。直径30センチの風船を5個ずつ一束にして射台の手すり十数カ所に結び撮影中、風が強く風船が大きく揺れるので出演者たちが手繰り寄せたところ、そのショックで3カ所が爆発した。ジャッキー吉川=本名吉川浩一さん=(27)は耳に、井上忠夫さん(25)と高橋健二さん(26)は顔と手に、小田啓義さん(27)は顔にそれぞれけが、三原綱木さん(22)はすばやく顔を伏せたためけがはなかった。高橋さんと井上さんは東京・赤坂前田外科に入院した。この日、射撃場にはファン40数人が見物していた。人気者の負傷で射撃場にはファンからの問い合わせの電話が続き、係員は「このくらいのけがで問合せにてんてこ舞いさせられるとは…」と驚いていた。

ということで、係員は「このくらいのけがで」と言っておりますが、記事にある通り、メンバー二人は入院するほどの火傷で、実は、この翌月だったと思いますが、ちょうど「白鳥の歌」を歌っているころに、長岡でブルーコメッツのショーがあり、私は、このショーを直接は見ていないものの、後で、ファンクラブのお姉さんからいただいた写真では、高橋健二さんは、火傷の後を隠すため、まだ、サングラスをかけていなければいけないほどの状況でした(左)。
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シングル盤ディスコグラフィーでも書かせていただきましたが、ブルーコメッツの実質的なデビュー曲となった「青い瞳」から「草原の輝き」まで9枚の歌入りシングル盤はコロンビアの洋盤レーベルだったCBSコロンビアから発売されていました。この洋盤扱いだった時代は、ブルーコメッツのオリジナル曲には、すべて英文のタイトルも付けられていました。昭和43年9月にCBSレーベルがソニーに移った後の「さよならの後で」からは、単に、“SAYONARA
NO ATO DE”とタイトルをローマ字にしただけの形になりましたが、洋盤扱い時代は、例えば、「青い渚」には“MY
LONELY FIRST LOVE”という立派な英文のタイトルが付けられておりました。CBSコロンビア・レーベル時代に英文タイトルが付けられていなかったのは「青い渚」のB面に入っていたブロードサイド・フォーとの競作「星に祈りを」と、テレビ・ドラマの主題歌だった「何処へ」だけで、この2曲は和文タイトルをローマ字で表記したものが添えられているだけでした。この辺りも、「何処へ」がA面扱いながら、オリジナル曲のブルー・シリーズから外れたアドホック的な作品であったことを裏付けるものと言えましょう。
また、「青い瞳」「青い渚」「ブルーシャトー」までがブルー・シリーズであることは納得できても、なぜ、「マリアの泉」「北国の二人」「こころの虹」までブルー・シリーズと言われるのか分からないという方もいらっしゃるかと思いますが、実は、ブルー・シリーズの曲の場合、英文タイトルの方には必ず“BLUE”や“LONELY”“LONESOME”といった言葉が使ってあるということで、納得いただけるでしょうか。
ということで、以下に、A面・B面とりまぜて、英文と和文のタイトルを列挙させていただきますので、何曲分かるか挑戦してみませんか。答えが分かった方は、英文タイトルの番号と和文タイトルのアルファベットを組み合わせ、Eメールで回答をお寄せください。
宛て先は、kiyomi60@bb.mbn.or.jpです。
正解された方には、ブルーコメッツのサイン入りブロマイドの画像データをお送りします。
(1)BLUE FOUNTAIN |
(a)マリナによせて |
(2)SEVEN NIGHTS |
(b)青い渚 |
(3)IN A LONESOME CITY |
(c)甘いお話 |
(4)SUMMER GRASS |
(d)マリアの泉 |
(5)A TEAR FELL |
(e)白い恋人 |
(6)A SONG OF BEAUTIFUL SWAN |
(f)北国の二人 |
(7)SWEET TALK |
(g)銀色の波 |
(8)RAIN FOR LOVE |
(h)こころの虹 |
(9)BLUE RAINBOW |
(i)すみれ色の涙 |
(10)LOVERS ON THE BEACH |
(j)白鳥の歌 |
(11)GOOD NIGHT MY LOVE |
(k)雨の舗道 |
(12)MY LONELY FIRST LOVE |
(l)草原の輝き |
(13)MY SUMMER GIRL |
(m)マイサマーガール |
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