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60年代の歌謡曲 |
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「ブルーシャトー」レコード大賞受賞 30周年記念特別企画
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「青い瞳」 作詞・橋本淳 作曲・井上忠夫
(英語版=1966年3月発売)
ロックンロール・コンボ・バンドとしてのブルーコメッツの歴史は、1950年代まで溯らなければなりませんが、いわゆるグループサウンズとして、ジャッキー吉川、小田啓義、高橋健二、井上忠夫、三原綱木のメンバー5人が定着し、ジャッキー吉川とブルーコメッツというグループ名で全国区の認知を得ることになったのは、この事実上のデビュー曲「青い瞳」によってでありました。
1966(昭和41)年3月に英語版が発売され、フジテレビの音楽番組「ザ・ヒットパレード」のディレクター・椙山浩一(すぎやまこういち)に評価されたこともあって、番組の中で繰り返し歌わせてもらっているうちに、本当に売れ始め、10万枚程度のヒットとなったものです。同年7月には日本語版が発売され、こちらは50万枚を超える大ヒットを記録、ブルーコメッツは一躍、全国的に知られる人気グループとなり、この年の紅白歌合戦にも初出場することになったのでありました。
ブルーコメッツというバンドにとっても、後にグループサウンズと総称されることになる音楽ジャンルにとっても、この曲がすべての始まりだったと言ってもいいのではないでしょうか。
ちなみに、一応、補足説明をしますと、「青い瞳(英語盤)」のB面は「青い彗星」というグループ名をそのまま日本語の題名にしてしまった、インストゥルメンタルの曲になっています。この曲は、ステージのフィナーレの時などには必ず演奏されていたブルーコメッツのテーマ曲ともいうべきもので、当時のエレキギター曲の一つの定番であったスペースものの佳曲として評価されていました。
英語版の「青い瞳」のヒットを受け、4カ月後には、日本語版が発売されましたが、実は、この「青い瞳」の日本語版が出るまでには、乗り越えなければならない旧来の慣習がありました。
いわゆる和製ポップスと呼ばれるジャンルが確立される前の日本のレコード業界には、作詞家や作曲家には専属制度というものがあり、レコード会社の専属でなければ、レコードを出してもらえないというのが通例でした。フリーの作家が作った詞や曲は、レコード会社が相手にしないという状況があったようですが、その辺りの慣行を破る英断を下したのが、当時のコロンビアの洋楽部長でした。ブルコメの「青い瞳」が発売される前年の1965(昭和40)年にコロンビアから発売されたエミー・ジャクソンの「涙の太陽」が、そうしたフリー作家の手になる、いわゆる和製ポップス第1号であります。これは、湯川れい子の作詞、中島安敏の作曲によるものですが、専属作家との無用の軋轢を避けるため、歌詞をわざわざ英語にし、邦楽レーベルではなく、洋楽レーベルから発売されました。ブルコメの「青い瞳」が英語版から先に発売されたのも、そうした経緯を踏襲したものと言えます。「青い瞳」の英語版の成功でレコード会社側もようやく本腰を入れる形となって、日本語版の大ヒットでようやくフリー作家も陽の当たる道が開かれたというわけです。以後、橋本淳はフリーの作詞家として、ブルコ
メの一連のブルーシリーズやタイガース、スパイダースなど多くのGS作品を手がけ、60〜70年代を代表するヒットメーカーとなりました。
ですから、そういう意味でも、この「青い瞳」日本語版は、単に、GSブームの口火を切っただけでなく、フリー作家による和製ポップス全盛時代への道をも開いた、日本レコード史上における記念すべき曲だったのであります。英語版のところでも書いたように、この日本語版は50万枚を超える大ヒットとなり、ブルコメもこの曲で、年末の紅白歌合戦に初出場を果たしました。もちろん、紅白では、日本語バージョンが歌われ、レコード業界の徒弟制度に風穴を開けた和製ポップスが、晴れて、市民権を得ることになったのでありました。
ちなみに、この曲のB面の「マリナによせて」という曲は、小田啓義先生の手になるインストルメンタル曲で、英文タイトルの“seven
nights”にも示唆されているように、亡くされたお子さんを偲ぶ作品だったと記憶しています。
ブルーコメッツのシングル盤としては、「青い瞳(英語版)」が発売される前月の1966年2月にインストゥルメンタル曲「サンダーボール」(映画「007/サンダーボール作戦」のテーマ)、さらに、「青い瞳」の翌4月には、やはり、インストゥルメンタル曲「愛の終わりに」という曲も出ていますが、このディスコグラフィーでは、ヴォーカルの伴った曲だけを取り上げさせていただきますので、悪しからずご了承ください。
蛇足ながら、ブルーコメッツは、もともとロックンロール・コンボ・バンドとして1957年に結成され(メンバーは違いますが…)、60年代に入ってからは、ザ・ピーナッツや中尾ミエ、鹿内タカシ、尾藤イサオ、内田裕也、ジャニーズなどのバックバンドとして活躍していたため、音楽ファンには、デビュー前からレベルの高いインスト・バンドとして知られていたわけで、実質的なデビュー・シングルの発売をはさんで、A・B両面ともインスト曲のシングルが出たり、「青い瞳(英語盤)」のB面がインスト曲だったりというのは、当然と言えば当然だったわけです。
また、元ファンクラブ会員ならではのマニアックな話を紹介しますと、前曲の「青い瞳」の説明で、この年に紅白歌合戦初出場と書きましたが、実は、その前年の1965年の紅白歌合戦でも、ビートルズの「ロックンロール・ミュージック」を歌ったザ・ビーナッツのバックで演奏していたのがブルーコメッツでした。さらに、植木等の歌った「遺憾に存じます」でバックを務めたのが寺内タケシとブルージーンズだったなどということを知っている人は、もう殆どいないでしょうね。
「青い渚」とは関係ない話が続きましたが、「青い瞳」に続くブルーコメッツの事実上のデビュー第2弾となったこの曲も、橋本・井上コンビによる失恋抒情ソングでありまして、前作同様、いわゆるグループサウンズとしては異色の楽器使いである井上忠夫のサックスが楽曲の微妙な隠し味として印象に残る曲となっております。この曲は、ハワイアン歌手で「夏の日の思い出」をヒットさせた日野てる子向けに書かれたという話も残されていますが、今となっては、ブルーコメッツのオリジナルとして非常にハマっていたとしか思えない曲であります。ブルーコメッツの人気も、このヒットで定着したと言えます。B面は、フォークグループのブロードサイド・フォーとの競作となった「星に祈りを」(作詞・作曲=佐々木勉)。フォークソングもソツなくこなすブルコメの芸域の広さを感じさせる作品です。
ブルーコメッツ、青い瞳、青い彗星、青い渚、という、当時としては極めて斬新な「青」という統一コンセプトに基づく路線は、グループのイメージ作りに大きく貢献し、GS史上に輝く不滅の名曲「ブルーシャトー」の大ヒットへの確かな伏線となったのでありました。
ちなみに、田辺昭知とザ・スパイダースの大ヒット曲「夕陽が泣いている」も、「青い渚」と同じ66年9月の発売でした。
歌入りシングルとしては3枚目ということになりますが、この曲は日本テレビで放映されていた同名TVドラマの主題歌で、作詞・作曲は万里村ゆき子。デビュー当初のブルーコメッツの魅力の一つとして、井上忠夫、三原綱木、高橋健二の3人によるユニゾンの美しさを指摘する声もあったことを記憶していますが、この曲には、井上忠夫と三原綱木のソロ・パートが入っており、非常に初々しい歌い方が印象的です。
当時は、まだ、テレビドラマの主題歌がレコード化されるというケースはあまりなかったということもありますが、日本テレビ以外の歌番組ではこの曲を歌うことが許されず、この時期に他局の歌番組に出る時は、B面の「センチメンタル・シティ」という曲を歌っていたというエピソードもありました。この「センチメンタル・シティ」は、作詞が橋本淳、作曲がすぎやまこういち。
つまり、このシングルはA面・B面とも、メンバー以外の手になるもので、デビュー当時の統一コンセプトであった「青」シリーズからも外れており、今振り返ってみると、ブルーコメッツの戦略的な路線の中では、アドホック的な位置づけの観も否めないのかなという気がしてくるわけです。とはいえ、結果的には、消極的な意味合いでの両面ヒット盤ではありました。
「青い瞳(英語盤)」の実質的なデビューから丸一年。歌入りシングルとしては4枚目、「青」シリーズとしては第3弾となった「ブルーシャトー」は、当時としては破格の100万枚を超える大ヒットとなり、昭和42年の第9回日本レコード大賞を受賞。この曲によって、ブルーコメッツをはじめとする、いわゆるグループサウンズ(GS)が社会的認知を得ることになったといっても過言ではないでしょう。
「青い瞳」「青い渚」に続き、作詞・橋本淳、作曲・井上忠夫というゴールデン・コンビによる作品で、すでに人気グループとして超多忙状態にあったため、橋本淳から詞をもらった井上忠夫は楽屋の片隅で譜面にペンを走らせ、作曲にかかった時間は僅か3分足らずだったというのは、あまりにも有名な話であります。
また、コード進行でも分かる通り、童謡の「月の砂漠」から曲のモチーフを得ていることや、当初、木の実ナナ向けの作品だったことなども、ファンの間では、当時から広く知られていました。
当時、小学校5年生から6年生になろうとしていた私は、この曲が出た時点では、まだ、ファンクラブにも入っていませんでしたし、ブルーコメッツというグループにも、ほとんど関心を持っていませんでした。ただ、ブルーコメッツがテレビで「ブルーシャトー」を歌うのを見ては、「ブルーブルーブルーブルーブルーブル〜、シャトー」という歌詞の部分で、耳には単に「ブー、ブー、ブー、ブー、ブー、ブー」としか聞こえないため、お袋と「こいつら屁をこいてるみてぇだな」などと言いながら、殆ど笑いの対象としてしか捉えていなかった記憶は、鮮明に残っています。ですから、全く関心がなかったということではなかったわけですが、この一年後には、小学校の卒業式後の謝恩会で、仲間を率いてブルーコメッツのモノマネをすることになり、さらには、ファンクラブに入ったり、追っかけもどきのことをするようになってしまったのでありました。
前作の「ブルーシャトー」に続き、フルオーケストラをバックにつけて豪華な編曲で盛り上がる曲作りとなっております。芸能雑誌の『平凡』か『明星』の付録にGS特集の歌本があって、その裏表紙の広告がこの「マリアの泉」のシングル盤で、そのキャッチコピーが「ブルーシャトーに続きブルーコメッツがストリングスの林で歌う…」とか何とかいうフレーズだったのを覚えていますから、オケをバックに歌うというのがセールス・ポイントの一つだったのだろうと思います。ジャケットの写真は「泉」というよりは、多摩川上流の河原辺りではないかと思われるような場所でありますが、万里村ゆき子の詩と豪華な編曲は、パリかローマ辺りの雰囲気を色濃く漂わせることに成功しております。
私がリアルタイムでブルーコメッツのシングル盤を買い始めたのは、多分、この「マリアの泉」辺りからだったと記憶しています。当時、長岡市内の中心部には、島津レコードとツモリレコード、両替屋レコード店などというレコード屋さんがありましたが、私は、シングル盤を1枚買うごとにスタンプがもらえ、スタンプが何枚か貯まるとシングル盤1枚と引き換えられるというサービスを行っていた島津レコードというお店で、ブルーコメッツのレコードを買っていました。シングル盤の値段も、1枚330円だったのが、この頃から、1枚370円に値上げされ、古い値段の上にシールが貼られたりしていたのを覚えています。
また、いわゆる塩化ビニールの黒いレコード盤とは別に、当時は、ソノシートと呼ばれる薄いプラスチックのようなレコードも売られており、それまでは、「鉄腕アトム」とか「スーパージェッター」などのTVアニメのものばかり買っていた私でしたが、この「マリアの泉」が出た頃に、ブルーコメッツのソノシートを買ったりもしていました。ソノシートは、シングル盤と同じCBSコロンビアのレーベルからも出されていましたし、ケイブンシャというソノシートものばかり出している会社からも発売されていました。私は、コロンビアから出ていたコロシートというシリーズの中の「ブルーシャトー」と「マリアの泉」をメインにしたものと、「青い瞳」と「ミッシェル」や「サウンド・オブ・サイレンス」「十番街の殺人」などの外国曲も入っていたケイブンシャのものと2つを買っていました。どちらも、シングル盤よりも一回り大きいサイズの12〜16ページ程度の小さなブックレットにソノシート2枚組がついているというものでした。コロンビアから出ていたものは、ソノシートは手元に残っていますが、ブックレ
ットの方は紛失してしまい、とても後悔しています。今となっては、極めてレアものであり、値段を付けることも不可能ではないかと思われる貴重なものとなった、ケイブンシャ発売のソノシートのカバー写真を特別公開させていただきますので、謹んでご覧下さい。
ブルーコメッツに限らず、新しいブームの中でその中心になる歌手やグループというのは、加速度的に人気が高まり、恐らく当事者達も予想しなかってであろうようなパワーを、その絶頂期に発揮するものでありますが、この「北国の二人」というシングルが出た辺りが、ブルーコメッツにとっては、そうした絶頂期にあった時期と言って間違いないと思います。
私の記憶によれば、『少女フレンド』や『マーガレット』といった少女マンガ雑誌だけでなく、少年マンガ雑誌にまでグループサウンズの記事が載るほどGSブームが盛り上がり始めたのが、ちょうど、この昭和42年の秋頃からだったと思います。当時、大学ノートにブルーコメッツの写真や関係記事を貼り付けてスクラップブックを作っていた私は、この「北国の二人」の頃に、「鉄腕アトム」や「鉄人28号」などが連載されていた少年マンガ雑誌『少年』のグラビアページにブルーコメッツの写真がフルページで掲載されていてびっくりした記憶が残っています。
「ブルーシャトー」「マリアの泉」とオーケストラをバックにした曲が2曲続いた後、この曲では、ブルーコメッツ自らの演奏だけで歌っており、極めてノリのいい曲となっておりますが、それもそのはずで、レコーディングの見学に来ていたファンの女の子達をスタジオの中に入れて演奏に合わせて踊ってもらったというエピソードも残されております。その辺りの経緯について、昭和42年の10月に発売された『別冊スクリーン・ブルーコメッツ特集号』の中で、当時、ブルーコメッツ担当だったCBS邦楽部の泉明良ディレクターは次のように説明しています。
「『ブルー・シャトゥ』『マリアの泉』ではバックに弦を使ったが、「北国の二人」以下は、再びブルコメだけの演奏に戻っている。『北国の二人』の録音にあたっては、雰囲気を盛り上げるために、とくにファンの女の子を5人ほどスタジオに入れて踊ってもらった」
1968年からスタートしたオリジナル・コンフィデンスのシングル・チャートでは、その第一週に当たる昭和43年1月4日付のランキングで、この「北国の二人」は、第7位に入っています。ちなみに、その前年のオリコン・チャート試作版では、この「北国の二人」が第1位にランクされており、私たちブルーコメッツ・ファンとしては、30年後の今も悔しい限りでありますが、その辺りの経緯について、『ORICON
No.1 HITS 500』(クラブハウス)では、次のように解説されています。
「オリコンのシングル・チャートは1968年に正式にスタートした。実はその前年に実験的にチャートの制作が行われ、そのときの1位は『北国の二人/ジャッキー吉川とブルー・コメッツ』だったが、これは正式記録としては登録されておらず、幻の1位となっている」
また、この曲のB面にはシングル盤としては初めて、三原綱木の作曲による「銀色の波」という曲がカップリングされ、この曲も、かなり評判を呼び、ステージでも演奏されることが多く、「何処へ」&「センチメンタル・シティ」の場合の時とは違い、より積極的な意味でのA・B両面ヒットとなりました。
「ブルーシャトー」でレコード大賞を受賞した翌年というか、翌月に発売されたのが、この「こころの虹」でした。大賞受賞ということで、周囲の注目度も従来以上に高まり、雑誌などでも発売前から取り上げられ、確か『月刊平凡』の昭和43年の新春号だったと思いますが、「虹の彼方に」(だったかな…)という別のタイトルで紹介されていたのを覚えています。
ところで、僕には、当時も今も、この年の秋に出る「さよならの後で」という曲がブルーコメッツによる歌謡曲路線への転換点になったという言い方をする人たちは、十分に歌謡曲していた「こころの虹」をどう位置づけるのかなという大きな疑問があります。井上忠夫自身も、この曲について、前年に大ヒットした伊東ゆかりの「小指の想い出」のような作品を意識して作ったという趣旨の発言をしており、ラテンコーラス・グループを彷彿とさせるような編曲のこの曲は、確か、ブラジルでもチャート入りしているはずです。ちなみに、日本のオリジナル・コンフィデンスのチャートでは最高5位にランクされました。
何れにしても、今、振り返ってみると、この「こころの虹」が、ブルーコメッツにとっての、頂点を極めた後の折り返し点だったのだろうという気がしてなりません。
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グループサウンズ史上に残るB面ヒットと言えばタイガースの「花の首飾り」がありますし、尾崎紀世彦の「また逢う日まで」もGSブームの晩年に登場したズーニーブーの「白いサンゴ礁」のB面の曲でありました。
この2曲には及びませんが、ブルーコメッツも、一時代を築いた歌手やグループの全盛時の特異現象のひとつと言えるA・B両面ヒットを連発した時期があり、それが「ブルーシャトー」でレコード大賞を受賞した1967年でした。「ブルーシャトー」のB面の「甘いお話」(佐々木ひろと・作詞、小田啓義・作曲)、「マリアの泉」のB面の「白い恋人」(万里村ゆき子・作詞、小田啓義・作曲)、「北国の二人」のB面の「銀色の波」(橋本淳・作詞、三原綱木・作曲)、「こころの虹」のB面の「すみれ色の涙」(万里村ゆき子・作詞、小田啓義・作曲)の4曲は、何れもこの年に作られ、録音されたものであります。
ブルーコメッツでオルガンを担当していた小田先生の作品は、メルヘンチックでおしゃれな作品が多く、「甘いお話」や「白い恋人」は、キラキラと輝く木漏れ日の中でトリュフでも食べながら美味しい紅茶を楽しんだ後に、暖かい陽光の下でまどろんでしまっているかのような雰囲気の、甘いメロディーが印象に残ります。「銀色の波」はクラシックギターの名手・三原綱木の手になる曲で、前奏・間奏・後奏に、これでもかというくらいに泣きのフレーズが入りまくります。鶴岡正義と東京ロマンチカをも彷彿とさせるほどであります。ブルーコメッツは、カバーナンバーでも「ラ・バンバ」とか「マシュケナダ」といったラテン系の曲が妙にハマってしまうグループでしたが、この「銀色の波」や「こころの虹」などにも、その片鱗をうかがうことができると言えるのかもしれません。
そして、ブルーコメッツのB面曲の極めつけと言えるのが、「こころの虹」とカップリングされていた「すみれ色の涙」であります。
岩崎宏美のカバーヒットによって、60年代前半のGSブームを知らない若い世代にも知られるところとなったこの曲ですが、実はブルーコメッツの曲だったということを知る人は少ないかもしれません。
当時も、ここで取り上げた他の3曲よりも認知度は低かったと思いますし、僕の記憶によれば、1981年の春に日劇が取り壊されることになった時の「さよなら日劇ウェスタンカーニバル」のステージでも、ブルーコメッツが演奏したB面曲は「銀色の波」だけだったはずです。
それでも、81年の6月に発売された岩崎宏美の「すみれ色の涙」が大ヒットし、この曲によりレコード大賞の最優秀歌唱賞を受賞したことで、改めて、この曲に対する評価が高まり、その後、60年代特集などの番組で当時のメンバーが揃って演奏する時には、必ず、この曲がレパートリーとして加えられるようになったのであります。6〜7年前に多摩市の夏祭りの時、当時とは全く違う若いメンバーに変わっていたジャッキー吉川とブルーコメッツを京王線の聖蹟桜ヶ丘駅前で見たことがありましたが、その時にも、ロックンロール・ナンバーと共に、当時のオリジナル曲として演奏されたのは、「青い瞳」「青い渚」「北国の二人」「ブルーシャトー」と「すみれ色の涙」でした。
歌入りシングル盤としては、「何処へ/センチメンタル・シティ」以来1年5カ月ぶり、4作品ぶりに井上忠夫以外の作曲になる曲であり、前にも触れた通り、「何処へ/センチメンタル・シティ」が本来の路線から外れたアドホック的な作品であったことを考えると、デビュー以来初めて、オリジナル・シングル盤で既成の作曲家に依頼した作品ということにもなるかと思います。
前年はレコード大賞を受賞した「ブルーシャトー」、「マリアの泉」、「北国の二人」と大ヒットが続き、「北国の二人」が“幻のオリコン・チャート第1位曲”であることは既に紹介した通りで、「ブルーシャトー」「マリアの泉」もオリコン・チャートが存在していたら間違いなく第1位にランクされていたはずです。つまり、67年に発売されたオリジナル・シングル盤はすべてチャートの1位を飾る大ヒット曲でしたが、明けて68年は、「こころの虹」が5位にとどまり、デビュー以来の快進撃に若干の翳りが見え始めた年となったわけです。とは言え、「こころの虹」は週刊ランクの最高が5位、年間ランクでも36番目に位置しており、並みの歌手で言えば、大変なヒットということになるところなのに、そこは、レコ大歌手となってしまったつらさで、マスコミやファンなんかが井上忠夫作品に依存してきたブルコメ路線の「マンネリ化」を騒ぎ始め、当人達やスタッフまでその気になってしまうという結果に追い込まれてしまったのであります。
そこで、当時、井上忠夫が尊敬して止まなかった平尾昌晃に白羽の矢が立ったのでした。既に紹介した通り、前作の「こころの虹」は、伊東ゆかりの大ヒット曲「小指の想い出」を意識して井上忠夫が作ったものであり、やはり、当時大ヒットしていた黒沢明とロス・プリモスの「ラブユー東京」を思わせるラテン・コーラス歌謡風の編曲という工夫を凝らした作品でしたが、67年に発売された3曲ほどの勢いはありませんでした。そこで、布施明の「霧の摩周湖」や伊東ゆかりの「恋のしずく」などを手がけていた平尾昌晃の登場となったわけです。
しかし、この曲は発売当初から、井上忠夫をして「ちょっとハイブローすぎるかな」と言わしめたほど、平尾昌晃が力を入れて作った曲で、歌謡評論家などからも「2、3年早いのではないか」というコメントが出るほど、難度の高いものでした。案の定、一般からの受けは「こころの虹」よりもさらに低いものとなり、オリコン・チャートでの最高位も15位どまりでした。
B面は「雨の舗道」(作詞・橋本淳 作曲・平尾昌晃)で、この年の秋に発売される「さよならの後で」を先取りするような本格的な歌謡曲路線の作品。恐らく、「白鳥の歌」の企画段階で、既に、既成の作曲家による歌謡曲という路線は検討されていたものと思われ、この時点では、よりGS色を強く出せる「白鳥の歌」がA面として用意されたということではないかと推測されます。
「白鳥の歌」の予想外の低迷に慌てたのか、僅か中2カ月での発売となったのが、再び井上忠夫作品に戻った「草原の輝き」であります。
前作の「白鳥の歌」では、「マリアの泉」以来、3作品ぶりに管弦のオーケストラをバックに入れていましたが、音的には、あくまでも、ブルーコメッツのメンバーの演奏が前面に出ていました。この「草原の輝き」では、よりオーケストラを強調する編曲となっており、特に、サビ後半のブレーク部分で入るティンパニーが極めて印象的です。ところが、この「草原の輝き」については、当時のシングル盤では、オーケストラをより前面に出して編曲されたバージョンがプレスされていましたが、後年のベスト・ヒット盤や、現在発売されているCDなどでは、「北国の二人」と同様に前奏でジャッキー吉川のドラムが入り、オケを抑え目にしてブルーコメッツの演奏を前面に出したバージョンが採用されています。これは、単に、オケをフィーチャーしたマスターテープが紛失してしまったとかいうだけの理由なのかもしれませんが、何れにしても、当時、オケ強調版とオケ控え目版の2バージョンが録音されていたことは確かなわけです。この当たりにも、編曲も含めて、ブルーコメッツやスタッフの間に、曲作りの面でかなりの迷いがあったのではないかと見るのは、あまりにも穿ちすぎでしょうか。
私はオケ強調版が採用された当時のシングル盤の編曲の方が気に入っており、「草原の輝き」は、ブルコメによるブルコメのためのブルコメらしい最後の作品として、私の気持ちの中では間違いなくベスト3に入れたい曲なのであります。B面の「サマーガール」(作詞・橋本淳、作曲・井上忠夫)も、ビーチボーイズを思わせる軽快で爽やかなコーラスの曲で、私のお気に入りであります。
私の記憶では、当時、井上忠夫自身が、「草原の輝き」について、「クラシック音楽の作品のような、オーケストレーションも多分に意識した、スケールの大きい作品作りに努めた」という趣旨の発言をしていたはずで、恐らく、そうした作曲家としての井上忠夫の意志が尊重された結果が、当時のシングル盤製作の事情としてあったものと思われます。
しかし、オリコン・チャートでは、結局、「白鳥の歌」と同じ15位にとどまり、セールス的には思ったほどの成果を上げるに至りませんでした。
さらに、この年の、確か、9月だったと思いますが、コロンビアの洋盤レーベルだったCBSがソニーに移ってしまい、ブルーコメッツのシングル盤も、それまでの洋盤扱いから邦盤扱いに変わることになります。ブルーコメッツの弟分だったヴィレッジ・シンガーズはCBSソニーに移ってしまいましたが、ドル箱のブルーコメッツはそのままコロンビアに残る形となり、そのことも、この後のブルーコメッツの路線に少なからず影響することになったものと思われます。
〈歌入りシングル盤ディスコグラフィーその2〉はこちら
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