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60年代の歌謡曲 |
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「ブルーシャトー」レコード大賞受賞 30周年記念特別企画 ジャッキー吉川とブルーコメッツのすべて
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「草原の輝き」のところで紹介した通り、この年の9月にCBSレーベルSONYに移ってCBSソニーが誕生し、それまで、コロンビアの洋楽部門のCBSコロンビアから発売されていたブルーコメッツのレコードも、以後、コロンビアの邦楽部門から発売されることになりました。
この「さよならのあとで」は、その邦楽部門扱いによるブルーコメッツの第一号レコードということになります。ある意味では、ブルーコメッツの第2のデビュー曲と言えるものかもしれません。
既に書いた通り、1967年に「ブルーシャトー」でレコード大賞を受賞し、出す曲すべてがチャート1位並みのヒットとなった後、この1968年に入ってからは、「心の虹」はともかくとして、「白鳥の歌」「草原の輝き」とチャート・セールス的には低迷気味となっていましたが、この「さよならのあとで」はオリジナル・コンフィデンスの週刊ランクで最高3位にランクされ、ブルーコメッツにとっては、久しぶりのスマッシュ・ヒットとなりました。エンディングのセリフは、当初、オルガンの小田啓義が入れる予定だったはずですが、結局、レコーディングの段階で、井上忠夫に変わっています。
当時、「月刊平凡」だったか「月刊明星」だったか忘れましたが、毎月の付録の歌本の冒頭でベストテンのランキングが掲載されており、このランキングでも3位くらいに入り、その記事の見出しで、「ブルーコメッツがカムバック」というような書かれ方をされていて、この「カムバック」という言葉に私は非常にショックを受けたのを覚えています。というのも、この頃、昭和30年代半ば頃に花形のロカビリー歌手として高い人気を誇っていた佐川ミツオが、佐川満男の名前で「今は幸せかい」をリリースし、その大ヒットで第一線に復帰し、「奇跡のカムバック」と言われていたからです。つまり、私にとって、「カムバック」という言葉は、一度、無名に近いところまで落ち込んでしまった人気が盛り返すという意味合いだと考えていましたから、そういう意味では、間違いなく一線に踏みとどまっていたはずのブルーコメッツに対してカムバックという言い方はあんまりだろうという思いがあったわけです。
その辺りはともかくとして、「こころの虹」のところで触れた通り、この「さよならのあとで」は、ブルーコメッツによる歌謡曲路線への転向ということで、ファンの間では、大変な論争を呼んだ曲でありました。当時、ブルーコメッツのファンクラブでは、毎月「青い彗星」という機関誌が発行されていましたが、この誌面でも賛否両論が渦巻き、激しくブルーコメッツを非難して“三行半”を叩き付けるという感じの投書も多かったことを記憶しています。
筒美京平という天才的な職業作曲家の手になるこの曲が、いわゆる歌謡曲に位置づけられるべき作品であることは確かであり、そのヒットによって、他のGSもなだれをうって歌謡曲の領域に踏み込んでいくことになりました。
B面は、シングル盤では初めてベースの高橋健二の作品となった「小さな秘密」(作詞・橋本淳)でしたが、この曲も完全な歌謡曲路線に位置づけられる曲でした。
「さよならのあとで」に続き、ブルーコメッツが明確に歌謡曲路線を意識してリリースしたのがこの「雨の赤坂」でした。作曲は、「さよならのあとで」が発売された後にブーブー言っていた三原綱木で、後に結婚する田代みどりと二人で作られたものだという逸話も後に明らかにされています。B面は小田啓義の作曲による「黒いレースの女」(作詞・橋本淳)で、これもまた、いわゆる歌謡曲でありました。
いわゆる“二匹目のどじょう”狙いとなった「雨の赤坂」は、オリコン・チャートでは週間ランクで最高20位どまりとなり、レコード・セールス的には今ひとつという結果に終わりました。
どう見ても歌謡曲というシングル盤が2曲続き、路線変更のダメを押す形となった「雨の赤坂」により、古くからのブルコメ・ファンの離脱に、さらに拍車がかかりました。実際、この曲を境に、少なくともファンクラブの会員数は激減したようで、私がブルーコメッツのファンクラブに入会した時の会員番号は22,234番でしたが、この「雨の赤坂」の発売後にファンクラブの組織改正が行われた時には、私の会員番号は一気に764番まで繰り上げられてしまい、これもまた、私にとっては、非常にショッキングな出来事でした。
さらに、この曲が出た翌月、1969年1月の日劇ウェスタン・カーニバルでは、ブルーコメッツは、まるでファンを挑発するかのように羽織り・袴姿でステージに現れ、他のグループのファンから非難ごうごうだったという話も残されています。
ちなみに、この曲が発売された直後の1968年12月31日のNHK紅白歌合戦でブルーコメッツが歌ったのは、「さよならのあとで」でも「雨の赤坂」でもなく「草原の輝き」でした。この曲を最後に、ブルーコメッツは紅白歌合戦からも遠ざかってしまいますが、GSとして唯一、しかも3年連続で紅白歌合戦に出場を果たしたのは、ブルーコメッツだけだったのであります。
70年代、80年代を通じて、いわゆる歌謡ポップスの世界で一時代を築くことになる筒美京平大先生のR&Bテイストの佳曲。
歌謡曲というよりもムードコーラス歌謡に近い雰囲気のあった前2作品に比べると、当時の流行りであったR&Bの味付けということもあって、どこまでロスプリモス化するんだろうと心配していたブルコメ・ファンも一安心という作品で、オリコン・チャートでも16位までランクされました。
ブルコメの歌謡曲路線への転向作品と位置づけられる「さよならのあとで」がブルコメにとっての筒美作品の第一号でありましたが、筒美京平の名を天下に知らしめることになったのは、前年の12月に発売されたいしだあゆみの「ブルーライト・ヨコハマ」でした。「涙の糸」は、70年代に入ってからの「雨のエアポート」「恋の追跡」「恋の十字路」といった一連のソウルフルな欧陽菲菲の作品に通じるものとも言えます。
B面の「ブルー・シャンソン」(作詞・橋本淳、作曲・井上忠夫)は久しぶりの橋本・井上コンビによる作品で、生ギターとフルートを基調とした透明感あふれる編曲が印象的。次の作品まで半年のインターバルが空いたこともあって、その涼し気なサウンドは夏場にぴったりで、当時、このブルー・シャンソンとベッツィ&クリスの「夏よ」(「夏よ、お前は」だったかな…。どちらも曲調がよく似ていました)の二曲が私のお気に入りで、よくギターを弾きながら歌っていました。
1969年4月に発売された「涙の糸」から半年後の10月に発売されたこの曲は、ブルーコメッツとしては、「青い瞳」でデビューして以来、シングル盤としては、最も長いインターバルでのリリースとなりました。作詞は、ブルコメ作品としては初めてなかにし礼が起用されています。なかにし礼は1965年12月に発売された菅原洋一の「知りたくないの」で世に出た人で、その後、「恋のハレルヤ」「天使の誘惑」「夕月」といった黛ジュンの作品などで大ヒットを連発し、60年代を代表するヒットメーカーですが、同時に、奥村チヨの「恋の奴隷」、この「海辺の石段」と同じ月に発売されたピーターの「夜と朝の間に」、いしだあゆみの「喧嘩のあとでくちづけを」「あなたならどうする」など、歌謡曲の詩に新しいスタイルを作り出した作詞家としても知られています。私の個人的な思い入れで言いますと、それぞれの時代を代表する作詞家ということでは、60年代がなかにし礼、70年代が阿久悠、80年代が松本隆というようなことでインプットされています。
そのなかにし礼がブルコメのために初めて書いた作品に、A面では「草原の輝き」以来4作品ぶりの井上忠夫が曲をつけたわけですが、何と、キーボードの小田先生が琴に挑戦、琴の弦の音をピックアップで拾うという、「日本で初めて」と言われた“電気琴”を大胆に使い、女性の声のスキャットと共にオブリガードや間奏にふんだんに取り込んだ意欲的な編曲となっております。
すでに、いわゆるGSブームは峠を越し、ヒットチャートからタイガースやテンプターズの名も消え始めようかというころでしたが、そうした中で、オリコン・チャートの18位まで食い込みました。当時、既に国会議員だった青島幸夫が司会をしていた歌謡番組(多分、TBSの「歌のグランプリ」だったと思います)で、井上忠夫が「ブームが去った後で真の評価が定まる」というような言い方をし、青島が「作曲した本人がいいものはいいと言っておりますので」とまぜっ返していたのを覚えています。
この曲のB面は「冬の嵐」(作詞・なかにし礼、作曲・鈴木邦彦)という曲で、これまでソロ・パートがある場合は、必ず、井上忠夫と三原綱木が交互に担当するというパターンでしたが(例えば、「何処へ」「さよならのあとで」「涙の糸」など)、この曲では、ソロパートはすべて井上忠夫が担当しています。
当時、中学2年生だった私の部屋には、多分、このレコードを買ったときにもらったのだと思いますが、シングル盤のジャケット写真とは違う、どこか、浜辺の階段で撮影した「海辺の石段」のプロモーション・ポスターが貼ってありました。
前作「海辺の石段」に続いて、なかにし・井上という新コンビの第2弾。前作では、小田チン(大先生はこんなニックネームでも呼ばれていたのです)の電気琴で世間やファンをあっと言わせたブルコメでありましたが、今度は、井上忠夫と三原綱木が間奏でトランペットを吹くという趣向が入りました。
その辺はともかくとして、いかにも、当時、タイトルの奇抜さでも世間を騒がせていたなかにし礼作品という詩に負けないような作曲を井上大先生も試みております。アップテンポの曲にのせて、イントロなしで、いきなり「それは、それは、キィッスでェ〜、キッスでェ、始まった」というサビのコーラスから入るという構成で、それなりのインパクトはあったように思いますが、それでも、オリコン・チャートは25位止まり。この辺が全盛期を過ぎた“流行歌手”の哀しさというところでしょうか。
それでも、当時、ちょうどブルコメがこの「それはキッスで始まった」を歌っていた頃、TBSで明治製菓がスポンサーをしていた「全国ヤング歌謡フェスティバル」という人気投票番組があり、最初は順位が低迷していたブルコメでしたが、最後はファンクラブの組織動員があったのかどうか、良く知りませんが、最終順位では確か8位に入って、私は大喜びをした記憶があります。
明治製菓は、その前々年の1968年から69年にかけても文化放送で「チョコで選ぼうGS日本一」というGSだけを対象にした人気投票番組をやっており、その時には、21位という惨敗でありました。この番組では、明治製菓のチョコレートの包紙の裏に自分の好きなグループ名を書くという仕掛けになっておりまして、当時、チョコレートと言えば、グリコのアーモンドチョコレートしか買っていなかった私も、ハイクラウンだのデラックスだのという明治製菓のチョコレートに変えて、買っていたものです。それでも、なかなか順位が伸びず、姉貴にも明治製菓のチョコレートを買わせたりもしました。それでも、子供の小遣いの範囲内のことですから、投票数も限られてしまいます。そこで、私は考えました。当時、明治製菓は、一口大のハイミルク、デラックス、ブラックの3種類が5枚くらいセットで入っていて50円くらいのヤツも販売していて、これは普通の大きさのチョコレートと同じデザインでサイズだけ小さくした包紙でしたから、その裏にせっせと「ジャッキー吉川とブルーコメッツ」と書いては、「これは、やっぱり、無効になるのかな」などと考えながらも、送り続けていたのでありま
す。番組は土居まさるの司会で、最後に上位に入ったグループを番組にゲストで呼ぶという趣向になっており、ブルーコメッツは順位とはあまり関係なく、一応、メジャーなグループということで出演し、土居まさるが冗談交じりに「21位ですよ、小田チン」とか何とか言って、メンバーも笑い飛ばしていたのを、複雑な気持ちで聞いていたのを覚えています。
ファンの気持ちとは裏腹に、すでに、大人のグループだったブルーコメッツにとっては、こんな番組の順位なんかどうでもよかったんでしょうね。
話が大きくそれましたが、「それはキッスで始まった」のB面は「あじさい色の恋」(作詞・万里村ゆき子、作曲・小田啓義)という純粋な歌謡曲で、サビでは井上忠夫のソロに女性の声のがかぶるという構成でした。
「海辺の石段」「それはキッスで始まった」に続き、なかにし・井上コンビ作品の第3弾。
歌謡曲路線とは言いながらも、「涙の糸」「海辺の石段」「それはキッスで始まった」の3曲は、いわゆる和製ポップスと呼ばれているようなカテゴリーに入れられるべき作品でありましたが、この「泣きながら恋をして」は、「さよならのあとで」「雨の赤坂」といったムードコーラス歌謡作品の系列に入るものだろうと思います。
前奏は、アコースティック・ギターのソロで始まりますが、これが、東京ロマンチカの鶴岡雅義によるレキント・ギターを彷彿とさせるようなフレーズなのであります。また、前2作品は、「海辺の石段」が電気琴、「それはキッスで始まった」がトランペットということで楽器使いという面での趣向が凝らされていたわけですが、この「泣きながら恋をして」では、サビのブレークで井上忠夫がコンガを叩くことになります。
以前にも書かせていただいたかと思いますが、ブルーコメッツはカバーものの場合でも、「マシュケナダ」や「ラ・バンバ」などのラテンものがハマってしまうバンドでした。ムードコーラス歌謡曲と言っても、和田弘とマヒナスターズなどに代表されるハワイアン系の歌謡コーラス・グループと黒沢明とロスプリモスやロス・インディオスなどのラテン系の歌謡コーラス・グループに分けられると思いますが、この「泣きながら恋をして」は、ラテン系ムード歌謡作品ということでカテゴライズされるのではないかと思うわけであります。
なかにし・井上コンビ作品第3弾ではありましたが、「海辺の石段」(18位)、「それはキッスで始まった」(25位)に比べ、「泣きながら恋をして」のオリコン・チャートは41位と低迷しました。
B面の「悲しき玩具」(作詞・なかにし礼、作曲・三原綱木)は、A面の「泣きながら恋をして」がラテン系のムードコーラス歌謡作品だったのに対し、前奏でハワイアン系のムードコーラス歌謡を思わせるスチールギターのような音が印象的です。
前々年の1968年7月にリリースされた「草原の輝き」以来、7作品ぶり、実に2年2カ月ぶりの橋本・井上ゴールデンコンビによるA面作品でありますが、「青い瞳」や「ブルーシャトー」「北国の二人」などの大ヒットで、いわゆる和製ポップスという新ジャンルを切り開いてきた二人が、この作品では、ムードコーラス歌謡どころか、さらに踏み込んで、いわゆる演歌の領域にまで挑戦しようかという歌作りの姿勢をみせ、その意味で極めて意欲的なものと言っていいのかもしれません。
この曲はもともと青江三奈の作品として企画されたものと伝えられているだけあって、「さよならのあとで」「雨の赤坂」「泣きながら恋をして」といった過去のムードコーラス系の曲にも対応してきたブルコメ・ファンをも驚かせるほどのコッテリとした演歌風なアレンジで、イントロでいきなり「アーアアー、アアアアー」という青江三奈的メロディーをクールファイブが歌っているようなコーラスから入り、間奏では、三原綱木のギターが完全に和田弘か内山田洋かというようなフレーズをキメていきます。
有線放送などを中心にそれなりにリクエストが集まるというような演歌的な売れ方はしたようですが、オリコン・チャートでは、74位止まりでした。
B面の「だから今すぐ」(橋本淳・作詞、筒美京平・作曲)も、歌謡曲というよりも演歌という趣きの強い作品であります。
私の個人的な思い出としては、全盛期のブルーコメッツがよく長岡に来ていた頃には、小学生だったため入場券が買えなかったり、家電製品などの販売プロモーションのプレミアム・ショーだったりして、ブルーコメッツのライブを見ることが出来ませんでしたが、ちょうど、この「むらさき日記」を歌っている頃に、長岡に近い柏崎という町で「ブルーコメッツ・ショー」(当時は“ショー”と言っていたのであります)があり、中学3年生だった私は、友人のK君と一緒に、既に社会人だった姉に連れていってもらう形で、永年の念願がかない、初めてライブのステージを見ることができました。
柏崎でのブルーコメッツのコンサートのプログラムなどは、また別の機会に詳しく紹介しようと思いますけれども、コンサートの後に、ブルーコメッツのメンバーがいる楽屋でファンクラブの特別例会というのが開かれ、なんと、メンバーの皆さんと歓談したり、サインをもらったりということが出来るのでありました。ブルーコメッツ・ファンクラブ長岡支部の最年少会員だった私も、この特別例会というのに出たわけですが、緊張のあまり一言も話ができませんでしたし、この時のことは殆ど何も覚えていません。ただ、メンバーが人数分の色紙にサインをしようとした時に、黒いマジックのキャップに黒いマジックが塗られているというイタズラがしてあって、サインをしようとしたメンバーの手が汚れてしまい、メンバーが口をそろえて「三原だな」といって三原綱木をせめたて、三原綱木が口から泡を飛ばして「俺じゃない、俺じゃない」と言っていた場面だけ、なぜか、よく覚えています。
当然、この時にメンバーと一緒に写真を取ったり、サイン色紙なんかももらっているはずなのですが、この国宝級の家宝ともいうべき品々がどこにいったか分からなくなってしまっておりまして、私の人生における最大の痛恨事となっております。
ちなみに、この柏崎でのブルーコメッツ・ショーを見た日というのは、三島由紀夫が自衛隊の市ヶ谷駐屯地に乱入して切腹による自害を果たすという衝撃的な事件が起きた日でありまして、早熟だったK君と私は、翌日の学校で、ブルーコメッツ・ショーの話など一切せず、三島事件の意味などを語り合ったのでありました。
再び、なかにし・井上コンビの作品で、同じ井上忠夫の曲ながら、前作の演歌調とは打って変わって、いわゆるGS的なサウンドを強調した作品です。歌詞も、「ブルーシャトー」や「マリアの泉」の頃のような、なんとなく欧風の雰囲気もただようものになっています。
個人的には、後期のシングル盤の中では最も気に入っている曲で、前期における「草原の輝き」的な位置づけにある作品という感じもしていたのでありますが、レコード・セールス的には低迷し、オリコン・チャートでは65位止まりでした。
B面の「運命だから」(なかにし礼・作詞、小田啓義・作曲)は、前作までのB面同様、歌謡曲というよりも演歌というべき雰囲気の強い作品です。
ブルーコメッツによる、いわゆる歌謡曲路線への方向転換は、昭和42年以降、若い世代のグループが沢山出てきて、それまでの若いファン層を対象にしていたのでは市場のパイも小さくなってしまうというようなレコードセールスも含めたマーケティング的観点から行われたという一面はあるのかもしれませんが、こうした演歌調の曲での井上忠夫の自信に満ちた歌い方を聞いていると、当人が五木寛之の小説「艶歌」に感銘を受けたと明言していることも踏まえ、路線転換は、何よりも作曲家あるいはアーチストとしての井上忠夫の音楽的信念に基づくものであり、それが、グループ全体の音作りや他のメンバーの曲作りにまで影響を及ぼしていった結果だったのではないかと思えてきます。
それは、また、演奏技術や歌唱力といったプロフェッショナルとしての力量が備わっていたからこそ出来たことでもあり、そうした音楽的信念や技術的な裏付けもないまま、ブルーコメッツの後を追って路線転換をした他のGSが次々と脱落していったのも、理由のないことではなかったのだろうと考えてしまうのは、やはり、狂信的ファンの贔屓目に過ぎないのでしょうか。
「雨の赤坂」以来8作品ぶり、1年8カ月ぶりの橋本・三原コンビの作品。というか、「雨の赤坂」に続く2度目の橋本・三原コンビの作品であります。前3作品は、ムード歌謡の「泣きながら恋をして」、ド演歌の「むらさき日記」、GS全盛期風「雨の賛美歌」というラインナップでありましたが、この「津軽の海」は、当時のレコード界の大きなムーブメントであったフォークソング風の作りとなっています。
既に、この年の1月にはザ・タイガースが解散、ブルコメと共にGSの草分けだったザ・スパイダースも同じ1月の日劇ウエスタン・カーニバルで活動を停止するなど、いわゆるGSブームは完全に過去のものとなっていました。そうした中で、GSとして唯一、第一線に踏みとどまって活躍していたブルーコメッツとしても、その路線にかなりの迷いが出ていた事は想像に難くありません。
「雨の賛美歌」のところでも書いた通り、ブルコメの音楽的な意味での事実上のリーダーであった井上忠夫の演歌志向は既に明確なものとなっており、「津軽の海」のB面の「鏡の中で見た恋は」(作詞・橋本淳、作曲・小田啓義)という作品も、歌謡曲というよりは、演歌の趣きの強い曲となっています。が、やはり、プロのレコード歌手としてシングル盤をリリースする以上、売れるための工夫をしなければいけないわけで、その工夫のひとつがフォーク風の作品という形になって現れたわけです。しかし、既にアーティストととしてのパワーも衰えていたブルコメにとって、楽曲自体が相当なパワーを持つものでなければ、売れようはずもなく、単にレコード界のムーブメントに迎合しただけに過ぎない作品に対する評価は極めて厳しいもので、この曲はオリコン・チャートのランク100位以内にも入ることはなく、これ以降、ブルコメの名前がチャートインすることはありませんでした。
ちなみに、この「津軽の海」が発売された71年4月のオリコン・チャートを見てみると、19日付のベスト10には、次のような曲が登場しています。
1位=ナオミの夢(ヘドバとダビデ)、2位=知床旅情(加藤登紀子)、3位=花嫁(はしだのりひことクライマックス)、4位=空に太陽がある限り(にしきのあきら)、5位=雨がやんだら(朝丘雪路)、6位=傷だらけの人生(鶴田浩二)、7位=ローズ・ガーデン(リン・アンダーソン)、8位=さいはて慕情(渚ゆう子)、9位=この胸のときめきを(エルビス・プレスリー)、10位=ノックは3回(ドーン)
外国曲が4曲も入り、しかも、フォークあり、演歌あり、和製ポップスあり、歌謡曲ありということで、現在のチャートから比べると、想像も出来ないほどのバリエーションの豊富さであります。しかし、そのバリエーションの一つとして、GSが食い込むだけの余地はすでに存在していなかったということでしょうか。
「涙の糸」以来、8作品ぶり、2年4カ月ぶりの橋本・筒美コンビの作品。ブルコメにとっては、「さよならのあとで」「涙の糸」に続く橋本・筒美コンビの第3弾ということになります。
この曲は、歌謡曲作りの天才職人である筒美京平が実験的なノリで作ったのではないかと思われるほど、複雑で意欲的な作品であり、しかも、完全に管弦をメインにしたアレンジになっており、高い演奏技術を持っていたブルコメとはいえ、ステージでは一体、どんな音作りをしていたのだろうと思わざるをえません。完全にレコード勝負の曲で、ライブでは一切演奏しなかったのか、あるいは、この時期には、もうブルコメはライブ活動をやっていなかったのでしょうか。
B面は「そのとき雲はながれてた」(作詞・橋本淳、作曲・筒美京平)という、いわゆる歌謡曲で、A面の「生きるよろこびを」も極めて意欲的な作品ではありましたが、レコードセールス的には、こちらをA面にした方が面白かったのではないかと思えるような作品であります。
70年代に入ってからのブルコメの曲は、いわゆる歌謡曲路線ということで一括されて評価されてしまいがちですが、確かに、GSとしてのグルーヴ感覚的な意味合いでは評価の対象から外れるものではあるかもしれないものの、歌謡曲の様々な実験的バリエーションとして個々の作品を聞いてみると、歌謡曲としての完成度は十分に高いものであり、再評価されていい曲も少なくないのではないかと思えてきます。
ご存知、といっても若い世代の方は知らないかもしれませんが、日本で初めて開かれた冬季五輪大会である札幌オリンピックの公式テーマソングであります。レコード・ジャケットには、「札幌オリンピック組織委員会選定/札幌オリンピックの歌」と書いてあります。
この歌は「ある日突然」や「空よ」「誰もいない海」などのヒット曲で知られるフォーク・デュオ、トワ・エ・モアのレパートリーとして、より有名な曲です。僕のようにファン・クラブに入るほどのブルコメ好きは当然ブルーコメッツの曲として認識しているわけですが、普通の人は、この歌をブルーコメッツも歌っていたということ自体を知らないのが普通でしょう。8月にオリジナルの「生きる喜びを」が発売されており、その翌月にリリースされていることらも分かるように、この曲は、オリジナルの路線とは関係ないアドホックな曲であり、前期における「何処へ」と同じような位置づけとなる作品と言えます。
ちなみに、こじつけめいたことを書きますと、ブルーコメッツとの競作という形でこの歌をヒットさせたトワ・エ・モアの山室英美子さんは、翌年の10月に解散した後に再結成されたジャッキー吉川とブルーコメッツでベースを弾いていた白鳥健二さんと結婚し、今も白鳥英美子の名前で活躍されていらっしゃいますから、トワ・エ・モアとブルコメは、結構、縁のあるグループ同士だったと言えるかもしれません。さらに、どうでもいいことですが、ブルーコメッツのベーシストは高橋健二から白鳥健二に代わりましたんで、ブルコメのベースは2代続けて「健ちゃん」が弾いていたことになります。やたらに、ちなみますが、ちなみに、トワ・エ・モアが歌った「虹と雪のバラード」は翌72年2月14日付けのオリコン・チャートで9位にランクされるほどのヒット曲となったのでありました。この曲を作曲した村井邦彦は、ザ・タイガースの「廃墟の鳩」やトワ・エ・モアのデビュー曲である「ある日突然」など、まだ、ニューミュージックなどというジャンルがなかった時代に、ニューミュージックを先取りするようなオシャレな曲を沢山書いていた人で、そういう意味でも、トワ・エ・モアの方がしっ
くりくる曲ではありました。
ブルーコメッツの曲としての「虹と雪のバラード」という作品を考えてみますと、編曲にしても演奏自体にしても、ブルコメでなければいけない必然性が感じられず、どういう経緯でこの曲が製作されたのかは分かりませんが、結果的には、井上忠夫と三原綱木のデュオ作品といった印象だけが残ります。BC解散後、三原綱木は夫人の田代みどりと組んで「つなき&みどり」のグループ名で夫婦デュオとしてデビューして、「愛の挽歌」をヒットさせ、井上忠夫も「水中花」というタイトルのソロ・アルバムや同名のシングル盤をヒットさせるなどしていることを考えると、この辺りか、もっと早い時点で、それぞれヴォーカル志向を強めていたのかなという気さえさせるのが、この「虹と雪のバラード」であります。
それと、この曲の作詞は、恐らく、地元の素人の方が公募か何かで書かれたものと思われますが、いわゆる素人作品ということでは、ブルーコメッツはNHKのアマチュア作品コンテスト番組だった「あなたのメロディー」に、準レギュラーではないかと思われるほど、常連のように出演していました。それは、一つには、ブルコメが、GSの中では珍しく、メンバー全員が初見の譜面をきちんと演奏できる数少ないバンドだったということも理由となっていましたが、要するに、「虹と雪のバラード」なども含め、ブルコメ自体が極めて職業意識の強い、レコード会社の営業政策に仕事として応じることのできる真のプロ・ミュージシャンだったということの一つの側面でもあります。NHKの関係でいうと、多分、この頃だったと思いますが、小田啓義の作った「ブタが逃げた」という曲が「みんなのうた」で隠れたヒット曲として人気を集めていました。
長くなってしまいましたが、この曲のB面には、シングル盤としては初めて、ベースを担当していた高橋健二の作った「愛の子守歌」(作詞・橋本淳)という曲が入っています。これも、歌謡曲風ではありますが、全盛期のB面に入っていた一連の小田作品を彷彿とさせるメルヘンチックな曲で、井上忠夫が丁寧に歌い込み、好印象の作品に仕上がっておりました。
「雨の赤坂」「津軽の海」に続き、3曲目の橋本・三原コンビによる作品です。
ピアノだけのイントロから三原のソロが入り、2コーラス目からドラムやベースが入ってくるという作りは、ビートルズの晩年の名曲「レット・イット・ビー」を連想させます。あるいは、曲想として、「レット・イット・ビー」が意識されていた作品なのかもしれません。
ストリングスもバックに入るぶ厚いサウンドの曲作りで、間奏では、メロディをなぞるだけではありますが、ひさしぶりに三原のギターソロも入っています。
ソロ・パートは全面的に三原が担当し、サビの部分での、オーバードライブのようなヴォーカル・エフェクトが印象的です。
B面の「思い出の彼方に」(作詞・橋本淳、作曲・井上忠夫)は、全盛期のオリジナルLPに入っていた佳曲に相当するような雰囲気を持つ作品で、バックコーラスというかオブリガードのコーラスや、生ギターのバッキングが70年代のアメリカン・ポップス風なテイストのアレンジになっています。
「生きる喜びを」と同様に、この「希望に満ちた二人のために」もA面の作品としては、実験的な色彩も感じられる意欲的なものではありますが、今、改めて聞いてみると、B面の「思い出の彼方に」をA面扱いにした方が、レコードセールス的には面白い結果になっていたかもしれないと思わせたりもします。
1966年3月の「青い瞳(英語盤)」での実質的なデビュー以来、約6年半にわたってグループサウンズを代表するグループとして活躍してきたブルーコメッツ最後のシングル盤となったのが、この「雨の朝の少女」でありました。
私の記憶では、確か、この年の10月くらいまでがコロンビアとの契約期間となっていたはずなのが、すでに解散が既定方針として固まり、すでに、ソロ活動の準備に入っていたメンバーなどもいたため、最後のシングルの発売が8月となってしまったというような経緯だったと思います。ファンとしては、最後のシングル盤は、やはり、橋本・井上コンビで決めてほしかったわけですが、どういう事情だったのか、なかにし礼の作詞、鈴木邦彦の作曲による作品となりました。とはいえ、なかにし礼はテンプターズの大ヒット曲である「エメラルドの伝説」をはじめ、スパイダーズ、タイガース、ゴールデン・カップスなど多くのGSに作品を提供、鈴木邦彦もゴールデン・カップスの代表曲「長い髪の少女」をはじめ、ジャガーズやカーナビーツ、スウィング・ウエスト、シャープホークスなどの曲を手がけており、両者ともGSとは極めて関係の深い作家でした。そういう意味では、あるいは、単にブルーコメッツというグループのラスト・シングルというだけでなく、GSのグランド・フィナーレを飾る曲というような意味合いもこめられた企画だったのかもしれません。
何れにしても、ブルコメの、そして、GSのレクイエムとなったこの曲は、極めてシンプルな8ビートの曲で、歌詞も、初期のGS作品を思わせるような抽象的なイメージの詩となっています。
今、改めて、この曲を聞き直してみると、エフェクターのかかったギターの音が小柳ルミ子の「京のにわか雨」と同じ音だったので、この頃のオリコン・チャートのベスト10には、どんな歌手の名前が並んでいたのかなと思い、調べてみましたら、1972年8月7日付けのチャートは以下の通りでした。
1位=旅の宿/よしだたくろう、2位=さよならをするために/ビリー・バンバン、3位=ゴッドファザー愛のテーマ/アンディ・ウィリアムス、4位=ひとりじゃないの/天地真理、5位=あなただけでいい/沢田研二、6位=芽ばえ/麻丘めぐみ、7位=どうにも止まらない=山本リンダ、8位=ひまわりの小径/チェリッシュ、9位=鉄橋をわたると涙がはじまる/石橋正次、10位=純潔/南沙織
ということで、1位はフォーク時代を象徴するかのようによしだたくろうで、沢田研二は既にソロとして2曲目の実質的なデビュー曲となった「あなただけでいい」によりチャートインを果たしています。そして、小柳ルミ子、天地真理、南沙織の三人娘が全盛期を迎え、麻丘めぐみもデビュー曲でベストテンに食い込むというような時代に入っていました。この辺りを見ても、ブルコメというグループは、GSとしては、異常に息の長いグループだったと、改めて思うわけであります。
ちなみに、ギターが同じ音を出していた小柳ルミ子の「京のにわか雨」(作詞・なかにし礼、作曲・平尾昌晃)の方は、「雨の朝の少女」と同じ72年8月の発売で、こちらは、9月11日付のチャートから連続5週で1位をキープするという大ヒットでありました。
「雨の朝の少女」のB面は「哀愁のパリ」(作詞・なかにし礼、作曲・鈴木邦彦)という曲でありますが、こちらは、井上忠夫が切々と歌い上げるポピュラー色の強い歌謡曲で、曲想や曲調は布施明が歌っていた同時期の「冬の停車場」や後年の「カルチェラタンの雪」を思わせるものがあり、布施明が歌っていたら、結構、売れていたのではないかとも思わせるような曲であります。
布施明といえば、実は、井上忠夫は布施明のモノマネが非常にうまく、かつて、NET(現在のテレビ朝日)系で放送していた「象印スターものまね大合戦」で「霧の摩周湖」を歌い、チャンピオン大会でもグランド・チャンピオンになったことがありました。
ということで、随分と長くなってしまいましたが、GSの先駈けでありながら、最後のGSとして自らその幕引きへのタイミングを測りつつ、70年代に入ってからも第一線での活動を続けていたブルーコメッツは、この曲の発売から2カ月後の1972年10月に解散、いわゆるGSとしての7年近くに及ぶ活動に終止符を打ち、60年代後半に日本音楽界を席巻したGS時代も名実共に幕を閉じたのであります。
〈歌入りシングル盤ディスコグラフィーその1〉はこちら
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