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グループサウンズ

ザ・タイガース シングル盤デイスコ・グラフィー



〈その1〉

僕のマリー…デビュー曲は、甘いメロディーにマイナーコードを添える典型的なGSサウンドでありました。

シーサイドバウンド…デビュー2曲目は、軽快なニューステップ「バウンド」をベースにした夏の季節感溢れる軽快な作品

モナリザの微笑…3曲目のシングルで、“中世の騎士”風イメージの確立にも成功!!

君だけに愛を…発売前の予約だけで20万枚を受注。この曲でブル・スパを抜き去りGS人気の頂点に


〈その2〉

銀河のロマンス/花の首飾り …「僕のマリー」から5曲目となるシングル盤は、両A面的なレコードで、結果的に、「花の首飾り」が大ヒット。タイガースにとって初めてのオリコン・チャート1位曲は、GSにとっても、初のオリコン・チャート1位曲でありました。

シー・シー・シー … シングル盤A面では唯一の加瀬邦彦作品。シンプルで明快なロックンロール・ナンバーは、「花の首飾り」に続き、オリコン・チャート1位曲に。


〈番外編〉

PART 1 明治製菓のCM〜その1

       明治製菓のCM〜その2

       明治製菓のCM〜その3



僕のマリー(橋本淳・作詞、すぎやまこういち・作曲)
1967(昭和42)年2月発売

 ザ・タイガースのレコード・デビューは1967(昭和42)年2月5日に発売された「僕のマリー」でありました。
 もともと京都のアマチュア・バンドだった“サリーとプレイボーイズ”にレコードデビュー前年の1月、沢田研二がヴォーカルとして加わり、同月、大阪のジャズ喫茶「ナンバ一番」のオーディションに合格。関西屈指の人気グループ“ファニーズ”として活躍していたところを、「ナンバ一番」で共演したブルージーンズの内田裕也に見出されたという話は、あまりにも有名です。
 この“ファニーズ”に目をつけたのが、東京の渡辺プロダクションで、後にタイガースのマネジャーとなる中井國二氏が大阪へ内田裕也と共にファニーズの演奏を確認に行ったのは1966(昭和41)年11月のことで、スカウトからデビューまで、僅か3カ月という短さでした。
 ノンフィクション・ライターの軍司貞則氏は、その著『ナベプロ帝国の興亡』(文芸春秋)の中で、中井氏の大阪出張の時の様子を次のように記しています。
 「『ナンバ一番』でライブを行っていたファニーズという名のバンドは、中井の眼に若さにあふれ新鮮に映った。演奏はとりたててうまくないのだが勢いがあった。(中略)舞台ではローリングストーンズの『サティスファクション』などを若さにまかせてがなりたてていた」
 早速、上京した彼らは、フジテレビのプロデューサーで、後にデビュー曲をはじめ一連のナンバーを作曲することになる椙山皓一によって“ザ・タイガース”と命名され、新宿「ACB」、池袋「ドラム」といったジャズ喫茶で1日10回ものステージをこなすという過激なシゴキを受けることになります。1ステージ40分、つまり、1日400分、6時間以上も人前での演奏するというのは、プロにとっても限界をはるかに超えた状態かと思われますが、こうした過酷ともいえるスケジュールをこなしながら、椙山が担当していたナベプロ制作の音楽番組「ザ・ヒットパレード」にも準レギュラーとして出演。翌1967(昭和42)年1月、レコード・デビューを前に、日劇ウエスタンカーニバルに登場した頃には、既に、東京でも人気バンドに名を連ねるまでになっていたといいます。
 ナベプロは、デビュー曲について、(1)より多くのファンを獲得するためバラード調にする、(2)一般受けするようなメロディにする、(3)タイガースの持ち味と逆のものを盛り込む、という3つを基本戦略とし、すぎやまこういちによる曲作りも、この線に沿ったものになりました。
 そして、レコードは、ナベプロの戦略通り、30万枚を超えるスマッシュ・ヒットとなり、タイガースは、その第一歩をしっかりと踏み出したのです。


シーサイド・バウンド(橋本淳・作詞、すぎやまこういち・作曲)
1967(昭和42)年5月5日発売

 デビュー曲「僕のマリー」から3カ月後にリリースされた第2弾。当時のニューステップだったというバウンドを取り入れた曲で、ジャケット写真は、ドラムのピーを除いて、他のメンバーが本当にシーサイドでバウンドしているという趣向になっています。
 このレコードが発売された当日の5月5日から12日までは、「日劇ウエスタン・カーニバル」が開催され、タイガースも、ブルーコメッツやスパイダース、ワイルドワンズなどと共に出演。レコードデビュー前のこの年の1月に続き2度目のウエスタンカーニバル出場で、ステージでの人気は、既に、ブルコメやスパイダースを凌ぐほどだったのではないかと想像されます。
 2曲目のシーサイド・バウンドはデビュー曲を上回るヒットとなり、これで、タイガースの人気も完全に定着、ブルコメ、スパイダースに続く、若手人気グループとして急速に勢いを広げていくことになります。
 『月刊平凡』の新聞広告に初めて「ザ・タイガース」の名前が登場したのも、「シーサイドバウンド」が発売された頃のことでした。当時は、まだ、マスコミをはじめ世間でも、“グループサウンズ(GS)”という呼称は一般的ではなく、『月刊平凡』(1967年6月号)の新聞広告では、「フォークグループはハンサムぞろい!!」という特集企画の中で、ザ・スパイダース、ザ・ワイルドワンズ、マグ・マックス・ファイブ、寺内タケシとバニーズ、ザ・サベージなどとともに、ザ・タイガースの名前も見えています。
 この頃は、取り上げる媒体によっても、“GS”に対する呼称はまちまちだったようで、『月刊平凡』の場合、1967年8月号の新聞広告に「夏のグループサウンド」という特集企画で、初めて“GS”につながるようなネーミングが登場していますが、それでも、まだ、後に定着することになる「グループサウンズ」ではなく、「グループサウンド」という今ひとつ違和感の残る表現となっています。
 この1967年5月という時期は、ブルコメが「ブルーシャトー」(1967年3月発売)、スパイダースが「太陽の翼」(1967年3月発売)などをヒットさせていた辺りで、「シーサイド・バウンド」と同じ5月5日には、ワイルドワンズの「夕陽と共に」もリリースされています。さらに、翌6月には、ブルコメの「マリアの泉」、カーナビーツの「好きさ好きさ好きさ」、ジャガーズの「君に会いたい」、ゴールデンカップスの「いとしのジザベル」が発売されるというような頃であり、GS好きの若い人達の間では、もう十分にGSブームというような状況になってきていたわけでありますが、いわゆる“グループサウンズ”という呼称が定着するのは、この年の秋くらいからだったのでありました。
 さて、「シーサイド・バウンド」に話を戻しますと、この曲では、ジュリーがパーカッションも担当していて、1981年に日劇が取り壊される時に行われた「サヨナラ日劇ウエスタンカーニバル」の時も、スーツ姿のジュリーがスティックを握りながら、この「シーサイド・バウンド」歌っていたのを覚えています。
 B面も、橋本淳・すぎやまこういちのコンビによる「星のプリンス」という曲で、タイトル的にはサンテグジュペリの「星の王子様」そのものであますが、曲の方も、御伽噺風なメルヘンチック・ポップスといった趣でありました。ちなみに、翌1968年の春に公開されたタイガース初の主演映画「世界はボクらを待っている」は、この曲をモチーフにしたようなストーリー仕立てでありましたが、この映画では、狂言回し的な“星の王子様”として、当時、“星の王子様”をキャッチフレーズにしていた三遊亭円楽師匠も本当に出演していて驚いたたものでした。
 ところで、前回、といっても、2月7日のことですので、もう5カ月以上も前になりますが、その時にデータをアップした「僕のマリー」のところで、B面の説明をさせていただくのを忘れていましたので、ここで、改めて、説明させていただきます。
 デビュー曲「僕のマリー」のB面は、「こっちを向いて」という曲で、これも、橋本淳・すぎやまこういちコンビの作品ですが、ソロは、なんと、あの、ベースを弾いていた岸部おさみでありまして、タイガースのシングル盤オリジナル曲としては、空前絶後、唯一無二のサリーのソロが聞ける作品でありまして、50年代アメリカン・ポップス風のアレンジが印象的です。



モナリザの微笑(橋本淳・作詞、すぎやまこういち・作曲)
1967(昭和42)年8月25日発売

 「シーサイド・バウンド」から3カ月ちょっと、まだ、「シーサイド・バウンド」のヒット曲としてのパワーに十分な余力のあると間に発売されたのが、デビューから3枚目となるシングル「モナリザの微笑」でありました。
 レコードジャケットの写真にもある通り、ナベプロによるタイガースの戦略コンセプトの一つに据えられていた“中世の騎士”的イメージをそのまま表現する形にまでなっています。
 曲のタイトル、アレンジ、詞の内容なども相俟って、このタイガースの“ヨーロッパ中世風”イメージというのは、この「モナリザの微笑」辺りから、かなり、明確なグループ・カラーとして業界やファンの間に定着させることが出来てきていたような気がします。
 私がブルコメ・ファンであったことは、そこらじゅうで書かせていただいているわけですが、ブルコメはもちろん、GS全体に対する関心が非常に強くなった時期というのは、ブルコメでいうと「マリアの泉」とか「北国の二人」の辺りからで、タイガースの場合は、この「モナリザの微笑」辺りから、リアル・タイムで、その存在を強く意識し始めたように記憶しておりまして、その意味で、この「モナリザの微笑」という曲は、私にとってのタイガース・デビュー曲といったところであります。

 雨が シトシト 日曜日 僕は 一人で 君の帰りを 待っていた
 壁に 飾った モナリザも 何故か 今夜は 素敵な笑顔 忘れてる
 どんなに 遠く 離れていても 僕は あの娘の 心が欲しい
 涙 ポロポロ 日曜日 僕は いつでも あの娘の 笑顔 待っている

 実家で私が使っていた四畳半の部屋には、幼稚園の時にもらった何枚かの宗教画を入れた額縁があり、オヤジが何箇月か毎にその絵を入れ替えていたのですが、何故か、その中に、ダ・ビンチの「モナ・リザ」も入っていて、私の記憶には、その実家の私の部屋の額縁に入っていた「モナ・リザ」の絵とこの曲のイメージがダブってインプットされています。
 また、中学1年の時に買ったギターで最初に弾けるようになったタイガースの曲が「モナリザの微笑」だったということなどもあり、この「モナリザの微笑」という曲は、数あるタイガースのヒット曲の中でも、個人的には、最も、色々と想い出というか思い入れの強い曲となっています。
 タイガースのイメージということでも、「モナリザの微笑」のシングル盤レコードジャケットの写真とは異なりますけれども、ちょうど、この「モナリザの微笑」を歌っている頃だったと思いますが、白いスラックスの上にミリタリールック風な黒いジャケットを着て、銀のリングの首飾りを付けるというコスチュームだった時期があり、その頃のイメージが、私にとっては、そのまま、タイガースの原風景というような感じで、強く印象に残り、記憶の中にインプットされています。
 「チョッコレート、チョッコレート、チョコレートはメ、イ、ジ」という明治チョコレートのCMソングを歌うタイガースのテレビ・コマーシャルも、ちょうど、この「モナリザの微笑」の頃に放映され、そのコスチュームも、まさしく、私の中にインプットされているタイガースの原風景と同じものだったと記憶しています。   
 さらに、この曲では、キーボードがいなかったタイガースの楽器編成上、音に広がりをつける工夫としてか、ハーモニカにピックアップをつけた「電気ハーモニカ」なる新兵器を採用。リズム・ギターを担当していたタローが物悲しいメロディーをハーモニカで奏でていました。

君だけに愛を(橋本淳・作詞、すぎやまこういち・作曲)
1967(昭和42)年12月25日発売

 「モナリザの微笑」からちょうど4カ月後の1967(昭和42)年12月25日、つまり、クリスマスの日に発売されたのが、タイガースをリアルタイムで知るものにとっては、タイガースの代表曲の一つとして認識されている「君だけに愛を」でありました。
 ジュリーの指差しポーズが一世を風靡したこの曲は、私にとっても、リアルタイムで買った唯一のタイガースのシングル盤であります。私の記憶によりますと、この「君だけに愛を」は、確か、発売前の時点で、予約枚数が20万枚というような規模に達していたはずで、この1967(昭和42)年の12月というのは、実は、このレコードが発売される3週間前の12月5日に、ジャッキー吉川とブルーコメッツの「ブルーシャトウ」の第9回日本レコード大賞の大賞受賞が決定していたわけでありますが、既に、いわゆるGSとしては、タイガースがブルコメ、スパイダースを抜き去り、最大のパワーを発揮し始めていた時期でもあるわけです。
 極めて個人的な思い出で言いますと、私は、この「君だけに愛を」のレコードを買って家に帰り、一番最初にレコードプレーヤーにかける際、指を滑らせて針のついたピックアップの部分をレコード盤の上に落してしまい、聞く前に、いきなり傷をつけてしまった悲しい記憶が残っています。
 この曲の冒頭部分は、ベースだけをバックに、「オー、プリ〜ズ、オー、プリ〜ズ、僕のハートを〜、君にあげた〜い」というジュリーの語るようなソロから静かに入り、トッポのリードギターによるビブラート・フレーズとピーのドラムが続いた後、突然、「君だけぇにぃ〜、君だけぇにぃ〜」とカッコよく曲に入るわけですが、私のレコードの場合、この曲にとっては命とも言うべき最も肝心な冒頭部分だけに傷がついてしまい、「オー、プリーズ」の直後から、「シャーッ」という雑音が入り始め、「君にあげた〜い」の辺りで、やっと、この「シャーッ」という雑音が消えたかと思うと、今度は、リードギターのビブラート・フレーズの部分で、レコードプレーヤーの回転に合わせ、レコードが一周するごとに「プツッ、プツッ」という音が、ピーのドラムの音とは別のリズムを刻むことになってしまいました。
 そんなわけで、私の持っているシングル盤は「君だけに愛を/スペシャル・アレンジ・バージョン」ともいうべきプレミアム盤として、その筋では、大変な値段がついたり…するわけはないのでありました。
 それから、以前にも、書かせていただきましたが、この曲の発売から3カ月後に、私は、新潟県長岡市立川崎小学校を卒業するわけですが、その卒業式の後の謝恩会で、6年2組の私の仲間達はGSのモノマネをすることになり、私のグループはブルーコメッツの「ブルーシャトー」を、私の親友だったK君のグループはタイガースの「君だけに愛を」を、それぞれ選曲し、謝恩会の前に、6年2組の担任だったH先生が、歌詞内容の事前検閲のため、私が持参した「君だけに愛を/スペシャル・アレンジ・バージョン」を音楽室のレコードプレーヤーで眉間にシワを寄せながら難しそうな顔をして聞いていらっしゃったのが忘れられません。
 ちなみに、謝恩会の当日、私は、竹の杖に銀紙を巻いてフルートのようにしたものを手に持ち、足を震わせながら(緊張のためではなく、リズムを取る井上忠夫の仕種です)、ブルコメのモノマネをしたのでありました。ブルコメもタイガースも5人ですから、合わせて10人分しか枠がないため、私達は、このモノマネを、当時、人気番組だった「象印スターものまね大合戦」風な仕掛けで見てもらうことにし、ブルコメとタイガースの枠から外れたクラスメートは、その審査員役で、ステージの上に用意された折り畳み式の長机と折畳式の椅子に、それらしく座っていたのでありました。こういう風に書くと、ガキ大将だった私が、一番目立つ役を取ってしまったように思われるかもしれませんが、基本的に、GSのモノマネをしたいなどと積極的に思っていたクラスメートは少なく、実は、私とK君以外は、皆、審査員役をやりたがっていたわけで、三原綱木も加橋かつみも、ベニヤ板で作ったエレキギターのモックアップを仕方なさそうに弾く真似をしていたのが実態であり、私とK君は、ほとんど嘲笑の対象となったにすぎませんでした。
 タイガースのディスコグラフィーとは関係のない、私の個人的な思い出話ばかり書かせていただいてもしょうがありませんので、本編のお話に戻らせていただきます。
 さきほども書かせていただいた通り、「君だけに愛を」はタイガースの全盛期のそのまた絶頂期に発売されたという意味合いや、ジュリーの指差しポーズが一世を風靡したという意味合いなども含め、間違いなく、前期タイガースの代表曲というか、GS人気を一手に引き受ける形となったタイガースを象徴する曲であることは、当時をリアルタイムで知る方には、異論のないところではないかと思います。
 デビュー前からタイガースを預かり、名付け親でもあり、プロデューサーでもあり、初期のオリジナル曲のほとんどを手がけた作曲家でもある、すぎやまこういち氏は、デビュー曲からのシングル盤4枚について、次のように説明されています。
 「僕はシングル盤の一作一作を、縦に並べた時にひとつの組曲になるような形を考えたわけです。ですから、『僕のマリー』がクラシックのテンポでいうとモデラート第一楽章、次の第二楽章はアレグロにしようということで、『シーサイド・バウンド』を作り、それから、その次はアンダンテの『モナリザの微笑』。四楽章目は非常に速いアレグロビバーチェで、非常に勢いのいい曲にしようということで、『君だけに愛を』ですね」(『サンデー毎日』[1995年1月8・15日号]/「戦後50年ライバル物語・第7回・ブルーコメッツvsタイガース」)
 ということで、すぎやまこういち氏の狙い通り、この曲によってタイガースの人気は勢いをさらに増していく形となったわけでありました。

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