「月刊平凡」1967(昭和42)年5月号&6月号
1967(昭和42)年5月号
昭和42年5月号の表紙は、舟木一夫と山本リンダであります。山本リンダは前年の昭和41年11月に「こまっちゃうナ」がリリースされ、当時としてはセンセーショナルなデビュー曲でいきなり大ヒットを飛ばし、その日本人離れした彫りの深い顔立ちとともに、歌謡界にあって特異な地位を占めるにいたったのでした。舟木一夫は、この昭和42年には「絶唱」をはじめ、数々のヒット曲で、いわゆる青春歌謡と呼ばれれるジャンルにとどまらず、歌謡曲史的に見てもエポックメーキングな活躍をしており、年末には、レコード大賞の有力候補と目されるなど、舟木一夫自身にとっても、間違いなく全盛期の年だったのだろうと思うわけであります。
ということで、新聞広告の方に目を転じますと、こちらは、橋・舟木に遅れて登場し、残る御三家のもう一つの椅子をめぐり激しく争うことになった西郷輝彦と三田明がクローズアップされる形になっています。
ここで、改めて、西郷輝彦と三田明の芸能史的位置づけといったような辺りに思いをいたしてみますと、いうまでもなく、西郷輝彦は、結果的には、橋・舟木と並び称される御三家の一人として、長く人々の記憶に刻まれることになったわけでありますが、三田明の方は、昭和40年代の前半に御三家に迫る人気を得ながら、その後の歌手あるいは俳優としての活躍ぶりでは、御三家という看板を生かしながら、しぶとく第一線に踏みとどまり、息の長い芸能生活を続けている橋・舟木・西郷と比べると、一歩も二歩も遅れをとってしまったという観はぬぐいきれません。
二人のレコード・デビューは、三田明の「美しい十代」(宮川哲夫・作詞、吉田正・作曲)が昭和38年12月、西郷輝彦の「君だけを」(水島哲・作詞、北原じゅん・作曲)が昭和39年の3月となっておりまして、三田明の方が3カ月も早かったわけであります。当時のレコード発売のサイクルを考えると、三田明の方が一歩も二歩も先を行っていたはずですが、一応、8歳ながら、リアルタイムでこの頃の歌を聞いていた私の記憶では、西郷輝彦の存在の方が先にインプットされていたような気がします。ちなみに、「美しい十代」も「君だけを」も当時の私のレパートリーに入っていましたし、「君だけを」の方は、町内の集会所で開かれた子ども会で替え歌で歌った記憶もあります。その後の曲についても、三田明の「若い港」や「若い翼」「恋人ジュリー」「夕子の涙」「カリブの花」など、西郷輝彦の「十七才のこの胸に」や「チャペルに続く白い道」「星のフラメンコ」「星娘」「初恋によろしく」など、着実にレパートリーに加えていきました。個人的にはどちらかというと三田明の歌の方をよく歌っていたような気がしますが、それでも、高校で戦前の懐メロに凝りまくり、早稲田では歌謡曲研
究会の創設に関わり、演歌からアイドル系まで広い範囲をカバーした私の長い歌謡曲経験の中では、西郷輝彦の方がはるかに重い存在感を示しているのであります。これはひとえに、西郷輝彦が御三家というワンセットで私の記憶の中にインプットされているためかもしれません。なぜ、御三家が橋・舟木・西郷という形になったのかについては、それ自体が大きなテーマとなりそうですので、別の機会に詳しく分析を試みてみたいと思いますが、いま現在の私の知識と独断に基づく一つの理由として考えられるのは、レコード会社の問題であります。
昭和39年初めの歌謡界の状況を考えると、橋は「潮来笠」のデビューで大ヒットを記録した後、着実にヒットを重ね、昭和37年には吉永小百合とデュエットで歌った「いつでも夢を」でレコード大賞を受賞するなど、この時点で既にビクターの看板歌手の一人として確固たる地位を築き上げておりました。舟木も前年の6月に発売されたデビュー曲「高校三年生」が100万枚を超える空前の大ヒットとなり、レコード大賞新人賞を受賞、いわゆる青春歌謡の旗手として飛ぶ鳥落とす勢いであり、コロンビアのトップスターに躍り出ていました。そこに出てきた三田と西郷はというと、三田は橋と同じビクターであり、西郷は設立されたばかりのクラウンということで、恐らく、クラウン側の強い意向として、西郷を橋・舟木クラスのドル箱に仕立て上げたいという思惑があり、そのことも、橋・舟木・西郷の三人をして御三家と呼ばるという方向に働いたのではないかと考えるのであります。
1967(昭和42)年6月号
昭和42年6月号の表紙は渡哲也と内藤洋子ではないかと思われます。この号も、表紙と新聞広告の写真使いが連動しておらず、新聞広告の方は、舟木一夫と内藤洋子がクローズアップされています。表紙の方は、渡哲也は間違いないと思いますが、女性タレントの方が、内藤洋子のようでもありますし、内藤洋子にしては額が狭すぎるような気もしますし、よく分かりません。
さて、早々と新聞広告に目を転じてみますと、ようやく、後にグループサウンズ(GS)と呼ばれることになるスパイダースやワイルドワンズ、タイガースなどのグループの名前が見えています。以前にも書かせていただきましたが、すでに、GSの草分けであったスパイダースやジャッキー吉川とブルーコメッツは前年の昭和41年春の段階で既にデビューを果たしており、ブルコメは「青い瞳(日本語版)」の大ヒットで紅白歌合戦にも出場し、この「月刊平凡」6月号が発売された頃には、巷では「ブルーシャトー」が空前の大ヒットとなっていたはずでありますが、そのブルコメの名前は、この新聞広告では、どこにも見当たりません。
この年の秋辺りからGS大好き少年となり、ブルコメのファンクラブにまで入ってしまった私は、世の中全体がGS一色に染まっていたような思いでおりましたが、それは私の周辺のごく一部の雰囲気であり、芸能界なり歌謡界でGSがそれなりの地位を占めるようになったのは、もう少し後の、それも、ごくごく短い期間だったというのが、現在入手しうる様々な資料から類推される実状だったようであります。
それはともかく、この号でのGS特集企画の見出しは、新聞広告では「フォークグループはハンサムぞろい!!」ということで、“グループサウンズ”ではなく“フォークグループ”となっています。そういえば、前年の暮れの紅白歌合戦に初出場したブルーコメッツの出番になった時、白組司会の宮田輝は「フォークロックをお聞きいただきましょう」と言って「青い瞳」を紹介していました。
そのフォークグループとして紹介されているGSは、ザ・スパイダース、ザ・ワイルドワンズ、ザ・タイガース、マグ・マックス・ファイブ、寺内タケシとバニーズ、ザ・サベージの6グループです。GS大好き少年だった私ですが、この中のマグ・マックス・ファイブというグループは知りません。どなたか、ご存知の方がいらっしゃたら、ご教示いただきたいと思います。他のグループは説明するまでもないと思うのは私の一人よがりでしょうから、一応、この時点で各グループが、どんな曲を出してきていたかという辺りを説明させていただきます。
まず、ザ・スパイダースは昭和40年5月に「フリフリ」でデビュー、その後インストゥルメンタル曲も含めて昭和42年3月発売の「太陽の翼」までにシングル盤9枚をリリース、特に昭和41年9月に発売された「夕陽が泣いている」はGS初期の大ヒット曲の一つ。「夕陽が泣いている」に続いて発売された「なんとなくなんとなく」もGSスタンダード曲として知られています。
ザ・ワイルドワンズは、昭和41年11月「想い出の渚」でデビュー。これも、GSスタンダードの一つであり、湘南サウンドの代表曲となるヒットとなりました。この6月号が発売された頃には、3枚目のシングル「夕陽と共に」がリリースされていました。
ザ・タイガースは、この昭和42年1月の日劇ウエスタン・カーニバルで中央デビューを果たし、2月にデビュー・シングル「僕のマリー」をリリース。5月には2枚目のシングル「シーサイド・バウンド」が発売されました。
寺内タケシとバニーズは、昭和41年12月に「テリーのテーマ」でデビュー、この昭和42年3月に発売された4枚目のシングル「レッツ・ゴー!シェイク」が初めてヒットらしいヒットとなっていました。ちなみに、私がブルコメ以外で初めて買ったGSのシングル盤は、この年の11月に発売されたバニーズの「太陽野郎/ワールドボーイ」という両A面扱いのようなレコードでした。
ザ・サベージは、後年、「ルビーの指輪」でレコード大賞までとってしまった寺尾聡のいたグループで、昭和41年8月のデビュー曲「いつまでもいつまでも」が大ヒット。10月に出た第2弾「この手のひらに愛を」もヒットし、少なくとも、昭和41年の時点では、ブルコメ、スパイダースと並んで3大人気GSという趣きの時期もありました。
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