8(エイト)マン 
今回は、昭和30年代に『週刊少年マガジン』の看板マンガとして大ヒットし、テレビアニメの世界でも、マニア的なメカニックっぽさという意味合いで草分け的な作品として、今なお、根強いフリークが存在する「8(エイト)マン」を取り上げさせていただきます。本来であれば、前回、この「60年代のマンガ」のコーナーで取り上げさせていただいた「スーパージェッター」よりも先に取り上げさせていただきたかったのですが、手元の資料を揃える関係で、テレビの放映とは逆の順番になってしまいました。
この作品も、いつもと同じように、「60年代のマンガ」で取り上げさせていただくべきか、「60年代のテレビ」で取り上げさせていただくべきか、かなり迷ったところではありますが、やはり、「エイトマン」の場合、床屋の待合室に置いてあった『少年マガジン』や近所の貸本屋さんから借りて来た『少年マガジン』で夢中になって読んでいた気憶が、テレビ・アニメに夢中になって“のりたま”に入っていたシールを必死に集め出す以前の段階の出来事としてはっきりと残っておりますので、今回は、「60年代のマンガ」ということで取り上げさせていただくことになります。
手元の資料によりますと、「8マン」が『週刊少年マガジン』に連載されていたのは、1963(昭和38)年の20号から1966(昭和41)年の6号までで、TBS系列でテレビ・アニメとして全国放映されたのは、1968(昭和38)年11月8日から1964(昭和39)年12月31日までとなっています。ちなみに、この「エイトマン」の後番組として放映されたのが「スーパージェッター」でありました。
ですから、やはり、『少年マガジン』の連載がテレビ放映よりも先行していた形でありまして、当時、既に小学校2年生だった私は、マンガの連載を夢中で読んでいた時期が半年ほどあったということになります。

「8マン」の連載が始まった『少年マガジン』1963年5月12日号の表紙。同じ号から、当時、『マガジン』の人気野球マンガだった「黒い秘密兵器」の連載も開始されている。
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各種の資料によりますと、この作品は初めからテレビアニメとして放映されることを前提に『少年マガジン』での連載が開始されたようであります。
今年2月に発行された講談社コミックスP−KCシリーズの『8マン』の中で、原作の平井和正は「少年マガジン編集部から要請されたのは、ロボット漫画の原作である。先行した有名ロボット漫画、『鉄人28号』、『鉄腕アトム』とひと味違ったロボット漫画を書くことを要求されたのだ」と語っており、ここだけ読むと、『少年マガジン』編集部によるオリジナル企画のように受け取れますが、1992年2月に徳間ジャパンコミュニケーションズから発売されたCD『エイトマン完全復刻盤ドラマ編』の解説書には、「『エイトマン』メモ」として「企画/TBS映画部」と明記されていますし、『宇宙船別冊〜懐かしのソノシート世界』(朝日ソノラマ)の「エイトマン」の解説でも、その題名について、当時、TBSで人気の高いドラマだった「七人の刑事」にあやかったものであることが紹介されています。したがって、やはり、元々の「8マン」の企画はTBS側にあり、それをベースに、『少年マガジン』編集部が、先行する連載マンガの準備を進めたというのが実情だったようです。
また、平井和正によると、作画を担当する漫画家についてはオーディションが行われており、最終的にこの作品を担当した桑田次郎のほかに数人の漫画家が何ページか書かされていたようです。
連載第1回の扉
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一方、桑田次郎の方は、講談社コミックスP−KCシリーズ『エイトマン』の中で、当時の状況を次のように話しています。
「確か『8マン』のときは、まず、新しいスタイルのロボットもの、『鉄腕アトム』とか『鉄人28号』とかとは全く違ったスタイルの主人公でヒーローものを創ろうという話が少年マガジンの編集部のほうからあったんだと思います。それで、そのデザインを考えてくれということで3種類くらい作りましてね。それを編集の方がどこかの小学校に見せに行ったらしいんですよ、どれがいいかって。そしたら、顔はこちらがいいけど、顔から下はこっちがい、こうつなげたらどうだと子供たちが意見を出してくれて、実際につなげてみると『わあ、それがいい』と決まりましてね。それから原作をもらったんじゃないかな」
ということで、私も、全く知りませんでしたが、最終的に、右の画像のような8マンのキャラクターデザインが決定する過程では、エンド・ユーザーを対象に、事前モニターというか、市場調査が、きちんと行われていたわけです。
若い方の中には、「8マン」そのものをご存知ない方もいらっしゃるでしょうし、当時をリアルタイムでご存知の方の中にも、もう、ストーリー設定の細部については忘れてしまった方もいらっしゃるかもしれませんので、ストーリーの基本的な骨格をおさらいさせていただこうと思います。
右の画像にある当時の連載ページでは「8マンとは」ということで次のように解説されています。
「警視庁そうさ一課は、七人ずつ七つの班をつくっている。8マンは、そのどれにも入らない、8番目の刑事。じつは、人間そっくりのロボットなのだ」
もう少し、詳しく説明しますと、もともと警視庁の刑事だった男が凶悪犯に射殺されてしまうのですが、天才的な科学者である谷博士の手によって、その男の頭脳や性格が電子頭脳に移し替えられ、ハイマンガンスチールのボディにおおわれたスーパーロボット、8マンとして甦ったのでした。その秘密を知るのは、警視庁の田中捜査一課長ただ一人であり、8マンは東探偵事務所の所長・東八郎として、田中課長を助け、数々の難事件を解決していくというのが基本的なストーリーでした。
東探偵事務所には、サチコという女性と一郎という少年が助手として働いており、脇役としてストーリー作りの上で、それなりの役割を果たしています。特に、サチコというのは、8マンが人間だったころの元・恋人で、彼女も気憶を消されているというような設定だったように思います。
左の画像にある東探偵が8マンに変身していく様子は、スーパーマンを思わせるものがありますが、8マンの場合、ウルトラマンのようにウルトラビームがないと変身できないとかいうことではなく、別に、そういう道具はなくとも、自分の意志で、いつでも8マンになることができました。
なぜ、そうなのかということについての説明も含めて、8マンの能力について、当時の『少年マガジン』の誌面企画から引用させていただこうと思います。
1965(昭和40)年の50号で組まれた「ロボットの秘密50」という特集の中で、8マンは、「人間そっくりのアンデロイド=ロボット」として、その内部構造が紹介され、その7つの強さの秘密が解説されています。
(1)びっくり変身術…プラスチック製のひふの下に電線がはってあり、その熱で、どんな顔かたちにもなることができる
(2)ものすごい空とぶはやさ…原子力エンジンの力で、時速3000キロのスピードで走ることができる
(3)強いうでの力…原子のエネルギーで、10トンもあるトラックを、らくらくと持ち上げることができる
(4)するどい目…目からX線を放射し、かべの中、金庫の中味などを自由に見ることができる
(5)すぐれた聴力…するどい聴力は、2キロ先の一の会話も聞き取れる
(6)すばらしい気憶装置…とくべつのビデオテープで、見たもの、聞いたものを、すべて思い出すことができる
(7)ひみつの電撃力…小型原子炉で数万ボルトの超高電圧をおこし、敵にショックをあたえてたおすのだ
この強さの秘密には書いてありませんが、8マンはベルトのバックルのところが小さな収納スペースになっていて、エネルギーが低下してきた時などは、そこに入れてある「強化剤」とよばれるタバコのようなものを口に加えるとエネルギーが回復するというような設定になっていました。
ということで、8マンは紛れもなくスーパーロボットであるわけですが、何といっても、この8マンの魅力というか、特徴は、非常に人間臭い悩みを抱えながら、生きて(?)いることです。
例えば、1992年2月に徳間ジャパンコミュニケーションズから発売されたCD『エイトマン完全復刻盤ドラマ編』の中で、探偵事務所のサチコと一郎に正体を知られた後、8マンは、谷博士に、次のような告白をしたりするのでありました。
「秘密を知られたからには、東探偵としての生活もおしまいです。サチコさんや一郎君とも顔を合わせることができなくなりました。私が人間ではなく、ロボットだということを、これほど、つらく感じたことはありません。私には、暖かい血の通った肉体はないのです。あるのは、鋼鉄よりも硬い、このハイマンガンスチールの体だけ。しかも、どんなに苦しくても、涙を流すこともできません」
また、強敵のコズマと最後の決戦に挑む場面では、こんな言葉も残しています。
「博士、私は、あなたはもちろんのこと、私を生み出したアメリカという国も恨んではいません。そして、東京で暮らした気憶はいつまでも忘れません。とても、楽しかった…。日本はもっと素晴らしい国になるでしょう。この国には、不思議な底力がある…。谷博士、私が倒れたら、もっと素晴らしいスーパーロボットを作って、コズマを滅ぼしてください」 「サチコさん、さようなら…」
ここで、8マンは「私を生み出したアメリカという国」という風に言っています。これについても、簡単に説明しますと、8マンは、もともと、谷博士がCIAのもとで秘密兵器として開発したもので、戦闘に使われることを嫌った谷博士が、CIAを逃れてきたというストーリーにもなっておりまして、谷博士と8マンは、裏切り者と重要機密ということで、絶えず、CIAからもマークされていたのでありました。
スタッフについては、今更、言うもでもありませんが、原作の平井和正は、「ウルフガイ・シリーズ」や「幻魔大戦シリーズ」など爆発的なヒット作品でSF作家として一時代を築き、今や自身が「私はSF作家ではなく、言霊使いである」とおっしゃられるような境地に至っております。また、当時、テレビアニメの脚本も、半村良、豊田有恒、辻真先などソウソウたる顔ぶれが担当していました。
主題歌の作詞は、当時、放送作家として既に第一線で活躍していた前田武彦。作曲は、「スーダラ節」「ハイそれまでよ」「ホンダラ行進曲」「ゴマスリ行進曲」など植木等やクレージーキャッツの一連のヒット曲を生み出した萩原哲晶で、私が大好きな「ホンダラ行進曲」は、まさしく、この「8マン」が登場した1963(昭和38)年に発売された作品でした。歌っていたのは、ロカビリー歌手としても知られ「さすらい」のヒットで紅白歌合戦にも出場した克美しげるで、後年、最も重い刑事犯罪によって逮捕され、所属していたレコード会社の東芝EMIは、克美しげるのレコードをすべて廃盤としてしまいました。
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さて、「8マン」といえば、何と言っても、思い出されるのが、のりたまについていた8マンシールであります。右の画像は、テレビ放映が始まる直前に、『少年マガジン』の裏表紙に掲載された告知広告です。「のりたま」と「すきやきふりかけ」も一緒に宣伝されおりまして、小さくて見えないと思いましたので、拡大した画像も添えさせていただきました。「のりたま」のTVCMは覚えていませんが、「8マン」放映時の「すきやきふりかけ」のTVCMで、「てなもんや三度笠」に出演していた白木みのるがレストランに入ってライスだけ注文し、唖然とするウェイターを尻目に、おもむろに「すきやきふりかけ」をかけて食べるというバージョンだけ、何故か、鮮明に気憶に残っています。あと、「チーズハムふりかけ」などという訳の分からない商品も、この頃に丸美屋から発売されていたはずですが、今は、まったく、見かけなくなりました。「のりたま」と「すきやきふりかけ」はパッケージ・デザインこそ変わりましたが、今も健在で、どちらも、我が家の常備菜(?)としてストックされておりますし、以前も書かせていただきましたが、私の海外出張の際には、必ず持参する日本食(
?)として重宝させていただいております。
8マンシールの話に戻りますが、確か、このシールには48くらいの絵柄の種類があり、同級生だったS君が、全種類を揃えていて、とにかく羨ましかったのを覚えています。
これも、また、以前、書かせていただきましたが、何年か前に、当時のパッケージ・デザインの「のりたま」が復刻版として販売されたことがあり、当時と同じように8マンシールがついていて、私は、涙を流して喜んだものでありました。当然、購入させていただいた私は、そのシールを財布の内側に貼らせていただきまして、そのシールは、かなり、傷んではきましたが、今も、私の財布にしっかりと貼られています。
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