第1回〜プロローグby H.Makino
第1回〜プロローグ 第2回〜写真物語のモデルに 第3回〜貴重な写真発見!その(1) 第4回〜貴重な写真発見!その(2)
第1回〜プロローグ
まず、1962(昭和37)年〜1964(昭和39)年当時、私も含めて、子供たちがどんな遊びをしていたのかを、私の体験を通しながら、“私のタイムトンネル”を旅していきたいと思います。 時代を語る上でどうしても欠かせないのが、当時の流行していた「歌」や「TV番組]、そして、少年たちの流行りなどではないでしょうか? 1964(昭和39)年、“ぼん太郎”(小学校4年生当時の担任の先生“鈴木先生”につけられたあだ名です)こと私・牧野弘文は、転校してきた「常盤台小学校」の4年1組にいました。 当時、私は、「切手」を集めるのに夢中であり、文房具屋で売っていた「外国切手」の袋入りセットを20〜30円で買っては、自慢の切手帳にはさんでいました。 一番の自慢は、「1964TOKYOオリンピック」記念切手シートでした。 同時に、近所の友達と夢中になって遊んでいた「銀玉鉄砲」や「粘土型」、「吹き矢」などが、一番の遊びでありました。 [主宰者から] 牧野さんは、小学校から中学校にかけて「ボン太郎」とか「ボン」という愛称で呼ばれていたそうですが、実は、私も、小学校から中学校にかけて、お袋が使っていた「ボンコ」という2人称代名詞が、そのまま友人の間でアダ名として使われておりました。 おそらく、語源的には近いものがあるのだろうと思いますし、その偶然に驚いております。 40代も半ばにさしかかろうとし、3人の子供がいるオヤジになった今も、小学校時代からの友人は、平気で、私のことを「ボンコ」と呼んでいます。
また、日曜になると「カブスカウト」に入っていたため、よく近くの駅で「赤い羽根」などを売るボランティアをしていました。 ちなみに、「カブスカウト」とは、「ボーイスカウト」のジュニア版であり、小学校4年から6年生までの間のみ入ることが出来たと記憶しています。 なぜか、当時は、「カブスカウト」に入っている子供が多く感じたのは私の気のせいでしょうか?(東京八十団に所属) [主宰者から] 私の育った新潟県長岡市では、あまりボーイスカウトに参加している友達はいませんでしたが、それでも、私の親友だったS君は、かなり長い間、活動を続けていました。 ちなみに、極めて個人的な話になりますが、私の長男は、小学校1年生の時にビーバー・スカウトから参加し、現在、当時の牧野さんと同じように、カブ・スカウトとして活動を行っています。 手元に、長男が使っている『カブ・ブック』というのがありますので、その中にあるカブスカウトの基本的な心構えなどを書いたページから、その一部を抜粋して、紹介させていただきます。 〈カブスカウトの約束〉 ぼく(わたし)は まじめに しっかり やります カブ隊のさだめを守ります 〈カブ隊のさだめ〉 1.カブスカウトは すなおであります 2.カブスカウトは 自分のことを自分でします 3.カブスカウトは たがいに助けあいます 4.カブスカウトは おさないものをいたわります 5.カブスカウトは すすんでよいことをします 『カブブック』の冒頭に書かれている、この〈約束〉と〈さだめ〉は、カブ1年目の「うさぎ」、2年目の「しか」、3年目の「くま」とも共通でありまして、この辺は、30数年前と変わっていないのかもしれません。
また、私は、少年時代とても体が弱く、また、兄弟がいない「一人っ子」だったせいで、気も弱く、よく学校を休んでいました。そんな時、必ず夕方になると「牧野く〜ん」と学友が訪ねてくるのです。 当時、当たり前だった給食の“こっぺパン”を届ける制度?があったのです!! そんな中でも、“揚げパン”の日にたまたま休んでしまって、運んでもらった時は、とてもうれしかったと記憶しています。 また、私が、学校を休んで家にいる時は、医者に行くか、はたまた勉強はせずに、“マンガ”ばかり書いていました。 父親が“画家”、母親が“小学校の教師”ということもあり、昼間は、誰もいないことが多く、よけい“マンガ”を書くことに専念していたようでした。 スポーツは、あまり得意ではなく、せいぜいキャッチボールぐらいをする程度でした。 「かぎっ子」という言葉がその時代よく言われたと思いますが、まさに、私は、「かぎっ子」だったのです。 高度成長時代の代名詞だった「3DK」のアパートに、「共働き」と「かぎっ子」、うちの家庭は、まさに、そんな家庭でした。 [主宰者から] 病弱などという言葉からは程遠く、丈夫だけが取り柄のような子供だった私の場合、いつも、学校を休んだクラスメートにパンを届ける方の役回りでした。 まだまだ世の中が混乱している部分もあった時代でしたから、ある時、学校を休んだ友人の家へ、給食のコッペパンなどを届けにいったら、牛乳屋さんだった友人の家が“もぬけの空”状態になっていて、驚いたりした記憶もあります。 また、病弱で休みがちだった女の子の家なんかには、気恥ずかしい気持ちで届けに行ったものでもありました。
私を夢中にさせていたもう一つのものは、“特撮実写活劇ドラマ”でありました。 当時、欠かさず見ていたのは、、“船橋ヘルスセンター〜!”などのCMを聞きながら、「海底人8823」、「ハリマオ」や「マリンコング」などを見るのが、お気に入りでした(「マリンコング」についてはいずれ「60年代の謎・なぞ・ナゾ」に出そうと思っていますが…)。 4年1組に、“片山君”という子がいたのですが、とにかく「鉄人28号」や「鉄腕アトム」などを書くのがうまく、よく私のノートに書いてもらっていました。 彼から受けた影響は、とても大きく、その後、私は、本気で“マンガ家”になろうと思うほどでした。 [主宰者から] “実写活劇ドラマ”は、私たちの世代にとっては、もう、間違いなく、永遠の憧れであります。 まだ、「60年代のテレビ」のコーナーでは、実写ヒーローものとしては、「快傑ハリマオ」くらいしか取り上げさせていただいておりませんが、牧野さんがお書きになっている「海底人8823」は、来週(1998年11月第3週)の週末くらいには、アップできるくらいの状況になってきておりますし、今後も、「七色仮面」「アラーの使者」「ジャガーの眼」「ナショナルキッド」など、順次、取り上げさせていただこうと思っております。
そんな時、友達のTO君が、明治の「マーブルチョコ」の懸賞を出して、見事“アトムシール”を当てたのをこの目で見た私は、すぐに、この“シール”に夢中になってしまったのでした。 それからというものは、この“アトムシール”がほしくて応募しましたが、ついに、この憧れの“第1回アトムシール”を手に入れることは出来ませんでした。 その後、“第2回アトムシール”や“マジックプリント1,2”は手に入れることが出来ましたが、幻の“第1回”だけが、今でも、とても心残りです。 月刊少年マンガが雑誌全盛の時代であり、『少年』『少年ブック』『少年画報』『ぼくら』などが、本屋の店先に所狭しと並んでいたのを鮮明に覚えています。 私は、父親が講談社の仕事をしていた関係で、「黒い秘密兵器」や「紫電改のタカ」の時代から、『週刊少年マガジン』を読んでいました。 [主宰者から] 実は、この連載をお書きいただいている牧野さんとは、先日、水道橋の喫茶店で実際にお会いして色々とお話しをさせてきていただいたのですが、その際に、牧野さんがお持ちの“お宝”の数々もお見せいただき、私は、その内容の凄さに驚いてしまいました。 牧野さんは、ここで言及されているアトム・シールはもちろん、「伊賀の影丸」や「エイトマン」「狼少年ケン」「スーパージェッター」「ワンダースリー」「ビッグX」など、当時のマンガの主人公のシールをはじめ、お菓子のオマケやプレミアム・グッズ、駄菓子屋で売られていたキャラクターものなど、実に様々な“お宝”を極めて良好な状態で、きちんと整理して保存されていらっしゃいます。 牧野さんから資料提供についての有り難いお申し出もいただいておりますので、出来るだけ早い時期に、この「60年代通信」の超大型特別企画として、その貴重な“お宝”の数々を、是非、皆様にもご覧いただけるようにさせていただきたいと考えておりますので、どうぞ、お楽しみに。 私などは、40代となった今なお、アトムのボイス・ウォッチが当たるロッテの「アストロボーイ・フーセンガム」を買い集め、あろうことか、その賞品をゲットするまでの経過を「同時進行ドキュメント」と称して、この「60年代通信」の一企画とさせていただきながら、既に、目標の点数券20点を集めたにも関わらず、未だに応募手続きも済ませていないズボラさでありまして、牧野少年のような緻密さを見習わなければなりません。
講談社の月刊誌である『ぼくら』の編集長から私を表紙の“モデル”に使いたいと申し出があったのは、そのころのことで、私よりも両親がその気になってしまい、二つ返事で引き受けてしまったのでした。 私は、それ以前にも、少女月刊誌の『なかよし』の連載小説のモデルや『主婦と生活』などの一般女性誌にも、子供服のモデルとして出た経験があったため不安はありませんでした。 当時の私の夢は、“マンガ家”になることでしたから、少しでもマンガの世界に近い仕事をすることは、まだ子供であった私にとって、とてもうれしいことでした。 [主宰者から] ということで、いよいよ次回は、牧野さんが表紙モデルとして登場された懐かしい『ぼくら』の表紙の数々や、既に、予告編として、左の画像で紹介させていただいておりますが、『ぼくら』の表紙モデルに先立って牧野さんが出演されている『なかよし』に連載された写真小説などの画像を紹介させていただきながら、引き続き、貴重な牧野さんの体験が綴られていくことになります。 「60年代通信」を立ち上げて以来、“60年代文化”の送り手側に深く関わられた方の手をお借りする本格的な企画としては、この“『ぼくら』村の少年”が初めてのものであります。 皆様からも、色々なご感想などをお寄せいただき、「60年代通信」ならではの世界を広げていくことが出来ればと思っておりますので、よろしくお願いいたします。 |
(C)1998 Hirofumi Makino
(C)1998 60年代通信