60年代の町並み
[栃尾鉄道編]
私が長岡で育った1960年代には、市内を「トッテツ」と呼ばれていた栃尾鉄道という狭軌の、いわゆる軽便鉄道が走っておりました。これまでも、この「60年代通信」ホームページ版でも再三にわたって紹介させていただいている長岡市民の憩いの場であった悠久山から長岡駅を経て、長岡の隣の栃尾市に至る全長30キロ弱の小さな鉄道でしたが、私達も小学校の頃から友人同士で郊外へ遊びに行く時などに利用したものでした。その思い出の沢山詰まった栃尾鉄道も、私が高校の時に廃線となってしまい、今年で廃線からちょうど四半世紀を迎えることになりますが、暮らしに密着していた軽便鉄道だけに、沿線の風景とも合わせ、今、とても懐かしく思い出されます。手元に資料が極めて少ないため、あまり満足のいくものにはならないでしょうが、つかの間、この「トッテツ」の思い出に浸っていただければと思います。
(1)栃尾鉄道「ながおか」駅周辺
〜または、60年代のJR長岡駅東口周辺
既に「60年代の町並み」の「映画に見る60年代の長岡」で、映画「青春の鐘」が「60年代通信」のメーンイベントの一つであると書かせていただきましたが、この栃尾鉄道、当時の長岡市民は親しみを込めてトッテツと読んでおりましたが、このトッテツも、また、紛れもなく、「60年代通信」のメーンイベントの一つなのであります。
今は、もう、このトッテツそのものが全線にわたって廃線となっていますし、このJR長岡駅東口周辺の景観というものも、まったく変わってしまいましたから、上の2枚の写真は、当時を知る人にとっては、たまらなく懐かしいものではないかと思います。
それでも、長岡を離れてしまって久しい皆さんの中には、よく分からないという方もいらっしゃるかもしれませんので、写真に映っている風景を、具体的に説明させていただこうと思いますが、その前に、上の2枚の写真が撮影された1960年代当時から現在の1990年代にいたるまでの30年間に、この長岡駅東口周辺がどのように変わってしまったのか、先に、確認しておこうと思います。

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左の2枚の写真は、国鉄(現在のJR)長岡駅を軸に、栃尾鉄道の長岡駅のあった東口方面を中心とするアングルで、上が1967(昭和42)年、下が1991(平成3)年のものです。長岡をご存知ない方は、まず、このページは見にこないとは思いますが、一応、長岡をご存知ない方のために説明させていただきますと、長岡の市街地は駅を中心にどちらかというと、信濃川が流れている西の方に展開されていたものでありまして、東口というのは、いわゆる駅の裏手のイメージでした。
栃尾鉄道の長岡駅は、その裏手のイメージ である東側の方に、国鉄の長岡駅と隣接する形になっていたわけですが、このページのトップにある2枚の写真のうち、左のカラーの方は、左の2枚の写真でいうと、右下辺りの上空から斜めに見下ろす感じで撮影されたものです。
上の2枚の写真を説明させていただくには、左の2枚の写真を先に説明させていただいた方が手っ取り早いと思われますので、先に、左の2枚の写真を説明させていただきます。
まず、左の2枚の写真の同定を行う必要があると思いますが、そのためには、どちらの写真にも写っている分かりやすい対象として、左側の大きな屋根(駅前の厚生会館です)と、右側の福島江とその右岸にある坂上小学校の位置を確認していただくのが一番早いかと思われます。
ということで、一方的に同定がなされたということを前提に話を進めさせていただきますと、左の2枚のうちの上の写真では、長岡市のメインストリートである大手通りの起点でもあった駅前広場がかなりのスペースを占めていたことが分かりますが、下の写真では、ほとんど、駅前広場のスペースが消滅しております。これは、新幹線が高架ながらも在来線の真上ではなく、西側の方を通る形となり、その新幹線の線路を中心に新しい駅舎が建てられたため、駅構内の敷地がそのまま西側にせり出してしまった結果と思われます。
一方、今回のテーマである東口の方に目を転じますと、左の2枚のうちの下の写真では、なによりも、目を引くのが、東口の駅前広場(実際には越後交通のバス発着所ですが…)が広がり、その北側にダイエー(以前は県経済連や農協の巨大な倉庫郡が並んでいた場所です)、東側にホテルオークラが建てられていることでしょう。当然、栃尾鉄道の駅や周辺設備、線路などもなくなり、下の写真では、線路の跡が遊歩道になって、同じ様に湾曲したラインを描いていることもお分かりいただけるかと思います。

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ということで、改めて、上の2枚の写真に戻ります。上の写真は何れも、1960年代の後半に撮影されたものと思われ、左の写真だと、トッテツの線路が長岡駅を出て左に弧を描きながらカーブしはじめるところに白い5階建てくらいのビルが建っているのが確認いただけるかと思いますが、これが越後観光タクシーのビルで、その向こうに見えている赤い屋根の平屋で面積の広い建物がスーパーの「マミーストア」、その前が、越後交通の路線バスの操車場兼駐車場のようなスペースです。右の写真では、左の方に、逆に、越後交通の路線バスの操車場兼駐車場の向こうにマミーストアの屋根、さらに、その向こうに越後観光タクシーのビルが見えるようなアングルになっています。
左の写真の右上の方に見える青い屋根の建物郡が経済連の倉庫など、そのちょっと右手に高い煙突が見えているのが柏露酒造で、この辺の部分が、現在、ダイエーやホテルオークラ長岡などになってしまっています。それから、マミーストアの裏手辺りの場所に、最近になって(ここ2〜3年だと思います)、ようやく長岡で初めてのマクドナルドが出来ています。
それから、上の右の写真で、単線だったはずの栃尾鉄道なのに、何故、こんなに長岡駅だけ線路の数が多いのだろうと思われる方もいらっしゃるかもしれません。実は、私もそう思ったのですが、手元にある1967(昭和42)年の長岡市住宅地図で確認してみると、栃尾鉄道の駅に隣接する敷地には、新潟県経済連の倉庫や日通の倉庫、長岡冷蔵倉庫などの大倉庫郡が控え、さらに、長岡木工や白露酒造などの工場もあり、そうした倉庫群への引き込み線のような線路もあったことが分かりました。トッテツというと私達には旅客輸送のイメージしかありませんでしたが、色々と資料を見てみると、いわゆる貨物列車も結構走っていたようで、貨車と客車を一緒に牽いているような写真(左)も残っていました。
その倉庫郡や工場のあった場所と栃尾鉄道長岡駅の敷地内にあった労組共済会や労組事務所などがあった場所に、今は、ダイエーやホテルオークラ長岡などが建てられているわけです。
左の2枚の写真は、このページのトップの写真とは逆に、長岡駅の西側の大手通りに面した側の方から東口周辺も入るようなアングルで撮影されたもので、恐らく、1970年代の前半に駅前に建てられた長崎屋の最上階辺りから撮影されたものと思われます。右の写真は、左の写真の右上の部分を拡大したもので、トッテツの電車が停まっているホームや、その向こうの倉庫群なども見えています。
このページのトップの写真でも、この写真でも分かるように、2〜4両編成くらいだった軽便鉄道のホームというのは、国鉄長岡駅ホームの長さの4分の1程度しかなかったわけです。
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それから、1960年代後半に長岡で暮らしていた人間にとっては、非常に懐かしい響きを持つ名前ではないかと思われるのが「マミーストア」であります。手元にある長岡市住宅地図を見ると1967年版では、また、長岡駅東口にはマミーストアはなく、1971年版にはちゃんと載っていますから、68年以降に開店したものと思われます。ということで、改めて、1985(昭和60)年に発行された『越後交通社史』で確認してみましたところ、1968(昭和43)年3月24日に開店していたことが判明しました。
この『越後交通社史』によりますと、マミーストア展開の背景は次のようなことでありました。1967(昭和42)年6月の第87回定時株主総会で、田中角栄社長が、「交通機関は料金が免許制度であるため、バスや鉄道だけの事業形態では、経営が非常に苦しくなる。鉄道やバス路線を持っている会社として、他に色々な営業を兼ねることによって、バランスをとらなければならない」と挨拶。同年7月に事業部が新設され、ゴルフ練習場や広告業務の再開、釣池と養鯉業などの事業活動が始められることになり、その中核事業と位置づけられたのが小売業だったというわけです。
社史から、開業までの経緯をそのまま、採録してみましょう。
「スーパーストア業界は、昭和40年代、高度経済成長期にあって薄利多売方式による販売で小売り業界を席捲していく勢いにあった。すでに大手スーパーは乱立し、拡張競争にしのぎをけずっていた。
当社は事業部設立とともにスーパー業界への参入を事業課題にとりあげ、42年9月以降取り組みを開始した。同年11月、栃尾線長岡駅附近にあった鉄道管理所と電車庫を下長岡駅構内に移転、この跡地を長岡東口バスターミナルに利用する一方、これと併設し地の利を得た店舗展開を行うことにした。未経験者が全く新しい分野へ進出することから、松電ストアの件学、鮮魚店、青果会社への実習、レジスター教育、店員教育、コンサルタントの診断などを経て1号店の開店となった。
1号店は長岡駅東口店で、店舗面積延べ574平方メートル、売り場面積300平方メートルとし、鮮魚、惣菜加工室を備えた店舗であった。10時から18時30分までが営業時間で毎週木曜日を定休日とした」
かくして、東急沿線に東急ストアがあり、京王沿線に京王ストアがあるように、トッテツ沿線にはマミーストアが展開されていくことになったわけであります。要するに、モータリゼーションの影響などで、旅客輸送・貨物輸送ともに実績が低迷し始めたのを受け、遊休地の利用も兼ねて、事業の多角化の一環として、スーパーストアの展開に乗り出したということだったようであります。
当時の私には、そんな背景は知る由もなかったわけですが、ただ、スーパーという当時の新しい小売形態が長岡にも登場したことに、何か新しい時代の訪れを感じたことだけは覚えています。原信というスーパーが市内にチェーン展開を始めたのも、同じ頃だったと記憶しています。

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