“「60年代通信」掲示板”(http://www64.tcup.com/6405/kiyomi60.html)
を開設いたしましたので、ご活用ください。よろしくお願いします。
「読者の皆様からの暖かい励ましのお便りコーナー」
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このページは、皆様から、「60年代通信」宛てに頂戴したEメールを紹介させていただくコーナーです。
いただいたEメールは、誹謗・中傷やそれに類するもの、あるいは、公序良俗に反するものでない限り、基本的に、原文のまま、掲載させていただく方針ですが、用字用語の修正をさせていただく場合があるほか、お名前は、イニシャルあるいはペンネームに代えさせていただいておりますので、ご了承いただければと思います。
頂いたEメールの掲載について、ご意見、ご希望のある方は、ご遠慮なくお申し出ください。
皆様から頂戴するEメールだけが、シコシコと家庭内手工業でページを作っている主宰者の唯一の励みとなっておりますので、異論・反論・ご批判など、何でも結構ですので、よろしくお願いいたします。
NSさん(女性)
1999.08.25 
… ニフティ SUPER Internet
NSさん(男性)
1999.08.25 
… ホームページ拝見いたしました
LSさん
1999.08.25 
… 飯田久彦さんの情報を・・・
TKさん(男性)
1999.08.24 
… 雑誌「ボ−イズライフ」
あんくるさん(男性)
1999.08.23 
… 霧氷
福島県郡山市・FIさん(50代男性)
1999.08.23 
… 山本五十六・河井継之助=長岡の生んだ二大傑物(その1)
タクゾーさん(男性)
1999.08.23 
… はじめまして
千葉県市川市・HMさん(40代男性)
1999.08.22 
… 「あなたが選ぶ60年代・10大ニュース」
えちごやさん
1999.08.22 
… おしゃべり九官鳥について
ベンジャミンさん(男性)
1999.08.21 
… 橋幸夫の’66年レコ大受賞
神奈川県藤沢市・テツオ君(40代男性)
1999.08.21 
… 暑さでパーになっています
蛞蝓なめちゃん(男性)
1999.08.21 
… 1961年の平凡付録歌本
NSさん(女性)
1999.08.25 … ニフティ SUPER Internet
はじめまして。
突然のメール、失礼いたします。
私、「ニフティ SUPER Internet」編集部のNSと申します。
9月24日発売の小誌に、GSを取扱うサイトを紹介するコーナーを企画しております。
「Cutie Morning
Moon」の開設者、Hitomiさんにご紹介いただき、貴サイトの掲載のご許可を頂きたく、ご連絡している次第でございます。
小さなスペースでほんの一言コメントがつくだけなのですが、掲載してもよろしいでしょうか?
また、OKの場合、サイトのご紹介の際に、作者の方のハンドル(あるいはご本名)も掲載(敬称は略)させていただきたいのですが、なんと表記すれば良いでしょうか。
お手数ですが、ご連絡いただきたく存じます。
今回のご紹介は「GS」部分を主に、という形になりますが、 GS以外のデータも大変興味深いです。
個人的にも、この膨大なコンテンツを読み進めたいと思います。
私は60年代を生きておらず、「60年代は特別だ」とリアルタイム世代が言うのを聞くたびに悔しいような、うらやましいような気になりますね。
今はリメイク&サンプリング文化まっさかりですし、このサイトは、さらに下の世代にとっても面白いものだと思います。
いきなり不躾なお願いで恐縮ですが、よろしくお願いいたします。
主宰者から
1999.08.25
はじめまして。
メール、ありがとうございました。
「ニフティ SUPER Internet」での掲載は、ぜひ、お願いしたいと思いますので、よろしくお願いします。
本来であれば、もっと多くのGSを取り上げさせていただきたいのですが、広範なテーマでホームページを作らせていただいている関係上、まだ、ブルーコメッツとタイガースを、少し取り上げさせていただいているだけなので、恐縮です。
将来的には、殆どのGSをカバーさせていただきたいと思っておりますので、今後とも、よろしくお願いします。
なお、特に、ハンドル名というのは使用しておりませんので、私の本名のままで結構です。
色々とお手数をおかけすることと思いますが、よろしくお願いします。
P.S.
Hitomiさん、ご紹介いただき、どうも、ありがとうございました。
 
NSさん(男性)
1999.08.25 … ホームページ拝見いたしました
Suzuki様
ホームページ拝見いたしました。
野球盤、とても懐かしく思いました。
さて、私は、Sと申します。
いろいろな企業から依頼されて、特集記事の原稿を作成しております。
この度、60年代の懐かしい遊びの特集の企画が持ち上がり、野球盤の写真を探していたところ、貴殿のホームページに出会いました。
つきましては、不躾ですが、野球盤の写真をお借りすることは出来ますでしょうか。
甚だ勝手で恐縮ですが、ご検討よろしくお願いいたします。
主宰者から
1999.08.25
はじめまして。
メール、ありがとうございました。
ご依頼のありました「野球盤」の写真ですが、私がホームページで使わせていただいたものは、『週刊少年キング』のグラビアページに掲載されていたものです。
その『週刊少年キング』自体は、私が資料置き場にしているアパートの部屋に置いてありますので、ちょっと、探し出すのに時間がかかりますが、いつ頃までに、ご入用なのでしょうか。
現在、実家に帰省しておりまして、東京に戻るのは、今月の30日の予定です。
なお、野球盤に関しましては、色々な文献資料類に写真が使われておりますし、私の手元にある「野球盤」の画像などよりも、適当なものがあるようにも思えますが。何れにしても、基本的には、エポック社が版権を持つものが殆どでしょうから、エポック社に当たられた方が早いのではないでしょうか。
もちろん、どうしても、「60年代通信」で使わせていただいている画像が必要ということであれば、喜んで、対応させていただきます。
 
LSさん
1999.08.25 … 飯田久彦さんの情報を・・・
TV番組のディレクターをしていますSといいます。
現在、テイチク社長の飯田久彦さんを中心に60年代のジャパニーズポップス、アメリカンポップスについての番組を企画しています。
どんな情報でもけっこうです。教えてください。
主宰者から
「飯田久彦さんを中心にした60年代のジャパニーズポップス、アメリカンポップス」ということになりますと、私は、リアルタイマーとしては、ちょっと届かない形ですので、とりあえず、「60年代通信」の「お便りコーナー」で紹介させていただき、強力な常連の皆様からの情報を待たせていただくことにさせていただきます。
「どんな情報でもけっこうです」ということですが、あまりにも漠としておりますので、例えば、というようことで、幾つかポイントを絞っていただいた方が、皆様からの情報もいただきやすくなるのではないかと思いますが…。
 
TKさん(男性)
1999.08.24 … 雑誌「ボ−イズライフ」
鈴木さん,こんにちわ.
60年代前半頃,「ボ−イズライフ」という雑誌がありました。
うろおぼえですが「メンズクラブ」「スクリ−ン」「サライ」をあわせたような活字主体、読み物主体の雑誌でした。
「アラン・ドロンvsジャン・ポ−ル・ベルモンド」(当時としてはハイカラな企画。フランス2大スタ−の人気、作品、ファッション等を比較した記事。それにしても二人とも老けましたな)、「歴代ボンドガ−ル比較」(グラマラスな水着写真でコウフンしました)、「新作007の紹介」(結構、映画関係の記事が多かったのかな。封切りは「殺しの番号」が62年、「危機一発」が63年、「ゴ−ルド・フィンガ−」が64年、「サンダ−ボ−ル作戦」が65年、「二度死ぬ」が66年、「女王陛下が69年、「ダイヤモンドは永遠に」が71年等々)。
「バカタバカタ大学」というお笑いのペ−ジもありました(ソ君、ソ君というのが学長の口癖。後年”諸君”のなまりであると判明)。
最新スポ−ツカ−の記事や「世界七大不思議」の記事で”サルガッソ−の海”という言葉を憶えたのもこのころ。
貸本屋さん(なつかしい)で借りて、よく読んでいました。自分で買ったこともありますが…。
主宰者から
1999.08.24
『ボーイズライフ』については、これまでも、何度か、この「お便りコーナー」で話題になってきておりますが、60年代以降、姿を消してしまった雑誌だけに、60年代の記憶と分かち難い存在になっているようです。
私にとりましても、自ら買ったり借りたりしたことはありませんでしたが、大きいお兄さんのいる友人の家に遊びに行ったりした時などに目にしていた、ちょっぴり大人の匂いのする雑誌だった印象があります。
スポーツカーや、おっしゃるように洋画の話題などが多かった記憶があり、イメージ的には、ヌード写真の載っていない『平凡パンチ』というような感じだったのを覚えています。
やっぱり、60年代後半に登場した『平凡パンチ』や『週刊プレイボーイ』などに押される形で、姿を消してしまったのでしょうか。
「007シリーズ」と言えば、ブルーコメッツも「青い瞳(英語版)」をリリースする前月の1966年2月に、007シリーズ「サンダーボール作戦」のテーマをインストルメンタルのシングル盤として発売しています。
それから、その「バカタバカタ大学」というのは、バカボンのパパの「バカダ大学」の原型となったものなのでしょうか。
 
あんくるさん(男性)
1999.08.23 … 霧氷
あんくるです。
「個人的な霧氷の謎」がわかった気がしまして、御礼のメールです。
レコ大は(私はS39生まれで)、「また逢う日まで」以降はリアルタイムといえます。
しかし、オヤジが懐メロ番組好きだったこともあって、それ以前の歌謡曲も(同世代の中では)かなり歌える方だと思っています(歌謡曲に興味を無くしたのか、「長良川艶歌」以降のレコ大受賞曲はダメですが)。
それで、以前から「霧氷」が不思議でした。全く歌を知らないのです。
リアルタイムでは知り得ない、「黒い花びら」から「柔」までも、(一番なら)歌えます。
それ以降も、「いいじゃないの幸せならば」が少しあやふやですが、まあ、カラオケならば(伴奏がつくし、歌詞も出るので)歌えます。
しかし「霧氷」という歌は、ぼんちおさむの漫才でしか聴いたことがないのです。
したがって♪霧氷、霧氷〜、までしか知りません。
「どうしてこの曲が大賞とったんだ?」と思ってました。
懐メロ番組はかなり見てるハズなんですが(でなければ、「愛と死を見つめて」の♪はかない命と知った日に、なんてとこまで歌えません)、その類の番組でもほとんど聞いた記憶がありません。
橋さんがそういった番組に出ても、歌うのはほとんど「潮来笠」だったと思います。
11月発売で12/1に大賞決定ですか・・・。当時のレコード売り上げサイクルを考えると、「まだ売れてない」時点での決定ですね。
更に歌手本人が、「今年の代表(勝負)曲」とは思ってなかったとは。
舟歌のように、(違うかもしれませんが、私の感じでは)受賞を期にその翌年頭に売り上げが伸びたってこともあったのかどうか・・・。
とにかく、「霧氷」の受賞が、当時でもかなり不自然なことだったことが納得できました。
ありがとうございます。
主宰者から
1999.08.23
「霧氷」のレコ大受賞をめぐって、結構、メールをいただき、ちょっと、驚いております。
舟木さんと加山さん、そしてファンの皆様には申し訳ございませんが、橋さんの名誉のためにも、書き添えさせていただきますと、レコード会社の政策的な動きであるとか、当時の一般的なレコ大の下馬評であるとか、そういったことを離れて、「霧氷」という楽曲自体について考えてみますと、当時、「霧氷」のレコ大受賞を意外に思った私自身も、時間の経過とともに、個人的には、「霧氷」という楽曲自体にも、十分にレコ大を受賞する要件が備わっていたのだろうと考えるようになってきております。
現在、旅行先の会津若松のホテルに宿泊しているため、十分な時間もありませんし、資料類も手元に一切ありませんので、そういう風に考えるようになってきた理由は、改めて、資料類で事実関係の確認などを行いながら、別の機会に書かせていただこうと思います。
一つだけ、あんくるさんがお書きになっていることと関係する話を書かせていただくと、まず、橋さんのデビュー曲「潮来笠」から初めての大賞受賞曲「いつでも夢を」はもちろん、股旅ものから青春歌謡、リズム歌謡にいたるまで、橋さんの全盛期の曲は、その殆どすべてが吉田正作品だったのに、「霧氷」だけは利根一郎さんの作曲によるものだったため、後年の「なつメロ」番組などでも、吉田作品コーナー的なところで橋さんが登場することも多く、あまり、「霧氷」が歌われてきていないというような事実があります。その一方で、レコ大の記念番組などでしか「霧氷」が歌われず、他のレコ大作品のほとんどがそれぞれの歌手の代表曲という中、橋さんの歌う「霧氷」だけは、「ん?」という感じになってしまうため、「霧氷」については、この「ん?」のイメージだけが増幅されてきているというような側面も否定できないようにも思えます。
代表曲と呼べるようなヒット曲が多すぎる橋さんならではの、誠に、皮肉な結果と言うしかないような気がします。
あんくるさんがリアルタイマーとして届かなかった時代の歌の数々につきましては、今後も、「懐かしの歌本の世界」で、さらに、色々と取り上げさせていただくことになると思いますので、今後とも、よろしくお付き合いください。
 
福島県郡山市・FIさん(50代男性)
1999.08.23 … 山本五十六・河井継之助=長岡の生んだ二大傑物(その1)
郡山のF.I.です。
さて、今回は、鈴木様の郷里長岡の生んだ私の最も尊敬する人物。
言わずと知れた連合艦隊司令長官山本五十六元帥の話ともう一人の傑物河井継之助についてちょっと私見を(二人一緒だと長くなるので今回は山本五十六のみ。)
山本五十六はいろんな人が伝記を著したり、戦記雑誌「丸」(時々購入)に特集が組まれたりして、近代日本では最も有名な軍人ですが、私が長岡で学生している頃は、残念乍ら、そうとも知らず友人との散歩等で、公園の生家をチラと見た程度でした。
蒼紫(あおし)神社付近も悠久山花見でよりましたが。意図的に行ったことはありませんでした。
社会に出て、同じ会社で寮にいた人(この方の祖父は陸軍中将で荒木貞男など当時有名な軍人らの写真もあったようですが)の所持していた司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読んでから、急に戦記物に傾いて、特に太平洋戦争関連を漁り始めて、結局は山本五十六関連の書籍を結構かじりまして(古いのでは戦死して国葬後に朝日新聞社で発行したものとか)、私の最も尊敬する人物となりました。
彼の人格・先見性等々言い尽くせませんねー。
彼の言葉だと思いますが、「言って聴かせて、やってみせて、誉めてやらねば人は動かじ」だと思いますが、そのとおりですね。
人を動かすにはそれなりの行動が必要ということでしょう。
その後、5年程前に福井に長期出張時、一度長岡に寄った時、車で通りました。
実際、伝記等を読んだのはここ数年ぐらいで、戦記物も含めて20冊ぐらいですか。
しかし、決定版というのはありませんね。すごく誉めるか、けなすか、戦死でなく自殺とか(戦死した島のガイドは自殺行と言ってるようですが)。
阿川氏の伝記本は詳細ですが、説明的で文学的と言えるか難しいし、彼の生涯を一冊にまとめるのはなかなか大変のようです。
だんだんと当時を知る人が減ってきて、伝説になってゆくのでしょうか?
私個人との接点なぞ何もないわけですが、わずかに、下記の事に期待があるのみです。
話し変わって、私の父は海軍水兵でしたが、儀装時の戦艦武蔵に配属になり、進水式の行われた三菱長崎造船所から呉軍港への回航中、儀装中、試運転(「丸」等で戦艦武蔵のグラビア等で甲板に水兵がたむろしてる中にいるんでは?と思っております。軍艦となった後、しばらくは乗艦してて、武蔵が旗艦となってから、おそらく、山本長官を甲板上で拝することもあったかと思います。当時の父のアルバムの1ページ目に長官の公式写真(甲板上で双眼鏡を持っている有名なものです)が貼ってあり、父の受け持ち甲板で目にした長官の姿を元帥(戦死後)になった後の公式写真に置き換えて貼ったものと思いますが、かなり尊敬していたのだと思いますよ。
父はガダルカナルやグアム島などを転戦し、空襲で爆弾の破片が右ひざに刺さり、内地に戻り、療養後は館山のレーダー基地・高射砲隊などに属し、終戦を迎えたようです。
降りた艦が次々と沈んでいったと話してました。
随分話しが飛びましたが、山本五十六が河井継之助を尊敬していたことは、衆知の事ですが、河井の終焉の地、会津塩沢(塩の井戸があり製塩をしてたので地名となった。…トロッコ列車は多分その辺は走らないでしょうが)に現在、河井継之助記念館があり(行ったことがありますが立派なものです)、太平洋戦争前の中将(?)時代に(司令長官になる前)に訪れているようです。
そうそう、山本五十六の奥様は会津の方で、これも山本五十六への愛着の一つかも知れません。
残念ながら、今の時代に彼程の人物はいないようです。当時もそうでしたが。(いるとすれば石原莞爾?…と言ってしまうと架空戦記の読みすぎか?)
山本五十六を主題の映画は「60年代通信」にもあったように、「三船敏郎」の山本五十六:東宝作品「連合艦隊司令長官山本五十六」(残念ながら、ミッドウェイなどのシーンは以前の「太平洋の嵐」の借用です)が有名ですが、私も何度も観ましたが、本当の山本五十六像ではないようです。
演出で山本像はいくらでも変形出来そうです。
山本五十六はもっと陽性な雰囲気を持った激情家で、クールな面を持ったりと幾つかの伝記を読んで感じました。
古いですがTV東京で古谷一行主演の12時間ドラマもまた異質な気がします。でも、長時間でしたので、それなりにいろんなシーンが描写されていて、再度見たい番組です。ビデオに録画してる方がいれば借りたいくらいです。
「連合艦隊司令長官山本五十六」の空母機動力を生かした戦略・作戦は、現在、米国がいざ軍事介入というと必ず空母を当事國海域に派遣するなど、今もって、主流の方法で、山本五十六はその先駆者でしたし、日本・アメリカの当時の戦はまさに空母同士の戦いで決まるという、以前の戦艦同士の雌雄決着から脱脚したもので、時代の流れを読めなかった大方の日本海軍首脳は大和・武蔵のような時代遅れの役に立たない戦艦を作り(その資金・資材で瑞鶴級空母5―7隻は作れたでしょう)、そして実際、殆ど戦果を上げず波間に没したのです。
空母信濃建造に至っては泥縄もいいとこでした。
戦歴で、特に悔やまれるのはミッドウェイ海戦でしょう。
搭乗員の技量・空母隻数で上回りながら完敗してしまい、責任問題はうやむやになったようですが。彼の作戦の戦略的意図を理解しない実行部隊が多く、結果が悪く出るようで、彼には悲劇的な面がどうしてもつきまとうようです。
こうした敗戦から山本五十六を「凡将」とする作家や軍人も幾らかおりますが(作家では生出寿氏、元軍人では仕官では故淵田美津雄(ハワイ攻撃の総隊長)等や、最近ではゼロ戦撃墜王坂井三郎さんなども言ってますね)、戦は一人で行うわけでなく、総合力が決め手だと思いますが、じゃ、代わりがいるかというといなかったんでしょうね、彼ほどの人が。
明治からずっと本格的戦争経験も無く官僚化した海軍では、硬直化してて、ハワイ作戦のような重要な作戦でも、ふさわしい人物(小沢・山口など)が抜擢されず、成果は中途半端にしてしまったようです。
あまり詳細に書いても素人の考えでボロが出るので止めますが、古今東西で、彼ほどユニークな軍人は少ないと思います。
寡勢で敵を撃つ作戦は、なかなか成功しないものです。他には。
当事から軍事上の理由からでしょうが、石油問題に真剣に取り組み、リンカーンを尊敬し、冷静にアメリカを分析し、長岡を、長岡の人達(大部奨学金を出してたと伝記等にあります)をこよなく愛した人でもありますね。
そうした人格者であることを知らぬアメリカは、連合艦隊司令長官が長岡生まれと知って、ご存知のように新潟県では長岡のみひどい空襲があったとか。
地元に罪が無いのに、まさにアングロサクソン的執念深さだと思います。
それゆえに、河井と同様、山本五十六を憎む長岡人も少なからずいるとか。
ま、会津も恭順せず戦いをしたため、地元から同様の思いを抱かれているとも耳にしたことがあり、複雑な思いがします。
先日、佐世保に仕事で行くことになり、たまたま、宴会場が「万松楼」という海軍には由緒ある料亭で、東郷平八郎・その他の有名軍人が良く利用したところで、恐らく山本五十六も利用されたと推察されます。
私らの宴会とは別に、海上自衛隊の誰かの送別会なども開かれているようでした。
宴会場も丁度軍艦の司令所(?)のような傾斜した窓ガラスになっており、窓から佐世保港に停泊中の艦が数隻見え、さすが軍港だなと実感しました。
お土産に「海軍さんのコーヒー」なるものがあったりして、往時を忍ばせる書画なども掛かっておりました。
翌々日に寄った長崎では、これまた偶然に護衛艦の一般公開に遭遇し、艦内外を見学させてくれました。
どうも、その艦は以前米軍との合同演習で、ミッドウェイ海域で米軍機を撃墜したいわくつきの艦(?)ということで、当時はスポーツ新聞などにミッドウェイの仇を討ったなどと書かれたこともあったようです。
そんなこんなで改めて最近、身近に感じたりしてるこの頃でもあります。
長くなりましたので、今回はこのへんで、次回は河井継之助でゆきます。
主宰者から
1999.08.23
山本五十六については、河井継之助と違って、子供の頃から、周りの大人達などから色々と話を聞かされ、ご指摘のあった映画も見ておりますが、関連の書籍などは、まだ、あまり、読んでいません。
先日も書かせていただいた通り、司馬遼太郎の『峠』は社会仁になってから読ませていただき、面白いので、2回ほど読んでしまいましたが、阿川弘之さんの『山本五十六』は、おっしゃる通り、資料を多用していて、ちょっと寝転がって読むというようなわけにはいかず、途中で挫折したままになっております。
それでも、最近は、歴史関連の雑誌などで、「山本五十六」や「河井継之助」の特集本などがあると、ついつい、買ってしまうようになりました。
ここ2〜3年でも、PHPから出ている『歴史街道』の「河井特集」や、『プレジデント』だったと思いますが「山本五十六〜かくも人間を魅了した男」とかいうタイトルの特集を購入したりしておりますが、ざっと目を通しただけで、きちんと読まないうちに、既に、資料の山に埋もれて、どこにあるか分からないというような状況になっております。
今日の昼過ぎに、「SLばんえつ物語」号で会津若松に着き、今晩は、東山温泉のホテルに泊まり、明日の夜、長岡に帰りますので、今回は、図書館だけでなく、山本五十六や河井継之助に因んだ場所を回って、ビデオを撮り、東京に戻ってから、画像を取り込み、HPにアップしてみようと思います。
また、引き続きまして、よろしくお願いいたします。
 
タクゾーさん(男性)
1999.08.23 … はじめまして
60年代通信 管理者様
たまたま見つけたこのHPに感動致しました。
1958年生まれの小生と致しまして、まさに、話題が懐かしいものばかりです。
牧冬吉さん追悼のコメントの中の些細なことについて、1つだけ。
記憶に基いて振り返ってみますと、確か、霧の遁兵衛は、最初、大瀬康一が演じていた隠密剣士の敵役として登場し、途中から、改心して見方になるというような展開だったと思います。
この画像にあるような黒い装束を身に纏っているのが伊賀流忍者で、グレーの装束が甲賀流忍者というようなことになっていたと記憶しています。
最近TV版が復刻されましたが、正義の味方を演じることの多かった伊賀忍者がグレーの忍者装束で、甲賀、風魔等敵役が黒の忍者装束でした。
主宰者から
1999.08.23
私も、今年の初めくらいに、市川市のHMさんに教えていただいた第1回と最終回が収録された昔のヒーローTVドラマ3本(「月光仮面」「快傑ハリマオ」「隠密剣士」)を購入してまいりましたが、なかなか、まとまった時間が取れずに、まだ、見ておりません。
「隠密剣士」も、できるだけ早く見たいと思っております。
おっしゃる通り、牧冬吉さんが演じていた“霧の遁兵衛”は、最初、敵役だったのに、途中から味方に転じたと記憶しています。
また、ビデオを見て、新たに気付いたことなどがありましたら、報告させていただこうと思っています。
今後とも、よろしくお願いします。
 
千葉県市川市・HMさん(40代男性)
1999.08.22 … 「あなたが選ぶ60年代・10大ニュース」
鈴木さん、お体いかがですか?
市川のMです。
今、NHKBS−1で、「あなたが選ぶ世界の20世紀・10大ニュース」という番組を見ていましたところ、このようなテーマは、この「60年代通信」こそ、ふさわしいテーマではないかと思いつきメールを書いています。
テツオ様の「60年代の給食アンケート」と並ぶくらいのテーマなんではないかと思います。
…とかなんとか言いながら、私の独断で書いているわけでありますので、独り言と思ってお許しください。
ところで、私の選ぶ「60年代・10大ニュース」といいますと、
10位ー「週間少年マガジン」創刊される(1959年)
9位ー第4回日本グランプリで、生沢徹が日産チームを破り優勝(1967年)
8位ー日本初テレビアニメ「鉄腕アトム」が放送される。(1963年)
7位ーヴェンチャーズなどのエレキブームが起きる(1965年)連動して、加山雄三ブームも起きる。
6位ーGSブーム社会現象になる(1966年〜)。
5位ーテレビ特撮番組「ウルトラQ」「ウルトラマン」が放送、ブームとなる(1965〜66年)
4位ー「ゴジラ」「ガメラ」などの怪獣映画ブームが起きる。
3位ー東京オリンピック開催(1964年)。
2位ーモデルカー・レーシングが突如ブームとなる(1966年)。
1位ーアポロ11号・月面着陸・歩行成功(テレビ中継・1969年)。
次点ーケネディ暗殺(1963年)。
次点ー新潟地震(1964年ー1位でも良かったのですが、すみません!)。
次点ー銃砲所持で、桑田二郎逮捕(エイトマンが突如終わりショックでした!)
などなど・・・、限りなくまとめられません。
本当に、60年代だけでもいろいろあったのだとしみじみ思ってしまいます。
なんか、取り止めも無い内容となってしまい本当に申し訳ございません。
VIVA!60年代と言いながら終わらせていただきます。
主宰者から
1999.08.22
昨晩、次男を連れて、新潟県長岡市の実家に着きました。
明日と明後日は、磐越西線を新津(新潟県)から会津若松(福島県)まで走っている蒸気機関車「SLばんえつ物語」号に、お袋と次男と私の3人で乗ってきます。
会津若松の東山温泉に一泊し、明後日は、会津鉄道会津線の渓谷美の中を走るトロッコ列車「会津浪漫号」にも乗る予定で、電車狂いの次男は、もう今から、大喜び・大はしゃぎです。
次男は、今日も、朝から、私の姉に駅や操車場に連れていってもらい、ローカル線やら貨物列車やら信越線の特急列車などを沢山見てきて、夕方からは、東京から宅急便で送ったプラレールで遊び続けておりました。
明日の朝は早起きしなければいけないので、9時過ぎに次男を寝かせつけているうちに一緒に眠りこんでしまい、深夜零時を回ってから起き出して、パソコンに向かっているという、あまり良くないパターンに陥っております。
眠り込んでいたためもありますし、もともと、実家では、私が自由に衛星放送を見ることが出来るような環境が確保されていないこともありまして、「あなたが選ぶ世界の20世紀・10大ニュース」は見ておりませんが、「60年代通信」でも、何れ、Mさんがおっしゃるような「10大ニュース・アンケート」などというのも出来たらいいなとは思っています。
そのためにも、中途ハンパな年表ばかりになっている「60年代のカレンダー」のコーナー辺りをもっと充実させて、60年代という時代を俯瞰しやすいような材料を、皆様に、ご提供申し上げなければいけないのではないか、などと考えております。
長岡という町は、小さい割には、古本屋が結構、充実しておりまして、今日も、お昼過ぎから自転車で古本屋巡りをしてまいりまして、ビンボーをも顧みず、年表作成の参考になりそうな古本を沢山購入してきました。
夏休みとはいえ、例によりまして、仕事も大量に持ち帰っておりますが、会津から戻りましたら、休み中に、企画ページを何ページ分か作らせていただけるよう、頑張りたいと思っています。
お昼に雨が降り、夜になってからは、ちょっと涼しい風も吹いたりして、長岡は、幾分、凌ぎやすい感じになってきております。
東京は、いかがでしょうか。
それでは、また、引き続きまして、よろしくお願いいたします。
 
えちごやさん
1999.08.22 … おしゃべり九官鳥について
はじめまして。
とあるところからこのホームページを知りやってきました。
もう、懐かしくて感激です。
私、グリコにいまして・・・
社史を調べましたところ、確かにおしゃべり九官鳥はジュニア・ミス・ミセスの3種類ありました。
ひもを引っ張ると録音されている10とおりの言葉のどれかをおしゃべりするものとありました。
それぞれ、おしゃべりの内容がちがったのではないでしょうか・・・
社史のポスターには「ハートマーク5枚でもれなくプレゼント」とありました。(なんかすごい太っ腹)
46年の公正取引委員会公正競争規約で絵合わせによる景品の提供が禁止されて、業界においては、以後、このようなシステムのキャンペーンは行えなくなったそうです。
主宰者から
1999.08.22
メーカーにいらっしゃる方ならではの情報をお知らせいただき、重ねてありがとうございます。
製菓業界の公正競争規約によって、絵合わせによる景品提供が禁止されたのは、業者間の過当競争を防ぐというよりも、消費者、とりわけ、子供達の射幸心をいたずらにあおるから、というような理由だったのでしょうか。
他社のお話になって恐縮ですが、キョロちゃんのオモチャの缶詰は、ずっと継続されているようですが、あれも、銀のクチバシを5枚集めなければならず、絵合わせとどこが違うんだろうという気もしないでもありませんが。
また、昭和46年当時に作られた公正競争規約の該当規定は、まだ、生きているのでしょうか。
何れにしましても、1960年代当時の、製菓業界の販促キャンペーン関係を振り返ってみますと、とにかく、グリコとカネボウハリスの景品攻勢というのは、ハンパじゃなかったように思いますし、結構、太っ腹だったような気がします。
しばらくデータ更新から遠ざかっていますが、また、お菓子関連やカレー関連などのCM関連ページも作らせていただこうと思っておりますので、また、何か、お気づきのことでもありましたら、色々とご教示いただけると有り難いです。
今後とも、引き続きまして、よろしくお願いいたします。
 
ベンジャミンさん(男性)
1999.08.21 … 橋幸夫の’66年レコ大受賞
鈴木さん、こんにちは。
’66年の橋幸夫のレコード大賞受賞ですが、以前読んだ分厚いインタビュー本(たしかワイズ出版から出ていましたが、タイトルは忘れました)の中でこの事について、自分では「雨の中の二人」(’65年の秋頃の発売?)で勝負したいと考えていたのに、発売時期の問題とか色々出てきて、自分でもよく分からないうちに「霧氷」での受賞になった云々、と語っていました。
私は、この年の大賞発表当時、「霧氷」という曲を知らず、加山雄三の問題抜きにして、何故この曲がレコード大賞なの?という思いにまずとらわれた事を覚えています。
御三家とは言っても、舟木がデビューした時点では、すでに橋は大スターとしての地位を確保していましたから、デビュー年度で考えるなら舟木・西郷・三田をトリオとして、橋はその上の別格と考える方がむしろ自然です。
ですから、橋の心中としては、何故、自分が後輩と一緒に御三家などと括られなければならないのか、という思いはあったはずですが、レコード会社のビクターは、それ以上にこの格を意識していたようです。
この年で言えば、特に対舟木、対コロムビアの意識が強かったはずで、鈴木さんも書かれていたように、ビクターが賞取りに総力をあげた結果が、’66年の大賞となったのだと思います。
佐々木新一は、東映の大忍術映画「ワタリ」の主題歌が、私にとっては一番思い出深いです。チープな特撮とともに、あの「わぁ〜たぁ〜りぃ〜」という唄いだしが忘れられません。
主宰者から
1999.08.21
メール、ありがとうございます。
おっしゃるように、「霧氷」という曲自体に対する違和感というのは、橋さんのファンの方であっても、感じられていたのではないかという気がします。
ご指摘のあった「雨の中の二人」は1966(昭和41)年2月の発売で、「霧氷」がリリースされたのは1966(昭和41)年の11月でありました。
既に、「懐かしの歌本の世界」でも書かせていただいたように、この年のレコード大賞が決定したのは、12月1日のことでありまして、「霧氷」は発売直後に、レコ大を受賞することになってしまったわけです。
レコード大賞の場合、基本的には、楽曲に対して与えられるものではありますが、一定期間の活躍を踏まえた上で、レコ大候補に上がり、たまたま、レコ大の審査対象期間に最も売れた曲が受賞対象になるというようなケースと、それこそ、実力歌手の方が一発で大賞を受賞してしまったり、楽曲そのもののインパクトの強さで大賞を受賞するようなケースと、いくつかの類型に分けられるような気がしております。
仮に、一定期間に高い人気を維持し、レコードの売上累計も相当水準に達して、然るべきタイミングで発売された曲が大賞を受賞してしまうケースを類型A、もともと安定した人気を維持している実力歌手の方が佳曲に恵まれて大賞を受賞するケースを類型B、長期間にわたる人気とかレコードの売上累計というようなことよりも曲そのもののインパクトの強さで大賞を受賞するケースを類型C、というような感じで、極めて大雑把に分類させていただき、私がレコ大を最も関心を持ってみていた昭和40年代から50年代半ばにかけての受賞曲を振り返ってみますと、次のような感じになるかと思います。
1965(昭和40)年・第7回=柔(美空ひばり)…A+B混合型ながらも、よりAの色彩が強いケース
1966(昭和41)年・第8回=霧氷(橋幸夫)…A+Bの混合型ながらも、よりBの色彩が強いケース
1967(昭和42)年・第9回=ブルーシャトウ(ブルーコメッツ)…Aのケース
1968(昭和43)年・第10回=天使の誘惑(黛ジュン)…Aのケース
1969(昭和44)年・第11回=いいじゃないの幸せならば(佐良直美)…B+C混合型ながら、よりBの色彩が強いケース
1970(昭和45)年・第12回=今日でお別れ(菅原洋一)…典型的なBのケース
1971(昭和46)年・第13回=また逢う日まで(尾崎紀世彦)…典型的なCのケース
1972(昭和47)年・第14回=喝采(ちあきなおみ)…B+C混合型ながらも、よりCの色彩が強いケース
1973(昭和48)年・第15回=夜空(五木ひろし)…Aのケース
1974(昭和49)年・第16回=襟裳岬(森進一)…A+B+C混合型ながらも、よりBの色彩が強いケース
1975(昭和50)年・第17回=シクラメンのかほり(布施明)…A+B+C混合型ながらも、よりCの色彩が強いケース
1976(昭和51)年・第18回=北の宿から(都はるみ)…A+B混合型ながら、よりBの色彩が強いケース
1977(昭和52)年・第19回=勝手にしやがれ(沢田研二)…A+B混合型ながら、よりAの色彩が強いケース
1978(昭和53)年・第20回=UFO(ピンク・レディ)…Aのケース
1979(昭和54)年・第21回=魅せられて(ジュティ・オング)…典型的なCのケース
1980(昭和55)年・第22回=雨の慕情(八代亜紀)…A+B混合型ながら、よりAの色彩の強いケース
1981(昭和56)年・第23回=ルビーの指輪(寺尾総)…典型的なCのケース
…というような感じかと思いますが、いかがでしょうか。
1966年の場合、橋さんにしても、舟木さんにしても、加山さんにしても、皆さん、その評価類型としては、Aのケースになるものと多くの人が思っていたところに、BまたはC的な評価基準も入りこみ、3人の中でも、恐らく、BまたはC的な観点から、「霧氷」の評価が高かったということだったのではないかと思います。「霧氷」がレコ大を受賞したことに対する違和感は、その発売時期と評価観点にあったのだろうと考えるわけです。
レコード会社による働きかけというのも、特定歌手なり特定楽曲への誘導を図るというよりも、その年のレコ大の評価傾向として、私が勝手に類型分けさせていただいた、A、B、Cのうち、どの部分でアピールしていくのが最も有効かという辺りの見極めが、結構、大事なポイントになっていたのではないかというような気もしております。
例えば、意外性ということでは、1972(昭和47)年の「喝采」のケースが「霧氷」のケースに近かったのではないかという気がします。
つまり、この年の場合、類型Aの評価観点から言えば、誰が見ても、レコ大候補の最右翼は、小柳ルミ子の「瀬戸の花嫁」だったわけですが、レコ大の審査傾向としては、BあるいはC的な観点からの評価基準がより重んじられ、その結果、下馬評を覆す形で、「喝采」が大賞を受賞したのではないかと思います。
発売のタイミングで見ても、「瀬戸の花嫁」が4月ということで、十分な助走期間を確保していたのに対し、「喝采」のリリースは9月ということで、瞬発力で勝負という感じでした。
つまり、「霧氷」の場合も、その瞬発力という意味合いで、加山さんや舟木さんを上回ることに成功したという見方も出来るのではないかと思うわけです。
私の類型でいうと、「霧氷」はCに近いB、「喝采」はBに近いCだったと言えるのではないかと考えます。
などと、勝手なことを書かせていただいたわけですが、また、ベンジャミンさんや皆様からのご感想などもお聞かせいただければと思います。
特に、第1回から第6回までについては、イメージ的に無理やり類型分けできなくもありませんが、リアルタイマーとしての皮膚感覚での物言いが出来ないため、的外れの類型分けになる恐れも大きいと思いますので、是非、リアルタイマーの皆さんからのご意見をお聞かせいただければと思います。
よろしくお願いいたします。
P.S.
「ワタリ」の主題歌も、佐々木新一さんが歌われていたというのは知りませんでした。
「ワタリ」の映画のビデオも、資料の山に埋もれて、行方不明状態ですが、早く、発掘して、確認してみたいと思います。
 
神奈川県藤沢市・テツオ君(40代男性)
1999.08.21 … 暑さでパーになっています
何か月も音信が途絶えていた、テツオです。
もう、覚えている人もあまりいないかな……。
本人の実感としては「せいぜい何か月ご無沙汰しただけのこと」なのですが、この何か月という期間が、インターネットの場合、ほとんど死滅にも等しい長さの時間経過らしいのだ、と今更に思っております。
が、しかし、私の態度はこれで見事に改まるのかといいますと、ま、……あんまり変わりそうもありません。
ともかく、またしても溜まりにたまった3か月もの更新データ(主に「お便り」)を一気に印刷し、片っ端から読んで、重複しないことにのみ一気にドバッと嘴をいれるという、同時性をむねとするインターネットの原則から「見事に」逸脱した方法で、今回も送信することといたしましょう。
「テツオの部屋」も完全に休眠状態ですが、この点は深く反省しております。せっかく主宰者にコーナーをいただいたというのに。給食アンケートの中間報告もあっていいでしょうから、必ず復活します。もうちょっと時間を下さい。
それにしても、暑い日が続きますね。
もう15年以上前だと思いますが、主宰者から「暑さでパーになりました」と印刷された暑中見舞いをもらったのを思い出しました。このフレーズは意外としぶとく我々一家の頭の片隅に生き残っており、毎年夏になると「暑さでパーになりました」のセリフが家の中で飛び交うのであります。
●「60年代」ということの普及について
主宰者も何度かおっしゃっているように、確かに「60年代」は確実にその市場を広げているのかもしれませんなあ。自身の実人生のうえでは何の関係もない方々が次々とこのサイトへ参入してくるのを目の当たりにすると、そう認めざるを得ません。これを書いている20日の夜だけでも、テレビでは「コント55号の同窓会」や「驚きモモの木20世紀」(ラジオ体操)などの番組がひしめいております。いずれも60年代と深い縁のテーマであります。
ところで、ラジオ体操をやっているこどもたちが悪いのか、前へ出て見本をやってくれるお母さんたちの気が利かないのか、左右を普通に演技する(つまり左から先に動く))お母さんたちと鏡の関係にあるために、こどもたち全員が見本につられて左右逆に(つまり右を先に)演技してしまうっての、何とかなりませんかねえ。ラジオ体操は、必ず左から始めなきゃいけないのに。もっとも、そう思うくせに前へしゃしゃり出て「お前らちがうぞ。こうやるんだぞ」と仕切ってしまう勇気もない私なんでありますが。
だいたい、7月のうちに終わりにしてしまうラジオ体操なんて意味あるのか?
おれの頃は8月31日までやってたぞ。でも家でそんなこというと「じゃお父さんが主催してやれば?子供会でやらされるお母さんたちの身にもなってみなさいよ」という反論が判で押したように返ってくるのであります。
●ショパン「小犬のワルツ」と胸焼け
私事ですが、中一の息子は今ピアノのレッスンで「小犬のワルツ」を練習しています。ピアノ自体には全く熱心でないくせに、バスケの部活やスイミング、通信教育と毎日目白押しのメニューの中からピアノを摘んでポイする勇気もまた無い我が息子は、非常にゆっくりとしたリズムでちょうど食事の時間のバックグラウンド音楽代わりに(練習したくないのでいつも夕食時になっても終わらせてない)、このショパンの名曲を弾いてくれます。すると私には決まって蘇るのです、あの胸焼けが。
私が中学に入学したばかりの頃(1968年)です。お昼には持参してきた弁当を開いて、教室で食べるのですが、新クラスのためまだクラス全体に固さがあり、けっこうシーンと静かに食べる。
私の母は田舎者で、加えて年寄りでしたから、詰めてくれるおかずが何というか、今風にいえば、ダサイ。しょっぱい焼きたらこを1本まるごと入れてあることが多く、それをおかずにぎゅうぎゅうに詰め込んだ飯をかき込んでいると、だんだん胸焼けがしてくるのです。そこに流れてくる校内放送がいつも「小犬のワルツ」。私にとっては「小犬のワルツ」と焼きたらこの胸焼けとシーンとした静かな風景が、60年代の強烈な場面の1つとなっているわけであります。
●ギターについて
8月に入って、GS関連の、それも楽器についての話がここでは盛り上がっているようですが(一気に3か月分も読むと流れがよくわかる)、私は何もご提供する情報もございません。むしろアドバイスしていただきたい。これまた中一の、のんびり屋のくせにスケジュールが毎日パンパンの(のんびり屋だからか?)バカ息子が、最近ボランティアのフォーク・ギター教室へ止せばいいのに通っておりまして、ギターを欲しがっているんであります。
主宰者や発言者の皆さんと違って、早々とギターに挫折した小生といたしましては、いつまで続くかはわからぬものの、まあ、子にまっとうな練習はさせてあげたい。よしだたくろうの「夏休み」を弾いてくれたときは、つい私はうれしさに大声で歌ってしまったわけです。しかし予算は厳しい。せいぜい3万くらいでそれなりのものを買えるものでありましょうや。どなたかご教示下さい。エレキでなくて恐縮ですが。
●新企画「60年代の雑誌 懐かしの歌本の世界」について
うれしく拝見しました。
本の中で「第4部 懐かしのメロディー」とあります。いまでは一般名詞として(ナツメロ)完全に国民に浸透しているわけですが、この連語はいつから使われている表現なのでしょうか。ふと疑問になりました。
『月刊平凡』1967年2月号についての記述で「霧氷」がレコード大賞をとったことが出てきます。
また、HMさんの「お便り」でも、加山雄三の「夜空を仰いで」が本命だったのに意外や、「霧氷」がレコード大賞をさらった旨書いてあります。
しかし、その点が(自信はないのですが)実は私の記憶と違っていまして、私の記憶では本命は舟木一夫の「絶唱」だったはず。何か雑誌のような媒体でそういった記述をみたような気がするのですが。舟木一夫びいきが、記憶をも変えてしまったのかもしれません。主宰者のいう週刊誌の記事が事実なら、一方的な見方を記事にしたとは考えられませんから、完全に私の分が悪くなります。
荒木一郎さんは今年のNHK「ナツメロ」に出ていましたね。「空に星があるように」を朗々と歌ってくれました。恰好も、くたびれたヤクザみたいで、良かった。
ITさんの「お便り」にもありましたが、山内・和泉の「二人の銀座」も今年やりました。和泉雅子が気持ち悪くて、これもグッド。田代みどりさんも出て達者な歌声を聞かせてくれました。ここまでたくさん「60年代通信」とNHK「ナツメロ」が短期間に符合すると、偶然だけで説明がつきません。「60年代通信」のカバー力の顕れととるべきでしょうか。
●8月14日付けTKさんの発言について
NHKが17日に美空ひばり特集をやりましたね。つくづく凄い人だったのですね。特にあなたのおっしゃるように、若い頃。映画の中で歌う堂々たる風格は、やはり笠置シヅ子が彼女には自分の歌を歌うのを絶対に許さなかったのは、末恐ろしいどころかその時点で心底彼女に恐怖心をもっていたらしいからだ、ということに得心がいくわけであります。
●8月10日付けMUU星人さんの発言について
●8月4日付けHFさんの発言について
攸木千帆が主演したドラマは、「7人の孫」ではありません。確かに彼女がお手伝いさん役を演じたのは「7人の孫」で間違いありませんが、そのキャラクターを生かして主役に据えたドラマが別に作られたのです(たしか。弱気)。若妻というより若いお母さんだったような気がします。主宰者が忘れようとしても思い出せないドラマは、「お手伝いさん」に力点があるのではなく、主演していた方を指しているような気がするのですが。でも、詳細は覚えていません。
●8月5日付けHitomiさんの発言への主宰者発言について
「週刊20世紀」をもっとテーマ別に特化した出版を、とのことですが、私などはこのサイトの「お便り」コーナーにその考えをもちこんでは、と思いました。こういうコーナーは、いろいろなものが雑多にあるからいいのだ、という論理も成り立ちますが、お便りがある程度以上に専門化して進行していった後は、そのためのコーナーを新設してこれまで寄せられた材料を整理し、再掲し、続きはそこでやっていただくほうがいいのではないでしょうか。そのほうが「深めている人たち」にとっても効率的ですし、全く興味のない人はあの「洪水」に付き合わなくとも済むわけで。ちょっと言い過ぎましたが、貴重な情報をさらに生かす意味で、検討していただければ、と思います。やるのは大変だけどねー。誰かにやっていただく、という手もあるかも。一度に何か月分も読み飛ばす者だけが感じることでしょうか。
●7月29日付けNMさんの発言への主宰者の発言について
映画「山本五十六」の船のシーンは、加茂に間違いありません。このことには司馬遼太郎関連の本でも言及されていたので間違いないでしょう。
映画の割引券は、もちろん私も覚えております。薄い分だけどこかはかなく、いくつにも折ってポケットに入れ、いざ映画館で使おうとすると破けていたりしたこともありました。ぼくとしては、あの券を利用したといえば、圧倒的に東宝の怪獣映画でしたね。ゴジラシリーズ、そして「フランケンシュタイン対地底怪獣(バラゴン)」「フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ」。割引券は今でもやってます。我が娘は、今年も終業式の日に通知表とともに市内の映画館の割引券を持って帰ってきました。カラフルでした。
●7月30日付けFIさんの発言について
●7月28日付けNMさんの発言について
長岡の思い出、楽しく拝見しました。このサイトにも長岡関連のデータが相当量「読んでくれ・読んでくれ」と待っております。ひととおりお読みになったら、ご自身の思い出をさらに教えて下さい。お仲間が増えて喜んでおります。
●7月27日付けJMさんの発言について
給食アンケートへのご協力、ありがとうございました。鯨の立田揚げへの思い、痛いほどわかります。ご存じかもしれませんが、渋谷には「くじら屋」という鯨専門店があります。子供の時の、デフォルメされたあの鯨の味の記憶には及ぶべくもありませんが、まあまあの味でした。ただ、高い。鯨のくせに。しかたないか。
●7月26日付けSMさんの発言並びに主宰者の発言について
河井継之助を地元の一般人が恨んでいたというのは、主宰者同様私も全く実感がわきません。私の抱いた印象は、むしろ関心自体が薄いというものでした。司馬遼太郎さんが小説で有名にしてくれはしたものの、しょせんは中小藩の賊軍の大将。主宰者のいう生家も、私の記憶ではあれは生家そのものではなく、生家が戊辰戦争で焼けた跡に建った家だったはずです。扱いも粗末で、看板が一つ立っているだけで回りを囲いもしていない。一般的には忘れ去られた存在、というのが近いのではないでしょうか。
●7月23日付けFIさんの発言への主宰者の発言について
「森トンカツ」の「きっとあなたは」以降は、小生の記憶では、
きっと(りにく) あなたは(さび) 赤い(んげん) ばらの(りまき)
ばらの(りまき) かおりが(んも) 苦しくて(んぷら)
涙を そおおーっと 流す(し) でしょう(にぎり)
と歌ってました。無理やり作ったのかもしれません。それから、最後は「ブルマブルマー、ブルマシャトウ」と品悪く。
●7月20日付けtm−netさんの発言について
給食アンケートへのご協力、本当にありがとうございました。全然「遅く」なんかありません。なんせ仕掛け人は音信が途絶えるほどですから。スパゲッティがベスト5に入るあたり、tm−netさんと私との年齢差でしょうか。スパゲッティは私らの頃(62〜68年)も、特に高学年の時代には確かに出ましたが、客観的にみてとてもベスト5に入る代物ではなかったと思います。川崎小学校だけまずかったのかな?
カレールウについては、これだけで新たにひと盛り上がりしてもいいテーマではないかと思うくらいで、60年代に限らず颯爽と登場しては消えていったルウたちなど、取り上げて懐かしがってはいかがでしょう。メーカーは忘れましたが、ハワイアンカレー、メキシカンカレーなんてのもありましたよね。ひょっとしてメキシカンカレーのCMソングが、橋幸夫の例の「メキシカンロックーー ゴーゴー あゴーゴー」ではなかったでしょうか。
●7月19日付け祝進さんの発言について
「パパ行ってらっしゃい」は当時毎朝ご飯を食べながら聞いていたのを覚えています。当時は茶の間のテレビの役目をラジオが負っていましたから、ラジオがつけっぱなしになって流れているのです、朝は。夕飯の後も、皆で「とんち教室」を聞いていたりした記憶があります。
ところで、あのドラマは2人で全ての配役を演じてみせるという、声色のサーカスのようなドラマだったと思いますが、私の記憶ではメイコの相手役はどうしても小沢昭一だった。これは、思い出そうとしても忘れられません。10数年前に、テレビのバラエティ番組で久々に2人が「パパ行ってらっしゃい」を再現するという場面がありました。
メイコ:とうちゃん! すもうしようぜ。
小沢 :おお、ゴンか。しばらくみねえうちに、でかくなりやがって。
というわけなんです。
沼田曜一は間違いありませんか。ある時期に交代したということも考えられませんか。
●7月14日付けMUUさんの発言への主宰者の発言について
我等の母校・長岡高校のあの100周年記念行事のときの、厚生会館での司馬遼太郎さんの講演(1971年9月)が、ついに活字になりました。朝日新聞社『司馬遼太郎が語る日本 未公開講演録』です。ぼくの記憶は、確か奈良人の性質と長岡人のそれとを比較してしゃべっていた、という程度でしたが、無事そのくだりもありました。
もともと、私は司馬遼太郎にはあまり興味がなかったのですが、ある特別な機会があって、いやいや本をたくさん買っては調べ物をしたりしております。これは、その中で偶然見つけたものです。
(今回は、そんなとこで。またしても、あってはいけない長文でした。)
主宰者から
1999.08.21
テツオ君に成り代わり、改めまして、こんなとんでもない長文を読んでくださった皆様、誠にありがとうございます。
これだけ、まとめて感想を書かれると、それぞれへのコメントも大変なことになってしまうわけでありますが、私も、負けずに、せっせと書かせていただこうと思います。
●「子犬のワルツ」について
わたしも、この曲を聞くと、ほとんど、“パブロフの犬”のように、今でも、中学校時代の昼食時間を思い出します。その場面も、決まって、1年2組の教室でありまして、テツオ君が言うように、基本的には、私達が通っていた長岡市立東北中学校というのは弁当持参だったのですが、それでも、毎朝、お昼のパンの注文用紙が回ってきて、それに、希望のパンを書き込むと、お昼には、そのパンが届けられるというような仕組みもあり、私の場合、教室の昼食時間の風景とともに、その注文パンの代表メニューであったバタークリームの挟んであるコッペパンを思い出すのであります。
テツオ君や私にとって、ショパンの「子犬のワルツ」は、ほとんど「パブロフ犬のワルツ」とでも呼びたい曲なのであります。
●ギターについて
「む〜ぎわーらぁ ぼぉしぃはぁ もう き〜え〜た〜」、いやぁ、懐かしいです。
そんな金を出して、フォークギターなんか買わなくても、私が、会社の後輩から預かっている(ことになっている)ギターを1本あげます。
何しろ、テツオ君の息子は、私と誕生日が一緒という「奇跡の子」なのでありますから。
●1966年「第7回日本レコード大賞」について
私は、昨日の「お便りコーナー」のコメントで、ビクターがレコ大の受賞回数でコロンビアに並ばれるのを阻止するため、全社を挙げて、レコ大盗りに動いたというようなことを書かせていただき、当時の状況について、「本命・加山雄三、対抗・舟木一夫、大穴・橋幸夫」と表現させていただきましたが、テツオ君のいうように、特に、ビクターにとっては、「本命・舟木一夫」というような認識があり、御三家の中では初めてとなる単独のレコ大受賞を、舟木一夫さんに奪われることへの危機感の方が強かったのかもしれないという気がしてきました。御三家という表現でひとくくりにされていたとはいえ、最もデビューが早く、既に、吉永小百合様とのデュエット曲「いつでも夢を」でレコ大を受賞していた橋さんは、やはり、御三家の中でも、頭ひとつ抜け出た先輩格だったわけで、その面子にかけても、他の二人にレコ大単独受賞で先行されるわけにはいかないという思いが、ビクターによる全社を挙げて…というような展開につながっていったと考える方が、当時の、歌謡界の雰囲気を思うと、自然だったのかもしれないというような気がしてきています。
何れにしても、やはり、加山さんがワリを食う形となったことには、変わりはないことになりますが…。
●「お便りコーナー」のテーマ別構成について
実は、私も、テツオ君に指摘されたような「お便りコーナー」のテーマ別構成については、特に、「60年代の謎・なぞ・ナゾ」のコーナーが、途中で手におえなくなって、既に、かなりの長期にわたり放置されたままであるにも関わらず、ページ別のアクセス数で見ると、トップページに次ぐくらいの水準を維持していることから、その必然性を感じてきておりました。
そこで、今回の夏休みの帰省期間中に、その雛型となるようなページは、一度、作らせていただこうかと思っておりますので、また、よろしくお願いいたします。
●映画の割引券について
現在も、そういうことが行われている事実を知り、驚いております。
私の子供達が通っている日野市の小学校の場合、そういうことはありませんでしたが、考えてみれば、市内に映画館が1軒もないのですから、当然と言えば、当然だったわけであります。
そうすると、例えば、新宿区の小学校では、歌舞伎町辺りの映画館の割引券をもらったりしているのでしょうか。
私は、子供時代に映画の割引券をもらっていたのは、ひとえに、当時、長岡での芸能興行関係に大きな力を持っていたと思われるシバタ観光の影響ではないかと思っていたのですが、現在も、藤沢市辺りで、同じようなことが行われているとすると、そういう地元の興行関係会社の思惑というよりも、夏休み中に、子供達の文化活動の一環として、映画鑑賞を推奨するというような教育的意味合いの方が大きかったということなのかもしれません。
そんなことに、今ごろ気がついた、愚かなオヤジであります。
●給食アンケートについて
相変わらず、言うばっかりの“うどん屋の釜”状態が続いておりますが、近いうちに、必ず、「60年代のくらし」のコーナーとして「学校給食」を取り上げさせていただき、この給食アンケートをもっと盛り上げさせていただこうと思っておりますので、いま暫く、お待ちください。
●「ブルーシャトウ」の替え歌について
サビ以降の部分についても、替え歌が存在していたことは、恥ずかしながら、知りませんでした。
●「パパ行ってらっしゃい」について
私も、個人的には、小沢昭一さんも出演されていたとしたら、嬉しいなと思ったりしておりますが、テツオ君とは、逆に、この番組に小沢昭一さんが出演されていたという記憶は、全く、ありません。以前にも、書かせていただいたように、番組の最初か最後か分かりませんが、「出演・沼田曜一」というようなアナウンスがあったように覚えています。覚えていますというよりも、鼓膜に、その振動の跡が残っているような感じでさえあります。と言いつつ、それも、他の番組だったかもしれないという不安は残っているわけでありますが…。
●司馬遼太郎さんの講演について
朝日新聞社『司馬遼太郎が語る日本 未公開講演録』については、確か、司馬さんが亡くなられた後、『週刊朝日』でシリーズ連載されていた時に、長岡高校の創立100周年記念イベントでの講演も採録され、その号を買って読もうと思いつつ、買いそびれてしまったものなので、改めて購入し、読ませていただこうと思います。
…ということで、テツオ君にしても、私にしても、こうして平気で長文を書かせていただいてしまう人間でありまして、皆様には、迷惑この上ないだろうというのは、容易に想像されるところでありますが、どうか、ご容赦いただきたく、皆様のご理解とご寛容をお願い申し上げる次第であります。
 
蛞蝓なめちゃん(男性)
1999.08.21 … 1961年の平凡付録歌本
こんばんは。
60年代の歌本でございますが、珍しいところで、平凡1961年3月号付録と6月号付録をご紹介します。
手にとると くしゃみが止まらず、ぱらぱらとめくったあと しばらくすると、からだがかゆくなるという、おそろしい本です。あはは。
● 平凡3月号付録
いきなり、タイトルが「あなたのリクエスト ジャズと歌謡曲」でございます。
ジャズと言っても、当時は「洋楽」は全部「ジャズ」と呼んでいたようで、しかもこの本に掲載されているのは日本人のカバー版がほとんどです。田代みどり「パイナップルプリンセス」、森山加代子「恋の汽車ポッポ」、ザ・ピーナッツ「マイホームタウン」、坂本九「遥かなるアラモ」なんていうのが「ジャズ」に相当するようですね。
本文は縦書きなのですが、左綴じでございます。
表紙は橋幸夫さんと島倉千代子 さん。表紙とも180ページあります。
● 平凡6月号付録
こちらは「歌のバースデーショー」。右綴じです。
表紙は佐川ミツオさんと森山 加代子さんです。
そのころ「平凡歌のバースデー・ショー」というのがフジテレ ビ系で放送されていたようで、放送局・放送日時の一覧が掲載されています。東京/大阪/福岡が同時ネットで火曜日の21:15〜21:45
です。
裏表紙には、ソニーの トランジスタテレビの広告がありまして、8-301型 \69,800
となっております。
主宰者から
1999.08.21
いつも、いつも、本当に、ありがとうございます。
こんなに貴重な歌本の画像をお送りいただき、御礼の言葉も見つかりません。
60年代の歌本については、ありそうなところには、色々と当たってみましたが、まとまった形で保存されているところはないようですので、当時の歌本の世界を再現するには、こうして、皆さんのお手元に残っているようなものを、地道に積み上げていかなければならないのかもしれません。
大宅文庫は、『週刊平凡』や『週刊明星』は比較的、充実して揃っておりますが、『月刊平凡』や『月刊明星』については、60年代のものは殆どありませんし、付録の歌本にいたっては、80年代以降くらいからしか、ありませんでした。国会図書館も、欠番が多いものの、本誌はそれなりに揃っていても、付録の歌本となると、やはり、60年代以前は壊滅状態です。
以前、マガジンハウスと集英社に問い合わせたこともあるのですが、どちらも、基本的には、付録のバックナンバーまで保存するというようなことはしていないようでした。電話に出てくださったのが若い方で、失礼ながら「木でハナをくくったような」回答しかしていただけず、60年代当時、実際に、歌本の編集をされていた担当の方の手元に残ったりしているようなことがあるかどうかというような話もさせていただきたかったのですが、そういう雰囲気ではありませんでしたので、そのまま、電話を切ってしまいました。
版元にも保存されていないということであれば、「全日本“60年代の歌本”保存推進連絡協議会」といったようなものを組織して、全国的に保存運動を盛り上げるというようなことでもしなければ、などと半ば本気で考えたりしえいる次第であります。60年代の大衆文化、とりわけ歌謡曲の普及という意味合いで大きな役割を果たしたはずの歌本文化の存在を、後世の人々にきちんと伝えることは、60年代を愛する私達に与えられた歴史的使命なのではないか、などと、このクソ暑い土曜日の朝から、40オヤジの妄想は広がっていくわけでありまして、その私の横では、カミさんが冷たい視線を投げかけたりしている悲しい状況だったりしております。
ということで、「懐かしの歌本世界」は、そうした40オヤジに課せられた歴史的使命を果たすという意味合いも含めまして、ちょっと、力を入れて頑張ってみようと思っておりますので、引き続き、よろしくお願いいたします。
P.S.
蛞蝓なめちゃんがお持ちの歌本も、風化して粉々になってしまう前に、ぜひ、全ページをデジタル化して保存するようなことを、マガジンハウスがやるべきだと思います。というのは、冗談としても、どうか、大切に保存していただきますよう、お願い申し上げます。
 
“「60年代通信」掲示板”(http://www64.tcup.com/6405/kiyomi60.html)
を開設いたしましたので、ご活用ください。よろしくお願いします。
「読者の皆様からの暖かい励ましのお便りコーナー」
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