「読者の皆様からの暖かい励ましのお便りコーナー」
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このページは、皆様から、「60年代通信」宛てに頂戴したEメールを紹介させていただくコーナーです。
いただいたEメールは、誹謗・中傷やそれに類するもの、あるいは、公序良俗に反するものでない限り、基本的に、原文のまま、掲載させていただく方針ですが、用字用語の修正をさせていただく場合があるほか、お名前は、イニシャルあるいはペンネームに代えさせていただいておりますので、ご了承いただければと思います。
頂いたEメールの掲載について、ご意見、ご希望のある方は、ご遠慮なくお申し出ください。
皆様から頂戴するEメールだけが、シコシコと家庭内手工業でページを作っている主宰者の唯一の励みとなっておりますので、異論・反論・ご批判など、何でも結構ですので、よろしくお願いいたします。
千葉県市川市・4nQさん(男性)1999.12.19

… こんにちは(続・少年雑誌のコマ割り漫画の量)
東京都武蔵野市・初恋天使さん(男性)
1999.12.19 
… 60年代東宝特撮映画の補足など
nakanisiさん(男性)
1999.12.19 
… 私の思い出レポートその2(2代目「意地悪ばあさん」)
米国ペンシルバニア州・MSさん(男性)
1999.12.18 
… はじめまして
東京都武蔵野市・初恋天使さん(男性)
1999.12.18 
… 60年代東宝特撮映画と星由利子さん
nakanisiさん(男性)
1999.12.17 
… フライマン追記
kuroiwaさん(男性)
1999.12.16 
…東京シャープサウンズ クリスマスコンサート曲目決定のお知らせ
テツオ君(40代男性)
1999.12.16 
… 励ましのお便り:アナーと呼んでください
千葉県市川市・4nQさん(男性)
1999.12.16 
… はじめまして(少年雑誌のコマ割り漫画の量)
千葉県市川市・4nQさん(男性)1999.12.19
… こんにちは(続・少年雑誌のコマ割り漫画の量)
返信ありがとうございました。
なにぶん幼い頃の事で、かなり記憶が曖昧ですので、はっきりとは申せません。
コマ割り漫画の量については、記憶違いの可能性も大です。
実は、家ではマンガ雑誌は買ってもらえませんでした。これは親の教育方針でもあるでしょうし、貧しかったせいも有るでしょう。
買ってもらえる雑誌は小学館の付録付き月刊誌だけ。
これは「めばえ」「よいこ」「幼稚園」「小学○年生」とずっと与えられました。
ですから、昭和40年以前の床屋さんに置いてある「少年サンデー」「少年マガジン」は、いやな散髪で楽しみな部分でした。
しかし、そこでは、読める部分(と言うよりも見て楽しめる部分)を捜すのに、本をとっかえひっかえしていた記憶があります。
また、小学校に上がってからは、毎年夏休みに親の実家(福井県)に帰っていたのですが、外で遊ぶ事に飽きると、山のなかでTV電波も届かなかった(か、子どもだったので見れる番組を自分で捜せなかった)ので閑で閑で。
そこで、中学の教師をしていた、まだ若かった叔父が、学校で持ち込み禁止になってるマンガ雑誌をとりあげたものや、生徒から借りてくれた古本などを、夏休み中読んでいました。
だから、連載物より一話完結物が多かったかも知れません。それらの雑誌は確かサンデー、マガジンではなかったような気がします。
それらの作品で記憶にあるのは、全身が鏡状で周りの景色が映り込んで一見、見えないという設定の「ミラーマン」、浮き袋の様に腰にタイヤを着けて、探偵気取りでパイプを燻らす小学生の「ボンド君」(?)、そのほかにもいろいろあったのですが、楽しかったのに題名は覚えていません。
あとは、特集記事。
ネス湖のネッシーの話や、世界の七不思議、隕石衝突で○年に地球滅亡、みたいな記事をまじめに読んでました。
それから、挿し絵付き物語。トロイの木馬なんかはこれで知りました。
こういう類のものって、今の子供向け雑誌にあるんでしょうか?
全体の印象としては、今では(ビックコミックのような)青年誌に掲載されるような作品が、昔は少年誌に普通に掲載されていて、読者も年齢的に高かったのでは?と思っています。
私は成人以降、少年誌は読んでいませんが、それは内容的に低年齢化が進んでると思ってるからです。
ところで、最近、スーパージェッターのビデオが手に入りました。
懐かしかったのですが、今から考えると、ずいぶん単純な話と作りでも楽しめたんだな。という感じです。
それに比べると今の子供たちは恵まれていますね。
では、また見せて頂きます。
主宰者から
1999.12.19
「コマ割り漫画の量については、記憶違いの可能性も大」とおっしゃられておりますが、基本的に、読み物の分量が年を追うごとに減っていったことは間違いないと思います。
私が『サンデー』や『マガジン』を買いはじめたのは、昭和39年前後の1冊40円の頃でありましたが、当時は、恐らく、全体の4分の1程度は、読み物ページだったのではないかという気がします。
それが、中学に入る頃には、5分の1とか6分の1くらいになり、『ジャンプ』が出てきた頃からは、読み物ページは、ほとんど皆無というような状況に変わっていったと思います。
その辺の推移も、非常に興味がありますので、何れ、「60年代のマンガ」のコーナーで番外編扱いとして取り上げさせていただきたいと考えております。
何れにしても、興味深いテーマをご提起いただく形となりまして、どうも、ありがとうございました。
P.S.
12.16付けの4nQさんから頂いたお便りへの「主宰者から」コメントが抜けていたのを今日になって気がつきました。
誠に失礼をいたしました。お詫び申し上げます。

東京都武蔵野市・初恋天使さん(男性)
1999.12.19 … 60年代東宝特撮映画の補足など
鈴木 様
こんにちは。
60年代東宝特撮映画補足
50年代としては
1954.11.3「ゴジラ」
1955.4.24「ゴジラの逆襲」
1956.5.29「怪獣王ゴジラ」
1956.12.26「空の怪獣ラドン」
1957.12.28「地球防衛軍」
1958.10.14「大怪獣バラン」
1959.12.26「宇宙大戦争」
私も「怪獣王」「バラン」除き見ております。
「ラドン」
「ラドン」はカラー作品であったことと、ジオラマ王を自認する私としても良く出来たミニチュアだと思っております。かわらの巻き上がるシーン、電車などが飛ぶシーンなどは正に秀逸、以後の作品に比べ大変リアルで細かな部分まで作りこまれたジオラマが使われています。従って他作品でも流用がされています。(戦争特撮は他作品の戦闘場面の流用は当たり前ですが)
「宇宙大戦争」
宇宙空間でのスピード感あふれる戦闘シーン。出てくるメカデザインがいわゆる当時としての未来風で非常に好ましいですね。メカ関係の作りこみや大きく見せる工夫など丹念な仕事がされています。月を侵略基地とした宇宙人「ナタール」との戦いの話しだったと思います。この作品の先輩格になる「地球防衛軍」はメーサ砲や「モゲラ」と言った人気のメカが出てきますね。こちらの侵略者は「ミステリアン」でした。
「空の色が変わって、石炭を吸い上げる映画」
これは「宇宙大怪獣ドゴラ」ですね。
私は近年、LDを買ってしまいました。
アニメーション+水中撮影したソフトビニールであったようですが、実体をなかなか見せないところが作品としてもそそるものがありました。着ぐるみ怪獣を見なれた私としては新鮮なものがありました。
[主宰者注:右の4枚の画像は初恋天使さんからお送りいただいたもので、ドゴラが石炭を吸い上げている場面は、上から2番目の画像です]
この辺りの作品は映画を見るものにとって、人類を守るために、いっしょになって考えて見てしまう面白みがあります。ヒーローモノや人類の味方怪獣が主人公の作品のような他力本願でない真剣な見方ですね。これは「ウルトラQ」などの楽しみと同じだと思います。
宝田明さんと水野久美さんの出演した特撮映画宝田さんは「世界大戦争」「モスラ対ゴジラ」「怪獣大戦争」「南海の大決闘」など、水野さんは「妖星ゴラス」「マタンゴ」「怪獣大戦争」「南海の大決闘」などですね。
男性の主演格は、他にフランキー堺、池部良、高島忠夫、夏木陽介、女性は星由利子さんの他、浜美枝、白川由美、香川京子と言ったところでしょうか。
特撮別冊マンガ、ソノシートについて雑誌社と映画会社のタイアップも含め様々なものがあったようですね。雑誌の口絵や表紙との連携、マンガ作家からのアイデア利用もあったようですね。さらにマルチプロダクツということで玩具、プラモデル、ソノシートといろいろあったようです。ソノシートに関しては、「キングコング対ゴジラ」で宣材用に、商品としては「怪獣総進撃」が最初であったようです。
金色の三頭怪獣・キングギドラ最初に劇場で見た時は圧巻でした。操演というんですね。あの動きとアニメ合成の出現。消える場面は当時としては凄かった。そして圧倒的な強さですね。
でもあんなものが宇宙を飛んでくる発想(実際はワープ?、金星人はゴジラなどを大きな球に入れて運搬をしていたが。)はもう枠を越えておりました。
以前の書きこみの研究も僅かながら進んでおりますが本日はこのあたりで。
今日の午後は妻と「エレキの若大将」を堪能してしまいました・・・。
主宰者から
1999.12.19
連夜のメール、ありがとうございます。
また、作品ごとの詳細なコメントまで頂き、重ねて、ありがとうございます。
白黒作品の妙にリアリティに溢れる画面の魅力については、今更、私ごときが改めて書かせていただくようなことではありませんが、でも、やっぱり、ゴジラの最初の作品は、大人になった今もなお、その迫力に感心してしまいます。
「ラドン」については、ちょっと、印象が薄くなっておりますので、富沢さんのご指摘も踏まえて、また、改めて、見直してみたいと思います。
「ドゴラ」は、昨日、メールをお送りした後に、「ヒドラ」ではなく「ドゴラ」だったことを思い出したのですが、「ヒドラ」という名前の怪獣もいたような…。やっぱり、そんな名前の怪獣はいませんでしたっけ。
怪獣映画の主演級ということでは、池部良さんや香川京子さんも懐かしいですね。
今年の年末年始は、工夫して少しくらい、録りためたままになっているビデオを見る時間も作るようにしたいと思います。

nakanisiさん(男性)
1999.12.19 … 私の思い出レポートその2(2代目「意地悪ばあさん」)
どうも、NAKANISIです。
お子さまのビデオ撮影うまくいってなによりでした。お慶び申し上げます。
掲示板に書かれていましたが、私も同感です。
私が小学生の頃、クラス全員が小さい時の写真を持ってきて見せ合うという知らせを受け、母に写真を出してもらいましたが、実は、兄の写真だったのです。後でその事を知らされショックでした。一枚も小さい時の写真がないなんて、上の兄の写真は生まれたときから、七五三の写真まで全部揃っているのに、と拗ねたこともあります。
しかし、虚弱体質でいつも病院通いをして、写真を残す余裕なんてなかったといまは思えるようにはなりました。
それでも、もし、タイムマシンがあれば、一枚でいい、幼かった自分の写真を取りに帰りたいという思いはいまも持ち続けています。
ちょっとまえふりが長かったですね。
本編にかかります。
「意地悪ばあさん」の2代目ですが、顔は憶えているのですが、名前がうろ覚えなのですが落語家であったのは間違いありません。それと、NTV系の12時からの番組に八代えいたさん、青島幸夫さん等と一緒に出てました。
名前はいろいろ考えましたが、古今亭志ん馬という名前が落ち着くようです。
ただ確証はありません。
続報があれば期待したいです。
内容にかんしてはもっと他に見ていた番組があったのかまったく覚えがありません。
申し訳ないです。
そのかわり青島版「意地悪ばあさん」は結構好きで憶えています。
佐藤英夫さん、日色ともゑさん、砂川啓介さんなど出演していたと思います。
主題歌も好きで、幸せなら手をたたこうの替え歌風に
〜♪意地悪をどんどんやりましょう、意地悪をもっとやりましょう
あ〜悪い奴等によくきく薬はなんてたって意地悪ですよ〜♪
と、細かいところはすこし違うかもしれませんが、こんなフレーズの繰り返しだったと思います。
この曲にあわせオープニングで青島幸夫さん演じる意地悪ばあさんが、駐車違反している自転車を誰も見てないと思って蹴倒します。
しかし、自転車の持ち主にしっかり見つかってしまい、慌てて買い物かごをもったまま、走って逃げるシーンを憶えています。
この当時の意地悪ドラマはいまのようにいじいじしてなくって、本当に痛快なものでした。
月曜ドラマランドでリメイクしていましたが、この頃の面白さにはとても及ばない物でしたね。
現在、元都知事の青島幸夫氏の意地悪ばあさん出演か?という噂もありますが、できたらこの当時の放送されたものを見てみたいですね。
最後にKiyomiさんのいわれた藤村侑弘さんの意地悪ばあさん説ですが、確かバッテン助川さんという方がいて、見かけは意地悪ばあさん風で、藤村さんによく風貌が似ていますから、この方と取り違えたのではないでしょうか?
もし違うようでしたら、お許し下さい。
また、懐かしい事を思い出した時、お便りさせて頂きます。
宜しくお願いします。
主宰者から
1999.12.19
「意地悪ばあさん」の2代目は落語家の方だということで、私も、何となく、その顔の輪郭などがぼんやりと浮かんできている感じですが、はっきりした顔にはならずに、名前も特定できません。
桂小金治さんをはじめ、ばあさん喋りが得意だった落語家の方のお顔も何人か浮かんできますが、情けないことに小金治さんの名前しか思い出せません。
私も、青島幸男さんが演じていた「意地悪ばあさん」のオープニング・タイトル・バックは、よく覚えています。
バッテン助川さんという方は、あまり、はっきり覚えていませんが、確かに、上方のお笑い芸人さんか何かで、藤村さんに似た感じの婆さん役が得意な方もいらっしゃたのを思い出しました。
何か、中途ハンパな返事で申し訳ありませんが、きっと、どなたか、お詳しい方がフォローしてくださるのを期待させていただこうと思います。
…というようなことで、どなたか、お詳しい方、お助けください。

米国ペンシルバニア州・MSさん(男性)
1999.12.18 … はじめまして
鈴木様
夏にやっとコンピュータが買えて、9月に60年代通信を見つけて以来、毎日拝見しております。
お便りしたかったのですが、夏に日本で買ってきた日本語のソフトウエアの入れ方がずっとわからず、今になって、ようやくインストールに成功した次第です。
メールのページも含めて全部読ませていただきました。
「ああ、このことなら、私にも何か書けるな」と思った御題は沢山あったのですが、すぐに、私が忘れていたり、知らなかったりした事を、大勢の方達が書かれていて、これはもう読むだけで楽しませていただこうと、思いました。
でもやっと日本語で、打てる様になったので、おくればせながらご挨拶したいと存じます。
私は、1958年、東京生まれの男です。早稲田で、鈴木様の後輩です。政治を82年に出ました。
大学院を追い出され、アメリカ暮らしが、もう15年です。
NCやVAのずっと北の、PENNSYLVANIA州PITTSBURGHにずっとすんでいます。
私は、鉄道が好きで、鉄道の話題が60年代エレジー以外には余り出てこないので、私にも何か書けるかなと思いました。
1.長岡の栃尾線は、鉄道好きの間では、質の高い線として有名でした。軽便ながら、スイス国鉄の軽量車両に範をとった美しい電車を数多く導入し、国鉄の多くの路線に先駆けて列車集中制御装置を取り入れもしました。長く残る線と思われていたので、70年代にはいって廃止が進められたときは、驚きまた悲しんだものでした。(日本の標準軌間である1.067Mは、国際的には軽便鉄道なので、欧米の鉄道本では、JRの在来線は、ナローゲージとして扱われています。)
2.映画に見る長岡の 青春の鐘 の写真で、とき号 として出てきているのは どうやら信越線特急の あさま号 の様です。前頭部のサインは、3文字です。ときのサインは、ひらがなの とき の下に小さい 朱鷺 と書かれたものでした。 また、当時の とき号は、先頭車の屋根上にヘッドライトと警笛をのせたタイプのクハ161−181が多く使われていたはずです。この映画の勇姿は、屋根上が、つるんとしたタイプが写っています。日本映画の鉄道に関する考証は、大変いいかげんで、登場人物が乗った列車の内外が、全然違う事が普通でした。おそらく、天気の都合で、とき号の走行写真が撮れず、高崎以南のどこかで、おなじ形式の あさま号を撮って間に合わせたのでしょう。大体こんな事、鉄道好きしか気にしないですよね。
3.どこかで、どなたかが 電車特急つばめ のことを書かれていました。
1958年にうまれた こだま号は、ビジネス特急という格付けで、はじめは3等車だけの編成でした。(まだ、1等から3等まであったころです。)その後2等車や、食堂車が作られ、そして1960年に、それまでの客車列車の つばめ号 と はと号に替わって 60年代前半の鉄道の華であったパーラーカーを連結した、豪華版電車特急として、こだま型電車によるつばめ号と はと号 がうまれたのでした。
伝統の客車特急には、展望車が連結されていましたが、パーラーカーは、それに替わるものとして登場しました。通路を挟んで両側にリクライニングシートが一列ずつだけあり、車両前方には、ソフアを備えた個室が設定されている、日本の電車とはおもえないような、贅沢な接客設備でした。
1964年に新幹線が開通し、パーラーカーの編成は山陽線に移りましたが、客がつかず、すぐにリクライニングシートは普通車に改造されてしまいました。
ところが、個室だけは、1970年代まで生き残り、私は、1973年に しおじ号 に使われているのを のぞいた事があります。
60年代モダーンの内装は、なんともいえぬいい味で、タイムトンネル を覗いたような気がしました。
60年代通信が、これほどまでに魅力的なのは、鈴木様の文章によるところが大きいとおもいます。
当たり前の文を読んでこんなに楽しい気持ちになれたのは、もしかしたら、内田百けん(漢字が見つからないときは、どうしたらいいんでしょうか)を読んで以来のことかもしれません。
さすがに,文筆の専門家の力には、すごいものがあります。
もうひとつは、長岡です。私が引き込まれたのは、60年代の長岡特集からでした。もう返らないあのころ。もう二度と会えない友達.町は違っても、切ない気持ちは同じです。
なんだかみんなのクラス会の幹事を押し付けてしまっているような気がします。
どうぞお体お大事に。
鉄道好きの息子さんに、くれぐれも宜しくおつたえください。
素晴らしいサイトを、本当にありがとうございます。
主宰者から
1999.12.18
身に余るお言葉をいただきまして、恐縮至極です。
鉄道がお好きな方に、「鉄道の話題」などと言っていただくにはあまりにもお粗末な内容の「60年代エレジー」をお読みいただいていたなんて、今更ながら、全身から冷や汗が吹き出るような思いです。
栃尾鉄道については、私も、後年、色々な本を読ませていただき、マニアの皆さんにも、それなりに評価されていた軽便鉄道だったことを知り、驚いているような次第です。
もうちょっと、当時のことが書いてあったり、当時の写真が掲載されているような資料があればと思い、一昨年の夏には、思い余って越後交通の本社広報まで訪ねてみましたが、社史に僅かな記録が残っているのみでした。
もし、関連資料や文献資料などで、参考になりそうなものをご存じであれば、ご教示願えませんでしょうか。
「青春の鐘」に出てくる特急電車が「あさま」というのは、さすがに、気がつかず、私は、てっきり「とき」だとばかり思いこんでおりました。
そうすると、長岡駅のプラットフォームで、撮影された場面も、ひょっとすると、「とき」ではなく、「いなほ」辺りだったりする可能性も、あるのでしょうか。
と思って、改めて、ホームページを見てみたら、駅のホームの場面では、車両にはっきりと「とき」のプレートが映っていました。
走行中の画像を見たら、ちょっと、注意してみたら、前頭部は、確かに、三文字で、しかも、そう言われて、目を凝らせば、「あさま」と読めないこともありません。
ウチも、私の父と祖父が鉄道員で、親父には、よく「お前も鉄道員になれ」と言われたものでありました。
親父は、国鉄職員時代、よく鉄道の写真集などの文献資料も買っておりまして、そうした資料が、今ごろ、役に立ったりしています。
ただ、私自身は、鉄道に詳しいわけではありませんので、また、折に触れて、
satoさんから、色々なことを教えていただければと思う次第です。
東京生まれで、現在は、米国に15年にもわたってお住まいの方に、私の長岡への思いが込められたページに共感していただくことが出来て、本当に嬉しく、ホームページを作らせていただいて良かったと思います。
おっしゃられる通り、それが、東京であろうと長岡であろうと、やはり、自分が育った時代の町並みや景観が失われていくことに対する気持ちに変わりはないでしょうし、私自身は、都電が走っていた頃の東京の風景や、現在、住んでいる京王線沿線の昔の写真などを目にすると、たまらなく懐かしい気持ちでいっぱいになります。
ヨタヨタと覚束ない状況ではありますが、これからも、「みんなのクラス会の幹事」などという大役は務まらないと思いますけれども、皆さんに「60年代」への思いを共感していただけるようなページ作りに励ませていただこうと考えておりますので、引き続きまして、よろしくお願いいたします。
どうも、ありがとうございました。
P.S.
1982年に政治学科を卒業されたそうですから、私とは、少なくとも3年ほど、同じ時期に、キャンパスにいらっしゃったことになりそうです。私は、1975年に入学し、2年遅れて、1981年の3月に卒業しました。私の友人や先輩も、何人か大学院におりましたので、あるいは、共通の知人などもいるかもしれません。
私が数少ない優をいただいたユニークなキャラクターの鴨先生は、国際政治学者として名を成され、東大で教鞭を執るまでになられながら、若くして亡くなられたのが、大変にショックでありました。

東京都武蔵野市・初恋天使さん(男性)
1999.12.18 … 60年代東宝特撮映画と星由利子さん
鈴木 様
お蔭様で、2週間(準備からは1ヶ月)続いたスケージュールも山場を越えることができました。
お気使いありがとうございます。
60年代東宝特撮映画と星由利子さん 「60年代通信」版“若大将シリーズ”クロニクル楽しみにさせて頂きます。
60年代の東宝映画と言えば、特撮映画はかかせませんね。
鈴木様もご覧になったでしょうか。
東宝特撮映画リスト(西村祐次「ゴジラ博物館」、東宝LD資料などより)
公開日 タイトル トピックス
1960.4.10 「電送人間」
1960.12.11 「ガス人間第一号」
1961.7.30 「モスラ」 カラーワイド版、小美人でピーナッツ出演
1961.10.8 「世界大戦争」 61年度芸術祭参加。
1962.3.21 「妖星ゴラス」
1962.8.11 「キングコング対ゴジラ」 東宝30年記念作品
1963.8.11 「マタンゴ」 怪奇シリーズ番外編。キノコ生物
1963.12.22 「海底軍艦」 ムウ帝国対「轟天号」
1964.4.29 「モスラ対ゴジラ」 怪獣映画10周年記念
1964.8.11 「宇宙大怪獣ドゴラ」 初の宇宙怪獣作品
1964.12.20 「地球最大の決戦」 怪獣映画初の正月映画
1965.8.8 「フランケンシュタイン対地底怪獣」
1965.12.19 「怪獣大戦争」 怪獣映画初の宇宙モノ
1966.7.31 「サンダ対ガイラ」
1966.12.17 「南海の大決闘」
1967.7.22 「キングコングの逆襲」
1967.12.16 「ゴジラの息子」
1968.8.1 「怪獣総進撃」
1969.7.26 「緯度0度大作戦」
1969.12.20 「オール怪獣大進撃」
私は61年から65年までを概略見ておりますが、「妖星ゴラス」「フランケンシュタイン対地底怪獣」はノンリアルタイムを含め見ておりません。
特に心に残るのは「モスラ」「マタンゴ」「海底軍艦」キャラとしての「キングギドラ」です。
「海底軍艦」
非常に強い影響を受けており、何年か前に月刊I/Oの付録として「海底軍艦」に似た設定の特撮CD−ROMムービーを作ったことがあります。
星由利子さんは怪獣モノにも出演されており、「モスラ対ゴジラ」「地球最大の決戦」には出ておられます。
確か新聞か週刊誌の記者役であったかと。
広い意味で特撮ものとなりますが、戦争もので、1963年公開作品「太平洋の翼」では加山雄三・星由利子という、若大将さながらの組み合わせがあります。
ご存知のように1963年当時は戦争ブームという背景もあって、映画も「海底軍艦」であったりする訳です。
「太平洋の翼」は紫電改で編成された戦隊実話の設定をもとにしておりますが、起死回生を狙いながら破滅への道を進む悲しい話で華々しい戦争ブームの中で幼心にも訴えるものがありました。
「海底軍艦」の原作は明治時代らしいのですが、これも太平洋戦争のからの尾を引きムー帝国に繋げる奇想天外な話となっております。
それにしても小松崎茂先生の「轟天号」などのメカデザインは秀逸でありました。
なおLDジャケット写真は後年撮ったものが含まれており、1963年当時存在しえないNゲージ鉄道模型部品を使ったものがあります。
1963年頃、自衛隊のF−86セイバーの部隊を設定にした映画「大空の○○?」(失念、制作会社も失念)があったように思うのですが、出演された俳優もまったく出て来ない、御祭りのシーンがあったような・・・
この時期、特撮ものと「若大将」は東宝の看板であったようです。
それを偲ぶ画像を前出参考文献より添付させて頂きます。
主宰者から
1999.12.18
若大将シリーズに続き、特撮・怪獣映画のリストまでお送りいただき、ありがとうございます。
私の場合、「ゴジラ」「ラドン」「モスラ」系は、大体、見ておりますが、その他の特撮映画は、幼稚園に入る前に家族で見に行った「宇宙大戦争」がかすかに記憶に残っている程度です。あとは、「ヒドラ」でしたでしょうか。空の色が変わって、石炭を吸い上げる映画も印象に残っております。
それから、怪獣映画の俳優さんでは、宝田明さんと水野久美さんの顔が浮かんできます。
『少年ブック』の別冊マンガにもなっていた「地球最大の決戦」、朝日ソノラマのソノシートを持っていた「南海の大決闘」の記憶が鮮明で、どちらも、水野久美さんが出演されていたと思います。
初恋天使さん同様、私も、X星人に操られていた金色の三頭怪獣・キングギドラの印象は鮮烈でありました。

nakanisiさん(男性)
1999.12.17 … フライマン追記
どうも。NAKANISIです。
「アマチュア カメラマン」の仕事具合は如何でしたでしょうか?
アットホーム的な暖かみが感じられてよかったです。
「フライマン」の件ありがとうございました。
あれから「フライマン」のドラマの一部を思い出しましたので、なにかの参考になればと思いEメールします。
その1:
フライマンの働くガソリンスタンドに悪の組織の女がフライマンを探しにやってきます。
最初にフライマンに接触しますが、あまりにさえない男ぶりに「この男は違うわね」とおもいます。
次に、スタンドで働いているもう一人の男に近づき、こちらの男をフライマンと勘違いします(おそらく、この男の吹き替えを漫才師の相方がしてたと思います)。
そして、捕らわれの身になって、例のスーパーパワーの出る秘薬を飲まされます。
しかし、「飛べ」と命令されても飛ぶ格好をしてぐるぐる走り回るだけ(このことから誰が飲んでもスーパーパワーがでるわけではないということがわかります)。
間違いに気づいた悪者は、今度は、本物のフライマンを騙して、捕らえます。
そしてまた薬を飲ませます。
今度はスーパーパワーで悪者を捕まえ、持ち上げます。
しかし、すぐ薬の効果がなくなりへなへなとなってしまいます。悪者曰く「薬の効果を数分にしてあるのさ」(薬の効果時間は大きさで決まっていたようです)
あとは、五里霧中です。
残念です。
その2:
ある陸上競技に潜入捜査することになり、選手として競技に出ます(もちろん薬は服用済みです)。
短距離走のスタートで、まわりの選手はスタートしてしまうのに、フライマンは「靴ヒモがほどけちゃったよ」と言い、靴ヒモを結び直して、走り出し、全員ごぼう抜きしてゴールインしてしまいます。
その他、いろんな陸上競技の面白シーンがあったと思いますが、それは忘れてしまいました。
いま、ドラマといえば暗く、現実味のあるものがリアリティがあるといってもてはやされていますが、こんな景気の悪い世の中だからこそ、「フライマン」のように現実離れしていても底抜けに楽しめる作品が必要なのではと思ってしまいます。
最後に、高松しげおの晴乃チック、タックの解散時期と言ったことの言い訳をします。
私にとって「フライマン」は衝撃的でした。晴乃・チック、タックの解散も衝撃でした。
このふたつの衝撃が高松しげおを通じて結びついてしまったようです。
思い返してみると晴乃チック、タックの解散時期に高松しげおがドラマに出ていたのは、「意地悪ばあさん」の3代目だったとおもいます。
以上、私の思い出レポートでした。
主宰者から
1999.12.17
詳細な「フライマン」追記をお送りいただき、ありがとうございました。
私は、一話として、ストーリーを覚えているものがありませんので、漫然と眺めているだけのドラマだったのか、それとも、それほど、関心がないまま、それほどの回数を見ておらず、あの「フライマ〜ン」の場面だけ、繰り返し、マネして遊んで頂けというようなレベルだったかもしれません。
「意地悪ばあさん」を高松しげおさんが演じていたという事実を、今回のnakanisi
さんのメールを読ませていただいて、思い出しました。
初代は、もちろん青島幸男さんだったと思いますが、そうすると、2代目は、どなただったのでしょうか。
あの頃、ばあさん役の得意だった俳優さんというと、藤村侑弘さん辺りの顔が浮かんできますし、何となく、藤村さんがやっていたような気までしてきてしまいますが…。

kuroiwaさん(男性)
1999.12.16 …東京シャープサウンズ クリスマスコンサート曲目決定のお知らせ
東京シャープサウンズ クリスマスコンサート曲目決定のお知らせ
12/22東急目蒲線「西小山駅」すぐ「JJ」 TEL:3791−7288
品川区小山6−1−6司ビル2階
「8時9時10時より3ステージ」、「お客様のカラオケタイムあり」会費飲み放題
プレゼントビンゴ有り:飲み食べ放題で¥4000円 7時開場
東京シャープサウンズとは30年程前に誕生したインストバンドです。
得意のレパはベンチャーズ、ブルージンズはもちろんシャープファイブの音源を基調としています。
TEL:03-5449-3060 東五反田1−19−10コーアビルの6階(五反田駅徒歩1分)
第1ステージ 8:00より
1.さくらさくら
2.ドナウ河の漣
3.ハンガリアンダンス
4.愛のリメンバー
5.北国の二人
6.二つのギタ−
7.夢見るギター
8.空飛ぶギター
9.タイガーマスク
10.幻のアマリリア
11.エルチョクロ
12.エマの面影
13.シャープサウンズのテーマ
第2ステージ 9:00より
1.未完成
2.雨の思い出
3.黒いカーネーション
4.青い渚
5.長い髪の少女
6.カルメン
7.真珠採り
8.津軽ジョンガラ節
9.思い出の渚
10.君は我が運命
11.さすらいのギター
12.ラ・クンパルシータ
13.シャープサウンズのテーマ
第3ステージ 10:00より
1.白鳥の湖
2.祇園小唄
3.トルコ行進曲
4.旅姿三人男
5.君といつまでも
6.ダイアモンドヘッド
7.パイプライン
8.霧のカレリア
9.太陽のあたる場所
10.悲しき街角
11.ストップザミュージック
12.奴さん
13.エルクンバンチェロ
14.春の海
15.ゴールデンイヤリング
予備 運命、だんご三兄弟、高校三年生、赤いハンカチ、僕は泣いっちち
Eメール:k559610@ms.tokyo.jcom.ne.jp
http://www.pastelnet.or.jp/users/mineclub/5
シャープファイブファンクラブ Eメール:mineclub@pastelnet.or.jp

テツオ君(40代男性)
1999.12.16 … 励ましのお便り:アナーと呼んでください
恐怖のアナログ人間・テツオです。
これからはぼくを「アナー」と呼んでください。
それにしても、長文のお便りがそんなにも罪深きこととは……。
「長すぎて迷惑だよなあ」とはもちろん思ってはいましたが、「それはそれで…大切なものなのかもしれない」などと回りくどく、傷つかないように配慮しつつも「対岸にいる人」扱いを受けますと、ぼくもさすがに目が覚めました。
どっちにしても可哀相な人間であります。
再びそれにしても、主宰者の言葉の中に「テツオ君に代わりお詫びします」の類があふれておりますが、一方で他のたくさんのみなさんは健康を気づかってもらったりしているのはどうしたことでしょう。体を気づかう発言を確かにぼくは投げてあげたりしませんけれども。ぼくだってしんどいこともあるんだけど。
12月12日付け主宰者の発言・メンコ
確かにぼくらの呼び方は「パッチン」でした。
負けたらとられるのは「ホントッパ」ではなく「ホンパ」だったと思いますが。
12月13日付け規君さん・給食
ご回答ありがとうございます。同い年というだけでぼくは友達が一人増えたような気になっています。
「土曜日の献立」なる表現が2回出ていますが、土曜日に給食があった事自体に驚いております。これは興味ある視点です。全国的にみて、また時代的にみて、土曜日の給食があった学校とそうでなかった学校との境界線は何だったのでしょうか。自分でも調べてみますが、ご存知の方がいらっしゃったらぜひご教示をお願いいたします。
12月13日AKさん・若大将
部屋の配置まで真似するとは、これをマニアと呼ばずしてだれをそう呼ぶでしょう。
ぼくはそこまでは知りませんが、実家のお店の設定は、焼肉屋ではなく「すき焼き屋」のはずですが。
12月14日付けYKさんの発言への主宰者発言・てなもんや
「ジェスチャー」のマンガと「てなもんや」のマンガが同じタッチだったと、ぼくも思います。
しかし、それ以上に強く思うのは(今思い出したのは)、例えば「スチャラカ社員」のオープニングもそうではなかったでしょうか、ということです。デフォルメされたミヤコ蝶々さんやダイマル・ラケットのマンガ映像が何となく浮かんでくるのですが。
さらに飛躍しますが、「ゴロンボ波止場」とか、関西系の公開お笑い劇場の番組はけっこう同じ手法だったということはありませんか。
でも、これ以上いうと、また、主宰者に安易な連想だといわれそうなのでやめておきます。
けっこう短かったでしょ。
え? これでも長いって?
主宰者から
1999.12.16
久しぶりに、インターバルの短いメールをいただきまして、ありがとうございます。
メールの長さは、私も人後に落ちないと自負しておりますので、内容第一で、あまり、その辺は気にしていただかなくてもいいのかな、などと、私も、「アナー」なことを考えております。
ま、短く出来るものは、短くした方がいいに越したことはないとは思いますが…。
さて、私も、「土曜日の給食」の実態については、どういう背景や地域的差異があったのか、大変に興味がありますので、今後も、継続課題として、色々と研究してみたいと思うところであります。
「スチャラカ社員」のオープニングのマンガは、あまり記憶にありませんが、当時は、あのタッチのマンガが、タイトルバックで使われているケースが、けっこう多かったのではないかというような気がしてきております。
というようなことで、私も、今回は、短い返信でまとめてみました。

千葉県市川市・4nQさん(男性)
1999.12.16 … はじめまして(少年雑誌のコマ割り漫画の量)
はじめまして。
見せていただきました。
もう、懐かしくて懐かしくて、たまらないです。
私は昭和35年(1960年)東京生れです。
ですから、60年代の漫画は半分くらいしか憶えていないとおもいます。とりあえず記憶に鮮明なところでは、「スーパージェッター」、「宇宙エース」、「宇宙少年ソラン」などなど。それから「宇宙パトロール、ホッパ」は、ほとんど記憶になかったのが、今回まざまざと思い出されました。
しかし、記憶にあるとはいうものの、なにぶんその頃は、まだ就学前の4、5歳児ですから、おそらくテレビで見ていても、全部の話の内容までは理解できていず、鮮明に憶えているものも、恐らく、なんどか再放送されているものを見て、記憶に定着されているのかとも思います。実際、ソランなどは東京では再放送で70年代になってもみた記憶があります。
それから、小学生くらいの年長の遊び友達が面白いと話す作品でも、年齢的に面白味を感じず見るのをやめた、0戦はやと、流星仮面などがありました。
また、TV放映以外に、みんな雑誌の連載があったなどというのは、はじめて知りました。
それは当時の少年誌が読み物中心でコマ割りのマンガが少なく、床屋で少年誌を広げても、幼稚園児には、かなり読む部分の制約があったため、巻頭のたとえば「ドテチンの家全図」などのような企画物(?)の見開きページを飽きもせずみていただけだったので、連載など知る由もありませんで。
それでも、なんとか雑誌が読めるようになった私が面白がった連載としては、「おばけのQ太郎」(単行本か小学館の雑誌かも)や「21エモン」などの藤子作品、作者はわかりませんが「ドテチン」、それから「花のぴゅんぴゅん丸」など。
特に「花の..」は東京地区では70年代始めに、夏休みの午前中の子どもアニメ特集として、毎日放映していましたのでよく憶えています。
また、小学生向けのレベルの高いマンガを見れなかった私は、よく外国アニメのお世話になっていました。
特に印象深いのが「ジェットソン一家」です。そのほかのタイニートウーン、ディズニーアニメなどにももちろんお世話になりました。
「ジェットソン一家」は10年くらい前にも一度、新作が有楽町の映画館にかかった事があったのですが、私が見にいったときには、客の入りが悪く他のと差し替えられてしまっていたという残念な思い出もあります。
まとまりなく書き綴ってしまいました。
これからも、期待していますので、無理のない範囲で頑張って下さい。
では。
千葉県市川市・ON(針灸師)
主宰者から
1999.12.16
昭和35年生まれでいらっしゃるそうですから、私と5歳違いということになりますけれども、私の印象としては、例えば、昭和40年前後辺りだと、もう、十分に少年誌のコマ割りマンガ掲載率というのは、かなりの高さになっていたのではないかと思えるのですが、「少年誌が読み物中心でコマ割りのマンガが少なく」とおっしゃっている辺りに、当時の年代での5歳という年齢差の大きさを改めて感じさせていただいたりしております。
やっぱり、私が5歳くらいの頃の少年誌に対する印象としては、読み物ページの比率が高かったというイメージがありまして、そのまた、ちょっと前の少年誌に比べると、コマ割りマンガの比率は間違いなく高かったことを考えると、今はもう姿を消してしまった月刊誌も含め、当時の少年誌は、1960年代を通じて、加速度的にコマ割りマンガの掲載比率を高めていったのではないかという気がしてきたりするわけであります。

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