「読者の皆様からの暖かい励ましのお便りコーナー」
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このページは、皆様から、「60年代通信」宛てに頂戴したEメールを紹介させていただくコーナーです。
いただいたEメールは、誹謗・中傷やそれに類するもの、あるいは、公序良俗に反するものでない限り、基本的に、原文のまま、掲載させていただく方針ですが、用字用語の修正をさせていただく場合があるほか、お名前は、イニシャルあるいはペンネームに代えさせていただいておりますので、ご了承いただければと思います。
頂いたEメールの掲載について、ご意見、ご希望のある方は、ご遠慮なくお申し出ください。
皆様から頂戴するEメールだけが、シコシコと家庭内手工業でページを作っている主宰者の唯一の励みとなっておりますので、異論・反論・ご批判など、何でも結構ですので、よろしくお願いいたします。
米国ペンシルバニア州・MSさん(40代男性)
1999.12.25 
… カウシルズ
米国ペンシルバニア州・MSさん(40代男性)
1999.12.24 
… テープ、ビートポップス
千葉県市川市・HMさん(40代男性)
1999.12.24 
… 丸物百貨店の謎
東京都武蔵野市・初恋天使さん(40代男性)
1999.12.23 
… 「マサチューセッツ」のあの頃
米国ペンシルバニア州・MSさん(40代男性)
1999.12.22 
… 丸物、読み物
米国ペンシルバニア州・MSさん(40代男性)
1999.12.21
… 栃尾鉄道他(「真赤な太陽」+鴨武彦先生)
米国ペンシルバニア州・MSさん(40代男性)
1999.12.25 … カウシルズ
鈴木様
短信です。
「牛も知ってるカウシルズ」のCowsill一家の一人娘Susan Cowsillが、ラジオのインタビュー番組にでました。
今は、だんなさんと、元Bangels(でいいのかな)の人とContinental Driftersというバンドを組んでいて、20世紀の歌と言うCDを出し、コンサートもしたようです。
この番組、なんと、インターネットで聞けます。
www.npr.org というのが、公共ラジオネットワークのHPで、これを開けると
"Fresh Air" という番組のページがあります。
そのarchiveの1999年12月20日が、カウシルさんです。
前半の30分くらいは、生の歌("Be My Baby" "The End of
the World"など,なつかしどころ)で、後半カウシルズ時代の思い出話をしています。
なんだか、「どこでもラジオ」みたいですね。
雪が降ってきました。
今夜は、ガチョウをやいて、餃子をつくって、お客さんをします。
さようなら。
主宰者から
1999.12.25
連日のメール、本当に、ありがとうございます。
どうやら、日本では、本格的なクリスマス・モード、あるいは、忘年会モードと申しましょうか、インターネットの世界も年末年始態勢に入りつつあるようで、「60年代通信」へのアクセス数も掲示板への書き込みも、目に見えて落ちてまいりました。
そうした中でのメールは、非常に、ありがたいものでありまして、本当に、感謝しております。
さきほど、教えていただいたホームページにアクセスし、“Past Fresh Air
programs”の中から12月20日分をピックアップし、サワリ部分だけですが、聞かせていただきました。アコースティック・バージョンの“Be
My Baby”、なかなか良かったです。
番組の内容もさることながら、挿入されているニュースも含めて、当該日の放送の該当部分を丸ごと聞けるというのは凄いことだと思います。
日本でのインターネット放送の現状は寡聞にして存知あげませんが、教えていただいたホームページは、おっしゃられるように、まさしく「いつでもラジオ」状態なわけでありまして、私としては、日本のラジオ局も、リアルタイムの番組だけでなく、もし、60年代の番組のテープが残っていたりするようであれば、時空を超えたオンデマンドのインターネット放送というのを、是非、実現していただけないものかと考えずにはいられません。
貧乏な私ではありますが、有料でも、絶対に聴かせてもらうことになると思います。
個人的には、日曜日の朝にやっていた「平凡アワー・スターハイライトショー」であるとか、GSブーム絶頂期に今は亡き土居まさるさんがDJをされたいた明治製菓提供の「チョコで選ぼうGS日本一」であるとか、ニッポン放送でやっていた「レッツゴー・タイガース」などという番組、あるいは「日立ミュージック・イン・ハイフォニック」などの音楽番組、それから、パック・イン・ミュージックやセイ・ヤング、オールナイト・ニッポンなどの深夜放送などを、是非、もう一度、聴いてみたい気がしております。
と、ここまで書いて、今日の夜、NHKの衛星放送で「よみがえる青春スター(1)裕次郎・小百合お宝映像」という番組を絶対に録画しようと思っていたのに、別宅への荷物搬入作業と、それに続く、我が家のクリスマス・パーティーの準備のバタバタで、すっかり忘れていたことに気がつき、大い悔しがっているところです。
こんな時こそ、「いつでもテレビ」があったらと切実に思うわけですが、もう、“後の祭り”であります。 テレビもオンデマンドのインターネット放送もされるようになって、こんな場合にも、直ぐに、インターネットで見ることが出来るようになったら、どんなにいいだろうなどと思っている次第です。
話が大きく逸れてしまいましたが、本当に、メール、どうもありがとうございました。

米国ペンシルバニア州・MSさん(40代男性)
1999.12.24 … テープ、ビートポップス
鈴木様
たびたび、おじゃまして申し訳ございません。
やっとメールが打てるようになって、うれしくてしようのない子供みたいなもんです。
テープの事で思い出した事があります。
我が家は、1970年に、父の英語の勉強ためにと、はじめてのカセットテープレコーダーを、買ったのですが(お決まりで、じきに私の音楽用になりました)、そのころのSONYのテープは、はじまりと終わりに、銀色の加工がしてあり、片面が終わるとピーという音がでました。
なんでだったか、考えてみたら、思い出したのはうちのレコーダーには、テープの終わりで自動的に止まる機能は無かったのでした(SONYの、どかべんみたいなやつでした)。
だから、手で止めないといつまでもキュルキュルいいながら、もうまわらないテープを、回そうとしつずけていたものです。
さらに、今おもいだしたのはこれには、早回しと巻き戻しのロックがなくて、ずーっと指でおし続けねばならなかったことです。
いまは、当たり前の機能が、あのころは小出しにつけくわえられていったのでしょう。
SONYのテープには、あとA面の「A」がうきぼりになっていて、暗闇でも手さぐりでわかると謳われていたのですが、そんな、真っ暗闇で、カセットのA面を探り当てねばならないような場面が、いったいどれだけあったのやら。
SONYのテープから、これらの仕掛けが消えたのは、いつだったのでしょうか。
物持ちのよい(=びんぼう)な私は、文句をいいながら、このレコーダーを、1983年にこわれるまで、つかったのでした。
ビートポップスの事も、みなさん沢山書かれていて私の覚えている事は、「60年代通信」の決まりに反してしまうので、遠慮しようと思ったのですが、初恋天使さんが、ふれられたので、気をつけて書きます。
それとも、どなたかが、もう書かれたけれど、鈴木様が品格をたもつためにメールには、掲載されなかったのかもしれません。
とにかく、この番組の提供は、ドイツの女性下着会社のトリンプ(お隣に住むドイツ人によると、トリンフだそうです)でワコールではありません。CMは、自社製品だけを身につけた女性が、スローモーションで、ボールをついたり、飛び跳ねたりする、という驚天動地のものでした。小学校5年生であったわれわれは、CM見たさに洋楽を勉強すると言うかんじでした。
家で見た時には、興奮したI君(現在印刷会社経営)が、我が家の、コリントゲームの箱で同級生のO君の頭を何度もひっぱたいて、箱をこわしてしまいました。
小さかった私の妹が、この時の事を、覚えていて、でもなんでI君が興奮したのかは知らず、大人になってから、親の前で尋ねられ答えに窮したものでした。
どうして、丸善石油のCMは、歴史に残ってトリンプのは忘れられたか不思議です。
品を下げてしまいました。ごめんなさい。立て直します。
星加ルミ子が、湯川れい子を出し抜いて、ビートルズのインタビューを取ったと言う話の出所で、「ビートルズ白書」にどなたかが触れられていましたが、この本は、竹中労がフリーの記者を集めて書いた物で、1982年に白夜書房から、復刻されました。
私は、この時読みました。
ビートルズが、かんずめになったのは、来るべき70年安保の警備の予行演習だったというのが、この本のすっぱ抜きだったと思います。
「革命は青春の営為である」という、復刻版での竹中の、空元気の啖呵が、いんしょうてきです。
弘田三枝子のビーナスというのは、ほとんどヒットの時期と同じですよね。さすがに、実力派歌手です。
私は、日本で、中尾ミエが、ちゃんと歌手で評価されなかったのがくやしいです。
和田アキ子も、歌い手としての評価は、どこかへいっちゃったし。ミコさんも、やせる本で、覚えられてしまったし。
歌のうまい歌手には、気の毒な環境だったのでしょうか。
初恋天使さんのリストの、メリーホプキンは、とても懐かしいです。
当地のオールディーズ専門局では、過去15年一度も聞いた事がありません。アメリカでは、憎まれているのでしょうか。
ジリオラチンクエッティの『雨』は、2−3年前に、イタリア人のおじいさんたちが時々イタリア語で寄り合いをしているピザ屋さんで、四半世紀振りに聞けました。
ものすごい転調をする素敵な曲ですよね。
これも、当地のラジオでは、聞いたことがありません。ピザ屋では、若い客がジュークボックスでかけたのでした。
カンツォーネのおばさんは、ミルバで、チンクエッティは、美人で通っていたと思います。
最後に、丸物百貨店が、東京都電の時代という写真集に写っています。
鉄道方面では、有名な吉川文夫さんという方が、60年代の始まる前の都電の写真を出版されたもので、私も見た事の無かった写真がいっぱいのっています。鉄道本の世界では、50年代、60年代の写真は,この数年の方が、以前よりも手にいれ易いという、逆説的な状況があるみたいです。
年末のお忙しい中での御作業に、頭が下がります。
どうぞお元気で。
主宰者から
1999.12.24
早送りと巻戻しがロックされないのは、あの頃のカセットテープレコーダーでは一般的だったのではないかと思います。
さすがに、初代のブラザーのカセットテレコの操作ボタンの構造は、正確に思い出せませんが、確か、オープンリールで一般的だったレバー式だったように記憶しておりまして、これは、早送りも巻戻しも、ロックできなかったような気がします。
ブルコメのステージを生録りした2台目のナショナルのカセットレコーダーになりますと、再生ボタンと録音ボタンと停止ボタンが押し込み式で、早送りと巻戻しは、それぞれの進行方向にスライド式のスイッチを動かす仕組みになっていて、たしか、巻き戻しはロックできたものの、早送りは手で押さえていけないといけないような作りだったように覚えています。
テープのリーディング部分が銀色だったテープは、私も、覚えています。あれは、機種によっては、その銀色に反応して、自動停止するようなタイプのものもあり、そういう機種に対応するような仕掛けだったように記憶しているのですが、違いましたでしょうか。
それから、テープのリーディング部分がクリーニングテープになっているようなカセットテープもありました。
カセットテープの歴史に、ちょっと突っ込ませていただきますと、私が高校時代、Lカセットというちょっと大型のカセットテープが登場し、結局、某メーカーが騒ぎ立てただけで、一般消費者に相手にされなかったという悲しい展開があったことも思い出しました。ちょうど、4チャンネルのテープだったか、いわゆるサラウンドという前方だけでなく後方にもスピーカーを設置して音源をよりリアルに聞かせるというような仕掛けが登場したのと、同時期だったように記憶しております。
当時から、新しもの好きだった私は、さすがに、高校生でしたから、Lカセットのテレコ自体を購入するまでにはいたりませんでしたが、長岡市の繁華街にあるV社の系列オーディオ店で開催される“Lカセット・コンサート”なるものに、しばらくの間、友人のH君と毎週末、出かけたものでありました。
以前、プレーヤーもないくせに「サウンド・オブ・ミュージック」のビデオ・ディスクを購入して、レンタル・ビデオ屋さんでダビングしてもらった話を紹介させていただきましたが、レーザー・ディスクに敗れ去ったビデオ・ディスクを開発したのも、V社だったことも思い出しました。
ベータの苦い経験を持つ私としては、Lカセットやビデオ・ディスク・プレーヤーなどを購入できるような年齢になる前に、そういう商品が登場しなくてよかったと思ったりしているわけであります。
伝説的な番組である「ビートポップス」というのは、多分、私が育った長岡市では放送されていなかったと思いますので、そのドイツの下着会社のCMは、全く知りません。CM史関連の本も何冊か持っておりますが、そういう本でも、読ませていただいた記憶がありませんので、子供たちが驚いていただけで、世間的には、それほどのインパクトがなかったのでしょうか。
それとも、丸善石油のCMが、あまりにもセンセーショナルだったため、当時の同系列のCMを象徴する作品として取り上げられがちなだけなのでしょうか。
そういえば、以前、お便りコーナーで在京キー局の番組制作を担当されている方からお問い合わせのあったマスプロ・アンテナのCMも、そういう意味では、CM史的には、丸善石油のCMの影に隠れてしまっていると言えるのかもしれません。
私なんかは、この系列のCMでは、マスプロ・アンテナが、最も、刺激的だった印象があるのですが…。
ビートルズ来日時の、戒厳令並みの物々しい警備体制が70年安保に備えた予行演習的な側面を持つものであったという話は、私も、どこかで読んだ記憶がありましたが、竹中労さんの著作で明かにされた事実だったというのは、知りませんでした。その『ビートルズ白書』という本は読んだことがありませんので、機会があったら、読ませていただこうと思います。
中尾ミエさんと和田アキ子さんについては、その歌の上手さは、間違いなく、確実に評価されていると思いますので、ご安心ください…と、私ごときが言ってもしょうがないかもしれませんが、きちんと評価されてきていると思います。ただ、確かに、和田アキ子さん辺りは、テレビのポップス系の番組に、最近も登場されていますが、中尾ミエさんと弘田三枝子さんは、ここのところ、懐かし系の番組以外では拝見しておりませんから、そうした意味では、佐藤さんのおっしゃる通りなのかもしれませんが…。
ジリオラ・チンクエッティが、当時から、美人の誉れ高い歌手だったというのも、知りませんでしたし、ミルバがおばさんというのも、知りませんでした。当時の本場のカンツォーネ関係も、追々、勉強させていただこうと思います。
『東京都電の時代』という本も知りませんでしたが、私も、『都電のある風景』とかいうタイトルの上下2冊の写真集を持っていたのを思い出しました。これは、都電の映っている写真と、都電が廃止されてから同じアングルとった写真を、見開き2ページで対比させるというもので、この手の企画が大好きだった私は、もう二十年近く前になるかと思いますが、本屋で見つけて、すぐに買ったものでありました。
明日は、自宅から別宅へ荷物の搬入を行いますので、その際に、もし、この写真集を見つけられるようであれば、池袋駅周辺の写真に注目して、確認してこようと思います。
ということで、またまた、めちゃくちゃに長い返信になってしまい、申し訳ありませんでした。
私としては、メールを頂戴できるだけで本当に嬉しく思っておりますので、どうか、私の手間のことなど気になさらずに、メールをお送りいただければと思います。

千葉県市川市・HMさん(40代男性)
1999.12.24 … 丸物百貨店の謎
お久しぶりです。
市川のMです。
早速ですが、「丸物百貨店」の謎についてわかる範囲ですが、お答えしたいと思います。
私は、1959年から東京都板橋区に住んでおります関係上池袋には、毎週のように両親に連れられて行っておりました。
これは、掲示板の常連であるTETSUさんも同じではないかと・・・。
結論から申しますと、1969年頃経営難であった「丸物百貨店」を西武百貨店が買収して「PARCO」という新しいショッピングセンターを作ったというのが真相であります。その「PARCO」は、1969年11月に「21才の独身OLを対象とするファッション・プロムナード」としてオープンしました。
私は、当時西武百貨店の大きさが今の1/10ぐらいしかないく、デパート前にはまだ傷痍軍人がアコーディオンなどを引いていた頃、また、国鉄の子供料金が5円(?!)だった頃よく屋上にある遊園地で遊んでおりました。
そして、帰りに親にねだっておもちゃ売り場で集めておりました「ミニカー」を買ってもらうことが楽しみでありました(いつもではありませんでしたが・・・)。
そんな「丸物百貨店」がなくなり、同時がもっと前かに今の「東武百貨店」が出来る前にあった「東横百貨店」もなくなり、なんか、子供心にも寂しい気持になった記憶がありました。
なんか懐かしいですね・・・!
では、1974年当時の「PARCO」周辺の写真と「PARCO」オープン時のポスターを一緒に送ります(後ろの背景がパルコでありますが、人物が邪魔でよく見えないと思いますがご勘弁ください)。
失礼しました。
主宰者から
1999.12.24
私が丸物百貨店を確認した同僚は、30代前半の女性でありまして、彼女くらいの世代だと、記憶に残っていないようでしたので、牧野さんから、明確なご証言をいただき、感謝しております。
70年代の雰囲気が濃厚に漂う写真とポスターの画像まで、お送りいただき、ありがとうございました。
…という淡白なメールをお返しした後で、知りたがり屋の「なあに」のような私は、この丸物屋百貨店というのは、電鉄系でも老舗系でもなさそうで、戦後の混乱の中で、裸一貫から一代で池袋の駅前にデパートを出展するまでになったような物語を秘めたB級デパートだったのではないだろうか、などと、勝手な想像をしてしまうほど、その出自と申しましょうか、素性が気になり始めております。
せっかく、Mさんが貴重な証言メールをくださったのに、しつこいヤツで申し訳ありません。
私は私なりに、色々と調べさせていただこうと思いますが、さらに、丸物屋百貨店に関することをご存じの方がいらっしゃいましたら、また、お話をお聞かせいただけませんでしょうか。
よろしくお願いいたします。

東京都武蔵野市・初恋天使さん(40代男性)
1999.12.23 … 「マサチューセッツ」のあの頃
鈴木 様
こんにちは、平日シコシコと書き溜めたメールでございます。
Kiyomi様のホームページでは60年代雑誌のテーマということで、また私の研究が10年は促進する話題で楽しく読ませて頂いております。
提出遅れのはみ出し生徒で申し訳ないのですが、まずは先日のメールよりの自由研究メールを御送り致しまして60年代雑誌の御話は後日またメールさせて頂きます。
よろしくお願い致します。
「マサチューセッツ」の前後の自由研究
以前、掲示板で「マサチューセッツ」が話題となっていましたが・・
kiyomi様からのメールで御解説頂いた、オリコンで始めて一位になった洋楽曲。小生にとっても始めて強く洋楽を意識した曲でもあります。1968年の4月1日付けトップですね。年間でも9位とベストテン入りをしております。
68年は洋楽としては「サウンド・オブ・サイレンス」サイモンとガーファンクル「ヘイ・ジュード」「レディ・マドンナ」ビートルズなどもありました。
当時の極個人的な話で恐縮ですが、あこがれであったKさんと別のクラスとなって言葉を交わすこともなく、遠い存在となってしまった1968年頃はそんな心を慰めてくれる洋楽が沢山ありました。「雨に消えた初恋」カウシルズ、「ハローグッバイ」ビートルズ、「ホリデー」ビージーズ、そして「シーイズ・ア・レインボウ」ローリングストーンズは後に色鮮やかなMacが転がるCMとなって再来するとは知る由も無かった訳でありまして・・。
多くは伝説のTV番組「ビートポップス」で得る情報でしたが、土曜は慌てて家に帰って見た方も多かったことでしょう。
後年、身を捨て話題を提供してくれる友人のY君は「スポンサーがトリンプだったので好んで見ていた」としみじみ語ってくれました。
当時、同番組で「振り付け師」していた藤村俊二さんが最近のNHK番組でミリアムマケバの「パタパタ」のステップ踏んでいたシーンは正に30年の時間を超えた瞬間・・・と目頭を熱くしたのは小生だけではなかったと思います。
小生の中学時代(67−70年)は洋楽の名曲花盛り状態で
「悲しき天使」(16)メリーホップキン
「西暦2525年」(26)ゼーガーとエバンス
「輝く星座」(29)フィフスディメンション
「雨」(37)ジリオラチンクェッティー
「幸せの朝」(38)クリフリチャード
「トレイン」(40)1910フルーツガム・カンパニー
「マンチェスターとリバプール」(48)ピンキーとフェラス
「白い恋人たち」(50)フランシス・レイ
「ディドリーム・ビリーバー」(56)(当時邦題はビリーバーなし)モンキーズ
「二人のシーズン」(61)ゾンビーズ
「ラブ・ミー・トゥナイト」(69)トムジョーンズ
「モンキーズのテーマ」モンキーズ
「ラストワルツ」エンゲルベルト・フンパーディンク
「タッチミー」ドアーズ、
「グッドバイ」メリーホップキン
「ビートでジャンプ」フィフスディメンション
「サンホセへの道」ディオンク・ワーウィック
止まらなくなってシマッタ。 などなど(括弧内数字は68−86年洋楽オリコンベスト100順位)です。
ラインナップを見ますと日本だけのヒット曲とも言われる曲も多く日本人の血の騒ぐとでも申しますか、「殿キンのコブシ」さながらの何か訴えるものがなにかあったのかもしれません。
「マサチューセッツ」に関して言えば、ビージーズ、と言って後年のディスコナンバーを思い出す方、「小さな恋のメロディー」の「メロディーフェア」を思い出す方もおられるという中、「ホリデー」「ニューヨーク炭坑の悲劇」「ジョーク」と言った60年代のヒット曲がまず浮かぶ同年代の方々には涙なくして語れない曲ではないでしょうか。そして、美しいメロディー、計算しつくされたサウンド、そしてクセのないボーカル(だからこそ、殿キンのコブシが面白い訳ですが)と当時の日本の音楽特にGSに与えた影響は少なくないと思います。
歌謡曲ファンであった小生も少なからず洋楽カブレした60年代後期の音楽には、郷愁に増幅されるだけでない日本人受けする何かがあったのではと思っております。
そして、70年代初頭はポップなポップの時代を迎えるのですが、それはまたの今後の研究メールとすることにいたしましょう。
それにしても小生はCCR(クリーデンス・クォーター・リバイバル)、GFR(グランドファンクレイルロード)、1910(ナインティーンーテン)フルーツガム・カンパニーなど舌を噛みそうそうなアーティスト名を言うことで何か優越感を感ずる生意気なニワカ洋楽ファンであった訳で(エンゲルベルト・フンパーディンクやミッシェル・デルペッュ、ウド・ユルゲンスと言ったアーティスト名もそうした好材料であった訳で、今も洗濯を干す妻にホセ・フェリシアーノと言ったら馬鹿されてしまいました)。
FM東京の「ポップスベストテン」やNHK-FM夕方の「リクエストコーナー」などの番組はまさに至極の時でありました。
kiyomi様におかれましても、番外編と致しまして「洋楽とGSの楽しい関係」(ある時期結構カバーがありますね)や「60−70代の歌謡曲と洋楽の不思議な関係」など企画して頂ければまた楽しい・・と今度は「いつでもラジオ」を出してねとねだる・・天使とは名ばかり、しっかりノビ太君となる他力本願の権化であります。
勝手ばかり言いまして長々大変失礼をいたしました。
主宰者から
1999.12.23
今晩は。
メール、どうも、ありがとうございます。
今回は、また、60年代末の洋楽ヒット曲リストと貴重な画像をお送りいただき、重ねて、ありがとうございます。
洋楽に疎い私も、殆どの曲を知っておりましたので、何れも、日本では、かなり浸透したヒット曲だったということなのでしょうか。
ジリオラ・チンクエッティの「雨」も、初期の頃の私のカセットテープには、かなり入っておりましたが、ジャケット写真を見たのは、今回が初めてです。あの声から想像していたのは、もっと太目のおばさん歌手かと思っておりましたが、こんなに若くてきれいな人だとは思ってもいませんでした。
リストにも挙げていただいたゾンビーズの「ふたりのシーズン」、ゼーガーとエバンスの「西暦2525年」などは大好きでしたし、1910フルーツガム・カンバニーの「サイモンセッズ」や「1、2、3レッドライト」といった曲もお気に入りでした。
また、「サンホセへの道」や「マンチェスターとリバプール」、「カリフォルニア・ドリーミング」などは、当時、ブルコメがテレビの番組などでカバーして知った曲でありまして、自分でもギターで弾き語りなどをしたものでありました。
ちなみに、「カリフォルニア・ドリーミング」は、掲示板で書かせていただいた昭和44年当時のカセットテープに録音されていた田宮二郎ショーに出演した時にも歌っておりました。「カリフォルニア・ドリーミング」は、1981年の「サヨナラ日劇ウエスタンカーニバル」の時、ワイルドワンズも歌っておりましたが、この田宮二郎ショーでのブルコメ・バージョンは、かなりラテン風味の強いアレンジになっておりまして、改めて、ブルコメが洋楽をカバーする際のサウンドがラテン志向になることに思いをいたしたりしています。そういえば、エンゲルベルト・フンパーティングのヒット曲である「太陽が燃えている」も、ブルコメは、ラテン・バージョンでカバーしておりました。
それから、先日、発掘されたテープの中には、ブルコメをバックに弘田三枝子さんが歌うショッキング・ブルーの「ヴィーナス」も入っておりましたが、ショッキング・ブルーの「ヴィーナス」や「悲しき鉄道員」も好きな曲で、「悲しき鉄道員」は自分でレコードを購入したほどでした。
洋楽に疎い私ではありますけれども、60年代の後半から70年代にかけては、一番、洋楽を聴いていた時期だったと思いますので、どこまで出来るか分かりませんが、皆様のご協力をいただきながら、「60年代通信」的な当時の洋楽特集ページといったものにも、何れ、挑戦させていただきたいと思いますので、その際には、また、よろしくお願いいたします。
どうも、ありがとうございました。

米国ペンシルバニア州・MSさん
1999.12.22 … 丸物、読み物
鈴木様、丸物百貨店は、池袋の東口にあったデパートで、最近(
と言っても、いつからが最近なんだかさだかではありませんが)建て直してなければ、パルコの建物が丸物のままです。駅に向かって右側です。
丸物は、規模が小さく、少しさびしい店で、60年代の半ばに倒産したはずです。法律上は、どこかに買収されたのかもしれませんが。
閉店間際にたまたま入ったとき、母が、「ここはなくなっちゃうのよ」、と言ったのをおぼろげにおぼえています。
丸物は新宿にもあったはずで、たしか伊勢丹会館の所だったと思いますが、こっちは、はっきりしません。
まんが雑誌の読み物ですが、日本のSFがまだ商売にならなかったころ、筒井康隆や眉村卓といった人たちが、「少年サンデー」に所謂ジュブナイル物を連載して、糊口を凌いでいたと思います。多分70年代はじめまで、それは続いたと思います。
SFのほかにも69年ごろには、「機関車大将」という蒸気機関車の機関士を主人公にした連載小説がありました。
ですから、雑誌によっては、かなりあとまで絵読み物や本格的な連載小説が、生き残ったのではないでしょうか。
少年誌の口絵で、今もはっきり覚えているのは、65年ごろのマガジンかサンデーにのった、1968年6月30日に、小惑星イカロスというのが地球にぶつかるので世界は終わるという記事でした。私はこれをまるっきり本当のことと信じてしまい、そのあと数年、なんで大人たちは騒がないのか、不思議でした。自分は、その日に死ぬのだとばかりおもってました。
そのうち忘れてしまって、気が付いたらもうその日はとっくに過ぎていて、うれしかったような、ばかにされて悔しいような気がしたのをおぼえています。後に知ったところでは、イカロスというのは、本当にそのころ、接近したそうですが、ぶつかるわけはなかったようです。
この夏ノストラダムスを真に受けて心配した人達を、笑えません。
さようなら
主宰者から
1999.12.22
またまた、早速の返信を頂戴し、ありがとうございます。
池袋は、学生時代、23区の区役所を回って原付の台数を調べるアルバイトをやっていたので、豊島区役所も毎月行っていたのですが、池袋の駅は、何度、行っても、駅の中で迷ってしまったほどでありまして、PARCOといわれても、周辺の風景がイメージできません。
豊島区や練馬区方面に地縁のある東京生まれの同僚にも聞いてみましたが、「丸物百貨店」というのは知りませんでした。
そういう謎めいた存在のデパートには、惹かれるものがあります。
まるで、“60年代のムー大陸”という感じがしてきておりまして、ぜひ、その謎を解明してみたいと思っております。
60年代末の『サンデー』の読み物ページというのは、残念ながら、私には、ほとんど、記憶に残っておりません。
ただ、確かに、あの頃の口絵ものには、「世界の七不思議」や「もし・・・だったら」的な、少年の好奇心をそそるテーマがむやみに多かったことだけは覚えています。
昨日アップさせていただいた「60年代のコマ割りマンガの推移」は、たまたま、60年代初頭の現物があったため『少年マガジン』をサンプルとさせていただきましたが、『少年サンデー』は60年代末のものが何冊かあったと思いますので、また、次の機会には、『サンデー』の実態についても、調べさせていただこうと思います。
連日のメール、本当に、どうも、ありがとうございました。
…という返事を出してから、長岡にも似たような存在のお店があったのを思い出しました。一応、市街地にはあったものの、周縁部に位置していたもともと家具屋さんだった(…と思います)三和というデパートで、丸井のようにクレジットでも支払いが出来る店だったのですが、まだ、家にカラーテレビがなかった当時、日曜日の午後3時頃から放送されていた伊東ゆかりさんとワイルドワンズの司会による「あなた出番です」という番組を見に行ったり、楽器屋では触ることが憚られたエレキギターなども、この店では、ハナ垂れ坊主でも触り放題という感じだったので、友達と一緒に、よく遊びに行ったものでした。このデパートも70年代に入って間もなく、気がついたら、ビル全体が倉庫のような使われ方をしていて、子供心にも、世の儚さというか、無常感といったものを覚えたりしたものでありました。

米国ペンシルバニア州・MSさん(男性)
1999.12.21 … 栃尾鉄道他(「真赤な太陽」+鴨武彦先生)
鈴木様、わざわざお返事を頂戴し、恐縮しております。
自分のメールが出ているのを見てなんだか大変晴れがましい気持ちです。
それにしてもものすごい量の作業をされている事が、改めてわかりました。
本当にありがとうございます。
栃尾線の資料ですが、60年代からの鉄道雑誌は、みな日本の実家にあり、調べられません。ごめんなさい。
注目を集めていた鉄道ですし、探せば昔の写真など、出てくると思います。
次に日本に帰れるのは、うまくいけば来年の9月ですので、その時に鉄道本の山をひっくり返してさがします。
今手元にあるものでは、JTB(これは、ひょっとして、お勤め先だったり、競争相手だったりしますか?)から出ている 「鉄道廃線跡を歩く」シリーズの1冊目に、栃尾線と長岡線(寺泊行き)の写真がのっています。
もうご存知かと思います。
あと、先ごろ和議申請した保育社(信じられません)のカラーブックスシリーズ#577が「軽便鉄道」で、これはまだ本屋にあるかもしれません。これに栃尾線が出ていました。
廃線跡歩きというのは、鉄道好きの間でも極少数の者がやっていた事なのですが、こんなに人に知られる様になるなんて夢にも思いませんでした。
昔人知れずにやっていたころには、何をしているのか説明するのが大変だったものです。なくなってしまった物への思いが広く共有される世の中になったのは、何を意味しているんでしょうか。
歌の事でうかがいたいことがあります。
なにしろ浦島太郎みたいなもので、もしかしたら、誰でも知っているべき事なのかも知れず,そうであったらごめんなさい。
事は、しばしば話題にのぼった、美空ひばり+ブルーコメッツの「真赤な太陽」です。
小学生のころ、68年か69年に、この曲は黛ジュンがレコードをつくって、発売寸前だったのに、美空ひばりが圧力をかけてやめさせた、というようなことを読んだ記憶があります。
記事は、「天使の誘惑」で、人気歌手になった後のインタビューで、意趣返しみたいな話だったと思います。
これは、本当の事なのでしょうか。
私はこのお二人に、別に関心はなかったので、記憶を捏造した可能性は低いと思います。
しかし、小学生が、旅先で読んだ大人の週刊誌 (そうでもないと、家には週刊誌はなかったので)の文意を取違えた可能性はあります。
今考えると、すでに大御所であった美空ひばりが、新人と競作するというのも変だし、逆に、いくら美空ひばりとはいえ、人の曲を横取りするというのは、考え難いようにも思います。
何か事情をご存知でしょうか?
60年代と無関係の事を書かせて下さい。
鴨先生は、1986年に当地にいらした事があり、朝ご飯をごちそうになりました。
米国防省が、当時のSDI(STAR WARS)計画への支持集めのために、各国から学者を招いて実地調査をさせるということをし、鴨先生が参加されました。
相互依存派で、必ずしもSDI支持にはなるはずのない鴨先生を選んだところに、米国政府の太っ腹と、巧妙さを感じたものでした。
当地の大学に、SDIの中心的研究者がいて、その聞き取り調査にみえたのでした。
ホテルに伺って、先生が言われたのは、「やあ、君とは相撲の話をしましたねでした。
その5年前、大学4年の10月就職の会社訪問解禁日に、『国際機構論』の講義に出席したら、看板教授の鴨先生とはいえ、学生が数人しかおらず、先生は授業をやめられて,大隈庭園に行き芝生に座っての雑談会になりました。
どう言うわけか、私は、当時横綱に昇進したばかりで脚を怪我して休場した千代の富士は、体が小さすぎるから横綱は無理で、すぐに引退して、メキシコに修行に行って軽量級のプロレスラーとして身を立てるべきである、と力説してしまったのでした。
その事を覚えていて下さってうれしかったのですが、しかし、唯一覚えて頂いていた事が相撲の事というのは、その後の私の行く末を暗示する出来事であったようです。
大体、千代の富士は、その後60年代最大のヒーロー大鵬に並ぶ大横綱になってしまったわけで、ばかなことをお話してしまったものです。
そのあとで、鴨ゼミの友人から、鴨先生は、相撲や格闘技が大好きでいらしたと聞きました。
鴨先生は、カフェテリアのウエイトレスに、とても丁寧な言葉遣いで注文されました。
私はこの事を肝に銘じ、今も先生に倣ってお店の人と話す時、中学生の英語みたいな馬鹿丁寧な話しかたをしています。
学問の上では、専攻が違いお教えを頂く事はあまりなかったのですが、考えてみると、大きな影響をいただいたのでした。
鴨先生のような、現実に深く根ざした理想主義者ー理想を忘れない現実主義者 が今こそ日本に、また世界に必要なのに 悔やんでも悔やみきれません。
長いお便りになってしまい申し訳ありません。
慣れない事で、これだけ打つのに2時間もかかりました。
また、前回名前を書き忘れました。MSと申します。
さようなら
主宰者から
1999.12.21
こんにちは。
こちらこそ、早速のご返信をいただき、ありがとうございます。
しかも、貴重な時間を費やしていただきましたようで、本当に恐縮です。
また、栃尾鉄道の関連文献資料について、色々とご配慮をいただきまして、重ねて、ありがとうございます。
ご教示いただいたもののうち、JTB出版の「鉄道廃線跡を歩く」シリーズの1冊目と、保育社の「軽便鉄道」は、お蔭様で、入手させていただきましたが、保育社が和議申請をしたというのは知りませんでした。
廃線跡歩きといえば、私は、高校時代、さよなら電車が運転された直後の栃尾線の線路を、友人と一緒に、学校の前の「こうこうまえ」の駅から「ゆうきゅうざん」まで歩いたのを思い出しました。ひょっとすると、その一部ではありますけれども、栃尾線の廃線跡を歩いた第一号だったかもしれません。
栃尾線の終点の悠久山の公園には、おサル電車も走っていたものでありまして、私は、その廃線跡までも愛しく思えるアブナいオヤジであります。
お手数をおかけして、誠に恐縮ですが、もし、お手持ちの資料を検められたりする際など、ついでの折に、思い出していただけるようであれば、ちょっと気にかけていただけるとありがたいと思います。
さて、「真赤な太陽」をめぐる一件ですが、美空ひばりさんと黛ジュンさんの間で、何らかの経緯があったことは確かだったと思います。
はっきりとは覚えておりませんし、現在、手元に確認する資料もありませんが、確か、東芝側としては、競作のレコード発売というような企画だったのに対し、コロムビア側からは、競作という形にするには、歌手としての格が違いすぎるといった趣旨のクレームが入ったというような話ではなかったでしょうか。
違っていたら、ごめんなさい。
もっとも、美空ひばりさん自身も、デビュー前後の時期に、笠木シズ子さんの「東京ブギウギ」だったか「買物ブギ」だったかをカバーするにあたって、笠木さんサイドからクレームが入ったというような経緯もあったはずでありまして、今なら、“トリビュート”あるいは“オマージュ”というような考え方もあるわけですが、60年代以前の歌謡界あるいは芸能界というのは、徒弟制度の雰囲気も色濃く漂う保守的な世界だったということの証左でもあるのかもしれません。
「60年代通信」をご覧の皆様の中には、この辺の事情に詳しい方もいらっしゃると思いますので、また、頂戴したメールを「お便りコーナー」で紹介させていただき、皆様からの情報を待たせていただくことにしようと思います。
鴨武彦先生は、入学した直後に、原書の授業(政治英書)で教わったほか、4年のときだったと思いますが、半期の授業(2単位)で「日米戦後関係史」をテーマにした「政治学研究」という半年間のコマがあり、私にしては、珍しく、せっせと教室に通ったのを覚えています。通常の試験では、大体、教授の書いた本の中から、試験に出そうな場所を覚えていって、ほぼ、丸写しに近いような答案を書いたものでありましたが、この「政治学研究」の試験だけは、授業を自分なりに消化し(たつもりで)、自分の言葉で答案を書き、その結果として頂いた数少ない「優」の一つでしたので、嬉しさも一入でありました。
おっしゃるように相互依存を基調とする鴨先生の考え方は、幼少時、キューバ危機の際、本当に核戦争が起きるのではないかと真剣に心配した記憶を持つ私にとっては、非常に説得力のあるものでした。
入学直後の政治英書の授業でも、3号館の1階の教室でよく相撲の話をされたものでありまして、先生の授業で教わった「ゼロ・サム・ゲーム」や「囚人のジレンマ」といった術語とともに懐かしく思い出されます。エール大学も出られた俊英に似つかわしくない朴訥な感じの英語も、大変に魅力的で、そのお人柄は強く印象に残りました。
就職した後も、NHKの朝のラジオに出演されたり、教育テレビの講座などで講義をされた折には、必ず、見聞しておりました。
また、鴨先生が亡くなられたのが、ちょうど、早稲田がラグビーで日本一になった時の監督だった横河電機の木本健治さんが亡くなられた時期と前後していたため、お二人の急逝は、私にとっては、大きなショックでありました。
その鴨先生との貴重な思い出をお持ちでいらっしゃる佐藤さんを、大変に羨ましく思った次第であります。
というようなことで、御礼のメールのつもりが長くなってしまい、失礼いたしました。

あなたも「60年代通信」に是非お便りしましょう
E-mail:kiyomi60@bb.mbn.or.jp
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