60年代の町並み 長岡編・映画に見る60年代の長岡「青春の鐘」(昭和44年・日活)その2(3)長岡駅の駅舎&ホームと特急「とき」ここのところ、栃尾鉄道をタテ続けに取り上げさせていただき、長岡駅周辺がクローズアップされがちな状況の中で、さらにダメ押しという感じになりますが、長野オリンピックのラージヒルとジャンプ団体戦で金メダルを取った船木に似ている舟木一夫が主演し、長岡で全面ロケを行った映画「青春の鐘」(1969年・日活)に登場した旧国鉄・長岡駅の駅舎とホーム、そして、あの特急「とき」をご紹介させていただきたいと思います。
まず、非常に味わい深い趣きのあった旧駅舎です。この旧駅は1926(昭和元)年に建設され、太平洋戦争時に新潟県で唯一、米軍による空爆を受け、長岡が焦土と化した際にも、かろうじて戦災を免れ、新幹線の工事に伴い1974(昭和49)年に取り壊されるまで、半世紀近くにわたって市民に利用され、愛されてきた建物でした。
続きまして、上の2枚は、長岡駅のホームの場面でありまして、このホームは現在も在来線のホームとしてそのまま使われております。この映画では出てきませんでしたが、私は、この旧駅舎については、ホームとホームを結ぶタイル張りの地下道が非常に懐かしく思い出されます。私の記憶によれば、駅舎から遠い方のホームが上りホームになっていて、東京などに出掛ける時には、このタイル張りの地下道を通って、上りホームに登って行ったもので、その時のウキウキした気分は今でも忘れられません。当時、というか、長岡の方言ですから、今でも、まだ、そう言うのかもしれませんが、汽車などが動くことを幼い私達は「ずる」と表現しておりましたが、その汽車が「ずり始める」時に、発車の動きが連結を通じて伝わってきて、最初に「ガタン」と来る振動を感じる瞬間が、私は何より好きでした。その最初の「ガタン」という動きは、私にとって、「遠くへ行く」「知らない町に出掛ける」というトキメキが凝縮された一瞬でもあったような気がします。
上の2枚の画像は、今はもう見ることのできないL特急「とき」の勇姿(主宰者注:読者の方から、この映像は「とき」ではなく「あさま」であるというご指摘をいただきました。たしかに、列車の前に飾られているプレートは2文字ではなく3文字です。何らカの事情で「とき」の撮影が行えず、「あさま」で代用したものと思われます。それとも、単純なミスだったのでしょうか…)であります。今は上越新幹線の緩行電車の名称として残るのみでありますが、1960年代には、この特急「とき」と急行「佐渡」が長岡と上野を結ぶ大動脈としての上越線の花形電車でありました。新幹線は直接、東京駅まで乗り入れるようになりましたが、在来線では、東京の玄関口は上野であり、1960年代には、井沢八郎の「ああ上野駅」という名曲もあったほど、上野というのは、東北や上越方面の人々にとっては、様々な思い出や思い入れのある駅なのであります。その辺も、また、項を改めまして、取り上げさせていただきます。 |