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七味日記2003年3月下旬
七味日記総目次 

 2003/2月上旬  2003/2中旬  2003/2月下旬

 2003/3 上旬  2003/3 中旬  2003/3 下旬
 
 2003/4 上旬   2003/4 中旬   2003/4 下旬
 

七味日記2003年3月下旬目次

2003/03/21 ジャパニーズアンドロメダシアター 『メルシィ人生Le placard』
2003/03/22 トキの本棚 『教えることの復権』
2003/03/23 ジャパニーズアンドロメダシアター 『ミュージック オブ ハート』
2003/03/24 ジャパニーズアンドロメダシアター 『マドモアゼル』
2003/03/25 ジャパニーズアンドロメダシアター 『年下の男』
2003/03/26 ジャパニーズアンドロメダシアター 「変身と再生プログラム研究」
2003/03/27 日常茶飯事典 江戸開府四百年展
2003/03/28 アンドロメダM31接続詞 赤いくれよんしんちゃんと薬袋黎璽
2003/03/29 日常茶飯事典 納骨
2003/03/30 日常茶飯事典 姉の1周忌
2003/03/31 日常茶飯事典 児童遊園地

七味日記2003年3月下旬

2003/03/21 金 晴れ 
ジャパニーズアンドロメダシアター>『メルシィ人生Le placard』

 午後、ヒメと『マドモアゼル』と『メルシィ人生Le placard』を見た。

 『メルシィ人生 ル・プラカール』は、フランスらしい「エスプリのきいた人生讃歌」ってとこ。笑えた。
 プラカールには、日本語カタカナ語でいうプラカードの意味の他に、フランス語では戸棚の意味もあると、私がもっている「大学1年の仏和辞典」には出ているんだけど、もっと大きな辞書でひいたら、プラカールの持つ隠語の意味とかでているんだろうか。ゲイを意味する隠語とか。

 この映画が伝達する重要事項。アイデンティティ形成には「他人の視線」が影響するものであり、他人の視線を受けることで、自己像は変容する。

 あらすじ。ピニョンはフランスのコンドーム製造販売会社経理課平社員。ハンサムでもなく出世することもないとりえのない男だが、美人の妻と結婚できたことが唯一の「人生の勝利」だった。しかし、妻は失恋の痛みを忘れるためだけに結婚したので、今は一人息子を連れて、ピニョンとは離婚している。息子はダメ父を完全に無視し、バカにしていて、離婚後も定期的に面会するという約束は息子によって破られ続き。

 全社員記念撮影があった日、ピニョンは人員整理のために突然、解雇されるらしいことを知る。ピニョンにとって、息子に養育費を送るだけが人生の支えなので、解雇されたら生きていく意味もない。マンションのベランダから身投げしようとして、隣に越してきた老人に止められる。老人は、20年以上昔ゲイを理由に解雇された思い出をもつ。

 老人の入れ知恵で、ピニョンは「ゲイ・カムアウト」する。コンドーム会社にとって「ゲイを差別し解雇した」ということが世間に知れたら、決定的なダメージを受けてしまう。そこで解雇は撤回。
 ピニョンはいくら解雇回避のための方便とはいえ、ゲイのふりをするのは苦痛だ。「ほんとうの自分ではない」から。

 しかし、会社の意向でゲイパレードに参加するはめに。ピンクのコンドームを頭にかぶり、山車の上から手をふる。周囲の人は、平凡で何のとりえもないと見なしていたピニョンが突然「特別な存在」になったので、さまざまに反応する。
 息子は「自分の妻にも愛想を尽かされ、離婚させられたダメ父」と思ってバカにしていた父が、「ほんとうの自分を臆さず世間にさらし、誇りをもって山車から手をふるゲイ」であったと見直す。
 ラグビー部の監督をつとめている上司、経理課の女性上司。皆、ピニョンへの視線を変化させる。ピニョンは生まれて初めて「他者から注目を集め尊敬さえされる」という経験をする。

 この経験がピニョンを変化させる。うじうじと未練を持ち続けてきた元妻に対して、決然とほんとうの別れを告げる。自分の成功のせいで、経理課から解雇されることになった女性上司をかばって、彼女の解雇撤回を勝ち取る。そのおかげで、彼女はピニョンをみなおし、愛するようになる。というハッピーエンド。

 さて、他者の視線の変化に反応して、自信をとりもどし、「なんの取り柄もないダメ父ダメ社員」から変容できたピニョン。
 無論、人は他者との関わりの中で、アイデンティティを築き上げるのだから、「みんなの見方が変わったのでピニョンが変化した」と見ることも可能である。が、私はそれ以上にピニョンにとって重要だったのはゲイパレードで受けた大衆からの視線と思う。
 たぶん、ピニョンはそれまでの人生で、これほど多くの人に注目された経験、多くの人の視線を受けたことがなかったのではないか。
 ゲイとして、頭にコンドームの帽子をかぶって山車に乗ることを、「恥ずかしいこと」と、思っていたピニョン。しかし、息子の評価が変化したことからわかるように、「大勢の視線を集めることができる者」は、現代ではそれだけで「価値もつもの」として、特権的な存在になりうるのだ。注目されうる自分の存在を自覚できるかどうかは、アイデンティティ変容にとって大きい。とくに、一度もその経験をもたなかった者にとって。

 また、もうひとつの変容の契機は、駐車場でおそわれて怪我をしたこと。犯人は「ゲイを嫌悪する人たちの誰か」と、見なされる。「自分を正当な理由なく排斥しようとする敵」から、肉体的な攻撃を受けたとき、彼の意識は変化する。
 それが、理由なく解雇されることになった女性上司のために、体をはって解雇撤回を申し込むエネルギーを生む意識なのだ。

 ピニョンの怪我は、彼の意識の変化にとって、精神的スティグマとなった。スティグマを負うピニョンは、またもや他者から聖別され、「他者とは異なる自分」を確認することができるようになったのである。

 そしてさらにもうひとつ。ピニョンは、「ゲイ」のふりをすることが最初はイヤだった。彼自身がゲイに対して「普通じゃない人」と、いう認識を持ち、「差別されてきた側」の人に自分を「落とす」ことがいやだったからだ。
 しかし、自殺しようとした彼を助け、解雇撤回の知恵を授けてくれた隣の老人自身がゲイであることがわかり、ゲイパレードに参加したことで、変わってくる。

 「かってはフツーとは違う人たち」と思っていたゲイの側に自分を置いてみてはじめて、差別の視線を受けることの意味が体感できてきたのではないか。
 山車の上で手をふるピニョンは、初めて人の注目をあびたための「はにかみ」を浮かべているが、卑屈になったり、恥をしのんでいたりはしていない。「差別を受ける側」に身をおいたために獲得した何ものかが、ピニョンを変化させたのではないだろうか。

 「なんの取り柄もないもの」の、もうひとつの個体が隣のネコ。隣の老人が飼っている子猫。これという特徴のない、「灰色で、髭があってニャアと鳴く子猫」である。その猫がいなくなり、ピニョンは老人のために探し出してきてやる。もしかしたら、ペットショップで買ったのかな。

 ピニョンが老人に猫を渡したとき、いなくなった子猫が戻ってきて、「灰色でニャアと鳴く子猫」は二匹になる。一匹は「老人と個人的な関係を結んだために、老人にとっては特権的な地位をもつようになった特別な猫」である。もう一匹は「なんの特徴もないために、老人の猫と区別がつかない平凡な猫」である。たぶん、老人はこの二匹を差別することなく、今度は「特別な二匹」としてかわいがるだろう。

 「ナンバーワンではなく、オンリーワン」と、脳天気に『一つの花』を歌っている人たちのための、バーチャルシネマ。まったく同じにみえる子猫がどんどん増えていって、部屋中ぎゅうぎゅう詰めになる中で、途方にくれる老人の姿、というシーンを加えたら、私のこの映画への評価はもっと高くなったかもしれない。

 「平凡でなんのとりえもなく、特徴もないけれど、私と特別な関係を結んだためにオンリーワン、またはオンリーツー」の価値を持った存在になることができる。さて、まったく同じものが千,一万、百万とあったら、それはオンリー・ミリオンとして認識できるのか。
 まあ、老人の孤独を癒すにはせいぜい2匹がいいとこかも。
 妹スモモは10匹くらい飼っている。作家笙野頼子は、20匹くらい、ダンサー長嶺ヤス子は30匹くらい飼っているらしい。もっと増えたかな。

 トリビアリズム感想。会社の同僚上司に「さえない存在感ゼロの経理係」と思われ、自分でもそれを納得していた映画の冒頭。会社の記念写真をとるときに、ピニョンは画面からはみ出し、自ら気弱そうにカメラワークからはずれる。ラストシーンで、またもや画面からはずれそうになったとき、ピニョンは力ずくでカメラに入る位置を獲得する。このときカメラワークからはずれてしまったのは、ピニョンを「ですぎたまねをする奴」と嫌って駐車場で襲撃してきたゲイ嫌いのふたりである。

 さて、この「全社員による記念撮影」のシーンで「えっ?フランスの会社でも、こんな記念撮影するのかな。日本の会社みたい」と思った。そしたら、やっぱりね。このコンドーム会社は日本の相模ゴム工業のフランス子会社の工場を使って撮影したのだと。

 「工場視察」に来て、ピニョンと女性上司の「二人で協力して製品検査実施中!」の現場を視察してしまう「アジア人顔の視察団」は、日本人から見ると日本人ぽくなかったから、中国か韓国人の視察団かと思ったが、あれは「フランス人からみた日本人像」だったのだとわかった。

 日本の子会社という前提があるから、「全社員記念撮影」というパロディが効いてくるのだろう。あんなふうに全員で並んで、どいつも同じようにしか見えない記念撮影。なんのとりえもなく、他の社員から区別することもできない顔だったピニョンの記念写真。映画のラストでは、私たちはピニョンを区別できる。「特別な顔」として。

 現実問題として、日本でゲイをカムアウトしたら、「ゲイだから」という理由は徹底的に隠されたまま、他の理由をつけてなんとか上手にリストラする方策がとられるだろう。
 この映画のように、ゲイを差別することが直接企業イメージを下げてしまうコンドーム会社ではなく、フランスの鉄鋼会社とか他の企業だったら、ゲイ差別がイメージダウンになることを利用した解雇撤回闘争が成立するのだろうか。知りたい。

本日のねたみ:私の「マツモトキヨシお買い物予定」のリストに入ってない製品


2003/03/22 土 晴れ 
トキの本棚>『教えることの復権』

 苅谷剛彦夏子大村はまの新書『教えることの復権』読了。何より大村はまが96歳で、まだ生きていたことに感激。
 私が国語教師になったとき、すでに大村は「おばあさん先生」であり、「大村の単元学習」の時代は終わった、と言われていたのである。

 私は山ほどの国語教育関係書を読み、結局、国語教育とは何かわからないまま、3年で国語教育から敗退した。退職するとき、後輩の国語教師に国語教育関係書は全部あげてしまったので、一冊も残していない。あのときは「国語」なんて言葉を見るのもいやだった。大村はまを読んだのか、ということもいっさい覚えていない。読んでも頭に残っていないのなら、読まなかったのと同じ。私にとっては、ただ「伝説の国語教師」であった。

 大村は、74歳まで現役国語教師を続けていた。私には、またまたびっくり。管理職につかない一教師としてすごすとしても、60歳を過ぎたら退職勧告に従わざるを得ない状況にさせられると思っていたが、さすが伝説の教師、74歳まで現役だったとは。
 60歳すぎ、大学の教育学部などから引く手あまただったろうと思うが、最後まで中学校国語科教師を貫いたことだけでも、私は尊敬するね。

 苅谷夏子は、石川台中学校での大村の教え子にあたるという。ラッキーだ。夏子の「授業を受けた思い出」と大村の回想や過去の著作からの引用、最終章が苅谷剛彦の大学での授業についての話で構成されている。

 私は単元学習の教授法や研究授業について、きちんと学んだ覚えもないまま国語教師をやめたが、もし30年前に単元学習をとりいれたとしても、たぶん成功しなかったろうと思う。独身の大村が全勢力を教材研究教材準備にかけ、それでも時間が足りなくて「生徒をかわいいなんて思っている暇もなかった」と述懐しているのを読んでも、30年前の私に、このような教材研究の能力も単元学習(総合学習国語科版)をやり遂げる授業技術もなかったろう。

 大村の教え子で国語教師になった者は少ない、という夏子の証言。国語教育をするのが、これほどエネルギーのいる、ものすごい行為だということが身にしみてわかっていて、大村をこえる教師にはなれないとわかっているから、国語教師という職をあえて「先生にあこがれて」なんて理由で選ぶことはできなかったのであろう。

 生徒の自主性を生かす、とか、自由な発想を尊重する、なんてことが、アダおろそかにできることじゃない、ということが身にしみているわけではない文部科学省の小役人たちの、安易な発想で決定し、現場教師が小手先でやりすごそうとしている総合学習。

 一般の小中学校で、どれだけの成果をあげることができるだろうか。家庭も教頭校長昇進試験もすべて捨て去り、授業だけに情熱を捧げる教師でなくて、「総合学習、自主的に考えなさいと生徒にまるなげ」するような教師ばかりで、どういう結果がでるか、わかりきったこと。

 もちろん、何年間かあとの教育研究とか事例研究では「こんなにうまくいった」というような特殊な例ばかり出るだろうけど。

 生徒引率して博物館へ連れて行き、騒ぎまくる子供たちに「はい、自由に自主的に見物してレポートをまとめましょう」で終わりにして、博物館喫煙室でたばこすって居眠りする教師が想像できる。
 大学授業の部の中で、「教えること、学生に考えさせること」について確信が持てたのでよかった。

本日のねたみ:わたしも教わりたかったカリスマ教師


2003/03/23 日 晴れ 
ジャパニーズアンドロメダシアター>『ミュージック オブ ハート』

 夜、メリル・ストリープの『ミュージック オブ ハート』見た。実話をもとにした音楽教師奮闘ストーリー。

 あらすじ。ロベルタはネイビィの夫に浮気&離婚され、息子二人を養うためにハーレムの公立小学校の臨時音楽教師になる。正式な教員免許はないが、課外バイオリン教室で10年間教え、子供たちに音楽の喜びや生きる指針を与える。
 市の教育予算削減のために教室が閉鎖される事態になり、ロベルタは友人や教え子たちの助けを借りて、アイザック・スターンやイツァク・パールマンらが賛助出演するコンサートを成功させ、教室存続の資金を稼ぐ。というドキュメンタリー映画をもとにした映画。
 子供たちのエピソードは、女の子がギャングの流れ弾に当たって死んでしまったり、せっかく奨学金を貰えそうになったのに、DVのために母といっしょに父の暴力から逃れて身を隠すことになってしまう子とか、ありがちな設定になっているが、もとのロベルタのストーリーは実話。

 メリル・ストリープは、やたらにぎゃんぎゃんわめく。恋人になりそうだったボーイフレンドにも、「正式な結婚じゃなかったら、あんたいらない、出ていけ」と窓ガラスを割るし、こんなに怖いと、夫も逃げたくなるよなあ、と思う。メリルストリープの造形なのか、本物のロベルタがこういうキャラだったのか、わかんないけど。
 日本だったら、女校長や同僚にあんな具合に突っかかってわめきたてたら、それだけで「協調性のないヒステリー教師」と職員室から総スカン。映画のロベルタは味方を増やしていったから、アメリカじゃあれくらい自己主張をしないと存在感なくなっちゃうのかもしれない。

 大村はまとロベルタ。迫力満点の女教師を前に、私なんぞ教師と名乗るもおこがましいよな、と縮む。

本日のちぢみ:ちぢみ志向の日本語教師


2003/03/24 月 曇り 
ジャパニーズアンドロメダシアター>『マドモアゼル』

 ワカ、終業式。もっと悲惨な通知票を予定していたが、そこまでひどくはなかった。

 『マドモワゼル』の感想をヒメと話していて、私の画面読みとりミスが発覚。私は、画面冒頭で主人公クレアが見つめるのアルメン灯台のポスターのキャプションを見落としたのだ。そのため、最初に私が持った感想は「これじゃ不満」だった。

 最初の感想。
 『マドモワゼル』は恋愛映画。たった一日だけの恋。たった4日間の出会いの思い出を一生ため込んでいた『マディソン郡の橋』ほど、ズシンと重くない。そんな「橋の思い出」を抱え込んだままの女房の隣で何十年も眠らなければならなかった夫に比べて、クレアの夫は声のみで顔も姿も出てこない。夫はこの映画にマッタク関係ないのだ。

 あらすじ。冒頭シーン、灯台のポスターを見て、クレアは一晩の出来事を思い出す。クレアのたった一日の恋物語が始まる。

 医薬品セールスで地区の担当責任者に昇格したクレア(字幕ではクレールと表記されていたが、私の耳にはクレアに聞こえた)が、会議のためにミラノの近くの地方都市へ出かける。帰りの電車に乗り遅れ、会議後のパーティ余興で即興芝居をしていた一座の車に同乗。その一座の俳優ピエールと一晩をすごすという「大人の恋愛おとぎ話」

 ピエールは結婚式の余興に出演するために金持ちのパーティに行く。忘れ物の灯台レプリカを取りに戻ったクレアに、自作で未完のままの灯台守の恋の話をする。クレアは結婚式のスピーチとして即興でこの話をして、ピエールに戯曲を仕上げるようすすめる。ヤマハのバイクで町を走り、英国製の中古車のなかで朝を迎えて、ふたりは別れる。

 医薬品の中堅セールスとして仕事も順調、9歳と7歳のこどものいる家庭。何の不満もない平凡だが幸福な生活。ピエールと一晩過ごしたことで、クレアの人生は変わったのだろうか。もしかしたら、たまたま灯台のポスターを見て思い出したのではなく、夫のひげそりクリームを買うたびに思い出すことなのかもしれない。そのたびに「自分はどこにでもいるつまらないマダムではなく、一晩のアバンチュールを終える朝、マドモワゼルとギャルソンに呼ばれた、恋に燃えることもできる心を持った女なのだ」と思い返すことで、彼女の人生が変わったのかもしれない。

 でも、画面では薬屋でひげそりクリームを買う前のクレアと、夫や子供たちといっしょに車に乗ってショッピングしている間、灯台のポスターみて思い出にふけっているクレアのどこが違うのか、あんまりわからない。『マディソン郡の橋』のように、平凡で退屈な夫との生活に飽き飽きしているという描写があったのなら、「たった一晩の恋愛の効用」がよくわかるんだけど。

 私は「へ〜んしん!」と「革命!」が大好きなのだ。彼女がこの一晩の恋愛で自分の人生に自信や満足感を持つようになったのかどうか、をはっきり描いてくれないことには、この恋の思い出のありがたみが減るような気がする貧乏性なのである。

 ピエールのほうは、自分の「即興劇団旅芸人」として惰性で生きていく生活から、「成功するかどうか、わからないが、とにかく戯曲を仕上げるという希望を持った俳優」に変化したのかどうか、これまたよくわからない。冒頭の灯台のポスター、私にはフランス語がわからないから、ただの観光ポスターと思って見ていたが、もしかして『灯台守』と題されたピエールの戯曲のポスターだったのかしらとも気になった。
 ピエールのほうに重点をおけば、クレアを「たった一晩だけのファムファタール」として、しがない役者から劇作家へ「へ〜んしん」する物語にもできただろう。そうなると映画のタイトルは「マドモワゼル」ではなく当然「灯台守」である。私には、そのほうが面白いんだけど、作品的には平凡になるだろうな。

 新人劇作家の作品『灯台守』のポスターを見つめるクレア。自分の存在によって、この作品は「永遠の胎児」であることから抜けだし、この世に生み出されてきたのかもしれない、という感慨にふけるクレア。「私がこの作品を世に出すきっかけを作った。でも、私はこの二人の子供ととりえのない夫との平凡な生活を、自分の意志で選んだのよ」という顔でポスターから視線を離すクレア。そういうラストだったら、私の「へ〜んしん」願望がもっと満足したのにね。

 と、ヒメに話していたら、「何言ってんの。そういう話だったんじゃない。あの灯台のポスターは国立劇場の劇のポスターだったもの」という。
 私は「トゥルーズ国立劇場」という画面の説明を完全に見落としていて、ただの観光ポスターだと思ったのだ。「ピエールが劇作家として成功したのを知って、クレアはとても複雑な表情をしていたじゃないの。うれしいようなさびしいような。何見てきたのよ、お母さん」

 なんと間抜けな映画鑑賞をしたものだ。それで、夕方5時からもう一度見る。シネマカードがあるから、同じ映画を2回続けてみる、という経験をした。これまで同じ映画をみることはあっても、それはビデオでみたり、テレビでみたりするくらいで、同じ映画館で続けてみるなんてコトは始めて。

 2度目はちゃんと、国立劇場という字幕の説明も、ポスターの中の「ピエール・カッシーニ」という劇作家名前クレジットもちゃんと見た。ラストシーンにも出てくるポスター。

 戯曲が国立劇場で上演されて、ピエールはビッグになっていくのかもしれない。でも、クレアの子供たちは買ってもらったプレステに夢中で、彼らが将来劇作家の名前に注意を向けることはないだろうなあ、クレアは劇作家の恋人ではなく、プレステ大好きな子供を選んだのだ。

 それでもって、この恋愛映画は星三つから五つになりました。

 字幕キャプションを見落して、内容を読み違えたなんて、自分の映画の見方にがっくりきました。  たぶん、私が小説を読んだり論文を読んだりするときも、大切な何かを読み落として、思い違いのままのものがたくさんあるんじゃないかな。
 もともと映画でも演劇でも小説でも、自分を「見巧者読み巧者」と、思ったことはなかったが、見巧者ではないものの「ちゃんと内容を理解できるくらいの読みとり方はしている」という根拠のない自信を持っていた。
 ヒメと話さなかったら「トゥルーズ国立劇場」の文字を見落としていたことなど、まったく気づかないままだった。本はひとりで読めばよい、映画は一人で見るからいい、と思っていたけれど、読書会とか映画感想話し合い会は、私のような独りよがりの思いこみ人間には必要なんですね。

本日のつらみ:うちの子たちも、プレステが好き。母が劇場にさそっても、プレステゲームのほうがいいってさ


2003/03/25 火 雨 
ジャパニーズアンドロメダシアター>『年下の男』

 昨日と今日、ビデオにとっておいた「ドラマ最終回」をつづけてみた。ヒメが好きな内舘牧子『年下の男』と、どうでもいいといいながら結局全部みてしまったキムタク『グッドラック』
 今期みたのは、ほかに松島菜々子主演の『美女か野獣』。連続ドラマどれを見るか決定権はヒメにある。

 稲森いづみは、どうやっても「反町を菜々子に取られた2番手女優」というレッテルがはがれないので、さえないOL役にはぴったり。
 菜々子は「美女か野獣」でキャラに文句付け「こんなんじゃ、私バカみたいじゃないですか」のひとことで、ドラマの途中でキャラ設定が変わって、突然ただのタカビー女からイイヒトに変わってしまう、というわがままが許さたそう。
 こちらも「お約束」の塊だけでドラマができていた。ヒメとワカにつきあって、半分くらいは見た。ひとつとしてストーリー展開の予想がはずれた回がなかった。テレビドラマとはすべて水戸黄門か。

 菜々子の「印籠」は「親が政府の役人で大臣の側近」という設定。父親は、娘に突っつかれたくらいで大臣の汚職を認めてしまう、しょうもない人間である。ここは、汚職の事実を隠し通すために娘を殺して自分も自殺、っていうくらいにすると、衝撃のラストになってよかったのにね。

 もう眠くなって、ばかばかしさについていけなくなって、福山雅治と空港でヨリをもどすシーンは寝てしまったので見られなかった。どんな馬鹿な設定、あり得ない展開でも「そんなばかな」と言いながらドラマを見るのがテレビドラマ視聴の正しい姿であるのに、最後までばかばかしさと付き合ってやれないなら、最初から見なければいいようなものだが。

 内舘ドラマは、今回も最初からラス前までどろどろぎゃあぎゃあやっていて、ラストでみんな丸くおさまる、というお約束通りの終わり方。

 稲森の山口千華子、私の予想通りに「年下の男に結婚申し込まれてうれしかったけど、仕事もうちょっとがんばってみるから」という健全路線でおわり。
 風吹じゅんのモモエ「高橋克典とは別居生活だけどうまくやっていく」で、ミノルは「家族から解放されて新しい人生」だし、もう、それぞれ「成長したら家族は新しい自分だけの道を歩いていっていいんだよね」という「そんな当たり前の終わり方でいいのかあ」の最終回だった。
 星野まりは「成長していい女になる」だし。たった一人最後までどろどろ「ぜったいに自分以外の人間が幸福になるのを許せない」と突っ張っていた梓も角が取れていく気配だし。耄碌じじいのじろうさんが最後まで死ななかったのも、なんだかなあ。癌のじいさんくらい往生させてやればいいのに。ヒメの「最後は全員死んじまうとかしないと収まらないよ」という「内舘への反乱」は鎮圧されました。

 グッドラックは初回から最終回まで、ストーリーになんの破綻も波瀾万丈もどきどきも、来週はどうなっちゃうんだろうもなく、予定通りに年上組も年下組もラブラブで終わって、ええい、こんなにうまくいく人生ばかりみせちゃ、いたいけな青少年に「人生甘いもんです」と思わせちゃうじゃないか、教育上よくないドラマだなあと思わせる。
 何を演じてもただひたすら「キムタク」でしかないというのも、演技者としてはつらいものがあるのかもしれないが、私はキムタクを見ていたのだからまあいいや。途中でちょとは演技パターンがかわることがあるのかと思ったが、最後までキムタクでした。おしまい。

本日のそねみ:ナナコはどんなわがままも許され、キムタクは高いところから落っこちて重症骨折でも、現場復帰可能

 
2003/03/26 水 晴れ 
ジャパニーズアンドロメダシアター>「変身と再生プログラム研究」

 「変身と再生プログラム研究」
 メルシィ人生、マドモワゼル、年下の男、グッドラックを続けて見て、この四つのドラマに共通するキーワードは「死と再生」であると看破いたしました。イニシエーションプログラムはふたつ「愚者の祭典」と「擬死」である。以下、分析。

 「マドモワゼル」ピエール・カッシーニ(ジャック・ガンブラン)
ドラマ吸引力の核=「偶然、出あった男と女の愛はどう推移するのか」
イニシエーション前=「売れない俳優として、イベントや結婚式の余興で即興劇を演じるくたびれきった中年役者」
愚者の祭典=「結婚式の余興前、ウェイターなどの雇われ人たちと、せまい物置の隅のようなところでまかない飯を食べる。自分が結婚式をやる側の人間でなく、ごちゃごちゃと折り重なるようにして、まかない飯を急いで食べる側であることを、クレアの前で確認する」
擬死=「結婚式のスピーチでクレアが自分の作品を話したことによる自信の回復。バイクでの疾走、ポンコツ中古車の中での情事&眠りと目覚め」
イニシエーション後=「戯曲アルメン灯台を完成させた芸術家」

「メルシィ人生」ピニョン(ダニエル・オートィユ)
ドラマ吸引力の核=「ピニョンの解雇撤回が成功するかどうか、家族との関係回復ができるかどうか」
イニシエーション前=「妻に離婚され、会社は解雇されかかった、とりえのないさえない経理課員」
愚者の祭典1=「ゲイパレードで頭にピンクのコンドームをかぶり、群衆に手をふる。被差別の側に身を置き、大衆の視線を受ける」
擬死=「駐車場で襲撃され怪我をする」
愚者の祭典2=「コンドーム工場内での製品検査実施、実演!」
イニシエーション後=「未練を残していた妻と決別し、経理課の上司の愛を獲得した自信に満ちた男」

「年下の男」山口千華子(稲森いづみ)
ドラマ吸引力の核=「千華子と母親、年下の男との恋愛がどう進展するのか、家族の再生はどうなるか」
イニシエーション前=「寿退職したいのに、恋人もいないお茶くみOL」
愚者の祭典1=「年下男のなわばりであるディスコに入ったものの、若者に同化して踊ることもできないし、男は年上の恋人を仲間に紹介できずに従姉妹だという。疎外感」
擬死=「バイクにひっかけられ、倒れた拍子に手を切り失血」
愚者の祭典2=「社内の能なしOLを寄せ集めた意味無しプロジェクトへの配属。能なしOLとして扱われる屈辱に耐えられない梓をよそに、千華子はこの中で自分の責務を果たし仕事をいっしょうけんめいやろうと言う」
イニシエーション後=「年下の男からの求婚を受けずに、仕事もジムトレーニングも自分なりにやって、家族それぞれが自分の道を歩んでいこうとするのを認めてやれる大人の女」

「グッドラック」新海元(木村拓哉)
ドラマ吸引力の核=「キムタク」柴崎こうとの恋愛がどうなるか、ってのはうまくいくに決まっているし、黒木瞳と堤真一もモトサヤになるにきまっているから、核ではない。このドラマの「視聴者を引きつけておく核」とは、キムタク&こうの組み合わせキャスティングだけ。
イニシエーション前=「飛ぶのが大好きだけど、まだ未熟な副操縦士、恋人無し」
愚者の祭典=「アパートの隣の部屋の韓国娘からしんちゃんと間違われる」
擬死=「避難訓練で落下事故にあい、歩行不能になるかもしれない危機」
イニシエーション後=「操縦士として復活し、恋人も獲得」

 こうみると、やはりグッドラックの「愚者の祭典」の内容がとぼしく、イニシエーション後の変化が少ないことがわかる。つまり、私は愚者の祭典は徹底的にさわぎたて、イニシエーション前と後が、ものすごく変化するようなのが好きなんです。木村拓哉みたいに、最初も最後もずっとカッコいいのは、ドラマとしてはイミナシ。

 二児の父になっても「こぼんのうなパパ」を売り物にしない売り方は正しいぞ、ジャニーズ事務所。でも、「キムタク見たい」で視聴者を引きつけておけるのは、いつまでだろう。
 キムタクファンも、相手が工藤静香なら「何時離婚してもOK」で、ファンを続けていられる。ゆかりんだったかかおりんとか、そういう素人と結婚したのだったら、「二児のパパ」が10歳若い柴崎こう相手に恋愛ドラマやるキャラは保てず、離婚した場合のイメージダウンは免れない。結婚のメリットはなかった。
 スマップの一員兼都立代々木高校生だったころからの、十年来の恋人を捨て、工藤静香を選んだのは、そこまで読んだからだと思うが。
 結婚によるキャラ替えをしなくてもすむ結婚を選んだキムタクの頭の良さ、タレントイメージコーディネート能力の高さを私は評価し、結婚前は香取や中居キャラの作り方の方が好みだのに、結婚後はスマップナンバーワンはキムタクに替えた。でも、ファンがいつまで「結婚しているのに、結婚していない雰囲気のキムタク」を支えるかの見極めは、どこでだれが決定するのだろうか。

本日のねたみ:私も変身したい


2003/03/27 木 曇り 
日常茶飯事典>江戸開府四百年展

  午後、ヒメワカと江戸東京博物館へ。「江戸開府四百年展」を見る。前回見たのは、「太平洋戦争展」をやっていたときで、ワカはほとんど覚えていない。江戸開府といっても、開府期の展示はあまりなくて、東京の歴史のほうが多かったが、ゆっくり丁寧にみた。 ホールでのクイズもやって、甘味処であんみつ食べて、私とワカは帰る。

 ヒメは仲良しの四人組で集まり、池袋の焼き肉食べ放題でパーティ。ゆりちゃん早稲田合格祝い兼、あいちゃん不合格残念会。去年慶応合格のひかりちゃんが春休み語学留学に行っていたので、帰国を待っての四人組パーティ。ゆりちゃんは、念願のスポーツ管理学を学ぶのだという。
 ヒメが不登校の間も、いっしょにコンサートへ行ったり、遊園地へ行ったり、本当によく支えてもらった。子どもは、親一人の力だけでは育てられない。小学校1年生から続く友情に支えてもらったこと、ほんとうに感謝している。

本日のつらみ:合格不合格、明暗は分かれたが、友情にかわりなし、でも、全員合格になってほしかった


2003/03/28 金 晴れ 
アンドロメダM31接続詞>赤いくれよんしんちゃんと薬袋黎璽

 高校文芸部員ネット名「薬袋黎璽(みないれいじ)」のサイトを読む。面白い。
 みないBBSには、2Cプロレタリア亡命政権赤いクレヨンしんちゃんが、まじめに進出している。みない君、もてあましながらもちゃんと相手をしてやっている。さすが先輩エライね。

 みない君は「國家社會主義者」だそうだ。文章や考え方は、そりゃフツーの中学生高校生のレベルを超えた文章力だが、でも、こういう子もあと十年したら、JRかどこかに就職して、優秀な幹部候補生になるのかな。別段JRに就職しなくてもいいけれど、おじいさんが満鉄アジア号の専務車掌だったことを誇りに思っている、という記述が印象に残ったから、JRと言ってみただけ。

 2Cプロレタリア亡命政権は、あちこちの掲示板に進出していて、どこでもたたかれている。もう、私はこの「赤いクレヨンしんちゃん」から目が離せません。

 今のところ突っ張っていてもいいけれど、「ジョンイル王子はバカだが、いるそん皇帝は偉大だ」と信じている、その「幼いゆえに純粋な=年端もいかぬがゆえの無知」による確信が潰えたときの、クレヨンのカラーが何色になるのか。少年ビルドゥングスウォッチャーの私は、500色いろ鉛筆を用意して待っています。がんばれ、赤いクレヨンしんちゃん。

 しんちゃん、小学生のときに「金日成の革命闘争」というような本(彼はちゃんとタイトルを書いていたと思うが忘れた)を読んで、主体思想にめざめたのだ。(掲示板への本人の書き込みによる)。正しい人民共和国の歴史を読んで感動したのだと。

 もし、しんちゃんの親が、ダイサク学会熱烈会員とか新潟長岡出身で角栄真喜子コアファンとかで、しんちゃんが自主的にこれらの本を読んで感動したのなら、それは人生における出会いというもので、別に私がどう思うもない。が、もし、しんちゃんの親がヤーレンソーレン関係者で、親の関係で読んだのだったら、なんだかしんちゃんの主体思想も痛ましい気がする。
 鸚鵡(改名前)の子供たちが児童施設に引き取られる際に、「ソンシをそんけーしています」と答えていたのをみたときのような。法の華の子供が「最高で〜す」と叫んでいるのをみたような。

 しんちゃんは「ネット内掲示板作法もわきまえずに、あちこちのボードに書きなぐっている、要注意厨房」とされているが、私には彼が「誰か、僕を理解してくれ、だれか僕の存在を認めてくれ」と叫んでいるような気がしてしまう。これは、同じ世代の子供を持つ親の目でみる、感傷的な見方なのかもしれない。

 彼の実像が「吉祥寺から井の頭線にひとりでぽつんと電車に乗り、ひとり孤独にパソコン雑誌に読みふけっている厨房」という観察批評を、2Cプロレタリア亡命政権掲示板に書き込みされていた。無論、速攻削除されていた。彼の論理ではこういう書き込みは「個人への誹謗中傷」にあたるというのだ。彼の掲示板は以後、彼の気に入った書き込みだけが掲示され、ほかは削除という言論統制が行われて、読む楽しみがなくなった。
 「まゆげ、まゆげ」という「完全無欠の誹謗中傷」を、莞爾呵々大笑くらいに受け入れる度量がなくては、政権維持もかなうまい。

 この1年、彼をクラス代表に選んだことを39名はとことん後悔しただろう。脳内にいかなる思想を持つことも自由、ということくらい、頭のいい彼のクラスメートは全員理解している。しかし、それが自分たちの生活を不快にする範囲に進出してきたら、容赦ない。しんちゃんを救え!
 彼の写真をみたこともないけれど、文化祭で見たりしたらすぐわかるだろう「まゆげ!」そしたらファンとして一声かけるんだ。「あんた、おもしろいよ」

 今時、どんな純粋培養のソーレン幹部の子供たちでも、日本で客観的に報道を検証する限り、このように純に主体思想を標榜して育つことはないだろう、と思いこんでいた私の思いこみを、うち砕いてくれただけでもおもしろい。

本日の負け惜しみ:わたしのくれよん五百色


2003/03/29 土 晴れ
日常茶飯事典>納骨

 1時から寺で納骨。墓石の文字を「眞」の一字にして、実家の墓は、両親と三人姉妹、四つの名字の家族共同墓となった。
 「○○家代々の墓」というこれまでの墓石では、他家に嫁に出た名字の異なる娘が墓に入ることができない、という寺からのお達しにより、墓石を新しくしたのだ。墓石代負担分三分の一で15万、本日分のお布施1万。でも、これで私がこの墓に入る権利確保。

 死んだ後などどうでもいいとはいえ、本人はよくても、遺族にとっては迷惑になる。骨を勝手に捨てることできないのだから、「散骨葬にせよ」とか、自分の意志をはっきり示しておかないと。

 自分はいつまでも死なない気でいた舅も、150歳まで生きるといっていたよりずっと早く82歳で逝くことになり、残された姑は墓をどうするか難儀した。
 舅の一族は「田舎の本家の墓に入れるのが筋」というし、姑は、遠い本家の墓より、近くに自分たち夫婦だけの墓が欲しい。遺族が悩まなくてもすむように、自分の一生と死後あと始末は決めて置くがよかろう。
 夫は「のたれ死にするけど、遺体を探さなくてもよい」→「散骨する」→「親のために墓を用意したんだから、自分の死後は、同じ墓に入る」と三遷した。

 死んだ後、納骨するところがあるという安心。こんな安心はものすごくくだらない、と夫は軽蔑するだろう。今を生きていればいいのだからと。
 夫のように、「自分の人生は自分だけのもの」で、自分ひとりの力で生きている気になれる人はそれでいいかもしれない。
 
 私の生命観。「私は、遺伝子リレーのバトンのひとつを持っている命のリレーランナー。私は、長い人類のつながりの中で生かされていて、、過去現在未来のたくさんの力を借りて生きている」と思うから、過去とのつながりの確認場所、未来へつながる命の確信が欲しいのだ。

 子供のときは、「お坊さんの読経なんて退屈で、法事とはいっても故人をしのぶより、親戚一同の近況報告が話題の中心で、法事なんてくだらない」と思っていた。
 しかし、親と姉を亡くし、自分の年齢が母や姉の享年に近づいてきて、死はより身近になった。法事の席に親戚一同が集まって近況報告を交わし合うことも、今を生きる人の命のために必要なのだと分かってきた。

本日のつらみ:散骨するにも30万円かかると聞いて、夫、宗旨替え


2003/03/30 日 晴れ 
日常茶飯事典>姉の1周忌

 12時半から、で柿実さん一周忌。墓の開眼供養と、一周忌法要。松伯母ほか、親戚一同。
 
 親戚近況。露子の次男、麻布から東大現役合格。これであと4年間は、駅叔父さんから「外孫、東大合格自慢」を聞かされる。
 駅叔父さんのたった一人の内孫、真帆が、まもなく結婚。叔父は「内孫はひとりなのだから、入り婿をとるのでなければ結婚を許さない」と言っていたが、ついに折れたらしい。今時、入り婿だなんて。婿取りをして継がなければならないような、ご大層な家柄でもなし。
 駅叔父さんとしては、駅長だった自分のあとをついで、息子も駅長になったことが誇り。3代目の駅長になれるような婿がほしかったのだろう。

 法事の会席に、ひつじの婚約者ササニシキさんも加わった。ひつじは先週、大学卒業式を無事終えた。夏までアルバイトをして、夏頃入籍し、ササニシキさんのアパートへ。秋以降、小さな披露宴をするという。自分たち二人だけで、親の援助なしに披露宴も新居準備もするから、派手なことは何もしない、という。

 ヒメとワカは先に東京へ帰った。

本日のうらみ:1年たっても、54歳の柿実を死へ向かわせた、医者へのうらみは消えない


2003/03/31 月 晴れ 
日常茶飯事典>児童遊園地

 姉の娘蜜柑は、シングルママで、4人の子持ち。でも、まだ20代、遊び好き。お出かけ好きは、他の20代と変わらない。
 独身気分でお出かけしたとき、子守をしてもらっていたバーバ、柿実さんはもういない。しかし、バーバいなくても、遊び好きは変わらない。スモモ叔母、いとこのひつじ、えりえりに子守をたのんで、せっせと遊びに行く。

 この1年の蜜柑の課題であった1周忌法要を無事におえて、蜜柑は自分にごほうび。京都に遊びにいく、と言って出かける。私、スモモ、ひつじで蜜柑の子どもたち四人を子守り。じゅじゅ、あんず、ミューズ、龍頭。
 姉にとって、蜜柑が20代のシングルマザーで4人の子育てをやっていけるのか、ということが一番の心残りだったのだから、子守をするのも供養のうち。

 児童遊園地へ連れて行く。小さい子供向けの遊具しかないが、のりもの一回50円の安さ。4人とも十分に楽しんでいた。
 豊島園とか後楽園では身長制限があって乗れないものがあるし、身長が1メートルを超えているリュウズでも、こわがりで絶叫系などには乗れないので、東京なら荒川遊園地、田舎では、ここ児童遊園地がちょうどいい。
 リューズとミューズの年上組と、あんずジュジュ年下組に分かれると思いきや、こわがりのリューズとジュジュが組んで、安全な汽車ぽっぽなどに乗り、あんずとミューズが組んで、ミニコースターなどちょっと、スリルがある乗り物に挑戦。

 夕方、温泉へ行き、駅まで送ってもらって帰った。

本日のつらみ:チビどものエネルギーにふりまわされた1日、温泉に入っても子どもを追いかけ回すのに疲れた
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