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Workshop for Nipponianippon Communicative Language& Culture Studies![]()
ポカポカ春庭日々雑記いろいろあらーな2005年7月![]()
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ポカポカ春庭のいろいろあらーな2005年7月
日付 夏バテ生活第一部 2005
07/01モデム不調 07/02 教育実習 07/07 不調つづき 07/09 地下鉄事故 07/10 ホームステイ 07/14 藤牧義夫の版画 07/16 ようこそ先輩、初講演 07/20 90年と7日間、伯母の一生 07/23 震度4?
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ぽかぽか春庭「モデム不調」
2005/07/01 金
パソコンのフロッピーディスクドライブを交換して、本体の修理がようやくおわったと思ったら、モデムの調子が悪い。
ときどき現れていた「ページが表示されません」という画面がしょっちゅう出るようになり、ついにずっと「ページが表示されません」
電話サービスで問い合わせたら、回線が繋がりにくいのが原因、近くに高圧線など干渉されるものがあるか、など質問された。
思い当たるような原因は何もなかったが、回線の接続速度をおとして、安定をはかるような措置をとる、という診断だった。
6月はどうもパソコンとの相性が悪かったみたい。
あまりカフェ散歩もできず、メールもできず、暑い中、ぐたぐたしていた。
今日から7月。夏休みまで、がんばりまっしょ。
08:05 | コメント (2) | 編集 | ページのトップへ
2005/07/02 土 00:05
やちまた日記>教育実習
娘が母校での教育実習を終えた。私の時代にくらべて、3週間の実習中、忙しく大変だった。
私の時代には、教育実習は2週間だった。最初の1週間は、指導教諭の授業を見学するだけ。次の週に授業をやらせてもらい、最後の日に研究授業。
2週間テキトーにすごしているだけなのに、昔は「教育実習のセンセー」というだけで、実習生の若さに親近感が寄せられ、人気者として実習を楽しむことができた。
生徒から慕われるのがうれしくて、結局、卒業後、私は中学校の教員になった。
娘の実習は、はるかに内容が濃くなっている。第1週目から授業実習があり、生徒に配布するプリント、参考資料、授業が理解できたかどうかという確認問題までを事前にきっちり作成。毎回、全実習生がお互いの授業を見学して感想意見を交換したり、指導教諭からのダメだしもある。
娘は、不運なことに実習前日、うちのパソコンがこわれて、ワープロ作業を深夜のネットカフェでやらなくてはならなくなった。
いっしょに実習をやっている同期生が「自信をなくしたから、実習やめる。もうダメッ!」と、SOSを出してきたのに根気よくつきあって、悩みを聞いてやったり、なんとかがんばれるよう、指導教諭といっしょに説得して、帰宅が深夜になったり。
相変わらず、自分のことはあとまわしにして、人のために走り回る日々だったけれど、よくがんばりました!
いつもがんばりすぎちゃうのが心配な子だったけれど、なんとか無事に実習を終えて、課題をひとつクリア。
娘は、中学校時代、生徒会長に推薦され、学校のために生徒のためにとがんばった。がんばりすぎて、生徒指導の教師と対立する結果となり、「内申点がどうなっても知らないぞ」「お前なんか高校へ進学できないようにしてやる」などの言葉の暴力を受けて、食事がのどをとおらなくなってしまった。
病院での診断は、神経性胃炎ということで、入院することになった。
胃炎は一ヶ月で回復したが、退院後、娘は中学校へ戻らなかった。中学後半の1年半、不登校ですごした。
高校は、内申点ではなく、学力試験と面接で人物を判断してくれる高校を受験した。
3年間の高校生活でも、さまざまな試練があったけれど、なんとか卒業した。
その出身高校での教育実習。
在学中にお世話になった先生方は、半数以上が転勤でいなくなっていたが、娘のことを覚えていてくれた先生も多く、いろんな先生から励ましの声をかけてもらったという。
目の前の課題をひとつひとつこなしていくだけで、せいいっぱい。卒業後のことまで考える余裕もない、という娘。就職活動もこの3週間は中断していた。
いっしょに就職活動をはじめた同期生がつぎつぎと内定を得ていくなか、教育実習をすませても、教職をめざすというわけでもなく、進学したいという気持ちもゆれていて、いったい、これから先、どうしたいのか、親にはさっぱりわからない。
でも、心配してもしょうがない。
中学校で不登校となったとき、「もう中学校へ行きたくない」という娘の気持ちを尊重し「大丈夫、みんなと同じコースを辿らなくても、かならず道はあるのだから」と自分に言い聞かせた。将来のことはどうなるかわからず、不安はいっぱいだったけれど、娘には娘の生き方が見つかると信じた。
理不尽な教師のイジメに耐えた、あのころの娘のつらい気持ちを思い出せば、就職や進学ができなくたって、「どんなことがあっても、大丈夫。いつかはきっと自分で進むべき道を探し出せる」と、再び娘を信じてやりたいという気になる。
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2005/07/07(木) 09:56
やちまた日記>不調つづき
せっかくの七夕だけど、一年一度の逢瀬に胸こがすより、パソコン不調に胸いためる毎日。
FDディスク交換27000円の修理費、私にしては痛い出費で、ようやくパソコン復帰と思ったら、モデムルータ不調。
モデム初期化や、通信速度を落として安定させるという調整をしたが、まだときどき不安定。ネット閲覧もままならない。
次はプリンター不調。学期末のテスト作成が立て込んでいるというのに、働かない。
娘がゼミレポートをプリントした1時間後に、私がテストを印刷しようとしたら、プィとストライキ。
天候不順にあわせて、どうも気まぐれなうちのパソコンたち。
09:56 | コメント (9) | 編集 | ページのトップへ
2005/07/09 土 13:06
やちまた日記>地下鉄事故
仕事先へでかけるのに、地下鉄を利用する。
1995年の地下鉄サリン事件から10年目の今年3月には、サリン事件当時の地下鉄のようすが、報道番組で繰り返し流れた。
サリン事件のときの地下鉄のようすを見ても、今回のロンドン同時多発テロの地下鉄をニュースを見ても、「ああ、私はこんな事件に出会ったら、助からないほうの一人だろうなあ」と、思う。
思うが、明日からも地下鉄に乗らないわけにはいかない。
7月8日金曜日の仕事帰り。地下鉄東京メトロの快速東西線が、通過するはずの駅で止まってしまった。
「早稲田駅で人身事故発生。救助作業を行っていますので、東西線は全線運転を見合わせています。しばらくそのままお待ちください」というアナウンス。
待ち続けても動き出さないので、車内の人々はケータイ通話やメールで連絡をはじめた。
30分くらい止まったままになったあと、「西船橋・九段下間の折り返し運転となります」というアナウンスが入って運転再開。
九段下で全員下ろされ、「半蔵門線、都営新宿線にふりかえ乗車できます。東西線はまもなく全線運転再開となります」というアナウンス。せまい九段下駅のホームは、乗り換えようとする人と、そのままホームで運転再開を待つ人でギューギュー詰になった。
私は、半蔵門線に乗り換えて接続駅まで回り道する方を選んだ。乗り換え通路へ向かってホームを移動したいのだが、そのまま運転再開を待つ人がたくさんいるので、ホームぎりぎりの端を歩く。落ちそうでこわい。ホーム整理の人員はいない。
地下鉄駅員は、改札口で、振り替え輸送の切符を渡す作業に没頭している。線路への墜落事故にもならず、なんとか半蔵門線へまわれたのでほっとしたが、これが「人身事故の救助作業」ではなく、テロだったら、この人混みの中でいったいどのような二次災害がおこるのだろうと、ぞっとする。
私は、冷静に判断し、落ち着いて行動できるほうではない。あわてふためいて逃げようとしてころび、下敷きになって踏みつけられそうなタイプである。
地下鉄サリン事件で亡くなった人々も、ロンドン地下鉄テロでなくなった50人の人々も、そして先日のJR西日本福知山線の事故で亡くなった106人も、ほんとうに気の毒なことだし、残された家族の無念はいかばかりかと思う。
なぜ、あの電車に、あの時間にと、運命の残酷さを呪ってしまうだろう。
一つ前、一つあとの電車ではなく、事件事故が起きた当の電車に乗ってしまったのは、運命なのかもしれない。しかし、遺族には割り切れない思いも残るだろう。
松本サリンのあとの対処をもっと適切にしていれば、、、。河野義行さんを疑って捜査をおくらせたかわりに、オームをきちんと調べていれば、地下鉄サリンは防げたのかもしれない。私は心が狭いから、もし自分の家族が犠牲にでもなれば、オームとともに警察を恨んだかもしれない。坂本弁護士事件をあいまいな捜査のままうち切った警察幹部にも恨みを感じるだろう。
利益優先で、安全設備の導入をおくらせていたことや、「日勤教育」とやらで、運転士のミスを締め付け脅す体制を考え直していれば、無理な「スピード回復運転」はせずに済んだのかも知れない。
私は「冷静で落ち着いた対処」などできないから、JR西日本幹部を恨むだろう。(JR西日本は、責任者というのはいない組織で、だれも責任をとらなくてよいらしいが。)
テロの標的となったことに対して、「ロンドン市民はパニックにはならず、落ち着いたストイックな対処をした」と報じられている。
五輪開催決定の熱狂から一転したテロの悲劇。
「テロを許してはならない」のは、もちろんだ。でも、「テロを呼び込むこと」も許したくない。
今回のロンドン地下鉄テロは、サミット会場のスコットランドへ警備重点がおかれ、ロンドン警備が手薄になったところを狙っていた、とニュース解説は言う。
もし、憶測されているように、このテロがアルカイダなどの過激派が起こしたものであるのなら、アフガンやイラクへの派兵問題と無縁のテロではない。
イラクに派兵している国はイギリス以外にもあるが、ブッシュの同調者としてもっとも目立っていたのがブレア首相であることは間違いない。そして、次ぎに「ブッシュの同盟者」として目立つ国は?
そんなことが起こると想像するだに恐ろしいが、もし、地下鉄テロが、ロンドンの次に東京で起ったとして、「わが国は、ブッシュの賛同者であるから、テロ被害を受ける立場におかれたことも、やむを得ない」と、「冷静でストイックな対処」をするのだろうか。私にはできない。
どんなことが起きても、自分だけは助かる、という楽観論で生きている人もいる。私は「どんな事件事故に巻き込まれても、まっさきに自分が被害にあってしまうだろう」という悲観派のひとり。
8日の地下鉄人身事故では、九段下駅ホーム混乱の中、なんとか無事に帰宅できたが、「この次ぎも必ず安全に帰れる」とは思えない。
13:06 | コメント (4) | 編集 | ページのトップへ
2005/07/10 日 13:29
ニッポニア教師日誌>ホームステイ
9日10日の土日、泊まりがけで日本人家庭に「ホームステイ」するのを楽しみにして、ワクワクしている留学生達。
出かける前に「日本事情」のクラスで、日本の家の特徴や家庭生活について「和式のトイレの使い方、お風呂の入り方」「あいさつ、生活文化」などの説明があるが、私が担当するクラスでも、会話の練習をしながら留学生の疑問質問に答える。
ホストファミリーも事前に講習を受けて、イスラム教徒にはお酒をすすめない、ヒンディ教徒には牛肉がだめ、など、よく知っている。
最近は、日本の家庭生活や習慣、慣用表現について解説した本やビデオも何種類も出ている。
「何もございませんが、どうぞ召し上がって」と、食事をすすめられて「こんなにたくさん食べ物があるのに、なぜ、何もないと言うのだろう」というような素朴な疑問についても、解説がでている。
「これ、つまらないものですが」という、おみやげを渡すときの口上についても、「つまらないもの」は、けっして「価値のない、安物」という意味ではない、謙遜表現modesty wordである、 というような説明を受けているはず。
それでも、ときどき面白い質問がでる。
ホームステイ前日とあって、学生の会話練習も熱がはいる。訪問先でよくつかわれる会話表現を練習する。
When offerring food or drink, your host will say 「どうぞ、ごえんりょなく召し上がってください」You have to say. 「はい、いただきます」or,「じゃ、えんりょなく」
「召し上がる」は、「食べる」のhonorifics 敬語でしたね。
「えんりょ」This literary meaning is hesitation, reserve. 「ごえんりょなく」文字通りの意味では、without hesitation 躊躇することなく、留保することなく。
「ごえんりょなく召し上がってください」は、「 Please feel free to eat a lot. 自由に、たくさん食べてください」という意味です。じゃ、ホストと留学生の役で、ロールプレイれんしゅうしましょう。
ペアになって、もてなし役と学生役で会話を練習する。
ちょっとした国からのおみやげを持参する学生もいるので、プレゼントの口上を練習。
「これ、国のおみやげです。ほんの気持ちですが、どうぞ」と、教科書にある会話例文。
「先生、私のおみやげは、本じゃありません。おかしです。どうしますか」というシェリー。えっ、「ほんの」を「本(book)の」という意味だと思っていたの?
「ほんの」is not book's. ほんの merely, only expresses modesty. 謙遜の気持ちで言うことばです。It's a token of my gratitude, so please accept it. 感謝のおしるしです、どうぞ受け取って、という気持ちで言ってください。
ホストファミリーは、それぞれの家庭の方針により、さまざまなもてなしを用意してくれる。ディズニーランドや野球場へいっしょにいく家庭もあるし、ドライブに連れ出す家庭もある。
おばあさんがお習字を教えてくれた、娘さんといっしょに茶道や生け花を体験した、という家庭もある。
日本舞踊をならっている母娘で、毎年、ホームステイの留学生を観客にして「家庭内おさらい会」をやって、留学生に「すばらしかった」と言われるのを生き甲斐にしている家もあった。
息子が夢中になっているコンピュータゲームを、朝から晩までいっしょにやった、という家庭。ゲームばかりじゃ、つまらなかったんじゃないの?と心配すると、その留学生は「ぼくは、小学生のとき、日本のファミコンをおみやげにもらったのがきっかけになって、日本へ留学することになったんです。いっしょにゲームしてすごく楽しかった」と話していた。
ゲームに興味のない学生と組合わさったいたら、受け入れ家庭にとっても、学生にとってもあまり居心地のよくない結果になったかも。
留学生の趣味や興味と、日本の家庭がうまくマッチングするように、ホストファミリーの組み合わせをきめるのだろうが、うまくいかない場合もある。
「夕ご飯のときも、朝ごはんも、料理の手伝いをしただけで、とてもつまらなかった。会話も、料理のレシピについてだけだった」という留学生もいた。国ではコックやメイドが料理をするし、自分は料理を作ることにまったく関心がない、という女性。
料理自慢の家庭と料理好きな学生が組合わさったら、よい思い出になったはずなのに。
医学部の留学生に対して、知り合いの医師に連絡して「病院見学」をセッティングしてくれたホスト。どこを案内されるより、「大学病院以外の、日本のさまざまな医療現場」を見る機会を欲していた彼にとっては、有意義なホームステイとなった。
水産資源開発の研究をしている留学生を漁船に乗せて、本物の「漁師の一日」体験させてくれたホストファミリーも。
ほとんどの留学生は、コース修了の感想を述べるとき、ホームステイを「一番の思い出」として語る。
教師からも、受け入れてくださる家庭のみなさんに、心からの感謝をしたい。
次の授業、日本語口頭表現練習「ホームステイリポート」をするから、どんなことを体験したか、日本語で報告してね、と、宿題を課して授業を終わりにした。
すてきな「日本の家庭」とめぐり会いますように。
13:29 | コメント (8) | 編集 | ページのトップへ
2005/07/14 木 10:04
今日のいろいろ>藤牧義夫の版画
竹橋の近代美術館で、藤牧義夫の版画を2点見た。「都市風景」木版白黒と、「銀行について」木版一部彩色。
2点とも、小品ではあるが強い印象を残す版画である。
春休みにゴッホ展を見にいったときも、通常展示をひとまわりしたのだが、その時は展示していなかったのかもしれない。あるいは、閉館間近の急ぎ足での観賞だったから、大きな油絵ばかりを見てまわり、版画を見のがしていたのかも。
また、藤牧義夫の名を記憶にとどめていなければ、小さな版画の前に足をとめることもしなかったろう。
私は絵画について何の知識もなく、ミーハー的な見方しかしない素人だから、絵の構図だとか筆のタッチなどについて解説されても、はぁ、そういうものかと感心するだけで、ただ、自分の心にひびいてきたかどうか、感じるものがあったかどうかだけで、見てしまう。
まして版画については何もわからないまま、リトグラフなどをみてきた。
版画家藤牧義夫について知ったのは、つい最近のこと。
映画が好きなのでmackeychanカフェ日記を訪問するようになり、牧野光永さんが、お父さんの著作を紹介しているのを読んだ。藤牧義夫の評伝、牧野將『赤陽物語』。
藤牧義夫は、牧野さんと同郷、群馬県館林市の出身。1911年生まれ。少年時代から並はずれた版画の技量を示し、長じてドイツ表現派の影響を受けた版画作品を世に出した。しかし、1935年24歳のとき行方不明になり、生死不明のまま今日に至っている。
また、美術評論家、洲之内徹が1987年に急逝する直前まで書いていたのが「藤牧義夫論」であるという。
牧野さんの著作や洲之内の遺作によって、藤牧義夫の名をインプットされたおかげで、小さな版画の前で立ち止まった。
これまで知らなかった人の名を知り、自分の世界が広がっていくのも、カフェ散歩の楽しいのひとつ。藤牧義夫の作品、これからもチャンスがあったら、見ていきたい。
10:04 | コメント (2) | 編集 | ページのトップへ
2005/07/16 土 15:03
やちまた日記>ようこそ先輩、初講演
娘の出身高校では、期末試験が終わったあと夏休みに入る前の行事のひとつとして、「先輩に進路の話を聞く」という催しがある。
在学中に、娘は先輩から進路について、さまざまな体験を聞くことができた。
また、卒業後は、毎年担当の先生から「後輩のために話をしてほしい」という依頼があった。
しかし、1年生からの3年間、娘は「ちょうど自分の前期期末試験の日程と同じ日なので、残念ながらお役にたてません」とお詫びして、このイベントに参加しなかった。
しかし今年は、母校で教育実習をさせていただき、いろいろお世話になったし、たまたま今年の催しの日は、試験ではなくレポート提出だけの科目の授業なので、「お引き受けします」と、担当の先生に伝えた。
「まあ、自分の体験をちょこっとお話しすればいいのだし」と言って、気軽にかまえていた。
すると、校長名で「講師依頼」という書類が届き、「依頼受諾書」にサインをして提出する、という手続があり、「ほんの少しですが、講演料として謝礼がでます」という。
気分だけはすっかり正式な「ようこそ先輩」になってきた。
さらに、学校側から、話す内容にも指示があった。
「数人の先輩に、順にひとり10分から15分ずつ体験を話してもらい、生徒からの質問に答える。その10分の内容は、これこれこのように」と、あまり、気軽にちょこっと、でもなくなってきた。
進路を決めるまでの経緯、進路のためにどのような活動をしたか、具体的なスケジュールはどうだったか、高校卒業後これまでの活動、これまでの経験の中で後輩に伝えたいこと、などなど、細かい指示がある。
一応正式な「講師」ということなのだから、学校側も「テキトーに気軽に話す」というのでは困るのだろうが、「10分で、これを全部まとめて話すのって、むずかしい」と、娘はよわりながらも、当日はこれまで着るチャンスがなかった「夏用リクルートスーツ」を着て出かけた。
進路決定までの経緯といっても、あまり参考になるほど、悩んだり苦労したりしていない。
まず、高校3年生の夏休みに受験案内書を調べて、「推薦基準」のそれほど厳しくない「自己推薦入試」の学校を探した。「都内にあって、自宅から30分以内で通える」という条件で2校を選んで、面接と小論文試験を受け、2校とも受かった。
いうなれば「ラッキー!超幸運」が、服着て合格したような進路決定だったのだ。
本人はそれなりに悩んだのかも知れないが、親から見て、受験勉強も何もしない「イージー進路決定」だった。
「進路について悩み、後輩の参考にする」という面では、高校入試のときのほうが、よほど参考になるのではないかと思っている。
娘は、中学校後半を不登校ですごした。3年の夏は、親子で「不登校の子が受験できる学校」を見てまわった。都内だけでなく神奈川まで足を伸ばし、単位制高校や通信制高校などを見学した。
印象に残っているのは、スマップの中居君と木村君が卒業した高校。校長先生が、ふたりの在学中のエピソードを話してくれたり、卒業文集にある木村君の文章を読んでくれたりした。
中居君が「ボクたちの出身校が閉校になってしまった」と、テレビで話しているので、校名を明らかにしてもいいと思うが、都立代々木高校である。朝から授業がある第一部から、夜間の第四部まで四部制の授業が行われていて、生徒は自分にあった部を選んで登校する。中居君と木村君は、芸能活動の合間に登校できるようしていたのだという。
私は、代々木高校を見て、のびのびしたよい感じを受けたので、娘にはこの学校をすすめたが、娘は単位制高校を希望した。
私立単位制高校と都立単位制高校に合格して、第一希望の都立に進学した。
子どもの進路について、夏休みの間中、受験生の親も子も悩み、頭が痛くなる。
娘が、後輩のために話した「自分の進路」を聞いて、役にたったと感じてくれた生徒さんがひとりでもいたら、いいのだけれど。
娘が学校からいただいた「ほんの心ばかりの謝礼」は、「2400円」だった。しかもそのうち240円は「源泉徴収」されていた。
「この講演で、よくわかったこと。たった240円でも税金ひかれると、自分が納税者だってことが、身にしみる。消費税を内税にしてしまったので、自分が納税者だってことを普段意識することが少なくなっていたけど、直接、所得税を引かれると、税金の使い道をちゃんと追求しなくちゃ、という気持ちになる」
生徒さんの役にたったかどうかはともあれ、娘にとっては、貴重な経験をさせてもらい、納税者意識までしっかり持つことができて、学校に感謝感謝の「ようこそ先輩」講演であった。
15:03 | コメント (5) | 編集 | ページのトップへ
2005/07/20 水 10:03
やちまた日記>90年と7日間、伯母の一生
今月10日に90歳になった伯母(亡き母の姉)が、90歳をすぎて7日目に力つきた。
16日土曜日に、妹といっしょに伯母を見舞った。実家の隣町のグループホームで、伯母は余生をおくっていた。
子のない伯母にとって、私の姉が最愛の存在だった。自分の命を縮めるようにして伯母の世話を続けていた姉は、3年前に先に逝ってしまっている。
タンがのどにからむようになり、ときどきのどをつまらせるので、目が離せない、というホーム職員の話を、私の妹が聞いてきた。大病にも負けないで長命を保ってきた伯母だったが、「90歳をすぎているので、さすがに心配」という妹が、私に連絡してくれた。
3連休を利用して、伯母を見舞うことができた。
最後の面会でも、妹とかわるがわる伯母に語りかけたが、私と妹の存在を認識できたかどうかはわからない。
米寿の祝いまではしっかり自分の身のまわりのこともできていた伯母だったが、脳出血で倒れて以後は、認知症(老人性痴呆)が進行した。
ホーム職員は、「タンがきれずに困っているほかは、食事も残さず食べるし、お手洗いに行きたいという意志を、手招きをすることによって職員に伝えて、失禁もない」と最近の状態を説明してくれた。
自力で歩けなくなっていて、車椅子にすわったままだが、機嫌のいい顔を見せる。微笑む顔を見られたことで、私も安心し、17日の午後、東京へ戻った。
17日夜、妹から「夕方容態が急変し、救急車で病院へ運ぶ途中で亡くなってしまった」というメールが入った。「お昼ご飯はいつも通り食べ、苦しいようすもなかったのに、夕方具合が悪くなった」という話だった。
亡くなる直前まで管にも繋がれず、食事もできたということは、90年の生涯を十分に生き抜いたのだと、私も妹も伯母の死を悲しむというより、「がんばったね、伯母さん」と、讃えてやりたい気持ちであった。
18日に通夜、19日に葬儀をすませた。
伯母は1915年(大正4)に、長女として生まれた。私の母は、次女。極端に人嫌いで非社交的な伯母と、世話好きで活発な私の母、性格は違ったが、仲の良い姉妹だった。
若い時代のほとんどを「戦中」ですごした世代である。母のすぐ下の弟(長男)はフィリピンで戦死した。
戦争中と、戦後の混乱と復興の時代をいっしょうけんめい生きてきた伯母。仲良い姉妹だった私の母が亡くなって32年後、最愛の姪(私の姉)が亡くなって3年後まで、よくがんばりました。90年の生涯、お疲れさまでした。
10:03 | コメント (9) | 編集 | ページのトップへ
2005/07/23 土 20:06
やちまた日記>震度4?
夕方、4時半、首都圏で地震。足立区で震度5強。中央区千代田区などで震度4。
団地9階の我が家、棚の小物がバラバラ落ち、娘は「揺れで目がまわって、気持ち悪い」と、地震がおさまってから横になった。
しかし、ニュースでは、うちの区域は震度5の地域にも4の地域にも入っていない。「え?こんなに揺れたのに、震度4にも入らないの?それじゃ、震度5になったら、立っていられないかも」と、娘は不安そう。
「こわいよね、地震になったらどうしよう」と、心配するだけで、何ひとつ地震対策もとっていない我が家。いざという場合、9階からどうやって避難したらよいのか。
今回の地震でも、エレベーターに閉じこめられた人が大勢出た。
足立区ほかで怪我をした方もいるというニュース。お見舞い申し上げます。
また、通勤途中だったらどうしよう。歩いて帰宅する練習もしていない。
今回、地下鉄その他の交通が安全確認まで3時間くらい運行見合わせとなった。平日だったら多くの通勤客が立ち往生しただろう。
東京に、阪神淡路大震災規模の地震が起きたら、壊滅的な状況になると言われている。毎月1日に「地震の際の連絡方法をとる練習サイト」が、ケータイ用で行えるというのだが、一度やってみて、うまくできなくて、そのままになっているし。
もっともっと心配して、ちゃんと準備しておくべきだろうなあ、と、今回も反省するが、なかなか、実行が、、、、。
いつも仕事優先で、地震が起ろうが近所で家事があろうが、「家族の心配より、締めきり優先」という方針だった夫が、「外回りしていて歩いていたので、自分はあまり揺れを感じなかったんだけど、そっちは大丈夫か、みな無事か」と、めずらしく電話をよこした。
なんぞのときには、安否確認くれる人がいるのだ、と思うだけで、もう地震の備えができたような気になってしまうのが、「準備も対策も人任せ」で生きている私のだめなところだろう。
悲観主義で生きているので、どんな準備をしようと、何かコトあるときは、一番先に被害者被災者になって、どうせ助からない、と思ってしまうクセ、直さないとね。
20:06 | コメント (7) | 編集 | ページのトップへ
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