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Workshop for Nipponianippon Communicative Language& Culture Studies
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おい老い笈の小文2003/10下旬 読んだ本の思い出とつれづれ昔語り日記
日付1 タイトル 今日の一冊 著者 2003
10/21遙かなる楽園
南の島そしてニューギニア戦記ニューギニア高地社会 (は)畑中幸子 10/22 初恋の人の本 俺は日本兵 (は)浜崎紘一 10/23 友がみな我よりえらく見える日は 一葉日記 (ひ)樋口一葉 10/24 働く女と元始の太陽 元始女は太陽であった (ひ)平塚雷鳥 10/25 林住期遊行期、放浪 印度放浪 (ふ)藤原新也 10/26 姥捨山、楢山と蕨野 楢山節考 (ふ)深沢七郎 10/27 灰になるまで もの食う人々 (へ)辺見庸 10/28 けんか友だち 極限の民族 (ほ)本多勝一 10/29 年の残りはレビトラで元気 年の残り (ま)丸谷才一 10/30 トランスジェンダー 仮面の告白 (み)三島由紀夫 10/31 霊長類ヒト科さまざま 霊長類ヒト科動物図鑑 (む)向田邦子
遙かなる楽園・南の島、そしてニューギニア戦記
at 2003 10/21 06:58 編集
講談社インターナショナルの取締役、マグロウヒル出版の社長、という職をなげうって、フィリピンセブ島近くの小島カオハガンを島ごと全部買って移住した人がいる。崎山克彦がその人。うらやましい。
沖縄に惹かれて住みついたり、いっとき住居を移したりする人もたくさんいる。作家では、琉球大学で2年間勉学を続けた澤地久枝を紹介したが、ほかに灰谷健次郎、立松和平、池澤夏樹。演劇界では宮本亜門も沖縄に家を建てた。これまたうらやましい。
南の島が大好き。いつか、移住したい。三シンもならいたい。アウトリガーカヌーをこいで、珊瑚礁の海をぼんやり見ていたい。
老後の過ごし方として、ハワイ、マレーシア、ニュージーランドなどで「年金で暮らすロングステイ海外生活」が脚光を浴びている。物価が安く、安全な土地で、異文化交流を楽しみながらロングステイをする。
日本の高額な年金があるなら、海外では大きな家に住み、ときにはメイドを雇って生活できる。なんだかいいことづくめである。
しかしながら、現実を見てみると、私には崎山さんが「1000万円の退職金を全部つぎ込んで島を買った」という、その退職金はないのである。非常勤講師がもらえるのは、日当だけ。ボーナスも退職金もない、日雇い仕事なのだ。
年金で豊かな海外生活というけれど、年金も私にはないのだった。はかない夢を夢見るだけで、目の前の「日雇取り」仕事に励むのみ。
子供の頃「ヒヨトリ」仕事をしている人は、月給取りの社員に比べて格が低いと言われ、「おまえのお父さんは月給取りでよかったねぇ。おまえもヒヨトリなんかになるな。ちゃんとした月給取りになれ」と、近所のオバサンに諭されたことがある。しかし、その「ヒヨトリ」とは、どんな仕事か分らないでいた。
漢字で書けば、湯桶読み「日雇ヒヨウ」で、日銭を稼いで取る「日雇取り」であった。現在の、私の雇用形態、まさしく「日雇取り」である。契約は1年ごとに更改だが、支払いはヒトコマなんぼの日銭稼ぎ。
さて、南の島もさらに遠い。
☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.28
(は)畑中幸子『ニューギニア高地社会』初出は「われらチンブー」
子供の頃、毎晩布団の中で、子守歌がわりに父の「南の島のおはなし」を聞いた。黒い顔の人たちが、椰子を拾ったり、魚をとったり。日本兵の背嚢の中味に興味を示すので、荷物の中からひとつひとつ取り出し、食べ物と交換していった。しまいには何も交換するものがなくなった。おとぎ話のように繰り返される南の島の話。
真実を言えば、その島ニューアイルランド島で、父たちは「陸軍の捨て子」となって飢えていたのだった。食べ物がなく、カエルもヤモリも何でも食べた。敗戦の報は絶対うそだと思ったが、捕虜になって隣のニューブリテン島ラバウルに収容されたときは、むしろほっとした。
父が捕虜生活を終えて帰還船に乗ったとき、残されたのは、弱った身体と「一つの食べ物をめぐって人が裏切り合う極限の生活」から得た「人間不信」だけだった。
それでも生きて帰った父たちは幸運だった。ニューギニア戦線で、大半の兵士は死んだのだから。銃で死に、熱帯の病に臥し、そしてほとんどは飢えて死んだ。大岡昇平が『俘虜記』『野火』『レイテ島戦記』で描いたことがらは、ニューギニア戦線でもそのまま同じことが起きていたのだ。
本多勝一『ニューギニア高地人』によって、多くの日本人がパプアニューギニアの人の生活を知った。父が出征したニューアイルランド島と、パプアニューギニア本島の山中の民族の暮らしは異なるものだが、私にとっては「ニューギニア」は、自分の住んでいる町の次に親しい地名だった。
畑中幸子の『ニューギニア高地社会』も、「いつか、この土地へ行って、文化人類学者、民族文化研究家としてフィールドワークしたいなあ」というあこがれをつのらせた一冊だった。
パプアニューギニアのシンシンなどの祭典、仮面舞踊を研究したかった。いろいろ資料を集めたが、パプアニューギニアに何のツテもなく、結局、従姉妹が海外青年協力隊員としてハイスクール理科教師をしているケニアに行くことになった。1979年のこと。
初恋の人の本
at 2003 10/22 09:07 編集
10/21の項に書いたように、父は南の島の生活をおとぎ話のように語って聞かせた。しかし、戦争の苦しみについて子供に決して話さなかった。人間不信になるほど極限のつらい体験をした父。話すこと自体が苦しみでできなかったのだろう。
五木寛之は、敗戦を外地でむかえた。ロシア兵に母を殺されたときのことを語れるようになったのは、つい最近だという。50年もの間、思い出そうとすると、苦しくてつらくて、振り返ることができなかった。
高齢者の中に、戦時中の苦しみを抱えたままの方もいるかもしれない。そんな心の中にしまった思い出を、聞き取りすくい取り、つらい思い出も共有できればいいのだけれど。
日本国内だけでなく、戦争の苦しみを味わったのは、アジアの多くの民も同じ。留学生から「私の家族に、日本兵に殺された人がいる」という話を聞くこともある。「私の町には、死んだ日本人兵士を町の人が埋葬した共同墓地がある。だれもお参りにこないけれど、町の人は、大切に墓を掃除している」という話を聞かせてくれた留学生もいる。
日本兵として塗炭の苦しみを味わったことは同じなのに、戦争が終わってみれば、「外国籍」の人として、何の国家補償も受けられず、つらい戦後を過ごした人もいる。
戦争は絶対にイヤ。アフガニスタンでも、イラクでも、よりいっそうつらい思いをしているのは一般庶民だという。
コスタリカと共に「戦争放棄憲法」を世界中に広めたい。
☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.29
(は)浜崎紘一『俺は日本兵』
1977年以前に読んだ本を思い出しながらの昔話、というコンセプトである「今日の一冊」だが、台湾国籍の元日本兵簡茂松を描いた『俺は日本兵』は2000年発行。でも、例外として登場。浜崎さんは、私の初恋の人だからである。
初恋と言っても、おきまりの片思い。
高校を卒業して地方公務員として働いていた私は18歳。浜崎さんは28歳。新進の新聞記者だった。カッコよかった。あこがれた。
彼にお茶をいれるときは、特別心をこめた。誕生日は松の内。おしんこに味の素をかけるのがきらい。住んでいるアパートは「太陽荘」そんな情報を知るだけで、うれしくてたまらない乙女でした。
むろん、浜崎さんは、そんなお茶くみ事務員がそこにいることさえ気づかずに、さっそうと飛び回っていた。後に、ロシア語学科卒を生かしてモスクワ支局長、外信部長と進んでいった。
その後、テレビ深夜ニュース「明日の朝刊」のキャスターをしている浜崎さんを見た。すてきなすてきなシルバーグレイの髭と髪。かっこよかった。あこがれた。安心した。
初恋の人が年をとったら見る影もなくなっていた、という話をよく聞くけれど、私の初恋片思いの人、浜崎紘一さんは、現在、山梨にある大学でジャーナリズムを教えている、ロマンスグレイのダンディな教授です。
友が皆、我よりえらく見える日は
at 2003 10/23 05:59 編集
石川啄木「友が皆、我よりえらく見える日は花を買い来て妻としたしむ」『一握の砂』より。
中高年になると、いそいそとクラス会に出席する人が多くなる。童心にかえって昔の遊び仲間とつるんでみたり、ほのかな恋心を感じた人に再会したり。
10/22に、私が初恋の人と再会したのはテレビを見てのことだった、という話を書いた。テレビの中の初恋の人がいくらステキでも、ことばは交わせない。
クラス会の一番の楽しみは、昔好きだった人に会うことだ、という。ときめきが戻ってくるだろうか。
クラス会の楽しみ、ほかにもいろいろ。学校時代はケムたかったライバルと、今は心おきなく話せるようになってうれしい、と言う人もいるし、かってのライバルから再び自慢話を聞かされるのがいやだから、クラス会など行きたくないと言う人も。
私がクラス会に出席したのは、小、中、高を通じて1度だけ。数年前に、女子校2,3年持ち上がりクラスの同級生に会った。
なつかしい顔、忘れていた顔の近況報告が続く。「教頭職、3年目になり頑張っています」「このたび、校長になりました」「教育委員会へ転出です」
女子校の50人のクラスメート、半数近くが教職を選んだ。女性が結婚後も働き続けるには、教職を選ぶ以外の選択がむずかしい時代だったのだ。
主婦になった人の近況報告。「パイロットの夫が早期退職をしたので、夫婦で海外旅行三昧です」「夫の会社が業績順調で、副社長の私も忙しくて」などなど。
はい、はい、私の近況報告。息子は未熟児生まれで虚弱、娘は不登校。夫が自営する会社は借金まみれ、自分は万年「日雇取り仕事」
しょうもない自分の人生であっても、けっしてイヤじゃないし、いとおしくさえ思うことがある。だが、「負けっ放し人生」にときどき倦み、アマデウスに嫉妬するサリエリの気持ちがわかる日もある。
人は人、自分は自分と思ってはいる。だが、「ああいう人生がよかった」と、うらやましく思う人が現実に眼の前にいたら、、、
私は、自分がそうなりたかった生き方を、すいすいと涼しい顔で実現してしまった同級生を持つ。彼女は、美女で才女。夫もハンサム。かわいい娘もすくすくと成長し、親の思い通りの進路を選ぶ。出版した本は高い評価を受け、大学教授の仕事も順調。
対する私は、子育てに苦しみ、「家庭向きではない夫」に悩み、仕事はうまくいかず、収入は最底辺、、、花を買う金もなかった。「花を買い来て妻としたしめた啄木は、まだマシじゃわい」と、ぼやく日々。
私のライバルは、10/10「悪霊の町」の項で書いた「スター小間物店の娘」である。中学校の文芸部では、お互いの作品を誉めあったり、けなしあったり。高校の予餞会余興では、隣あって立ち、いっしょに歌い、おどった。
いつもネクラで愛想のない私に比べて、彼女は商家の娘らしい華やかな愛嬌をふりまき、美人で頭がよかった。彼女が学生結婚したとき、もう一人のまもなく結婚する高校のクラスメートといっしょに結婚式に参列した。若く美しく花嫁だった。すぐに子供に恵まれたが、実家の家族や夫の協力を得て、大学院へ進んだ。
彼女の出世作『姉の力--樋口一葉』を読んだとき、半分は内容のすばらしさにうたれ、半分は「私もこういう本を書きたかったのに」という思いにうちのめされていた。
ライバルが遙か先へ進んでゆくのを横目で見ながら、私は二人の子を抱え孤軍奮闘した。日本語教師をしながら、大学、大学院に通い、家事育児は一人で全部やった。
年中「父さんは倒産しそう」と言っている夫が自営する会社は、仕事をすればするほど借金が増えていくのみ。
日本語教師の仕事の合間、土曜日曜、夏休み冬休みには夫の仕事を手伝って走り回った。
そんな毎日の中でクラスメートの初出版成功を知っても、ハガキ一枚、祝う余裕もなかった。
『姉の力』が出版されたとき、私はようよう修士号を得たものの、子連れであることや年齢が高いことから、就職先などはなかった。
修士論文執筆に専念するため日本語学校教師の仕事をやめたあと、再就職のあては何もなかった。紀要に発表した論文は高い評価を受け、「国語学界展望」に名前が載ったが、それだけだった。
「単身赴任が条件の仕事ならあるけど」と言われたが、すぐには決心できなかった。夫からは「子供を残して行くなら、僕は世話できないから、児童施設に放り込むよ」と言われたからだ。実家にすがるしかなかった。
「一度でいいから、転校ってしてみたい」と無邪気に「転校生」生活にあこがれる娘に「ねぇ、転校するチャンスがあるんだけど」と、おそるおそる切り出すところからスタートし、中国での単身赴任へと出発した。
スター小間物店の娘に年賀状を書いたのは、それからさらに3年もたってからである。彼女の新著『語る女たちの時代』が、またまたすばらしい著作であったことに感激してのハガキだった。
才能ある人をうらやんでいる才無き人に対して「うらやんでいないで、自分も追いつけるよう努力したらいいじゃない」という人もいる。努力で追いつけたら、うらやんでいない。
一流の人は、どのような環境であっても、何ごとか成し遂げる人、例をあげるなら樋口一葉。貧困と病苦の中で、あれほどの小説、日記を書き残した。
努力家だなあ、一生懸命がんばっているなあと、人が感心する人は一流半。田邊花圃は、一葉死後の思い出話を書くときさえ、一葉をライバル視した文を書いたが、ついにライバルには及ばなかった。
どんなに努力しても、自分の才は足りないと自覚できる人は三流。努力すればいつか自分も一流になれると無邪気に信じられる人は、五流にもなれない。
☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.30
(ひ)樋口一葉『一葉日記』
一葉日記の中に、萩の舎歌会の記述がある。歌の互選で一席を獲得したなつ子(のちの一葉)に、田邊龍子(花圃)が「ああ、にくらしい、新入りに一番をとられた」と悔しがった、というエピソードが書かれているのだ。
田邊花圃は、萩の舎の姉弟子。一葉の小説が今も愛読されているのに比べて、現在、彼女の小説『藪の鶯』を読む人は、明治女性史女性文学研究をする人だけかもしれない。花圃の文学史上の価値は「花圃の小説の成功が一葉を刺激し、一葉に作家を志すきっかけを与えた」としてであろう。
草場の蔭から、萩の舎の歌会のときのように「ああ、にくらしい、後輩に五千円札の顔をとられた」と、言っているかどうかわからないが。
努力だけでもなし、運だけでもない。しかも、才能を神が采配してくれたかどうかは、墓に入った後50年もしないとはっきりとはわからない。死後50年、著作権も切れた後で、その人の作品に価値があるかどうか、後の世の人が決めるだろう。
「一葉忌ねたみ隠さぬ友とゐて 春庭腰折れ」
五流にもなれない私の人生だが、吾流として生きていくことにしよう。
あのね、ここのところは、ごりゅうとゴリュウというのが、その、、、せめて座布団一枚ください。アレレッ、それは最後の一枚、取り上げるなんてひどい、、、
働く女と元始の太陽
at 2003 10/24 06:29 編集
10/23の項で書いたように、私の女子校クラスメートの多くは教職を選んだ。30年前に男女が差別なく働くことができ、産休などもとりやすかった職場は、教職以外少なかったからである。
私自身、こうなるつもりではなかったのに、中学校教師、大学講師と、結局は教職を続けている。(転職13回の中で、つまるところ教職が一番長く続いた仕事になった)
私の母の世代では、専業主婦になることがステイタスであった。
「月給取り」の妻となった私の母を、人は「幸せ者」と見ていたが、母自身は「専業主婦の座」を不自由なものと考えていた。
月に一度の句会に出席するときも、夫の酒肴おこたりなく、夕食の準備をすべてととのえ、それでも遠慮しいしい出かけていった母。娘三人には、「女一人で生きていける技能」を身につけるよう、繰り返し説いた。
姉は高校卒業後、専門学校に進学して手に職をつけた。結婚後も離婚後も自分の技術で生きていくことができた。「娘を4年制大学に出したら、嫁に行き遅れる」と、思われていた時代だったが、私は最初から「独身で仕事ひとすじに生きるだろう」と、周囲に思われていた。
「こんな愛想のない、かわいげのない子は、勉強でもさせておくほか、使い道はない」と思われていたのだ。
結婚したとき、お祝いのことばの代わりに「象牙の塔にこもって学者になるんだって言ってたのに、結婚するなんて思わなかった」と、親戚中から「予定外の結婚式ご祝儀出費」についての感想が寄せられた。
国語科教師を退職するとき、「やっぱり教師じゃなく、学者になる」と言い、大学院へ行くことを退職のいいわけにした。母亡きあと、母がわりにと後見の目を光らせている、うるさがたの叔父伯母を納得させるためだった。
結婚後は、家から自転車で15分のところにある国立の大学と大学院で勉学を続けることにした。
修士論文を書いたときは子供を二人抱えていた。育児家事をひとりでこなし、日本語教師の仕事を続ける中での勉学。二足のわらじと下駄と靴をはきかえ脱ぎかえという生活は忙しすぎたが、仕事をすることも、子供を育てることも、どちらも大事な私の人生だった。
1995年に男女雇用機会均等法が成立して、18年がたつ。私が働き始めた70年代に比べれば、女性が働く環境は、はるかによくなった。
まだまだ問題点が多いし、法律と社会の実体は異なるのが実情であるが、少なくとも、法律上、一応は男女の機会均等が保証されている。
働く女にとって、子育てと仕事の両立は常に大きな問題であった。ときとして大きな議論がわき起こるのも、それだけ重要な話題だったからだろう。
少し前なら、1988年の「アグネス論争」を思い出す。昔をたどれば、大正時代の与謝野晶子と平塚らいてうの「母性保護論争」が有名。
家事労働への評価。子育てを社会共通の仕事とするか、母親が単独で責任を負うべき仕事なのか。子育て中の親を社会が支援する方法、などをめぐって、雷鳥晶子の間に、激しい応酬が繰り広げられた。
この論争を批判的にみれば、双方に論旨のほころびがある。晶子も雷鳥も、当時としては高い教育を受けた恵まれた階層出身の女性であり、自分自身の仕事を継続するために、女中を雇うことのできる人だった。
らいてうの「社会の為になる子産み・子育て」論は、「国家社会と人的資産の再生産の関わり」に危険をはらむものだったし、晶子の「女子が働けば労働時間が短縮され、男女とも経済以外の分野に創造性を発揮できる」という論も、その前に解決すべきさまざまな障害を前にして、楽観的すぎた。
晶子の主張する自助努力ができる女性は、当時限られた存在であり、大多数の女性は教育を受ける機会もなく、底辺でのたうち回りながら、必死に働き、子を育てるしかなかった。
とは言っても、現在の視点からのみ、晶子雷鳥を批判することはできない。過去の女性達の闘争や実践によって、現在私たち女性が生きていける環境が作られてきたのだから。
「子産み・子育ては社会にとって重要な問題であり、それに対して社会は支払いをすべきである」という雷鳥の指摘は、現在の産休育児休暇や保育制度などにつながる重要なものであった。雷鳥の論理は、批判点を多く抱えながらも、後の時代を切り開く視点をもっていたと言えるだろう。
青とう(革+沓)創刊のことばとして雷鳥が「元始女性は太陽であった」と謳いあげて以来、女性は青白い月として生きるよりも、自ら輝く太陽へと顔を向けて生きることを選べるようになったのだ。
☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.31
(ひ)平塚雷鳥『元始女性は太陽であった』
2002年に、雷鳥の伝記ドキュメンタリー映画を岩波ホールで見た。写真やニュース映画に残る雷鳥の姿、雷鳥の周囲の人々の証言フィルムなどで構成された、貴重な記録だった。
映画を見終わって、羽田澄子監督の描き出す雷鳥の姿に、ある種の「もどかしさ」のような印象が残った。雷鳥は一度として「労働」に近づいたことのない人だったことを、羽田は鋭く描きだしていていたからである。
唯一雷鳥が「労働する女達」に近づいたのは、市川房枝の同行を得て、女工が働く場へ足を運んだときだけだった。らいてうは、「若いつばめ」との結婚後も、理解ある母親に庇護され援助される「お嬢様」の暮らしを続けた人だった。
雷鳥の生涯への証言者として登場する櫛田ふき等、労働の現場から発言を続けた女性に比べると、私にとってはやはり「ちょっと遠い人」という印象をぬぐえなかった。
『元始、女性は太陽であった』は、平塚らいてう自伝。生い立ち、女性の時代の幕開けを作った青とう時代、母性保護論争、戦後の平和運動への関わりが述べられている。
101歳まで現役で女性解放や女性労働者の支援、平和運動の活動を続けた櫛田ふきや、絶望的な政界の中で、ただ一人私の希望の星であった市川房枝らに比べると、雷鳥は親しみが少ない人ではあるけれど、女性が人間として尊厳をもち、自分らしく生きていくための道を切り開いた人として、雷鳥への敬愛は持ち続けている。
雷鳥はまさしく、「真正の人」であった。
雷鳥は「青とう」創刊号に高らかに、こう歌い上げた。
『元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。(中略)熱誠!熱誠!私どもは只これによるのだ』と。
東京の夜明け。団地の屋根に四角く切り取られた空の上にも太陽がのぼる。
元始の太陽に比せられた女性として、今日も「おひさまかあちゃん」で行くぞ!と、毎朝思うけれど、お昼頃にはペシャンコ意志消沈、夕方になれば泥のように疲れて、月を眺める元気もなし。
ほうら、しっかりしいや、熱誠!熱誠!明日はあしたの日がのぼる、とかけ声かけつつ、夕飯作る。チン!電子の熱誠!私どもは、ただ、これによるのだ!!
林住期遊行期、放浪
at 2003 10/25 05:43 編集
世界中さまざまな国の留学生に教えてきた。
あらためて数えてみると、教えたことのある留学生の国は、100ヵ国にのぼる。
「アジア」=韓国、中国、モンゴル、台湾、フィリピン、インドネシア、ブルネイ、マレーシア、タイ、ベトナム、ラオス、カンボジア、ミャンマー、バングラディシュ、インド、ネパール、パキスタン、イラン、トルコ、レバノン、シリア、ヨルダン、パレスチナ、イスラエル、サウジアラビア、クエート、アラブ首長国連邦、オマーン、バーレーン。
「アフリカ」=エジプト、リビア、チュニジア、アルジェリア、モロッコ、セネガル、ナイジェリア、カメルーン、エチオピア、ケニア、南アフリカ。
「ヨーロッパ」=ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、ラトビア、エルトリア、フィンランド、スウェーデン、ノルウェー、イギリス、アイルランド、オランダ、ベルギー、フランス、スペイン、ポルトガル、イタリア、オーストリア、チェコ、クロアチア、ハンガリー、ボスニアヘルツェゴビナ、クロアチア、ユーゴ、ギリシア、ブルガリア、ルーマニア。
「南北アメリカ」=カナダ、USA,メキシコ、ドミニカ共和国、ジャマイカ、グァテマラ、エルサルバドル、ホンジュラス、パナマ、コロンビア、ベネズエラ、ペルー、ブラジル、チリ、パラグアイ、ウルグアイ、アルゼンチン。
「オセアニア」=オーストラリア、ニュージーランド、西サモア、パプアニューギニア。
(思い出せない国名もあって、留学生に申し訳ない)
我ながら、ずいぶんたくさんの国名だなと思う。日本語教師をしていなかったら、ぜったいに覚えることがなかったろう、と思う国名も多い。
子供の頃の「世界中を旅したい」という夢は、まだ「おあずけ」だが、仕事をしながら、世界中の人とふれあうことができた。そして、仕事をリタイアしたら、これらの国を放浪して歩くのが夢だ。
「遊行」の中に生きた人々。西行、芭蕉の先達から、現代の尾崎放哉、種田山頭火まで。女性では伝説の八百比丘尼、実在の「とはずがたり」の二条。
老後を遊行放浪の旅の中ですごす、というのは、インドから伝わる人間の本性にもとずく究極の晩年生活である。
インドでは、人生を四つの時期に分ける。マヌ法典には人生を4つにわけた四住期が示されている。第3期と4期を分けずに、林住=遊行を同時進行とする考え方もあるそうだが、1から4までを書いておく。
1. 学生期:学問や修業をする期間。
2. 家長期:結婚して家庭生活を送りながら家長としての努めをする期間。
3. 林住期:家長としての努めを果たし終えた後、家督を譲る日を待ちながら遊行に備える期間。
4. 遊行期:解脱を求めて聖地などを巡礼する期間。現在の一生を終え、次の一生の準備に入る。
私も子育てを卒業したら、林住期に入ろうと思っている。遅く生まれた息子は現在15歳。20歳になったら、「あとは、自分の力で好きに生きろ」と、放り出し、私は林に住む。
あと5年のあいだに、林住期に入る準備が間に合うだろうか。この「おい!老い、笈の小文」執筆も、「心の冬支度」のひとつである。
こころおきなく林住期に入り、遊行三昧の日々をおくることができるように、と願いつつ、昨日も今日も、さまざまな言葉が飛び交う教室の中、バタバタと走り回る毎日。
今日の教室は「インドネシア、タイ、ミャンマー、ベトナム、バングラディシュ、中国、メキシコ」という編成。ひらがな練習を終えたばかりで定着していないクラスに、カタカナを突っ込んだ。
学生達は同じ「a」の音を書き表すのに、「あ」と「ア」のふたつを使いわけなければならない表記法を持つ日本語に、早くもパニック。来週から漢字授業が始まる。どうなることやら。
☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.32
(ふ)藤原新也『印度放浪』
『印度放浪』は、藤原新也の処女作。1944年生まれの藤原、23歳のときの旅の記録である。
藤原は『インドは、命の在り場所の見えるところである。自然の中のそれぞれの命が、独自の強い個性を持って自己を主張している。』と、書く。
『地上における生き物の命の在り場所をはっきりと見たし、合わせて自分の命の在り場所もはっきりと見ることができた。それは、私の二十代の一つの革命だった。』
こんなふうに「命の在り場所」を見ることができた藤原の二十代を、私は羨むばかりだった。母の死に打ちのめされたままの私は、生きているのかいないのかわからないような二十代をすごした。
ようやく私がケニアへと出発したとき、二十代も終わりになっていた。ケニアのナイロビで30歳の誕生日をむかえた。
ケニア東側海岸の小さな島で、無数の蛍が一本の木にクリスマスツリーのように群れて輝くのを見つめたり、トゥルカナ地方の半砂漠地帯で、白くされこうべになって横たわるらくだの姿を見たり、サバンナ草原でライオンやキリン、シマウマが、命の連鎖の中で追うもの追われるものの命の限りを尽くしたりするのを見た。
やっと、私にも「地上における生き物の命の在り場所」を感じ取る感覚が戻ってきた。
旅について、生と死について、藤原の写真と文章を『チベット放浪』『全東洋街道』『西蔵放浪』と読み継いできた。
海外放浪篇以外も『東京漂流』『丸亀日記』『僕のいた場所』『沈思彷徨』など、好きな作品が多い。ときには彼の発言に「?」と思ったり、「ちがうんじゃないか!!」と反発したり。
沢木耕太郎や藤原新也のように旅をして文を書きたい、というのが、「あこがれの生き方」だったけれど、できないまま、もはや林住期を待つ身となった。
若い時代に旅をするのと、林住期遊行期になって旅をするのでは、感じ方考え方がちがってくるだろうと思うけれど、私の林住期にどんな旅が広がっているのか。今はバタバタと教室を駆け回りながら、林の中に入っていく日を待っている。
日本語、入門期の教室。ひらがなの書き方練習。
ほら、「りょこう」は、「りよこお」って書くんじゃないの。「よ」は、小さい「よ」ですからね。「You studied おline' s long vowel system last week.. Don't forget! It's not O. U is お line's long vowel letter. あ、だけどね。 とおいhas a irregular long vowel letter. Don't write とうい。Please write とおい」
留学生が間違えるのも無理はない。日本人学生さえ、レポートに、漢字のみならず「ひらがなミス」を連ねてくる表記システム。
「りょこう」できる日は、まだまだ、「とおい」
姥捨山、楢山と蕨野
at 2003 10/26 06:41 編集
10/25の項で、「働き手」としての家長期がおわると、林住期、遊行期として放浪の旅に出るインドの晩年を紹介した。
江戸時代までの日本の農村ではどうだったか。働き手としてのつとめを果たし終えたあと、幸福な隠退生活を送ることのできた老人もいたであろう。しかし、「働き手」としての人生が終わったら、それはそのまま「命の終わり」であるという地方もあった。
正式な山の名のほかに、「姨捨山」という俗称を持つ山が各地にある。「働き手として役にたたなくなった老人を捨てる」というのは、特殊な話でも、限定された地域の話でもなかったようだ。
老人を息子が背負い、娘が手をひいて山へ連れて行く。二度と帰らぬ山行きである。老人は静かに子孫の繁栄を願い、口減らしのため、孫や子が十分に食って命をつなぐために、自分たちは山に入って極楽往生を願う。そういう極貧の村が、かってあったそうだ。
82歳の舅がホスピスに入院したとき、姑は、そこが「最後のひととき」を迎える病院であることを、絶対に夫にさとられぬよう、ホスピスのホの字も言わないよう私たちに釘をさした。
「もう治療の方法はない、あとは痛みを除き、静かにお迎えを待つのみ」と医者に言われても、「治療をしてくれる病院に入院させたのなら、親戚にも顔向けができるけれど、治療してくれない病院だと、姥捨山に捨てたようだと、言われてしまう」と、気にしていた。
そして、「免疫療法」という健康保険が適用されない療法に夢中になり、蓄えをつかい果たした。
高額な治療費を工面し、どれだけお金をつかっても、一分でも夫の寿命を延ばしたいという姑の気持ちもわかったけれど、そうやって延ばされる方の舅にとって、それが幸福な最後だったのだろうかという、「鬼嫁」と言われそうな感想を持ったこともあった。
舅は、姑が安心して老後を過ごせるだけの蓄えを残しておいてやりたかったのではないか、と思ったのだ。
未亡人となった姑は「今日は、童謡を歌う会、明日はお習字、週末は旅行」と、「一人暮らしになったら、あちこちからお誘いがかかって、かえって、おじいちゃんの相手だけしていた頃より忙しい」と、飛び回っている。
私も姑から「コンサートへいっしょに行きましょう」などのお誘いを受けることが多くなった。
「旅行は簡保利用の安ツアー、習い事は区の生涯教育で無料、コンサートも高齢者ご招待のチケット」という。
「お金はないけど、都内の移動はバスと都営地下鉄が老人パスつかえるし、何とか暮らせる」という毎日をすごしている。
10月23日は、私の仕事が休みになり平日に映画館へ行ける時間がとれたので、姑を映画に誘った。
姑といっしょに見た映画は『わらびのこう』。村田喜代子『蕨野行』が原作。恩地日出夫監督。市原悦子主演。友人が「わらびのこう製作を支援する会」の一員で、チケットをおくってくれたのだ。
内容は「姥捨山」の話と知っていたから、姑を誘っていいものかどうか、ちょっと考えた。「年寄りは、働けなくなったら山に捨てる」なんて映画に、嫁が姑を誘ったりして、世間からはまた「鬼嫁」と言われてしまう。
私が直接誘うと断りにくいだろうから、中学生の息子を使いにやった。映画の券を持たせて「こういう内容だけど、行くかどうか聞いてきて」と、伺いをたてたら、行くという。
映画は、全編、姑の出身県でのロケ。「知っている土地が画面にでてくるかもしれないから」というのをお誘いの理由にした。
「日本の原風景を守る会」という団体が製作をしているので、美しい田舎の光景がたくさん出てくるはず。ストーリーはともかく、風景だけ見ていても、姑にとってはなつかしいだろうと。
山の中の小さな農村。米を作る田はあるが、村の掟で、隠居した老人は「蕨野」へ行くことが決まっている。庄屋の隠居レンも例外ではない。蕨野で、老人達は一夏共同生活を送り、秋から冬へ。食べ物が途絶えると一人、一人と倒れていく。
レン達が蕨野へ行った年は夏の間雨が続き、里も不作。雪に埋もれた小屋で凍える体を温めあい、レンも息絶える。
10/4の項に書いた幸田文『エゾ松の更新』を読むまで、私は「古い世代が新しい世代のために自分自身を養分としてさしだす」などということは、許せない、と感じる「若いもん」の側だった。
今、年を重ねてみると、自分個人の命に執着するより、次の世代がよりよい毎日をすごすために、最後の日々を役立てたいという高齢者の気持ちも理解できるようになった。
命をとじたあとのレン達が集う最後のシーン。老人達は「体がかるうなった」と、喜んで雪合戦に興じる。嬉々とした顔の老人達。自分の人生をまっとうし、子孫へと命をつなぐ責務を果たした安心立命に満ちている。
蕨野で命果てるも、ホスピスで最期のときを迎えるのも、場所はどこでもよいのだ。自分自身で満足して、「これでよかった、いい人生だった」と思いながら死ねること。
中国現代史の生き証人である蒋介石未亡人宋美麗が106歳で死去(ニューヨーク2003/10/23)。
世界史近代国家成立以後、最も長命を保ったファーストレディ。未亡人となって以後は台湾に留まらず、アメリカへ移住した。台湾を去ったのは、若い頃留学生活を送った青春の土地を「ついの住処」として選んだからだろう。けっして「姨捨」のためではない。
☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.33
(ふ)深沢七郎『楢山節考』
去年「青春18切符」を使って「ひたすら電車に乗っているひとり旅」をした。篠ノ井線に乗ったとき、電車がスイッチバックして姥捨駅を通過した。ここが有名な姥捨山か、と思いながら、『楢山節考』を思い出した。
深沢七郎の『楢山節考』。老婆おりんは息子辰平の家族が食いつなぐことを願って、山へ行く。まだ歯が丈夫なことを恥じ入り、老人らしく立派に山で果てることを「人生の花道」とさえ思っている。
たとえ辰平が母を思う余り、村の掟に反しておりんをどこかに隠してこっそり養おうなどと思ったとしても、おりんはそんな恥知らずな行いを受け入れることはできなかったろう。
現代の私たちにとって「どんな理由であれ殺人は絶対の悪」と感じる倫理感覚と同じように、貧しい地方では、老人は口減らしのため死んでいくのが「幸福な最後」であり、「人倫の道」だったのだ。
現代の高齢者福祉の視点で言えば、悲惨な話である。だが、深沢の文体は、おとぎ話をきかせるように、唄をまじえて、語り継ぐ。
最後に山に入り、雪がふってくると、親を捨てる辰平と、捨てられるおりん二人して、雪を喜ぶ。
「安らかにあの世へ行くための幸運な雪」として、この世のすべての不浄なものを、清らかな真っ白い世界に変える雪として、雪は天から降りてくる。何度読んでも涙が出る。
若い頃は親を捨てる子の視点で読んでいたから、この涙の意味を「食えないために親を捨てる悲しみ」であると思っていた。
しかし、今、親の視点で読める年になってみると、若い頃に流した涙の中に、別の感動も混じっていたことがはっきりとわかるようになった。
おりんの視点で読めば、流れる涙は「自分の人生をまっとうしようとする強い意志を持った人間の尊厳」を讃える涙でもあることが納得される。
雪は、人生の最期を凛として受け入れようとするおりんへのはなむけとして降り積もるのだ。
ギター弾き語りをしていた深沢が作った、文章のあいだあいだにはさまれる唄。この唄のひびきがおりんたちの生を言祝ぐ。最後の頁。雪がふった山に響く唄。
なんぼ寒いとって 綿入れを
山へ行くにゃ 着せられぬ
映画「わらびのこう」が終わると、姑は「明日から旅行。飛行機の出発時間が朝早いから、ゆっくりしていられないの。お夕ご飯をいっしょに食べたりできなくて、ごめんね」と、さっさと帰り仕度。
嫁は「天気が変わりやすい時期だから、レインコートとか、寒さよけのウィンドブレーカーのようなのも、ちゃんと持って行ってね」と、くどくど繰り返す。
姑は「はい、はい、大丈夫。ちゃんとおみやげ買ってくるから」と、駅の階段を上っていった。
階段を上る姑78歳の足取りは、毎日の仕事にくたびれてヨレヨレの嫁よりもよほどしっかりしている。
まだまだ20年30年がっちり生きていきそうな、メリーウィドウでありました。
灰になるまで燃え尽きたい
at 2003 10/27 06:55 編集
老人ホームで、70歳過ぎの女性入居者が、70代80代の二人の男性を相手に、一回300円で関係を持ち、片方の男性が嫉妬のあまり、もう片方を刺す、という事件があった。
女性にとって、300円が欲しいのではなかったろう、自分が「恋しい相手」として認められ、その存在を欲求される、そういう自分自身でありたかったのだろう、と想像する。
大岡越前(だったかな?)が、母親に尋ねた。「女は、いったいいくつまで閨房を共にしたいと思うものでしょうか」母御は黙って火鉢の灰をかきまぜ、大岡は「ははぁ、女性は灰になるまで現役か」と、悟ったという話。さよう、骨になり灰になるまで、女は燃え尽きたいのである。
私など、酸素不足不完全燃焼のまま、一酸化中毒死しそうである。もっと光りを(by goete)、もっと酸素を!(by haruniwa)。新鮮な空気と光と水を!私だって光合成したい。あれ?光合成に使うのは酸素ではなく、二酸化炭素だったっけな。
☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.34
(へ)辺見庸『もの食う人々』
10/22、昔の初恋片思いの人を紹介した。もう一人、例外として1977以後に読んだ男性作家を。今現在惚れている男、辺見庸。一番好きな男性作家のひとり。講演があれば聞きに行きたいし、テレビに出ていればチャンネルをあわせる。ミーハーファンである。
ただし、彼の小説は好きじゃない。『自動起床装置』『赤い橋の下のぬるい水』などの文体に少しも感応しない。「ぬるい水」に関して言うなら、発情期のオス犬が、我が家の雌犬の匂いが染みついている私のズボンに飛びついておシッコをひっかけた10歳のときに、「ひゃぁ、おシッコだぁ」と思ったのと同じ感覚。
エロスもタナトスもありゃしない。おシッコ漏らす話ならば、石田衣良『娼年』の中に出てくる、「おシッコをがまんしていて、がまんしきれずにお漏らしをするのが官能の極致」という女が出てきて、人と人が関わりあうことのヒリヒリした思いに満ちていた。
ところが、エッセイ、ノンフィクションの文体には「ビビビッ」と「感じる」のである。男の色気にうっとりするのである。
保健所が捕獲した犬を屠殺する話だったり、中で死刑が行われている最中かもしれない刑務所の塀の周りをぐるぐる歩き回る話だったり、そんな話を読んで、「ああ、こういう人にひっついていっしょに刑務所の周りをぐるぐる歩き続けたい」と、思ったりする私はいったい、、、、?
「もの食う人々」も、書かれていることは、放射能を浴びた野菜やきのこを食べるしかない人々や、餓えに苦しむ人々が出てきて、泣きたい気持ちになる内容である。しかし、内容の悲惨さに涙しながら、辺見の文体にうっとりしてしまうのだ。いけませんねぇ。
講演会も聞きに行った。講演の内容は、「死刑廃止運動に関連して」だったりしたが、ミーハーファンは、話の中味が死刑だろうが犬の屠殺だろうが、顔を見ているだけでうれしいのだった。
講演会の帰りにラーメン屋によったら、相席になったオバサンが辺見の本を読んでいる。ご同輩!と嬉しくなって、声をかけてみた。
彼女も辺見ファン。「ええ、なんかよく分らないけど、好きなんですよね」と言う。う〜ん、ライバルは多いようだ。
ライバルに負けずにがんばるぞ!って、何をがんばるんだか。いや、だから、灰になるまで、がんばります。
ケンカともだち
at 2003 10/28 06:32 編集
HP日記と俳句作りを楽しむID名pipipi1931さんの最近の一句「碁敵の一手長考秋深む」
碁ガタキとか、野球チームファン同士で贔屓チームの応援合戦とか、高齢者の「よき友」は、同時に「よきケンカ相手」であることも、ままあることだ。
口げんかして、その後再び仲直りなら、ケンカ相手とことばを交わしあうのも「脳の活性化」となり、決して悪いことではない。川柳「碁敵の、敵はにくいがいとおしい」という仲を保って、おおいにケンカするのも、元気の源になる。
しかし、「王手飛車取りへ待ッタをかけて、取っ組み合いのケンカに発展」などの場合もあり、仲直りの方法や、ゲームとしての論争のやり方を知らないと、ケンカがそのまま「絶交!」となるケースもある。
若い人たちの中には英語のオーラル授業などで、「ディベート」を体験した人も多いが、中高年は、このような「ゲームとして論争する」経験をしたことがなく、論争の方法と納め方を知らないことが多いのだ。
ディベートを、「回想法」と同じく、脳の活性化訓練として取り入れてみてはどうだろうか。テーマを決め、賛成側と反対側に分かれて、論戦する。
ディベートは意義ある思考訓練。真剣に論争した後、よりいっそう相手の思考のすじみち考え方がわかり、論争後は前より仲が良くなるケースが多い。
私が留学生にディベートテーマとして与えるのは、「老後は田舎に住みたいか、都会に住みたいか」「将来の旅行先、世界一周と月旅行、どっち?」とか、たわいないものにしている。深刻なテーマは国際情勢もからんで、大問題になるからだ。
「国際結婚」をテーマにしたとき、40歳50歳過ぎても縁が薄かった日本の男性が、アジアから花嫁を「輸入」する話題に発展した。結婚という話に騙されて売り飛ばされてしまった話とか、言葉が不自由な嫁が虐待されている人権問題だとか、大論争になってしまった。
論争はかまわないのだが、話が込み入ってくると、英語同士、中国語同士、韓国語同士の母語による本気の論争になって、「日本語の練習ディベート」に役立たない。
「花嫁を海外から調達」と言えば、私の結婚も「海外で調達」という結果。海外で知り合い、口げんか相手としてつきあった人と、なぜか結婚してしまった。(10/19の項参照)
口げんか相手が、同時に「仲良し口げんか友だち」であるのは、「仲良きことは美しきかな」である。しかるに、口げんか相手を結婚相手にした場合は、要注意!悲惨な結果に進展する場合もある。その一例を、私はようく知っています。身に染みて、、、、
☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.35
(ほ)本多勝一『極限の民族』
ケニアとタンザニア国境の町、ナマンガに滞在したときのこと。私と友人の国子さんが安宿の一室ツインに、のちに夫となる人が隣のシングルに宿泊した。
そして、眠りもせずに、一晩中「山本七平vs本多勝一代理論争」を繰り広げた。論議の的は「南京大虐殺の百人切り」について。私と国子さんは本多側、夫は山本側代理人として議論を続けた。
夫が大声でわめいていたのは、「現実問題として、一本の刀で百人を殺し続けることは、できない。血の油で切れなくなるからだ。その事実を事実として認めるところから始めなければ、南京問題は空論になり、歴史事実として認定されない、そう山本は言っているのに、本多は、山本の主張は南京大虐殺を幻と主張する人を利するだけだ、という感情論を返すだけで、百人切りが事実として可能かどうか、という山本の疑問に答えようとしてしない」という主張だった。
夜中に大音声の日本語で言い合うので、宿の人は「男一人を女二人が取り合うケンカ」と勘違いして、仲裁に飛んできてくれた。
仲裁のことば「ケニアでは、男はみんな妻を三人四人と持っているが、女たちはケンカなどせず、仲良く暮らしている。なんで日本の女は、平等に仲良くできないのか」スワヒリ語で、こんこんと説教された。
私は『極限の民族』にまとめられた、「ニューギニア高地人」「アラスカエスキモー」「アラビア遊牧民」のファンで、山本七平は「ベンダサン騙り」だと思っていたから、何が何でも本多側だった。
現在、本多のジャーナリストとしての姿勢が問われ、問題点がいろいろ指摘されていることは知っている。個人雑誌を始めたのを見て、ついに『金曜日』ともケンカして個人雑誌にしたのかと思ったけど、金曜日はつづけているらしい。
今、彼のものの考え方がどこへ行ってしまっているのか、最近の作を読んでいないからわからない。しかし20余年前、彼の『極限の民族』によって、私がアラビア遊牧民やアラスカの人々の暮らしを知り、民族学や文化人類学へのあこがれをよりいっそう大きくしたことは確かだ。
「アフリカの演劇的世界」「民族演劇学」をやりたかった。ケニアでは民族舞踊を練習したが、結局ものにならなかった。民族芸能学、演劇人類学を捨てて、夫を拾った。
先日、いっしょに食事したときの姑の述懐「昔、あなたと国子さんが、いっしょに家に遊びにきたときね、国子さんは息子の嫁になってもいい、と言ってくれたのよ、、、」
息子と結婚したのが姑の期待した人じゃなかったのを、残念に思っている口振りだった。
すみませんね。できちゃった婚で。
年の残りはレビトラで元気!
at 2003 10/29 06:17 編集
ある人々にとっては「朗報!」になるかもしれない新聞記事。
2003/10/15付の「レビトラ 来春にも発売」というニュースである。
レビトラは、「バイアグラが十分に効かなかった人」にも効果を上げたというED治療薬。服用後すぐ効果があらわれる人もいて、バイアグラ以上の売れ上げが期待されている。どうです?朗報でしたか?
10/27に書いたように、女性は、灰になるまで、、、である。一方男性は、人によりけり。
ウイスキーの銘柄である「オールド・パー」の顔として有名なイギリスの農夫トーマス・パー(1483〜1635)は、122才で再婚して、152歳まで生きたという伝説的な人。
死去する前には、チャールズ1世の謁見を受ける栄誉も得た。当時のイギリスは公文書がしっかり記録されてきた時期で、パーじいさんの生年没年も、土地の借用証書をもとにはっきりたどれるのだという。ルーベンスやバン・ダイクが描いた肖像画もある。
オールド・パーまではいかなくても、70歳すぎて子供をもうける男性がいることは、ときどき話題になる。お元気ですねぇ。
そういう元気な人の話を、聞けば聞くほど元気じゃなくなってしまう男性もいるし、ある種の考え方の人たちにとって、「男の元気」といえば、もう「その一点」しか考えられないという話も聞く。
私たち女性に言わせれば、「元気」って、それだけじゃないんじゃないの?と思う。自分の男性としての魅力が性的な活力だけであり、それしか誇れないとしたら、それは女性から見たら、こっけいで寂しい事なのではないかと思うのだが。当の男性にとっては、一番の関心事であり、絶対に必要不可欠な能力なのだろうか。
画家のパブロ・ピカソは80歳のときに45歳年下のジャクリーヌ・ロックと再婚し、90歳で死去するまで活力に満ちた作品を制作した。ジャクリーヌと交わされる細やかでゆったりした愛情がピカソに制作の意欲をわかせたのだろうし、ジャクリーヌにとって、ピカソは「あらゆる意味で魅力に富んだ男性」であったろう。
そんな天才の話は特別であるとして、凡夫匹夫とめあわされた我ら凡婦匹婦にとって、どうなのか。私個人の意見としては、バイアグラやレビトラで復活する男性の魅力は、ごく一部分であると思う。
もちろん、発売元のバイエル薬品が広告費を回してくれるというなら、私は声を大にして言うよ。「レビトラ飲んで、うちとら元気!甲子園では虎ファン元気、ホークスあぶさん景虎元気、景気回復レビ虎とら!」
もう、こんなに宣伝したのだから、せめてバイエル薬品から「お礼の現物給与」がこないかしら。こないよねぇ。はい、お察しのとおり、我が家の「その一点」意気消沈してます。
古女房がいくら元気いっぱいで「女は灰になるまで」と主張しても、灰のような白髪頭ふりみだし三段腹ゆすってノシ歩いていては、亭主ますます元気がなるなる、というご批評、ごもっともであります、、、、。
だがしかし、しかるにやはり、されどまた、女の魅力は若さだけでなく、男の魅力は「その1点」だけじゃ、ありません!
☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.36
(ま)丸谷才一『年の残り』
丸谷才一が『年の残り』で芥川賞を受賞した1968年、私は高校生だった。この小説中の登場人物でいえば、高校一年生の後藤正也の年齢に近かった。正也は、自分の大伯母と若い頃見合いをしたことのある69歳の医師上原から、若い頃描いた絵を見せられる。
このころ読んだとしたら、少女の私には、旧友を自殺という手段で失った上原の悲しみも、自身の男性能力のおとろえや画才不足の自覚から猟銃で自殺した洋菓子店の大旦那の苦しみも、よくわからなかったろう。
私がこの本を読んだのは、1976年第2刷の文庫本である。私は中学校の国語教師となっていたが、それでもやはり、よくはわからなかった。
父親から継いだ和菓子店を洋菓子店に変え、一代で商売を大きくした多比良が、「芸者と夜をすごしたあと、事後の肢体をスケッチする」という楽しみを失うことで、自殺に至るとは、どういうことなのか、それほど重大なことなのか、わからなかった。
私に理解できたのは、「自分のスケッチ作品がロダンからの間接的な影響下にあることに気づかされ、確実にロダンの才能には及ばない画才しかないことをつきつけられたこと」が、多比良が死を選ぶ原因になったのだろうということだけ。
「事後、女性肢体を描く、と期待することが、ことに及ぶ興奮材料となり、生きていく元気の源だった」と、老院長が解説するのを読んでも、画才のないのを悲観するのはわかるけど、性的能力の衰えが、生きる活力を失わせるほど重要なものであるという感覚はわからなかった。(このころは私もウブでしたね!)
ようやく、老いていく上原の悲しみも、生きる気力を失う多比良の苦しみも、わかる年齢になった。
母を失った後、「生きる意味」もわからなくなり、父にいわれるままに中学校教師になったものの、自分の資質が教師に向かない性質であったことを自覚する毎日。
ネクラでオタクな引きこもりでした。「母の作品を集めて句集を出版する」という目標によって、ようやく「あと追い自殺」を思いとどまったけれど、教師の仕事もうまくいかず、生きる希望はなかった。
中学校で受け持った演劇部の仕事だけが、かろうじて私を生につなぎとめていた。
演劇の身体訓練を中学生に教えるため、自分でもモダンバレエのレッスンを受け、発声練習のために「視覚障害者のための朗読奉仕員養成講座」を受講した。以来、ダンスと朗読ボランティアは四半世紀続けている。
中学校は3年で退職した。母校にもどり、大学院の研究生として演劇学、芸能人類学を学ぶことにした。舞踊評論家市川雅に師事して、ダンスを見ることに熱中した。
民族芸能学、演劇人類学のフィールドワークの地として、パプアニューギニアに行きたかったが、結局、渡航先がケニアになったことは、10/21の項に記した通り。
ケニアで民族ダンスを練習したけれど、教師として能力がなかったのと同じように、民族文化研究者としても何の能力もないことが判明しただけで、帰国。
ケニアですごした中の唯一の自慢は、テレビドラマのエキストラとして出演したこと。当時大人気だった『熱中時代』という水谷豊主演ドラマのスペシャル篇ロケがケニアで行われ、淺野ゆう子の友だち役としていっしょにテレビに映ったのだ。
その頃20歳前後で、アイドル歌手としても女優としても中途半端だった淺野ゆう子が、今や押しも押されもせぬ実力派女優になり、現在NHK朝ドラの「てるてる家族」の照子さん役で活躍している。
私はケニアから帰国したあとも、自分の方向性を見つけることができず、「アフリカ縦断旅行へ出発する」という目標を作り上げた。旅回り一座の役者、予備校試験採点係りなど、旅行費用を稼ぐ日々が続く。
ようやく資金が貯まり、ランドローバーを買って船でフランスの港へと送り出した。ジブラルタル海峡を越えてアフリカへ。モロッコからナイロビまでランドローバーで縦断後、ナイロビで出会ったふたりが記念の地で結婚式をあげる、という計画だった。
しかし、出発前に「できちゃった婚」をするはめになり、アフリカ縦断はキャンセル。なんでそんな結果になったか。そのころ「その1点」は、おおいに元気でありました!
蛇の足跡・一足目:上記のオチは、ひさしぶりに決まって、レビトラに感謝!しかし、このようなオチをつけると、10/27「灰になるまで」のとき「僕の酸素をあげよう」「灰になるまで燃やしてやるよ」などの、足跡やメールを頂戴したのと同じことになるかと、今から「うれしい悲鳴」をあげておる。「キャー、お代官さま、ご無体ナー!」
あらかじめ、そのタグイの足跡・メールへのレスをつけておく。「灰になるまで」のときの「好意謝するにあまりあれどもレス」と同じ文言である。
「あんたじゃなくて、辺見庸がいいのよぉ」
あのね、これは、へんみよう、とイイノヨーのようとヨーが、その、、、せめて座布団をいち、、、あれ?このオチはすでに使ったっけ。
蛇の足跡二足目:寒川猫持「尻舐めた舌でわが口舐める猫 好意謝するに余りあれども」の上の句付け替えてメールください。猫持以上に笑わせてくれた方には、「辺見庸が、、、」ではないレスつけます!舐めんなよ!
トランスジェンダー 仮面の告白
at 2003 10/30 21:29 編集
インターネットを初めて、様々な地方に住む方と、思いも寄らぬご縁を得ることができた。
このOCNカフェの「春庭アネックス」でのつながりもあるし、本宅『話しことばの通い路・ウェブログハウス春庭』を通じての知り合いもある。
本宅「フリースペースちえのわ」の日記が参加している巡回日記「私らしさの輪」もそのひとつ。リングを主宰しているご夫婦の京都田舎暮らしのライフスタイルがすてきなこと、ウェブ日記読みをはじめてから最初にメールのやりとりをするようになった方が、会員であることなどから参加することに決めた。
リングに登録して、さっそくお隣ナンバーの方にメールや掲示板でごあいさつ。私のお隣さんは、「あや子さん」という。ウェブ上に掲載している笑顔の写真もかわいらしいすてきな方です。
最初のごあいさつは、型どおりのメールだったが、あや子さんの日記を読んでからは、メールはファンレターになった。あや子さんは、本当に「私らしさ」を追求するライフスタイル。トランスジェンダーを実践している方だった。
トランスジェンダーということば。私が知ったのは、虎井まさ衛さんの本が最初に出版された前後だったと思う。現在では、テレビドラマ『金八先生』のテーマになり、上戸彩が「女性の身体を持っているが、心は男性」である主人公を演じたことで、広く知られるようになった。
虎井まさ衛さんを知る前、トランスジェンダーという言葉が市民権を得る前から、私は、虎井さんのような生き方の人に心惹かれてきた。
雑民党の東郷健が選挙に出てテレビで演説するときは、熱心にその主張を聞いたし、テレビ深夜番組にカルーセル麻紀が出演するのも応援した。三輪明宏がまだ自分自身のセクシャリティを明らかにせず、丸山明宏という名で「よいとまけの唄」を歌っている時代から、彼の不思議な魅力はいったいどこから生まれるのか、と思っていた。
おすぎとピーコが登場したとき、「ふたごのゲイ」という特長もあり、彼女たち(?)の自己主張が小気味よかった。それまではテレビの中で「キワモノ」「イロモノ」扱いされ、正に対する負、陽に対する陰のイメージを持たされていたゲイの人たちのイメージを塗り替え、「ひとつの生き方」として認められたような気持ちがしてうれしかった。
ウェブ世界では、リアル社会よりオープンにジェンダーやセクシャリティの問題が語られている。昔に比べれば、若い人たちが自分自身のジェンダー問題について様々な情報を得る機会が多くなった。
トランスジェンダーの方々、臆することなく社会の好奇な視線に負けることなく「本当の私らしさ」を追求してほしいと思う。
若い人はもちろんだが、若くない人も、残り少ない自分の人生を「私らしく」生きていかなければ、生きているかいがない。「私は私。私らしくあれ!」
私自身のジェンダー。セクシャリティについて言えば、身体的にはヘテロ志向なのに、精神的には「男性と話したりいっしょにすごすより、女性といっしょにすごす方が楽しい」と感じる精神的バイセクシャルであったのではないかと、今頃になって自己分析している。
身体的には女性というジェンダーを受け入れ、社会的には母親という役割を引き受けて過ごしてきたが、精神的には、「ボーイッシュな女性が好きな女性」だったと思う。ほぅ、50歳すぎて、ようやく告白いたしました。
私の立場を正確にいうと。「少年同士の恋人たちの片方の男の子に片想いしている女の子に心を寄せている女の子」が私です。
「やおい」が好きな女の子たちが好き。ジャニーズ系の「少年愛」的美少年が好き。宝塚も。歌舞伎の「戦闘美少女」も。
三島由紀夫は、『仮面の告白』で、絵本の中のジャンヌダルクが美少年ではなく、男装の麗人であったことにがっかりしたと書いた。She masqueraded as a knight. Mishima masqueraded as a man. I masqueraded as a girl.
☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.37
(み)三島由紀夫『仮面の告白』
三島由起夫が市ヶ谷の自衛隊に突入したというニュースを聞いてすぐ、私はカコちゃんといっしょに野次馬に出かけていった。
しかし、市ヶ谷自衛隊の中に入れるわけもなく、ワイワイしているだけで、何がどうなっているのか、わからなかった。三島が演説している、というので野次馬に行ったのに、何もわからず、つまらないからすぐ帰った。
フジテレビ前を歩きながら、三島の小説について話した。カコチャンは高校生のとき『金閣寺』を読んだ、と言った。「妊娠した女の腹を踏むんだよ、許せないよ」と言っていた。
大学病院の隣の寮へ戻り、カコチャンの部屋でテレビニュースをつけたら、三島は割腹自殺した、ということがわかった。三島が女の腹を踏んだわけではないのに、カコチャンは「赤ちゃんがいる女のおなかを踏んだりするから割腹自殺になるんだよ」と、わけのわからない批評をしていた。
私は『仮面の告白』を読んだ話をした。「おわい屋」を悲劇的だと感じてあこがれたんだって、わけわかんないよね、セバスチャンとかって絵見て、矢が体にいっぱい刺さっているので、興奮するんだって、ますますワケわかんないよね。三島といっしょに楯の会の少年が割腹したんだって、もっともっとわかんない。
カコチャンはすでに恋人を持っていたから、男と女の恋愛については、私よりずっと詳しかった。そのカコチャンも「三島は男が好きなんだって。どうして男が男を好きになるんだろう、ぜんぜんわかんない」と理解できないようだった。
私は「男と男」も「男と女」もわからなかった。私にわかったのは、私はカコチャンが好きだけど、カコチャンはタロさんが好きだということだった。
10/10の項に、高橋和己が入院し死去した病院で働いていたことを書いた。
「友人が高橋和己の後追いで飛び降り自殺した。その半年後に病院をやめた」と書いたので、友人の死が病院の仕事をやめた原因みたいだ。
でも、ちがう。高橋和己が死んで半年後に病院をやめたのは事実だが、やめた理由は「カコチャンがやめてしまったから」だった。
大学病院の隣の職員寮に入寮したとき、4人部屋だった。私は共同生活ができない性格だったので、一ヶ月で寮を出て下宿へ移った。
4人部屋は3人で使うことになった。部屋が広く使えるようになったことを一番喜んでいた人が、飛び降りて死んだのだ。最初から気があわない人だったから、自殺のしらせに衝撃は受けたが、高橋和己が死んだ時より悲しくはなかった。
私が病院を辞めたのは、カコチャンがやめたあと、病院検査室で働くことがつまらなくなったから。
カコチャンの恋人タロさんは、カコチャンの出身地の大学で学ぶ医学生。カコチャンはタロさんと暮らしたいからと、東京から故郷に戻ってしまった。
しかし、タロさんの親に「医学生と臨床検査技師では格が違う」と、結婚の許しがもらえない、という悩みを聞いた後、カコチャンの消息は途絶えた。
三島由紀夫が名家の女性との結婚を決めたとき、それは本当に三島にとって自分らしく生きることだったのだろうか。三島は結婚後もさまざまな男性との交際を続け、最後は楯の会の美少年と共に死ぬことを選んだ。
三島は『仮面の告白』を発表した後も、仮面をかぶり続けた。「三島のあの告白はよくできたフィクションであって、あれは文学上の虚構ですよ」と述べる批評家もいて、三島もその評を利用した節がある。三島は自分を「男性的な男性」へと肉体改造し、高名な画家の娘と結婚した。
もし、三島の生きたころが、現代と同じようにセクシャリティの多様性やトランスジェンダーに対して理解ある時代であったなら、三島の文学と死は、異なる結果を迎えたかもしれない。
彼の死に生い立ちや思想的な面から、また文学的社会的な状況からさまざまな解釈が加えられてきた。
全共闘との対話や、天皇制に対する考え方や、日本の美意識に対する思想、あらゆることがらが、彼を死へといざなったのだと思う。
今のようなジェンダーに対する考え方の変化に対して一番論じて欲しい文学者は、三島だったと思うのだ。現在のジェンダー論が、女性学や社会学の方面からの論より以上に、サブカルチャーからのツッコミによって社会に浸透してきたことを考えると、文学の立場から物言える人のジェンダー論を三島に聞いてみたかったと思う。
ジェンダーとセクシャリティに対し、社会は50年前40年前とは違う反応を示すようになった。パートナー選びも自由。ヨーロッパでは同性との結婚を法的に認める国も出てきた。
男と女も、女と女も、男と男も、どんな組み合わせであれ、ベストパートナーといっしょにいられる人は幸福だろう。そして「私らしさ」を失うことなく、「自分は自分」として生きて行けたらそれにまさることはない。
ケニアに発つとき、英語に弱いので、入国書類に英語で記入するときの注意事項について、旅行会社の人にレクチャーを受けた。
「気をつけてくださいよ。SEXについて記入する欄がありますから。見栄を張ってSEXは週に7回、なんて書いた人がいましたが、それは間違いですからね。いえ、回数が間違いなんじゃなくて、SEXというのは性別という意味ですから。SEXの欄にくれぐれも、週に2回とか、まだ童貞とか、書かないでくださいよ。女性はFemaleが女ですから、SEX=Fと書いてください。男性はMaleですからMですね。」
今や、SEX欄に「Female女」と書くと、口の悪い人から、「また見栄を張って。もう女は卒業したんじゃなかったの」と言われる年齢になった。
いえいえ、何歳になろうと、更年期すぎようと、女であることに変わりなし。ただし、私は、肉体的には男が好きだが、精神的には女が好きな、バイアスがかかったバイセクシャルの女である。
更年期すぎた年齢であれ、男であれ女であれ、男性の心を持った身体上の女性も、女性の心を持った男性も、自分らしく人生をまっとうしたい。
男と女、女と女、男と男、どのような組み合わせであれ、好きな人を見つけて欲しい。
「私らしさ」を大切にできたらいいですね。
霊長類ヒト科さまざま
at 2003 10/31 07:20 編集
2003年9月10日にホームページ「話しことばの通い路」を立ち上げ、9月26日からOCNカフェ日記も毎日更新している。
ポチポチと反響の足跡、ミニメールをいただくのは本当に励みになる。面白いと言ってくださる方もあるし、いろいろご批判もある。
「春庭日記は、硬い内容、まわりくどい文章で頭痛の種」という反応もあった。
私の文章で頭痛がしても、ひきつけ起こしても、看病には通えないのでご容赦ください。
固くておもしろみがない、という反応なので、ここのところ「女は灰になるまで」「レビトラ飲んでファイト一発」の話題にしたら、今度は「春庭はまじめな教師かと思って読んできたのに、なんて不真面目な、ふしだらな」という反応も。
レビトラは、ふしだらなんかじゃなくて、まじめなED治療薬なんですから。(と、またもやバイエル薬品の宣伝をしてしまった。お礼の現物給与を、、、って、しつこいですね、はい)
かように、人様の反応もさまざま。とにかく、人間というのは価値観も感受性も多様であり、そのどれがよくてどれが悪いということもない。
すべての人が、自分の考え方感じ方生き方を大事にしていければそれでよい。その人なりの感じ方から生まれた感想であるなら、どのようなご批判もありがたく受け止める。
さまざまな国から日本にやってきた留学生を相手にしてきたことについて、「異文化交流ができていいですね」という反響も。
世界には多様な文化があり、そのどれもが大切な人類の遺産なのだ、ということを毎日感じ取れる仕事ができて、本当によかったと思っている。
しかし、「異文化にふれる」というのは、外交官や日本語教師でなくとも、人が毎日の生活のなかで、あたりまえのように成し遂げていることなのだ。
「自分とは違う考え方、違う感じ方の人に会う」というのは、日常生活でだれでも体験していることだ。異文化、というのは、何も外国の文化のことだけではない。
子供を公園に連れて行ったら、ボスママが仕切っている公園で、楽しめなかった、というのも、「自分とは異なるカテゴリーの考え方」に触れた体験であるし、嫁と姑が漬け物の味でひともんちゃく起こすのも、地方ごと家ごとの異なった文化の摩擦といえるだろう。
文化というと、高尚な芸術や建物遺跡のことと思う人が多いが、そうではない。「文化」というのは「人の暮らし方、生き方すべての総称」であるのだ。
日本語教授法のクラスで、最初に異文化理解について学生と話すときによく出す例。
日本で「汁かけ飯」をつくる。「はい、こちらが飯茶碗。こっちがみそ汁。ふたつの碗が目の前にあります。汁かけ飯を作るジェスチャーをしてください」たいていの学生は、飯茶碗を下に置き、みそ汁のお椀を持ち上げてジャーとごはんにかけるジェスチャー。
「韓国では、こうやります。スープのどんぶりとご飯のどんぶりがあったら、スープの椀を下において、その中にご飯を入れます。みそ汁と韓国のスープの味の違いは考えずに、スープの中にご飯をいれるのと、ご飯に汁をかけるのと、どっちがうまいと思う?」
学生は首を傾げ、分らない。それはそうだ。どちらも美味い。汁かけ飯の作り方、食文化が異なるだけで、どう作ろうと美味いものは美味い。
さらに「ご飯を食べるジェスチャーをしてみて」と言うと、皆いっせいにご飯茶碗を左手に持って、右手の箸を動かして食べるまね。「お茶碗を下においたまま箸をつっこんだら、お行儀が悪いっておこられたでしょ。
でも、韓国ではご飯のお椀は下に置いたままの方がお行儀がいいんだって。どっちのご飯が美味しいと思う?もうわかったでしょ。どっちも美味しいの。ただ、食べ方の食文化が違うだけ」
また「パプアニューギニアの服飾文化の紹介」をすることもある。
パプア島の男性の伝統的な衣装。写真を見せると女子学生はくすっと笑うこともあり、男子学生はちょっと恥ずかしそうに女子学生の顔をうかがう。
パプアの男性の衣装というのは、ペニスケースという筒で、大事なところを覆い、あとは裸にペイント、頭に羽根飾り。
次に大相撲の取り組みの写真。がっぷり四つに組んだ尻が大写しになっている。
「大相撲を見た外国の人が、こんな野蛮な服装で人前に尻を出すなんて、恥を知れ、と言ったそうです。どう思いますか」
「恥じゃ、ありません。これが相撲の伝統なんだから、尻見せたっていいじゃないですか」
「そうだよね、でも、さっき皆は、ペニスケース見て恥ずかしそうだったよ」
このへんから、学生にも、文化とは「食べ物、服装、歩き方から、人と人がどれくらい接近して話すか、まで、生まれてから死ぬまでの人の生活の仕方暮らし方生き方の総称」であることがわかってくる。
慣れた生活のしかた、身近に見慣れたものには違和感がなく、見知らぬものには違和感や拒否感が生まれること。
しかし、地球上のすべての人間の文化は等価であり、どのような生活の仕方、ものの考え方があっても、自己中心的なものの見方で判断してはいけないことを分って欲しいのだ。
イスラム教では4人まで正妻としてめとることができる。これを一夫一婦制度の側から、非難しても(あるいは羨んでも)意味がない。
また、今イスラムのラマダン(断食)の時期だが、夜明けのお祈りのときから、日没までの間、食べることも飲むこともできないのを、「健康によくない」などとトンチンカンな批判をしても仕方がない。
ジェンダーやセクシャリティが、個々人によって多様であるのと同じく、それぞれの文化にそれぞれの暮らしがある。
霊長類ヒト科ホモサピエンスは、きわめて多様なバリエーションを持った動物なのだ。
☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.38
(む)向田邦子『霊長類ヒト科動物図鑑』
向田邦子のテレビドラマを見始めたのは『七人の孫』からだと思う。母が森繁久弥ファンで、私はいしだあゆみが好きだったから見ていた。『寺内貫太郎一家』は見ていない。
私が中学校の教師になり、テレビを見るどころではなく、朝8時から夜9時10時まで学校にい続けても仕事が片づかないという働き方をしていたころの作品。
『あ、うん』も最初の放映のとき、私はケニアにいた。リアルタイムで放映時に見たものは『隣の女』くらいかもしれない。
放送脚本家として長い間仕事を続けてきた向田邦子が小説家として直木賞を受賞したのが1980年。その翌年には飛行機事故で亡くなってしまった。
もっともっと書き続けて欲しい作家のひとりだったのに。1981年、51歳で台湾の空に消えてしまったことがなんとしても惜しまれる。
文体が大好きな作家であったけれど、私にとって、向田邦子は「楽しく読み散らす読者」として以上に関わってきた人。自分の論文執筆にとって、なくてはならない人だった。
テレビドラマをリアルタイムで見た作品は少なかったが、他動詞文用例収集のため、向田のドラマシナリオをせっせと読んだ。
本当の会話文ではないものの、小説の文から拾うより、はるかにリアル会話文に近い用例を採集できる。
ストーリーを読むのは邪道。ひたすら自分の論文に使える用例を採集するのが目的であるのに、ついついストーリーにひかれて読みふけり、用例採集がおろそかになった。
日本語文法などということばを読むと、頭痛吐き気めまいなど催す方、ごめんなさいね。
古典文法の「から、かり、し、き、けれ、かれ」とか「らむ、らむ、らめ」などという活用をひたすら暗記させられるのが文法だと思っている方々、文法と聞くだけでひきつけが起きるのだという。
「て、て、つ、つる、つれ、てよ」あれ、こちらも引きつってきた。
「再帰的他動詞文」の用例として向田のシナリオから拾った文例
「そうよ、綱子ねえちゃん、こないだ差し歯あげ餅でガツーンって、欠いたものね」
向田の『阿修羅のごとく』の中にでてくるセリフである。
三田村家の長女綱子に対して妹が言う台詞。この台詞が映画版シナリオでもでてくるのかどうか、森田芳光監督、綱子を大竹しのぶが演じる映画を見てみようと思っている。
ドラマ『阿修羅のごとく』もエッセイ『霊長類ヒト科動物図鑑』も、向田の人を見る目の確かさが光っている作品。「ヒト科動物図鑑」、なんど読み返しても、内容もちゃんと知っていて読むのに、読むたび思わずくすっと笑ってしまう。
人はまことにさまざまな姿態生態を見せる生き物であるが、それにしても、向田の人間観察の鋭さとあざやかな描写力。どの短編を読んでも、「そうそう、その通り」と、うなづきながら、読む。
地図をいくら見ても必ずまよってしまい、道を間違えずに目的地へ到着することがない。数字に弱く計算ができない、などなど、ぜったいにこれは私の数々の失敗を知って書いたにちがいない、とさえ思ってしまう。
私は今月もまた、電車の中に傘を置き忘れた。自分の欠陥ぶりをなげくとき、向田のエッセイを思い出せば、「こういうおっちょこちょいもまた、人間なんだよね」と安心する。
霊長類ヒト科バンザイ!人は、こんなにもさまざまな顔をみせ、さまざまな生態を示して生きている。
蛇の足跡三足目:OCNミニメールや足跡などで、感想やご批判を受けることがとても励みになっていると、書いたが、これまで「話しことばの通い路ポトラッチメール」を受けたことがなかった。
まあ、特別メールを送りたくなるような内容のホームページでもないし、と気にしないでいたが、ミニメールでの連絡により、ポトラッチメールを送ると、OCNからdeliveryできない、という不通連絡が入る、ということがわかった。
こちらからは、arumani@giga.ocn.ne.jpを用いてメールを送ることができるし、返信も受けられるので、ブラウザから送ろうとしてもできない、ということに気がつかなかった。ご指摘をいただきありがとうございました。
早速設定しなおして、自分で自分にメールを出してみたら、やはり、なにやら全部は読む気も起きない英語で、たぶん届かないという警告であろうというのが届いた。英語にも弱く数字そろばん計算機パソコンなどに弱いので、どうやったら設定し直せるのかもわかりません。あしたOCNカスタマーズサポートに連絡してみます。
蛇の足跡四足目:9/26に「おいおい」をオープンした。(おいおい、というのは、敬愛する山陰在住の翻訳家がつけてくれた、このページのあだ名)
書くことが楽しくて、読む方の迷惑お構いなしに、粗雑な文章を夢中で書きなぐってきた。「あまりすっとばすと息切れするよ」という、これまた敬愛する九州在住のお医者様からのご忠告もあり、11月から、土日祝日その他臨時休業日には更新をお休みすることにした。
スローライフでまったりと書いてまいります。引き続きのご愛読と、ご意見ご批判よろしくおねがいします。
おい老い笈の小文2003/09下旬
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