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Workshop for Nipponianippon Communicative Language& Culture Studies
話しことばの通い路

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おい老い笈の小文2003年10月b

おい老い笈の小文2003/10中旬  
読んだ本の思い出とつれづれ昔語り日記     

日付 タイトル 今日の一冊 著者
2003
10/11
ロンリーウーマン ロンリーウーマン (た)高橋たか子
10/12 散歩と雑学が好き!晩年の恋も好き 言語学の散歩 (ち)千野栄一
10/13 シルバー劇団 小説熱海殺人事件 (つ)つかこうへい
10/14 芭蕉の忌、50代の死と早世について 寵児 (つ)津島佑子
10/15 ネット航海、俳句という名の船に乗り 句集『花粉航海』 (て)寺山修司
10/16 自然と人生  自然と人生  (と)徳富蘆花
10/17 ルーツ (な)中上健次
10/18 老後は留学を! それから (な)夏目漱石
10/19 ナイロビ-東アフリカの裏町 花のある遠景 (に)西江雅之
10/20 力と芸術そして再び老いらくの恋 秀吉と利休 (の)野上弥生子




ロンリーウーマン
at 2003 10/11 09:42 編集


 時々聞く、老人の孤独死ニュース。だれにも看取られず、気づかれず死んでいるお年寄りのニュースは胸にせまる。高齢者にとって、孤独は一番いやなもの、おそろしいものなのだろうか。

 友人の何人かは、自身の子育てや親の介護を卒業した後、ホームヘルパーの資格をとって、老人介護の専門家になっている。また、昔中学校で同僚だった友人は、民生委員になって、町内の老人宅を訪問している。彼女たちに話を聞く機会があると、孤独がどれほど老人たちの心をむしばみ、つらい思いにさせているか、ひしひしとわかる。

 確かに、老後を孤独で過ごすより、友人や孫子といっしょににぎやかに過ごせたら、こんなありがたいことはない。でも、私は「老い支度」のひとつとして、「孤独を楽しんですごす準備」も怠りなくレッスンしておきたい。

 大勢で楽しく過ごすことも必要だが、一人自分をみつめ、一人遊びもできるように。女の一人暮らしで、身ぎれいに、食生活もきちんとして、、、などなど思うのだが。

 今でも子どもたちが出かけていない日など、面倒くさくなると、昼も夜も同じTシャツとジャージですごし、スーパーで買ったおかずを食器に入れ替えるのさえせずに、パックのまま食べているのだから、「おしゃれで、かわいい生き生きしたおばあさん」になることは「夢」かもしれない。

☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.16
(た)高橋たか子『ロンリーウーマン』

 高橋和己夫人、高橋たか子は、夫和己と共に文学活動を始めていたが、私が彼女を知ったのは「高橋和己の思い出」というような、「夫を語る未亡人」としてだった。

 夫と関係のない彼女自身の作品として読んだのは女流文学賞を受けた連作短編集『ロンリーウーマン』から。そのあと、『ロンリーウーマン』より前の『彼方の水音』『空の果てまで』へ戻り、『没落風景』『人形愛』へと読んでいった。

 たか子は、キリスト者となり、女の孤独と絶望を深い思いの底から描き出している。一番好きなのは『誘惑者』
 フランスへ行って修道女になってしまったときは驚いた。帰国後の作品は読んでいない。精神の高みへと登ろうとする高橋に対し、私は「精神のごみため」のような日常。

「ごみを捨てらず、ごみにまみれて暮らすおばあさん」が、時々テレビに映ったりする。我がロンリーウーマン暮らしは、ああなるかなぁ、と思って見ている。


散歩と雑学が好き!晩年の恋も好き
at 2003 10/12 08:52 編集

 現在の趣味で老後も続けようと思っているのは、散歩と自転車ポタリング。

 読書は趣味ではない。人が酸素を断たれると5分で死んでしまうように、水を断たれると1週間余で死んでしまうように、食を断たれると1ヶ月余で死んでしまうように、私にとって、読書は趣味ではなく、「活字を断たれたら死んでしまう」生きるための「絶対必要物」なのだ。

 小学校のころは、欠食児童のごとく、一日にルパンとホームズとベルヌを三冊読むというようなガツガツとかっ込む読書をしたが、今はさすがに「絶対必要物」の読書とは言っても、ぽっくりぽくぽく散歩を楽しむのと同じように、楽しくゆったり読むのが好き。

 「散歩と雑学」は、生きる糧。本を読み散らし、トリビア雑学を仕入れては孫に披露して「それ、トリビアの泉でやってた、もう知ってる」なんて、うるさがられる晩年もいい。

 しかるに「晩年は雑学蘊蓄」もいいけど「晩年の恋」のほうがもっといいですぞ、というご意見にも一票!です。

☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.17
(ち)千野栄一『言語学の散歩』

 『言語学の散歩』を読んだときには、ただただ、言葉というものの面白さを無心に楽しんだ。

 70年代はじめ、徳永康元に言語学を教わったとき、言語学とはなんて面白い学問なのだろうと思い、期末レポートとして「サピア・ウォーフの仮説」について書いた。徳永先生から優をもらった。

 しかし、言語学をやるためには、言語に強くなければならない。いかんせん、私は日本語以外のことばには、まったく弱かった。大林太良の神話学の方法でやろうとした卒論の『古事記』は大失敗作だった。

 千野栄一は、日本の中でも最も「言語に強い人」の一人。

 私が千野先生に言語学を教わっていた80年代後半、先生から「言語学徒、語源と学生に手をつけるな」「不倫と日本語起源論に嵌ったら命取り」と諭された。
 しかし、まもなく先生は離婚を成立させ、ふた回り年下の教え子と結婚!

 我々素人が手を染めたら泥沼になることだから、と諭してもらった訓戒だったが、先生にとっては逆転のレトリックなどお手のものであった!

 晩年をふたまわり年下の人を愛してすごすのは、男性だけではない。フランスのシャンソン歌手エディット・ピアフ、作家のマルグリット・デュラスなども、晩年を若い恋人と共にすごした。

 日本でも、漫才師の内海桂子師匠は、60代のとき20歳年下の方のファンレターから愛をはぐくみ、正式に結婚した。

 新婚をからかう若手漫才師の「師匠、夜のつとめは?」という質問に「そりゃあ、結婚したんですから」と自信たっぷりに答えて、からかいを堂々とかわしていた。

 散歩と雑学、そして晩年の恋!


シルバー劇団
at 2003 10/13 09:12 編集

 映画『ぷりてぃうーまん』を見逃してしまった。淡路恵子主演『ぷりてぃうーまん』は、名古屋の実在の”おばあちゃん劇団”「ほのお」をモデルにした話。 

 「ほのお」だけでなく、シルバー劇団で活躍している人、市民ミュージカルに参加する人など、演劇は老後の生き甲斐として、人気の高いものの一つ。私もやりたい。

 転職13回を数える私の職歴の中で、最も短い期間ではあったが、最も印象に残っている仕事は旅回り一座の役者。
 小学校を廻って、小学生にミュージカルを見せ、九州山陰を巡業した日々のこと。演じる場所は体育館、楽屋は体育館の道具置き場、という一座だった。

 一座の中で一番好きだった役者森下由美さんは、今も「だるま食堂」というコントトリオの一員として活躍している。

 由美さんは、1990年NHK新人演芸コンクールで優勝したあと、即席麺のCMに出演した。持ちネタの「金髪女」の扮装でパレードカーから愛嬌をふりまく由美さんにテレビのこちらから声援をおくりました!
(だるま食堂ホームページはhttp://hw001.gate01.com/darumashokudou)

 由美さんは、本当にすぐれた才能と役者魂をもつ人だったが、私には、役者稼業もアフリカ縦断旅行の資金をかせぐためのアルバイトにすぎなかった。

 アルバイト気分で始めた仕事だったが、演劇に一生をかけている由美さんたちといっしょに日々を過ごし各地をまわるうち、一瞬一瞬が出会いであるということを教えられ、二時間の舞台を真剣勝負で生きることの真髄がわかった。「一期一会」の字句の意味が心身に染みた。

 たった半年足らずではあったが、「役者をして食べている」と言える生活をした思い出は、私の来し方の中で、誇りに思うことのひとつだ。

☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.18
(つ)つかこうへい『小説熱海殺人事件』

 唐十郎、鈴木忠志、寺山修司など、私が学生時代に見た「アングラ」は、私より少し上の世代の演劇人たち。私より1歳年長のつかこうへいが演劇界に登場し、怒濤の活躍を始めたとき、私は、国語教師兼演劇部顧問として中学生クラブ活動の世話で手一杯。自分の楽しみのために演劇を見る余裕はなかった。

 だから、つかの作品は、テレビで見たくらいで、リアルタイムで初演を見た作品はない。もっぱら小説作品を読むだけだった。

 つかの芝居をよく見たのは、息子が「つかこうへい劇団児童教室」に在籍して、「教室在籍児童保護者への招待券、割引券」などを使えた数年前のことである。『幕末純情伝』などを見に行った。

 初演から何年たっていても、つか作品は古びない。すごいな。もっとも、近松、シェークスピアは400年たっても古びないし、世阿弥は600年雅楽伎楽は1000年たっても古びない。

 年ごとに古びていく、我が顔の皺がうらめしい。


「芭蕉の忌」五十代の死と早世について
at 2003 10/14 06:48 編集

 春庭は名前を本居春庭に借り、このコラムのタイトルを芭蕉の紀行文『笈の小文』に借りている。大それたことである。

 309年前(1694年)10月12日は、芭蕉が亡くなった日(ただし、旧暦だから、新暦に直すと、季節は11月の初め)

 芭蕉が『笈の小文』の旅に出たのは、44歳のころ。
 旅立ちの送別会での句

 「旅人と我が名呼ばれん初しぐれ」。

 この後も『更級紀行』『奥の細道』などの旅を続け、永遠の旅立ちとなったときは、51歳。

 辞世「旅に病んで、夢は枯野をかけ廻る」

 芭蕉というと、頭巾をかぶったおじいさんが、笈を背負い杖をついている旅姿を思い浮かべるが、旅を続けていた頃は、五十前だったのだ。

 人生五十年の時代には、五十代は老人であったが、現代は、「四十、五十は、鼻垂れ小僧」。私は、芭蕉の享年をすでにすぎてしまったが、まだまだ、ひよっこなのだ。

 2003/09/30付、富岡多恵子のエッセイでも、同時代に生き同時期に亡くなった西鶴と芭蕉にふれている。

 ご自身の50歳になった感慨を語り、今の時代、80歳で逝くとしても、西鶴のように52年の生涯を「我にはあまりたるに」と言って死ねるか、こころもとない、と結んでいる。

 母が55歳で、姉が54歳で亡くなったせいもあり、50歳すぎ、自分の老いと行く末を強く意識するようになった。

 家族の早世というのは、残された者にほんとうにつらく重いものを与える。私の母は心不全をインフルエンザと誤診されて、姉は子宮肉腫を子宮筋腫と誤診されての早世だった。

 家族が寿命を全うすることなく早世した場合、残された家族の悲痛の思いは計り知れない。しかし、私が生きて母と姉の思い出を語れるうちは、二人はこの世に生きている。思い出をできる限り長くとどめておくためにも、私は長生きをするぞ。

 何歳まで生きたとしても、果たして「我にはあまりたるに」と言えるかどうか。120歳まで生きたとしても、「まだまだ、、、」と、はいずり回っている気もする。

☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.19
(つ)津島佑子『寵児』

 津島佑子は、赤ん坊のときに39歳だった父を、自らが38歳のときに9歳だった息子を失っている。父は太宰治。佑子が1歳のとき、太宰は愛人と入水を遂げた。

 悲痛な思いに沈んだのは、夫の命を奪われた佑子の母美知子であり、佑子自身が、父の死を意識したのは、少女から作家へと成長する途上でのことであったろう。

 「大夢」と名付けた息子の成長は、佑子にとって文字通り「大きな夢」の存在であり、心の支えとなっていたと思う。その息子までが早世してしまった。

 私が最近読んだ津島佑子の作品は、読書遍歴を語った『快楽の本棚』。このあとがきでも津島は「ある不幸があり、40歳すぎの人生を余生のように感じていた」と、記している。息子の死の衝撃がいかに大きかったか察せられる。

 そんな過酷な運命を経て、津島の近作はますます凄みを増している。『火の山 山猿記』『笑いオオカミ』など。

 私が好きな作品は、娘との二人暮らしを連作短編として描いた『光の領分』、未婚の母として生きる女を描いた『山をかける女』など、比較的明るい感じのものだが、小説家としての津島の本分は、私には読みこなすのがむずかしい、果てしなく深い作品群の中にあるのだろう。

 『寵児』は、離婚前後の津島が「想像妊娠」をキーワードにして「母、女、肉体」としての人間の存在をつきつめている作品。
 柄谷行人は『反文学論』の中で、『寵児』について、こう評している。

 『「本当のわたし」なるものこそ冗談なのだ。アメリカのフェミニストの作家たちは、いわば「本当のわたし」があるかのように思いこんでいる。したがって、「母」や「女」を歴史的・社会的におしつけられた意味としてしりぞけ、「本当の生き方」を求めようとする。それはもう一つの「意味」にとらわれることでしかない。

 たとえば、愛は観念であり、確かなのは肉体だけだ、というような人がいる。だが、『寵児』の主人公は、”想像妊娠”をするではないか。いいかえれば、肉体そのものが観念的なのである。すると、人間の存在そのものが「冗談」であるというほかはない。』

 私は「日本語文法研究」を続けるより「母として生きる」ことを選んだ。

 語学教師として細々と日々のタツキを得ながら、「子供がすべったころんだの毎日」を生きてきた。

 そのこと自体に悔いはないが、子育て中の多くの若い母たちが「本当の自分」を探したい気分もまた、ようくわかる気がする。柄谷が『本当の生き方を求めようとするのは、もう一つの「意味」にとらわれることでしかない』と、言い切れるのは、柄谷が、すでに「自分の意味」の確立をなしえた男だからのような気がするのだが。


ネット海の航海、俳句という名の船に乗り
at 2003 10/15 06:29 編集

 俳句を趣味とする人々、俳聖芭蕉の忌日(時雨忌)に、一句ものしただろうか。時雨忌は、陰暦10月12日だから、季語としては冬である。

 季語の中でも忌日を読み込んだ句は初心者にも作りやすい。忌日の主の生涯のイメージを作品中にもりこめるからである。歳時記から忌日によせて拾う。

時雨忌や暁波はがしはがし航く(角川源義) 老人は朝が早い、暁のネット海の航海

太宰忌の視線岐れて郷にいる(平畑静塔) 津島佑子の父、太宰の故郷は津軽

啄木忌いくたび職を替えてもや(安住敦) 私、春庭も転職13回。

釘買って出る百貨店西東忌(三橋敏雄) 自傷行為に使うため釘買う人もいるだろう

 我も手に釘打ちぬいてみる修司の忌(春庭の腰折れ、イタタッ! イエスと寺山修司と西東三鬼をイメージしたんですが、何か?)

 高齢者の趣味の中で人気の高い「文芸」。中でもダントツ一番人気は「俳句」である。 短歌や詩を趣味とする人、自分史執筆を目指す人などの人数に比べると、俳句人口は格段に多い。

 日本語文芸の極みまで奥深く分け入ることもできるし、初心者が仲間と腰折れひねって遊ぶこともできる。歳時記一冊、ノートとえんぴつさえあれば、いつでもどこでも、一人でも仲間とでも遊ぶことのできる、究極の遊び道具。

 パソコンと俳句を連動させて遊びたい人向けに、「パソコン利用俳句自動作成ソフト」がある。次から次へ5,7,5,のことばが自動的に繰り出されてくるソフト。それを組み合わせて俳句ができあがり。小学校の国語科教材として利用している先生もいる。

 風野春樹作成の俳句ソフト『風流』が作り出した作品を紹介しよう。
http://member.nifty.ne.jp/windyfield/diary9807a.html#06 風野春樹「サイコドクターあばれ旅、読冊日記98年7月上旬より)

夏の葉がさざめき古都をなぐさめる
去年今年過ぎゆくキスとなりにけり
歯ブラシを恐ろしく見る新年会
葉桜や馬鹿を愛して法隆寺
眩しさや窓辺虚しく包む雪
薔薇の死や嘆く悲劇を傷つける
チューリップ散って短き罪ぞ咲く
卒業式恋しく逃げる抱きしめる
吹き飛ばす蝿の世界の娘の死
馬鹿も咲く頭明るき年賀状

 なまじっかの初心者より、よほどすぐれた句を生み出すのがパソコン宗匠であることがわかるだろう。

 このソフト『風流』は、MS-DOSで作成されたので、現在のパソコン環境では使えないというのが残念。最近のパソコンで簡単に遊べる『風流』のような俳句作成フリーソフトをご存知の方、メールでご一報を。(留学生の日本語教育クラスで遊んでみたい)

☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.20
(て)寺山修治『句集 花粉航海』(キーワード抽出は春庭)

花粉>十五歳抱かれて花粉撒き散らす
   自らを清めたる手に花粉の罰

母 >蜂の巣の千の暗室母の情事
   母とわが髪からみあう秋の櫛
   出奔す母の白髪を地平とし

蝸牛>家負うて家に墜ち来ぬ蝸牛
   眼の上を這う蝸牛敗北し

夏> 蟻走る患者の影を出てもなお
   わが夏帽どこまで転べども故郷
   そこに見え遠き世にある団扇かな

 そして、1983年5月に47歳の生を閉じた寺山の人生を象徴する、句集『花粉航海』冒頭の一句。
五月>目つむりてゐても吾を統ぶ五月の鷹

 『花粉航海』初版は1975年深夜叢書社刊だが、2000年に角川春樹事務所から文庫が出た。

 私が23歳のとき、母が死んだ。母亡きあと「母が残した俳句を句集にまとめて、三回忌法事に出版する」という目標がなかったら、私は母のあとを追っていただろう。

 散逸した母の句を、新聞雑誌の投稿俳句欄に入選した句などから拾って、一句一句寄せ集めていく作業を続けて、ようやく「たとえ55年の短い生涯であっても、母にとっては、母なりの充実した人生であったのだ」と思えるようになった。

 母の残した俳句のおかげで、母亡き後の人生を生きることができたのだ。

 来年はその母の享年になる。


自然と人生
at 2003 10/16 11:08 編集

 結婚後東京に住んで20年になるが、生まれ育ちは田舎だから、緑が目に入らないと息苦しくなってくる。新鮮な空気と光と水。私も光合成していたい。

 自然とのふれあい交歓を生き甲斐とする人のサイトを発見するのも、ネットサーフィンの楽しみのひとつ。さまざまな自然、様々なふれあいがある。

 新潟市、78歳になる吉川百合子さん執筆の新聞投書(2003/09/30)より。

 百合子さんは、30キロの装具を背負い、台風の余波でうねる9月初めの佐渡の海でダイビングした。水深5メートルの海底を20分散歩したそうだ。

 「アジ、イカ、アメフラシなどの海中生物を見られて楽しかった」と書く百合子さん。すごいですね。78歳で挑戦するスキューバダイビング。

 海中散歩といえば、2003年9月初旬に101歳で亡くなったレニ・リーフェンシュタールも、70歳すぎてスキューバダイビングをはじめた人。

 戦前は、ベルリンオリンピック記録映画『意志の勝利』の監督として知られ、戦後は西アフリカのヌバ族を記録した『NUBA』の写真家として復活したレニ。
 70歳すぎて始めたダイビングで、海中の美を追求し、たくさんの美しい海中写真を撮影した。

 自然大好きな私も、海に関しては、泳いだり眺めたりするだけ。潜るのはまったくできない。

 海の生物を楽しみたいときは、もっぱら水族館散歩。品川水族館、葛西臨海公園水族館、サンシャイン水族館へよく行く。

 鱗を銀色に輝かせて泳ぐ魚たちを見て、感激の第一声は、「うまそう!」

☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.21
(と)徳富蘆花『自然と人生』

 詩歌を志す文人にとって、自然は「ネタモト」の大事な存在だったが、一般の生活者が「自然の美」や「自然との交歓」の効用に気づいたのは、明治以後だと言われている。

 自然と闘って生活しているほとんどの人にとって、「自然」とは、眺めて楽しむ以前に「食べ物の調達先」を意味した。風にゆれる穂波の美しさを眺めている暇があったら、今年の稲の作柄を心配しなければならなかったのである。

 物食うよりほかに楽しみがなかった我が父祖に、自然観賞の楽しみを教えてくれたのは、志賀重昂『日本風景論』であり、国木田独歩『武蔵野』であった。

 徳富蘆花『自然と人生』も、その一冊。
 蘆花の前書きにいわく。

 『昔賢猶自ら謙して吾は眞理の海の渚に貝を拾ふに過ぎずと云ひき。今予凡手凡眼、遽に見て急に寫せる寫生帖の幾葉を引ちぎりて即ち「自然と人生」と云ふは、僭越の罪固に( )かれ難かるべし。讀者幸に恕せよ。』( )の文字、官にしんにょう。

 これを読ませても、日本人学生「イミ、ワカンネー」と言って放り出すだろう。熱心に辞書を引くのは、ジャパノロジー研究生、近代日本精神史専攻で論文を書こうとする留学生くらいだ。

 蘆花は『不如帰』の作家として有名。「明治文学史」が試験範囲になっている高校生には暗記マーカー赤丸の本だが、蘆花で卒論を書く人や近代文学を専攻する院生以外で、『不如帰』を原文で読んだ人がいたら、よほどの年寄りかマニア。

 「書名は有名だけど、だれも読む人がいない本」の中の一冊だ。
 私も、大山捨松に興味を持つまでは、「読む気もしない、古くさい本」と思っていた。

 継母(捨松がモデル)にいじめられた継娘波子が、結核に冒された胸を押さえながら「なんで人は死ぬのでしょう、千年も万年も生きたいわ」と涙で語ることばだけは、さまざまなパロディになってが流布していたが。

 千年も万年も生きられない、限りある命をせいいっぱい謳歌するためにも、自然の中で楽しくすごしましょう!


ルーツ
at 2003 10/17 06:51 編集

 先日のハリケーン「イザベル」関連のニュース写真(2003/09/20付夕)に「洪水に流されるクンタキンテの像」というのがあった。

 クンタキンテは、アレックス・ヘイリー『ルーツ』の主人公。アメリカ黒人である自分のルーツをアフリカまで遡のぼってたどり、記述した本。

 私のまわりにも、年をとると、にわかに自分の先祖さがしを始める人がいて、家系図などをとくとくと見せてくれたりする。

 「どの家も家系図をたどると、だいたい源氏か平氏か藤原の末流という人が多く、日本人の大半は結局のところ、我が家のルーツは天皇家から分かれているって言うんですよ」と留学生に紹介したことがある。

 個人のアイデンティティにとって、自分が何者で、どこでだれから生まれたのか知ることが大きな意味を持つことは、私が知り合った「中国残留孤児」の方々の話からもわかる。

 我が父祖がだれであり、遠い祖先がどこから来たのか、知らなくても生きていける事ながら、知って確認することで自分の来し方行く末を考えるきっかけになることもあるのだ。

 実は、私も父が亡くなる年の夏に、妹と「先祖の出身地」へ行き、父のかわりに先祖菩提寺で住職の話などを聞いてきた。

 父を育てた父の祖母(私の曾祖母)は、田舎の素封家の家付き娘であった。お乳母日傘で育ちながら、入り婿の放蕩などが重なったあげく、破産して夜逃げをした。
 自分が一人子供を背負い、女中にもうひとりを背負わせての夜逃げであったという。

 「どこまでもお供します」と言ってくれる女中がいなかったら、山越えの夜逃げをする勇気はでなかった、と曾祖母(私が12歳になるまで生きていた)の述懐。

 そんな「夜逃げをしてきた父祖の地」を訪れたのだ。寺には過去帳が残っていた。役場の人は、一家の現在の戸籍簿を持ってくれば、先祖の分の戸籍をコピーして渡しますよ、と教えてくれた。

 でも、家系図を作るほどの家でもない。破産したあと、祖父は頼る者もない土地で、鳶職になって生きた。流れ着いた土地に根を下ろし、頭として町中の信頼を受ける人になった。子供の頃、鳶の頭として祭りの山車を指揮する祖父が好きだった。父は「鉄鋼労連」。

 労働するより他に財産はない家柄である。ただ、こうやって、先祖代々までたどることができるのだとわかっただけで、よかった。どこの馬の骨であろうと、けっこうなのだ。

 しかしながら、私が「家系などどうでもよい。人間は個人として、現在の自分に何ができ何ができないか、だけ」と言えるのは、自分の家が「どこの馬の骨やら」ながら、馬の骨をたどれるからかも知れない。

 下から読んでもマサコサマの家系図が新聞に載ったとき、同和の人たちが「反対声明」を発表した。このように「由緒正しい家柄である」ということを麗々しく発表するのは「由緒正しくない人々」への圧迫であると。

 それを聞いて、現実に差別を受けている人にとっては、家系図の話もつらいことなのだろうと思った。
 また、同時に、そこに生まれたことを誇りに思えばいいのではないか、とも思ってしまった。出自による差別の痛みを負ったことのない人間の、傲慢な感想かもしれないが、私は、中上健次の「賤と聖との反転による光輝」を好む。

☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.22
(な)中上健次『岬』

 1975年に中上健次が76年に村上龍が芥川賞を受賞して「文壇も戦後生まれの時代」と言われるようになった。

 村上龍は私と同年生まれだが、1月生まれなので学年はひとつ上。『限りなく透明に近いブルー』を一度読んだあとは、「あ、これ私、ダメ、合いそうもない」と、ギブアップ。再び、村上龍を読む気になったのは、『トパーズ』以後である。

 私よりは3歳年長だが、中上こそが「我らの時代の文学」の騎手だった。『十九歳の地図』『枯木灘』『日輪の翼』路地と秋幸をめぐる物語もそのほかの話も「同時代」を感じながら読めた。

 好きな作品は「中上の作品中、一番の駄作。単なるフツーの恋愛小説」と評されているらしい、『軽蔑』。新聞連載小説だから、中上が気軽に書いたのかも知れず、中上コアファンにはイマイチの評価だったみたい。つまり、『軽蔑』が好きという私は、まだ中上作品の本当のすごさがわかっていないのだろう。

 中上紀の『彼女のプレンカ』が世に出れば「中上の娘だもの」と、律儀に読んでしまう、ただのミーハーファンです。

 ちなみに、夫の写真を見せた友人に「そういえば、あなた、中上ファンだったものね」と納得顔で言われたことがある。

 いえいえ、中上に似ているだなんて、そんな大それたこと!正確には「中上健次とバーブ佐竹と北京原人を足して3で割ったような」です!!
 うちのルーツは、北京原人じゃないかしら。もしかして直系?


老後は留学生に!
at 2003 10/18 09:48 編集

 10月15日は、新渡戸稲造の忌日であった。新五千円札の樋口一葉忌日11月23日一葉忌や、千円札漱石の忌日12月9日漱石忌は歳時記にのっているが、新渡戸忌とか、稲造忌が季語として使われた句があるだろうか。

 新渡戸はアメリカのジョンホプキンス大学に留学、メリー・P・エルキントン嬢(後の萬里子夫人)と結婚、逝去の地もカナダのビクトリアと、外国関係が多いから季語にするとバタ臭いイメージの句が作れるかも。

 明治の留学生は、エリート中のエリートであったが、外国へのなじみ方は、人それぞれ。
 夫人を外国で得た新渡戸、ドイツで恋愛したけど、出世にじゃまな恋人は捨ててきた鴎外(エリスのモデルになった女性が、鴎外を追って日本までやってきたが、追い払った)。

 一方、漱石は留学先のロンドンで神経衰弱気味になり、下宿に引きこもっていた。漱石のロンドン日記は、異文化に同化できないいらだちに満ちているという。

 新千円札の野口英世夫人もアメリカ人。漱石が外国になじめなかったのは、鏡子夫人に頭が上がらなかったという「国産夫人中心主義」だったから?

 「歴史の語り部」澤地久枝の項で、澤地が67歳でアメリカの大学に留学した話を紹介した。

 留学するなど、一部の選ばれた人にしか許されなかった中高年世代。退職後の過ごし方として、「海外留学」という、若い頃にあこがれだった夢を実現する人も多い。

 澤地の母校、早稲田大学のエクステンションセンターにも、海外留学をめざす中高年のための英語教室がある。

 難しい英語論文はどんどん読めたけれど、会話が通じなくて困ったという漱石の時代とは違い、今は中高年も気軽に「Let's study in foreign !」海外留学してみませんか?

☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.23
(な)夏目漱石『それから』

 「それから」のラストシーン。三千代を失い、兄から勘当された代助は、「焦げる焦げる」と歩きながら口の中で云った。

 「焦げる、焦げる」のセリフだけが印象に残り、東京のどこ、というトポスはまったく覚えてなかった。

 「代助は自分の頭が焼けつきるまで電車に乗って行こうと決心した」という場面の、電車に乗り込む駅が「飯田橋」であったことに、今日気がついた。

 私は週に3回、焦げもせず、東西線南北線有楽町線を乗り換えている。代助の頭の上から真直に射下ろし、「焦げる焦げる」と言わしめたた太陽が、私の頭を焦がすことはない。地下鉄ですから。


ナイロビ--東アフリカの裏町
at 2003 10/19 06:58 編集

 毎度若者に「また、あのときの話かよ」と、飽き飽きされても、中高年は青春時代を振り返り、思い出話にふけりたい。
 若者よ!寛恕として「思い出話」を聞きなさい。君たちもいずれは中高年。

 鴎外にとってのドイツ、稲造にとってのアメリカが「青春の地」だったとすると、私の青春の地は、ケニアである。

 1979年7月末の夜、ナイロビに到着。翌朝、まず両替をしようと町に出たら、たちまち迷子になってしまった。そのとき道案内をしてくれた日本人を「親切な人」と勘違いして、2年後に結婚することになった。

 しかし、「外国で親切な人が、家庭でも親切であるとは限らない」ということは、すぐに判明した。

 「ナイロビで迷子になって愛を拾った。今では愛が迷子になってる」という、娘が私のために作ったキャッチコピーを、学生に披露すると大受けだった。

 教師のいいところは、毎年学生が変わるので、同じ思い出話を毎年繰り返しても大丈夫なところ。たまに、同じ話を同じクラスで繰り返して顰蹙を買うこともあるけれど。
 毎年変わる学生に、毎年おなじ自己紹介「ナイロビで迷子になって、、、」を繰り返している。

 ナイロビの下町を、国境の町ナマンガを、海岸の町モンバサを、 後に夫となる人と(その時はそうなるとは思わず)共に歩き回った。サバンナの地平線に沈む夕日を黙って二人で眺めていた時間は、現在「愛が迷子」の状態であるにせよ、私には貴重な思い出だ。

☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.25
(に)西江雅之『花のある遠景』 (ぬ)の項なし

 私が夫とケニアを歩き回っていた1979年、同じころにナイロビを歩き回っていた人が西江雅之。

 このときはすれ違いばかりで会うことがなかったのだが、私が「子持ち勤労学生」として二度目の大学生活を送ったとき、学部と大学院で西江先生に言語学を教わることができた。大好きな西江先生。著作はもちろん全部読みました。

 『花のある遠景』、初出は1975年。ナイロビの下町の女たち男たちを、生き生きと描いている。
 『ことばを追って』『異郷の景色』『旅人からの便り』『風まかせ』など、先生は風にまかせて世界中神出鬼没。七つの海をがけめぐるパイレーツさながらである。

 ことばの達人西江雅之は、今日もきっと世界中を駆けめぐっているだろう。

 夫が「偽学生」または「子持ち勤労学生のつきそい」として、いっしょに西江先生の授業を聞きに行っていたころのある日、西江雅之編纂「スワヒリ語辞典」を学校に持っていって、「先生、ご署名をいただきたいのですが」と、お願いしたことがあった。

 先生、サインしながら渋い顔。ほかの著書にはごきげんでサインしてくれたのに。

 「これね、海賊版が出回っていて、このあんたの辞書も海賊版だから、こちらには印税一銭も入ってこないの!」

 カリブ海の小島でクレオール言語の研究をした西江先生、カリビアンパイレーツも海賊出版もお嫌いであった。


権力と芸術そして再び老いらくの恋
at 2003 10/20 05:21 編集

 9/28の「災害」の項で、野球界に権勢をふるう老害についてふれたが、老人と権力について再び。

 一般の会社では、早期退職者募集やリストラもどんどん増えているというのに、73歳という高齢の定年さえ、「例外」も許されているうらやましい職業がある。自民党議員である。

 比例区候補者の定年を決めたのは2000年。しかし、閣僚経験者は例外とされ、中曽根康弘85歳、宮沢喜一83歳の首相経験者は、次の選挙にも公認を申請している。

 現首相は「例外のない規則はないが、原則は貫いた方がいい」と2003/10/03に記者団に語ったが、両ロートルに引退を勧告できるかどうかは微妙。

 権力というものは、長く続ければ必ず腐敗する。

 首都圏の某県でも、人工湖の名に自分の娘の名を命名した元知事がいて、金銭の腐敗以上に顰蹙を買った。桃湖だって。だサーイ、玉! 私が、「学生→市立中学校教師→結婚→出産」という時代をすごした第二の故郷。生まれ故郷の次に高校野球を応援する県なんですが。

 春日部生まれ佐賀育ちのはなわが歌う「県歌」も大好き。県歌じゃないって?あれ?「さいたま市民は漢字が読めない。さいたま市はひらがな〜」って繰り返す傑作ソングなんですよ。
 漢字が読めないのは、私が国語を教えた生徒たちじゃないかしら。先生もあまり読めなかったので。

 話がそれた。権力である。
 権力の座についた者は、一度手にした権力を手放したくない。己の周囲を固め、権力にしがみつく。

 権力者が権勢をふるうのは、政治経済界に対してだけではない。芸術芸能やスポーツの世界へも、権力は容赦なく力をふるう。某オーナーが野球チーム人事に口をだすように。

 芸術と権力。権力者と芸術家「西行vs実朝&後鳥羽上皇」「世阿弥vs足利義満」などなど、歴史上、両者はときに和合協力し、ときに反発拮抗してきた。

 長く権力の座にあった者とその側近の関わり合いのうち、秀吉と利休の関係ほど、その破局が謎めいたままのものはないだろう。様々な憶測や歴史上の解釈を生み、結局、なぜ二人の仲が壊れたのかは、はっきりとは分らない。
 今東光『お吟さま』井上靖『本覚坊遺文』澤田ふじ子『利休啾々』など、この主題をめぐる作品もさまざまな角度から描かれている。野上弥生子『秀吉と利休』もそのひとつ。

 秀吉は、若い頃相思相愛で結婚したおね(北政所)との間には子がなせなかった。権力者となってから側室にした茶々(淀殿)との間にようやく秀頼がめぐまれると、関白から太閤へと引退したはずなのに、権力にしがみついた。

 関白職をゆずった甥ではなく、我が子に権力の座を継がせたかったからである。いったんは跡継ぎに決めた甥、秀次の一族郎党を容赦なく斬首した。朝鮮への無謀な出兵、利休への賜死、と悲劇が続く。

 秀吉の老いらくの恋は、歴史上では無惨な結果となった。
 老いらくの恋は、晩年を美しくもし、晩節を汚す結果ともなる。

 私は、野上弥生子を見習って「美しい晩年の恋」をめざしてがんばります。10/12に「晩年の恋に1票!」と言ってあるので、今回2票目です。晩年の恋にもう1票!

☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.27
(の)野上弥生子『秀吉と利休』 (ね)の項なし

 最初に読んだとき、もっとも印象に残ったのは、権力と芸術の相克でもなく、茶の道を究めようとする利休の苦悩でもなかった。一番強く記憶に刻まれたのは、「聚楽第の秀吉の寝室」の描写であった。

 『彼ら(耶蘇会の神父たち)は権威者の歓心をえて布教をさかんにするため、驚き珍重する調度、器物、衣料から、薬品、菓子、酒のあらゆる食べ物飲み物まで、遠く海のかなたから取りよせて思い切った贈物をした。

 聚楽第の寝台も彼らの献上品である。彫刻と鍍金のおもおもしいマホガニ材のもので、竪七尺、横は五尺に及び、その幅にひとしい緋びろうどの長枕に、金糸、銀糸で竜紋を浮き織りにした紫緞子の布団が添っていた。』

 寝台のほか、、室内の調度、椅子やテーブル、テーブルの上のギヤマンの瓶に入った葡萄酒。その描写力。「文の芸」というのは、こういうことを言うのだろうと感じた。どんな歴史家が麗々しく秀吉の権力の強さを並べ立てるより、弥生子の描写は、秀吉の権力のあり方を読者に伝えることに成功している、と感じた。

 南蛮渡来の新御物をはじめとする各所からの到来宝物を並べ立て、金箔をきらめかせて田舎大名を威圧した桃山文化のあり方を生き生きと伝え、秀吉の力とはどのようなものであったかを、想像させた。

 「秀吉の権力」を考えるとき、頭の中に必ずこの、きらびやかで華やかでそして空疎な寝室が浮かぶのである。

 秀吉は女達のあしらい方がうまく、この寝台に朝までいることを許したのは正室おねだけであった、と弥生子は描写する。数多くの側室たちは、房事がすめば、自室に下がらねばならなかった。

 秀吉亡き後、彼が一代で築いた権力を瓦解させることにつながる茶々との睦言も、この寝台でかわされたのであろうか。

 野上弥生子は、「フンドーキン」という調味料会社社主令嬢として生まれ、何不自由なく成長。豊一郎と結婚後も、文学の研鑽を続けた。

 99歳で亡くなるまで現役の作家として書き続けた野上弥生子にとって、晩年とは何歳ころからを言えばいいのだろうか。弥生子にとって晩年とは、90歳過ぎのことであり、70歳ころは、恋に燃える「命の盛り」であったのかもしれない。

 弥生子の70歳代は、哲学者田辺元との恋愛で知られる。両者とも70代ころの老いらくの恋。精神的なつながりの恋として1962年に77歳で田辺が亡くなるまで、その愛は深く強く続いたのである。

 「こんな愛人同士といふものが、かつて日本に存在したであろか」と手紙を交わし合う、作家野上弥生子と哲学者田辺元はともに70歳。

 田辺はハイデッガー研究者、「死の哲学」の構築をめざす。一方、野上は長編大作「迷路」を完成したころ。互いの日常生活を気遣い、思策と創作に強い影響を与え合った両者は、愛情によって繋がり、往復書簡300余通を交わした。

 晩年の田辺元との恋について、大部の日記に詳述されているというので、「老後の楽しみ読書リスト」にいれてある。

 むろん、私の「老後の楽しみ」は、ワイドショウゴシップや、人の日記をワイドショウ的に読むことだけではない。晩年の過ごし方を、野上弥生子に見習うべく、先達の日記は大切に読まねば。「老いらくの恋、実践講座!」


おい老い笈の小文2003/09下旬  

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