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おい老い笈の小文2003年11月a

おい老い笈の小文2003/11上旬  
読んだ本の思い出とつれづれ昔語り日記     

2003/11月上旬 おい老い笈の小文 目次

日付1 タイトル 今日の一冊 著者
2003
11/04
文化の日文化研究文化鍋 明治天皇御集 (め)明治天皇
11/05 じいさんばあさん ぢいさんばあさん (も)森鴎外
11/06 山姥!おばあさんと呼ばれる日 世阿弥 (や)山崎正和
11/07 シニア海外協力隊 道化的世界 (や)山口昌男
11/10 アインシュタインロマン 旅人 (ゆ)湯川秀樹

文化の日、文化研究、文化鍋
at 2003 11/04 13:22 編集

 星野監督お疲れさま。阪神が勝ったらイトーヨーカ堂セールに行くことにしていましたが、残念でしたね。ダイエー優勝おめでとう。王監督&選手のみなさん、優勝セールありがとう。
 半年間「買わなくちゃ、でも、お金ないし」と買えずにいた圧力鍋をようやく買うことができた。半額セールで5000円だったから。

 半額になる前は1万円。それくらいの買い物、半年もウジウジ迷っていないで、さっさと買えばいいのに、と、今思ったあなた。王監督のおかげで、5000円の買い物をようやく成し遂げた底辺生活者の喜びを理解せずに、日本の野球文化を語るなかれ、、、、ってこともないです。はい、うちが貧乏なだけ。

 貧乏な我が家の、食生活を支えてきたのは、電子レンジ、圧力鍋と文化鍋である。電子レンジでチンと下ごしらえ、圧力鍋で安いすじ肉もなんとか食べられるように加工し、文化鍋で仕上げる。
 文化お召を着て、文化住宅に住み、文化包丁文化鍋で料理する、かように文化はありがたきかな。(いまどき、文化お召なんて着てる人いないが)

 で、11月3日は文化の日であった。もろびとこぞりて文化のありがたさを満喫したであろうか。

 文化に関しては一家言あるので、10/31の項で、「多様な異文化」という日本語教師っぽい「惨状の垂訓」をたれてみたりした。

 子供の頃から知ったかぶりの蘊蓄語りが大好き。偉そうに仕入れたばかりの生兵法を披露して、「子供のくせして、得意そうに大人に言うんじゃないよ」「こまっちゃくれた子だね」と言われ続けた。「知ったかぶりのもの知らず」というのが、私の本性なので、もうこの年になって、今更直しようもない。

 エラソーに蘊蓄垂れたがるのが、子どものころからの習い性となれば、キョーヨーがあまりに詰まっているので、ときどき放出して外に掻き出さないとお通じに悪いのだ。削除したメールなんかも溜まってくると重くなるから、ごみ箱カラにしなけりゃならないでしょ。

 そこでまた蘊蓄放出。文化の日が、昔は明治節、もっと昔は天長節であったということを、休みの前に留学生に教えてやった。「日本事情」授業の一環である。

 10月10日の体育の日と11月3日の文化の日はちょうどいいセットであるが、4月29日のみどりの日とセットにすべき赤の日がないのは、残念である。

 だが、将来は私の誕生日が赤の日になるだろう、などと冗談をいうと「早く祝日が増えるといいですねぇ」と、本気で期待された。

 私見では、各人の誕生日は「赤丸国民の祝日」にして、休んでいいことにすべきだと思う。11月3日のエンペラむつひと誕生日と4月29日のエンペラひろひと誕生日が記念すべき日であるならば、私の誕生日だってあなたの誕生日だって、等しく記念すべきだと思うのだ。つまるところ、休みたい。
 
 カルチュラル・スタディ(文化研究)という学問の分野があって、「近代国家論」や植民地問題ポストコロニアル、サブカルチャー研究などを含む。私は1995年からこの分野に指先を突っ込み、つまみ食いを楽しんでいる。

 足から頭までどっぷり突っこんだ日本語文法研究や、足を踏みならし腰をゆすって学んだ芸能人類学などに比べると、ちょっと指先で舐めてみた、くらいのものだが、ものの考え方とらえ方を広げるのにとても役に立った。

 近代国家成立以後(日本では明治維新以後ですな)いかにして国民を国家のもとに取り込んでいくかの手練手管が、カルチュラルスタディ近代国家成立論の研究成果として発表されてきた。

 文化祭も運動会も卒業式も行啓御幸も、博覧会も百貨店も、国語の制定も教育勅語も、みんな「ぬし様まいる」の起請文よろしく、上御一人への熱愛をかき立てていったのだ。

 横町のハッツァンくまさん達は、起請の「ぬし様ひとりを思うておりいすぇ」なんていう殺し文句にころりと参って、有り金寄せ集めて吉原へ。我が心正しき臣民どもも、村の衆寄り集まって日清日露へ満州へ。

 太夫と添いとげ「実(ジツ)」ある恋となるハッツァンなどいるわけがないし、勝ってくるぞと勇ましく誓って国をでたからに、上御一人から実あるなさけを受けたクマサンもいない。
 汝臣民は餓えに泣き無差別空襲に逃げまどい、どとのつまりは「耐えがたきを耐え、忍びがたきをしのぶ」結果となったのだった。

 今年は1943年学徒動員から60年であるという。雨中神宮球場で行進する昔のニュース映像を見るたびに、きょうびの学生、留学生にとっての平和のありがたさを噛みしめる。

 留学生たちは、みなエンペラが大好き。切手やお札の顔に印刷されていないのを残念がったり、チヨダパレスに会いに行ったり。
 防弾ガラスの中の顔は、よく見えなかったけど「エンペラは、私たちに手をふってあげました」と、感想を述べたりする。ほら、そこは「手をふってあげました、じゃなくて、手をふってくれました、ですよ。あげるもらうを勉強したでしょ」

 日本語学習には、難しい面も多々あるけれど、にほんご、ことば、言葉。文化の基盤は「ことば」である。「ことば」なくして文化無し。一方、文化住宅なくしてプリンスなし。

 西武沿線文化住宅の成功なくして、旧皇族華族の屋敷を買いたたいてプリンスホテルに仕立て上げた堤一族の成功なし。プリンスホテルなくば、わがプリンスは、未来のエンプレスミッチーとテニスしたあと、語り合う場がなかったじゃないか。

 エンプレス翻訳による、まどみちお作「ぞうさん」などを朗読して留学生に聞かせたりすると、「英文学者皇后」に対して尊敬の念いや増して、ミッチーと言えば及川光博しか知らない今時のコソコソしたワカイモンよりよほど「わがコーソコーソ」の民草である。

 「なぜエンペラが存在する必要があるのか」と、食い下がられたときは、「ディズニーランドにミッキーマウスがいるでしょう。ピューロランドにキティちゃん。ニッポンにはエンペラエンプレス。イメージキャラクターです」と「憲法第一条・国民統合の象徴」について説明する。

 あの、これは留学生にわかりやすくするための、メタファーレトリックというヤツですからね。決して私は、大切な象徴とミッキーマウスを、同列にしているわけじゃ、ありませんって!ウェブログハウス春庭にも、春庭別棟にも、爆弾投げ込みなどノーサンキュー。
 
 室町戦国の時代、世は荒れ果て、京の御所では食べるものに事欠く御代さえあり、御所女房が道行く人の袖引いた、という記録もあるそうな。
 そんな時代を経てもなお、有効利用方法が復活してきたシステムである。たぶん我々の体内にはイメージ・キャラクターを必要とする遺伝子が組み込まれているのだろう。

 それにしても、世襲議員に反対。大橋巨泉が主張したように「親が議員であった候補者は必ず親の地盤以外の県から出馬すること」という法律でも定めない限り、三世四世と続いていくのかも知れない。私は反対です。世襲。

 和歌の伝統を世襲してきた冷泉家の人じゃなくてもよい短歌が作れる。観世今春の家に生まれなかった人でも、能のシテが立派につとまる。文化を継承するにあたって、世襲に利点もあるとはいえど、なくてもよし。

 世襲の宝刀友切丸がなくたって、うちの文化包丁、よく切れます。

☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.39
(め)明治天皇『明治天皇御集昭憲皇太后御集』(明治神宮編集、発行者角川春樹の非売品、とあるが、私は古本屋で300円で買った)

 メール足跡で、自分の書いた文章に反響をもらうとうれしいが、教え子留学生から「先生に教えてもらってよかった」なんぞと言われるのも、教師冥利につきる。自慢じゃないが、ワタクシ教師としては留学生に評判がよろしいのである。

 まだ「はじめましてどうぞよろしく」の口もまわらない学生から「You are my best teacher.」と言われることもよくあり、1年の授業や半年のコースを修了した学生からの謝辞は、並べて売り出したいくらい。誰も買ってくれはしないが。
 ま、だれも誉めちゃくれないから、せめて自分で自分を誉めているのである。ただし、我が業界では、いくら学生に評判上々の教え上手でも、何の評価もされない。研究論文何本出した、の世界なのだ。

 誰の評価をもとめるでもなく、せっせと言語文化継承につとめてきた世襲の方々がいる。
 年のはじめのためしとて、終わりなき世を言祝ぐ歌会始のときは、テレビ中継で、もったいなくもかたじけなくも、御製御歌に触れる機会がありまするが、歌会のときだけじゃなく、伝統世襲の方々は勤勤勉勉と毎日歌を詠んでいる。

 短歌俳句で飯を食っている職業歌人俳人ならで、毎日欠かさず作品作る根性のあるアマチュア歌人俳人がどれほどいようか。継続は力なり。量が質を高めることもある。

 継続大量生産の中、エンペラひろひとの作品は、丸谷才一などが「帝王調の気風おおらかな傑作が多い」と誉めているし、エンプレスみちこの作品も、子を思う母の、愛情あふれる三十一文字に思わず感動の涙こぼるる。るるルルル(涙)。

 文化のお手本たる「エンペラむつひと」は、61年の生涯になんと十万首の歌を詠んだ。
 一般社会のアマチュア作品なら「月次(つきなみ)桂園派」と、いっしょくたに束ねられるような歌も含まれているのだが、それにしても十万は、はんぱじゃない。来る日も来る日も、毎日二十首を詠み上げないと、60年で十万に達しない。

 俳句短歌を趣味でやっている人にはわかるだろう。一日二十首、二十句仕上げるのがどれほどたいへんか。

 日清日露にみこころ安からず、の日々も、欠かさず作っているこの勤勉さ。言霊のさきわう国であるからして、ことばによってさきわっておかないと、この国がたちいかなくなる、という悲壮な決意でもなければ、毎日毎日は続かない。

 言葉によってさきわう、というのが、万世一系伝統世襲の最も大事な役割であったと、私は思っている。

 日記毎日更新している方、ときどき休みたくなりませんか?私は11月から「土日祝日その他臨時休業あり」に、いたしました。
 
 近代歌人の中でも北原白秋、斎藤茂吉などは、エンペラむつひと御製に対して最大級の賛辞を捧げており、確かに十万も詠めば、中には傑作の一首二首生まれないはずはない。

 無芸大食の私には、短歌批評の芸もないのが当然で、古今新古今勅撰集の昔も知らず、近代短歌の他の歌人の作に比べてどうこうとも言えないのだが、とにかく、「アマチュア歌人で、一日二十首」という一点だけでも、評価するにやぶさかではない。
 くやしかったら、60年で十万首詠んでごらんあそばせ。
 ほら、雲の上人の話をしておりますれば、がさつな私のことばづかいまで、上品になってくるではございませんか。おホホホ、、、。

エンペラむつひと御製
 うつせみの代々木の里のなりどころ花の梢も苔むしにけり
 この朝けひとむらさめやふりつらむ樅のわかばに露のたまれる
 さしなみのとなりに通ふ道ならぬまがきの竹のひまの見ゆるは
 えびかづら色づきそめぬ山梨の里の秋かぜ寒くなるらし

 11月の声きけば、里の秋かぜ寒くなるらし。皆様風邪にご用心あそばされまして、ごきげんうるわしゅう、おかわりなきよう、おすごしくださりませ。かしこみかしこみたてまつりて、かしこ。

 かしこみ奉って、偽有栖川宮家の結婚式に参列された方々、ご苦労様でありました。雲の上を敬愛する心がありあまり、かくも世の人々を笑わせてくれるまで、こけにされた皆様の、耐えがたきを耐え忍びがたきを忍ばれるお姿、必ずや御稜威、オオミココロは愛で賜い、そのうち、大勲位などもらえるかもしれません。がんばってね。

 不思議の国のアリス皮のみや家の三月兎より


蛇の足跡五足目:三日休んで再開の「おいおい」である。「書いてある言葉、イミワカンネー」というご批判に答えて、本日は思い切って「脚注なしでは、意味不明」な文章にしてみた。文化の日だもんね。キョーヨー掻き出し炸裂である。

 イミワカンネーとお嘆きのあなた、今時、辞書百科事典が手許になくたって、Google検索すれば、どんな言葉もたちどころにイミがわかるのである。グーグルせよ。

1グループ動詞:ぐーぐる。活用:ぐーぐらない、ぐーぐった、ぐーぐる時、ぐーぐる、ぐーぐれば、ぐーぐれ
3グループ動詞:グーグルする。活用、ぐーぐるしない、ぐーぐるした、ぐーぐるする人ぐーぐるすれば、ぐーぐるしろ、ぐーぐるせよ)

 グーグルいやなら辞書を買おう。1万円もあれば、けっこうすぐれた機能の電子辞書が手に入る。私だってやっとの思いで圧力鍋を買ったのだ、あなたも電子辞書を買いなされ。

わかんなかったらグーグルしてほしいキーワードリスト。
その1:年寄り向けリスト 及川光博、ピューロランドのキティちゃん、イメージキャラクター、サブカルチャー
その2:若者むけリスト 文化住宅、文化鍋、文化包丁 山上の垂訓、天長節、アカ(昔特高がマークしたという意味で)、行啓御幸、教育勅語(我が皇祖皇宗)、吉原、太夫、起請文、上御一人、終戦詔勅(耐えがたきを耐え)、学徒動員、冷泉家、観世今春、宝刀友切丸、西武の堤、旧皇族邸宅買収のプリンスホテル

 宝刀友切丸のなんたるかを知らんでも、今日のオチは笑ってアゲルと思うのだが。もとい、笑ってもらえる、の間違いでした。「授受動詞文」は、教える側にとっても最初の関門。にほんごは、むずかしいのよぉ。

蛇の足跡6足目:文化の日、私は息子の学校の文化祭で、演劇やコントなどを楽しみました。息子のクラスは、三谷幸喜の傑作コメディ「Show musut go on 」を上演。おおいに笑ってきました。
 息子は「あまりにへたくそだったので、役をおろされてしまった大根役者」の役です。役を理解するために「この役、どんな人物として役作りすればいいの」と、演出担当のクラスメートに息子がたずねたところ、「あ、この大根役者、バカだから」「ってことは、役作りとしては」「地だよ、地、地のままやればいいってことだ」
 はい、地で馬鹿な大根役者を演じた息子、とてもいい演技でした。


ぢいさんばあさん
at 2003 11/05 09:08 編集

 かまとばあちゃんが亡くなった。(2003/10/31)男性長寿世界一だった中願寺雄吉さんに続いて、女性長寿世界一のかまとばあちゃんまで同じ年に亡くなるなんて、残念でならないが、こればかりは思し召しのままに。

 二日間続けて眠り二日続けて起きている、という日常生活を続けたかまとばあちゃんの姿をテレビで見るのが好きだった。きんさんぎんさんがアイドルになって以後、私たちにとって、高齢者アイドルは「私も行く末、あんなふうにおおらかに年をとりたい」という希望を持ち続けるために、なくてはならない、世の清涼剤。

 一方、電車の中でたまたま席をゆずったら、「あなたは親切でいい人だけど、うちの嫁ときたら、あなたと同じ年格好なのに、、、」と、ひたすら嫁の悪口をしゃべり続けていたおばあさん。他人に親切な私も、姑から見れば鬼嫁である。
 ディズニーパレード見物の場所取りに夢中になり、 孫のために見やすい席を確保しようとして、私をつきとばしたおばあさんもいた。いろんな姿のおばあさん。

 映画の中のおばあさん像もさまざま。
 おばあさんが主役を張り、すてきだった映画。『ハロルドとモード』(日本公開タイトル:少年は虹をわたる)のモード。アガサ・クリスティのおばあさん探偵ミス・マープル。『黄昏』のキャサリン・ヘプバーン。『八月の鯨』のリリアン・ギッシュ、ベティ・ディビス。おばあさんが主役でなく、脇役として活躍している映画なら、もっとたくさん。

 そんな映画のおばあさん像の中で、これはもう、わたし的には世界一、という主役おばあさんを見た。
 韓国映画『おばあちゃんの家』である。主演しているのは、映画出演どころか、映画を見ることさえ出来ない山奥の村で静かに暮らしてきた素人のおばあちゃん。このおばあちゃんが、ほんとにほんとにすてきだった。

 孫役を演じた子役も、数本のCMに出演した経験を持つのみ。おばあちゃんをはじめ、村人役は、みな素人。それを韓国の女性監督イ・ジョンヒャンは、すばらしい映画作品に仕上げた。おばあちゃん役キム・ウルブンが腰をかがめ杖をついて山道を歩いている姿を眺めているだけで、もうほかには何もいらないくらい、感動!である。

 ストーリーは単純。わがまま放題都会育ちのサンウという少年が、夏休みの間、おばあちゃんの家に預けられる。母一人子一人家庭の母が職探しをする間のやむえない措置である。サンウの母親にとって、17歳で家出したまま戻っていなかったオモニの家。

 その一夏の、孫とおばあちゃん、周囲の村人とのふれあい。でも、まあ、ストーリーを知るよりも、とにかくおばあちゃんの姿を知ってほしい。

 おばあちゃんは、聾唖者だ。しゃべれず、わずかなジェスチャーで伝えるのみ。でも、おばあちゃんの手が、笑顔が、足取りが、どんな言葉よりも雄弁に孫への無限の愛を伝える。

 今年はたくさん映画を見たが、その中で私にとってはベストワンと言ってもいいくらい。
 キム・ウルブンが演じるハルモニを見て、幼かったころの私のおばあちゃんを思い出す。

 母方の祖父は芝居道楽だった。有り金すべて「農村歌舞伎」復興のためにつぎ込んで、戦中戦後途絶えていた、地域の農村歌舞伎を再興した。

 嫁に出した娘のところの外孫に、ただの一度もこずかいをくれなかった竹じいさん。姉も私もお年玉さえもらったことがなかった。

 妹は、田舎の農村歌舞伎を継承している人に会ったとき、「この小道具もこの衣装も、みんな竹さんが自前で買いそろえてくれたものだ」と聞かされた。
 小道具の名宝友切丸の一本は、きっと私のお年玉になるはずだったお金で買ったんだわ。桜姫のかんざしも、弁天小僧の唐傘も。

 家計費はぎりぎりしか渡されず、やりくりに苦労した梅ばあちゃん。義太夫を語り、踊りを踊ってすごす竹じいさんに泣かされ続きだった。
 梅ばあちゃんは、ぐちぐちと夫の道楽をこぼしながら、私たちに紙人形を作ってくれたり、竹が全部芝居に注ぎ込んでしまって残り少ない現金の中から工面して、私と姉にこずかいを渡してくれたりした。私の母は、そんな愚痴を聞いてあげ、梅ばあちゃんが私たちにくれた以上のおこずかいを渡して田舎に帰した。

 父方の祖母は写真を見ただけ。父が2歳の時に病没した。姑にいびり抜かれて、病気がちになったとも聞く。姑というのは、10/17「ルーツ」項に登場した父の祖母、私の曾祖母である。曾祖母が田舎の素封家の出身でありながら、破産して没落した話を書いた。

 曾祖母といっても、自分は17歳で長男を生み、長男は20歳のときに「恋愛結婚」で私の父をもうけたから、37歳で孫を持ったおばあちゃんである。私が息子を生んだのが39歳のとき。
 父は、ずっと祖母を母親だと信じて育ち、母(実は祖母)への恩愛の念は人一倍強かった。「おいえ」を再興して祖母の無念をはらすのが、父にとって生涯の課題となった。

 祖父の結婚は「自由恋愛結婚」。当時で言えば「出来合いのくっつきあい」であったから、もう、曾祖母の気に入らないこと、おびただしい。

 自分の代で身上をつぶしたという負い目のある曾祖母の生き甲斐は、自分が生きているうちに「うだつ」の上がった家を建て直すことだった。そんな「くっつきあい」の自由をゆるしていては、お家再興はのぞめない。

 曾祖母は、長男の嫁が気に食わず、いびり通した。わずか2歳の息子を残して病没した私の祖母、旧姓「長沼はん」。はんの弟が本庄在で薬問屋をしていたという以外の情報を、私も知らない。
 おっとりした笑顔の美しい写真が一枚残されているだけで、実母についての質問は曾祖母が許さなかったから、父は母親の墓がどこにあるのかも知らないままだった。

 曾祖母は「つぶしてしまった家だから」と、生涯「表紋」を着物につけず「裏紋」しか用いなかった。父は曾祖母が亡くなった後、「もう、いいだろ」と、表紋の「抱沢潟」に戻した。

 「うだつ」を上げたわけではなかったが、曾祖母亡き後はもう「破産した家柄」と負い目を持つこともない。もともと裸一貫の家であることを誇ればよい。

 祖父は、長沼はんが死んだのち、嫁を四度むかえた。ふたりめの妻も、三人目四人目も、姑のいびりに耐えられず、すぐに逃げ出した。五人目がようやく居着いた。五人目は、姑以上に強かった。

 姑との別居を結婚の条件とし、先妻が生んだ継子を育てることはしない、と言い切った。それで父は祖母が育てることになったのだ。
 曾祖母との軋轢が続いたのだろう、後妻は父の弟妹5人をもうけたが、15年間父と会わせなかった。異母弟たちは、自分たちに年の離れた兄がいることを知らなかった。

 曾祖母は、孫息子の嫁も気に入らなかった。嫁いですぐに姉と私を生んだ母が、またもや「嫁いびり」で参りそうになっているのを見て、祖父は父に「ばあさんとの別居」を申しつけた。
 自分の嫁、はんが病気で亡くなったことを、祖父はずっと悔やんでいたのだろう。

 私が4歳のとき、父は恩愛断ち切って曾祖母と別居した。私たちは「核家族」となって新築した家に引っ越した。

 あまりに急いで引っ越したため、最初の晩、電灯が通じていなかった。真っ暗な家の中で、ろうそくをたよりにお手洗いへ行ったことを鮮明に覚えている。

 曾祖母は、田舎の旧家で育った矜持の高さと、自分の代で没落したという負い目がないまぜになった屈折した感情を持ち続けたから、子供心に「こわいおばあさん」であり、姉も妹もなつかなかった。

 私だけは12歳のときに曾祖母が亡くなるまで「この子が、男であったなら、必ずふたたびうだつの上がった家にしたろうに」と言われ、けっこうかわいがられた。

 曾祖母の気に入らなかった孫嫁である私の母は、娘三人だけを生んで、ついに「男の子」は生まなかったから、私が「男まさり」でお家再興をめざすほかなかった。

 「お家再興」なったか。ハッハッ!半年間、こわれた圧力釜を買い換える金もなかったことは、昨日書いた。

 うだつがあがらずとも、血糖値は毎年上がっている。おお、こわっ!気を付けよう、無芸大食ふとりすぎ。

☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.40
(も)森鴎外『ぢいさんばあさん』
 日本文学史上、一番「きが多かった人は誰か」というとんちクイズがある。今は昔男ありけりの在原業平か、光源氏か世之介か。
 答えは森鴎外。「そのココロは」「本名、森林太郎で、木が五本」はい、おそまつ。

 きが多かった森林太郎、ドイツ留学先で恋仲になった女(『舞姫』エリスのモデル)を、「出世のさまたげ」として日本から追い返したことは、10/18に書いた。

 林太郎が最初にめとった妻は、男爵家令嬢赤松登志子。長男於菟を得ると同時に離婚。林太郎28歳のときのこと。

 この後、林太郎は登志子が亡くなるまで妻帯せず、登志子死去の後、ようやく40歳で19歳年下の志げを妻とした。
 登志子が亡くなるまで妻帯しなかったのは、男爵家への遠慮であるという説もあるし、自分は惚れていたのに母親が嫁を気に入らないためにやむなく離縁したのであって、登志子が死ぬまで後妻を入れなかったのは、嫁を追い出した母へのあてつけである、という説も。

 若い志げは、すぐに長女茉莉を生み、鴎外は子煩悩のよきパパとして幸福な家庭生活を営んだ。

 家庭だけでなく、文学者としても軍医としても功なり名遂げた鴎外であるが、ただひとつの「負け」となったのが、「かっけの原因」をさぐる医学論争である。

 「ビタミンB不足がかっけの原因」という、現在では定説となった正解に対して、鴎外はあくまでも「細菌説」を引っ込めなかった。

 明治時代、兵士たちの「かっけ病」は、大きな問題であった。兵員の3割がかっけのために戦力とならず、かっけを克服せずには富国強兵が望めなかったのだ。

 鴎外の「細菌説」に反対したのは、高木兼寛。薩摩藩士の子として生まれ、海軍医学校に進んだ。イギリス医学を学んだ高木は、かっけの原因が栄養のアンバランスにあると確信し、兵食の改善を提起した。

 森鴎外らのドイツ医学による細菌説が優位であったため、栄養実験船「筑波」を出港させ、兵食の改善による“脚気撲滅”を立証した。鴎外の敗北であった。
 この後、高木は東京慈恵会医科大学を創設。さらに、わが国最初の看護学校を設立した。

  鴎外は自分の墓に「森林太郎の墓」という文字のほか記させなかった。
 あらゆる名誉も従二位の勲位も自分を飾ることばとしなかったのである。いさぎよい終わり方である。

 大勲位が大好きなあの方は、大きなお墓に「大勲位、純ちゃんに公認断られて憤死」という墓銘碑を書くかしら。あ、まだ死んでませんけど。

鴎外の遺言全文
 余ハ少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ一切秘密無ク交際シタル友ハ賀古鶴所君ナリコヽニ死ニ臨ンテ賀古君ノ一筆ヲ煩ハス死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ奈何ナル官憲威力ト雖此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス宮内省陸軍皆縁故アレドモ生死別ルヽ瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辭ス森林太郎トシテ死セントス墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラス書ハ中村不折ニ依託シ宮内省陸軍ノ榮典ハ絶対ニ取リヤメヲ請フ手続ハソレゾレアルベシコレ唯一ノ友人ニ云ヒ残スモノニシテ何人ノ容喙ヲモ許サス
  大正十一年七月六日 森林太郎言
と、カタカナ混じりで書かれても「イミワカンネー」であるので、遺言の要所を現代語訳する。
 私は石見の人森林太郎として死にたいと思う。
 宮内庁や陸軍などに縁故があるけれども、生と死の別れる瞬間にはすべての外形的な取り扱いを辞退する。森林太郎として死ぬ墓には「森林太郎墓」とだけ彫り、それ以外一字も彫ってはならない。書は中村不折に依託し、宮内省陸軍の栄典は絶対に取りやめることを願う。

 「石見の人」として死ぬという森鴎外、享年60歳。現代の感覚でいえば、まだ「ぢいさん」と呼ぶには早い年齢であったが。

 鴎外の『ぢいさんばあさん』は、藩士との争いから蟄居を言いつけられた夫と37年も別居した妻の物語。

 別居の間、妻は姑と息子の死をみとり、子亡きあとは御殿女中奉公をして夫を待つ。37年後にやっと夫の蟄居が許された後は、隠居所に同居して仲良く老後を過ごす、という短編。

 『ぢいさんばあさん』を読むたびに「私だって37年間くらいは、帰らぬ夫を待つことにしましょう」と思うのだが、うちの場合、蟄居閉門でやむなく離ればなれというのではない。
 帰る気になれば地下鉄で16分という距離の事務所に泊まり込みで仕事を続けているワーカホリック夫が勝手に帰ってこないだけである。

 世の奥様方の中には子育てに時間をとられるほか、「お茶!」「新聞!」などとわがまま放題の夫に三つ指ついてお仕えする時間をとられる方もおいでだろう。

 私は「夫のお守り」の必要がないので、子供の相手だけすればよかった。(その代わり、一度たりとも子供のおむつを替えたことも、おふろに入って子供を洗ってあげることもしなかった夫をあてにせず、家事育児はすべてひとりでやるしかなかったけど)

 しかし、子供にしか目を向けていなかったので、子供が巣立ったあと「空の巣症候群」になること必定。「空の巣症候群にかからぬためのひまつぶし」準備のためにホームページ作成をはじめたのである。

 ホームページに書いた事すべてが、もしかしたら、帰らぬ夫へのラブレターかもしれない。37年後には「ぢいさんばあさん」のように、長い別居などなかったかのように仲むつまじく過ごせる日を夢見ながら。

 若い頃の私は「鉄の女」と評された。
 サッチャー政権誕生以前のことだが、たたくとキンコンカンと音がする堅さに加えて、父が鉄鋼労連だったことからのあだ名である。

 男達は「あんたがそこに立っているだけで、怖い」と近づきもしなかった。
 女は自分の意見など述べる必要はなく、「あたし、難しいことはよくわかんないけど、あんたが正しいと思うわ」と、うっとりした目をして男を眺めているほうがモテる、という時代だった。

 たった一人、ナイロビ下町で道に迷った私を親切に案内してくれたのが、ケニアで出会った夫である。夫は「自前の意見を述べる女」を怖がらず、議論につきあってくれた。(10/19)の項参照。

 「割れた文化鍋に綴じ蓋」と言われた、似合いのカップルであった日も、今は遠い。
 「ぢいさんばあさん」として仲良く暮らせる日が、いつの日か、やってくるのだろうか。

 でもね、37年も待つなら、その間に新しい恋も必要よねぇ!「晩年の恋」に3票め! 私を怖がらない人がいるなら、晩年の恋も生まれるでしょうに、ヤバイ! 10/29の項、蛇の足跡で、「舐めんなよ」なんてタンカを切ってしまった。
 またまた「こわい女」という、あらぬ評判を増やしてしまった。本当の私は、怖くなんてないんです。しおらしく、内気なひきこもり女ですのよ。シオシオ(と手弱女ぶり)。

 そこの、どっと引いてしまった、あなた。ま、ま、もそっと近こう寄りなさい。手荒なことはしませんて。そう固くならずに、ほらほら、、、と、おそばににじり寄り無理矢理我が身を叩いてもらうと、キン、コ〜ン。響き渡るは、鐘ふたつ。
 「はい、残念でしたね、鐘ふたつ、合格なりませんでしたっ。おところお名前をどうぞ、またのお越しをお待ちしています。今日のゲストは、森鴎外さんと高木兼寛さんでしたあ。また、らいしゅうっっ!」って、明日も読んでね。

蛇の足跡8足目:う〜ん、鐘ふたつ不合格は納得いかない。次は女ののど自慢C賞に挑戦だ!
 「♪つまずいて 傷ついて 泣き叫んでも さわやかな希望の 匂いがする  人はみな 悩みの中 あの鐘を鳴らすのは あなた あなたに逢えて よかった  愛しあう心が 戻って来る  やさしさや いたわりや ふれあう事を 信じたい心が 戻って来る♪」
 もどってぇ〜 あなたあああ!! 戻る気があるなら、地下鉄で16分!
 以上「女ののど自慢」C賞に挑戦でした。

 蛇の足跡8足目:トリビアの泉情報。昔むかしあるところのじいさんばあさんが、川からどんぶらこと流れてきた桃を拾いました。二つに切ったら、中からかわいい桃太郎が。
 というのは、文部省が「教育上不適切な部分」を改ざんした真っ赤なうそ。

 本当の桃太郎は、桃を食べて若返ったじいさんばあさん、たちまち若い頃の「ねぇ、あなた、今夜は燃えたいの」を復活させて、ふたり励んで作った子であったのだ。

 国定教科書に「うん、おまえ、灰になるまで燃えようぜ」なんて、教育上不適切な表現は許されなかったのである。

 みなさん、旧文部省の教えによれば、子供はメイクラブの結果生まれるんじゃなくて、桃からですよ。桃。

 お子さんに「ぼく、どこから生まれてきたの」と質問されたら、「桃からに決まっているじゃないか、ハッハッハ」と、正しい教育をいたしましょう。
 もちろん、おかわいらしいアイコサマも、最新医学の成果によってお生まれになったのではなく、桃から生まれたのである。

 あっ、また春庭に爆弾が!平和を愛する庭なんですから、爆弾テポドン、ノーサンキュー!


山姥!おばあさんと呼ばれる日
at 2003 11/06 21:24 編集

 11/05は、私の母方父方の祖母について書いた。
 子供時代、おばあさんの膝に抱かれていたころは、自分もやがてはおばあさんになるのだなんて、とうてい思えなかった。しかし、もう「おばあさん」は目前。

 息子はまだ中学生だし、自分の孫から「おばあさん」と呼ばれる日は、もう少しあとのことになるだろう。

 が、日本語では親族を呼ぶ「おばあさん」「おばさん」「お姉さん」などが、他人に呼びかける言葉としても使われている。

 八百屋の店先では「お姉さん、大根安いよ」なんて呼び止められている私も、やがては電車の中で若者に「おばあさん、ここどうぞ」と席を譲られて、きっとなり「わたくし、あなたのような孫を持った覚えがございませんので、あなた様からおばあさんと呼ばれる筋合いはございません」とかなんとか言いながら、ずうずうしくも座席にどっしり腰を据える、イヤミな婆あになるに違いない。

 女性には2度の年齢ショックがある。最初は30歳前後のとき。
 見知らぬよその子供から「おばさん」と呼び止められて、ショック!
 「あたしがオバサンだってえ。ちょっと、そこのガキ!いったいどこ見てあたしをオバサン呼ばわりするのよ!こんなに若くて美しいのに」

 2度目は、見知らぬ他人から「おばあさん」と呼びかけられたとき。
 「ちょっとぉ、いったいどこ見て私を〜以下同文」

 25歳のとき姪が誕生して、めでたく私は叔母さんになったのだが、ガンとして姪には叔母さんと呼ばせなかった。「おねえちゃん」と呼ばせていたのだ。
 自分が母親になってから、ようよう姪から叔母ちゃんと呼ばれても気にならなくなった。

 息子が遅く生まれて、まだ中学生であるのをいいことに、何かの集まりで年齢さぐり出しトークになると「中学生の息子がいるんですが、これが少しも勉強しませんで、、、」などと言うことにしている。

 すると敵は「中学生を持つ母親ならだいたい、40代、いや22歳で生んで中学1年生の母親なら、13を足して35歳くらいか」なんて勘定しているのがわかる。

 フッフッフ。公称35歳。
 ところが、第2番目のショック!がついに来た。

 11/03に、息子の学校文化祭へ行ってクラスで上演した演劇を見た話を書いた。
 三谷幸喜の脚本が実にうまくて、とにかく笑いっぱなし。ほんとにうまい喜劇作家だ。

 マクベスを演じる一座をめぐるシチュエーションコメディなのだが、セリフのくすぐりやパロディに大ウケ。

 息子は「役をおろされた大根役者」の役なので、自分の出番のほかは奥へはいってしまう。息子が出ていない場面が退屈になるんじゃないかという心配はふっとんだ。

 他の観客は笑わず、私だけが笑い出すこともある。たぶん、中学生には昔のギャグやパロディはわからないし、「軽井沢夫人」なんてセリフで笑えるのは、むかし日活ロマンポルノを見たか、現在クドカンドラマ「マンハッタンラブ」を見ているかだ。

 マクベスがパロディで「もしも明日があるのなら、思いのすべてを言葉にして、君に届けることだろう」なんて、セリフを言ったとき、西田敏行の「♪もしもピアノが弾けたなら、思いのすべてを歌にして〜」というのが思い出されてクスクスッ。でも、中学生達にはこの歌わからない。うまれる前の歌だもの。

 私が笑い出すと、他の人もつられて笑うっていうこともあった。中学生の稚拙な演技でもこれほど笑えるってことは、三谷幸喜は天才だ。

 誰よりも大笑いをして帰宅した。笑うのが大好き。笑うと免疫力が高まり、寿命が延びる。笑いは長寿の元である。
 役者は観客に支えられ、観客は役者の演技で寿命を延ばす。

 劇が終わって帰宅した息子に、「どうだった、うまく演じられた?」と、感想を聞く。
 「うん、僕はね。うまくいった。ぼくのセリフ客によくうけてたし。ぼくは裏にひっこんじゃうから、他の人がでているときのことわからないけど、ソンチョーの話だとね。ひとりよく笑ってくれる観客がいて、笑いの起爆剤になってありがたかったけど、おばあさんだから、笑いのテンポが半テンポずれるんだって。そいでもって他の観客がおばあさんにつられて笑うから、観客が笑うころには次のセリフがかぶってしまって、やりずらいったらありゃしない、って言ってた」

 ちょっと待ったあぁぁ!そのおばあさんってのは、まさかまさか、私のことじゃあるまいか?

 村長がうちに遊びに来たとき、私は家にいなかった。
 私は息子の親友村長の顔をよく知っているが、村長は私を知らない。村長は大笑いをしている私を見て、「なんだい、このおばあさんの大笑い」と思いながら演技していたのだ。

 おばあさんだってぇえええ!いったい私のどこ見て、おばあさん呼ばわり、、、と鏡をみれば、皺白髪、、、、そりゃねぇ、見たままを口にする心正しき中学生の感想!

 年齢からいえば、確かにクラスメートのお母さんの中で、私が一番年寄りだ。村長のママなんて、すごく若くてきれい。自分のママから見たら、私がおばあさんに見えたのは、仕方があるまい。私は息子を39歳で生んだのだ。
 私の中学生のときのクラスメートの一人は、39歳のとき、孫が誕生していた。

 というわけで、11/03文化の日は、「春庭、はじめて人様からおばあさんと呼ばれた日、記念日」になったのでした。

<あひるの昼寝Duck抱く駄句>
 遠き日を笈に拾うて明治節(明治は遠くなりにけりのココロ)
 文化の日 老婆は一日にしてならず(樋口恵子に一票)
 おいおいと老いにも慣れて栗ひろう(マロングラッセ大好きです)
 門跡尼寺の細き裏道吾亦紅(皇室ゴシップ大好きなので、河原敏明『昭和天皇の妹君』を買ってしまった)
 菊見事死ぬときは出来るだけ派手に(日野草城のパロディ、11月25日は三島命日)
 亡き母の年を数える十三夜(11月25日が母の誕生日。三島命日といっしょ)
 マクベスの長き台詞や桐一葉(『桐一葉』『マクベス評釈の緒言』の著者は逍遥)

☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.41
(や)山崎正和『世阿弥』

 10/26に、姑と『わらびのこう』を見た話を書いた。
 この映画の中で、市原悦子演じるれんが、山中で生き別れの義妹に出会う。義妹は婚家を出されたあと、里に帰るに帰れず、山の中にひそんで山姥となって生きる。

 山は里に生きられぬ女をそのふところに迎え入れ、山の幸をめぐんでくれたのだ。左時枝演じる山姥は、絵本の中でみた山姥さながらの迫力。
 娘が幼かったとき、山姥がでてくる「日本昔話」を見て大泣きし、夜泣きが続いたことなど思い出した。
 山姥は、各地の伝説に残る山の中に住む老婆。

 世阿弥の能『山姥』は、今の新潟県青海町大字上路を舞台にしている。

 前場。ツレは百万山姥という名の遊女。曲舞(くせまい)の名人で「山姥の山巡り」の舞で評判をとっている。

 百万とお供の一行が善光寺詣のため上路を通る。けわしい山道に都会ものが難儀しているうち日が暮れるが、山の女が宿を貸す。山の女(前シテ)は、自分こそが真の山姥であり、百万が自分を題材にした曲舞で名を上げながら、山姥の心を解していないと恨みを述べる。

 後場では、百万山姥一行が待つうちに、山の女の真の姿、山姥が現れる。その姿は、自然の力を越えたおそろしくおどろおどろしいもの。山姥は山巡りのようすを一行に見せ、自然の秘めた深く壮大な哲理を知らせて山の奥深く姿を消す。

 各地の民話では山姥は私の娘が泣き出したような「人や牛をとって喰う」恐ろしい存在として描かれることが多い。
 だが、世阿弥の描き出した山姥は、もっと深いものを感じさせる。人の世の善悪正邪を越えた、超自然の存在、山野に普遍し季節の巡航の中で巡り来るマレビトの仲間。

 能の詞章である謡曲は、流派に伝えられるうち、上演台本として改変が加えられたり、他の作品、ときには他の作者の作品と組み合わされたりして、元の作者がはっきりわかっていないものも多い。

 能といえば「観阿弥世阿弥」と並び讃えられていながら、世阿弥元清の作だとはっきりしているものは数少ない。『山姥』は、世阿弥の作品であることがはっきりしているもののひとつだ。

 足利将軍義満の愛顧を得た世阿弥、義満没後はあとを継いだ義嗣にうとまれ、佐渡に流される。佐渡でどのように長い配流の生活をおくったのか、などもはっきりわかる資料が少ない。

 それだけに世阿弥の生涯は作家の創作意欲をかき立てる。世阿弥を描いた作品で私が好きなのは杉本苑子の小説『華の碑文・世阿弥元清』だ。

 戯曲では、山崎正和の『世阿弥』。「見られる側の人間」「演じる側の人間」として、権力者の影の存在にあまんじつつ、己の人間存在を大成させる芸能者を描いている。

 ラストシーン、義満の影として演じることをいさぎよしとせず、己を光りの存在としたかった元雅の亡霊、世阿弥をうとんじた義嗣の亡霊が現れる。

 義嗣は「そなたが影法師である限り、そなたに写されてとどまる限り、光りたる者に眠りはない」とうめく。

 いつの世も、光と影は反転する。聖と賤、正と邪、善と悪、清と汚、、、、。人は皆、二面の体と心を持ち、二面が反転し、一転二転、また三転。ころころと、こけつまろびつ生きていくのである。

 生き続けて、聖者のごとき清らかな肉体と心を示す者もいようし、汚濁汚辱のなかにのたうち回るような者もいる。

 むろん、私は猥雑汚濁のごみための中ではい回り、パソコンのごみ箱処理も満足にできないで、「パソコンわかんないんですぅ」と、嘆きつつ、ひとりぬる夜のあくる間はいかに久しき今夜も、「春庭今日も一日中、心も頭もポカポカです」なんぞという足跡をつけてまわるのである。

 今夜もポカポカ。ほっかほかカイロがそろそろ恋しい季節ですね。温ったまったところで、本日はこれでおしまい。 


シニア海外協力隊
at 2003 11/08 06:43 編集

 日本語のイロハも知らない留学生に、初日に教え込まなければならないこと。90分ヒトコマで、「N=N」の文型、名詞繋辞文(copura文)を教える。

 どうです、日本語を教えるなんて、日本語話せたらだれでもできると思っている方、繋辞コピュラ文なんて言葉をきくと、なんだか難しそうで、たいへんそうに思いませんか。ハッハッ、ちょっとこけおどしをしてみたかっただけ。

 要するに、「私は○○です」「国は○○です」という、名詞=名詞、英語で言えば、I am Bety.I am a girl.から始めるということですな。(ジャック&ベティで、英語を始めたと言う方、ご長命およろこび申し上げます)

 ほんとは、日本語話せれば、だれでも日本語教えられます。ただし、それは1対1の「スペシャル個人授業」の場合に効果が上がる。

 外国語を学ぶのに二番目にいい方法は、学びたいと思う国の言葉でポルノ小説を読みふけることだという。

 前後の単語が分らなくても、ずんずんと気にせず読み進めれば、「ハハン、この言葉は、こう腕を背に回して、こうあぐらの上に乗せて、おぅ、おぅ、これは、忍び居茶臼じゃありませんか!おお、これは尺八演奏、春の海」という具合に、理解が早い。(この部分、さっぱり理解できなかった心正しき方々、気にせず、先をお読みください)

 そしてポルノより効果的な、一番目にいい方法は、学びたい言葉を話す恋人と同居することである。

 逆もまた真なり。誰かが学びたいと思っていることばをしゃべれさえすれば、人はだれでも自分の恋人の優秀な語学教師となれる。

 ただし、1対1じゃない教室で、何人かの学生相手に、しかも特別日本語を学びたかったワケじゃないのに、一番必要だったUSA留学の奨学金はライバルに取られてしまい、しかたがなく、ま、日本でもいいか、なんて動機で来日した留学生相手に、4ヶ月のコースで初級修了まで教えるのは容易なことではない。

 初級修了というのは、日本の中学生が英語を習うのにたとえると、中学3年間で習う内容の英語と同程度の日本語力、ということである。日本の中学生が3年かけて覚える初級語学を、日本語コースでは、集中コースは3〜4ヶ月、一般コースだと1年で修了する。

 もっとも、週に3時間や4時間しか英語の授業が受けられない中学生と、1日に、50分授業を4〜5コマ、または90分授業3コマを1週間に5日受けるのと、時間数はあまり変わらない。

 だいたい初級語学は300時間程度で教えるというのが多い。日本の中学校英語も、3年間でおよそ300時間の授業だ。

 「日本語教育能力検定」という日本語教師の試験に合格するのは、本当に大変。
 毎年6千人から7千人が受験して、合格は千人程度、合格率15%くらい。

 言語学、日本語文法、音声学、語彙論意味論、言語対照論、異文化理解教育、外国語教授法、日本の文化、文学歴史などなどを頭の中に詰め込んで、教育実習で授業もやってみて、それでもなかなか合格しない。
 試験は朝9時から、夕方5時すぎまで、丸一日かかる。

 私は1988年に第1回目の試験に合格した。試験制度がはじまったばかりで、試験官もどんな設問が適切なのか、試行錯誤の混乱の間に合格しちまった、早い者勝ちである。
 合格したとき、娘は4歳。日本語教師としては遅いスタートだった。
 
 しかし、何事をも、新しくはじめようと思い立ったときからが青春。 
 私が日本語教授法を受け持っているクラスに、50代の男性がいる。日本語教師の資格を得たら、海外で教えてみたいとはりきり、海外で日本文化を指導するときに備えて、お茶の稽古、着物の着付けも習っている。

 私の従姉妹が青年海外協力隊のハイスクール理科教師をしていたことを10/21に書いた。青年協力隊は40歳までだが、シニア協力隊は40歳から60歳過ぎまでOK。

 定年を迎えた後、自分の技術や特技を海外でもう一度役立てたいという多くの方が、協力隊員として活躍している。

 旅をするのもひとつのすてきな生き方だし、年金で悠々生活もうらやましい。もうひとつ、シニア海外協力隊というのも、選択肢のひとつとして、老後の過ごし方リストに加えておきたい。

 海外で教えることができる技術を持っている方はぜひご一考を。
 ただし、日本語教育での参加はきわめて難しい。

 JAICAが出しているシニア協力隊参加の質問回答で、日本語教育については次のように答えている。

 日本語教育は、毎回応募者が最も多い人気科目の一つです。
日本語教師として派遣されるには、以下の条件が揃っていないと難しいでしょう。

(1)外国人に対する日本語教育の経験(フルタイムで3年以上)
(2)日本語教育能力検定試験合格
(3)日本語教師養成講座420時間修了
(4)当該国の語学力
ただし、(2)については必ずというわけではありません。

 日本語が話せるからという理由での応募は、避けた方が賢明です。また、経験のない人が「経験不問」とある要請に応募しても、経験を有する応募者と競合することになれば合格することは難しいでしょう。
 
日本語教育には応募者が多いため、選考委員から技術問題が出題されます。設問の一部を掲載しますので、参考にしてください。第二次選考時に日本語教育の応募者のみ技術面での面接も実施します。
<技術問題の出題例 >
 第一言語習得における文法の役割と第二言語習得(学習)における文法の役割について知るところを整理して述べてください。
(以上、JAICAシニアボランティア質問コーナーより)

 うっひゃー、難しい!と感じた方。(4)の、「当該国の語学力」を身につけるため、最初は、その言葉を話す人と親しくおつきあいをしながら習うところから始めるのが、一番楽しいような気がします。
 日本語教師をめざすにも、まずは恋人探しから。

☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.42
(や)山口昌男『道化的世界』
 私は、日本語教師になるつもりはなかった。たまたまの巡り合わせでこうなってしまったのだ。

 子供のころ、成りたかったのは「探検家旅行家」だった。

 小学校時代の夢。1,童話作家。アンデルセンのように旅をして、飛行鞄や吟遊詩人みたいなお話を書く。(小学校の間、ノートに自作の童話を書きためていた)2,スタンレーのようなジャーナリストになって、アフリカ探検に行く。(卒業文集にはジャーナリストになる、と書いた)

 中学生時代。3,スウェン・ヘディンが、ロプ湖を発見したように、考古学者になって桜蘭やゴビ砂漠を旅する。

 高校生のころ。4,泉靖一のような文化人類学者になってインカやアステカを調査する。

 20歳ころ。5,トール・ヘイエルダールのような海洋人類学者になって、葦船やいかだで航海する。

 30歳前。6,川田順造・山口昌男のような文化人類学者、神話学者になってアフリカ世界を調査する。

 夢見るころを過ぎて、振り返れば、1から6まで、何ひとつ実現しなかった。

 ころころと目標人物が変わったが、一貫しているのは「遠くへ行きたい」ということだった。今でもむろん、夢を見ている。いつか必ず世界を放浪、右手に『地球の歩き方』左手にはデジカメ持って。

 『地球の歩き方』は別名『地球の迷い方』。
 この本片手に旅をして、迷ったヤツは数しれず。迷った人ごめんなさい。夫はダイヤモンドビッグ社の下請けです。本の奥付にある社名は、Free lance shield をもじった私のネーミング。

 夫と出会ったのはケニアのナイロビ。山口昌男の『アフリカの神話的世界』にあこがれてアフリカに行ったものの、神話学も演劇人類学も落っことして、夫を拾って帰ったことは10/19ほか何度か書いた。

 山口昌男の著作、一番最初に読んだのは『アフリカの神話的世界』。それから1977年以前に読んだ本をあげると、『人類学的思考』『歴史・祝祭・神話』『文化と両義性』『道化的世界』『道化の民族学』『知の祝祭』など。

 山口は、道化トリックスターをとりあげ、世の中の事象をあざやかに解説して見せた。
 山口やその他の文化人類学関連書を読んでのち、フレイザー『金枝篇』を読んだときにはさっぱり理解できなかった世界が、見渡せるようになった。

 一度だけ、山口のすぐそばに腰を下ろしたことがある。岩手県遠野へ早池峰神楽を見に行ったときのこと。芸能人類学をめざして、能狂言、歌舞伎、民俗学、伝統芸能などを学んでいた頃だ。

 早池峰には山伏神楽と神人神楽のふたつがあるというのだが、私が見たのがどちらなのか、覚えていない。

 学生達は板の間にぎゅうぎゅう詰めに座って、神楽が演じられるのを見ていた。神楽もすばらしかったのだが、私はなんとかして山口昌男にミーハーファンとして話しかけられないかとチャンスをうかがい、気もそぞろ。

 神楽は、延々と演じられる。能狂言を教わっている教授に連れられてきた私たちは、教授が全部最後まで見る、というので、席を立つわけにはいかない。
 しかし、山口昌男は教授と話を続け、「さわり」の部分だけ見ると、さっさと席をたって出ていってしまった。

 能狂言を学ぶにも、山口の『道化的世界』の中の「能の神話的古層」を読むことで、能舞台の松にもまったく異なる光があたる気がした。しかし、よく理解できないことも多かった。

 「山口的世界」が本当によく理解できるようになったのは、言語学を学びなおして、記号論が理解できるようになってからだった。

 山口は「一つの文化の中に生きている人間の世界についてのイメージ、(これを「宇宙観」「世界観」と呼ぶ)を再構築しようという試みが顕著になりつつある」と「能の神話的古層」の冒頭で述べている。

 こういう内容、1977年ころの私の頭には、理解するのが難しかった。いったり何を言っているのか。世界観?宇宙観?再構築?

 しかし、今や中学生までが「このFF9の世界観が好きだ」などと、「世界観の再構築」などについて熱く語り合っているのだ。息子たちのゲームバーチャル世界での話である。

 「聖剣伝説の世界観ではね。世界はイメージで成立しているんだ。だから、自分がイメージできないことは、存在していないってことだし、自分がゲーム世界で演じているってことは、すなわちイメージが構築できているってことなんだよ。ただし、主人公は、プレイヤー自身の個人的背景を投入することによって存在できて、、、、」などと、息子に熱く語られても、さっぱり「ゲーム的世界」「世界の再構築」が理解できないのだ。

 「あんたらのやってること、言ってること、まったくわからん」というのは、30年前に私たちも言われたことなんだけどね。かくして世代は交代し、かくのごとくに季節はめぐる。
 ふぅ、団塊の世代の「働き盛り時代」も、まもなく終わる。季節はめぐり、廻ってゆく。もうすぐ冬がくるんです。冬支度はOK?こたつ出した?電気毛布にホッカイロは?。

 でも、木枯らし吹くのはもうちょっと待って!来週、日本事情の授業は教室飛び出る。戸外でピクニックしながら日本文化のレポート発表するって、留学生と約束しちゃった。「こども動物園」で、お弁当食べながらの授業です。ぽかぽか小春日和の日だといいな。春庭いつでもポカポカです。主に頭が。


アインシュタインロマン
at 2003 11/10 05:09 編集

 優秀な人ほど短期間で卒業する。私が出講している大学のひとつには、高校2年生修了から飛び級で大学に入学し、大学3年修了後また飛び級で大学院へ。23歳で博士課程を修了して、まもなく博士号を取得、という超優秀な学生もいる。

 私は鈍才。私立の大学と大学院、国立の大学と大学院で、合計14年間も教育を受けた。この話を留学生にすると、「勉強が好きだったんですねぇ」という感想が返る。

 勉強は楽しかった。でも、要領悪く、好きなことだけしていたから、他の人のようにさっさと必要な単位を取得し、さっさと学位をめざしていく、という器用なことができなかった。

 パチンコが好きな人、競馬が好きな人、カラオケが好きな人、趣味や嗜好、すきなこと人さまざまでいいと思う。

 でも、釣り好きやカラオケ好きは特別変な目で見られることはないのに、勉強が楽しいというと、ちょっとコイツとはつきあえんな、という目で見られてしまう。勉強だって、好きなことを続けるのは、そんなに特別なことじゃないのに。

 私はジャズダンスも続けている。ダンスも好き、朗読も好き、好奇心いっぱいに新しいことを覚えるのが大好き。そして知ったかぶりの蘊蓄たれが、だあい好き。
 
 人が勉強するのは、一流大学に入って一流会社に就職して、出世の階段登るため?
 私は、卒業7回(小学校中学校高校職業専修校私立大学国立大学大学院)。専攻替え3回。日本古代文学、演劇人類学、日本語文法日本語教育。ものにならないまま専門がコロコロ変わった。

 14年もかかって博士にも届かず修士号どまり。能率悪く、使いものにならなかった私の学問。でも、自分が楽しんだ。それでいい。

 学校の勉強というとき、思い出す人。山元延春(まさはる)さん。テレビ新聞に取り上げられたのでご記憶の人も多いだろう。予定通りのコースじゃなくても、学びたいことが見つかったときが、勉強するとき。そんな勉強の本質を見事に見せてくれた人だった。 

 延春さん、小学校の頃はいじめられっ子。転校先でなじめなかった。
 中学校では昼は学校、夜は母親がやってるラーメン屋を手伝う。父は病弱。手伝いが終わったあと、午前3時、4時まで少林寺拳法の練習をする日々。少林寺拳法は強くなり、県代表に選ばれた。

 昼は学校、夕方から夜はラーメン屋、深夜に少林寺の稽古、それでは朝が起きられるはずない。遅刻欠席が日常化する。通知票は、技術「2」音楽「2」あとはオール1。

 中学卒業後、大工の修行をし、工務店に就職。しかし、延春さんの不幸は続く。16歳で母を、18歳で父を病魔に奪われた。天涯孤独の身になった。世界は暗く、希望はなかった。

 21歳の終わりごろ、突然世界が変わって見えた。同じ少林寺拳法の道場に通う娘さんがビデオを貸してくれたのだ。彼に、NHKドキュメンタリーのビデオ『アインシュタイン・ロマン』を「見てね」と渡した。相対性理論がわかりやすく理解できるビデオだった。

 少年が亀の背に少年が乗り宇宙へ飛び出すロマンあふれる映像を、春庭も楽しんだが、楽しんで終わった。だが、延春さんには終わらなかった。はじまりだった。

 ビデオを見て、延春さんは目が開かれた。『これまでの自分は、時間と空間が不変のものだという自然観をもっていた。それにしてもこの宇宙と世界はなんとめまぐるしく変わり、深くて広いのか。

 もっと知りたい。そうすればもっと違った世界が広がるのではないか』世界を見る目が変わってしまった。この時間と空間の世界を自然の神秘をどうしても理解したかった。

 本屋に行って、化学や物理の入門書をみた。知らない世界がいっぱいに広がる。
 子どもの頃、夕焼けを眺めて感じた疑問がよみがえった。なぜ空は青いのか、なぜ雨は一粒ずつ降るのか。天体の運動にはどんな法則があるのか。ブラックホールはどうなっているのか。

 そんな疑問をもつこと目体忘れていた。世の事象に麻揮した心がよみがえった。もっと知りたい。「なぜ」を追求したい。
 延春さんは大学に行って物理学を勉強しようと決意した。

 進学を思い立ったものの、分数の計算もわからない。かけ算九九から復習した。小学校3年の教科書から勉強をはじめ、24歳で高校定時制に入学した。

 入学後、昼は工務店の仕事。夜は授業。気持ちはあせるが、きつい仕事に疲れ切り、少しも勉強が進まない。

 そんなとき、2年生担任土田秀一先生が「自校の理科実験助手にならないか」と勧めてくれた。月収は3分の1。でも、勉強時間が確保できた。

 仕事のあいまに先生から補習を受ける。両親のいない延春さんを、土田先生は自宅にひきとって親代わりとなった。通信教育の単位も加えて、3年で定時制を卒業見込み。いよいよめざすは大学だ。

 名古屋大学理学部を志望。センター試験では得意の物理は自己採点で満点。だが、遅く勉強をはじめたハンディを全部は克服できなかった。英語でつまずいた。あきらめて一浪か。先生が自己推薦入試があることを教えてくれた。

 自己推薦の作文に賭けた。物理学への熱い思い、これまでの人生これまでの勉学の日々をすべてぶつけた。
 志望動機には、相対性理論の探求に向けた情熱を綴り、名古屋大学に提出。結果、見事に合格。27歳で大学入学を果たすことができた。

 これこそが、ほんとうに学びたいことを学ぶ、という真の勉強の姿だろう。偏差値競争も、ブランド大学も関係ない。延春さんは学びたいから学んだのだ。アインシュタインを理解したいからかけ算九九からやり直したのだ。

 最後に追加の、愛んシュタインロマンをひとつ。彼の世界を変えたビデオ。そのビデオを貸してくれた娘さん、彼女は、今、宮本さんの愛妻である。
 アインシュタインはもうひとつのロマンもはぐくんだ。

☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.43
(ゆ)湯川秀樹『旅人、ある物理学者の回想』
 日本で最初にノーベル賞を受賞したのは湯川秀樹。何もかも失って萎縮した戦後日本に夢と希望を与え、自信をなくしていた人々が、「やればできる」という戦後復興への熱い期待を取り戻すきっかけとなった。1949年のこと。

 湯川博士は、こどものころは内省的で孤独な少年だった。数学は得意だが、まだ何になりたいというはっきりした将来の夢もなく、秀才揃いの兄弟の中ではむしろ目立たない少年だった。(地質学者小川琢治京都大学教授の5人の息子は、惜しくも戦死した末子滋樹をのぞき、4人がそれぞれ超秀才、各分野の著名な学者になったことで有名)

 ある日の中学校授業。コンビを組んで物理の実験をしていた同級生から「君はアインシュタインのようになるだろう」と言われた。
 言われたが、アインシュタインが何者か、知らなかった。そのうち、世界をわかせた相対性理論の学者であることを知ったが、まだ、心酔するには至っていなかった。

 1922年、アインシュタインが来日したとき、日本中が熱狂して新理論をひっさげて20世紀科学世界を一変させた学者を迎え入れた。しかし、秀樹少年は京都で行われた講演会にも行かなかった。自分が理論物理学に進むとも思っていなかったからだ。

 湯川秀樹がアインシュタインに会ったのは、それから十数年ののち。
 1934年、湯川博士は、原子核内中間子の存在を予言し、素粒子論に新たな理論を加えた。1937年、中間子場理論を発表。1939年、理論が認められヨーロッパへの講演旅行に出発。

 しかし第二次世界大戦の勃発により、ヨーロッパからアメリカへ回った。この時、ようやく湯川博士はアインシュタイン博士と邂逅した。あこがれのアインシュタイン博士はすでに白髪の老人になっていた。

 その後何度も湯川秀樹はアインシュタインに会い、敬愛の念を深めた。
 1955年ラッセル・アインシュタイン宣言の共同署名者となる。アインシュタインが願った世界平和への意志を引き継ぎ、湯川博士は晩年を平和運動に貢献してすごした。

 「湯川博士」の名は、私たちの世代にとって「大学者」「えらい科学者」の代名詞であった。

 「末は博士か大臣か」というのが親が子に望む出世コースだったが、ノーベル賞受賞以来、大臣人気はすっかり寂れ、「将来は湯川博士」が合い言葉になった。

 完全文系人間の私には、湯川博士はいつも遠い遠い星であった。近づくことも夢見ることもないスター。恵まれた環境と素質を持った秀才一家の超秀才。あまりにもかけ離れた存在に思えた。湯川博士になりたいなどと思ったことは一度もない。(私がなりたかった人リストは11/08に書いた)

 しかし、『旅人』を読むと、小学校中学校時代の秀樹少年は、おどろくほど私の小学校中学校時代と似た面を持っていた。

 夢見がちで、いつもぼうっと想像をふくらませていて、現実を忘れる。自分の好きなことだけに熱中して、それ以外の勉強はいっさいお留守。孤独でひきこもりの内省的な生活。

 むろん田舎の鈍才少女と、京都のとびっきりのエリートコースを歩む天才とは、レベルが違いすぎる。だが、秀樹少年の子供時代の回想を読んで、今まで敬して遠ざけていたこのノーベル賞受賞者がとても好きになった。

  秀樹少年も私と同じく、ノートに童話を書きためていた少年であったのだ。彼は引退後の生活について「また、童話を書いてすごしたい」という希望を述べている。

 彼の自伝『旅人』には美しい描写が続き、なつかしく生き生きとした戦前の京都、町屋の暮らしが活写されている。物理学者には、寺田寅彦など文学的才能の豊かな人が多いが、湯川秀樹も理論物理学者としてとの才能と同等に文学的な才能が豊かな人である。

 私は俳句や短歌が好きだから、最後に湯川秀樹の短歌を並べておわりにする。

たそがれて子等なお去らぬ紙芝居少年の日は遠くはるけし
そこはかのうれいある日の帰るさはいやなつかしき今日の夕山
比叡の山窓にもだせり逝きし人別れし人のことを思へと

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