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話しことばの通い路Workshop for Nipponianippon Communicative Language& Culture Studies
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   春庭ワークショップ 名について 

日付 タイトル 今日の一冊 著者
2004
02/01〜04
節分・春の名を呼ぶ@〜C No.93(『朱子学と陽明学』
No.93『万葉集』
No.94『卒塔婆小町』
No.95『草子洗小町』
(し)島田虔次
(お)大伴家持編纂
(せ)世阿弥(か)観阿弥
(?)作者不詳
02/05〜06 本名あだ名四股名@A No.96『古事記』 (ひ)稗田阿礼(ひえだのあれ)朗唱
民部卿・太安万侶(おおのやすまろ)編纂
02/09〜12 大王の諡名(おおきみのおくりな No.98『日本古代文化』
No.99『神代史の新しい研究』
No.100『古事記伝』
No.101『日本神話と古代国家』
No.102『古事記と日本書紀』
(わ)和辻哲郎
(つ)津田左右吉
(も)本居宣長
(な)直木孝次郎
(か)神野志隆光
02/17〜20 源氏名@〜C No104『吉原徒然草』
No.105『古典落語』
No.106『断腸亭日乗』
(ゆ)結城屋来示
(お)興津要
(な)永井荷風
2007
02/07〜02/14
ぐっときたネーミング 『小耳にはさもう』
『主婦でイキます』
『東京タワー』
『末端通信』『ぐっとくる題名』
ナンシー関
青木るえか
リリー・フランキー
ブルボン小林



ニッポニアニッポン言語文化散歩「名前について」

節分・春の名を呼ぶ
at 2004 02/01 18:51
編集2月3日は、節分。
 自分の心の中にいる「邪気」を追い出し、幸福を願う日。冬の寒さを、凍える心を、冷え込む人間関係を、心の中から追い払おう。節分の次は立春。

 春を迎えよう。「鬼はそとぉ、福は内!」
 新たな春のはじまり。木々が芽吹きを待ち、花は蕾の準備を始める。私の庭も新しくなりました。

at 2004 02/02 06:48 編集
「節分・春の名を呼ぶA」

 1月後半、陰陽五行思想の影響について話してきた。去年の夏以降「東洋思想史」を復習する必要があり、「朱子学は心学のひとつなり、といえるのはどのような理由によるか」とか、「朱子学と陽明学の違いを説明せよ」などを考えてきた。
 その過程で、陰陽五行についても読み直すことができた。

 元来、陰陽は太陽の光と陰、五行は季節の移り変わりをもとにした農耕暦の表現である。陽光と季節の推移とは、農作業にとって重要なことがらであった。
 すべてのもとになる五気「木、火、金、水、土」の相剋相生について、また、季節や色との組み合わせなどについて紹介した。(2004/01/27参照)

 木=春=青、火=夏=朱、金=秋=色、水=冬=黒、という季節と色との組み合わせ。「土」は中心をあらわし、季節の変化を司る。それぞれの季節の終わり18日間は、「土用」。そして、季節の変わり目が、「節分」

 陰陽五行思想では、陰と陽の対立は、激しい変化を生じ、人々に災いをもたらすと信じられていた。季節も陰と陽が入れ替わる。この変化による災いを祓い人々に幸いをもたらすために、節分の行事や儀式が行われた。

 本来、節分は、立春・立夏・立秋・立冬の前日をいう。この日を境に季節が分れる。夏の節分、秋の節分もあったのだが、季節の変わり目が特に著しい立春の前日が「節分」として大きな行事になった。
 春の節分、今年は2月3日。各地で節分行事が行われる。

 家内では一家の主が、神社などでは年男が「福は内、鬼は外」と言いながら、煎った大豆をまく。土から芽を出す豆の生命力が、邪気を払う。年の数だけ豆を食べると一年を無病息災で過ごせる。
 神社や寺院の追儺(ついな)の式。これは「鬼やらい」と呼ばれ、疫病の鬼を追い払う儀式。

 また、「門守り」と言って、鰯の頭や柊の葉を門のところにさして、鬼を追い払う。鰯の頭の悪臭や柊の葉の先のとがったところを鬼が嫌い、退散すると信じられてきた。
「鰯の頭も信心から」ということわざも、この鰯の頭によって邪気を払うという信仰から生じた。

 各地それぞれに、節分行事、鬼やらい行事がある。京都では、節分の日に北野天満宮・吉田神社・壬生寺・八坂神社・の四社寺を「四方詣り(しほうまいり)」として参詣し無病息災、招福を願う習慣が生き続けている。

 現在の節分行事「福は内、鬼は外」の豆まきは、奈良・平安時代の宮中行事「追儺式」が民間に広まったものと、されている。<続く>

☆☆☆☆☆☆
春庭今日の一冊
No.93(し)島田虔次『朱子学と陽明学』岩波新書

at 2004 02/03 06:35 編集
「節分・春の名を呼ぶB」

 文武天皇の時代から宮中の「追儺式」が始まり、民間行事は宮中の儀式を模倣したといわれている。
 しかし実際は、民間の「邪気払い」や「春を迎える行事」を、陰陽師が儀礼化して宮中に持ち込んだのであろう。

 田起こし播種の準備を始める農耕民族にとっても、家畜繁殖の時期を迎える牧畜民族にとっても、季節の推移は生産にとって重要なことであった。世界各地の文化に「春迎えの行事」がある。
 奈良時代以前から「邪気を追い払い、福を招く」という習俗は、各地に民間習俗として存在していたものと思われる。
 宮中追儺式も、暦博士や陰陽師たちが、民間の様々な春迎えの行事に五行思想をまぶして儀礼化し、宮中の平安祈願に採用したのではないか。

 宮中の追儺式は、「続日本紀」文武天皇の頃に記載されている。奈良時代、文武天皇の御代、疫病がはやり多くの人命が失われた。そこで、陰陽の思想に基づき、土で牛の形を作り、疫病を払う行事に用いた。これが追儺の始まりとされている。
 「土牛」を使うことは、中国の「礼記」にある「土牛を作りて寒気を送る」が起源で、陰陽師たちが陰陽五行に則り、それを追儺式として完成させたのであろう。

 平安時代の宮中の追儺式は、陰陽師が祭文を読み、黄金の四つ目の面をつけた方相氏が盾と矛を持ち、その矛を地面 に打ち鳴らしながら、「鬼やらい、鬼やらい」と言って宮中を練り歩いた。
 その鬼の後に殿上人たちが、桃の弓と葦の矢を持って追いかける。桃や葦は、古来より、邪気を祓う力を備えているものと考えられていたのだ。
 桃の生命力については、2003/11/05蛇の足跡参照。葦の生命力は、この国の古名を豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)と呼ぶことでもわかる。

 古代。人々が暮らす地には自然の中に様々な神々がいた。山と里を行き来する神、海と陸を行き来する神など、八百万(やおろず=無数)の神々が人々の住む地を経巡り、幸いを与えた。

 この古代の自然神を古層とし、陰陽五行、道教などの中国からの思想、そして仏教などが重層して、私たちの精神生活ができあがっている。
神仏習合により独自のものとなった日本の神と仏。私たちの生活に残る民間習俗には、この「神仏習合」後の仏教や神道の影響を残しているものが多い。

 現在の神社神道は、明治以後の「神仏習合を分離させた新しい神道」である。古来の神道とはかけ離れている部分が大きい。現在の神社を見て「昔からの宗教」と思わない方がいい。

 博物学者、南方熊楠などが保護しようとした神社や神道は、古層を残した古来の神々なのだ。

 節分行事。人々は何を「邪気」として払い、何を福として招き入れたのだろうか。人によって「邪」と感じるものがことなり、人によって「福」と思い「幸福」と考えることが異なるのかも知れない。

 私は、私にとって「福」である存在の、いろんな人の名を呼び、心の中に招き入れる。家族の名も、友の名も。あだ名であったり、ペンネームであったり、IDネームであったりする、ひとりひとりの大切な名を呼ぶ。私の周囲のひとりひとりの名に感謝して、心のうちに招き入れる。「福はうち!」

at 2004 02/04 11:25 編集
「節分・春の名を呼ぶC」

 季節が分れる節分の翌日は立春。
 古代、春たてば、人々は野に出て若菜を摘み、若菜摘む若い娘に声をかけた。

 万葉集の最初の歌。
「籠もよ み籠持ち 堀串もよ み堀串持ち この丘に 菜摘ます児 家聞かな 名告らさね  われこそは 告らめ 家をも名をも」

 丘で菜を摘む若い娘に名を問いただし、自分の名を告げている。雄略天皇の歌とされているが、伝承。おそらく、長い間伝えられてきた、歌垣(かがい、うたがき)の歌であったろう。
 歌垣とは、一ヶ所に男女が寄り集まり、歌を相手に投げ合って結婚相手を探す、というアジアの各地に残る風習。

 この歌垣の中で、「こもよ、みこもち、ふくしもよ、みふくしもち、この丘に菜つますこ、いえをきかな、なのらさね。われこそは、のらめいえをもなおも」と、歌いつがれてきたのであろう。

 男と女が、歌をうたいながら、お互いの名前を聞きあう。気に入った相手であれば、名を告げ、結ばれる。名前は自分だけの大切なもの。その一番大切な名前を相手に告げ、ささげるのである。

 その大切な儀礼の歌の作り手として比定されたのが、ワカタケルおおきみ。『古事記』では、大長谷若建命(おおはつせわかたけのみこと)と呼ばれる大王。後世になって「雄略天皇」という名で呼ばれるようになった王である。ワカタケル本人は、自分が「雄略天皇」などという名で呼ばれるようになるとは、つゆ知らなかった。

 ワカタケル大王の大后は「若日下部王わかくさかべのおおきみ」。第二の后「韓比賣」第三の后「妹若帯比賣命いもわかたらしひめのみこと」ただし、これらの后の名を、ワカタケル自身がどう読んでいたのかはわからない。昭和天皇は、后の良子(香淳皇后)を「ナガミヤ」と呼んでいたそう。

 ワカタケルが美和河へ行き、見初めた美しい娘に名を問うた。娘は答えた、「わたしの名前は赤猪子(あかいこ)」

 名を問われて、答える。これで求婚と承諾が完了。赤猪子は、ワカタケルが「迎えにくるまで待て」と言って宮廷に帰っていったあと80年間、待ち続けた。ワカタケルの方は、求婚して「待っていなさい」と言ったことなど、すっかり忘れてしまったのに。

 名を問われて答えれば、その女性は求婚を承諾したとみなされる。名を知る人は、その人自身をすべて自分のものにできるから。古代の女性は自分の名を、両親と夫以外には知らせなかった。
 紫式部も清少納言も藤原道綱の母も、今日まで読み継がれるすぐれた作品を残した女性であるが、本名はわかっていない。

 紫式部や清少納言らは、父や夫の名がわかるが、六歌仙のひとり小野小町は、小野氏の出身であることがわかっているだけ。「小町」というあだ名が歌に残されただけで、どこのだれの娘やら夫がいたのやらも、はっきりとはわかっていない。

 各地に伝説が残され、能のなかにも小野小町は「草子洗い小町」「卒塔婆小町」など、さまざまな姿で登場するが、実際は、古今集に残された歌がはっきりしているだけで、あとはすべて謎の女性なのだ。

 歴史上ではどこの誰であるやら名もわからず、詠んだ歌だけが千年の時空を越えてわたしたちにも届く。ことば、そして名前。ほんとうに不思議な気がする。

 名前、固有名はアイデンティティの基本となるもの。ウェブ上では、お互いにハンドル名、IDネームで呼び合い、どこの誰とわからなくても、お互いが夕べ何を食べたかとか、何を見たか、なんてことまで話し合う。
 パソコンの画面を見たときに、ぱっと目に入ったとたんに親しみを感じるIDネームもふえてきた。
 どんなIDの方とめぐり会い、どんなハンドル名の人とお話ができるだろうか。楽しみにしている。
☆☆☆☆☆☆
春庭今日の三冊No.94〜96
No.93(お)大伴家持編纂『万葉集』
No.94(せ)世阿弥(か)観阿弥『卒塔婆小町』
No.95(?)作者不詳『草子洗小町』



「at 2004 02/05 08:07 編集
本名あだ名四股名

 古代の女性は、名前を両親と夫以外には知らせなかった、と述べた。
 名前は自分自身の命ともいうべき大事なものであり、大きな意味を含んでいた。

 木の花佐久夜毘売(このはなさくやひめ)と 石長比売(いわながひめ)の名前。

 アマテラス大神の孫ニニギの命は、天上の高天原から地上をおさめるためにつかわされ、美しい女性に出会った。娘に名をたずねる。

 美しいその女性は、「私は大山津見の神の娘。名は、木の花佐久夜毘売(コノハナサクヤヒメ)です。」と答えた。
 女性が名前を名乗るということは、その名を持つ自分自身を明らかにすること。つまり、求婚を受け入れる意志があることを示す。

 ニニギの命はヒメの父、大山津見の神のもとを訪ねた。大山津見はこの求婚を喜び、姉の石長比売(いわながひめ)と共に、たくさんの献上物を持たせて婚礼を承諾する。しかし、姉の石長比売は大変醜かったので、ニニギノ命は妹の木の花佐久夜毘売だけを留めて、醜い姉は父のもとへ送り返してしまった

 石長比売を送り返されたのを知った大山津見の神は、「私が二人をともに送り出したのは、石長比売によって、天の神の御子の寿命が永久に石のように堅実となるため。また、木の花佐久夜毘売によって、木の花の栄えるように栄えるため。

 しかし、石長比売を返して、木の花佐久夜毘売を留めたので、天の神の御子の寿命は木の花のようにもろくなってしまうだろう」と言った。そのため、今日にいたるまでニニギノ命の子孫である天皇の寿命が人の子の寿命と同じになり、死すべき人間となった、というのが、天孫降臨神話。
 
 その後、木の花佐久夜毘売は、ニニギノ命とのたった一夜のちぎりで子をなす。ところが、ニニギノ命は往生際悪く「サクヤヒメよ、一夜ではらんだと言うが、本当に私の子供か?国の神の子ではないのか。」と咎めた。

 一夜でみごもったからといって、よその男の子ではないかと疑うなんて、ほんとにイケスカナイ男ですね。カミの風上にもおけない。あ、風上じゃなくえ雲の上にいたんだった。
 雲の上ツカタの方々、イケスカナイ方ばかりじゃないと思います。いとヤンゴトナキ不思議の国のアリス川の宮(贋)なんか、中年女性のとりまきがけっこういたというから、イケスイタんでしょう。

 いけすかないニニギに疑われても、凛として、ヒメは「私のはらんでいる子が国の神の子であれば、産む時に無事ではないでしょう。もし天の神の御子であれば、無事でしょう。」と言い、戸口のない大きな家を作るとその中に入り、産む時になって家に火をつけた。女はいつも毅然としている。

 この時に生まれた御子が火照(ほでり)の命で、隼人らの祖先になる。また、次に生まれたのが火須勢理の命(ほすせりのみこと)=海幸彦。次が火遠理の命(ほおりのみこと)、別名を、天日高日子穂穂出見の命(あまつひこひこほほでみのみこと) =山幸彦。
 海幸山幸(うみさちやまさち)のお話になる。

 以上のように、名は生命そのものであり、特に女性にとって、名を知らせることは我が身を相手にゆだねることであった。

 父親に顔も性格もそっくりな娘が、私の若い頃のアルバムながめながら「お母さん若い頃は、すごくカワイかったのにねぇ。今じゃ、ただのオバサンだけどさ。どうしてこんなかわいいころ、ちゃんと自分を売り込まなかったの。ちゃんと売り込みさえすれば、ぜったいにお父さんよりマシな人に巡りあえたと思うよ」

 はぁ、「我が名」売り込みの才覚とぼしく、売れ残ってしまい、こんな結果に、、、。
でも、娘よ、私が「自分の名前」の売り込みに成功し、もっとマシな人と結ばれていれば、あんたは、今頃、、、、

春庭今日の一冊No.96
No.96(ひ)稗田阿礼(ひえだのあれ)朗唱。民部卿・太安万侶(おおのやすまろ)編纂『古事記』


at 2004 02/06 22:35 編集
「本名あだ名四股名A」

 古事記に出てくる「葦原醜男(あしはらのしこお)」という名、「豊葦原」であるこの国土を「醜(しこ)=強さ」によって統べるという意。

 葦原醜男=葦原色許男、またの名は大国主神。出雲のかみさま。
♪大きな袋を肩にかけ、大黒様が来かかると、そこに因幡の白うさぎ〜の大黒様。
 この神は大国主神、大穴牟遅神(おおなむちのかみ)、葦原色許男神(あしわらしこをのかみ)、八千矛神(やちほこのかみ)、宇都志国玉神(うつしくにたまのかみ)、大物主命(おおものぬしのみこと)など様々な別名をもつ。

 『日本書紀』では大己貴(おおなむち)、大汝(おおなもち)、など、表記はいろいろ。「大国主神、またの名を大物主神、また国作大己貴命と号す。また葦原醜男といい、また八千戈神という。また大国玉神といい、また顕国玉神という」とある。

 豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)の、もともとの支配者であった、大国主。
 たくさんの名を持っていた中の「醜男しこお」の「しこ」は、「おそれをなし、うとましく思えるくらいに強い力をもつ」という意味を含んでいた。醜男の意は、頑強、頑健な男、まがまがしいくらい強い男。

 現代の「しこ男」といえば、「しこ名」を持つおすもうさん。
 相撲界では、一人前の関取になると、幕下まではしこ名を持たず本名で土俵に上がっていた力士にも、しこ名をつけるようにする。
 昔は、相撲協会が「幕内では必ず本名を避けるように」と、指導したそうだが、最近は本名のままの力士も増えた。

 本名のままでも、強そうなお相撲さんはいる。でも、呼び出しや行司が名前を呼びあげるとき、本名の力士の名を、「鈴木」「山田」などと、声はりあげて呼んでも、あまり強い感じがしない。鈴木さん、山田さんは、しこ名を名乗ったほうが強そうだ。

 幕内力士で「鈴木さん」は思い切って変わった文字使いになって、パソコンでは出てこない。火ヘンに華とかいて、「よう」。よう司。
 「山田さん」もまた、変わったしこ名になって「若兎馬わかとば」。兎馬って、ロバのことだけど、三国志の中の赤兎馬は最強の馬の名前。一日で千里を駆け、山や河を平地のように越えるという名馬である。 三国志最強の漢、呂布や関羽が乗った馬。うん、若兎馬という四股名、「山田さん」より強そうだ。

 現在、幕内で本名を名乗っているのは「十文字」。これだと本名でもなんだか強い気がする。一度はしこ名を変えたのだが、また本名に戻した。十文字→階ヶ嶽→十文字。

 垣添(かきぞえ)は、一度もしこ名を名のったことがない。横綱二代目若乃花は、間垣親方という名になっているから、垣添も、力士の名としてよろしいのだろう。垣添が悪いのなら、間垣だってよろしくないもの。
 もっとも、親方のなかには「中村親方」がいて、これだと「中村さん」と呼べば一般の名字と区別がつかない。

 出島、一度もしこ名を名乗っていないが、山や川、島など、地名が入る名前は、もともと四股名っぽいからいいんだろう。霜鳥も本名。動物の名は、動物の強さを身に帯びることができて可。大きな鵬「大鵬」龍と虎「龍虎」、そして「麒麟児」など。

 元々、力士の四股名は、郷土の土地の魂をその身に帯び、地霊を鎮めことほぐ意味がある。
 高知出身「土佐の海」、青森県岩木町出身「岩木山」など、「そのまんま」のわかりやすい四股名。十両の五城楼。地名っぽくないが、五城楼は地元仙台の雅名(別名)で、「立派な城に守られた美しい街」という意味。郷土にちなんでいる。

 グルジア出身力士の本名トゥサグリア・メラフ・レヴァン も「黒海」としこ名がつくと、黒海の土地の魂を背負って、土地の神から力をもらう。そしてその力によって勝負に勝てば、今度は故郷の海や山に自分が新たな力を与えることができるのだ。
 十両の本名ボラーゾフ・ソスラン・フェーリクソヴィッチは、「露鵬」という四股名によって、鵬のごとく羽ばたき「露西亜」の土地をことほぐことができる。


 出雲神話の神である大国主神、またの名を大物主神が、「葦原醜男/ 葦原色許男神(あしはらのしこをのかみ)」という呼び名をもっていたように、「醜男=しこ名を持つ力士=強い男」である。

 強さを持つ男が土地を支配し、土地の霊魂を身につけた。
 大相撲の力士たちは、このような四股名を名乗ることによって、他の一般の人とは異なる特別な力を身におびるのである。

もんじゃ(文蛇)の足跡:豫母都志許賣・ヨモツシコメについては、またいつか



名と色のニッポニアニッポン言語文化散歩
「名前について」

at 2004 02/09 07:04 編集
「大王の諡名(おおきみのおくりな)@」

 02/04に、雄略天皇は、自分の名を後世の人が「ユーリャクテンノー」と呼ぼうとは、まったく知らなかった、と書いた。雄略天皇という名は「諡名(おくりな)=死後に贈る名前」である。
 また、天皇=スメラミコトという称号は、後世「大王おおきみ」に代わる称号として採用されたもので、雄略天皇が実在していた頃には、スメラミコトもテンノーもなかった。

 雄略天皇は、中国の歴史書にその名が見える、倭の五王のうちの「武」と比定されており、実在の大王とされる。
 『古事記』に書かれた、大長谷若建命(おおはつせわかたけのみこと)という名の「長谷」は、宮号。彼の宮廷の所在地の地名である。おくり名の意味は、長谷(現在の桜井市)に朝倉宮を建てた若(美称)タケさん。

 『古事記』に名を書いてある中の最後の天皇は、聖徳太子が摂政をつとめた女帝、推古天皇。
 名前は、額田部(ぬかたべ)のヒメミコ。ぬかたべヒメミコは、第30代敏達(びたつ)天皇の皇后だった。
 死んだのちの名前、漢風のおくり名は「推古天皇」和風のおくり名は、豊御食炊屋姫天皇(とよみけかしきやひめのすめらみこと)。

 天皇一族、蘇我一族が殺したり殺されたり、血で血を洗う権力闘争を続けていた時代。第32代崇峻(すしゅん)天皇が592年、蘇我馬子(そがのうまこ)によって暗殺された後、日本初の女帝(第33代:在位 592〜628)として即位した。

 『古事記』は、推古天皇の陵墓が、元は大野の丘(奈良県宇陀郡)にあったが、科長(しなが)に移された、という記載で全巻を閉じる。

 『古事記』最初の天皇として名があるのは、神武天皇。またの名は、「ハツクニシラススメラミコト(国をはじめて統治した天皇)」
 しかし、神代に、「ハツクニシラススメラミコト」という名をもつ天皇はもう一人いる。
 初代の神武と十代目の崇神の両者が同じ「ハツクニシラススメラミコト」の称号を持っている。どっちがほんとの「国をはじめて統治した天皇」なのか。あるいはどちらもちがうのか。

始馭天下之天皇(神武)<神武紀>
御肇国天皇=所知初国之御真木天皇(崇神)<崇神紀>

 私は『古事記ふることふみ』を文学として扱い、神話学的に学んだ。この中の記述をそっくりそのまま歴史的記述と扱うこともしない。
 もし、古事記や日本書紀の記述を「歴史学」の分野の文献として扱うなら、厳密な検討が必要だと思っている。考古学、文化人類学、民俗学、民族学、中国文献学、言語学、あらゆる手段でテキストは検討されなければならない。その中で、歴史記述として扱える部分もあるだろう。

 しかし、私にとって、『古事記』は、第一に「日本語言語文化」の「作品」である。語り部稗田阿礼一族が代々語り伝えることを家のわざとし、それを太安万侶が筆記したと伝えられるのが『古事記』
 文字として記録される際に、当時の先進文化国家中国の影響が入り込んだことは当然のことだろう。中国の文化を中心に受け入れていた時代であり、なによりも記述された文字が中国の漢字転用であったのであるから。

 自分の国の歴史を外国語(漢文)で記録した日本書紀に対して、古事記は、文字は漢字であっても、日本語を日本語そのままに表記するべく工夫して記録された。稗田阿礼の口承伝承が、文字にされるとき、どのような変換がおこったのかは、中国文献やアジア各地の伝承との比較など、さまざまな見地から研究が行われている。

 春庭は、古事記を共同作業による文学作品として、記述そのままに扱う。「うさぎがワニの背を飛んで海をわたった」と書いてあるなら、そう書かれるべき必然があったのだ。
 コノハナサクヤヒメは、火をはなった家にとじこもって出産したと書かれている。同様の伝承がアジアオセアニアなどにどのように分布しているのかという観点の研究は必要だ。

 だが、私はこの国の伝承として、阿礼がそれを言い伝えたとされていたこと、それをどのように脚色したにせよ、わが国の伝承として採用された、ということを重んじる。
 太安万侶が日本語の記録として、日本語の言語文化として編集採用したことを尊重する。

 和辻哲郎は、『日本古代文化』の中で、
 「記紀の材料となった古い記録は、たとえ官府の製作であったとしても、ただ少数の作者の頭脳からでたものではない。弥生式文化の時代からの古い伝承に加えて、3、4世紀における第2次の国家統一や、5世紀における国民の発達の間に、自然に囲まれてでた古い伝説が、6世紀を通じて無数の人々の想像力により、この時代の集団心に導かれつつ、漸次形を成していったのである。
 奈良期に至って、最後に編集される際に、特に明白な官選色彩を帯びさせられたとしても、それは、物語の中核をまで変えていない。」
と述べている。

 私はこの和辻の考えを支持するものであるが、ただ、記紀の記述を扱うには先に述べた厳密な科学的探求が必要だと思っている。

 神話や伝承は、世界各地に共通の要素がたくさんある。近年の比較神話学や文化人類学などの研究成果により、各地伝承の「国の出来はじめ」「人類のはじめ」「人間が火を使えるようになったときの話」「人が死すべき存在であるのはなぜか」などの記録や言い伝えが、比較検討され、分析されている。<つづく>

春庭今日の一冊No.98
(わ)和辻哲郎『日本古代文化』(岩波書店)


at 2004 02/10 21:34 編集
「大王の諡名(おおきみのおくりな)A」

 「出雲の国譲り」神話。2/6に書いた「葦原醜男」の大国主命が、高天原系のカミに恭順し国を譲った話である。最近までこの出雲王朝は架空のものと言われてきた。

 出雲地方の考古学的研究が進み、多数の発掘物が出てくるに従い、現在では、出雲に大きな政治勢力が存在したことが明らかになっている。ヤマト地方や吉備地方の政権との抗争についても、さらに研究が進んでいくだろう。

 しかし、「因幡の白ウサギ」や「海幸彦山幸彦」などの神話は「神話」「伝承」「お話」として扱うことを気にしない人も、神武天皇などが登場したトタンに、それを「伝説」「おはなし」として、書かれたことを客観的に扱うことができなくなったりする。「天皇家の祖先である」という一点をもって、この記述を客観的に扱おうとすることに異議を申し立てるのだ。

 きちんとした比較検討分析の結果うちだされる結論を、私は尊重する。たとえば、大王のおくり名。
 津田左右吉は、言語学的歴史的に、初代からの天皇の名前を調べ上げ、比較分析した。

 古代の天皇の諡名は、後世になっておくられたもの。津田は、初代からの天皇おくり名を後世の天皇の名と比較し、「9代までの天皇は実在せず、後世になって名前を作り上げられた架空の天皇である」という結論を導き出した。

 天皇が神として絶対の存在であった戦前に、歴史の真実を追究しようとした津田。現在では、津田の研究方法にもさまざまな批判点や反論が出ているが、真実を追究することによって研究生命どころか、実際の命までも失いかねなかった時代に、研究の方針を曲げなかった津田の姿は評価されてよいと思う。

 津田は「天皇不親政が日本の伝統である」と考えた。この考えは「大逆思想」とみなされ、攻撃を受けた。そして津田の古代・上代史に関する著書は「皇室ノ尊厳冒涜云々」と批判され、出版を手がけた岩波茂雄とともに裁判にかけられた。

 しかし津田は裁判闘争を通じて自分の信念を披瀝し、自分は「立憲制にのっとった天皇を敬愛していること、天皇が自ら政治に関わるのは、この国の伝統的なありかたではないこと」を述べた。

 津田左右吉の研究に興味ある人は、下記の本をどうぞ。

春庭今日の一冊 No.99
(つ)津田左右吉『神代史の新しい研究』1913 (『津田左右吉全集所収』)

 津田に対する反論も様々に出されている。しかし、「神武から開化までの9代は、実在していない」という研究に対する反論が、決定的な証拠をともなって出されたことはない。
 牽強付会の「とんでも歴史学」では、いろんな説があるだろうが、科学的な、考古学民俗学民族学、比較社会学、言語学などの立場からの記紀研究、また考古学、古墳や陵墓の研究、中国文献の研究などの見地を総合して、津田左右吉の理論をくつがえしてしまえる有力な研究はない。

 「神武天皇は実在しなかった」この歴史的事実を覆すだけの科学的な根拠があるなら、おおいにその学説を世に問うべきである。根拠がないなら、とんでも学説をひっこめてほしい。

 津田が「実在しなかった」と結論づけた神武天皇。
 『古事記』での名は「神倭伊波禮毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト」。神武の名として、数種類の名前が記紀中に記載されている。

若御毛沼命(ワカミケヌノミコト)
豊御毛沼命(トヨミケヌノミコト)
神日本磐余彦天皇 カムヤマトイワレビコ 
始馭天下之天皇 ハツクニシラススメラミコト 
宇禰備能可志婆良能宮御宇天皇ウネビノカシハラノミヤニアメノシタシロシメス など。

 記紀の記述を「歴史学の基礎文献」として扱うなら、厳密な科学的分析が必要だ。
 たとえば、漢字の伝来について、古事記応神紀に百済の和邇吉師が論語や千字文を貢進した、と書かれているが、これをそのまま「漢字伝来の歴史」として扱うことはできない。 応神の時代に千字文は成立していなかったことをはじめ、検討すべきことは多い。
<つづく>

at 2004 02/12 08:16 編集
「大王の諡名(おおきみのおくりな)B」

 2月11日を「建国記念日」という名の祝日にしたのは、ヤマトの大王カムヤマトイワレビコ(神武天皇)が即位したという日本書紀の記載からである。奈良県畝傍山の橿原に宮を建て、辛酉年春正月庚辰朔の日に即位した、とある(西暦では紀元前660年)

 最新の考古学的調査では、弥生時代のはじまりはおおよそ紀元前800年くらいとされている。
縄文から弥生時代への移行を決める主な指標は、稲作が行われたことを示す遺構遺物。弥生式土器や縄文式土器を調査する。土器に付着した炭化物を放射性炭素年代測定法で調査し、稲作の本格化、弥生時代の始まりは「紀元前800年ごろ」と測定されている。

 その意味では、紀元前660年という神武即位の年代は「縄文時代から弥生時代になったころ」の記憶の残りなのかもしれない。
 
 しかし、前回のべたように、ヤマトの統一王朝をたてた大王としては、神武は認められない。あらゆる見地の研究からいって、初代から9代までの天皇は、後世その名を作り上げた者である。

 もちろん、自国の成り立ちをそのようにして作り出さなければならなかった諸事情というのは、理解できる。

 圧倒的な力をみせる中国大陸の勢力、国内大小豪族との抗争、その中で、天皇一族が、全土を統一支配することの正当性を主張するには、記紀が書かれた年代からはるか千年以上遡って初代を想定する必要があった。

 神武即位を、具体的に前660年とはっきり年をいいきっているには理由がある。辛酉の年に大きな出来事が起こるという中国の思想にあわせて算出しているのだ。大きな出来事が起こる年(辛酉)の正月元旦(太陰暦)の即位。

 この元旦を太陽暦になおすと2月11日にあたる、として、この日を「紀元節」に定めた。この日をそのまま現代に「建国記念日」としたのが、今の祝日。

 歴史への考え方、さまざまな立場があろうが、私は、カムヤマトイワレビコ(神武)の実在が歴史上で証明されていない以上、神武天皇の即位日を「建国記念日」と定めることは、子供たちに「歴史のうそ」を教えることになると考える。

 民族の古い記憶の表現として「神武即位」を「あるひとつのお話」として伝えるのは桃太郎の話を伝えたり、浦島太郎の話を伝えるのと同じになされてよい。
 だが、私たちの祖先はヤマト族だけではない。エミシもワニ族も、ハヤト族も皆この国土に住み続け、それぞれの土地を愛してきた。

 ヤマト族の長の伝承をヤマトスメラミコト一族が「初代」として採用したからといって、それを現在の「歴史的な建国の日」として採用するのは、多様な重なりを受け入れてきたこの国の多種多様性、様々な要素が重なり合う豊かな文化の伝統を否定することにつながる。

 明治国家と学校教育が、この「神武即位神話」を「紀元節」として採用したのは、まさに多様性を否定し「国民全員がひとりの天皇の子孫として、単一民族として存在する」という意識を植え付けるためであり、国民を一丸として同じ方向に向けて行動させるための装置であった。

 わが島国、花綵(はなづな)列島は、紀元前660年を「建国の日」と限定してしまえるような、矮小なものではない。もっと広く深い国土なのである。

 どうしても戦前の「紀元節」の日を祝いたいのであれば、「神話の日」「ハツクニシラス伝説の日」とでも、名付けてほしい。祝日がほかにない2月に休める日があるのはありがたいが、子供には歴史の真実を伝えたい。

 そもそも、世界の中で、「建国の日」を定めているのは、「植民地であったが、独立した」という日を持っている国が多い。
 アメリカ独立記念日は、イギリスからの独立を決めた日。植民地の最高議決機関である大陸会議で独立宣言が採択され、議長が署名したのを記念する日が7月4日。

 また、現在の政権が樹立した日をもって建国の日とする国も多い。
 文書に記載された分だけで、4千年の歴史をたどれるという、お隣の中国で建国を祝うのは10月1日、国慶節。1949年10月1日の現政権の中華人民共和国の正式建国宣言の日。

 日本のように歴史の古い国が「建国の日時」を定めることには、そもそも無理がある。記紀以来の長い歴史を誇りたいのであるならば、むしろ、「建国の日はこの日である」などと、定めないほうがよろしかろう。
 はっきりした「建国の日」を祝いたい人におすすめ。植民地から独立した日を祝うのが世界的傾向の「建国の日」である。ゆえに、オキュパイドジャパン(占領軍支配下にある日本)が「ただのジャパン」に戻った日でも祝うがいい。

 いつが建国の日と、決定できないほど古い歴史をもっている国であることを誇るほうが、「実在しなかった人を初代天皇と決め、後世にその名を作り上げられた天皇が即位した日だから、建国記念の日」として定めるより、よほど名誉なことではないだろうか。

 私は『古事記』を卒論として最初の大学を卒業した。神話の記述や風土記の記載、祝詞のことばなどに、愛着がある。自分の母語が「記紀万葉」の言語文化を持つことを誇りに思う。
 二度目に卒業した大学では「日本語学」を専攻した。日本語、日本語言語文化を愛し、誇りに思う気持ちは他の人におくれをとらないつもりだ。

 だから、記紀も万葉も、誇るべき日本語言語文化として、大切に伝えたい。歴史の真実をねじ曲げてまで、「建国の日」と定めなくても、私は十分に古事記や万葉集をもつこの国の歴史を愛し、誇りに思っている。

「アイヌユーカラ」や「おもろそうし」などと並んで、記紀万葉も私にとって大切な言語文化のひとつである。

春庭今日の一冊No.100
(も)本居宣長『古事記伝』

at 2004 02/12 23:07 編集
「大王の諡名(おおきみのおくりな)C」

 『古事記』冒頭にイザナギイザナミ国生み神話がある。古代人にとって「祭祀(政事まつりごと)、軍事、生産」の三つは最重要事項であり、生産にとって「生む」ことは最大の関心事でもあった。

 文学としての古事記にとって、その魅力の大きな部分は「古事記歌謡」である。古事記最初の歌謡は、出雲におけるスサノオとクシナダヒメの神婚の際のうた。

 八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を

 「八重」の音が繰り返され、のびやかでおおらかなことばの広がりの中で、「妻をこもらせるために」と歌い上げ、妻となるクシナダヒメを「隠所に起こして(くみどにおこして)=寝所で婚姻をなして」と、宣言する。

 結婚は生産再生産を左右する重要事項であり、世界各地の神話伝承伝説に、神の結婚は大きなエピソードをなしている。また、生産をつかさどる「大地母神」は、アジア各地の神話やエジプト、ギリシャ神話にも。ヨーロッパで出土するおなかや胸の大きな「ビーナス像」と呼ばれる像、日本の胸を強調した土偶なども、女性の生産力への信仰の現れといわれる。
 古代ヨーロッパの大地母神は、キリスト教浸透のちは聖母マリアの中にも、マグダラのマリアにもその面影が残されている。神の子を宿した聖母と、多くの男に身をまかせる世界最古の職業についていたマグダラのマリアは、大地母神の二面性の表現である。
(大王のおくり名の項、これで終わり)

もんじゃ(文蛇)の足跡:
 春庭今日の一冊100冊目は、本居宣長『古事記伝』を紹介したが、古事記を卒論にしたときの基本文献は、図書館で借りたものが多いし、買った単行本は売ってしまった。
 手許に残っている本はあまりない。
 宣長も手許にあるのは1960年筑摩書房古典日本文学全集の『本居宣長』くらい。津田左右吉は『日本古典の研究』上下二冊が残るのみ。
 西郷信綱、中西進、大林太良などを参照しながら「神話学的に」書き上げたつもりの卒論は大失敗作になったけれど、今でも記紀風土記古代歌謡が好き。

 今回、昔読んだ本を読み返すことはできなかった。電車の中しか読書タイムがとれず、電車本は文庫か新書に限るから。座っているときは重い単行本でもいけるが、立って読むには文庫がいい。電車の中では、たとえば、神野志隆光『古事記と日本書紀』などを読む。

 今回、昔読んだ著者で唯一読み返したのは、直木孝次郎。『日本神話と古代国家』のみ。これは、1960年代70年代の論文をまとめたもの。昔読んだつもりでも、すっかり忘れていることも多く、再読して楽しかった。

 たとえば、初出は1969年『歴史評論』の「日本「神話」にみる作為と変形」の中に、上田秋成や山片蟠桃、安藤昌益らが『古事記』記載を「史実として扱うべきでない」と江戸時代に論じていたことが紹介されていた。秋成といえば『雨月物語』、安藤昌益は「農本思想家」と思ってしまうから、古事記への言及について、30年前はまったく気にしなかった。
 私の根っこ、根元のひとつが古事記だと思う。radicalism古事記

春庭今日の二冊No.101102
(な)直木孝次郎『日本神話と古代国家』1990講談社学術文庫
(か)神野志隆光『古事記と日本書紀』1999講談社現代新書


at 2004 02/17 09:12 編集
源氏名

 「女房」とは、房(へや)を賜って働く、宮中の女官であった。
 紫式部は中宮彰子に仕えた女房、清少納言は皇后定子に仕えた女房である。

 定子と彰子は従姉妹であり、同じ一条天皇の后。寵を競うライバルでもあった。
 紫式部は『紫式部日記』の中で、清少納言のことを「あの人、知ったかぶりで、ヤナ女よ」と悪口を書いている。女同士の悪口陰口が千年の時空を越えて記録されている。

 紫式部の時代は、女官の呼び名は夫や父方の名字と身分によってきめることが、多かった。
 少納言の身分の家族を持つ清原氏出身の女官は、清少納言。式部の身分の家族を持つ藤原氏出身の女官は、藤式部(とうのしきぶ)。藤の色の紫と「若紫の少女」の物語を書いたことからついた呼び名は「紫式部」。
 また、通称として、住んでいる部屋や邸宅の名、出身の地名をつけて呼ぶこともあった。

 古代の女性の名前は、両親や夫以外には明らかにしなかった。物語の登場人物にも名前が書いてないから、物語を読むとき、読者は登場人物に呼び名をつけた。

 読者が「紫の上」と呼んだヒロインの本名は、物語の中にも書いてない。紫式部も「女君」「上」などと書いたのみ。本名をなんというのかは書かなかった。源氏物語の中の登場人物の名前は、読者が呼び慣わした通称である。
 主人公が詠んだ和歌の中の印象的なことばによって、通称がつけられり、住んでいた部屋や屋敷の名をつけたり。

 「源氏物語」冒頭の巻。光源氏の母は、宮中の桐壺に部屋を賜っていた。身分は更衣だったから、読者は、この人を「桐壺の更衣」と呼んだ。
 光源氏の年上の恋人、六条御息所は、京の六条に住んでいた。明石の地に生い育ったので、明石の上。その母をもつ娘が入内すれば「明石中宮」

 源氏物語が平安女性の「必読の書」になって以後、物語の中にでてくる地名や巻名から宮中で女房として働く際の呼び名を付ける人もでてきた。「早蕨典侍さわらびのてんじ」「榊命婦さかきのみょうぶ」など。

 また、時代が下って、武家の家内で働く女中のうち、格式の高い女性「老女」も、源氏物語にちなんだ名前をつけるようになった。源氏物語とは無関係のものもある。老女「政岡」「瀬川」など。

 太閤様のころ。京島原・伏見撞木町・大阪新町にある公認遊郭のお部屋に付けられた名前。一部屋ごとに、桐壺・若紫・帚木と源氏物語に因んで命名されたという。

 曲亭馬琴の随筆『燕石十種』の中に、ものの名前の由来について考察した文章があり、そのひとつに「遊女の名の由来」として、この話が書いてあるそうだ。(春庭、未読です。興味ある方、確かめてほんとかどうかおしえてください)

 部屋の主である遊女を、「夕霧の間に住む太夫=夕霧太夫」「浮橋太夫」などと呼ぶようになった。
 太夫は遊女の最高位。時代によって、また、京と江戸では呼び名が異なるが、太夫の下に天神、格子、散茶、端などがある。お端(おはした)女郎といえば、あまり位の高くない遊女を呼んだ。
<つづく>

at 2004 02/18 18:43 編集
「源氏名A」

 三浦屋「高尾太夫」「薄雲太夫」「花紫太夫」「几帳格子」「采女格子」、扇屋「夕霧太夫」、大黒屋「藤野」など、高名な遊女は浮世絵、錦絵にも描かれた。今でいうグラビアアイドルである。また、「吉野太夫」「高尾太夫」などのように代々受け継がれる名前もあった。

 維新以後、明治政府は「文明開化」の明治こそ新しき御代であり、江戸風俗はすべて「古くさいだめなもの」というイメージを浸透させた。
 現在は、江戸文化がさまざまな見地から見直されている。遊女を中心にした遊里文化もまた、江戸文化の大切な一翼である。

 私のひと世代上の人たち、私と同世代の人でも、遊女ときいただけで「いやらしい、下品な」と、眉をひそめる人もいる。だが、太夫と呼ばれるほどの遊女が身につけていた教養を知れば、彼女たちが現代に生きていれば、そこらへんの女子大生など足下にも及ばない知性を持ち、さまざまな技芸を身につける努力を怠らなかったことがわかる。

 遊女最高位の「太夫」はスーパースターといってよい。ただ、容貌が美しいだけでは太夫の地位にのぼることはできない、客あしらい行儀作法はもちろん、歌舞音曲、和歌俳句、生け花茶の湯、書道など、技芸全般を身につけていたのである。

 言葉遊びも遊里では人気の遊びだった。遊女が遊びの全部を受け持つのではなく、太鼓持ちなどが受け持つ部分もあった。しかし、丁々発止の言葉遊びを好む客がきたら、その客にあわせて、ギャグもパロディも本歌とりも、俳句も和歌も川柳もこなすのが太夫だった。

 江戸吉原の技楼主、結城屋来示(ゆうきやらいじ)の著作『吉原徒然草』に登場する言葉遊びのたぐいを並べてみると。
 「なぞなぞ、咄し、日待ばなし、おとしのはなし、落としのしれた咄、おとしのよき珍しき咄。地口、わる口、こ新しきぢ口」

 おとしのはなしは、今の落語に通じる面白おかしい話であろう。日待ばなしはどのような話であったのだろうか。人の悪口を機知をきかせて言い立てるのも言葉遊びの妙。地口はギャグ。一番単純なものが駄洒落。

 客が出した三題噺に機知を生かしてしゃれのめした返答をする。それで座をもたせ、客の心をなごませる。所望があれば、はやり歌、小唄、はうたをうたう。説教節やら浄瑠璃やらを三味線とうたを披露する。何の芸も持っていない現代の芸人に比べれば、月とすっぽん。最高の芸人である。もちろん、床上手も芸のうち。

 客は遊女にあうとき、はじめてのときは「初回」。酒を飲んで食べて、チップをばらまき、大宴会で金を湯水のごとく使う。第一回目はこれだけで帰る。「裏をかえす」二回目も同じ。飲んで食べてチップ払って大盤振る舞い。
 三回目にようやく遊女と二人だけの時間がもてる。<つづく>

春庭今日の一冊No104
(ゆ)結城屋来示『吉原徒然草』(岩波文庫)


「源氏名B」

 太夫は客の好みにあわせて、客が所望するさまざまな芸を披露する。客にとっては、このような位の高い遊女を座敷にあげることが、ステイタスでさえあった。

 太夫は、どのような身分の客とも、対等に渡り合い矜持高くふるまった。もちろん結局は買う客と買われる者の関係ではあるが、太夫には気に食わぬ客をふることもできたし、むしろ金を出す客のほうが太夫の機嫌取りに汲々とせねば、初会のために金を湯水のごとくつかわされても、裏をかえす(二度目に会う)こともできなかった。

 初会は「初対面」だけ。客は太夫の姿を近くで見ることができただけで、感激。それで帰る。太夫が客を気に入れば裏をかえす。裏でもぬかりなくチップもはずみ、万事に大盤振る舞いして、三度目にようやく太夫とふたりで差し向かい。

 太夫の揚げ代は、時代によってまた京と江戸でも異なるが、おおよそ銀90匁。(銀60匁が1両)。ただし、これは公式な揚げ代で、これを払うだけではだめ。太夫のまわりで働く人々へのチップ。飲食費用などすべていれると、だいたい一晩で10両は必要。

 江戸の1両の現代通貨への換算は、ちとめんどう。時代によって変動しているのはもちろん、何を基準として換算するかで異なる。
 現代の「一杯のかけそば」の価格と比較すると、1両はおよそ12〜3万円分の蕎麦が食べられた。
 1両でお米が150キロ買えた。これで計算すると現代はお米コシヒカリが1キロ500円として7万5千円くらい。
 人が働いた際の賃金で比較すると1両では30〜40万円分の価値がある。職人の一日分の賃金がおよそ銀1匁から2匁。30日間働いてもらう給料が1両前後だった。

 なんとか初会で大金使い、裏をかえして大盤振る舞い、三度目にようやく太夫とふたりだけの時間をすごせる。このときも蒲団新調代として何十両も必要だったり、もろもろの金がかかる。現代でいえば、一晩に何百万円か使うことになる。
 
 落語の『紺屋高尾』では、染め物屋の久蔵が高尾太夫に会うため3年間貯金をする。染め物職人として働いた賃金からこつこつ貯金し、3年で9両を貯める。あとの1両は親方に都合してもらい親方の服も借りて「お大尽」のふりをして太夫に会う。
 太夫が客を気に入らないときは一晩で終わり。しかし太夫は久藏が気に入り、次に会うのはいつか(裏をかえす日)をたずねる。

 久蔵は泣きながら「あと3年たたないと、会いにくる費用が貯まらない」と正直にうちあける。高尾は久蔵の純情に惹かれて年期があけたら夫婦になる約束をし、久藏の揚げ代は自分持ちにしてやる。
 晴れて夫婦になったあとは、ふたりして染め物(駄染め)の店を繁盛させ、幸福にくらす。いわば、吉原の「逆シンデレラファンタジー」

 庶民にとって、太夫は手の届かない高嶺の花だったが、庶民にも太夫の姿や名前にあこがれたり、ファンになったりする手段はいろいろあった。
 
 浮世絵のモデルになるのはもちろん、絵双紙や「吉原評判記」なども出版され、今だれがトップの太夫なのか、どんな顔立ちなのかなどを、江戸庶民は「グラビアクイーン」をながめるように、楽しんでいた。

 遊女の名前が「ブランド」になっていて、遊女の名を冠した「おしろい」や「紅」が売り出されたり、新しい髪の結い方に、売れっ子太夫の名をつけて「○○髷」などの名で流行したこともある。

 遊女の格にも上から下まであり、年期があけて遊女をやめてからの処遇もさまざま。
 太夫になって上層の客の相手をつとめ、27歳の年期あけ、あるいはそれ以前に客にひかされて、遊里から抜け出せる遊女もいれば、親兄弟や夫のために苦界に身を沈めたまま、浮かび上がることもできない者もいる。

 遊里に入っても身売りの借金がへるどころか、働けば働くほど、借金が増えてしまい、27歳すぎて吉原を出されたあとは、場末の私娼窟へ鞍替えするしかない女もいた。

 なぜ、働いても借金がふえてしまうのか。遊女の着るものやかんざしの類、身の回りの調度品日用品を買う費用は遊女もち。これだけでもかなりの出費。
 遊里から外へ出られない遊女たちは、江戸の相場より割高だとわかっていても、高い枕紙、高い髪油、高い小間物を遊里に出入りを許された特定の商人から買わざるをえなかった。
 売れっ子は客に買ってもらうこともできるが、お茶っぴきは、これらを自分で買うことになり、また借金がかさむ。

 また、遊里の決まりの中で、「紋日(物日)」という「必ず客をむかえる日」がある。この日は、かならず買われなければならない決まり。だから、客を迎え入れることができず、お茶をひいてしまったら、「自分で自分を買う」金を払わなければならない。売れない遊女は、紋日のたびに自分を買う金をださなければならず、どんどん借金がふえる仕組みになっていた。

 若くして病気にでもなって死んだとき、無縁仏として葬られる者もいる。吉原の近辺には「投げ込み寺」と呼ばれる寺がある。
 私は以前、樋口一葉記念館のそばの投げ込み寺のひとつ「浄閑寺」にお参りしたことがある。

 たびたび浄閑寺を訪問していたという永井荷風の碑が門前に記されている。荷風は、吉原より玉ノ井などの庶民の街を好んだと言うが、新吉原開業以来2万5千人の無縁仏が眠ると言われる寺に深い思いがあったのだろう。

 近代に水商売をする女性の名前を「源氏名」というようになったのは、永井荷風「断腸亭日乗』あたりからだそうだが、荷風以前から用例があるかどうか、春庭には不明。

春庭今日の二冊No.105、106
(お)興津要『古典落語』
(な)永井荷風『断腸亭日乗』


「源氏名C)」

永井荷風の日記1937年(昭和12年)六月廿二日の一部
六月以来毎夜吉原にとまり、後朝のわかれも惜しまず、帰り道にこのあたりの町のさまを見歩くことを怠らざりしが、今日の朝三十年ぶりにて浄閑寺を訪ひし時ほど心嬉しき事なかりき。近隣のさまは変わりたれど寺の門と堂字との震災に焼けざりしはかさねがさね嬉しきかぎりなり。
余死するの時、後人もし余が墓など建てむと思はば、この浄閑寺の塋域娼妓の墓乱れ倒れたる間を選びて一片の石を建てよ。石の高さ五尺を越ゆるべからず、名は荷風散人墓の五字を以て足れりとすべし。...

 「娼妓の墓が倒れている間に一片の石を置いて永眠したい」と願った荷風だったが、荷風の墓は雑司ヶ谷にある。
 荷風は江戸文化を好み、江戸文化の華である遊廓を好んだ。死してのちは「荷風散人」として無縁仏となった娼妓と共に眠りたかったのだろう。

 江戸から明治に時代が移り、「幕府公認遊廓の吉原」が消えても、吉原の繁昌は続いた。
 明治5年の娼妓解放令とは、外国向けの「わが国は人身売買なんかしちゃおりませぬ」という言い訳のために発令されただけで、政府は「貸座敷免許制」というのを始めた。

 遊女と呼ぶのを廃止して娼妓と変え、遊廓を「貸座敷」と変えた。名前がかわっただけで、江戸時代よりも政府公認の場所が増える結果になった。
 娼妓は、形だけ「自由意志による商行為」として働くことになったが、実態はなんら変わっていない。

 天保年間の『守貞漫稿』に出てくる全国の公許の遊廓はわずか25ヶ所だったが、大正時代に公認の貸座敷は545ヶ所、娼妓は5万2200人という調査報告がある。
 明治政府のしたことは、お墨付き遊廓の許可基準を下げたことだけだった。

 明治に入っても吉原のにぎわいは続き、樋口一葉の名作『たけくらべ』の舞台になっている。『たけくらべ』冒頭の一節に、当時の吉原大門近辺が活写されている。

廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お齒ぐろ溝に燈火うつる三階の騷ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行來にはかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前と名は佛くさけれど、さりとは陽氣の町と住みたる人の申き、

 大正、昭和の「陽気の街」については、荷風の著作など、お読み下さい。

 一葉、荷風の著作に出てくる遊女娼妓たちの姿。一葉荷風は娼妓達をきちんと「一個の人間」として見つめ、対等の目線で描写した。

 廃娼運動が盛んだったころ、本気で娼妓の身の上を考えてやる人もいる一方、「堕落した商売に従事しているかわいそうな女たちを救いましょう」と唱え、「娼妓は自分たちより一段と劣った下等な人間」と見ている「有閑階級」の人も多かった。

 「一葉日記」の中に、姉貴分の一葉が酌婦をしている女のために一肌ぬぐ話もある。
 一葉の描く酌婦たちは、廃娼運動する上流夫人のような「見下げた」視線での描写ではない。一葉が現代にもなお読み継がれる作品を残せたのは、一葉が「歌塾萩の舎に集まる華族令嬢へも、場末の酌婦へも等しい視線を放つ」ことができる人であったからだと思う。

 1945年3月10日、東京大空襲の日。新吉原から続いた「陽気の街」は下町一帯を地獄と化した空襲で灰燼に帰す。10万ともそれ以上とも言われる空襲時死者の中に、吉原の花魁も芸者も茶屋の主人も若い衆もいた。

 国民には「耐えがたきを耐え、忍びがたきをしのび」とラジオが伝えてから半月もたたぬ8月下旬、政府は吉原再開を決定。名も「進駐軍接待所」と変わった。

 表むき「キリスト教一夫一婦制度の国」であるアメリカの軍人のため、日本政府は飢えている国民の食料をどうにかするより一早く、「進駐軍の慰安」を準備したのだった。

 現代の「陽気の町」吉原。「ソープ街」という。売り物は「石鹸洗剤」ではない。源氏名をもつ女性たちが働いている。
 この「世界最古の職業」と呼ばれる仕事に関する意見考えは、春庭、また別の機会に論じます。古代神事、生産豊壌儀礼からのつながり。

 現代に「源氏名」を名乗るのは、主として「フーゾク」と呼ばれる仕事をしている女性。本名で仕事をする女性は、たぶんいないだろう。
 昔の吉原さながらに、夫の借金のために売られてきた人もいれば、「短期間で大金をかせげる職場」として自ら望んで仕事を求めてくる人もいる。

 現代の源氏名にも、流行があって「ジュリー」「エマニュエル」「マリリン」など、横文字名前がはやったこともあるし、その時代に人気がある女性タレントの名前をそっくりまねるのがはやることも。「モモエ」「アキナ」「セイコ」「アユ」「アヤヤ」など。

 現代の吉原では、店ごとに源氏名の付け方を工夫しているところもあるとか。ある店では女の子全員が「ゆり」「すみれ」「のばら」「ひまわり」「ひなげし」「さくら」など。店のキャッチコピーは「ヒミツの花園、あなたのために満開です」
 ある店では「ポルシェ」「フェラーリ」「ロールス」など、皆、外車の名前。経営者が外車趣味なのか。キャッチコピーは「あなたを乗せて全力疾走」ではいかが。

 一軒一軒、源氏名を調査したワケじゃないから、この源氏名がほんとかどうか知らないけれど、きっとこちらの方面にくわしい方は大勢いるだろう。
 「現代吉原の源氏名研究」調査のためと称して、実地研究を行う方がいたら、研究成果をぜひご一報ください。

春庭今日の二冊No.107108
(き)喜田川守貞『守貞漫稿』天保年間に、きたがわもりさだという絵師が記した「挿し絵付き風俗案内」
(ひ)樋口一葉『たけくらべ』


2007/02/07〜02/14
ぐっときたネーミング

2007/02/07 水
ことばのYa!ちまた>ぐっときた(1)娘と私とマツコとナンシー

 娘は母に厳しい。
 私の「苦労自慢」なんかに娘は鼻もひっかけず、「母はねぇ、自分じゃ苦労してきたと思っているけれど、他の人からみたら、そんな苦労は苦労のうちにも入らない、しょーもないことなんだから、人様に話したがるんじゃないよ」と、言う。

 じゃ、どんな苦労が苦労と言えるのかというと、「『だからあなたも生き抜いて』の大平光代さんみたいに、イジメ自殺未遂、キャバ嬢、やくざの女房、背中に刺青、一念発起で勉強をはじめて弁護士、くらいやらないと」という。
 え〜、そういっても、弁護士なんてとても無理だし、背中にあるのは、吹き出物だけだし。

 それから、去年見たテレビドラマ、内山理名主演の『嫌われ松子の一生』の川尻松子くらい、というのが、娘の言う「苦労を自慢してもいい」規準。
 「第一、川尻松子っていうネーミングが、なんか不幸を背負っていそうで、、、、」

 出発点は、私も松子も、中学校の国語教師で同じだったんだけれど。
 松子は中学校校長にレイプされお金を盗んだことにされて退職。私は、教員組合に入ったことで校長に嫌われイジメを受けて退職。うん、ここらから苦労の質で負けるなあ。

 松子はつぎつぎにしょーもない男と恋愛をし、だまされたり裏切られたりする。その中の一人から覚醒剤中毒にされ、その男を刺し殺して殺人犯として刑務所に入る。
 松子は親兄弟とも義絶。いつも親や姉妹に助けてもらった私は、そう、甘ちゃん人生です。

 その後も松子は悲惨な運命を繰り返す。さあ、あんたはどうだ。さあって責められても、私の人生、覚醒剤にも殺人にも縁がなかった、、、、息子の出産で死にかけたけれど、死ななかったし。
 松子はつぎつぎに「しょーもない男」に翻弄されたけれど、私が関わった「しょーもない男」は、今のところ、ひとりだけだし。

 はい、苦労したとは言えませんね。たいしたことしてこなかった人生です。
 てなワケで、娘からは常に批判的にみられ、反面教師として扱われるのが、母親の運命。
 娘と母は、しょっちゅう冷戦状態になり、しばし口をきかずにすごす。一番長いのでは、去年、5ヶ月くらい必要伝達事項以外、しゃべらないですごした。

 たまに仲良くすごせることもあり、「なにか、面白い本あった?」と、互いの本を交換したりすることもある。つかの間の晴れ間。干天の慈雨。闇夜に提灯。
 
 娘と私がふたりとも好きな作家、そうたくさんはいない。
 まえは、娘が「吉本ばなな」を読んでは、私に「これはよかった」「これはまあまあ」と勧めてくれたのだが、成人してからはあまり「ばなな」を読まなくなったみたい。

 母娘ふたりとも好きな現役の書き手は、文芸評論家の斎藤美奈子。
 物故作家で、母娘ふたりそろって「ああ、あの人がまだ生きていて書き続けていてくれたら」と、惜しく思っている人は、ナンシー関。コラムニスト。消しゴム版画家。
 『テレビ消灯時間』シリーズも、「何」シリーズも、「記憶スケッチアカデミー」も、みんな好きだった。

 先月、私が電車のなかで「小耳にはさもう」を読み返し、「最初の週刊誌連載から15年たっているのに、何度読んでも面白い」と思った。娘も「また読みたい」と、読み出した。
 そしてふたりして「天才だねぇ」と感心した。

<つづく>
10:17

2007/02/08 木
ことばのYa!ちまた>ぐっときた(2)ナンシーとるえか

 ナンシー関『小耳にはさもう』を1996年に文庫本で読んだとき、週刊誌初出は1992年なのに、数年たって文庫になっても、少しも古びず色あせず、生き生きしたテレビ時評人物評として読めたことに感心していた。

 今回はなにしろ初出から15年もたっているのである。それなのに、腹をかかえて笑い、鋭い評に感嘆し、文体の小気味よさに驚嘆した。

 『源氏物語』が千年たっても色あせないというのはわかるが、世の「文筆業界」からは、「すぐに消え去るイロモノ」扱いだった、テレビ時評人物評コラムという分野である。
 独断と偏見で断言しよう。ナンシー関も千年!残る。
 これほど「芸」がさえている日本語の「文・芸」は、そうはない。
 
 2002年6月、ナンシー関39歳の早世、つくづくと、惜しい。
 体重負荷が心臓に行ったと言われている。
 太っていることに対して開き直っていたナンシーに、読者こぞってダイエットをすすめるべきだったか、と心から思う。
 もっとも全読者が「ダイエット」と合唱すればするほど、「けっ」と言って「昨日今日太ったわけじゃない!」と、ブチあげただろうが。
 
 私の好きな須賀敦子が60歳でデビューして69歳でなくなったとき、惜しくはあったが、「なんでもっと書き続けてくれなかった」と、慨嘆はしなかった。
「作家として活躍した期間は短かったが、彼女なりに十分に生き、十分書いた」と、いう気持ちが残った。

 でも、ナンシーには、「なんでもっと書かなかった」と、悔しくて惜しい。
 去年の紅白。オズマバックダンサーの「裸に見えるボディスーツ」vs NHK、などについて、凡百のコラムでなく、ナンシーのコラムが読みたかった。
 ナンシー関オフィシャルサイト http://www.bonken.co.jp/

 小田嶋隆のナンシー関評を引用すると「ワンアンドオンリーな人だったと思う。スタンドアローンな、唯一の、かけがえの無い、稀有にして再生不能な才能」
 ワンアンドオンリーなスタンドアローンってカタカナの前半はともかく、かけがえのない再生不能な才能だったとつくづくおもう。

 もうナンシーの新作コラムは読めないと思うと世の中、味気ない。
 ナンシーをうけつぐ人はいないものかと、娘と私は「いっしょにおもしろがれる人」をさがした。

 一時期、ナンシーをつぐコラムニストは「青木るえか」と、娘とふたりで盛り上がった。
 けれど、るえかの「競輪」は私たちの守備範囲になく、るえかゾッコンの「大阪松竹歌劇団」も、OSKでは、実際に見に行けないから話がついていけない。(宝塚なら東京でも見ることができるけれど、そんなメジャーなものに入れあげる「主婦るえか様」ではない。

 ナンシーが幅広いファン層を持ったのに対して、るえかのコアなファンは「どこまでもついていきます」と思うが、一般受けはしないみたい。
 競輪とOSKにはノリきれないけれど、「主婦」シリーズ、読み続けます。
 最新の文庫は『主婦でイキます』

<つづく>
00:31

2007/02/09 金
ことばのYa!ちまた>ぐっときた(3)るえかとリリー

 るえかの面白さのひとつは、自虐ギャグの一種になるのだろうか、徹底的に自分が「グズ主婦」であり「ダメ女」であることを笑いのめしているところ。
 
 るえかコラムの引用
 「 『だめんずウォーカー』というマンガをちらっと立ち読みしたら、ダメな男にひっかかるという話がえんえんと続いていた。私なんかひっかけてももらえないが。「私ってこんなにダメなのよ〜」という顔をした自慢話ぐらいイヤなものはない。倉田さんはモテてうらやましい、私にはダメ男すら寄ってこねえんだ。 」

 って、いう感じで、るえかはえんえん、自分のダメ主婦ぶりやら、杉良太郎やOSKへの偏愛を語っていく。
 まあ、これも「わたしってこんなにダメなのよ〜」のひとつではないのか、というツッコミに対して、クラタマは太めではあってもビジュアル的に男がよりつく可能性を見せているのに対して、るえかはナンシーと同方向をまっしぐらってとこ(ビジュアル志向はみじんもないってこと)が、ナンシー後継者たるにふさわしい。

 辛酸なめ子、本名池内江美で小説発表するようになったので、我が家ではナンシー後継者候補コラムニストから外しました。(勝手に)

 我が家はたちまち、るえかのダメ主婦ぶりに感動し、洗脳された。
 るえかを読みはじめた2003年以来、部屋のそうじをしなくても平気になった。
 畳から虫をわかして平気な「るえか」に比べれば、ワタ埃のひとつやふたつや無限大なんぞ、屁でもない。

 古い缶詰の中味が変化して缶ごとガス爆発するまで放っておく「主婦るえか」に比べれば、冷蔵庫に賞味期限切れが折り重なっているなんぞ、そのうちガスが噴出しても、「屁で空中ウクライナ」てなもんである。(by ピエール瀧)

 ってか、掃除ぎらいが「るえか」という同類をみつけて、「そうだよねぇ、部屋掃除しなくても、死にゃしねぇ」と開き直ることができたっつうか。
 2003年以来のガラクタやらゴミやらが散乱した部屋で、「ほこりアレルギーでくしゃみが出る」と言いながら生活している。
 すでに「悲惨な状況」を通り越しているのだが、悲惨でも死なない。

 るえかのウェブコラムは『Web本の雑誌』に不定期連載。
http://www.webdokusho.com/koushin/aoki.php

 リリー・フランキー。
 娘は雑誌などでみかけるイラストも好きだったようだけれど、私はナンシー関との対談本でその名前を知るまで、何している人かも知らず、「リリー」っていうから女性だとばかり思っていた。

<つづく>
06:42

2007/02/10 土
ことばのYa!ちまた>ぐっときた(4)リリーとブルボン

 「リリー実は男性イラストレーター」だったので、なんだかだまされた気がして(勝手に)、『東京タワー オカンとボクと、ときどきオトン』で大ブレイクしても、それほど手放しでファンになることはなかった。娘は深夜バラエティなどのコメントが面白いといって、気に入っていたが。

 リリーが「マザコン」を公言し、「おかん大好きな僕ちゃん」であることを臆面もなく語ったりするのも、「う〜、それほど息子に好かれてみたいワン」と、うらやましいだけで、コンチクショーとやっかむばかり。
 うちの「僕チャン」もマザコンに育てたかったけど、ふう、毎日メシ作って食わせる母のことは「ウザい」のヒトコト。

 苦労をひとりで抱えて生きてる母はうっとうしくて、その苦労の種を作り出している「ごくまれに、たま〜にオトン」は貴重品扱いってのは、どう考えても不公平じゃないか?
 だから、あんたの苦労なんて、苦労のうちに入っていないんだってえの。(by 娘)
 はいはい。

 今月、娘が私に「絶対おすすめ、母はきっと気に入るから、とにかく本を読んでみて」というので、新刊書店と古本屋で2冊買った作家。ブルボン小林。

 コラムニスト、ブルボン小林、別名の「長嶋有」では小説家。『猛スピードで母は』で2001年に芥川賞受賞。(ブルボンの表記ではactager show)。受賞時29歳。

 ゲームをする以外のことは何もしない娘と息子は「ファミ通」というゲーム専門雑誌を毎号買っている。ファミ通でゲームソフト評論をやっているのが、ブルボン小林。

 「『ゲーム・ソムリエ』というコラムが面白いよ。母、ぜったいファンになるから、ぐっとくる題名ってのを買ってきて」と娘に言われて、新刊書店で『ぐっとくる題名』を買った。中公新書756円。古本屋ではウェブ時評コラム『末端通信』を買った。66円。毎度御用達の、3冊200円の棚で見つけた。

 新刊も古本も、面白かった。笑えた。
 「ほらね、母が好きになる作家だって言ったでしょ」と、娘は得意そう。

 ゲーム評論の『ジュ・ゲーム・モア・ノンプリュ』は、ゲームを全く知らないので買う気になれないかったのだけれど、ゲーム知らない人にも案外おもしろいのかもしれない。
 タイトルは、ジェーン・バーキンの出世作「ジュ・テーム・モア・ノンプリュ」のパロディ。バーキン、私はバッグの名前でしか知らんのだが。
 「愛してる(Je t'aime)」「俺?さあね(Moi non plus)」

 ブルボン小林の『末端通信』は、2001年から2002年にウェブ連載されていたコラム。
 それが、発表から6年もたっていて、古本屋で66円なのに、古びていない。笑えた。

 ウェブの世界では、ドッグイヤーで時間が進む。犬の寿命と同じくらいの早さで時間が鳶猿(この誤変換おもしろいからそのまんま)。
 1年で成犬となる犬の時間。人間世界にあてはめれば、1年たつと、20年分の時間が過ぎ去ったことになる。2001年の「末端通信」初回から6年たつ。ドッグイヤーを人間に換算すれば40年分くらい時間がたっている勘定になるのに、とても面白かった。

<つづく>
00:03 |

2007/02/11 日
ことばのYa!ちまた>ぐっときた(5)ブルボンとカトリーヌ

 末端通信のなかで、「ナンシー関」を追悼している文章もなかなかいい。
 ああ、私たちが気に入る人は、やっぱり「ナンシー大好き」なんだよね、と確認。
 「空前絶後のナンシー関」「不世出のナンシー関」ではあるけれど、当分はブルボンをおもしろがっていようかね、ということになった。

 ブルボン小林というペンネーム。パソコン通信初期のどこかのBBSで、製菓会社ブルボンと小林製薬のCMを熱く論じたのでつけられたハンドルネームなんだって。

 ブルボンのネーミング、「フランスのブルボン王朝ではなくて、スーパーの安売りコーナーで山積みになっている製菓のブルボン」と思ったのは当たりだったが、小林は小林製薬とは思いつかなかった。(長嶋のほうが本名)

 ブルボンっていう発音の響き。「フランス・ヴァロア王朝」とか言うときの、「何だかよくわかんないけれど、華麗にして厳粛」って感じに比べると、ありがたみが60%薄らぐ。なぜだろうと思っていた。
 ブルボン王朝最後のルイ16世やマリーアントワネットがギロチン台に消えたせいかしら、と思っていたのだけれど。

 日本語の文脈のなかで、ブルボンって発音したときの音の響きが、「バカボン」とどっこいどっこいになっちゃうからだ、とわかった。ブルボン小林が『天才バカボン』を語っている語り口のおかげで。

 リリー・フランキーの『東京タワー』も、親友の名前がバカボン。
 バカボンもブルボンも天才ですね。

 さて、ブルボンである。
 新潟でおせんべ焼いてたお菓子メーカーが、「北日本製菓」から「ブルボン」に社名変更したあと、一瞬だけ高級菓子っぽくみえたときがあった。
 社名変更当初、テレビCMにカトリーヌ・ドヌーヴを使って、世間様をあっと言わせたのだ。

 カトリーヌが「ブルボン」という社名をきいて、ブルボン朝と、なんぞ関わりがあるのかいなと勘違いして、出演を承諾してしまったのだというウワサ。
 ブルボンといえばフランス、フランスといえばカトリーヌ、という発想でたどりついたドヌーブにCM出演を承諾させたのはどこのどなただったか、回想記が読みたい。

 ドヌーブの自分史の中では、この「ブルボン朝とは縁もゆかりもない元・北日本製菓」のCMに出演したことは、「大女優の思い出に残る仕事」として記憶されているのかどうか、ぜひ突撃芸能レポーターの果敢なるインタビューを待ちたい。

 カトリーヌ効果が失せると、一瞬の「スターの輝き」は消えて、たちまちスーパー投げ売り品コーナーの袋菓子というイメージが定着したが、おせんべ焼いていた北日本製菓の時代よりは格段に全国区になった。ブルボン様さまである。

<つづく>
10:52 |


2007/02/12 月
ことばのYa!ちまた>ぐっときた(6)ミッキーとブルボン

 「安川素絢斎」「堺枯川」「三木露風」「滝廉太郎」となると、何だかエラソーな感じがする。
 その名を知らなくても、なんだかわかんないけれど、きっと立派なことした人なんだろうって、思える。

 一方、ミッキー安川、フランキー堺、ジェームス三木、ピエール瀧。このパターンのネーミングだと、どうしても「バタ臭くて陽気で軽い」感じがします。

 フランキー堺のように進駐軍時代にバンド活動などしたんだろうなあという雰囲気がするネーミング。
 ミッキー安川のように「オレはアメリカ留学して、英語ぺらぺらなの」っていう感じがとても安上がりに思えるネーミング。
 総じて「カタカナ名+漢字苗字」は、屁力で浮きそうな気がする。

 ジェームス三木なんか、仮面夫婦やら「春の歩み日記(交情のあった女体の採点簿)」やらという、実にアクの強いスキャンダルが元・妻によって暴露されたのに、暴露をものともせずシナリオ作家として生き残ってきた。
 (最新作は稲森いずみ主演『忠臣蔵 瑤泉院の陰謀』2007年1月2日放映。長いから見なかったけど。)

 むろん、才能もあるのだろうけれど、仮面も女体採点も、「ジェームス」だから、ま、いいか、という筆名の軽さが作家イメージを救ったのではないか、と私は推測しておる。
 これが、「三木清泉(本名)」だと、清いイメージが崩れたあとは、ぐずぐずになったのでは。
 
 どうして、ナンシー関とか、ブルボン小林とかの名前だと、「軽さと気楽さ」が醸し出されるのかっていうのを考察していたら、ジェームス三木やミッキー安川のイメージまで思い至りました。言語学的ネーミング考察です。

 一方、藤ジニー蓮實シャンタル、桐島ローランド滝川クリステル木村カエラ山本モナ、など、「漢字苗字+カタカナファーストネーム」だと、「うちらの親や夫は由緒正しき日本人どすぇ」(なぜ京都弁?)という感じになって、「歴とした家に突如金髪の妻がやってきた感」やら、「日本娘が外国人と結婚してハーフが生まれました感」が醸し出される。やたらなことでツッコミいれると、フランス語やノルエー語で叱られそうな気がする。

 ブルボン小林の『ぐっとくる題名』は、本などのタイトルを評しているコラム集。
 本のタイトルをとりあげ、なぜそれが受けたのか、分析している。

 ネーミングというのは、応用言語学のひとつの分野。言語学教科書のなかでも、一章をつかって講義されている。

<つづく>
===============
もんじゃ(文蛇)の足跡
(注)「安川素絢斎」江戸中期の画家。「堺枯川」は、明治の社会主義者、堺利彦。「三木露風」は『赤とんぼ』の詩人。「滝廉太郎」は『荒城の月』の作曲家です。
 藤ジニーは銀山温泉の金髪女将アメリカ出身。蓮實シャンタルは評論家蓮見重彦の妻フランス出身。桐島ローランドは写真家。桐島洋子の息子、江角マキコと離婚。滝川クリステルはニュースキャスター。木村カエラは歌手。山本モナはタレント。

 (↓を受けての追記)モナが民主党議員との路上キスシーンを激写され、ニュースキャスターから降板されても、すぐさま北野武がタレントとして復帰させることができたのも、モナって名のイメージなら「不倫スキャンダルも逆手にとれる」と、ビート殿が判断したんじゃないかしらん。
 山本清子とか山本貴子だと、アナウンサーにはいいけれど、かぶりもので登場するのは似合わないもん。

00:01 |


2007/02/13 火
 ことばのYa!ちまた>ぐっときた(7)ブルボンとピエール

 一般ピープルがネーミングに頭をひねるのは、子供が生まれたときくらいのもんだが、商品ネーミングとなると、「売れるか売れないか」の重要な要素で、社内ネーミングプロジェクトやネーミング専門会社が知恵をしぼっている。

 本や歌のタイトルも、題名ひとつで売れ行きが異なる。
 『ぐっとくる題名』に登場するタイトル「ゲゲゲの鬼太郎」「勝訴ストリップ」「部屋とYシャツと私」「ツァラトストラかく語りき」「11人いる!」「少年ケニヤ」「アンドロイドは電気羊の夢をみるか」「にょっ記」などなど。

 ブルボン小林は、言語学なんぞを持ち出さずに軽快にネーミングの要を語っているのだけれど、日本語の音声と意味と語構成について、凡百の言語学専門書より鋭い感覚で迫っていて、言語学日本語学の授業でも『ぐっとくる題名』が使えそう。(ツーカ、後期の日本語学&社会言語学の授業で使おっと)
 
 言語学などと言い出すと、とたんに堅くて無味乾燥に思えてしまうが、『ぐっとくる題名』とにかく笑える。(ほんとは言語学もおもしろいんです。『言語学の散歩』とか、笑えます)
 『ぐっとくる題名』については、いずれゆっくり日本語学がらみで語りたいです。

 『ぐっとくる題名』で分析されている本のタイトルの中で、ばかばかしくて笑えるネーミング。たとえば『屁で空中ウクライナ』。
 電気グルーブのピエール瀧のエッセイ本のタイトルです。
 このだじゃれ自体は、地理の授業に退屈した中学生あたりが思いつきそうなものであるけれど、それをそのまま本のタイトルにするのは、なまじっかなことじゃできない。

 タイトルしだいで売れるも売れないも決まるというに、本屋のカウンターへ行って、レジにお客さんが並んでいる前で、書店員に「すいません、あの、『屁で空中ウクライナ』ってゆー本、探してるんですけど、『ヘデクーチューウクライナ』ありますか」って、大声で頼めるかってことになると。

 「ヘデクーチュー」を、ウクライナ語とかロシア語の、ちゃんとした意味があることばなのかも知れないと、まじめに検索してくれる書店員もいるかもしれない。

 私は「エリエリ・レマ・サバクタニ」という音のひびきを耳にして、「怪しげな星占いの呪文みたいなことばだ」と思った。このフレーズが、「神よ神よ、なぜゆえ我を見捨てたもうか」という旧約聖書詩編を引用したイエス最後のことばだということを、青山真治の映画のタイトルになるまで知らなかった。

 「はい、かしこまりました、ヘデクーチュー、ウクライナですね。少々お待ち下さい」と、検索画面に打ち込んで『屁で空中ウクライナ』が画面に立ち上がったとき、書店員が「プッ」と、屁のような笑い声をあげたとき、平然としているのはむずかしい。いっしょに照れ笑いするしかない。

 電気グルーブを知らなくても、ウクライナという国家が地図上のどこにあるのか知らなくても、笑える。
 ばかばかしさが気に入ったので、すでに何度かこのシリーズ中に登場させてますが、何か。

 私、ピエール瀧については役者として、『Allways三丁目の夕日』の氷屋や、『ゆれる』の刑事役で見ただけなのだけれど、きっとエッセイの才能も花開いているのだろうと、読む気にさせる、オバカなネーミングです。
 電気グルーブのライブでは、ピエール、力をこめて放屁し、きっと空中浮遊するんだろうなあと、想像できます。いや、ほんとに。

<つづく>
00:00 |


2007/02/14 水
ことばのYa!ちまた>ぐっときた(7)ブルボン小林『ぐっとくる題名』

 マッキー光永『ろくでなし(129)』に出てくるデリバリヘルスの店名「ヤマトナデ”シコシコ”」。このネーミングを文章中に登場させるタイミング、絶妙です。
 電柱へのビラ貼りとビラ剥がしのアルバイト同士の緊迫の対決も、笑って脱力してしまう。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/mackychan/diary

 人様の日記は笑って楽しんでいるが、どうも私の書く日記は、「不幸自慢」やら「よい人ぶりっこ」になっていく一方で、笑えない。
 アントニオ・KJr.さんからも、「もうちょっと笑える文章なら読む気になれるのに」という感想をいただいたことがある。

 こればかりは、資質才能の問題で、笑いをとるのは、漫才落語でも文章でも一番高度な技ですから、私ごときがなまじっかな笑いをとろうとするとたいていスベります。

 『ぐっとくる題名』の中、ブルボン小林は、ネットに増殖し続けるウェブ日記について「ネット日記は、自己愛が肥大化していく」と、書いている。

 あれ?『末端通信』の中に書いてあったんだっけな。
 読むときは寝っ転がって読むか電車の中かどちらかなので、いつも読み流し。メモとったり、付箋貼ったりっていうことはしないので、何がどこにかいてあったか、あいまい。
 ま、とにかく、書いてあった。

 すぐ人のことばに影響される私は、たちまち、「おっとお!わたし、こんな苦労してきました」なんてウェブ日記に書くのは、自己愛肥大化の極地って思われちゃうよねぇ、そんじゃ、私の苦労はたいしたことありませんっていうExcuseをいれとかなくちゃ。

 というわけで、「私の苦労は苦労といえるほどのものじゃありませんのに、苦労したとか語っちゃって、すみません」というおことわりつきで、「ブルボン小林」は面白いです、という読書日記を書きました。ついでにというか、こっちが肝心だったのだけれど、ネーミングと語のイメージについて、書きました。

 今回は「カタカナ名前の人」というコンセプトで並べたので、私が好きなほかの「笑わせてくれる書き手」である井上ひさし、宮沢章夫、三谷幸喜などは割愛しました。
 これにて、私と娘がはまり、ふたりが愛好する「笑わせてくれる書き手のうちカタカナ名前の人」の紹介、「ぐっときた」シリーズはおひらき。

<おわり>
00:19 |




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