Workshop for Nipponianippon Communicative Language& Culture Studies


日々雑記いろいろあらーな2004年9月

ポカポカ春庭のいろいろあらーな2004/09
| 日付1 |
タイトル |
今日の一冊 |
著者 |
2004
09/01 |
夏色ノスタルジィ(1)
雲の峯 |
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| 09/02 |
夏色ノスタルジィ(2)
雲の王国 |
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| 09/03、09/04 |
夏色ノスタルジィ(3)
思いでの夏の庭 |
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| 09/07 |
夏色ノスタルジィ(4)
くじら波 |
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| 09/08 |
夏の終わりの旅(1)
嵐の日本海 |
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| 09/09 |
夏の終わりの旅(2)
高山線 |
No,145
『人間証明』 |
(も)森村誠一 |
| 09/10 |
カラーロード(1)
カラーライト |
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| 09/11 |
カラーロード(2)
イエローブリックロード |
No.146
『オズの魔法使い』 |
(ボ)ライマン・F・ボーム |
| 09/23〜09/25 |
日記再開へ向けて
(1)〜(3) |
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ポカポカ春庭の「いろいろあらーな」夏色ノスタルジィ(1)雲の峯
at 2004 09/01 08:54 編集
夏川に木皿しずめて洗いいし少女はすでにわが内に棲む(寺山修司)
毎年毎年、夏が来て、夏をすごして、夏は思い出になる。心のアルバムの中に、私のたくさんの夏が積み重なっていく。
田舎ですごした子供時代の夏。家族をもち、子供の成長とともにすごした都会の夏。
東京ヒートアイランドの中で、20年。子どもが成長してしまえば、もういっしょにお出かけすることも少ない。海やプールにいっしょにいくこともなくなった。今年は、かろうじて花火大会にいっしょにでかけた。今年のこどもとの夏の思い出は「花火色」
「夏色に命輝く(1)」に「夏色と聞いて思い浮かべるのはどんな色だろうか」と書いた。それに答える足跡をいただいた。
2004/07/31 16:13 sfnt 夏色。入道雲の真っ白な色。*^0^*
東京ヒートアイランドでも、昔の田舎の夏と同じ色がひとつだけある。団地の空の上にそびえる入道雲の白。
今の東京は昔の田舎に比べて入道雲を見る機会が少ないが、それでも、もくもくとわき上がった時の白さと量感は、子どものころの夏を思い出させてくれる。
山に囲まれた私の故郷では、毎日入道雲が東西の山の上に巨大な姿をみせた。
入道雲、気象用語では積乱雲。季語では、「雲の峰」「峰雲」「雷雲」とも。
子どものころは、「あの雲の中で暮らせたら」とか、「あの雲が全部ソフトクリームで、全部ひとりで食べられたらどんなにいいだろう」と思ってながめた。
今は、ただその形、その色が目にはいるだけでうれしい。もし、本当に入道雲ほどのソフトクリームを食べていいと言われても、現在のおなかの太さを考えると躊躇。
航海やよるひるとなき雲の峰(高浜虚子)
雲の峯もろにむらだち力満つ(石原八束)
傷心の夏のはてにも雲の峯(春庭)
こどものころ、毎年連れて行ってもらった海水浴。山にかこまれた小さな町から延々と汽車を乗り継いでたどり着いた海。昔の田舎の子どもにとって、夏の海は最高の贅沢だった。
母が家庭菜園で手作りしたキュウリや茄子、いんげんの収穫。トウモロコシを焼く炭火七輪係は私。
図書館から借りてきた本も全部よんでしまって、退屈な午後。こわくて見に行けなかったお盆のおばけ映画。毎日山の上にわき上がる入道雲、夕立
入道雲の下で走り回った、あれが私の「雲の王国」の季節だった。<夏色ノスタルジィつづく>
ポカポカ春庭の「いろいろあらーな」夏色ノスタルジィ(2)雲の王国
at 2004 09/02 08:05 編集
hawkさんの8月cafe日記から
「昼間の入道雲も好きですね。夏のモクモクとした雲をながめていると、思わず「雲の王国」を想像してしまいます。雲と雲の間のわずかな隙間をジッと見つめて、もしかして人が横切らないかと見張ってみたり、雲の形を街に見立ててみたり。現実逃避したいのかな?さすがに今は、「いかん、いかん」とすぐに現実に戻ってきますが、子供の頃のクセはなかなか抜けません☆」
子供のころの「雲の王国」を今でも追い続けているのは、私だけじゃないんですね!私と児童文学の読み方や感じ方が似ているhawkさん。大人になっても子供のころのように、入道雲をながめているうち、雲の王国へ移住してしまうのも同じ!雷が好きなところもいっしょです。
都会のビルの上に頭を出した入道雲を見ているうち、心は雲の王国へとんでいく。幼いころの私が愛犬コロや姉たちといっしょに雲の中をとびまわっている。
子どものころの田舎の夏。コロといっしょに、線路の土手をころげまわった。
土手の上から山をみると、入道雲がもくもくと巨大化している。「ゴジラみたいだ!」
入道雲は雷雲に変じていつのまにか東の山と西の山の間をふさぐ。いきなりの雷と大粒の雨に、大あわてで部屋にかけこみ、濡れた髪をふきながら、雷を怖がるコロを膝の上にのせてやる。
「雨がやむまで、学校ごっこをやろう」と、姉が提案する。姉は小さな妹に、名前のひらがな読み方書き方を教え込む。「も」「も」。「もも」
「わぁ、読めるじゃない。ももちゃんすごいよ。じゃ、次は書くよ。くるりん、まあるいしっぽに、よこぼう、よこぼう」
「クルン、ボーボー」書く方は、なかなかうまくいかない。
私はコロにカタカナを教えてやる。自分の名前なのに、コロは「コ」も「ロ」も区別がつかない。「ほらあ、似てるけど、ロは四角。コは左側がないんだよ。」
コロは、カタカナより雷の音が気になる。テレビで見た学者犬は名前が読めるだけじゃなく、足し算掛け算だってできたのに、、、、。コロは学者になれそうにない。
姉と妹とコロがいた夏。40年45年、月日は、稲光が走るより速く過ぎ去ってしまった。
子供たちとすごした都会の夏も、20年がササッと通り過ぎた。
1992年夏公開のドラエモン映画『のび太と雲の王国』を見たのは、映画館じゃなくてテレビ放映かビデオだったと思うから、93年のことだったろう。雲の中の王国ですごすという設定に、子供たち以上に私のほうがわくわくして見た。
『のび太と雲の王国』は、ドラエモン映画の中でも、メッセージがはっきりしている作品。
雲の上には「天上人」が住んでおり、自然が破壊しつくされた地球を「リセット再生」しようとする。ドラエモンとのび太たちは、天上人たちの地球改造計画を阻止し、自分たちの力で地球を取り戻そうとする。
「地球と自然を守れ」的な教訓部分がイヤな人もいるけれど、私は素直に楽しめた。雲のなかで暮すことを想像しただけで、はまってしまうから。
姉や妹とすごした雲の王国の日々も、子供たちと過ごした都会の夏の日々も、もはや遠い。今やひとりノスタルジィの国にとじこもる毎日。<夏色ノスタルジィつづく>
ポカポカ春庭の「いろいろあらーな」夏色ノスタルジィ(4)思い出の夏の庭
at 2004 09/03 08:42 編集
「話しことばの通い路」の「ちえのわ七味日記2003/08/01」からの再録。
「思い出の夏の庭」
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よう子さんの庭を訪問。
いつもジャムを分けてもらう庭の木々。ゆず、みかん、キウイ、柿、いちじくなど、木を見たり、タイム、ローズマリー、フェンネル、オレガノなどのハーブについて教わったり。私には、ローズマリーとタイムの区別もよくわからないのだが、野菜や果物やハーブに囲まれている生活、いいなあ。
よう子さんが夕食の準備をしてくれている間、一人で庭を眺めながら、なんだか子どものころを思い出して、胸いっぱいになる
子どもの頃の庭。庭木はほとんどが「食べられる木」だった。縁側のぶどう棚、玄関脇の柿の木、裏庭のいちじく。 口いっぱいにほうばった坪山のユスラゴ(ゆすら梅)。
はたんきょうの木は、アメリカシロヒトリがたかるようになり、お父さんが切ってしまったっけ。
あんずの木は父が子どものころ食べて育った木を接ぎ木した。ついに実がならないままだったが、切ろうとはしなかったのは、子どもの頃の思い出が実となって、父の目に見えていたからだろう。いま、よう子さんの庭を見て、私がこどものころを思い出したように、父は杏の木を見て、自分の子ども時代を思い出していたのだ。
子どものころは、うちの庭が不満だった。絵本の中にでてくる、天使像のラッパの先から噴水があふれ、白い大理石の泉にそそぐような、珍しい花々の間をお姫様が散歩をするような、洋風の庭のある家だったらどんなにいいだろうか、と我が家の雑草半分の庭を見ていたのだった。
私が幼稚園小学校の頃、庭の西側は夏になるとダリアの花でいっぱいになった。庭の手入れなどしていないが、球根から毎年花が咲いた。
ままごとにダリアをつかうときは「花粉に毒があるから、手につけないように気をつけて」と、注意を受けた。ダリアの花は、夏のままごとのごちそうだった。
私がダリアの花びらをお皿にならべてもちっともおいしそうに見えないのに、姉が工夫してもりつけると、ほんとうにすてきなごちそうにみえる。
姉はままごとを卒業すると、母の料理を手伝うようになったが、私は料理はさっぱりで、家の手伝いは、薪風呂の風呂炊き担当。「薪割り」が大好きだった。「大鉈」をふりかぶって、ヤァと振り下ろす。太い薪がまっぷたつに割れる。
姉の料理上手は長じたのちも役にたったが、私の「薪割り名人」は、今何の役にもたっていない、、、、。
私たちがままごとをしなくなったら、いつのまにか、ダリアは庭から姿を消してしまった。球根にも寿命があったのかもしれない。<夏色ノスタルジィつづく>
ポカポカ春庭の「いろいろあらーな」夏色ノスタルジィ(4)ノスタルジィガーデン
at 2004 09/04 08:27 編集
(2003/08/01 ちえのわ七味日記再録 つづき) 思い出の夏の庭。
お母さんが洗濯物を干している。
姉が「料理やさん」で、お料理を作る。私は「やおやさん」で、庭から花や葉っぱを集めて、料理やさんに売る。まだ幼い妹はお店やさんになれないから「しんよきんこ」になってお金をあずかる。
料理屋さんが開店すると、私と妹が食べに行く。何回か食べるうちに、最初に均等にわけたはずのお金は、いつのまにか料理屋の独占になって、お店やさんごっこは終わりになる。
野菜の値段より料理の値段の方が高くなるのは納得できたが、信用金庫はお金を預かって、利子を付けて返したら絶対損をするとおもうのに、なぜお金を集めにくるのか、さっぱりわからなかった。
スクーターで「きんこおじさん」がやってくる。今月の預金を集めに来たのだ。母は洗濯物を干し終えて、信用金庫勤めの弟に麦茶を出す。
私たちはままごとをやめて、止めてあるおじさんのスクーターにまたがり、運転ごっこをはじめる。姉と私と妹を乗せて、スクーターは夏の庭から飛び出し、お日様の向こうまで走り回る。夏の陽は、そろそろ西に傾いてくる。
長じて、料理好きの姉が開いたレストランは、借金を残してたちまちつぶれてしまった。ままごとではいつも一番お金持ちになるのに、実際の経営では、つけを回収することができなかった。食材や内装にお金をかけ、料金設定は低くしたから、少しも儲からない店だった。料理上手だったけど、金儲けの才能が欠如している我が一族のわくを越えることはなかった。
実家に残った妹は、柿もあんずも全部切り倒し、庭をコンクリートで固めたアパートにしてしまった。新しく建てた自宅のローンとアパートのローン両方をかかえて、妹はずっと、ヒィヒィ言っている。銀行がなぜもうかるのか、今ではよくわかった。
母が死んで30年、母の弟きんこおじさんが死んで2年。姉が死んで1年3ヶ月。夏の庭は瞼の中に遠い。(2003/08/01執筆「ちえのわ七味日記」より)
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思い出の中の夏の庭だからこそ、なにもかもが光のなかに輝き、母の姿も姉の姿もくっきりと美しい。
そびえたつ入道雲を思い出し、なつかしい田舎のダリアの庭を思い出して反芻する。セピア色に遠くなる夏の思い出。<夏色ノスタルジィつづく>
ポカポカ春庭の「いろいろあらーな」夏色ノスタルジィ(5)くじら波
at 2004 09/07 20:09 編集
山に囲まれた小さな町に生い育ったので、はじめて海を見たのは、小学校1年生のときだった。
鎌倉へ連れて行ってもらい、姉やいとこたちと海にはいった。しかし、はじめて海をみた感激はさっぱり覚えていない。したたかに波に打たれて海水を飲んでしまい、「しょっぱいよぉ、川のほうがずっといいよぉ。川に行きたい、川で泳ぎたい」と、泣きわめいたことだけ覚えている。
翌年からは、鎌倉でなく日本海へ出かけることになった。故郷の町からは、太平洋に出るにも日本海に出るのも同じくらい時間ががかる。それならば、東京方面行きより、日本海方面の電車にのったほうが、すいている、という理由だったのだろう。6年生のときに茅ヶ崎海岸へ行ったほかは、海水浴といえば、ずっと日本海「くじら波」だった。
夜、子供たちは夕食後すぐに「寝なさい」と床につかされる。いつもなら、「まだ起きてる」と言い張る子供たちも、海水浴の前夜は素直に横になる。
朝、3時をすぎると、もう起こされる。眠いけれど、起きなかったらたいへん!おいてかれる。母が用意したお弁当をそれぞれのリュックに詰め込む。電車の中で食べる朝ご飯と、海で食べるお昼ご飯二食分だ。浮き輪や水着を確かめて、いざ、出発。4時すぎには駅につく。
えきおじさんの一家が駅で待っている。へいたいおじさんが戦死したので、実家のあととりになった駅おじさん。長男のへいたいおじさんが農業を継ぐはずだったので、国鉄駅員として働いていた。実家をついだが、農業はおじいさんにまかせて、国鉄勤めを続けている。
近所の里山へピクニックに行くときなどは、うちの家族だけで出かけていたが、国鉄を使うお出かけのときは、たいてい駅おじさんの一家と合同だった。たぶん、留守番のおじいさんの分の家族割引パスをつかわせてもらっていたのじゃないかな。
乗るのは鈍行。朝一番の始発に乗る。
最初は興奮して窓の外の景色をながめ、ひとつひとつ停車する駅の名を覚えたりしている。蒸気機関車のころは、トンネルをぬけるときは大慌てで窓をしめなければならなかった。煙が入ってくるのだ。
早起きのせいで、暗いトンネルの中でゆられているうちに眠くなってくる。目がさめると、すっかりあたりの様子がかわっている気がする。「国境のトンネルをぬけると、海のある県だった」という感じ。
電車を乗り換えると、周りは広々とした田園風景。稲穂がどこまでも広がっている。山に囲まれた町では、世の中は山で区切られているかのように思って暮している。ああ、世界にはこんなに広々とした土地があるんだなあと、毎年思う。
「稲架(はさ)」をとりつけるための木が並んでいる。稲穂を刈り取ったあと、木から木へ渡し、束ねた稲を架けておく「はさ」は、まだとりつけてない。まっすぐに幹が伸びた木が行儀良く並んでいるのも、うちの地方の田圃とちがう風景。
ようやく「くじら波」に着く。大きな波が押し寄せている。ほんとにくじらのように大きな波だ。
海というとこの大きな波が必ずあると思っていたのだが、凪の平らな海もあると後年知った。父や駅おじさんの休暇がとれる時期が土用波のたつころだったので、毎年、大きな波の海にでかけていたのだった。
海の家に荷物をおろすと、さっそく海に行く。
もう、私も、初めて海で泳いだときのように「海はしょっぱいからいや、波があるからきらい」と、泣いたりすることはない。
夕方まで、姉やいとこたちと泳いだり、波の上下にあわせて浮き輪で揺られているのを楽しむ。波打ち際に砂山を作り、波に壊されるのを見る。
陽がかたむくころまで遊んでも、まだ遊び足りない。しかし、父が「帰るぞ」と言ったら、大慌てで水シャワーを浴び、着替えなければならない。
夕方の電車にのり、また各駅停車の鈍行で帰る。家につくのは夜もふけてから。
泊まりがけで海へいったことは何度もなかった。泊まりがけといっても、旅館に宿泊するのではない。荷物をおろした海の家にそのまま泊まるのだ。海の家の砂っぽい床。毛布一枚づつあてがわれて、みんなで雑魚寝。
我が家は、犬猫うさぎにわとりを飼っていたので、一家そろって泊まりの旅行にでるのは難しく、せいぜい一泊だけだった。
海ももちろん楽しかったが、各駅停車の電車にゆられて、ぼんやり外の景色をながめているのも大好きだった。今でも、何時間でも電車に乗りっぱなしで、ぼんやり景色をながめている旅が好きだ。<夏色ノスタルジィつづく>
ポカポカ春庭の「いろいろあらーな」夏色ノスタルジィ(6)夏の終わりの旅(嵐の日本海)
at 2004 09/08 08:53 編集
8月末日、「小さな旅」に出かけた。
一日だけのひとり旅。なぜ、夏の終わりにひとり旅をするか。夏が終わると一つ年をとってしまうから。今の年齢を惜しむセンチメンタルジャーニィ。
「ああ、もうちょっとしたら、もう一歳年寄りになるんだなあ」と、感慨にふけりながら一日中電車に乗っているだけの旅をする。
車窓に流れる風景をながめながら、これまで人生を通り過ぎていった時間を呼び戻し、ノスタルジィにひたる。
青春18切符というJRの「一日乗り放題切符」がある。近頃の若者は「普通電車しか乗れない」不自由な旅は敬遠するのか、若者よりむしろ退職後のスローライフ気まま旅がしたい人などに、この切符愛好者が増えてきたのだと聞く。
私はいつも留学生に「時間がある人は、ぜひこの切符を活用しましょう」と教えている。青春18切符で北海道めぐりをしてきた、とか、ホームステイする四国への往復につかったなどの報告を聞いた。
私の18切符活用術。出発するまで「どこへ行く」とも決めないで、電車に乗る。
今回は最初、明日香村に行ってみようかと思いながら家を出た。最寄り駅で「ムーンライトながら」の指定席券がとれなかったので、新潟行きムーンライトえちごに変更、「日本海を見る旅」にした。
「夏色ノスタルジィ小さな旅」としては、いい旅になったが、台風16号直撃のさなか出かけることになったため、全行程普通電車にはならず、「青春18切符利用の旅」としては失敗の巻。
新宿発の夜行快速に乗り、朝、新潟着。台風が過ぎたあとの日本海をながめながら、海岸ぞいを普通電車で、ゆっくりのんびり行けるところまで行くつもりだったが、超大型で超強いという16号、とてもゆっくり進んだので、新潟へ着いたとき、まだ通り過ぎていなかった。
台風が佐渡付近にいるというその時間に越後線に乗ってしまい、2両連結のジーゼルカーが途中の小さな駅で止まってしまった。電車内が停電になり、原因も不明のまま、30分、40分。運転手さんと、若い女性車掌さんが電車内を行ったりきたり、故障の原因を調べたけれどわからない。
ついに、タクシーで代行輸送することになった。タクシーで吉田駅へ。さらに柏崎へ。
柏崎へ着いたら「たった今、強風の影響で越後線信越線の全電車が、運行停止になりました」というお知らせ。安全が確認されるまで、待つこと80分。やっと運転再開。
越後線信越線北陸線を乗り継ぐ。鈍行列車を乗り継ぎ乗り継ぎしながら移動するのが「18切符」の旅だが、電車が遅れたのでしかたなく、特急も利用した。
柏崎から直江津までは普通電車にのり、直江津から富山まで、金沢行きの特急を利用。特急に乗ると、18切符は使えないので、あらためて一般乗車券を買い足し特急券も買うことになる。
まだ台風の影響が残る高波が灰色にうねり、押し寄せる。防波堤に打ち返す波頭が白く激しく砕け散る。日本海の荒々しい風景が印象に残った。<夏色ノスタルジィつづく>
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もんじゃ(文蛇)の足跡:
越後線岩室駅で故障してしまった電車の若い女性車掌さん、就職してはじめて出会ったのかも知れない電車故障のなか、懸命に乗客に対応していました。自分のせいで電車がとまったのではないのに、こまったような顔で「申し訳ありません、すみません」と言いながら、乗客たちの質問に答えている姿、立派な車掌さんぶりでしたよ。自分の選んだ仕事に誇りを持って働いているようすが、謙虚な姿勢の中にもあふれていました。
電車が好きで車掌さんの仕事を選んだのかな。最近女性車掌さんの車内放送を聞く機会が増えてきたけれど、電車で仕事をしたいと希望している後輩女性のためにも楽しく仕事を続けてね。
今回はタクシーの代行輸送になりましたが、いつか機会があったら、また小さな電車にゆられてのんびり回る旅にでて、あなたの車内放送を聞きたいですよ。いっしょうけんめい事故に対処してくれてありがとう。
ポカポカ春庭の「いろいろあらーな」夏色ノスタルジィ(6)夏の終わりの旅(高山線)
at 2004 09/09 00:20 編集
(8月末、青春18切符利用の旅、つづき)
富山からは、高山線で山の風景へ。2両連結の電車で山の中を通っていく。
稲穂が黄金色に輝く。風になぎ倒された部分もあるが、ゆれる穂波が美しい。
台風に耐えた実りを収穫し、秋の祭りをする日のはずんだ気持ちが、風にゆれる稲穂の中にみえてくる。
9月1日から風の盆でにぎわう越中八尾を通りすぎる。豊作祈願をこめて町中を踊り歩き、胡弓をひきながら流していく「おわら風の盆」
町は祭りの準備中。
明日はこの町の通りが、踊る人見物する人でいっぱいになるのだろうな。「踊り見物が楽しみ」とにぎやかに会話しながら女性グループが下車する。祭りに合わせて久しぶりに帰郷する、という雰囲気の若いビジネスマンも降りる。
こうやってこの小さな町を訪れる人もいれば、この町から出ていきたいと思って電車に乗り込む人もいるのだろう。
この夏、娘息子と見ているドラマ『人間の証明』。私は真犯人を知っているので、「絶対にしゃべっちゃダメ」と、釘をさされながら見てきた。
刑事が被害者の出身地、越中八尾を訪れるシーンで、ドラマにはなく、原作(森村誠一)には書かれている八尾駅前の旅館で働く若い娘と刑事の会話。
若い娘「あれえ、東京からこれえれたがですか」「私、東京へ行きたいとおもっとたがです。東京でなあでもいいわ。とにかく、この町からでていきたいがよ」
刑事「どうしてだい?静かできれいな町じゃないか。ぼくなんかこんな町で静かに暮らせたら、どんなに幸せかとおもうけどな」
娘「あんたら、この町に住んだことがないで、そんなこと言えるがです。私、自分のことなんかだあれも知らんとこへ行きたいが、ちょっと外へ出ても、知っとる人ばっかり。生まれてから死ぬまで知った人たちの中で暮したりするが、考えただけでもいやになってくるわ。」「わたし、おたがいのプライバシーまで知りつくした、こんな猫の額みたいな土地の生活がいやながす。いくら静かで穏やかなとこでも、全然変化のない生活なんかいやだわ。いつか、どっかで野たれ死にするかもしれんでど、地平の外へ飛び出していって、いろんなことしてみたがよ」
越中八尾から猪谷へ。電車を乗り換えて高山へ。
台風の雨に洗い流された直後だからか、午後の日の光に山の緑があざやか。川は水かさが増し茶色に濁って激流になっている。
高山で下車。古い町並みをみたり高山陣屋を見る。
高山には二度訪れたことがあるが、もう30年も昔のこと。妹夫婦、父と私の4人で旅行した。
この古い町並みを父といっしょに歩いたはず。保存のいきとどいた町並みの間をゆっくりと歩き、郷愁にひたる。
高山駅前で記念のスナップをとっておこうと、女子高校生ふたり組にシャッターを頼む。「どこからきたんですかぁ」「東京から」「わぁ、いいなあ」
次のことばを言おうとして、一瞬のみこんだ。「ここのほうがずっといいよ」
美しい山や川、田圃に囲まれた静かな町、高山。私にとってはここで暮らせたらどんなにいいかと思う町だが、女子高校生にとっては、原宿やお台場のある東京のほうがずっと魅力的に思えるに違いない。「高山のほうがいい」などと観光客にいわれたところで、彼女たちにとっては無意味なセリフに聞こえるだろうと思えて、ただ「ありがとう」と、スナップのお礼をいった。
旅人の目からは美しい故郷に思える越中八尾や高山から、出ていきたい若者はいる。
私もそうだった。田舎の女子高校生だったときは、「いま、ここでないところ」へ行きたかった。
高校卒業の時、合格した地元の大学に進学しないと言い張った。親元から通学する以外の進学を認めないという親と対立し、「それなら親にたよらず、自分一人の力でやっていく」と、宣言した。
なんとか自活して東京に出ていこうと、1年余り地元の公務員として働いてから、東京へ出た。自分の町がいやなのではない。今でも大好きな故郷だ。でも、18歳のころは、「ここから出ていける自由」「自分の人生を自分で選ぶ自由」が欲しかった。
「田舎で、静かにつつましく平穏に暮す」という生き方そのものに反発したい年頃だった。平穏で平凡な生活より、エネルギー渦巻く、時代の奔流の中に飛び込んでみたかった。
学園閉鎖バリケードロックアウトもデモも、ヒッピーもフーテンも、何でもありの都会に行けば、平穏無事でなくとも、熱い息吹の人生が探せる気がした。
我が人生の旅。特急電車の快適な旅ではなかった。鈍行電車の各駅停車、重い荷物も赤帽に頼まず自分で運ぶ。しんどい旅ではあったが、まあ、退屈している暇はなかった。
高山から岐阜まで、また特急に乗った。普通電車を3本乗り継いで名古屋まで行くつもりだったのだが、つい目の前に来た特急にのってしまったのだ。乗り換えの手間はぶき賃4300円。
今回は2度も特急に乗ってしまったので、「青春18切符の旅」としては失敗。本当は全行程普通電車だけを乗り継いで移動したかった。
おまかせツアーで時間の無駄なく合理的にまわる旅もよし。またあるときはノスタルジィだけを道連れに、あてのない気ままな旅もおすすめ。
夏から秋へと移り変わる光景をぼうっと見ながら、子供のころ、娘時代、子育て時代、それぞれの時間を思い返し、さあ、ひとつ年をとる用意はできた、と下車する。
郷愁にひたる時間を過ごしてのち、まだまだ未来への道程は遙か。<夏色ノスタルジィ終わり>
☆☆☆☆☆☆
春庭今日の一冊 No,145
(も)森村誠一『人間証明』

ポカポカ春庭の「いろいろあらーな」カラーロード(1)カラーライト
at 2004 09/10 17:43 編集
ポカポカ春庭の「いろいろあらーな」
2004/09/10 今日の色いろ=カラーロード(1)カラーライト
日曜日、ダンスサークルの発表会があった。私の今年の参加曲はフラメンコスカートをはく「カルメン」、そろいの大漁半纏で「ソーラン節」、郡上八幡踊りの「春駒」、スタンダードナンバーの「インザムード」
参加者の中で一番太っていて、何を踊っても「ビヤ樽ポルカ」に見えると、娘の評。でも、気にしない。足もあがらず、ピルエット3回転もできないけれど、身体を動かす楽しさにひかれて続けている。
いつも練習を行っている文化センターの一室での発表会だから、大ホール舞台の照明のようなスポットライトやフットライトもない。赤、緑、青の三色のゼラチンペーパーをつけたカラーライトだけ。
舞台効果というほどのものでもない照明の中だけど、せいいっぱい踊りました!どの曲も「ビヤ樽ポルカ」だったろうけど。
自分自身の「生きていること」を充実させることがらは人さまざま。仕事ひとすじ、それ以外には余分なことをしていられない、仕事が生き甲斐という人もあるし、趣味が多すぎて、一日24時間では足らないという人もいる。
私にとっては、踊ること=身体表現と、声を出すこと朗読=音声表現、キーボードを打つこと文を書く=文章表現、この三つが「食う寝る」に次ぐ大事な「生きること」
この中で、文を書くことは仕事にも関わってくることなので、「へたでもいい」と、言っていられないときがある。また、声を出すことも、教師という仕事には重要な要素。
踊ることは、今のところ、純粋に「へたでも、楽しんでやっていられればいい」というジャンル。プロのダンサーになるわけでも振付家をめざすのでもなく、へたのまま、続けている。
子供の頃から踊りが好きで、体育の時間の「創作ダンス」が大好きだった。
ジャズダンスやモダンダンスのレッスンを受けるようになったのは、中学校教師のとき演劇部を受け持つことになったのがきっかけ。
生徒へ発声訓練や身体訓練を指導をするために、自分自身が朗読とダンスのレッスンを受けたのが、今まで続いている。
今、所属しているサークルは、文化センターの「ジャズダンス講習会」を受講した人たちが中心となって、22年前に設立した。専業主婦やパート主婦たちが、「体を動かし健康を維持するために」と、講習会終了後、サークルを立ち上げたのだ。
いろいろな趣味やボランティアの自主サークルがある中、引っ越しなどで会員の移動はあるものの22年間も同じ指導者、同じ中核メンバーで続いている「オバサンたちのダンスサークル」は、それほど数多くないだろう。
メンバーは、「フツーのオバサン」であり、またそれぞれが「22年間の個人史」を持つ。22年前は30代主婦が中心だったが、現在はそれぞれが22年間の年輪を重ね、60代50代になっている。22年間のメンバーの歴史は、私にも多くの刺激を与えてくれた。
Aさん。知的障害を持つ娘さんの成長に心をつくし、娘が成人したのちは、ヘルパーの資格をとり介護ヘルパーを続けている。
Bさん。結婚以来20年の専業主婦生活を経て、40代になってシャンソン歌手としてデビューした。ショウやリサイタルを成功させ、NHKパリ祭出演など活躍している。
Cさん。嫁にきてすぐ夫の祖父母の介護をはじめ、夫の両親自分の両親と6人の介護を続けてきた。今は孫に囲まれ幸せなおばあちゃん。
Dさん。不幸な事件で子供を失ったあと、民事裁判によって「少年法ではあきらかにしてもらえなかった事件の全容を知ること」を続け、少年事件についての本を出した。
Eさん、離婚後、働きながら息子二人を成人させ、役者になった息子の芝居を応援している。「売れない役者だけれど、芝居をしているときの息子の輝いている目がみたくて」
それぞれの人の22年間を見聞きしてきたことが、私にとっての励みともなってきた。私もこの22年間、子育てしながら仕事をしながらの学生生活、子供を実家に預けての単身赴任の仕事、迷いながら苦しみながらの子育てと仕事。つらいこと苦しいことの連続だった。
日頃の苦しさつらさを忘れ、太めの身体をちょっと恥ずかいとは思いながらも、人前で手をひろげ、脚をあげ、ターンでころびそうになり、、、、、踊っている。今年の発表会も、うん、たくさん失敗したけれど、楽しかった!
また来年のカラーライトを浴びる日まで、ストレッチや柔軟、腹筋運動など基礎訓練がはじまる。<カラーロードつづく>
ポカポカ春庭の「いろいろあらーな」カラーロード(2)イエローブリックロード
at 2004 09/11 00:09 編集
自分で踊ることも好きだが、ミュージカルやバレエ、お芝居を見にいくことも好き。この秋は野田秀樹の『赤鬼』を楽しみにしている。演劇好きの息子も見にいくが、日にちは別々。親と別行動とりたいのも、成長のしるしなんでしょうけれど、ちょっと寂しい。いっしょに見て、帰り道に感想を話し合ったりするのも芝居を見る楽しみのひとつだもの。
ミュージカル『オズの魔法使い』は3回みた。娘とふたりで早見優主演をみたのが最初。娘息子と三人一緒にみたときも早見優がドロシーだった。まだストーリーが理解できないんじゃないかと思っていた幼い息子も、舞台にあふれる色彩や音に大興奮だった。3回目は安達祐実主演。
『オズの魔法使い』は、思い出深いミュージカル。
娘が小学校5年生のとき、音楽会の演目として学年で「音楽劇オズの魔法使い」として演奏したことがある。学年を半分に分け、唄う役と演奏役を一日交代で行った。
主役のドロシー役は1場2場3場と交代で演じる。「主役はドロシーだけど、1場しかでられないより、全部の場に出演するほうがいい」と、娘は「かかし」役の学年オーディションを受けて演じることになった。
私が単身赴任の仕事にでかけるため、娘は4年生の3学期に私の実家に引っ越し、田舎の小学校へ転校した。5年生の2学期にもとの小学校に戻り、この『オズの魔法使い』への参加は、もとの仲間たちの輪へ復帰する大切な契機となった。
発表会まで、毎日かかし君のうた「脳みそがほしい」や主題歌「虹のかなたに」をいっしょに唄ってすごした。
「自分の脳には藁しか詰まっていない」と、思いこんでいたカカシくん。実は自分の知恵を十分に働かして仲間の危機を救ってきたのだった。娘は、カカシくんが自分の脳の働きに気づくところが大好きで、生き生きと演じていた。
コマ劇場で見たような豪華な装置はなかったが、小学校の体育館で演じられた『オズ』もとても楽しい仕上がりだった。日頃は体育会系で、運動会には張り切るけれど、学芸会はちょっと、という男の子たちには、ドロシーが最初に出会う「マンチキンの国」の住民役が割り振られていた。舞台を縦横に走り回ったり、バック転や側転でくるくる回ったりする演出で、楽しそうに「自分の見せ場」を演じていた。
ドロシーたちは、オズの魔法使いに会いにいくため、ひたすら「黄色いレンガの道」を歩いていく。
「イエローブリックロードを進んでいけば、いつかエメラルドの都に届く。願いを叶えてくれるオズの魔法使いにきっと会える」ドロシーやかかしたちは歩き続ける。迷ったりケンカしたりしながらも、空にかかる虹のかなたには、きっと希望があると信じて。
私もこの1年、網の道に迷い込んで、よろよろ歩き続けてきた。目にはみえないけれど世界中に通じている道と思い、発信し続ければ、誰かの胸に届くだろうと信じて。
去年2003年の9月にHP「話しことばの通い路」をオープンして、満1年。
PC音痴のままホームページを作りあげ、「毎日更新」をめざすため、OCNカフェ日記ページをリンクした。
HPやメールのセキュリティをしっかりさせるため、わからないなりに奮闘したり、「ネット社会のマナー知らず」と、思いもよらぬ言葉を受けたり。さまざまなことに直面した。メールでグチをこぼせる人、気軽に軽口を言い合える人とも知り合えた。
カフェ日記。2003年「おい老い笈の小文」のテーマは「私の老い支度」だった。「あ」から「わ」までの著者の本を一冊ずつ思い出しながら、自分の来し方をふりかえり、明るい老後をめざそうと書き続けた。
今年2004年1月からのテーマは「いろいろあらーな」。さまざまな「色」にまつわる言葉やエピソード。頭に浮かぶことを浮かぶままに書きのこしてきた。
「色とことば」に関わるあれこれ。「今日の色いろ」「今日の文房具」を軸に、「名前について」「言葉の変化について」など、楽しんで書くことができた。
反響のメールや足跡を寄せてくださった方々、ありがとうございました。
HPオープン満1年を期して、PCメンテナンス、コンテンツ再考のため、しばらく更新をお休みします。
それでは、また会う日まで。イエローブリックロードを歩いて、虹のかなたへむかって進んでいきます。またね!<カラーロードおわり>
☆☆☆☆☆☆
春庭今日の一冊 No.146
(ボ)ライマン・F・ボーム『オズの魔法使い』

ポカポカ春庭の「いろいろあらーな」2年目突入日記再開へむけて(1)
at 2004 09/23 10:46 編集
2003年9月9日にHP「話ことばの通い路」をおそるおそる立ち上げてから1年がすぎ、9月28日に、カフェ日記をオープンしてから一周年になります。
1年目の節目でちょっと休憩。「新コンテンツに向けてしばしお休み」10日間。その間に何をしていたかというと。
ひとつは、セキュリティメンテナンス。そして、パソコンに弱い私が、新ソフトに頭をひねっていました。
古いワープロ文書をパソコンにとりいれるためのコンバータソフト。分かっている人にはなんでもないことなのだろうが、何しろわからないまま勉強不足のまま、その場しのぎでパソコンを使っているので、いまだにワープロソフト以外は、「オフィス」に入っているソフトなども使ったことがないまま。
コンバータソフト、箱に入っていた本に書いてあったのは、どのワープロに使えてどれは使えないかという機種の説明だけで、使用説明書がなかった。
マニュアルは、ソフトのなかのヘルプをひらいて、その説明を読むことになっている。活字人間の私、紙の上の文字を読むのは擬古文も旧字体の漢字も、それほど苦にせず読む。が、初めて使うソフトのマニュアルともなれば、ネット上の文字を横書きで読むのは、疲れるし、なにやら勝手がわからない。
手順どおりにクリックしたつもりなのに「指定先のディレクトリには記入できません」などの文字が画面に出て、さて、どうしてよいやら先へ進めない。いろんなところをクリックしてみて、ああでもないこうでもないとやって、ようやく変換できた。
1985年ころからキャノンワープロをつかいはじめて、3台機種を変えてようやく使い慣れてきた頃、「もうワープロは製造しない」というので1997年にパソコンに変えた。
同じように見えるフロッピーディスクなのに、ワープロとパソコンはまったく互換性がない。ワープロで作成した文書は、そのままお蔵入りになっていた。
フロッピーの変換ソフトがあることは聞いたが、「わざわざ変換するほどの価値のあるフローピー」でもなく「ぜひとも変換しなければ仕事がつづかないような文書」でもないから、そのままになってしまったのだ。
私のワープロフロッピーに入っていたのは、学校へ提出したレポート、論文、手紙、日記のたぐい。論文など読み返す必要があるときは、紙に印刷された紀要や抜き刷りを見たほうが早い。わざわざパソコン文書に変換することもないので、ワープロフロッピーは箱に入れて引き出しの奥へ。
HP「話しことばの通い路」の「フリースペースちえのわ」コーナーのコンテンツは「女の日記50年分全公開プロジェクト」
1959年から2009年までの50年分の日記をネットで公開する予定。
7歳から9歳までかいていた絵日記はどこかへ行ってしまったが、10歳ころからの日記ノートが残っている。
有名な作家とか回想録を残すような大人物とかではなく、ごく普通の生活者の日記。20世紀後半と21世紀前半を、ひっそりと平凡に生きた女が、毎日をどのようにすごし、毎日何を考えて生きてきたのかを、ささやかに書き残し、娘と息子への遺言がわりにもしようと思ったのだ。(日記再開へむけて 続く)
ポカポカ春庭の「いろいろあらーな」日記再開へむけて(2)
at 2004 09/24 09:35 編集
とりあえず、2003年分「ニッポニアニッポン七味日記」は365日分掲載した。
日記をネットにのせるのは、思った以上に面倒だった。個人を特定される人名地名を変換し、自分以外の人のプライバシーに関わる内容に問題ないかどうか検討する。
例えば、姪が日記に登場した場合、姪たちのHPを訪問し、該当の内容が書いてあるかどうか、調べる。本人が書いて発表している話題ならば、同じ内容を私がネットに載せてもさしつかえないだろうと判断する。姪の結婚式の話題、うん、本人も書いているからOK。という具合。
娘が教職の集中授業を受けたとか、介護体験をした、などの話題では、娘に「これネットに載せていい?」と聞く。娘の名を「ヒメ」息子の名を「ワカ」と記しているのは、娘が「親バカっぽくて、いい」と選んだ名。
キーボードを打つのが早いから、日記は私にとって「指でうつおしゃべり」だ。日常茶飯のごくつまらないこともグチグチと書き連ねている日記、全部読み直すのは、かなり時間がかかる。一日分の日記が、400字原稿用紙に換算すると10枚になるという日もある。
原稿用紙10枚というと、たくさん書いたように思われるが、電話で友達に「今日の出来事」をおしゃべりしたとすれば、10分くらいの電話にすぎない。長電話派の人は1時間も話すことがあるのだから、10枚分のおしゃべりは少ない方。
それで、2003年のあとは、2002年の分を掲載するかどうか考えているうち、2004年も半分すぎてしまった。
パソコンで書いた日記をそのまま転載するのは、まだしも簡単だが、古い手書きの日記をネットに載せるのは、思いの外たいへんだとわかった。入力し直す暇はない。
1985年以前の古い手書きの日記は、そのうちスキャナーで読みとった文章をパソコン文書に変換するソフトが使えるようになったら、掲載するつもり。
カフェ日記、今年の後半コンテンツは、ワープロ文書コンバータソフトで変換できた分の1992年「三倍速録画再生日記より抄録」を連載する予定。
ひとまわり前の申年の日記、12年も前のことだと、読み直していて存外面白かった。面白いと思うのは、「なつかしい」という気持ちがある本人だけかもしれないが、ひたすらテレビのニュースやワイドショウを見て感想を書き込んでいた頃なので、12年前のことを思い出せた。
「新コンテンツを企画して休載中」と、うたったわりには、なんだ、12年前のものなんぞひっぱりだして、と思われるかも知れないけれど、50年分の中のひとつです。
(日記再開へむけて 続く)
ポカポカ春庭の「いろいろあらーな」日記再開へむけて(3)
at 2004 09/25 08:51 編集
2004/09/24 ポカポカ春庭の「いろいろあらーな」2年目突入日記再開へむけて(3)
「フリースペースちえのわ」のコンテンツは、
1、日常茶飯事典(食う寝る遊ぶの日常のできごと)
2、ニッポニアニッポン事情(新聞テレビのニュースを見てのつぶやき、世の中のできごとへの感想)
3、ニッポニア教師日誌(仕事のようす)
4、トキの本棚(読んだ本のメモ)
5、ジャパニーズアンドロメダ劇場(見た映画芝居のメモ)
などなど。
というわけで、2004年9月28日からは、2004年(申年)分「やちまた日記」の一部と、ひとまわり12年前の申年日記「ニッポニアニッポン三倍速録画再生日記1992年抄録」を、日々雑記「いろいろあらーな」として連載予定。
1992抄録に載せなかった分もふくめて、あとでまとめて「フリースペースちえのわ」に再録します。2004年9月までの「いろいろあらーな」は、「ウェブログハウス春庭ロフト」に再録します。
日曜日月曜日更新なし。1992年録画再生日記を週に2〜3回、2004年やちまた日記を週2〜3回UP予定。
1992年録画再生日記は、10月14日からスタート。なぜこの日がスタートかというと、「21世紀2001年1月1日まであと3000日」というカウントダウンをはじめ日だから。実際には10月15日が「あと3000日」だった。いつも計算がくるう。
三倍速録画再生日記と名付けたのは、テレビのワイドショウやニュースを見て、感想を書くことが、日記の主な内容になっているから。12年前のニュース、今読んで「なつかしい」とか「こんなことあったっけ」と思い出すよすがにでもしていただければ幸いです。
21世紀がはじまって1000日目記念として、カフェ日記をオープンしたのが、2004年9月28日。
さて、ようやく2年目突入です!

ポカポカ春庭1992年「三倍速録画再生日記」 金枝篇
at 2004 09/28 08:33 編集
Golden bough(3001)1992年十月一四日 水曜日(曇り午後から雨)
ニッポニアニッポン事情(「金丸辞任へ」の記事をみて『金枝篇』を思うこと)
数字や計算にはいたって弱い。掛け算九九なら五の段まではスラスラいくが、六の段になると、六X七や六X八のあたりからあやしくなってしまう。そろばんを使っても、計算機でやっても、足し算を三度すると三度とも違う答えが出てしまうので、家計簿もつけていない。
「二一世紀まであと何日あるか」という計算も、筆算でもやって計算機でもやってみて結局いろんな答えがでて、よくは分からないのだが、二〇〇一年一月一日に二一世紀が始まるとして、一九九二年十月一四日から数えると、あと三〇〇〇日あるらしい。
朝刊は「金丸信辞任」一色である。全国民あげて、このイカニモ「金と権力が政治のすべてであることのいやらしさを顔にも名前にも体現してしまっている老人」が落ちた偶像となることに熱狂している。
老いた王が追い立てられ、あるいは殺されて、新しい王が出現することは、『金枝篇』に言うところ。
『金枝篇』は世界各地から集めた資料で「権力の交代」を描き出した。Tさんは、中国の王朝滅亡も、アメリカの大統領選も、社会にとっては再生の契機なのだと言う。
権力交代劇は、社会を再活性化するための必要不可欠、興奮熱狂の祭典であるのだから、今回の辞任劇が日本の政治再生のもととなるなら、キャスターたちのハシャギぶりも祭りの一部であるハヤシ方として歓迎し、われらもヤンヤヤンヤの喝采くらいおくらねばならない。
しかし、Tさんは「この程度の「殺され方」では、とても「変化再生」には至るまい。密室の中で札束が飛び交って、一本づりやらカスミ網やら、次のアタマ数を決めるだけで、なんにも変りはしないだろう、という。いつも通りの結論。
ついでに『地獄の黙示録』を思い出す。この前『地獄の黙示録』のビデオを見たとき、カーツ大佐の机の上に『金枝篇』がのっていたのに気づいた。
てっきり、ウィラードがカーツを殺し、密林の秘密王国の二代目王になるのだとストーリーを予想したのに、王国は炎上崩壊。ウィラードはペンタゴンのただの使いぱしりだったのか。画面のゴールデンボウは、いったい何の象徴だったのだろう。
さて、今回の「金枝扁日本版猿回し劇」は、再生への契機となるのだろうか。
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もんじゃ(文蛇)の足跡:
2004/09/28の改造、第二次小泉連立内閣は、野党側からは「期待感ゼロ内閣」「行き詰まり内閣」との評。とてもとても、「再生!」などといえないみたい。
ポカポカ春庭の「やちまた日記」トキの本棚『金枝扁』
at 2004 09/29 08:44 編集
フレイザー『金枝扁』を読んだのは、1970年前後。手元に残っている文庫(一〜五)の奥付は1968年発行、永橋卓介訳
文化人類学を学びたいと思い、かたっぱしから関連書を読んでいたころに、この『金枝扁』も読んだ。
小学生のころリビングストンやスタンレーにあこがれて「探検家になる」と思い、「ジャーナリストになって、未知の世界を報道しよう」と思った。中学生のころは「スウェン・ヘディンが、ロプ湖を発見したように、考古学者になって桜蘭やゴビ砂漠を旅しよう」
高校生のころは、泉靖一のアンデスや石田英一郎のマヤ文明のような仕事をするのが、「ここではない、未知の場所」へ行くための最善の方法と思った。20歳のころはトール・ヘイエルダールの葦船に乗せてもらいたいと思った。
山口昌男『アフリカの神話的世界』や大林太良の神話研究を知ってからは、神話研究と文化人類学の接点を求めて、日本神話研究をしようと思った。卒論は『古事記』
神話研究には民俗学や芸能学も必要なので、柳田国男や折口信夫も読み始めた。古事記の古代歌謡、古代芸能、世界各地の儀礼や芸能を調べるようになり、中学校の演劇部顧問をしたあと、演劇人類学、芸能人類学という方向へシフト変換。
せっせと読んだ『金枝扁』だったが、正直言って、20歳のころには、読んで退屈する部分も多かった。
構造人類学、文化人類学が意気盛んなころで、フレイザーの方法は「アームチェア文化人類学はもう古い」と言われ、現地へ出かけてフィールドワークすることこそ文化人類学の研究だと盛んに言われた。「若気の至り」の目には、フレイザーがあつめた膨大な各地の伝承も、なんだか色あせたものに思えたのだ。
1979年に「芸能人類学、演劇人類学フィーlドワァークをやる」と言ってケニアに出かけていき、1年間楽しく遊んだだけで帰国。そのあとは『金枝扁』を読み返す機会もなかった。
それでも引っ越しの「本整理」のたびに、古い文庫『金枝扁』を「捨てないでとっておく本」の段ボールに入れたのは、20歳のころ「神話学をやりたい、文化人類学者になりたい」と思っていた頃への郷愁があったからだろう。
古代文学研究も、神話学研究も、演劇人類学研究も、全部挫折して、結局「現代日本語学研究」で修士号を得た。今の自分の仕事にとって『金枝扁』が何か役にたっているかと言われれば、直接にはないのかもしれない。
しかし、文化人類学の「世界中のどの文化も、独自のものとして尊重する」という考え方は、世界各地から集まる留学生のそれぞれの文化に、興味と尊敬を持つ気持ちを養ってくれたと思う。
『金枝扁』各章のひとつひとつの話など忘れてしまっている部分が多いのだが、私の「王権・権力」への考え方などの基盤のひとつに、『金枝扁』もあるなあと感じる。
ポカポカ春庭 三倍速録画再生日記「美しい果物籠」
at 2004 09/30 09:16 編集
三倍速録画再生日記「Golden bough」
(3000)1992年10月15日 木曜日(雨午後から曇り)
ニッポニアニッポン事情(「太地喜和子の葬儀」をみて『カラヴァッジョの果物篭』を思うこと)
朝から冷たい雨。ワイドショウは終日、太地喜和子の葬式。
杉村春子の談話など、三回も見てしまった。花の盛りに水死した女優の葬儀には、この雨もいっそふさわしいと皆思っているのだろう、葬式というのに惨めっぽさがなくって華やかで、芸能リポーターなんか、浮かれ出しそうなのを必死にこらえているかに見える。
太地喜和子の舞台を見たのは二十年ほど前の『美しきものの伝説』のみで、あとはテレビの近松アレンジもので見たくらいなのだから、ファンなどといってはおこがましいのだろうが、とても好きな女優であった。他の人の好みは知らないが、私は、かっぽう着が似合って、大根刻む手つきもサマになってという、いわゆる「生活感」にあふれる人はあまり女優としては好きではない。女形が演じるように「女」を演じてくれるほうがいい。
タイで死んで、先日山田五十鈴が喪主挨拶をした嵯峨美智子とか、妖艶華麗で、非日常的な女優が好きだった。嵯峨も太地も、現実の「女」という性をいったん昇華させてしまってから、あらためて「女」の情念を演じるというような魅力があった。
嵯峨のほうは、昔のテレビ『三姉妹』に出たときいいなと思ってから、女優としての仕事はほとんど見たことがなかったし、ずっと病身であることも、ときどき「あの人は今」風の週刊誌ダネになっていたから、わざわざ病気をおしてタイへ行って死んだということもうなずけるような気がするのだが、太地のほうは、「大輪の花今盛りなり」の大女優。まさかこのようなあっけない事故死を遂げるとはだれも思わなかったから、劇団のアトリエで行なわれた葬儀がいっそう演劇めいて、「死」が記号化されてあらわれる。
祭壇の写真の太地は、とりわけ美しい。生のはかなさを知らしめるために、神が念入りに作りあげた花の化神さながらである。みずみずしく芳醇な果実であり花であった女優の、悲劇の死。
彼女が、その肉体とことばで描き出した近松の女たちも、唐人お吉もこの地上から消え失せる。ビデオやフィルムに演技を残すことはできるけれど、演劇は、演じる者と観客が、「今・ここで」同じ空気の中に存在することが第一の要素なのだから、太地が演じる空間に共に存在することは、二度とできないのだ。
芸能ニュースのノリでいけば、興味は、涙の下で闘われる女優たちの代役獲得戦争。
代役にきまった女優のインタビューがあったが、あまりにも太地とはイメージが違いすぎた。数いる女優陣の中から選ばれたのだから、けっして水準以下の人ではないだろうに、これから文学座は経営的にたいへんだろう、といらぬ心配。杉村・太地ラインの下にはペンペン草もはえていないのかと思った。
もう一方の芸能ダネといえば、菊五郎が贈った紫の着物と、勘九郎が贈った銀色のバラの花をお棺にいれたよし。この二人がともに太地の愛人として有名だっただけに、なんとも色鮮やかで、なまなましく、この葬儀にふさわしい気がした。
若桑みどり先生の『絵画を読む』が3チャンネルではじまった。
第一回は『カラヴァッジョの果物篭』について。花と果物は、美と若さと快楽がその甘さゆえたちまち腐り、枯れてしまうということの暗喩として描かれている、という解説のはぎれよさは七年前とまったく変わっていない。芸大から千葉大へ移って、研究に熱中しているせいか、髪型が変わったせいか、前より若く見える。
花に埋もれた太地の華やかな笑顔は、現代における『カラヴァッジョの果物篭』だ。
美しく艶やかで、生のはかなさと死の暗喩。
人生八十年の時代に、働き盛りの四十八歳の死。われらの世代にとってまだ遠いはずの死が、突然目のまえに現実となってあらわされているのだ。生と死は表と裏、紙一重、と知ってはいる。しかし、病気や危険な仕事と向き合っている人でなく、平々凡々な日々を生きている人のなかで、明日は死ぬかもしれないと思って今日生きている人は、余程サトっている人であろう。
十二支が一巡したら、私は母が死んだ年になる。百歳まで生きるつもりの私だって、明日死ぬかもしれないのに、私だけはノストラダムスの予言があたって一九九九年に地球が崩壊したとしても、二〇〇一年の一月一日にカウントダウン・ゼロを叫びつつこの日記のづづきを書いているような気がする。

