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日々雑記いろいろあらーな2004年10月

ポカポカ春庭のいろいろあらーな2004/10      

日付 タイトル 今日の一冊 著者
2004
10/01
トキの本棚『女性画家列伝』 No.147『女性画家列伝』 (わ)若桑みどり
10/02 今日の色いろ=東京半日観光
10/05〜10/07 今日の色いろ=ピカソのミューズたち
10/08 今日の色いろ=南十字星観劇記
10/09 今日の色いろ=夏のことば遊びノート
10/16 今日の色いろ=ファミリーオペラ健康法
10/21〜10/23 今日の色々=赤鬼観劇記(1)〜(3) No.149 『解散後全劇作 1998/03 新潮社 収録「赤鬼」他
No.150 『20世紀最後の戯曲集』00/09 新潮社「パンドラの鐘」「カノン 」他
野田秀樹
10/26 今日の色いろ=魚沼地方
10/27〜10/28 今日の色いろ=地層
10/29 今日の色いろ=山里の暮し


ポカポカ春庭の「いろいろあらーな」
やちまた日記2004/10/01 トキの本棚『女性画家列伝』
at 2004 10/01 11:53 編集

 若桑みどり『女性画家列伝』
 「女性が画家として自立することが難しかった時代に、絵を描くことによって生き抜いた女たちの物語」を読み、表現することによって生きる力を得ている女性のあり方に心ひかれた。

 新書の簡潔な女性画家紹介のあいだに、若桑先生自身の生涯、人生論が挟まれていることも、魅力的だった。
 女性画家たちの芸術にかける志とともに、男性中心の世の中で女性が生きていくことに対する若桑先生自身の思いを行間から読むことができた。

 1985年10月に岩波新書の『女性画家列伝』がでたとき、すぐに読み、1986年4月から2年間、若桑先生の「西洋美術史」の授業を受講することができた。楽しい授業だった。

 「若桑は夫の姓だが、この姓が気に入ったので、離婚後も夫の姓を名乗っている。離婚するとき夫から得たものは、二人の子と姓のほかは一切ない」とか、東京芸大に棲息する奇妙な大芸術家や大学者とか、特殊な環境下で育成される「指を異常に早く動かすことだけを目標に生きているピアノ科学生」やら、授業中におりにふれて語られるエピソードもおもしろかった。

 『女性画家列伝』は、若桑先生の研究が西洋美術史の範囲を超えてジェンダー論へ進んでいくきっかけのひとつではないかと思う。

 『女性画家列伝』のほか、私が読んだ若桑みどりの本 『イメージを読む』1993 『絵画を読む』1993 『薔薇のイコノロジー』1993 『マニエリスム芸術論』1994 『お姫様とジェンダー』2003 など。



ポカポカ春庭の「いろいろあらーな」
やちまた日記2004/10/02 「東京半日観光」
at 2004 10/03 16:34 編集

 10月1日、朝から雲一つない秋晴れ、都民の日。都内の小中学校はお休みになるので、子どもたちが小さかったときは、お出かけ日和だった。
 娘は中学校高校ころの「親とお出かけしたくない時期」をすぎて、このごろはつきあいがいいのだが、今日は、「12時半から教育実習指導の授業がある。これ受けておかないと、来年教育実習できなくなっちゃうし、このあと、90分授業が5コマ続けてある。お出かけどころじゃない」と、あたふたと登校する。

 娘が登校した後、ひとりでお出かけ。都民の日、東京半日観光。今日のコースは、「新宿でピカソ展。葛西臨海水族園。水上バスで東京湾岸めぐり」

 最初は新宿へ。東郷青児美術館の「ピカソ ジャクリーヌコレクション展」を見た。都民の日で入場無料。
 それから中央線、東京のりかえ京葉線で葛西臨海公園へ。水族館も都民の日無料公開。とても混んでいたので、さっと見ただけで、水上バス乗り場へ。16:10発の両国行きに乗る。

 デート中の若いふたり連れか、小学生幼稚園くらいの子どもを連れた親子連れが多い。前回この両国・葛西臨海公園の水上バスに乗ったのは、数年前、息子が小学生のときだった。もう、息子は「親といっしょのお出かけなんて、ごめんこうむる」年齢になってしまった。誘っても「パス!」の一言。

 水上バスの屋上デッキで、親子連れは対岸にいる人へ楽しそうに手をふっている。ひとり風に吹かれる私は、「そう、そう、親子でいっしょに出かけられる日々を楽しんでおきなさいよ」と、思う。葛西臨海公園のむこうに小さく見えるシンデレラ城がだんだん遠ざかっていく。

 夕暮れの東京湾をめぐる。都鳥、かもめ、海鵜が波の上をかすめて飛ぶ。
 有明に繋留している帆船日本丸の脇をすぎると、ビッグサイトの前の有明乗り場。お台場観覧車の脇をすぎて、沈もうとする夕日に輝くレインボーブリッジの下を通過する。屋上デッキからお台場をながめる。

 品川埠頭。東京タワーが夕日をバックにシルエットとなって立つ。日が沈み、隅田川に入る。勝鬨橋の下を通過。さまざまなビルが両岸を埋めつくしている。聖路加病院のビル、佃の超高層マンション。
 映画『家族ゲーム』で、松田優作が水上バスに乗ってビル林立の東京へ近づいていくシーンがあったように思う。船から都会をながめるのは、いつもと違う気分がする。ゆらゆら揺れる波間からの光景は、がっちりと組み上がった大都会というより、ゆれながら漂う人の世に思えるのかも知れない。
 
 佃大橋の下を通過。中央大橋は、ハープのように中央からの斜張が伸び、とても美しい形。青くライトアップしている永代橋、オレンジに照らされている新大橋などの下を水上バスは通っていく。残念なことに、潮位が上がったため、屋上デッキにいることができず、船内座席からの見物となったが、さまざまな橋を楽しめた。
 6時まえに、両国の船着き場に到着。半日の東京観光、楽しかった。



ポカポカ春庭の「いろいろあらーな」
やちまた日記2004/10/05「ピカソのミューズたち(1)」 
at 2004 10/05 07:34 編集

 東郷青児美術館のピカソ展(ジャクリーヌコレクション)を見て。

 ピカソ晩年を支えたジャクリーヌ夫人は、ピカソの4人の子どもたちと分け合い、残された作品を相続した。ジャクリーヌコレクションである。
 幻の「ジャクリーヌコレクション」として、永らく公開されてこなかった作品を今回初めて見た。
 ジャクリーヌコレクションには、ジャクリーヌ夫人を描いた作品のほか、愛人ドラ・マールを描いた作品、最初の妻との間に生まれた息子ポールの肖像画も出品されていた。

 息子ポールの幼い頃の肖像画。ジャクリーヌがこの絵を相続したということは、ピカソが最後の最後までこの絵を手放さずに自分自身で所有していたということ。

 ピカソの最初の妻オルガは、ピカソとの愛情が破綻したのちも離婚を拒否し、死ぬまで法律上は妻であった。母と別れたのち、次々と若い愛人との恋愛を繰り返す父親を、息子ポールは、どのように見つめていただろうか。

 ピカソとポールとの関係は、愛人マリーが生んだマヤ、フランソワーズの生んだクロード、パロマとの父子関係よりも薄かったのではないか、ピカソにとって疎遠な息子だったのではないか、と私は思っていた。

 ポールを描いた絵を見ているうち、そうではない、最初に生まれたポールにも父として特別な愛情を持ち続けたのだろう、と印象が変わった。
 ポールの肖像画と1971年の作品「父性愛」を重ねてみる。子どもを抱く父の姿を描いた絵である。
 激しい女性遍歴をかさねたピカソ。自分の芸術の源泉としての女性を愛し、愛憎の激流の中で人生をおくったピカソも、父親として子どもたちを愛する気持ちを静かに持ち続けたのだろう。4人の子どもたちへの愛の表現として「父性愛」が描かれた、という気がした。

 もうひとつピカソへの認識を改めたこと。
 私は日本で開催されたピカソ展を何度か見てきた。その中で、ピカソの傑作といえるのは、ドラ・マールの時代までではないか、第二次大戦後、フランソワーズと暮したあたりからしだいに「自己模倣」に陥り、1960年代以後、ジャクリーヌとの暮らしでは、彫刻や彫金、陶器制作などが趣味的に作られたほか、絵画には見るべき作品が少なくなっていったのではないか、という印象を受け、「晩年の作品にはあまり心惹かれない」という思いこみがあった。

 しかし、今回ジャクリーヌ夫人を描いた作品、三銃士や闘牛士などを描いた作品を間近に見て、印象が変わった。ピカソは91歳でなくなるまで、制作にかける強いエネルギーを持ち続け、ジャクリーヌはピカソの創造を支えたのだなあ、と、認識を改めた。

 ピカソは最初の正妻オルガと二度目の妻ジャクリーヌのほか、「ピカソのミューズ」とも言える愛人たちを制作の糧とし、彼女たちからのインスピレーションによる作品をたくさん残している。

 20世紀初頭のパリ。20歳のパブロ・ピカソは、親友の自殺などのつらい経験をし、鬱屈した思いを抱えていた。このころのピカソの絵は「青の時代」と呼ばれ、沈鬱な色彩の作品が多い。

 1904年、貧乏画家たちの共同アトリエ「洗濯船」で、同じ年齢のフェルナンド・オリビエと出会ったのち、作風が変わる。1906年までの約2年間は、「ばら色の時代」と呼ばれる。<ピカソのミューズたち続く>

ポカポカ春庭の「いろいろあらーな」
やちまた日記2004/10/06「ピカソのミューズたち(2)」 
at 2004 10/06 09:02 編集

 フェルナンドは貧しい時代をピカソと共にすごし、恋人が独自の画風を確立する苦闘を支えた。たが、ピカソの画家としての名声が高まり、洗濯船から抜け出して1909年に新居に移り住んだ頃から、ふたりの仲はうまくいかなくなってしまう。

 1911年30歳のピカソは、新たな恋を得る。4歳年下のエバ・グエル。しかし、エバは病弱で1915年に結核のため死去。ピカソの嘆きは深かった。

 エバを失った心の隙間を埋めたのは、ロシアバレエ団との仕事だった。1917年ロシアバレエ団の衣裳や装置を担当したピカソ(36歳)は、バレエ団の踊り子だったオルガ・コクローヴァを知り、1918年正式に結婚。1921年長男ポールをもうけた。

 オルガはロシアの将軍の娘で、上流意識上昇志向のある女性だった。「ピカソの芸術」より、「ピカソの成功」に関心が高かった。フランス社交界で名流夫人として遇されることを望み、夫ピカソが上流階級の人たちと交際することを願った。

 二人の間に亀裂が入り、ピカソが激しい女性遍歴をくりかえすようになっても、オルガは離婚しなかった。1935年から別居したが、死ぬまで法律上の妻の座を守り続けた。

 1927年、45歳のピカソは17歳のマリ・テレーズ・ワルテルと出会う。オルガの嫉妬心は激烈だった。愛憎劇の数年を経て、'35年、オルガはポールを連れて出ていく。若いマリーは妻オルガとの愛の争いに勝ったのだ。マリーはピカソの娘を出産。生まれた娘マヤの養育に心をくだいた。
 しかし、「ピカソの芸術」より「子育て」のほうに関心を向けるようになっていたマリーは、ピカソの「ミューズ」ではなくなっていく。

 マヤが生まれた翌年1936年には、55歳のピカソは、情熱的なドラ・マールとの恋に走った。ドラは、自分自身も画家写真家であり、ピカソが傑作『ゲルニカ』を制作するようすなどを写真に残す。ピカソを撮影中に、アトリエでマリーと鉢合わせして修羅場になったことも。
 ドラは、フランソワーズがピカソの新しい愛人となる1946年まで共に暮した。この時代を「ピカソのドラ・マール時代」と呼ぶ。

 第二次世界大戦中の1943年、61歳のピカソは40歳年下の画学生フランソワーズ・ジローと出会う。1947年フランソワーズは息子クロードを出産し、'49年、娘パロマを産んだ。
 しかし、しだいに二人の間は冷えていく。芸術家を志していたフランスワーズは「ピカソを支える妻」だけの毎日に苛立ってきていた。

 自分を支え、自分の芸術の源泉となることだけを求めるピカソ。生活のすべてに夫の支配を受けることに疲れ、夫の偉大さに押しつぶされそうになるまで疲れてきたフランソワーズ。ふたりの間の溝は深くなっていった。
 
 1926年2月26日、南フランス生まれのジャクリーヌ・ロック。1952年、ジャクリーヌは26歳のとき、70歳のピカソと出会った。
 離婚後、故郷の南フランスにもどっていたジャクリーヌは、従姉妹の経営する製陶所の手伝いをしていた。陶器制作を始めたピカソが製陶所にやってくると、スペイン語が話せるジャクリーヌが話し相手となった。

 1954年、フランソワーズが子どもふたりを連れて去っていってからは、ジャクリーヌがピカソの心の支えとなる。1955年からは共に暮し、ピカソの最初の妻オルガが死去したあと、1961年に正式に結婚した。ピカソ80歳、ジャクリーヌ35歳。

 ジャクリーヌはピカソを「ご主人様」と呼び、ピカソと共に生きることだけを生き甲斐とした。
 ジャクリーヌは、離婚した先夫との間に子どもがいたが、ピカソの子どもは生まなかった。なのに、ピカソは若い妻を「お母さん」と呼んだという。老齢に入った自分を、母親のように無私の愛情で支えてくれる妻への、甘えや感謝をこめた呼びかけだったのだろうか。<ピカソのミューズたち続く>

ポカポカ春庭の「いろいろあらーな」
やちまた日記2004/10/07「ピカソのミューズたち(3)」 
at 2004 10/07 07:45 編集

 幻といわれた「ジャクリーヌコレクション」の作品。なぜ、幻となっていたか。
 1973年にピカソが91歳でなくなったあと、ジャクリーヌは残された作品を管理し、各地で開催されるピカソ展に協力していた。遺作をピカソの子ども4人と分けて相続する手続きも必要だった。

 1986年、相続したピカソの作品をまとめ「ジャクリーヌコレクション」としてマドリード現代美術館で公開することになった。しかしオープンの数日前、ジャクリーヌはピストルを手にし自ら命をたってしまう。
 その後、20年近く、ジャクリーヌコレクションは公開されなかった。日本公開も、今回が初めてのこと。

 ピカソを取り巻いたミューズ。フェルナンド、エバ、マリー、ドラなど、ピカソ傑作の契機となった女たち。それぞれの資質によってピカソにインスピレーションを与え、数々の傑作を私たちに残す源泉となった女性たち。

 ピカソの年譜の中に名を残す女性たちの中にあって、私は世俗的、軽薄な思いこみで、ジャクリーヌ夫人には「老人介護のヘルパーさん」的な役割を与えてしまっていた。
 70歳の男性と出会い91歳で亡くなるまで20年を共に暮した、という年譜的な記録だけからだと、そんな印象をもってしまう。

 しかし、もしジャクリーヌのピカソへの愛が「老齢の夫の世話をする」だけのものであったのなら、彼女は相続した作品をコレクションとしてまとめ終わったあとも、生き続けただろう。夫の死後、膨大な資産価値となった相続作品を売り食いしつつ、20年間の献身に値するごほうびとして一生優雅な生活を送ることもできた。
 ジャクリーヌが、「ピカソの名声や成功」を喜びとする女性だったら、ピカソ夫人としての名声を保って生きることもできただろう。他の愛人たちが書き残しているように、ピカソとの生活を綴ることによって晩年の時間をすごす方法もあった。

 ジャクリーヌが望んでいたのは「ピカソの名声」ではなかった。「ピカソと共に生きること」こそ、彼女の望んだ人生だった。
 最初の妻オルガは、ピカソと共に社交界で名声を保つことを望んだ。ドラ・マールは傑作を生み出す瞬間のピカソを自らのカメラに写し取ることが喜びだった。愛人フランソワーズは、自分自身が制作する時間を犠牲にしてまでピカソを支える生活を望まなかった。

 だが、ジャクリーヌにとっては、「ピカソを支える」などという意識すらなかったのではないか。夫と時間を共にすることが自分自身の生活であり、夫のかたわらにいることが一番よい人生と思える、そんな自然な流れにまかせて、伴侶のそばにいたのだろう。

 夫の作品を「ジャクリーヌコレクション」としてまとめ終えると、ジャクリーヌにはこの世への未練がなくなってしまった。ジャクリーヌにとっては、「夫の作品の源泉」として生きることなく、夫が作品を生み出すことを喜びとするのでなければ、生きるに値しないと思えたのかもしれない。

 残された作品の整理という仕事を終えたジャクリーヌは、ひとりで生きるよりも、愛する夫パブロのもとへ旅立つことを選んだ。60年の生涯。後半生のすべてを「ピカソと共に生きること」に捧げた一生だった。

 若い頃の私の「ピカソのミューズ」への印象では、自らも作品を残そうとする「創造派」のドラ・マールやフランソワのほうが自立した女性に思えた。ジャクリーヌはあまり魅力的な生活をしたようには思えなかった。
 しかし、今の年齢になってみると、「愛する人と共に生きる」という人生を選ぶことも、自立した意識による、創造的な人生の選択なのだとわかるようになってきた。

 若い頃の意識では「自らの手で創造し何らかの成果を得ること」が「自立した人生」に不可欠なように思い、「共にあること」「共に生きること」だけの人生は何か物足りないような気がした。「自ら作り出す」ほうが「伝えること」や「保持すること」「伝承すること」より価値が高いような思いこみがあったのだ。

 今は、「伝承」も「維持」も、立派な創造的な営みだと思う。「何かによりそうこと」「だれかと関わり、同じひとときを感じること」が、人生の時間のなかで大切なものだとわかるようになった。
 ピカソ晩年の制作のかたわらにジャクリーヌが静かによりそい、夫を見守っていたということも、ひとつの創造的な人生であると思える。

 今回のジャクリーヌコレクションで、ジャクリーヌもまた、ピカソのミューズとして大きな輝きを持っていたことを感じた。<ピカソのミューズたち終わり>



ポカポカ春庭の「いろいろあらーな」
やちまた日記2004/10/08『南十字星』 
at 2004 10/08 08:02 編集

 9月26日に浜松町の四季劇場で、娘と『南十字星』を見た。
 私は、四半世紀くらいまえに、『ジーザスクライストスーパースター』や『ウエストサイド物語』を見て以来、娘は小学校の演劇教室で「人間になりたがった猫」を見て以来の四季の舞台。
 四季が経営の安定したミュージカル公演をつぎつぎに発表し、「巨大エンターティメント産業」の一翼を担う成功を見せてからの、ここ20年ほどは足が遠のいていた。

 今回観劇の感想。
 四季は『李香蘭』『異国の丘』を上演してきて、この『南十字星』が「昭和三部作」完結編という。

 オランダからのインドネシア独立闘争と南進侵攻した日本軍との関わりを背景として、独立のために戦うインドネシア女性リナと日本軍学徒出陣の兵士保科との恋と別離の物語。
 敗戦後、保科はオランダ軍捕虜虐待という罪を着せられ、絞首刑に処せられる。独立戦争支援を果たしたいという義兄をかばうため、無実をはらそうとせず、戦犯の罪を負って死ぬ。

 歴史を知らない若い人に、アジア各地で植民地からの独立闘争に加わった日本人兵士がいたことや、十分な裁判も弁護もなく処刑されてしまったBC級戦犯もいたことなどを、知ってもらいたいと思う。

 戦争という極限ののなかでも必死に人としての真心をつくして生き、死んでいった人々の物語を伝えるには、娯楽性もとりこんで、ミュージカルとしての形式も必要なのかと思う。しかし、娘は「でも、やっぱり戦争物でミュージカルというのは無理があるんじゃないかなあ」と言う。

 保科の叔父(京大事件で教授をやめている)が語る歴史解説。インドネシア人の心の歌でもあり、保科とリナにとっては恋の歌でもあるブンガワンソロのしらべ。インドネシアの民族舞踊や影絵を取り入れたミュージカルっぽい部分などが組み合わさっている。
ガムランや民族舞踊がでてきて、衣裳などもとてもきれいだし、ダンサーもいい。しかし、日本軍将校が現地の人に民族芸能を上演させ、偉そうに見ているというシーンなど、せっかくの民族の魂の歌や踊りが、なんだかつらい印象になってしまう。

 保科が最後に絞首刑になることは、作品紹介のポスターにもチラシにも書かれていて、物語の前提になっている。
 ラストに主人公が絞首刑になるという話の途中で、唄ったり踊ったりのシーンが出てくることについて。

 『ダンサー インザダーク』も、ラストは主人公(ビョークが演じていてとてもよかった)が絞首刑になる。ミュージカル部分はほとんどが主人公の空想や幻想のなかでのこととして出てくるので、無理なく入り込み、ラストの悲劇へ向かう主人公の心理を象徴する役割も果たして秀逸だと思う。
 『ダンサー インザダーク』と比べると、『南十字星』のミュージカル部分は、戦争の悲劇とあまりうまくかみ合っていないように思った。「娯楽作品」というにはテーマが重い。

 悲劇的な内容だから、ミュージカルにふさわしくない、というのではない。
 ウェストサイドストーリーでは、対立するグループ同士が殺し合う悲劇があるし、ジーザスクライストスーパースターでは、ユダの裏切りによりイエスは処刑される。
 だから、『南十字星』の保科が「戦犯として処刑される悲劇の主人公」だからミュージカルには合わない、というのではない。

 舞台に張った水が、京都和風家屋の池にもなりインドネシアの大地に広がる水田にもなる装置もよかったし、ダンスの振り付けもいい。ダンサーも上手。俳優のレベルも高く演技も歌もよいのだが、全体のレベルの高さが、舞台の上にとどまっていて、「演じることのエナジーが舞台から客席へはじけ飛ぶ」という印象ではなかった。

 絞首刑台へ向かう保科が、次代を作っていくであろう若い人にむけて、語りかけることばはしみじみと胸に染み、涙ぐんだ。
 でも、見終わった人々が「うん、よかったわね」「ブンガワンソロ、なつかしかった」などと話しながら散っていくようすを見ていて、「ねぇ、保科が最後に絞首刑台から伝えたこと、受け止めてくれたんですか。保科がどのような思いで戦争を引き起こしてしまった側の責任を引き受けようとしたのか、感じてくれたんですか。次代へ託す平和への祈りを心にとめてくれたのですか」と、聞きたかった。
 人々は観劇のあと、戦争も戦犯も忘れ去って、楽しそうに喫茶店やレストランへ繰り込むようであった。



ポカポカ春庭の「いろいろあらーな」
やちまた日記2004/10/02 ことばの知恵の輪『夏のことば遊び』
at 2004 10/09 08:59 編集

 五七五や五七五七七のことば遊びが好き。指をおりつつ単語をならべる遊びだから、下手でも楽しい。俳句や短歌というほどの立派なものではないが、自分なりの楽しみのひとつ。

 カフェ足跡つけに思いつきでその日の五七五を決めることが多く、記録しておくのもあるし、忘れてしまってそのままのものもある。
 書き流して忘れていいようなものばかりだから、その日の足跡ごあいさつに使えればそれでいいのだけれど、たまに、書き留めておくときもある。
 夏の一日、言葉遊びを書きとめておいた分。2004/07/29のことばあそびのテーマは「音の響きのおもしろさ、カタカナの音のつながり」

04/07/29朝 (ボランティア日本語教室)
ジャンボ!ハバリ?サバンナの風つれてくる「ンジョキ」はいつも青いバンダナ
「ありがとうテリマカシ」と、はにかんで インドネシアのレラ笑う朝
黒き手に赤道の響きダンたたタン ンゴンベ太鼓が教室にダン
コリアンのハルモニ、アリラン低く唄う 日本語サークル午後のつどいに

ボランティア地球の仲間コスモス会おひさまサークルにほんご教室
あかさたな ひとつひとつの音節に文字あることばを今日も習いつ
アイウエオあいは最初に覚えてね 誰かにあいを語る日のため
愛されたい愛したいけど愛、曖、哀、「たい」どこまでも希望の助動詞

04/07/29 夕(I can fly!)
トフスランとビフスランとが遊ぶ谷ゆうらんゆすらんひがなフラココ
黒きものブンブンと飛ぶ目の中に「飛蚊症だって」ブンブンぶぶぶん
9階の窓よりダイブのんちゃんの カレ夕焼けへGo! I can フラァイ!
9階の窓より飛べないワタクシは さよなら三角夕焼け子!焼け

04/07/29 夜 (空の巣症候群)
ほたほたと卵(ラン)生(ア)れる日よ生れ出でて またも下水の奥にスッぽ〜ン
エストロゲン、プロゲステロンもなくなれば わたしは青い管のみの肉
産み終えれば我が卵巣はかじかんで、ゴナドトロビンに反応せずあり
月ごとの血の祭り果て空子宮 祭りの後はかくまでからっぽ
ジャンクフードを腹いっぱいに詰め込んで今宵も脂肪の滾る満月

(カタカナことば)
ジャンボ、ハバリ?=スワヒリ語でこんにちは、ごきげんいかが
ンジョキ=ケニア女性の名前のひとつ
テリマカシ=インドネシア語でありがとう
ンゴンベ=アフリカのトーキングドラム(音で会話ができる太鼓)のひとつ
ハルモニ=おばあちゃん
トフスランとビフスラン=ムーミン谷の住人
フラココ=ぶらんこ
エストロゲン、プロゲステロン=黄体ホルモン卵胞ホルモン
ゴナドロビン=性腺刺激ホルモン



ポカポカ春庭の「いろいろあらーな」
やちまた日記2004/10/16「ファミリーオペラ健康法」
at 2004 10/16 11:54 編集
 
 10月15日晩、姑と「ファミリーオペラコンサート」に出かけた。
 秋の行事のひとつとして、姑が楽しみにしているコンサートだ。姑の姉は定年まで音楽科教師をしていた人だったが、最近足が悪くなって、外出もままならなくなってきた。舅も音楽好きだったが、他界した。そこで、去年から嫁の私が姑のお供を仰せつかるようになった。

 ファミリーと銘打ってあるが、聞きにきている人はほとんどが中高年。79歳の姑と私の組み合わせも客層平均年齢の上昇に貢献している組。

 コンサートがはじまる前に、ロビーで姑持参の「タマネギ茶」を勧められて飲む。
 姑は昔から「健康オタク」で、健康にいいと聞いたことは何でも積極的にやる人。最近の「はまりモノ」はカスピ海ヨーグルトと「タマネギ茶」。 

 「タマネギの茶色の皮を煎じたお茶」の、血圧を下げる効果について、ひとあたり講釈を聞く。「このタマネギの皮ね、日本橋のデパートにしか売っていないの。パック詰になっていて、無農薬の皮だから安心」と言いながら、紙コップについでくれた。

 「どう?飲みにくくなんかないでしょ」と姑に問われて、「タマネギの香りがしますね」と答える。タマネギ皮のお茶をのんで、人参の香りってこともないので、もっと気のきいたこと言いたいけれど、思いつかない。まあ、健康にいいのだろう。

 姑は、舅がなくなってから、「体を動かすために、健康体操サークルへ。声をだすために童謡を歌う会と詩吟サークル。指先を動かすために手品教室と藤蔓クラフトへ。平家物語購読の会はもう終了しちゃったので、頭を動かすサークルを考え中」と、習い事楽しみ事の日程がびっしり入っている。

 「童謡を歌う会」は、昔習った学校唱歌などを唄うのが楽しいそう。去年「童謡の会に誘われているんだけど、オンチなのに、会に入って大丈夫かしらね」と、言っていたので、「オンチなんて関係ないですよ。歌って楽しければいいんですもん。声を出すことは健康にとてもいいそうですよ」と、大いに勧めた。「健康にいい」というキーワードを出せばOK。声を出すことは本当に健康生活の要。読経でも朗読でもよい。

 コンサートは、新進オペラ歌手によるアリアや四重唱、地元小学校合唱団のコーラスなど、楽しく聞くことができた。

 私も小中学校時代は合唱部に入って、NHK学校音楽コンクールの地区予選に毎年出場していた。毎年地区予選で落ちたけど、今も下手なりに唄うことが好き。

 オペラとなると、生の舞台を見に行くほどのファンではないが、たまには、有名なアリアの一部とか、序曲のメロディを鼻歌でうたいながら、家事をしたりしている。ぴかぴかの青空を見上げて「♪あ〜る晴れた日に〜ビルのはるかかなたに〜」など、適当な歌詞をつけながら洗濯ものを干したり。気分はもうすっかりお蝶夫人だ。マダムバタフライは、自分で洗濯物干したりしなかったろうけど。 

 コンサートが終わると、姑から「これ、作ったので持って帰って食べてね」と、おからの煮物やサツマイモの甘煮などを渡される。仕事帰りでずっしり重いバッグと煮物が入った紙袋と、両手に荷物を提げたので、最寄り駅でエレベーターを探す。姑は「私はいつも階段」というが、くたびれ中年のヨメは「はぁ、でも荷物も重いし」と、言いながらエレベーターに乗り込む。

 姑の「来月のお楽しみ」は、孫たちの学校の文化祭巡り。私が姑の年齢になるころ、あんなに元気にしていられるだろうか、と思いながら、電車を降りていく姑を見送った。

 姑のように、「健康のためなら何でもやる」方針の人と、わたしのように、「明日で間に合うことは、今日しない。間に合わなくなっちゃったことは、結局しない」方式のナマケモノとでは、年の取り方がずいぶん違うだろう。

 せめて、歌だけでも若い気分で情熱の恋を味わってみようかと、コンサートで聞いた「カルメンのハバネラ」を鼻歌で唄う。
 「♪ラムール、ラムール、恋は野の鳥、自由にはばたく」と、電車を乗り換える。ホームで手を握り合って立っているふたり連れがこちらを見る。「ふん、あんたたちだって、ケータイの着ウタ、おっきな音量で響かせているじゃないの!」と、思うが、少なくともケータイ着ウタは、音痴ではない。すみませんね、下手なハバネラはばかりさま。



ポカポカ春庭の「いろいろあらーな」
やちまた日記2004/10/21「赤鬼」観劇記(1) 
at 2004 10/21 10:20 編集

 10月19日、千秋楽の前日に野田秀樹・作演出出演『赤鬼日本バージョン』を渋谷シアターコクーンで見た。
 出演者は、とんび=野田秀樹 あの女(フク)=小西真奈美 水銀(ミズカネ)=大倉孝二 赤鬼=ヨハネス・フラッシュバーガー、の四人
 四人とも、とてもよかった。とくに野田は、昔に比べれば走り回り方が少なくなったのかもしれないものの、大いに走り回っていて、元気だった。

 客席は、真ん中に置かれた舞台を四方から囲んでいる。ひょうたん型の小さな島のように舞台が置かれている。舞台のまわりに漂着したガラス瓶が置いてある。 私が見たのは、舞台側1階席の一番前。エリア指定席の後ろ。

 息子は「見たいけど母とは行きたくない」と、初日の翌日の日曜日に早々と友達と見てきた。息子の席は2階のバルコニーシート。終演後、座席位置によって舞台の印象がちがうだろうか、と2階へ上がってみた。距離は遠くなるが、舞台全体を見るには上からの方がよかったみたい。客が四方を囲むアリーナ式舞台だと、役者がうしろを向いて声を出す場合もある。舞台側の座席からだと出演者が重なって、顔が見えにくいシーンがいくつかあった。額縁舞台ならバルコニーより1階席のほうがいいが、今回の舞台側座席は大正解とはいえなかった。

 楽日の前日、役者の疲れがピークのときだと思うが、出演者はそれぞれ熱演だった。
 私は野田の初演を見ていない。しかし、『赤鬼』はとても好きな作品で、作品への関わり方は、他の作品より深い。

 最初は、新橋のライブハウスで上演された「赤鬼」を見た。テーブルにつくと、缶ビールを渡された。友達の息子が「とんび」を演じるというので見に行ったのだ。赤鬼は赤い天狗の面をかぶっている演出。観客は役者の知り合いばかり数名、という中での上演。
 このあと、演劇雑誌を古本屋で探して、戯曲を読んだ。そのあと野田秀樹の戯曲集を単行本で買ったら、赤鬼も収録されていた。二度読んだ。

 二度目は、去年の息子の学校の文化祭で、高校二年生のクラスが演じたのを見た。男子校なので、「あの女」も男子高校生。中学生のときから文化祭の「最優秀女優賞」を勝ち取っていたという「男子校きっての女優」という生徒だ。この女形の「あの女」がとてもよかった。

 『赤鬼』オリジナルバージョンでは、とんび、あの女、水銀の3人は、シーンが変ると村人を演じる。
 よそ者を迫害する村人と、共同体からのハズレ者である「あの女」の二役、人間の両面性を演じるのに、「女形」という形式がぴったりはまり、とても上手だった。このクラスは高校の部の最優秀演劇になった。

 三度めはビデオで見た。2003年ロンドン公演の「赤鬼ロンドンバーション」の録画。赤鬼は野田秀樹。
 ロンドンバージョンは村人は別の役者が演じる。衣裳ダンスが家の入り口になったり、洞窟になったり小舟になったりする装置が印象的だった。
 英語上演に日本語字幕がつくので、謡曲本を読みながら能を観賞する人のように、戯曲と動きを比べながら見る、という見方ができた。

 再演日本バージョンは、客席が舞台を四方から取り囲むアリーナ舞台。
 島舞台の上に、四重の「自」と「他」が同心円で広がる。
 赤鬼→あの女→とんび→水銀→赤鬼やあの女を迫害する村人→赤鬼を見せ物としてもてあそび、結局は殺そうとする村人→傍観者である村人(客)。
 この重層によって、客は物語の一員となる。

 額縁舞台の中で演じられる劇は、ときとして「今日は観劇を楽しみ、明日はショッピング」のヒトコマで終わる。人々は、舞台が終われば次の「お楽しみ」へと送り出されてゆく。
 今回の日本版演出は、舞台を「今、我々の中に存在させる」演出としてすぐれていたと思う。今日客席に座っている観客は傍観者でもあり、あしたは迫害する村人であり、ある時は赤鬼にもなるだろう。

 同心円の核にいるのはタイトルロールの「赤鬼」。海の向こうから漂着し、言葉も通じない。風体も異様。村人には「人を喰う鬼」に見える。
 赤鬼の外側を囲む「あの女」とその兄のとんび。
 兄妹はよそ者の一家で育った。小さなさびれた漁村の共同体のなかで、疎外されながら暮してきたよそ者一家の母は、「海のむこう」をめざして沖に出たまま帰らなかった。
 妹は村の中で生きることの絶望と、母を追って「海のむこう」へ出ていく「絶望の中のたったひとつの希望」を抱えてかろうじて生きている。
 村の中でたった一人、「あの女」は、赤鬼を人間と認め理解し合おうとする。最初はわけのわからない音の連なりだった赤鬼の言葉がわかるようになる。<赤鬼観劇記つづく(1)〜(3)>
☆☆☆☆☆☆☆
春庭今日の2冊 
No.149 野田秀樹『解散後全劇作 1998/03 新潮社 収録「赤鬼」他
No.150 野田秀樹『20世紀最後の戯曲集』00/09 新潮社「パンドラの鐘」「カノン 」他

ポカポカ春庭の「いろいろあらーな」
やちまた日記2004/10/22「赤鬼」観劇記(2)
at 2004 10/22 07:41 編集

 村人のうち、よそ者のとんびとその妹の相手をしてやるのは、ただひとり水銀だけ。水銀はとんびの妹と「やりたい」ゆえに、村八分にされている兄妹と村人の間をつなぐ。

 水銀も、村人から「うそつき男」「狼少年が大人になった狼男」としてさげすみを受けながら生きており、「海のむこう」へ出ていくことを唯一の望みとしている。
 水銀が「あの女とやりたいだけ」と言いつつ深く彼女を愛しているのは、この「ここではない、むこう側」の共有というひそかな共通点を感じ取っているからだろう。

 水銀は、最初は赤鬼を「人を喰う鬼」と思い、「あの女」が赤鬼に心惹かれていくことに不安を感じる。しかし、彼自身の「海の向こう」への憧れによって、赤鬼の言葉のある部分は理解できるようにもなり、赤鬼がなぜ村に漂着したのかも悟る。

 兄のとんびは「ぼくは頭が足りないので、よくわからない」と言いながらも、妹が村の一番高い崖から海に身を投げて死んだ話を語り始める。(以下ネタバレあらすじにつき未見の方ご注意)

 ある日、村に赤鬼が現れた。「あの女」は、赤鬼が鬼ではなく、水を飲み花を食べる人間だと知り、家に匿う。しかし、たちまちのうちに「人を喰う鬼」の出現は村のうわさとなる。
 赤鬼に出会って驚いた村の女が、赤ん坊を残して走り去る。赤ん坊を保護した赤鬼は「赤ん坊まで喰おうとする鬼」と迫害される。「あの女」は赤鬼と話し、赤ん坊を母親のもとに帰してやる。しかし村人は「あの女」との約束を破り、赤鬼が隠れていた洞窟を襲う。

 村人は驚く。皆が洞窟の中にみたのは、赤鬼が描いた海の向こうの景色。見たこともない異国の楽園。村人は、赤鬼は神様なのかも知れないと思い、見物にやってくるようになる。
 ある者は赤鬼を崇拝し、ある者は珍しい見せ物として見物する。ある老人は赤鬼の肉を喰えば不老長寿になると信じて、肉を食おうとさえする。

 あるとき、とんびは沖をゆく船を発見し、水銀と「あの女」は、赤鬼が漂着した理由を知る。
 赤鬼の仲間は、理想郷を求めて航海を続けていた。赤鬼は、村が理想郷であるかどうかを調べ、もし上陸するに足る土地ならば鐘を鳴らして合図することになっていた。しかし、赤鬼は村人によって囚われの身となったため、鐘を鳴らすことができない。村の長老たちは、赤鬼を裁き、処刑を宣告する。

 水銀ととんびは、幽閉された赤鬼とあの女を助け出し、夜ひそかに小舟をこぎ出す。沖へいけば、赤鬼の仲間の船があるに違いない。船に乗って皆で「海のむこう」へ行くのだ。とんびたちの母が出かけていき、二度と戻らなかった「海のむこう」。水銀がひそかに憧れていた「海のむこう」へ。4人は小舟の上で上機嫌だった。

 すぐに出会えるはずの船は、沖に影もなかった。いつまでたっても鳴らない鐘を待ちきれずに、船は去っていったのだ。仲間がいないことを知り、赤鬼は衰弱して死んでしまう。

 頭の足りないとんびが小舟に積み込んだのは、赤鬼が食べる花だけ。ほかに食料もない小舟の上で、「あの女」も弱っていく。死にかけ意識朦朧となった「あの女」を救ったのは、水銀が「フカヒレのスープ」として飲ませてくれた食べ物だった。<「赤鬼」観劇記つづく>



ぽかぽか春庭やちまた日記「赤鬼観劇記(3)」
at 2004 10/23 06:46 編集

ポカポカ春庭の「いろいろあらーな」
やちまた日記2004/10/23「赤鬼」観劇記(3)

 村の浜辺に漂着した小舟。村人は助けられた「あの女」に、フカヒレスープを与える。「あの女」は、小舟で飲んだフカヒレと味が違うことに気づく。これが本当のフカヒレなら、舟の上で飲んだフカヒレは何の肉だったのか。

 水銀は「舟のフカヒレ」が「赤鬼の肉」だったことを認める。赤鬼はもう死んでいたから、人間ではない。物体だ。愛する女を生かすために、そこにある物体を食うしかなかった。生きのびるためには、仕方がなかったと。

 絶望のなかにあるひとかけらの希望にすがって生きていた「あの女」は、今度こそ本当に絶望し、ひととき心通い合った赤鬼のあとを追い、海の中に身を投げる。
 「あの女」を失った水銀は、それ以後魂をなくしてしまった。

 とんびは、「ぼくは頭がわるいから、よくわからないけれど」と、鬼ではなかった赤鬼と、赤鬼の肉を食べて生きのびた妹の物語を語る。フカヒレスープの正体を知ったあと、体の中のものをすべて吐きだして崖から海へ身をなげて死んだ妹と、頭の足りない自分と、今はもう魂をなくしてしまった水銀の物語。

 とんびは「フカヒレスープを飲んだために海に身を投げた妹」をしのんで、こう言う。「海の向こうには、妹の絶望が沈んでいます」
(あらすじ終わり)

 私の生涯のテーマのいくつか。「個人と共同体」「言語表現と身体表現による人と人との関わり合い」「ここではない海の向こうへ出ていくこと」
 『赤鬼』は、この三つのテーマが全部出てくる。何度舞台を見ても戯曲を読み返しても、その都度新鮮な発見がある。
 今回はロンドンバージョンと比較しながら見たので、「赤鬼」の存在の仕方と役者の肉体表現について考えた。

 ロンドンバージョンのレッドデーモン役は、小柄な野田秀樹が演ずる。大柄な英国俳優の中で、野田デーモンはトリックスターのように感じられる。ロンドン公演ビデオ版の理知的ですらりとした容貌の「あの女」がレッドデーモンを受容し心を通わせ合うシーンと、愛らしくほっそりした小西真奈美が、大柄で太い体に長い髭をたらした日本バージョン赤鬼ヨハネス・フラッシュバーガーを受容するシーンの印象は、ずいぶん異なる。

 ロンドン公演の「レッドデーモン=野田秀樹」は、「恐ろしい見慣れぬよそ者」という印象より、閉鎖社会をかきまわすトリックスター的であり、「あの女」が村人から赤鬼をかばうとき、「母性的な包み込み」が感じられた。

 一方、小西真奈美が大きな赤鬼と抱擁するシーンでは、「スサノオ」やエビス神や「クエビコ=山田のカカシ神」など、異土から来歴する文化や異邦神を受容し融合する民の印象があった。
台本や演出は違うとして、元の戯曲は同じはずなのに、物語の要の赤鬼の印象もこのように変わるものなんだ、肉体はことば以上に表現するんだなあということを再確認した。

 母が子を慈しむように受け入れるのも、「異土の人」を融合し仲間として受けいれるのも、受容の方法はさまざまにあるだろう。

 だが、今、私のまわりには、「自分たちとちがっているものを排除排斥する風潮」ばかりが目立っている。同じハタをふらない人は排斥、同じ歌を歌わない人は排除。大国にシッポをふり従おうとするやり方に不満を持ちビラ配りをした人は、処分。

 自分たちの共同体を守ることだけに狂奔し、自分たちの利益だけを優先させ、そうやって不寛容が蔓延していくうち、いつか私も、赤鬼や「あの女」のように「村のために処刑される」ことになるのかも知れない。

 海のむこうには絶望だけが沈んでいるのだろうか。 私が小舟をこぎ出す「海のむこう」は、もうどこにもない。<『赤鬼』観劇記おわり>



ぽかぽか春庭2004やちまた日記「魚沼地方」
at 2004 10/26 12:05 編集

ポカポカ春庭の「いろいろあらーな」
やちまた日記2004/10/26「魚沼地方」

 この夏各地に被害をもたらした台風に続いて、この週末の中越地方の地震、驚いた。被災地の方々、今日の冷たい雨にもどうぞ負けないでと、祈るばかり。

 中越魚沼地方は、父方の先祖の地である。
 曾祖母の代に破産して、着の身着のまま夜逃げしてきた話を、何度か書いてきた。
 信濃川の大水により流れが変り、先祖伝来の田がすっかりダメになってしまったとき、自分の家を後回しにし私財をなげうって地域の復興に働いた。自分の家は借金だらけになり、おまけに家付き娘の曾祖母と結婚した入り婿は放蕩者で、とうとう破産した。

 曾祖母は子どもの手を引き、「お供します」と言ってついて来てくれた女中に赤ん坊を背負わせ、裸一貫で夜逃げしてきた、という昔話を、私は子守歌のように聞かされた。
 曾祖母は私が小学校6年生まで生きていた。孫嫁にあたる私の母には厳しかったが、ひ孫の私にはよく昔話も聞かせてくれた。昔話を聞きながら、「どうして自分を優先しないで、人助けを先にするのか」と不満に思ったこともある。
 
 娘が小学校の授業参観のこと。図工の時間、木工をしていた。電動糸鋸など、小学生には扱いが難しい道具もある。
 手先が器用な娘はクラスメートから重宝にされ、「ねえ、ここやってくれない?」「ここ、どうやったらいいのか教えて」などと言われると、自分の作業はほったらかしにして、友達の分を手伝っていた。
 授業終了のチャイムが鳴っても、自分の分はなかなか仕上がらない。

 その姿を見ていて、「ひいおばあさんが、我家を優先する人だったらよかったのに。自分の家が経済的に立ち直ってから人助けをする人だったら、子孫が貧乏に泣くこともなかったのに」と、恨みがましかった気持ちもおさまってきた。自分のことを後回しにして人を助けてしまうのも、持って生まれた性分で、仕方のないことなのだろう。

 曾祖母が夜逃げしたあと、放置されたままになっていた残された土地は、旧国鉄の買い上げとなり、わずかな金額で手放すことになった。土地の手続きのために久しぶりに故郷に戻った曾祖母。国鉄から受けた金は、昔の知り合いの家々へ配るみやげ代にも足りなかったそうだ。

 今も、かの地の寺に過去帳が保存されているが、父は「俺がこの家の一代目なんだから」と、過去をたどることをしなかった。私と妹は、父が亡くなる二ヶ月前に寺で過去帳を見せてもらったことがある。昔話にきいただけの先祖の名前が本当に過去帳のなかにあったことを報告すると、父もなつかしそうに聞いていた。

 今年の夏も妹夫婦の車に同乗して、遠い先祖の地をめぐった。折り重なる山の間に青々と広がる魚沼郡の田圃。豊かな自然のなかで、人々は生き生きと「魚沼コシヒカリ」を育てているように見えた。
 稲の取り入れが済んだあとの地震だったが、脱穀乾燥作業を行う作業所なども被災したため、「魚沼コシヒカリ」はこれから値上がりするという。

 中越は日本有数の豪雪地帯。冬の厳しい寒さと雪が心配される。被災のみなさん、どうぞお身体に気をつけて。



ポカポカ春庭2004やちまた日記「地層」
at 2004 10/27 06:39 編集

ポカポカ春庭の「いろいろあらーな」
やちまた日記2004/10/27「地層(1)」

 10月23日夜、地震の最初のゆれを「古い民宿だから、誰かが階段登っただけで揺れるんじゃないの?」と笑い話にしていた。そのあとの強いゆれに、これは笑い話でなくて、本当にすごい地震なんだ、と相部屋の人の顔も変った。

 テレビのニュースを見ると、新潟に大きな被害が出ているらしい。相部屋になった方のご主人の実家は小千谷市なのだという。何度もメールや電話をしていたが、なかなか安否もわからない。
 
 私のケータイにも娘からの伝言メモが。「ナカザトは震度5強とテレビに出ていたけれど、大丈夫?」という連絡。折り返し「大丈夫。明日の巡検先は、群馬県神流町中里。テレビで言っているのはたぶん越後中里のことだから」

 去年も参加した「地学ハイキング」の一泊巡検。今年は、一日目、秩父山地の地層見学と化石掘り。二日目、群馬県旧中里村の恐竜センター見学というコース。

 一日目の地層見学。秩父堆積盆地は、関東山地北東部の約1500万年前の「新第三系」の地層。
 源岩は、後期古生代からジュラ紀と推定でき、堆積、沈降、断裂、地層の将棋倒しなどが起こった。というような、地層の説明を専門の先生がしてくださるのだが、私には難しくて全部は理解できない。

 岩や土を前にして「ここに地層の不整合が表れているので、よく観察してください」と言われれば、「へぇ、不整合なのかぁ」と思って縞々の地層を見比べる。前原の不整合は、基盤の泥岩と新第三系の礫岩砂岩層が重なっているという。

 地質学先生の説明の中で、よくわかったこと。「新聞紙を古い順に重ねていきます。明治時代の新聞から順に積み上げて行くと、古い順に層ができますね。これが地層。
でも、あるとき、新聞紙の山が崩れて、明治時代の古新聞の上に平成の新聞がのってしまった、というようなことがおきます。これが前原の不整合なのです」はい、よくわかりました。

 台風の影響で川の水が増え、予定の化石採集ポイントの河原は水没。別地点で発掘採集を行った。タガネとハンマーで石を割る。今回は去年ほどの収穫がない。
結局自分で割った石からは化石がみつからず、先生たちが割った中の「ここから見つけていいよ」と、もらった石から貝化石をゲットした。太古の二枚貝。

 民宿に泊まり、夕食のあとは勉強会。スライドなどを使って、韓国の地層や秩父山地の化石の学習をした。とても専門的で難しいお話。半分眠ってしまった。

 温泉に入ったあと爆睡。朝、相部屋の人から「ふとんに入って3分で寝ちゃいましたね」と、言われたが、それはいつものこと。<地層つづく>



ぽかぽか春庭2004やちまた日記「地層(2)」
at 2004 10/28 07:47 編集

ポカポカ春庭の「いろいろあらーな」
やちまた日記2004/10/28「地層(2)」

 二日目は、志賀峠から秩父山中地溝帯を見下ろし、また、地層褶曲が露呈しているところを見学する。褶曲しているといわれても、素人目にはさっぱりわからない。専門家というのは、ほんとたいしたものだと思う。先生方は、地層の話や化石の話をしていると、実に楽しそうで生き生きしている。

 志賀峠から神流町中里へ。
 瀬林の天然記念物「さざなみ岩」は、この山里が波打ち際であった太古、さざなみがうち寄せた上に泥が覆い被さり、波模様がそのまま石になって残ったあとなのだという。これを「リップルマーク露頭」という。
 このさざなみ岩の上にぼつんぼつんと並んでいるくぼみは「恐竜の足跡」として発表され、人気の観光スポットになっている。「恐竜足跡まんじゅう」を売る茶店も近所にある。

 中里恐竜センター。群馬県旧中里村から恐竜の骨の化石が発見され、村おこしで「恐竜センター」ができた。恐竜の骨は一度出土しただけで、あとは出てこないが、モンゴルの恐竜化石を中心に展示している。
 化石採集体験や化石クリーニング見学などもでき、恐竜や化石に親しめる。地球の歴史に興味が持てるようになった子供の中から、未来の地質研究者恐竜学者が出るかも知れない。

 私はというと、興味はあるけれど専門的なことはさっぱりわからない。生痕化石とか、ソールマーク、フルートキャストなどの説明を受けても「全部理解できました」というところまでいかない。

 私にわかるのは、地球は45億年の歴史のなかで、ダイナミックに姿を変え、今も生きて動いている存在であること。この大地の活発な活動には、プレートの衝突もあり、火山の爆発もあり、地震もある。
 生きて動く地球の中に住まわせてもらっているのに、私たちは自然を「人の利益のために消費する」ばかりで、地球を人間のものであるかのように粗末にしてきたのではないかと思う。

 今回の台風や大雨地震による山崩れ土石流災害を専門家が見て、無理矢理の林道開削や不必要な川堰建設などのツケが災害を大きくした面もあると指摘しているという。
 古来より人間は自然と対峙しながら自分たちの環境を整えてきた。しかし、近年の人間の仕業はあまりにも傲慢で、地球に対して謙虚さを忘れているようにみえる。

 今回の旅行中、車で走りながら武甲山を見た。30年前に秩父旅行をしたとき目にした武甲山の姿を思いだし、昔とあまりに違う姿に唖然とした。緑がはぎとられ、山の形が変わり、昔とは、まるで違う山のようだ。

 開発の過程で、峰が丸々一つ失われ、昔は1336Mあった標高が、現在1295Mになってしまった。表の峰が消滅したので、1960年代までは見えなかった裏山が視界に入る。
 チチブイワザクラなどの貴重な植物の自生地もほとんどなくなり、秩父の動植物への影響は計り知れないという。

 しかし、秩父の人々にとって、「自然より収入。セメント工場がなくなれば、現金収入のなかった昔にもどるしかない」という思いが、自然破壊を問題にすることをタブーとした。「高度成長、発展、収入増大」このスローガンのもとに武甲山は削られ続けた。
 地元の人にとっては、大事な収入源だったことはわかるし、日本のセメント産業のために必要なことであったのだと頭では理解できる。でも、緑を削られ白く骨が露出しているような武甲山の痛々しい姿を目の前に見ると、胸がいっぱいになってしまった。山肌に白く垂れている筋が、山の涙のあとのように見えた。

 去年、化石採集をした茨城県の地層でも、そのうちの二ヶ所はすでに埋め立てられたり公園に改修されたりして、もう化石を掘りにいくことはできなくなったのだと聞いた。

 今年の地学ハイキング。古生代、新生代などの地層の重なりや不整合を観察し、山の中の地層から貝の化石を掘り出して、「太古のロマン」に心ときめく「地学旅行」であったが、旅行の最中に大きな地震があり、「これから先の地球」に思いがとんだ。

 採集した二枚貝や巻き貝の化石をそっと手のひらにのせる。
 45億年の地層の歴史をたどり、地球がすべての生き物の命のゆりかごであることを思う。



ポカポカ春庭2004やちまた日記「山里の暮し」
at 2004 10/29 07:42 編集

ポカポカ春庭の「いろいろあらーな」
やちまた日記2004/10/29「山里の暮し」

 秩父から群馬へ入る志賀峠の近く、両神村竹平という集落にぽつりとあった一軒の家。千葉県市川市に住むご夫婦が、崩れかかった古民家を買い取り、毎週週末に通い続けて改修した。4年かかって、ようやく人が快適に住めるようになってきたのだという。
 あまりにすてきな外観に、地学ハイキングの面々が、「建物探訪」に早変わりして、かわるがわる家の中まで見せていただいた。

 天井の古い梁を生かした「古民家再生」。買い取ったときは、土壁が崩れ落ちていた状態だったという。屋根を修理し、壁に板を張る。板壁にはバーナーで焦がした模様をつける。土間だったところにも床をはった。古い趣の中に新しい設備を機能させた家に仕上がっている。

 「退職後はこんな生活ができたらいいなあ」と、高校中学の地学の先生方は口々に感想をのべる。もちろん、私にとっても、あこがれの山里暮し。しかし、なかにひとり、「でも、こういう山の中に住み続けたら、たぶん1週間でネをあげるかも」と、正直なことをいう先生もいた。
 地層、地質学、化石などを専門とする先生方は、山の中をフィールドとして、山地をかけめぐる。山の中が好きな人ばかりかと思っていたら、「都会の学校で教えて、週末に山に入るのと、ずっと山の中で生活するのは大違い」という。

 確かに、週末に遊びにくるのと、山里に生活の基盤をおくのは、全然異なるものなのかもしれない。
 ニュースで見た中越の山古志村やその他の山里の暮しも、ひとたび災害が起これば、陸の孤島となってしまう。
 電気も水道も止まり道路が寸断され、生活必要物資の運搬もできなくなる。見た目の美しさと、実際の生活は大違いなのかも知れない。それでも、田舎生まれの私にとって、山里でくらすことは、見果てぬ夢のひとつ。 

 山里の暮しを描いた映画を思い出す。中国の『山の郵便配達』 原作ポン・ジエンミン(彭見明)フォ・ジェンチイ(霍建起)監督作品。原作の短編『あの山あの人あの犬』というタイトルどおり、山と人と、そして郵便配達お手伝い犬、名前は「次男坊」が、とてもいい。中国の山里の風景は圧倒的な存在感を持っていて、この山里の景色を堪能するだけでも見る価値はある。
 前評判の高かった、チャン・イーモウ『あの子を探して』を押さえて『山の郵便配達』は、中国金鶏章を受けた。

 山岳地帯の郵便配達夫を続けた父親と彼の仕事を引き継ぐ息子。仕事ひとすじで不在がちの父と心が通い合わないと思っていた息子。仕事はじめの日、心配する父と共に配達の山旅に出る。二泊三日の旅で、父の仕事を尊敬し、父の家族愛も確認する。

 父は、老齢と足の怪我により仕事を退職せざるを得なくなった。
 母親は「こんなきつくて酬われることも少ない仕事は一代で終わりにしたい」と思っていた。妻の意向を押さえて、父は息子を後継者として推薦する。
 支局長にもなれずに一郵便配達で生涯を終えることになる自分だったが、人と人の心を結ぶ仕事に誇りをもって続けたことを息子に伝えるために、息子の最初の配達の旅に同行する。

 孫からの手紙だけを楽しみに生きる目の見えないおばあさん。新聞記者になりたいという夢を抱き通信教育を受けている少年。少数民族の結婚式など、村人と配達人のふれあい。
 父と息子の郵便配達に忠実に従い、配達の助けになる愛犬次男坊。犬はとっても演技派だし、おばあさんは、韓国映画「おばあさんの家」のハルモニと同じくらいいい感じ。

 息子は、日頃不在がちな父に隔たりを感じ、「お父さん」と父親に呼びかけることさえしてこなかった。その息子が、渓流を渡るときは、足の悪い父親をがっしりと背負ってやる。父は息子の成長を思い涙する。

 『山の郵便配達』は、ハタからみたら酬われること少なく苦労ばかり多いように見える仕事を、黙々淡々と続ける人の人生へのオマージュと思える。
 ストーリーにもっともっと波瀾万丈を加えることもできただろう。父親が崖から足をふみはずして失神したときのことも、父親の口からさりげなく語られるだけだし、出会いから結婚、子どもが生まれたときの喜びも淡々と思い出される。
 破綻もなく予定調和のように話が終わるが、私はこれでいいと思う。

 『初恋の来た道』と、印象が共通する。「初恋〜」は、両親の恋愛話を通して父親の仕事(山里の小学校の教師)を理解する息子だったが、『山の郵便配達』は、直接父と子が仕事を共にし、両親の恋愛は父の思い出のなかに語られる。
 私はロードムービーが好き。車でも歩いてでも、主人公が移動しながらさまざまな人に出会い、過去を思い出したりしながら話が進んでいく形式が好み。

 山の暮らしのなかで、つつましくささやかな人生をおくる。与えられた仕事を誠実に黙々とこなし、立身出世もせず大金持ちになることもなく、毎日をすごす。
 この毎日のささやかな積み重ねこそが人生であり、ひとつひとつの生活のシーンが人生の持つ意味なのだと、映画を見ながらしみじみと思う。私も年をとって、若い頃願っていた「平凡な人生より波瀾万丈を」という思いが変ってきたのだ。

 まあ、私のこし方も、細い道をとぼとぼと歩き続けたような人生だったけれど、これでもつまらないということはなかったし。今かついでいる荷物が重いけれど、歩き続けていきまっしょい。重さにちょっとへばっているけどね。
 「山里暮し」が、簡便な都会暮しに慣れてしまった今の私にできるかどうかわからないけれど、あこがれを持つだけならタダ。憧れ続けて、いつかそのうちにね。きっと。

 どんなに不便だといわれても、山の暮らしを続けたい人もいる。今回の地震で住み慣れた家を失った方々が、再び安心して故郷の暮しを続けていけますように。


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