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Workshop for Nipponianippon Communicative Language& Culture Studies
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ポカポカ春庭のいろいろあらーな2004/06
日付1 タイトル 今日の一冊 著者 2004
06/01〜06/04ペンとカメラとタイプライター No.122『ちょっとピンぼけ』 (キ)ロバート・キャパ No.123『南ベトナム戦争従軍記』
(お)岡村昭彦(No.123『地雷を踏んだらさようなら』 い)一ノ瀬泰造 No,124『泥まみれの死 沢田教一ベトナム写真集』 (さ)沢田サタ No.125『戦場カメラマン』 (い)石川文洋 No.126『地を這うように 長倉洋海全写真1980-95』
No.127『マスードの戦い』
No.128『フォトジャーナリストの眼』(な)長倉洋海
ポカポカ春庭の人生いろいろ「ペンとカメラとタイプライター」
at 2004 06/01 13:53 編集
ロバート・キャパの未公開カラー写真がイギリスのタイムズ紙に掲載されたというニュース。私がこれまでに見てきたのは白黒写真だけ。キャパが新聞雑誌に写真を載せていた頃は報道写真がカラーで掲載されることはほとんどなかったからだろう。キャパがカラーで撮っていたとは知らなかった。キャパがとらえた色彩を見てみたい。
戦争写真を撮り続けたキャパは、1954年5月25日にインドシナ戦線で地雷を踏んだ。
1913年ブダペスト生まれのユダヤ人。享年40歳。
キャパが亡くなって今年はちょうど50年目。カラー写真が命日の4日後に発表されたのも、死後50年の著作権切れを考慮してのことなのだろう。ということは、彼の著作『ちょっとピンぼけ』も、もう遠慮なく引用ができるわけだ。
『ちょっとピンぼけ』に描き出された1945年ヨーロッパ戦線の最後の日々の部分。
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ライン河からオーデル河まで、私は一枚の写真もとらなかった。捕虜収容所には多くの写真家が群がって、やたらにその残虐の写真を撮っていたが、そのあげく、この恐怖の全体的効果を減殺するだけであった。
人々はいましばらくのあいだは、これらの収容所でこの哀れな餓鬼のような人々に対して何事がおこなわれたかを知るであろうが、明日ともなれば、誰が彼らの将来のことを心配するであろうか。(略)
その兵士の顔は清潔で、明るくきわだって若々しかった。そして、彼の銃はナチスを倒しつづけていた。私はバルコニーの上へでて、2ヤードくらい離れて、彼の顔に焦点を合わせた。私はシャッターを切った。その瞬間、私にとって数週間以来の最初のこの写真は、この青年にとって生涯の最後の写真となった。(略)
床に倒れた彼の頭の横には地が水たまりのようにひろがっていた。彼の脈拍は鼓動を永遠に止めてしまった。(略)
私は戦死する最後の男の写真を撮った。ことの最後の日、もっとも勇敢なる兵士の数人がなおも死んでいくであろう。生き残っていくものは、死んでゆく彼らをすぐ忘れ去るのであろうか。
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私たちは、キャパやその他の報道写真家が記録した一枚の写真を忘れないだろう。写真のなかに閉じこめられた生と死の記憶を持ち続けるだろう。
捕虜収容所で哀れな餓鬼のような人々に対して行われたことを忘れないのと同じように、写真家、ジャーナリストがカメラやペンで伝えたことを忘れないだろう。<ペン、カメラ、タイプライター続く>
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春庭今日の一冊No.122
(キ)ロバート・キャパ『ちょっとピンぼけ』
ポカポカ春庭の人生いろいろ「ペンとカメラとタイプライター(2)」
at 2004 06/02 09:35 編集
ポカポカ春庭の人生いろいろ
2004/06/02 今日の文房具=ペンとカメラとタイプライター(2)
本箱に同じ本が2冊ずつあるのを見て、娘は「どうして同じのを並べとくの?本を置くスペースないって愚痴っているのに」と、言うのだが、仕方がない。
私と夫がそれぞれに持っていた本、結婚後もそれぞれが買ってきてしまった本。自分の書き込みなどがある。どちらも「自分の方を処分してもいい」とは思わないので、そのまま2冊残っている。
キャパの『ちょっとピンほけ』も2冊ある。夫が買った文庫本の奥付は、1979年5月25日発行第1刷。
偶然だったのか、編集者が意図したのか、5月25日は、キャパの命日。
『ちょっとピンぼけ』奥付に残る夫のメモ。1979・5/24購入、1979・6/1読了。アフリカのケニアへ出かける1ヶ月前に読んだことがわかる。夫がケニアに入ったのは1979年7月初め、私は7月末日にケニアに着いた。到着の翌日にナイロビ市内で道に迷い、夫に出会った。
夫は新聞記者をやめ、カメラひとつを持ってナイロビにいた。ナイロビのジャカランダの花の下で、どんな写真を撮りたいのかなどを熱く語っていた。岡村昭彦にあこがれて新聞記者をめざしたこと。ケニア北部のトゥルカナ地方へ入る予定であることなど。
3年後、娘が生まれたあと、夫はタイの難民キャンプなどを訪れ、タイ北部からミャンマーへ入国しようとしてやめた。「娘の顔を思い浮かべて、それ以上進むことを躊躇する自分に気づいた。命のほうが大事なら、写真を撮り続けることはできない」
夫は、写真をやめた。私は夫に「覚悟はできている。あなたが地雷を踏んだら『本人にとっては本望だと思います』と、周囲の人には語るから」とは言えない妻だった。
HP『話しことばの通い路』に掲載している「ちえのわ七味日記2003年」から、昨年7月6日の日記を転載する。
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2003/07/06 日 曇り 日常茶飯事典>報道写真展
恵比寿の東京写真美術館へ。2階で2003年報道写真展を見た。1階と3階はロバートキャパ展、アフリカ写真展をやっていて、私はそちらのほうが興味をそそられたけれど、もらった招待券は2階だけのものなので、2階だけ見て帰る。自分で入場券を買ってまで見ようとはしないところが、なんともケチ。キャパは大好きだし、アフリカも好きなのに。
報道写真はイラク戦争報道など、迫力のあるものだった。現場に迫りその目で見てファインダーに納めてくるという行為をなしえる写真家の仕事を尊敬する。私は対象に近づけないもの。こわいから。
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私は砲弾が飛び交う戦場になど、とても行くことはできない。テレビの画面で見ているだけでも目を覆いたくなる。
夫に対しても「覚悟はできているから、写真を撮り続けて」とは言えない妻だった。
だから、現場へ行きファイダーに映る現実を切り取ってくることのできるジャーナリストたち、わけてもフリージャーナリストに対して尊敬の念を抱く。覚悟を決めて夫を戦場へ送り出す妻たちにも。<続く>
☆☆☆☆☆☆
春庭今日の一冊No.123
(お)岡村昭彦『南ベトナム戦争従軍記』
ポカポカ春庭の人生いろいろ「ペンとカメラとタイプライター(3)」
at 2004 06/03 09:58 編集
2003/07/05の「ちえのわ日記」に書いたように、私はロバート・キャパをはじめ、報道写真家を敬愛してきた。亡くなった岡村昭彦、一ノ瀬泰造、沢田教一の写真を見、その生涯を記録した本や映画を見てきた。
本のタイトルがその名もずばり『戦場カメラマン』の著者、石川文洋も好き。1938年生まれ現在65歳の今も、フリージャーナリストとして活躍を続けている。
大石芳野や長倉洋海も好き。
今年も6月8日から開催される東京写真美術館での「2004年報道写真展」へ行くつもり。(招待券をもらったから)
去年見た、報道写真展のイラクの写真もさまざまな思いを持って見てきたが、今年はまた特別な感慨を持つだろう。
ふたりの有能なジャーナリスト、橋田信介さんと彼の甥である小川功太郎さんがイラクで襲撃され亡くなった。
橋田さんはベトナム戦争から写真を撮り続け、カンボジア、ボスニア、イラン、イラク、アフガニスタン、パレスチナ、戦場からスクープしてきた。
還暦を過ぎても対象へ愛情と気迫をもってせまっていった、橋田さん。4月30日に「報道ステーション」に生出演して「伝えること」への意欲を語っていた橋田さんの姿。
甥の小川さんはNHKディレクターという、安定した仕事と高収入を投げ打って去年フリーとなった。「人もうらやむ社会的な地位と収入」よりも「自分で報道したいことを伝えられるフリーの立場」を選んだのだ。おじさんの橋田さんを尊敬し、ともにイラクでの取材に意欲を燃やしていた。
イラク現地で真に必要とされているのは何か、イラクの人々はどう思いどう感じているのか。知りたいことはたくさんある。しかし、報道はますます難しくなっている。もはやイラク全土が戦場だから。
それでも、その戦地へ「覚悟の上」で橋田さん小川さんは入っていった。現場から報道するために。
去年、イラクへの侵攻が始まったとき、バクダッド入りする橋田さんはカメラに向かって「あと、少しでバクダッドに入ります。うれしいです」と、笑顔で語っていた。
また、「戦争はエキサイティング」という言葉も残したのだという。
私のような「定住農耕民族」型の人間は、たかだか数万年の歴史を記憶するだけだ。しかし、人類にとって狩猟採集に従事した記憶は数百万年の重みを持つ。
スクープ、ニュースという獲物を求めて戦場を駆けめぐるジャーナリストを見ると、彼らは「狩猟民族」だなあ、と感じる。定住することを欲せず、「エキサイティング」な獲物を求めて、カメラひとつ持って飛び出していく。
☆☆☆☆☆☆
春庭今日の六冊No.123、124、125、126、127、128
(い)一ノ瀬泰造『地雷を踏んだらさようなら』
(さ)沢田サタ『泥まみれの死 沢田教一ベトナム写真集』
(い)石川文洋『戦場カメラマン』
(な)長倉洋海『地を這うように 長倉洋海全写真1980-95』『マスードの戦い』『フォトジャーナリストの眼』
ポカポカ春庭の人生いろいろ「ペンとカメラとタイプライター(4)」
at 2004 06/04 06:46 編集
橋田さんはサマワ駐屯地へ取材許可証を取りに行った。
取材許可を得た後、橋田さんはさまざまな視点から報道してくれたであろうに、残念でならない。
自分自身もジャーナリストである橋田さんの奥さんは「夫婦して覚悟のうえです。普通の人にやさしい人でした。先輩ジャーナリストとして尊敬できる人でした」と語った。これもまた見事な夫婦像である。
今日もジャーナリストたちはペンとカメラを持って現場に行く。プレスでタイプライターをうち続け、現地のようすを報道する。
伝えることを使命としている人々の貴い精神のおかげで、(あるいは、エキサイティングな場を求めて突っこんでいく狩猟精神のおかげで)私たちは真実をかいま見ることができる。全部を見ることは不可能としても、伝えられたことをもとに、自分の頭で考えることができる。
おふたりの犠牲は痛ましい。しかし、二人に続くジャーナリストがいるなら、彼らの行く手を阻害してはならない。渡航禁止措置をとり、だれも現地報道できないようにしたほうが、政府にとっては都合がいいのかも知れないが、私たちは真実を知りたい。
おふたりの冥福をお祈りします。真実を伝えてくれて、ありがとう。合掌
<ペンとカメラとタイプライター終わり>
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もんじゃ(文蛇)の足跡:
橋田さんが現地のレポートとして自らの言葉で伝えていたことが、報道ステーションでの発言や、小川さんが映したビデオフィルムに残っている。
橋田さんは「政治家の思惑どうであれ、現場の自衛隊員達が流している汗には、頭が下がる」とも語り、「隊員が汗をながし、現地に水を供給している。しかし、200万円分の水を供給するのに、100億円もお金をかけているのを実際に目で見ると、どういうものかと考えてしまう」とも語っていた。
その目で実際に見た人による、現場での発言。重みをもって受け止めねばならない言葉だ。
フランスのNGOがイラク現地に水を供給する活動を続けている。自衛隊の人数に比べて、はるかに少ない人員と少ない費用で、より多くの水を供給している。日本政府も活動費用のうち数千万円を助成することにした。
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(4/20 NHKニュース他により報道)
政府は、イラクに派遣された陸上自衛隊が活動しているサマーワのあるムサンナ県で同じような給水活動を行っているフランスのNGO=非政府組織に、およそ三千九百万円を無償で資金協力することを決めた。
イラクのムサンナ県では、陸上自衛隊がサマーワを中心に給水活動を行っているが、フランスのNGOも去年六月から給水車三十五台を借り上げて、現地での給水活動を行っている。政府は、このNGOが、資金不足から活動が困難になっているとして、給水車の半年分の借り上げ代、およそ三千九百万円を無償で資金協力するこになった。
これによって、およそ六万人の住民に衛生な水の供給を継続できるという。
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人道支援というのなら、この方法のほうがイラクの人のためには、はるかに支援の価値がある。半年分で4千万円なら、1年分でも1億円以下。
帰国した自衛隊員のことば「宿舎の修理が主な仕事だった」という。
500億円かけて、自分たちが住む宿舎の補修をする以外に仕事もなく、宿舎の外に出られないでいることも、イラクの「人道支援」のためには貴い仕事なのだろう。たぶん。
でも、どんどん活動できるNGOに助成するなり、報道のため現地入りしているジャーナリストの安全確保を助成するほうに、私が納めた分の税金を使って欲しい。
命をかけて取材に入ったジャーナリストの生死が問われているときに、首相が発したことばは「イラクには入らないでください、と勧告していた。残念です」だった。これまで、数々のスクープもものにした有能なジャーナリストに対して、温かさのかけらもない冷たいことば。遺族のお気持ちを思うと悲しくなる発言だ。
国民に真実を報道しようとしていた人の志を、どうか無駄にしないでほしい。 <ペンとカメラとタイプライター終わり>
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