「60'sえれじい」
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Cyber
Click!

1999.06.27(日)
皆様、こんにちは。
東京も、ようやく梅雨らしい天気になってまいりまして、昨日の土曜日も、日曜日の今日も、空は一面、雲に覆われ、時折、雨が落ちてきております。
我が家では、昨晩、先週末の“ささやかな”父の日パーティーに続き、カミさんの“盛大な”誕生パーティーが開かれ、それに前後する形でページ作りを行い、データをアップし終えたのは午前3時過ぎでありました。
再び、サーバー容量が逼迫してきておりまして、アップしたはずのファイルが0バイトで登録されるような事態となってしまい、慌てて、既存ファイルから画像データを外したり、ファイル形式を変更したりして、既存ファイルを軽くする作業も進めなければならない状況となってきております。
この調整作業は、暫く、継続しなければなりませんので、それでなくても、最近は、データ更新頻度が低下してきているというのに、その傾向に、さらに、拍車がかかってきてしまいそうな気配です。
先々週とその前の週は、色々と記録続きで、週間アクセス数が700件〜800件台というような高水準で推移してまいりましたが、先週は、再び、600件台にとどまり、落ち着いた動きとなりました。
さて、先週は、水曜日に日本クラウンから“はとバス定期観光開始50周年記念”のイメージソング「走れ!未来を乗せて」「東京夜景」のシングルCDが発売され、その記者会見と発表会に行ってまいりました。
実は、東京を中心に走っている黄色の車体でお馴染みの「はとバス」は、終戦直後の1949(昭和24)年の3月に、その第1号車が運行されてから、今年で、ちょうど、50年になります。
「60年代通信」をご覧いただいている皆様のうち、40代後半以降の方々は、昭和30年代前半のヒット曲である「東京のバスガール」という曲を覚えていらっしゃるかと思いますが、その「東京のバスガール」は、もともと、作詞家の丘灯至夫さんが「はとバス」のバスガイドさんをイメージして詩を作られたもので、発売直後から、「はとバス」のイメージソングとして、ガイドさんが車内で歌ったりしてきていたもので、1957(昭和32)年の発売以来、既に、42年にもわたって、歌い継がれてきております。
蛇足になりますが、丘丘灯至夫さんと言えば、「高校三年生」に始まる舟木一夫の一連のヒット曲を手がけ、この「60年代通信」では、たびたび登場してきております長岡で全面ロケが行われた舟木一夫の主演映画「青春の鐘」の作詞も担当された、昭和歌謡史に燦然と輝く大作詞家であります。
その丘灯至夫・作詞、上原げんと・作曲による「東京のバスガール」に代わる新しい“はとバス”のイメージソングとして日本クラウンが企画し、リリースしたのが、台湾出身のダイアー・リンの歌う「走れ!未来を乗せて」「東京夜景」というわけなのであります。
日の出埠頭に停泊していた「クラシカ」号の船内で行われた発表記者会見では、はとバス、日本クラウン両社の社長とともに、作詞家の中谷純平、作曲家の三島大輔両先生も、ダイアー・リンーの新曲ヒットを祈願されておりました。
また、「東京のバスガール」を歌った初代コロンビア・ローズさんも出席して、ダイアー・リンさんに花束を贈り、激励されておりました。
記者会見に続いては、報道機関や台湾関係機関、ダイアー・リンさんの後援会の皆さんなどの関係者を集め、東京湾を湾内クルーズする「モデルナ」号の船内で新曲発表会が行われました。
発表会では、今年、はとバスに入社したばかりの新人ガイドさん5人が登場して、ダイアーリンと一緒に「走れ!未来を乗せて」を歌ったりしておりましたが、ダイアー・リンは、オリジナル曲だけではなく、同じ台湾出身の大先輩であるテレサ・テンの「空港」や「つぐない」を歌い、集まった台湾関係者や後援会の皆さんの大喝采を浴びておりました。
フロアに降りて、会場を一周し、ステージに戻ったダイアー・リンの手には、1万円札の挟まれた割り箸が数本握り締められていたのであります。久しぶりに、ご祝儀が飛び交うようなコテコテのドメスティック歌謡曲の現場を目の当たりにし、会場に漂うその濃厚な雰囲気に、さすがの私も圧倒されたのでありました。
圧巻は、日本クラウンの専属振付師であるフジウミキョクミ社中による踊りでありまして、確かに、昭和30年代後半の歌謡曲全盛時代には、“流行歌”のレコード・ジャケットに「振り付け」が印刷されていることも珍しくないことを思いだしたのであります。
家に帰って、記者会見の資料の中に入っていた「走れ!未来を乗せて」「東京夜景」のシングルCDを開けてみましたら、やはり、振り付けの書かれた紙が封入されていたのでありました…。
以上、新曲発表会の様子を簡単に報告させていただきましたが、はとバスの50周年と「東京のバスガール」、それから、50周年を期して、今回、40年ぶりに発表されたイメージソングにつきましては、「60年代通信」の企画ページで是非とも紹介させていただきたいテーマでありますので、また、何れ、詳細に取り上げさせていただこうと思います。
ということで、今週も、引き続き、よろしくお付き合いいただきますよう、お願い申し上げます。
主宰者敬白

1999.06.20(日)
皆様、今晩は。
「父の日」の日曜日を、如何、お過ごしでいらっしゃいましたでしょうか。
私は、お昼前に中学1年の長女とそのお友達と3人で、お隣の家の小学4年の女の子が出演するミュージカルを見に日野市民会館へ出かけ、夕方、帰ってまいりました。
幼稚園の年中組の次男も一緒に行くはずでしたが、先週の水曜日から風邪を引き、一旦、なおったのですが、昨日から、また、発熱しているため、家に置いていくことにしました。
小学5年の長男は朝からボーイスカウトの活動で出かけており、カミさんは、午後から、そのボーイスカウトの総会に出席するため、次男は、長男が帰ってくるまで、30分ほど一人で留守番する筈でしたが、長男が予定より早く帰って来たので、一人のお留守番からは免れることができました。
ということで、ウチの3人の子供とお隣の子供たちも成長してくると、それなりに、毎週、色々と忙しかったりするわけであります。
さて、私が見に行ったミュージカルは、お隣の女の子が通っている日野市の児童合唱団と市民劇団の合同公演で、演目は、今や早くも古典の名作と並ぶ存在となりつつあると言ってもいいミヒャエル・エンデの「モモ」でした。
出かける前は、学芸会に毛の生えたようなものかなと思っておりましたが、商業劇団によるものと見紛うような舞台装置と出来映えで、びっくりして帰って来た次第であります。
「モモ」という物語は、ご存じの方も多いかと思いますが、現代の時間に追われる管理社会に対する痛烈な批判の込められた作品でありまして、私も、灰色の男達に時間を奪われてしまったような日常を、深く反省したのでありました。
世間一般の「父の日」という存在の位置付けはどうなのか、よく分かりませんが、我が家の場合、「母の日」やクリスマス、家族の誕生日などに比べると、イベント的にはワンランクもツーランクも下の位置付けになっている「父の日」ではありますけれども、昨晩、次男から、幼稚園で作ってきたペン立てをもらい、気を取り直して、単純に喜んでいるバカな父親であります。
さて、先週、アクセス数に言及させていただいた時に書き忘れましたが、先々週は月曜から金曜までウィークデーは全て1日当たりのアクセス数が100件を超え、「60年代通信」始まって以来の快挙を達成していたのでありますが、先週は、月曜から土曜まで6日間連続で1日当たりのアクセス数が100件を超えるという新記録を達成し、週間アクセス数も800件を超えてしまいました。
本当に、アクセスいただいている皆様、ありがとうございます。
今週末は、昨日、タイガースのシングル盤ディスコグラフィーの番外編をアップさせていただき、できれば、今日も、もう1ページと思っておりますが、この後、一応、形ばかりの父の日のパーティー(もどき)をやってもらえるそうですので、今後の展開は予断を許さない状況となってきております。
それから、お気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、昨日、アップさせていただいたタイガースのシングル盤ディスコグラフィーの番外編のページでは、従来、各ページに一つしか出ていなかったCyber
Clickのバナーが3枚出る形となりました。これは、CyberClick の方で、バナーをクリックすると当該サイトが別ウィンドウで立ち上がるという新しいバナー配信を始めたことに伴うものでありまして、ちょっとウルさいと思われる方もいらっしゃると思いますが、「60年代通信」の場合、どうしても、1ページ当たりの文字数が多くなってきておりまして、ページ構成の上では、ちょうど、アクセントになっていいのではないか、などと勝手に考えております。
もちろん、バナーの露出頻度が高まることで、少しでも、クリックされる確率が高くなると嬉しいな、というセコい気持ちも全くないわけではありませんが…。
1ページの長さが短いものは、従来通り、ページへのアクセス数をカウントするためのCSJ
Banner ExchangeのバナーとCyber Clickのバナーの1本ずつ、合わせて2本が露出されることになりますが、長いページにつきましては、Cyber
Clickのバナーが3つ露出される形となりますので、悪しからず、ご了承いただければと思います。
皆様のご理解とご協力を賜りますよう、よろしくお願いいたします。
最後に、先々週のコラムで、お約束した画像を、バックナンバーのページにアップする前に、きっと、バックナンバーのページを、わざわざご覧になられる方も少ないのではないかと思われますので、長女の中学校の運動会で登場したキョロちゃんの応援看板と、お隣の中学2年の男の子が多摩川の河原で捕まえてきた特大のアオダイショウの画像を掲載させていただきます。
2メートル近くはあろうかという巨大なアオダイショウに、初めは「コワイ、コワイ」と言っていた次男も、お隣の男の子の手馴れた扱いに安心したのか、途中から、「カワイイ、カワイイ」に変わり、恐る恐るヘビのお腹を触っておりました。
ということで、今回も、例によりまして、支離滅裂な内容となりましたけれども、今週も、引き続き、よろしくお付き合いくださいますよう、お願い申し上げます。
主宰者敬白
 

1999.06.13(日)
皆様、今晩は。
今回も、また、毎度、毎度、お馴染みの言い訳コラムになってしまいます。
昨日も今日も、プライベートの用事が立て込んでしまいまして、皆様から頂戴したメールを「お便りコーナー」にアップさせていただくことで、かろうじて、データ更新を維持しているような状況です。
以前、私が、変換ミスで「お頼りコーナー」と打ってしまったことがありましたが、今や、名実ともに「お頼りコーナー」とさせていただいている観があり、誠に、申し訳ございません。
ザ・タイガースのディスコグラフィーやCM関連ページなどを作りたくてウズウズしておりますし、お約束したリンク集のページのデータ更新もしなければならないのに、とにかく、時間の調整がつかず、かといって、また、徹夜に近い状態になったりすると、せっかく、戻りつつある体調を崩しかねませんので、ここは一つ、私も辛抱いたしますが、皆様にも、ご辛抱をお願いしなければならないような状況です。
そんな状況であるにも関わらず、先週も、週間アクセス数が、4月の第3週以来、6週間ぶりに700件を超えまして、アクセスしていただいた皆様には、感謝申し上げると同時に、企画ページの更新がままならないことを、本当に、お詫びしたいと思っております。
さて、そういう事情ではありますが、突然に、話は変わりまして、実は、今年の3月に、京王線の府中駅ビルにあるレコード屋さんで、太田裕美のデビュー25周年記念アルバム(CD6枚セットで、新譜のミニアルバムを一緒に買うと、デビュー直後のコンサートのMC集のシングルCDも付いてくるというもの)を予約しておいたのですが、発売日を過ぎても連絡が来ないまま1カ月が過ぎ、先週、直接、レコード屋さんに行ってきたら、「新譜の場合、連絡はなしで、取りにきていただくことになっています」と言われ、解約直前状態で取り置き棚に残っていた記念アルバムを危ういところでゲットしてまいりました。
私が、追っかけに近いほどの太田裕美ファンであったことは、まだ、この「60年代通信」では明らかにされていなかった新事実でありますが、実は、そうだったのです。
既に、昨年から、山口百恵のデビュー25周年にかこつけて、“70年代アイドル不死鳥伝説”などという大仰なタイトルを付けて、新しい企画ページを始めておきながら、途中でストップしたままであることは、つい最近も、どこかで、書かせていただきましたが、山口百恵はメジャーになった頃から、ちょっと距離を置いて眺めていた感じとなり、私にとっての個人的な“70年代アイドル”ということになると、思い入れの強さから言っても、やはり、太田裕美ということになるのであります。
昨日から今日にかけまして、家で色々な用事を片付けつつ、6枚組のCDと新譜のミニアルバムとオマケのMCシングルの全てをMDにダビングしながら聞いておりまして、また、色々と懐かしい思い出やらが甦ってまいりました。
その辺のことは、また、何れ、ホームページでも色々と紹介させていただくことにしまして、今時のCDというのは、jpgの画像ファイルまで一緒になったCD-ROMにもなっているので、びっくりしました。
さすがに、画像ファイルは、今の太田裕美ではなく、当時の太田裕美の写真ばかりでありましたが、二人の子供の親となった、かつてのアイドルを、再び、リアルタイムで楽しませていただけるような時代の状況を、感謝したいと思ったりもしたりしたわけであります。
太田裕美自身も、間に結構ブランクが入っているので、「インチキ25周年」と言ってはおりますが、それにしても、こういう形で歌手活動を続けられているというのは、所属事務所やレコード会社などのスタッフに恵まれているということなのでありましょう。
色々な経緯はあるのでしょうが、当時、私が好きだったアイドル系でいいますと、アグネス・チャンとかキャンディーズとか(ブルコメ、タイガース、布施明、伊東ゆかり…、私の好きな歌手にはナベプロ系が多いです…)、岩崎宏美とかにしても、ここまでの大型記念アルバムというのは出ていなかったと思いますので、その辺は、やはり、松本隆、筒美京平という、70年代あるいは80年代の歌謡曲の世界で、極めて大きな位置を占めていた作詞家や作曲家に支えられていたということとも関係があるのかもしれません。
ということで、今週も、また、企画ページのデータ更新もないまま、言い訳とヨタ話で、お茶を濁させていただこうとしておりますが、来週こそは(というフレーズも、既に、これだけ繰り返されると、空しいだけでありますが…)、何とか頑張ろうと思いますので、どうか、引き続き、よろしくお付き合いいただきますよう、お願い申し上げます。
主宰者敬白
 

1999.06.06(日)
皆様、今晩は。
今週は、月曜日に、このトップページ下に設置させていただいているアクセス・カウンターが「33333」のメモリアル・ナンバーを通過し、その記念すべき(とか言いながら、何が記念すべきか、よく分かりませんが…)ナンバーは東京都武蔵野市のSOさんがゲットされました。
お約束でありますので、SOさんには、後日、記念の粗品を差し上げようと思います。
先週は、5月27日以降に出荷されたNECのPCのマニュアルで「60年代通信」を掲載していただいていることが効いたのか、1日当たりのアクセス数が100件を超えた日が4日もあり、週間アクセス数でも600件を突破して、歴代4位の数字となりました。
さて、東京は入梅したそうでありますが、そんなことはツユとも感じさせない天気が続いております。
先週の木曜日と金曜日は、両日とも、幕張メッセで開催されていた“NETWORLD+INTEROP 99 TOKYO”に終日通い詰める形となり、真夏を思わせるような暑さに、汗をダラダラ流しながら会場近辺を動き回り、体力を消耗しきってしまいました。
天気もさることながら、2000人は入ろうかというコンベンション・ホールで行われた基調講演は、各回とも満員で、30分も前から夥しい数の参加者が長い行列を作るほどの熱気で、最終回の野田聖子郵政大臣の講演では、席が足りずに、後ろの方には二重、三重の立ち見が出きておりました。
今時、いわゆるトレードフェアで、あれほどの熱気を感じさせる業種は、恐らく、こうしたインターネットを中心とする通信ネットワーク関連産業だけだろうと思いますし、野田さんも、その辺のムンムンするような熱気を感じ取ったのか、大臣の講演用に郵政省のお役人が作成した大部の原稿を敢えて読み上げず、45分間に及ぶ講演を、原稿なしのまま、最後まで自分の言葉で語り通しまして、超満員の聴衆からヤンヤの喝采を浴びておりました。
所轄官庁の大臣が原稿なしで、45分もの講演をアドリブで語り通してしまうというようなことも、極めてヴィヴィッドな展開が続いている通信ネットワークという産業分野ならではのことだったのではないかという気がします。
その基調講演の前には、今回のNETWORLDで登場した新技術などを分かりやすくまとめたビデオの販売プロモーション・ビデオなども流されておりましたが、その案内役には、元フォーリブスのおりも政夫さんが登場されていて、びっくりしてしまいました。
さらに、昨日の土曜日は、今年の4月に入学したばかりの長女の中学校の運動会があり、やはり、炎天下のグランドで、1日中、ビデオを回し続け、鼻の頭と腕が赤く土方焼けし、再び、衰えた体力を、さらに、消耗する結果となってしまいました。
運動会のBGMには、あの「マッハGO!GO!GO!」の主題歌が流れたり、赤組の応援看板には、やはり、60年代生まれの森永製菓のチョコボールのキャラクターとして余りにも有名なキョロちゃんも登場したりしていて、私を喜ばせてくれたのであります。
さらに、土曜日の夜から今日にかけましては、色々とプライベートな用事が立て込んでしまい、体力の著しい消耗とも合わせ、この週末は、またしても、企画ページの更新作業が、できないままに終ってしまいそうです。
本当は、昨日の夕方、隣の家の中学2年生の男の子が、多摩川の河原で2メートルはあろうかというアオダイショウを捕まえ、首に巻きつけて家まで持って帰り、わざわざチャイムを鳴らしてウチにも見せに来てくれまして、そのビデオも撮ってありますので、運動会のビデオなどとも併せ、画像を取り込んで紹介させていただこうと思っていたのですが、それも、時間切れのため、出来ない状況であります。
その辺の画像は、今週末に、今回、書かせていただいている文章を、バックナンバーのページに移す際,、紹介させていただくことにしようと思いますので、ご興味のおありになる方は、そちらで、ご覧いただければと思います。
ということで、毎週、毎週、ひたすら言い訳だけをするために、このコラムを書かせていただいているような観もありますが、今週は、ゲリラ的なウィークデーのデータ更新も含め、何とか頑張ってみようと思いますので、引き続き、よろしくお願いいたします。
主宰者敬白
 

1999.05.30(日)
皆様、今晩は。
この週末は、先日、「お便りコーナー」でもお約束させていただいた通り、「リンク集」の更新をさせていただくつもりでしたが、さきほど、確認しましたところ、昨年の10月12日以降、既に、7カ月以上にわたって「リンク集」のデータ更新を行っていなかったため、相互リンクなどでリンクを張らせていただかなければならないサイト数が20以上にも達していることが、夜の11時を過ぎてから判明いたしました。
これから、改めて、URLの確認作業やそれぞれのページの内容確認などをやっておりますと、またまた、徹夜に近い状態となってしまいますので、誠に恐縮ですが、「リンク集」のページそのものの大幅刷新も含め、再び、今度の週末まで延期させていただくことにしましたので、悪しからず、ご了承いただきますようお願い申し上げます。
この週末は、昨日、「60年代のテレビ」の「テレビ番組表」のページをアップさせていただいた後、先月、JCBのゴールドカード会員誌で「60年代通信」を取り上げていただきましたので、その報告をさせていただくページを作り、その途中で、今年の2月にも、ダイナースクラブのホームページからも「60年代通信」へのリンクを張っていただいたことを思いだし、そのページも、急遽、作らせていただくことにしました。
さらに、先週末には、NECのPCマニュアルで「60年代通信」を紹介していただく旨を担当の方からご連絡をいただいていることから、この際、昨年の春以降、「60年代通信」を取り上げていただいた色々なメディアについても、その経過が分かるようなINDEXページを作っておかないと、自分でも何が何だか訳が分からなくなるのではないかという危機感に襲われ、そんなページまで作り始め、結局、リンク集のページの方が時間切れになってしまいました。
皆様にとりましては、別に、「60年代通信」のパブリシティ関連の露出がどのように推移してきたかなどということは、面白くも何ともないかもしれませんが、一応、非力な主宰者としては、ここまで「60年代通信」を維持してくることが出来たのも、このホームページをご覧いただいたり、Eメールを頂戴したり、貴重な資料を提供してしていただいたりしている皆様のお蔭であり、「60年代通信」が媒体などに取り上げられたことにつきましては、皆様に報告申し上げるのが筋であり、それは、私の責任でも義務でもあると感じておりますので、どうか、その辺りの私のこだわりにつきましては、ご理解を賜りますよう、改めて、お願い申し上げる次第であります。
それから、先日、市川市のMさんへのメールにお答えする形で、「お便りコーナー」でも触れさせていただきましたが、ゴールデンウィーク明けに入ってまいりました人間ドックの結果レポートが、先週の半ばに病院から送られてまいりまして、年初から体調が芳しくなかったことから、皆様には、色々とご心配をいただきましたが、お蔭様で、「要観察」の項目は幾つかありましたが、「要検査」という項目は一つもありませんでした。
前回、前々回と、連続して、人間ドックの結果、胃カメラを飲まされ、今年は、かなり明確な自覚症状があっただけに、胃カメラは当然というか、むしろ、実際に、胃カメラの検査をきちんと受けなければと覚悟を決めていたのに、肩透かしをくらったような感じで、本当に大丈夫なのかなと、逆に、心配になってきたりもしておりますが、まあ、一応、一安心ということで、気持ちを切り替えて、前向きに物事を考えながら、頑張っていこうと思っております。
何れにしても、年も年ですし、会社の仕事も、依然として、厳しい状況が続いておりますので、皆様からもアドバイスをいただいているように、自分でも、あまり無理をしないように、体に気をつけながら、このホームページも末永く続けられるようにしていきたいと考えておりますので、皆様におかれましても、お体には、十分にお気をつけいただき、この「60年代通信」と末永くお付き合いいただきますよう、改めて、お願い申し上げる次第であります。
ということで、この週末も、「60年代通信」本来の企画ネタのアップが十分に出来ないままとなってしまいましたが、また、少しずつ頑張っていこうと思いますので、よろしくお願いいたします。
それと、先週のこのコラムでも書かせていただいた通り、トップページの下に設けてありますアクセス・カウンターが、今日の夜10時過ぎで33200番台に達しておりまして、恐らく、明日か明後日のどこかの時点で、「33333」というメモリアル・ナンバーを通過するものと思われます。
ご興味・ご関心のおありになる皆様は、ちょっと、アクセス・カウンターにご注目いただきまして、このナンバーに当たられた方は、どうか、スクリーンキャプチャで画像を取り込まれ、アクセス・カウンター回りを切り取って、メールに添付してお送りいただければと思います。
あまり大したものではございませんが、粗品を進呈させていただきたいと思っておりますので、よろしくお願いいたします。
それでは、皆様、今後とも、引き続き、よろしくお付き合いいただきますよう、お願い申し上げます。
主宰者敬白
 

1999.05.23(日)
皆様、今晩は。
お蔭様で、金曜日の夕方、ハワイ出張から無事に帰宅することができました。
体調が万全でないこともあるのかもしれませんし、久しぶりの海外出張だったことや、あるいは、年のせいもあるのかもしれませんが、たかだか4泊6日のハワイ出張ではありましたけれども、これまでになかったような疲れ方をしておりまして、自分でも愕然としております。
昨日も今日も、ほとんど、寝たきり状態となってしまいました。
これが、ヨーロッパ辺りで10日間くらいの出張だったら、一体、どうなっていたのだろうという気がしております。
お昼過ぎから、「60年代の広告」のコーナーのデータ更新作業を少しやりましたが、あまり、ぱっとしない内容に終ってしまいました。
次回から、また、頑張ろうと思いますので、お許し下さい。
一応、まがりなりにも、今日付けで企画ページのデータ更新を行ったことで、先月26日以来、記録更新が続いていた“企画ページ無更新”連続26日という不名誉な事態に終止符を打たせていただきました。
この間も、アクセス数の方は、特に落ち込むこともなく推移してきておりまして、これも、ひとえに、「お便りコーナー」にメールをお送りいただいている皆様のお蔭と感謝しております。
本当に、ありがとうございます。
このコラムを書き始める直前にチェックさせていただいたところ、トップページの下にあるアクセス・カウンターは、「32634」を示しておりました。
現在、週刊アクセス数が500台から600台で推移してきていることから、来週のどこかの時点で、アクセス・カウンターが「33333」というメモリアル・ナンバーを通過することになるものと思われます。
これまでは、「11111」の時にも、「22222」の時にも、とりたてて、大騒ぎはしなかったわけですが、今度ばかりは、長島が5人分という記念すべきナンバーとなりますので、もしも、ご覧いただいている皆様の中で、アクセス・カウンターにも関心をお持ちの方がいらっしゃいましたら、今週末から来週前半にかけましては、ちょっと、ご注意をいただいて、もしも、「33333」というメモリアル・ナンバーに当たられた際は、画面をキャプチャーしていただき、アクセス・カウンターの辺りを適当に切りとっていただいて、画像をお送りいただけますでしょうか。
お送りいただいた方には、何か、粗品を進呈させていただこうと思いますので、よろしくお願いいたします。
ということで、来週こそ、きちんと企画ページの更新を行いたいと思いますので、引き続き、よろしくお付き合いいただきますよう、お願い申し上げます。
主宰者敬白
 

1999.05.18(火)
皆様、今晩は。
今週は、日曜日の夕方に成田を発って、ハワイに来ております。
すでに、「お便りコーナー」でも書かせていただいた通り、成田で飛行機に乗りこんでから、ほぼ丸1日にわたり、インターネットへの接続環境を確保することができなかった上、会議の取材という仕事で来ているため、当然と言えば当然ですが、朝から晩まで何らかのスケジュールが入っておりまして、このコラムにも手を付けることが出来ませんでした。本当は、ホノルルに向う飛行機の中でも書けるかなと思っておりましたが、結局、機内では、会社で出来なかった取材の事前準備だけで終ってしまいました。
今日は、明日の最終日を前に、ビーチ・サイドで深夜までパーティーが続くことになっており、とても深夜までは付き合いきれませんので、パーティーを途中で抜けさせていただき、部屋に戻って、このコラムを書かせていただいているわけであります。
ハワイ時間では、現在、18日の夜ですが、日本時間では、既に19日の夕方になろうかという時刻でありますから、このコラムの更新ローテーションから言えば、3日遅れになってしまいました。
ということで、仕事とはいえ、曲がりなりにも、“永遠のパラダイス”ハワイにやってまいりまして、少しは、のんびりさせていただきたいわけでありますが、しつこいですけれども、そういうわけにもいかないわけで、それでも、何とか、“あこがれのハワイ”航路の旅路も含め、例によりまして、40オヤジの小学生風絵日記を通じ、皆様にも、少しでも、ハワイの雰囲気をお伝えできればと思います。
まず、最初に上の2枚の画像をご覧いただきたいわけでありますが、上の画像は、私が泊まっているヒルトン・ハワイアン・ビレッジというホテルの部屋から見える景色でありまして、遠くにダイヤモンドヘッドも見える典型的なハワイのビーチの風景です。オーシャン・ビューの素晴らしい部屋に泊めさせていただいているわけですが、同じアングルで、ちょっと引き気味にしたのが下の画像でありまして、部屋の中には、こうした厳しい現実が存在しているわけであります。
バルコニーの下に広がるビーチからは、浜辺に遊ぶ人々の歓声と嬌声が聞こえてくるわけですが、その誘惑をモノともせず、私は、ひたすら、部屋の中で、もらったばかりの大部の資料をひっくり返しつつ、インタビュー取材の下調べやら原稿書きやらをしなければならず、この状態は、限りなく、拷問に近いものがあるような気さえしてきております。
さて、話をちょっと戻しまして、自宅を出てから、ハワイに着くまでの経過をご説明させていただきますと、私の海外出張は、一昨年の9月以来、実に1年7カ月ぶりのことでありまして、今の会社に入ってから、海外出張が全くなかったというのは、昨年が初めてのことでありました。いわゆる物心がつきはじめる時期を迎えている次男にとっては、私が日本を離れるということの意味が分かるようになってから、初めての海外出張ということになり、カミさんと一緒に、隣の駅の聖跡桜ヶ丘まで見送ってくれました。
聖跡桜ヶ丘で京王線の特急に乗り換え、新宿からは、京王線の駅のすぐ上に乗り場があるリムジンバスで成田に向いました。
以前は、道路事情によっては、ヘタをすると成田まで2時間くらいかかってしまうこともありましたが、レインボー・ブリッジが完成してからは、都心部の混雑を避けることが出きるようになったためか、大体、1時間半前後で成田に着けるようになったようであります。
フライトの定刻2時間前に、今年の3月に改装が終ったばかりの第1ターミナルに到着し、新しく出来たショッピングセンターの本屋さんでハワイ関連の参考書籍を2冊ほど買いこみ、チェックインと出国手続きをすませて、第3サテライトにあるユナイテッド航空(UA)のビジネスクラス・ラウンジで、電話線のあるブースを確保し、出発前の最後のメールチェックなどを行いました。
今回のハワイ出張は、航空旅行業界で使われているコンピューター予約システムの国際会議取材が目的でありまして、私が利用させていただいたUAは、そのコンピューター予約システムの間接的なオーナー会社でもあります。
UA826便は、定刻から30分ほど遅れて、20時ちょっと前に成田を離陸し、ホノルル国際空港に到着したのは、日本時間で月曜日の午前2時10分をちょっと回った頃でありました。
ハワイは今回が3度目ですが、これまでの2回は、ホノルルの空港に到着してから、機内やラウンジで2時間くらい待たされたりしましたが、ホノルル国際空港のターミナルも新しくなったようで、その辺りの施設状況も改善されたのか、今回は、着陸してから空港の外に出るまで、30分もかかりませんでした。
空港を出た頃から、雨が降り始め、現地の皆さんによると、ここのところ、ハワイは天候不順で、雨がちだということでありました。
空港からダウンタウンまでは、会議の主催者側が用意してくださったバスに乗り込み、日本から会議に参加する旅行会社の皆さんなど60人ほどのグループで、宿泊ホテルに向かいました。
宿泊ホテルのヒルトン・ハワイアン・ビレッジというホテルは、ワイキキ・ビーチの西端に立地する総室数2700という巨大なホテルで、歴史と伝統を誇るヒルトン・チェーンの中でも準フラッグシップに位置付けられる一大リゾートホテルです。60年代には、ケネディ大統領なども訪れております。敷地面積は8.9平方キロもあり、その名前の通り、ホントにちょっとした村といっていいほどの広さです。
私の部屋は、レインボー・タワーと呼ばれる31階建ての棟の16階にあり、上の画像でもご覧いただいたように、ワイキキビーチとダイヤモンドヘッドを臨むオーシャン・ビューの素晴らしい部屋です。この建物の側壁には、8046枚ものセラミック板を組み合わせたモザイクの虹が描かれており、ホテル側の説明によると、高さ286フィート、幅26フィートというサイズは、世界最大だそうであります。レインボー・タワーの名前も、このモザイクに由来するものです。
先日の名古屋出張の際に、泊めていただいたホテルが日本のホテルにしては広いと書かせていただきましたが、さすがに、アメリカのホテルだけあって、ダブルサイズのベッドが置かれた部屋は、間違いなく、私達一家が住んでいる3DKの兎小屋などよりも、床面積が広そうで、本当に、日本の住環境の貧しさを実感せざるを得ません。
私達が到着した翌日からは、ホテルの敷地内で、テレビの人気番組「パシフィック・ブルー」のロケ・ハンが連日行われておりまして、撮影スタッフと見物客とで、普段とは違うと思われる賑わいというか華やいだ雰囲気も漂っております。
昨晩は、やはり、ワイキキにある“ピンクの宮殿”として知られるロイヤルハワイアンホテルでのディナー・パーティーもあり、会場の入り口では、地元の少女たちがウエルカム・ラインを作って、参加者の一人一人にレイをかけてくれ、私も、ちょうど、次男と同じくらいの年の女の子に“花の首飾り”をかけてもらって、思わず、「花咲く娘たちは…」と口ずさみ、ザ・タイガースになってしまったのでありました。
ちょうど、このコラムを書いている時に、ヒルトン・ハワイアン・ビレッジの名物である金曜日の夜の恒例イベントである花火も、今回の国際会議のビーチ・パーティーに合わせて特別に打ち上げられ、まだまだ、ビーチは盛り上がっているようで、陽気なアメリカ人たちの歓声と嬌声が続いております。
会議は、まだ、あと1日残っておりますが、この分だと、あの人達は真夜中を過ぎるまで騒ぎ続けそうな気配であります。
私は、明朝のワークショップや閉会式の取材もありますので、今日は、何とか、12時前にはベッドに入れるようにしたいと思っています。
ということで、延々と書き綴らせていただきましたが、こんなに長い文章を最後までお読みいただいた皆様、どうも、ありがとうございました。
私は、明日の午前中で会議取材が終り、午後からは、会社で立ち上げている旅行情報のホームページ用のネタ探し取材に動く予定で、日本へは、明後日の朝のフライトで帰ることになっております。
東京に戻りましたら、また、「60年代通信」の企画ページのデータ更新に励もうと思っておりますので、今後とも、引き続き、よろしくお付き合いいただきますよう、お願い申し上げます。
本当に、最後まで、お読みいただいた皆様、ありがとうございました。
主宰者敬白
  
1999.05.09
皆様、今晩は。
「母の日」の日曜日を、如何、お過ごしでいらっしゃいましたでしょうか。
私は、明日から1泊2日で人間ドックに入るため、夜8時までに食事をすませなければならず、今日の晩ご飯は慌しく食べることになってしまいました。
カミさんの実家に帰っていた連休中は、4日続けて、車で30分ほどのクア・ハウスのようなところに通い続け、そのせいもあるのか、ここのところ、どっと疲れが出ているような感じです。
しかも、連休明けの6、7の両日とも、いきなり終電で帰るというようなハードさになってしまい、人間ドック前だというのに、また、体調を崩しかけております。
結局、仕事を家に持ち帰り、昨日の土曜日は家で仕事をするハメになった上、プライベートな用事も立て込んでしまったため、この週末は、企画ページのデータ更新には、まったく、手がつけられませんでした。
明日は、人間ドックの受診が朝8時過ぎから始まりますので、今晩は12時前には就寝しようと思っています。
現在、時計の針は、21時30分ちょっと前でありまして、あと30分ほどで水分の摂取も出来ないことになってしまいます。
私は、昨年、一昨年と、2年続けて、人間ドックの後、胃カメラを飲まされており、もう絶対、胃カメラを飲まずにすむように、体調を整えてから人間ドックを受診するぞと決意を固めていたのに、この調子だと、今年も、胃カメラを飲まされることになりそうです。
さて、先々週のこのコラムでも書かせていただきましたが、現在、発行されているJCBのゴールド会員向け会員誌『THE
GOLD』(1999年5月号)に連載中の井上夢人さん執筆による「インターネットは道具箱」という記事の中で、「60年代通信」を取り上げていただき、先週、ようやく、その掲載誌が送られてきました。
本来であれば、これまでのように掲載記事の画像データも含め、仔細に報告させていただきたいところですけれども、この週末は、その時間も取れませんでしたので、また、改めて、紹介させていただきますが、簡単に、サワリの部分だけ引用させていただきます。
「インターネットには、最新のテクノロジーやら話題のニュースやら、今年の流行やらが溢れるほどに流れている。しかし、その中に、ふっと顔をほころばせてくれるような暖かい情報も潜んでいる。『60年代通信』というWebページをアクセスしてみると、そこには1960年代に見たり聞いたり話題にしたりしたものたちが、ずらりと並んでいる。
たとえば『狼少年ケン』というテレビ漫画があった。(あの頃はアニメなどとはいわなかった)『いつーもおいらは泣かーないー。どこーまで燃えるいーのち〜』などと友達と主題歌を歌っていたことや、キャラクターのシールを集めるために気持ちが悪くなるまでココアを飲みまくったことが、ページを眺めているうちに思い出されてくる。『渡辺のジュースの素』なんてページまであって、そうそう、あのコマーシャルソングを歌っていたのはエノケンだった、とうなずいてしまう。あの粉末ジュースは、飲んだ後、舌が真っ赤になったっけ。」
ということで、「60年代通信」で取り上げさせていただいているネタとしては、このほかに、青島幸男さんが登場したレナウンの下着のCMや「伊賀の影丸」などにも言及されておりますが、その辺は、改めて、別建てページを作った際に、紹介させていただきます。
井上夢人さんは1950年生まれということで、年齢としては、私などよりも5歳も上でいらっしゃるわけですが、世代的には、やはり、60年代に強い思い入れをお持ちでいらっしゃるようで、「小学校に上がった頃から、社会へ出る直前までの十数年間。自分が自分として形成されつつある時代に見たり聞いたり肌で感じたりしたものは、我々の一生を左右する」とお書きになっていらっしゃいます。
「インターネットを、ちょっとだけタイムマシン代わりに使ってみるのも面白いではないか」というのが、井上夢人さんの結論でありまして、以前、私も、どこかで書かせていただいたように、この「60年代通信」を始めたことで、空間的には、それこそ、北は北海道から南は九州…どころか、アメリカやオーストラリア、さらには、タンザニアなどからもEメールを頂戴し、世代的にも、上は50代、下は10代の皆さんからもアクセスをいただき、文字通り、時空を超えて、バーチャルながら「1960年代」という時代を共有体験させていただいているわけであります。
このところ、体調不良だったり、公私ともに多忙だったりということで、自分でも満足のいくようなページ更新が行えず、ご覧いただいている皆様も欲求不満気味になられているであろうことは容易に想像されるわけでありますが、ここは一つ、ご辛抱をいただきまして、今後の展開に「乞う!ご期待」というところでありますので、今後とも、よろしくお付き合いのほど、お願い申し上げます。
またまた、ダラダラと長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。
再来週には、久しぶりの海外出張も予定されておりまして、再び、本格的なデータ更新を行うことが出来るようになるのは、今月末辺りからになると思われますが、また、よろしくお願いいたします。
主宰者敬白
  
1999.05.02
皆様、こんにちは。
GWの連休を、如何、お過ごしでいらっしゃいますか。
私は、昨日のお昼過ぎに東京を経ち、夜10時過ぎに、カミさんの実家である岡山県御津郡加茂川町に着きました。
基本的には、カミさんの親父さんの七回忌の法要に出席させていただくため、こちらにお伺いしているわけではありますが、会社の仕事が押せ押せとなっているため、仕事の資料を大量に持ち込んできているので、ほとんど、家で仕事をしているのと変わらない状況となっております。
しかし、幸いなことに、私のカミさんの実家はお寺でありまして、不動産屋さんの広告風にいうと、10LDKと5LDKと2Kの家が一体化したような住環境ですので、私が仕事に没頭できる立派な部屋まであてがっていただき、会社やウチで仕事をするよりも、よほど快適な環境で仕事をさせてもらっています。
現在の厳しい経営環境下で、仕事量が今までの1.5倍とか2倍とかになってしまい、私と同じように、自宅で、あるいは、帰省先で、仕事の山と格闘している皆様も少なくないのではないかと思いますので、中国山地の自然歩道の一ポイントにも指定されているカミさんの実家のお寺を紹介させていただき、つかのまの行楽気分を味わっていただこうと思います。
とか言いながら、結局、例によりまして、40オヤジの絵日記という展開になるわけでありますが…。
まず、昨日の東京から岡山までの新幹線は、沿線が晴天に恵まれたこともあり、非常に、さわやかな旅行でありました。
途中、富士山も裾野の広がりまで、はっきりと分かる形で見ることができましたし、姫路を通過する際には、夜陰に浮かぶ姫路城の姿も、「白鷺城」の異名もむべなるかなというような雰囲気で、車窓から、はっきりと確認されました。
今回は、岳父の七回忌ということもあり、長岡の私の母親も、東京駅から一緒に岡山に向かったのですが、ウチの長女と長男と母は、岡山駅のそばのホテルに泊まり、今日は、倉敷のチボリ公園辺りで遊んでいるはずであります。
義母と義兄が、私とカミさんと次男の3人を岡山駅まで車で迎えに来てくれ、途中、「岡山空港温泉・レスパール藤ケ鳴」という色々なお風呂のあるクア・ハウスのような所に立ち寄り、汗を流させていただいたのでありました。
さて、私のカミさんの実家は、本宮山円城寺といいまして、比叡山延暦寺の系統となる天台宗のお寺であります。
敷地内に建てられている環境庁と岡山県の建て看板には、次のような説明がありました。
「円城寺
初め本宮山正法寺と称して、行基の開山と伝えられ、鎌倉中期、現在の地へ移されて円城寺と改めました。
今は地蔵院、医王院を残すだけですが、昔は十余の僧坊が立ち並び門前町として非常に栄えました。
今も小規模ながら門前町のおもかげを、そこかしこで見受けることができます。
千手観音を安置する本堂は、弘化3年(1846)の再建。
その他、寺域に阿弥陀堂、提婆天の社があります。
古から『加茂の提婆は人をとる』といわれていますが、これは深夜、寺域の古木に呪釘を打つと、提婆のつかわしめ(キツネ)が相手にとりついて殺してしまうという云い伝えからきたものでしょう。
環境庁・岡山県」
年末年始の休暇に帰省する際には、除夜の鐘も撞かせていただいたりしておりまして、お寺で迎える凛とした雰囲気の大晦日とお正月は、私にとっても、貴重で嬉しい体験となっております。
寺域内には芭蕉の句碑(左の画像)などもあります。
所在地は、中国山地の山中に位置し、最寄駅の津山線・福渡駅からでも、車で30ほどかかります。
私も、初めて、カミさんの実家に来た時には、その自然の奥深さに驚いたわけでありますが、こんな山中にも、鎌倉時代以前から人が住んでいたわけで、鉄道も車もない時代に、どうやって、こんなところまで分け入ってきたのだろうと感慨にふけったものでありました。
周辺には、桃やマスカットなどを栽培する農家もありますし、お寺の裏山では、筍や松茸なども自生しており、近所の小高い山から辺りを見渡すと、丸みを帯びた優しい中国山地の景観とともに、豊穣な自然を実感することができ、東京へ戻るのがバカバカしくなってきます。
こんな豊かな環境のもとで、のんびりと暮らし、のびのびと子供を育てることができたら、どんなにいいだろうと思います。
今の仕事を続ける限り、こういう場所には住めないのかなと諦める一方で、今以上に通信ネットワークが発達し、月に一度くらい東京に行くだけで、あとは在宅勤務が可能などという状況になったら、ひょっとして、こういう場所に住むこともできるようになるかもしれません。
ということで、今週も、また、40オヤジの小学生風絵日記にお付き合いいただいてしまったわけでありますが、連休中にも関わらず、企画ページのデータ更新が、あまり出来そうにありませんけれども、引き続き、よろしくお付き合いいただきますよう、お願い申し上げます。
合掌…。
主宰者敬白
 

Cyber
Click!

1999.04.25
皆様、こんにちは。
先週は、週末辺りに、JCBゴールド会員の皆様向けの会員誌の中の記事で「60年代通信」を取り上げていただいたり、やはり、60年代をテーマとするロサンゼルス在住のMさんが主宰されている掲示板“M's
NETWORK”でも「60年代通信」に言及されたメールを掲示していただいたり、ということで、月曜日から水曜日まで、3日連続して1日当たりのアクセス数が100件を大きく上回り、“Yahoo!
JAPAN”の「今日のおすすめ」コーナーで紹介していただいた昨年5月の最終週を除くと、初めて、週間アクセス数が700件を超えました。つまり、1日当たりの平均アクセス数で100件を超えたことになるわけで、主宰者にとっての、一つの目標を達成することが出来ました。
アクセスいただいた皆様、本当にありがとうございます。
と同時に、結果的には、その勢いに乗じる形で、4月23日(金)の26時台、世の中の一般的な言い方で言いますと、4月24日(土)の午前1時台に、このトップページの下に設置させていただいているアクセス・カウンターの表示が「30000」件の大台を突破し、私がアクセスした25時55分の時点で、アクセス・カウンターは「30003」というメモリアル・ナンバーを記しておりました。
この「60年代通信」の来し方を振り返ってますと、このホームページを立ち上げさせていただいたのが、一昨年(1997年)の4月22日のことでありまして、その時にアップしたデータは、「60年代の紅白歌合戦」の1960年と1961年分データと「伝説のジャニーズ」分データという僅か2ページ分だけでありました。
自分でも、そろそろ2周年のタイミングかなとは思っておりましたが、このコラムを書かせていただくくために、改めて、「データ更新日と更新内容のリスト」を確認し、先週の木曜日がちょうど2周年の節目に当たっていたことを知ったような次第であります。
ですから、全く偶然ではありますが、先週は、ホームページ開設2周年とトップページのアクセス・カウンター30000件突破と週間アクセス数700件突破という3つのメルクマールが重なり、いわば、トリプル・メモリアル・ウィークとなったのでありました。
毎度、書かせていただいている通り、この不埒で非力で無節操な私が、実に2年間にわたり、連綿とデータ更新を続け「60年代通信」を維持することが出来ましたのも、ひとえに、このホームページにアクセスしてくださったり、「暖かい励ましのお便り」をくださっている皆様のお蔭でありまして、改めて、深い感謝の気持ちをお伝えしたいと思います。
皆様、本当に、どうも、ありがとうございます。
それから、また、長くなってしまいますが、先週の名古屋出張では、この「60年代通信」的に、是非、書かせていただきたい出来事がいくつかありましたので、この場を借りまして、ご報告させていただければと思う次第であります。
まず、私が取材させていただいた国際会議では、数多くの分科会があり、そのうちの一つで、シンガポールのIBMのスペシャリストの方が講演をされたのでありますが、その内容もさることながら、個人的には、その方がお持ちになっていた携帯電話に、私が携帯電話に付けているのと同じ「鉄腕アトム」のストラップが付いており、大いに喜んだのでありました。
私よりも一回りくらいは若く見える方でいらっしゃいましたので、「シンガポールにも“アトムの子”らは着実に根付いているのだ」と思うと、本当に嬉しくなってしまい、講演が終ったあと、頼み込んで、アトムのストラップが映るように携帯電話を持っていただき、写真まで撮らせていただきました。
また、名古屋国際会議場では、1000人を超える参加者の皆さんが集まって開会式と閉会式も行われたわけですが、まず、開会式では、名古屋市交響楽団と名古屋市児童合唱団による演奏と歌で「上を向いて歩こう」が披露されただけでなく、閉会式でも、三味線の合奏による「鉄腕アトム」の主題歌まで演奏され、改めて、“60年代文化”の普遍性と申しましょうか、ユニバーサルな強さというものに、思いをいたした次第でありました。
さらに、東京に帰る最終日には、取材の合間に、先日、「お便りコーナー」でも話題になっていた“地球ゴマ”を製造しているタイダー商會にお邪魔し、二代目当主でいらっしゃる加藤武さんに地球ゴマの実演をしていただきながら説明をお聞かせいただいた上、地球ゴマや教材セットまで頂戴してまいりましたので、「60年代通信」の特別企画ページとして、地球ゴマの大特集を組ませていただきたいと思っておりますので、皆様、どうぞ、お楽しみに。
ということで、今週のコラムも、また、長くなってしまいましたが、引き続き、よろしくお付き合いいただきますよう、お願い申し上げます。
主宰者敬白


1999.04.18
皆様、今晩は。
この週末は、先週、「お便りコーナー」のどこかで書かせていただいたかと思いますが、昨日が、会社の引っ越しの準備、今日から名古屋出張ということで、いわゆる企画ページのデータ更新を行う時間が全く取れませんでした。
このコラムも、現在、名古屋のホテルの部屋で書かせていただいております。
企画ページが作れなかった代わりに、今週も、先週に引き続き、40オヤジの小学生風絵日記で、お許しをいただこうと訳の分からないことを考えている次第であります。
まず、最初に、ご覧いただく画像が、本邦初公開の私の「日本一汚い」と言われている机の写真であります。
けっこう幅広の机に袖机まで付けてもらっているにも、かかわらず、ほとんど、机の地肌が見えない状態になっておりまして、地肌が見えまくっている自分の頭と大違いの状況を呈しております。
会社に入って、すでに、約20年が経とうとしておりますが、私の机の地肌が見えるのは、年末の大掃除の日と、仕事始めの日くらいでありまして、あとは、ほとんど、こういう机の状態になっているため、職場結婚したカミさんは、いつも「よく辞めさせられないわネ」と呆れたりしているわけであります。
大体、編集部などという名前の付くセクションは、どこの出版社にいっても、こんなものなわけですけれども、私の机を中心に、編集部の島は、資料類の山脈が累々と形成されることになり、季節にかかわらず、雪崩も発生したりしておりまして、こういう状況に恐れをなした総務部長が、連休中の引っ越しを前に、編集部だけは休日出勤をして、資料類を整理するよう厳命した、と、そういう次第になったのでありました。
皆様も、ご存じの通り、昨日は、ジャイアント馬場さんのファン葬なるものが、ウチの会社に近い日本武道館で行われており、できれば、私も行ってみたい気持ちもあったのですが、この引っ越しの主役として期待されている立場上、出社を拒否するわけにはいかなかったわけであります。
その上、私の出張中、私が、普段やっている会社のホームページのデータ更新作業を代わりにやるスタッフにレクチャーするという大仕事もあり、結局、昨日は、土曜日であるにも関わらず、夜の10時近くまで会社に残るハメとなりました。
そして、今日のお昼過ぎ、東京駅から新幹線で名古屋にやってきたのであります。
名古屋は、学生の時に、名古屋の大学に通っていた友人を訪れて以来、実に、20年ぶりにやってきたことになります。
カミさんの実家が岡山ですので、結婚してからは、少なくとも、年に一度は、新幹線に乗って、名古屋を通過しているわけですが、新幹線に乗っていると、駅の建物がどうなっているのかということは、全く分からないわけで、今回、20年ぶりに駅前に降りたって、立派なツインタワービルになっていて、驚いた次第でありました。
さて、私が泊めていただいているホテルは、名古屋駅前の大名古屋ビルという建物の真裏に立っている名古屋第一ホテルです。
今回の出張は、明日から名古屋国際会議場で開かれる、ある国際観光促進組織の年次総会の取材でありまして、このホテルの予約も、サンフランシスコにある国際観光組織の本部が手配したもので、事前の連絡では、ベッドが一つのシングルということになっていたのですが、到着してみたら、日本のホテルにしては、かなり広めのツインの部屋だったので、びっくりしています。
総会の取材中も、日常業務の連絡や原稿の送信などのために、Eメールの環境が必要になりますので、事前に、ホテルの方には、PC通信用のモジュラー・ジャックの付いている部屋をお願いし、その通り、手配していただきました。
ホテルに荷物を置いた後、地下鉄を乗り継いで年次総会の会場となる名古屋国際会議場に行って、参加登録を済ませてきましたが、名古屋に着いたのが夕方6時ちょっと前だったため、本来の登録受け付け時間は終了していましたが、プレス・センターに残っていた広報スタッフの方が、便宜を図ってくださり、無事、登録を済ませることが出来ました。
国際会議場で予想以上に時間がかかってしまい、夜7時から名古屋城ホールで開かれていた歓迎レセプションには間に合わず、大名古屋ビルの地下レストラン街で、一人淋しく食事をすませ、ホテルに戻ってまいりました。
ところが、部屋に入って、早速、メールを確認しようとしたところ、上手く接続できず、ホテルの担当の方に来ていただき、モデムの設定やダイヤルの設定などをいろいろと変更し、1時間以上かかって、ようやく接続に成功しました。
担当の方は、私が部屋に入る前に、ご自分で接続の確認作業をして下さっており、改めて、わざわざVAIOノートを持ってきて、私のメビウスノートの画面と照らし合わせながら設定を調整して下さいまして、仕事とはいえ、そのご親切に大いに感謝した次第であります。
ツインの部屋だからか、ライティング・デスクもゆったりと大き目でありまして、これだけ大きいと、資料を広げながら原稿を書いたりするのも楽なので助かります。
現在も、このデスクで、コラムの打ちこみをさせていただいておりまして、今日から、水曜日の夜までは、原稿書きと、「60年代通信」のデータ更新(「お便りコーナー」の更新しか出来ないと思いますが…)は、このホテルの部屋でやることになるわけであります。
自宅よりも、はるかに恵まれた作業環境にはなるわけですが、時間的には、普段よりも、もっと厳しい状況になりますので、ひょっとすると、データ更新までは手が回らない日もあるかもしれません。私としても、作業環境がいいだけに、時間の取れないのが、本当に残念ですが、予め、ご了承いただければと思います。
ということで、今週も、つまらない絵日記で終っていましましたが、引き続き、よろしくお付き合い下さいますよう、お願い申し上げます。
主宰者敬白

1999.04.11
皆様、今晩は。
雨にたたられた統一地方選前半のクライマックスである日曜日をいかがお過ごしでいらっしゃいましたでしょうか。
我が家は、昨日が私の44回目の誕生日、今日が私とカミさんの12回目の結婚記念日、と記念日続きのウィークエンドとなった上、今日は都知事選挙と娘が通っているフリーメソジスト桜ヶ丘協会の「もちつき大会」が重なり、誠に慌しい週末でありました。
ほとんど、このコラムを私の日記代わりにしてしまうといった観もありますが、昨日と今日の私の行動の記録を書かせていただこうと思います。
一昨日は、私の胃腸の不調が、これまでで最悪の状態となり、そのことによる精神的なダメージも大きく、夜もまともに眠れない状態となりまして、カミさんは、誕生パーティーの延期を提案しましたが、私の不調の回復はいつになることか分かりませんし、子供たちもパーティーを楽しみにしておりましたので、誕生パーティーを強行することにしました。
幸い、私の胃腸の調子も、昼過ぎ辺りから、前の晩の最悪の状態がウソのように回復してまいりまして、夕方からは、パーティーの食材の買い出しのため、カミさんと一緒に、隣の駅の聖蹟桜ヶ丘のショッピング・センターに出掛けることができるまでになったのであります。
昨日のメニューは、子供たちが大好きなイクラやマグロなどを中心にしたバイキング風手巻き寿司と、焼き鳥と、私の大好きなスパゲッティーサラダなどでありました。これまでですと、私は、サントリーの炭酸水(たんなるソーダ)を食事の時に飲んでいたのでありますが、今年の2月に胃腸の調子がおかしくなってからは、冷たいものを控えておりまして、ずっと、暖かい麦茶かほうじ茶を飲んでおります。昨日は、誕生日でもありましたので、アルコールは飲めない私ではありますが、梅酒を買ってきて、極めて薄いお湯割にして飲んだのでありました。
デザートは、コージーコーナーのミニケーキを色々なバリエーションで買ってまいりまして、主役の私が最初、あとは、年齢の低い順に1個ずつ2周りして選ぶという形で、あくまでバイキング方式にこだわってみたのでありました。
不思議なもので、この誕生パーティーの前後から、ほぼ2カ月にわたり不調だった胃腸の具合が、比較的、落ち着いてまいりまして、昨日の誕生パーティーでは、久しぶりに、きちんと食事を取ることができました。今日の桜ヶ丘協会での「もちつき大会」で、おもちを食べることもできました。
今年も、例年通り、藤波辰巳さんをはじめ、新日本プロレスの選手の皆さんが、お餅つきの手伝いに来てくださり、お餅をついていただいたりしたのでありました。
そればかりか、ウチの長男は、恐れ多くも、藤波さんを相手に指相撲などもさせていただき[左の画像]、次男も、ずっと、藤波さんの足元にまとわりついておりました。
以前にも、書かせていただきましたが、私は、ジャイアント馬場さんが吉村道明さんであるとか豊登さんなんかと活躍していた昭和30年代の後半から昭和40年代の前半にかけては、一生懸命プロレスを見ておりましたが、最近は、全くプロレスを見たことがありません。
でも、長男や次男は、毎年いらっしゃっている藤波さんを覚えておりますし、やはり、体も大きく、スター選手ならではの、華やいだ雰囲気も漂わせていらっしゃいますので、教会に通っている子供たちも、藤波さんが大好きなようであります。
桜ヶ丘教会で、お餅を食べ、藤波さんと遊ばせていただき、夕方、家に戻り、長女の卒業式が行われたばかりの三沢台小学校の体育館へ、都知事選の投票へ行ってまいりました。
そして、家に帰って来て、「60年代通信」のデータ更新作業を行っているというような次第であります。
今日は、この後、また、明日の会社での会議用の資料作りという大仕事が残っておりまして、これに、かなりの時間を取られそうで、この週末のデータ更新は、昨日の「60年代のCM」の「アンクル・トリス」シリーズと、「お便りコーナー」だけで終ることになりそうです。
「お便りコーナー」では、SWさんから、1968(昭和43)年の『少年』休刊号の表紙などの貴重な画像をお送りいただいたりしておりますので、そちらも、ご覧いただければと思います。
せっかく、胃腸の調子が復活してきている感じなのに、また、明日の会社の会議のことなどを考え始めると、腹部に鈍痛のようなものを覚えたり、暫く鳴りを潜めていた偏頭痛の気配も出て来たりしてきておりまして、本当に、いやになってしまいます。
「もう、早く、会社なんか辞めたいっ!!」と叫びたくなる、今日この頃であります。
ということで、殆ど、小学生の絵日記のような文章をお読みいただいたわけですが、今後とも、引き続き、よろしくお願い申し上げます。
主宰者敬白

1999.04.04
皆様、こんばんは。
いよいよ4月に入り、小学6年生だった長女は中学生に、小学4年生だった長男は小学5年生に、幼稚園の年少組だった次男は年中組へと、それぞれ、進学、進級することになるわけですが、私は、相変わらず、疲れたオヤジのままですし、厳しい経済環境のもとで、収入の伸びも期待できず、何もない春を迎えております。
さて、左のデータ更新日・更新内容のリストをご覧いただいてもお分かりになるように、ほぼ10日間以上にわたり、企画ページの更新を行えないままでありました。
そうした状況もあってか、先週のアクセス件数は、500件台の前半にとどまりまして、今週からは、月も改まり、子供たちも進級することですし、私も、一生懸命、データ更新に励んでいこうと決意を新たにしている次第であります。
実は、この週末は、またまた、色々とプライベートの用事が立て込んでいた上に、久しぶりに、企画ページを、一生懸命、2ページも作ってしまいまして、今、これを書いている時点で、すでに、深夜零時を大きく回っておりまして、このあと、作ったページのデータを転送する作業などもやってから、入浴して寝床に入ると、予想就寝時刻は、午前2時を回ることになりそうです。
今回のコラムは、中途半端ではありますが、ここら辺りで切り上げさせていただこうと思いますので、悪しからず、ご了承ください。
今週も、新しい企画ページを少しでも多く作れるように頑張ろうと思いますので、引き続き、よろしくお付き合い下さいますよう、お願い申し上げます。
主宰者敬白

1999.03.28
皆様、今晩は。
この週末は、何かとプライベートの用事が立て込みまして、企画ページのデータ更新を行うことができませんでした。
新規ページを期待してアクセスいただいた皆様、誠に申し訳ございません。
そういう私の体たらくを見越してか、先週の週間アクセス数は、久しぶりに500件台の前半に低迷してしまいました。
この週末のデータ更新が行えなかったため、進行中のペンディング・ページは、「驚きももの木20世紀/ブルコメの苦悩」HP詳報版に続き、「思いっきりテレビ」が“きょうは何の日”で『月光仮面』のエピソードを紹介」、「『だんご3兄弟』大ブレークのナゾに迫る」の2つも加わり、企画モノのペンディング・ページが3つになってしまっております。
などと言っておりますが、実は、昨年の春に、初のプレゼント企画とかいうことで始めさせていただきながら、もう半年以上にわたって手をつけていない「発見!!
ロッテ アストロボーイ フーセンガム」、さらには、「山口百恵デビュー25周年記念特別企画」であるとか、ペンディングの企画ページは数知れずありまして、今更、何をか言わんや、という状況ではあるわけですが…。
でも、まあ、短期的なペンディング状態のものから、順次、片をつけていこうと思っておりますので、本当に、いい加減で不埒で節操のない主宰者で申し訳ありませんが、皆様の寛大なお気持ちに免じて、ご容赦いただきますよう、お願い申し上げる次第であります。
さて、私事ではございますが、とかいいながら、このホームページの一体どこが私事じゃないんだという気も強くするわけではありますけれども、それはさておき、先週の木曜日(3月25日)、長女が通っていた日野市立三沢台小学校の卒業式がありまして、私も、会社を休ませていただき、一応、形ばかりの父親として、式に列席させていただきました。
子供たちの学校行事には、これまでも、結構、色々と参加させてきていただいておりまして、いつも思うのが、学芸会なんかは、当然と言えば、当然なのでありますけれども、私たちが小学生だった1960年代の頃に比べると、非常に、それぞれの行事がイベントとしてショーアップされており、演出なんかも非常に凝ったものになっているということであります。
卒業式では、6年生が校歌も含めて4曲を歌い、幸運なことに、最後の曲のピアノ伴奏は、長女が務めさせていただきましたが、曲の合間、合間に、6年間の主な出来事を、卒業生が代わる代わる1フレーズずつ韻文で振り返り、その間に歌が挟まれるという形式で、ミニ・ミュージカルのような趣向になっておりました。
今の子供たちは、そういうショーアップされた演出もソツなくこなしておりますし、卒業式そのものも、結構、ドライな感覚で受け止めているのかなと思いつつ、ビデオを撮りながら見ておりましたが、最後に、式場となった体育館から6年生が出て行く“卒業生退場”の場面では、大半の女子児童は泣いておりました。
私も、最近は、涙もろい愚かなオヤジとなってしまいましたので、思わず、もらい泣きしてしまったりしたわけでありまして、その辺りの光景は、結局、私たちが小学生だった60年代と、そんなに変わりはないのかなと、妙に、安心したりもしたわけでありました。
ということで、企画ページの更新が出来なかったこともあり、このコラムでは初めての画像を使わせていただきつつ、極めて私的なお話をさせていただいてしまい、誠に失礼をいたしました。
今週こそ、色々と企画ページの展開が出来るように、頑張らせていただこうと思いますので、引き続き、よろしくお付き合い下さいますよう、お願い申し上げます。
最後まで、お読みいただいた皆様、誠に、どうも、ありがとうございました。
主宰者敬白

1999.03.21
皆さん、こんにちは。
三連休の中日を、如何お過ごしでいらっしゃいましたでしょうか。
東京は、昨日から雨が降り続いておりまして、今日は、一段と寒い感じです。
私は、小学6年生の長女の卒業式を前に壊れてしまったビデオカメラを修理に出すため、次男の電車ツアーも兼ねて、東銀座にあるソニーのサービススポットまで行ってまいりましたが、ずっと外に出ていると体の芯まで冷え込んでしまい、何か、真冬に戻ったようでありました。肝心のビデオカメラは、電池を外してリセット状態にしたら、簡単に直ってしまい、結果的には、わざわざ、東銀座まで出かけて行くこともなかったわけですが、お陰様で、長女の卒業式でビデオカメラを使えることになったわけですから、良しとしなければなりません。
でも、一番、喜んだのは、恵比寿から東銀座まで、初めて日比谷線に乗ることが出来た次男だったわけであります。
さて、毎週、同じことを書かせていただいておりますが、先週も、毎日、皆様からEメールを頂戴し、ウィークデーのデータ更新も続けて行うことが出来ました。
Eメールをお送り頂いた皆様、本当に、ありがとうございます。
さて、ここ2週間ほど、SWさんという方から、連日、貴重な画像データをお送りいただいておりまして、これまで文字が多かった「お便りコーナー」が、突然、豊富なイメージファイルで彩られる形となってきております。
色々とお送り頂いた画像ファイルを契機に、また、さまざまな話題の広がりも出てきておりまして、主宰者としても、「お便りコーナー」の思わぬ展開に、喜ばせていただいております。
また、YMさんからは、植木等ショーのエンディング曲の楽譜イメージまでお送りいただき、「お便りコーナー」で紹介させていただく情報のバリエーションも豊富になってまいりました。
私も、画像データなども含め、皆様から頂戴する様々な情報を活用させていただき、また、新たな企画ページ作りに励ませていただこうと思っております。
特に、先日、SWさんからお送りいただいた「あんみつ姫」のゲーム盤の画像を拝見して、私も、子供のころ、家族で遊んだボードゲームの記憶が甦り、この連休を利用して、「60年代のおもちゃ・遊び」のコーナーに、懐かしいゲーム盤の新ページを作らせていただこうと考えていますので、また、データをアップさせていただいた際には、お立ち寄りいただければと思います。
それから、昨年の秋から、「60年代通信」を色々な形でご支援いただいてきている市川市のMさんが、ご自身のホームページ“「くるま村」の少年たち”を開設されました。
「60年代の日本グランプリとモデルカーレーシングを中心とした超オタクページ」ということですが、車好きの少年の目に映った60年代の姿を、Mさんと一緒に擬似体験しながら、あの時代を懐かしむことが出来るのではないかと思います。
皆様も、是非、一度、お立ち寄りになられてはいかがでしょうか。
連休の残りも、あと1日となったものの、いつものブルーマンデーを控えた日曜日の夕方よりも、気分的には、明るいものがありますので、これから、また、ページ作りに励もうと思います。会社の仕事も抱えて込んでおりますが、ここのところ、企画ページの更新頻度が落ちておりますので、体調も戻ってきていることでもありますし、ちょっと頑張ってみたいところであります。
ということで、引き続き、よろしくお引き立ていただきますよう、お願い申し上げます。
主宰者敬白

1999.03.14
皆様、今晩は。
先週も、また、毎日、皆様からEメールを頂戴し、「お便りコーナー」だけではありますが、データ更新を継続して行うことができました。
また、週間アクセス件数も、3週間ぶりに600件を超え、今年2月の第2週を上回り、歴代2位のアクセス件数を記録しました。
Eメールをお送り下さった皆様、アクセス頂いた皆様、本当に、ありがとうございました。
さて、先週の日曜日に、久しぶりに「テツオの部屋」のページのデータ更新を行い、その中で、テツオ君の意匠による「1960年代学校給食大アンケート」を実施させていただいておりますが、出足こそ、好調に回答メールを寄せていただきましたが、週の半ば以降、ぱたっと回答メールが止まってしまいました。
せっかく始めさせていただいたアンケートでありますから、せめて、回答の数が100件くらいになるまでは、続けさせていただこうと思いますので、どうか、皆様、お時間のおありになる時にでも、ご協力をいただければと思います。どうぞ、よろしくお願いいたします。
給食といえば、ここのところ、給食にまつわる悲しいニュースが、新聞の社会面を賑わしているのが、気になります。
給食のパンに縫い針が混入される事件が全国の小中学校で相次いでいることは、皆さんも、新聞報道などでご存知かと思いますが、青森県では、八戸市の教育委員会が、今学期いっぱい給食を全面的に中止することを決定しました。
また、大阪府では、和泉市のある小学校で、先生が児童に自己申告させる解決策をとっていたことが判明。この先生は、命の大切さに加え、告白する勇気の大切さを教えたものと説明しており、無記名ながら、児童一人が「いたずらでやりました」と回答したそうです。
さらに、宮崎県では、高千穂町と五ケ瀬町の小学校で、給食のパンから相次いで針が見つかったことを受け、両町と日之影町の西臼杵郡3町の教育委員会が、3町の全小中学校31校の給食を今週いっぱいはすべて米飯にすることを決めました。
大人の世界でも、昨年の和歌山県での毒物カレー事件以来、各地でお茶に毒物が入れられるなどの類似事件が相次ぎましたが、そんなことが一番あってはならないはずの学校で、給食に異物が混入される事件が頻発しているところに、今という時代の悲しい複雑さがあるのではないかという気がします。
私達の時代とは比べ物にならないほど、学校給食のメニューが豊富で充実したものになり、私なんかも、子供が学校から貰ってくる月間の給食メニュー表を見ては、子供たちに「おまえ達は幸せだなあ」などと、やっかみ半分で言ったりしているほどであります。
しかし、給食の中身こそ貧弱だったかもしれませんが、私達が子供だった頃には、学校で出される給食に異物が混入されるなどということは、想像だにし得ない話だったのではないでしょうか。
メニューが豊富で充実しているにも関わらず、異物の混入などを心配しなければならない今と、メニューは貧弱でも、学校の給食くらい安心して食べることが出来た私達の時代と、いったい、どっちが本当に幸せなんだろうと考え込んでしまいます。
ということで、今週は、小学生2人を子に持つ親として、思わず考え込んでしまわざるを得ないような今という時代の状況に言及させていただいたわけでありますが、改めまして、学校給食くらい安心して食べることが出来た「1960年代の学校給食大アンケート」へのご協力をお願いさせていただきつつ、引き続き、よろしくお付き合い下さいますようお願い申し上げる次第です。
主宰者敬白

1999.03.07
皆様、こんばんは。
お元気でいらっしゃいますか。
私は、少しずつではありますが、心身の不調から回復しつつありまして、特に、先週は、私の不調を見かねたカミさんが、新しいノートパソコンを買うことを許してくれまして、少し、元気になりました。昨日アップした「驚きももの木20世紀/ブルコメの苦悩」HP詳報版の第6回となります「番組本編(5)青の夢」は、その新しいノートPCで作ったものであります。
これまで使っていた会社のノートPCも、私が5年ほど前に購入したノートPCも、私の心身の不調と歩調を合わせるかのように調子が悪くなり、特に、メーラーも兼ねて使っていたブラウザが上手く作動しなくなったため、これまでに「60年代通信」宛にメールをお送りいただいた皆さんのうち、一部の方について、メールアドレスが分からなくなるという事態に陥っておりまして、こちらから連絡を差し上げなければならない状況の方も何人かいらっしゃるので、ちょっと、困っております。
私からの連絡をお待ちになっていらっしゃる方で、しばらく、音信が途絶えている皆様、もし、この文章をお読みになられて、心当たりのおありになる方は、お手数をおかけして誠に恐縮ですが、確認のためのEメールをお送りいただければと思います。
よろしくお願いいたします。
さて、ここのところ、特に、2月に皆さんから大量のEメールを頂戴したこともあって、ちょっとEメールの頂き方が落ち着いてきた感じになっていますが、今日の夕方、庶民文化研究家として名高い町田忍さんから「楽しく読ませていただきました」というEメールを頂戴し、主宰者として感激すると同時に、素直に喜ばせていただいております。この世界では第一人者の方に、ご覧いただけたことを、大変に嬉しく思っています。
毎度、書かせていただいておりますが、こういうメールを頂けたのも、これまで、この「60年代通信」というホームページをご支援して下さった皆様のお陰でございまして、心から感謝申し上げたいと思います。
本当に、ありがとうございます。
それから、今週末も、プライベートな用事が立て込んだりして、企画ページのデータ更新は、昨日の「驚きももの木20世紀/ブルコメの苦悩」HP詳報版の第6回「青の夢」しか出来ませんでしたが、晩になって、久しぶりに「テツオの部屋」の主のテツオ君からEメールが届きましたので、早速、「テツオの部屋」第5回として、新しいページを作らせていただきましたので、是非、ご覧いただければと思います。
また、今回は、テツオ君の意匠により、「1960年代学校給食大アンケート」を実施させていただくことになりましたので、皆様からも奮ってご参加いただきたく、お願いいたします。
ということで、今後とも、引き続きまして、よろしくお願い申し上げます。
主宰者敬白
 

Cyber
Click!
1999.02.28
皆様、今晩は。
先週、先々週と、何かと暗い話を書いてしまい、申し訳ありませんでした。
基本的には、まだ、心身ともに万全の状態とは言い難い情況が続いておりますけれども、明日から3月になることですし、少しは、明るい話を書かせていただきたいところでありますが、取り立てて書かせていただくほどの明るい話題も見つからないまま、結局、いつもと変わらぬブルー・マンデーを迎えようとしております。
さて、先週は、日曜日にジャイアント馬場さんの追悼企画ページを作らせていただいた後は、ずっと、皆様から頂戴したEメールを「お便りコーナー」にアップするだけに終始してしまいました。2月に入ってから、ものすごいペースでEメールを頂戴しておりましたが、さすがに、先週の金曜日からは、ちょっと勢いが止まりまして、現在、日曜日の午後11時になろうとしている時点まで、ほぼ丸3日にわたりまして、ぷっつりとEメールが途絶えております。
企画ページの更新頻度が落ちてきたことに対する皆様からの無言の批判ではないか、とビクビクする一方、「お便りコーナー」の更新作業を減らしてあげようという皆様の優しい気遣いなのかもしれないなどと都合のいいことを考えたり、揺れるオヤジ心なのでありました。
それはともかく、今週末は、ちょっと間が開いてしまいましたが、昨日の土曜日に「驚きももの木20世紀/ブルコメの苦悩」の第5回をアップさせていただいたのに続き、今日の日曜日も、学研の「中学コース」が3月号で休刊することになってしまいましたので、急遽、“「中学コース」休刊送別特別企画”という訳の分からないページを作らせていただきました。久しぶりに、2本の企画ページをアップして、ちょっと、疲れております。
それから、今日で2月が終わるわけですが、今日の午後9時過ぎの時点で、月間のアクセス件数が2300件を超えておりまして、今月は28日までしかないというのに、月間アクセス件数としては、「60年代通信」史上、先月に次ぐ2位の記録となりました。
企画ページの更新頻度が、以前に比べると、めっきりと落ちてきている中で、これだけのアクセス件数を記録できましたのは、ひとえに、沢山のEメールをお送りくださっている皆様と、「60年代通信」をご覧いただいている皆様の御蔭でありまして、本当にありがとうございます。
心身の方も、次第に回復してきておりますし、季節も春めいてくるわけでありますから、私も、いつまでも女々しく弱音を吐いてばかりいないで、何とか、頑張っていこうと思いますので、引き続き、お付き合いいただきますよう、よろしくお願い申し上げます。
主宰者敬白

1999.02.21
皆様、今晩は。
お元気でいらっしゃいますか。
先週は、このコラムで思いっきり情けないことを書かせていただき、色々とご心配をいただくメールまで頂戴し、恐縮しております。
基本的な状況は、僅か1週間で変わるべくもありませんが、できるだけ前向きに物を考えていくように努力したいと思います。
何れにしましても、会社経営とか組織運営とかというものに対して、私のように極めて懐疑的な物の見方しか出来ない人間にとりましては、最終的には、どこかで、会社なり組織なりとの関わり方を見直さない限り、心身の完全な回復などというものは、望むべくもないのだろうというのが、取り敢えずの結論となるようです。
ということで、私の愚痴シリーズは、もう止めることにしまして、「60年代通信」に話を戻させていただこうと思います。
さて、左のデータ更新リストをご覧いただきましてもお分かりになるように、先週も、17日を除いて、毎日、ページのアップデートを行うことが出来ました。アップデートは1日お休みしてしまいましたが、皆様からのEメールは、毎日、頂戴しておりまして、体調が悪くなければ、17日のデータ更新も行えたはずで、そこの部分は、ちょっと残念な結果となりました。
本当に、色々な方から、色々な内容のメールを頂戴するようになりまして、自分でも、改めて驚いたり、喜んだりしておりますが、皆様からも、様々な情報のご提供をいただくようになり、本当に感謝しております。
フィジカル・メンタルの両面で、ご支援をいただいている皆様、本当に、ありがとうございます。
ここのところ、私が不調のため、「お便りコーナー」以外のページ作りが滞っておりまして、この週末は、かろうじて、ジャイアント馬場さんの追悼特別企画の第2弾を作らせていただきましたが、皆様から頂くEメールがなかったら、かなり悲惨な状況になるはずであります。
毎週、同じ言い訳をしておりますが、本当に、出来るだけ早く、心身の不調からの立ち直りを図り、以前のようなペースでデータ更新を行うことができるよう、努力してまいりたいと考えておりますので、これからも、引き続き、よろしくお願いいたします。
主宰者敬白

1999.02.14
皆様、今晩は。
バレンタインデーの日曜日を、いかがお過ごしでいらっしゃいましたでしょうか。
私は、先々週、強力なインフルエンザで、ほぼ1週間にわたって寝込んだばかりだというのに、先週も、後半の建国記念日辺りから、胃腸の調子が極端に悪くなり、金曜日以降は、まともに食事ができない状態に陥っております。
昨日の土曜日と今日の日曜日の両日は、ほぼ、寝込んだ状態となっておりまして、打ち続く、体調不良に、気分も滅入りがちです。
皆さんから頂戴するEメールだけは、何とか「お便りコーナー」にアップする作業を継続しておりますが、この週末のデータ更新作業は行えないままとなりました。
実は、先週も先々週に引き続き、週間のアクセス件数が600件を超え、「60年代通信」史上、初めて2週続けて600件をクリアするという快挙を達成することが出来、この週末のデータ更新に励むつもりだっただけに、自分でも、非常に残念な状況となっております。
年齢とともに、体力が衰えるのは仕方のないことといえば、仕方のないことなのでしょうが、もうちょっと、健康を維持するための努力もしなければと、床に臥しながら、大いに反省した次第です。
体力的な衰えもさることながら、精神的にも、すでに会社勤めも20年近くになったこともあり、ちょっと、会社勤めそのものに対する疲れと申しましょうか、勤続疲労(?)と申しましょうか、そういうメンタルな衰えも感じざるを得ないのも事実のような気がします。
もちろん、世の中の多くの皆さんは、そういうフィジカル・メンタル両面の疲れにも関わらず、一生懸命に働いていらっしゃるわけで、私ばかりが甘えを言うことなど、許されるはずもないことは、百も承知のつもりですが、それでも、やはり、そうした事態に陥りつつあることも、紛れもない事実でありまして、自分でも、その精神的な均衡の崩れかけていることが、最近の体調不良とも決して無縁ではないように思えてなりません。
結局、甘ったれたことを書かせていただいているわけで、こんな文章をお読みいただいている皆さんには、本当に、申し訳なく思います。
この「60年代通信」は、私と同世代の多くの皆さんにもお読みいただいているのですが、同世代で、私と同じような事態に陥っていらっしゃる方も、昨今の状況下では、少なくないような気もしますし、そういう方々は、こういう事態をどうやって凌いでいらっしゃるのだろう、などと思ったりもしております。
何れにしても、家族も抱え、ローンも抱え、現実からの逃避など許されるはずもなく、肉体的にも精神的にも、自身の治癒力というものを何とか最大限に引き出して、頑張っていかなければならない、という結論しか導けないのだろうと思います。
ちょっと、時間はかかるかもしれませんが、何とか、この難局を乗り切って、次の展望が開けるよう頑張りたいと考えています。
ということで、今回は、データ更新が出来なかったことの言い訳と、40オヤジの愚痴を読んでいただくハメとなった皆様には、誠に申し訳なく思いますが、私の肉体的かつ精神的絶不調状態に免じて、お許しをいただければと思う次第です。
できるだけ早期に立ち直りを図って、引き続き、「60年代通信」を皆様にお楽しみいただけるように努力しますので、今後とも、よろしくお付き合いくださいますよう、お願い申し上げます。
こんな駄文をお読みいただいた皆様、本当に、ありがとうございました。
主宰者敬白

1999.02.07
皆様、今晩は。
先週は、月曜日から土曜日まで毎日メールをいただき、合計20本もの数となりまして、ちゃんと確認はしておりませんが、恐らく、1週間にいただいたメールの本数としては、過去最高を記録したものと思われます。
データ更新の方も、日曜日から土曜日まで、ウィークデーも含めて、毎日行うことができました。
1日にいただくメールの本数が4〜5本になってきますと、「お便りコーナー」にアップするための加工・編集作業も、それなりに大変になってきておりまして、文字通り、嬉しい悲鳴を上げております。
アクセス件数も、先週以上に堅調な推移が続き、最終的には、伝説の1998年5月に達成された週間アクセス数1000件以上という記録を除くと、昨年の7月以来、半年ぶりに600件を突破し、歴代2位のアクセス数を実現しました。
アクセスいただきました皆様、本当に、ありがとうございます。
さて、先週は、なんと言っても、月曜日に第一報が入ってきた「ジャイアント馬場さん急逝」というニュースに、大きな衝撃を受けました。
最近は、テレビのプロレス中継なども殆ど見なくなりましたが、このホームページのテーマでもある「60年代」には、それこそ、テレビにかじりつくようにして、プロレスを見ていたものでありました。力道山、豊登、吉村道明、そして、ジャイアント馬場といったレスラーの活躍に胸をときめかせていました。
たまたま、この年末年始には、テレビで馬場さんに関連する番組を2つビデオに録り、子供たちと楽しんだばかりだったので、その急な訃報には、本当に驚きました。
すでに、昨日、というか、今日の未明に、2日の新聞報道を中心とした追悼特別企画ページをアップさせていただいておりますが、時間切れで中途ハンパなままになっておりますので、改めて、続編も作りますので、よろしくお願いします。
ところで、今日の午後2時から放映された日本テレビの追悼特別番組を見ていて、既に、アップしてあるページの補足をしなければならない情報を知りました。
実は、新聞では「少ない道楽の一つがモデルチェンジのたびに買い替えたキャディラックだった」と伝えられていましたが、今日の番組によると、かつて、ブルーノ・サンマルチノから、キャディラックを贈られたことがあり、それ以来、キャディラックに乗り続け、車体の色は必ず、サンマルチノから贈られた車と同じ色にしていたのだそうであります。
つまり、「道楽」というよりは、馬場さんの律義さの現われというべきもので、馬場さんが大切にしていたのは、「キャディラック」ではなくサンマルチノの「気持ち」だったわけであります。この辺りは、新聞にも書かれていた「今は亡き、馬場さんを一言で言うなら『古き良き日本人』だった」という評価を裏付けるエピソードとして興味深いものでありました。
何れにしましても、追悼企画の続編は、必ず、作らせていただこうと思いますので、よろしくお願いします。
それから、今週の火曜日、つまり2月9日は、手塚治虫さんが亡くなられてから、ちょうど10年、つまり、10回忌に当たります。
今年は、「60年代通信」でも、手塚治虫さんについて、色々な形で考えさせていただくような企画も展開できればと思っておりますので、こちらにつきましても、皆様のご理解とご協力を賜りますよう、予め、お願い申し上げる次第です。
インフルエンザも相変わらず猛威をふるっているようですし、立春が過ぎたのに、寒さも一段と厳しさを増してきております。
皆様も、お体には、十分お気をつけ下さい。
今後とも、引き続き、「60年代通信」とよろしくお付き合い下さいますよう、お願い申し上げます。
主宰者敬白

1999.01.31
皆様、今晩は。
今回ばかりは、本当に、しみじみと「一週間のご無沙汰でございました」という思いを実感しております。
先週の土曜日にインフルエンザで倒れ、6日6晩、床に臥したままの状態となり、久しぶりに、まるまる4日も全くデータ更新を行えない事態となってしまいました。
それにも関わらず、先週も、週間アクセス数が500件を超え、4週続けて週間アクセス数500件台を記録するという「60年代通信」始まって以来の快挙を達成することができました。
月間アクセス数も、昨日(1月30日)の時点で、2400件を突破しており、こちらの方も、「60年代通信」史上(といっても1年9箇月足らずですが…)、最高の数字を確保させていただいております。
インフルエンザで寝込んでいる間に、こんなに記録的な展開となってしまい、アクセスいただいている皆様には、申し訳ない気持ちと有り難い気持ちで一杯でありまして、本当に、ありがとうございます。
今週末は、寝込んでいた上に、せっかく身体が復調してきたにも関わらず、プライベートの用事が立て込んでしまい、新規ネタの仕込み作業が十分に出来なかったため、既存メニューのデータ更新を行うにとどまってしまいました。
せっかく、記録的なアクセス件数を達成し、さらに、意気込んで頑張っていこうと思っていたのに、現実の厚い壁に阻まれる状況を繰り返す結果となり、歯がゆい思いであります。
しかも、実は、先週は、インフルエンザで寝込まなければ、木曜日の夜に、ジャッキー吉川さんにお会いして、改めて色々とお話しをさせていただく予定だったのに、ジャッキーさんの都合が悪くなったこともあり、結局、お会いすることが出来ませんでした。しかも、ジャッキーさんは、その後、続けて、ブルーコメッツの新年会に回られるということでしたから、あわよくば、メンバーの皆さんの近影くらい撮らせていただくよう、お願いもしようかななどと図々しいことを考えていたのですが、結局、どれも、叶わないままとなってしまいました。
引き続き、ジャッキーさんには、お時間をいただくようお願いをさせていただいておりますので、また、機会があれば、改めて、このホームページでも、ご報告させていただこうと思っています。
今週も、すでに、公私ともに、キツ目なスケジュールとなっておりますので、どの程度、データ更新を行えるか、覚束ないものがありますけれども、倒れた分まで挽回すべく頑張らなければと、気持ちだけは前向きに構えておりますので、先週の惨澹たる状況に懲りずに、引き続き、よろしくお付き合いいただきますよう、お願い申し上げます。
主宰者敬白

1999.01.24
皆様、今晩は。
金曜日のお昼過ぎから喉の調子がおかしかったのですが、昨日、長男と次男を連れて、新しく出来た多摩都市モノレールに乗るため出かけた帰途、悪寒・発熱症状に見舞われ、昨日の夕方以降、床に臥したままの状態が続いております。
したがいまして、今週末のデータ更新作業は、全く手をつけることができませんでした。
全身の関節という関節に熱がこもった状態で、いつもの風邪ののように布団をかぶって一気に汗をかいて、熱を下げるというようなことができず、難渋しております。
ということで、アクセスいただいている皆様には、誠に申し訳ありませんが、体調が戻るまで、データ更新はお預けというようなことになりますので、よろしくお願いいたします。
頂戴したEメールを「お便りコーナー」にアップするくらいの作業は、床に臥しながらでも何とか出来ますから、Eメールはお待ちしておりますので、どうぞ、お送りください。
完治めざして頑張りますので、引き続き、よろしくお願いします。
主宰者敬白

1999.01.17
皆様、今晩は。
年が明けてから、ほとんど毎日のようにEメールをいただくという有り難い状況が続いておりまして、課題のウィークデーのデータ更新も、驚異的なペースで実現されております。
その一方で、私の方の新ネタ更新の頻度は、依然、遅々として進まないという事態に変化はなく、相変わらず、皆様のご期待に添えない状況が続いていて、本当に申し訳なく思っています。
「紅白歌合戦Who's who?クイズ」の画像データ復活でお茶を濁しているわけですが、そういう苦しい実情を知ってか知らずか、久しぶりに「テツオの部屋」の主のテツオ君からメールを頂戴し、金曜日の深夜といいますか、土曜日の未明といいますか、そういうタイミングで、「テツオの部屋」第4回をアップすることが出来ました。
テツオ君のEメールによりますと、テツオ君も今年はこまめに「テツオの部屋」のデータ更新を行うつもりだそうですので、皆さんと一緒に楽しみにさせていただくことにしようと思います。
この3連休も、もうちょっと、データ更新を行いたいと考えていたのですが、ここのところ、体調が今ひとつだったり、プライベートな用事も立て込んでいたり、ということで、思うようなデータ更新を行えませんでした。
今日は、次男の電車見学ツアーと気分転換を兼ねて、“『ぼくら』村の少年”の筆者である市川市のHMさんも参加されていた「1999クラシックカーフェスティバル〜ニューイヤーミーティング&RCフェスティバル」というイベントに出かけてまいりました。
新橋から“ゆりかもめ”に乗り、国際展示場で下車、国際展示場の周辺にある駐車場がイベント会場となっており、京王線から井の頭線、銀座線と乗り継ぐことが出来た次男は大喜びでありました。
カーマニアの世界では、1960年代や70年代の自動車は、既に、クラシックカーということでカテゴライズされているそうでありまして、実物の車が展示されているほか、マニアの皆さんが自ら、フリーマーケット形式で、“お宝”の数々を販売するコーナーもありました。牧野さんも出店されていたフリーマーケットでは、60年代から70年代にかけての自動車の部品やプラモデルなどに混じって、懐かしい60年代の品々もあったのであります。
現在、極度の金欠状態にあるため、購入することは出来ませんでしたが、あの「ナガシマくん」のプラモデルや「狼少年ケン」「風のフジ丸」「鉄人28号」などのキャラクター・グラスなども販売されていました。
また、ラジコンカーによる周回レースのイベントも行われており、電車狂いの次男も、約1時間にわたり、喜んでレースの様子を見ていたほど、迫力のある面白いものでした。
この「1999クラシックカーフェスティバル〜ニューイヤーミーティング&RCフェスティバル」につきましては、車には全くド素人の私による取材報告と同時に、出来れば、市川市のHMさんからも、正しいカーマニアとしての立場から、文章をお寄せいただこうとも考えておりますので、皆様、お楽しみに。
ということで、また、今後とも、引き続き、よろしくお付き合い下さいますよう、お願い申し上げます。
主宰者敬白

1999.01.10
皆様、今晩は。
元旦に、新年のご挨拶コラムを書かせていただいた後、先週の日曜日(1月3日)にも、このコラムを書くつもりでいたのに、しっかり忘れて、中8日も開いてしまいました。
先週は、4日の月曜日を除き、毎日、Eメールを頂戴したお陰で、「お便りコーナー」だけではありましたが、ウィークデーに4回、1週間で6回という、極めて高い頻度でデータ更新を行うことができました。
Eメールを頂戴した皆様、本当にありがとうございました。
週間アクセス数も、新年早々、久しぶりに500件を超えるという好調な滑り出しを見せておりまして、この後も、コンスタントなデータ更新を何とか維持したいと考えています。
さて、先週は、非常に寒さの厳しい日が続きましたが、私の実家のある新潟県長岡市は、7日から8日にかけて1日で1メートルもの降雪量を記録し、本当に久しぶりの大雪となりました。東京でNHKテレビの天気予報を見ていたら、気象予報官が「38(サンハチ)豪雪ほどではありませんでしたが…」というような表現をしておりましたので、やはり、いまだに、昭和38年の大豪雪は、大雪の時の一つの目安になっているようであります。
私が小学校1年の時、つまり、1963(昭和38)年の冬、長岡をはじめ、新潟県の中越地区は大豪雪に見舞われ、私の通っていた長岡市立川崎小学校では、鉄筋コンクリート3階建ての1階部分にあった1年生の教室の窓ガラスが、積もった雪の圧力に耐え切れず、割れてしまうほどの大雪が降ったのであります。
当時、まだ、雪を溶かすための消雪パイプというのが、長岡市にはなかったため、雪下ろしの雪も加わって、道路の雪も2メートル以上の高さに積もり、玄関は使えず、二階の窓から出入りするほどの状況でありました。道路から10数メートルほど入った場所にあり、平屋だった我が家は、玄関から雪の階段をのぼり、道路のところで再び雪の階段を降りて出入りしなければなりませんでした。
さすがに、今は、そこまでにはいたらなかったようですが、久しぶりの大雪に、長岡をはじめ、信越地方の皆さんは、大変な思いをされたようです。雪かきだけでも、かなりの労力を割かなければならなかったはずでありまして、本当に、ご苦労さまでした、という感じであります。
それから、金曜日には、暮れの30日に脳梗塞で亡くなった映画監督の木下恵介さんの葬儀・告別式があり、木下監督の弟子ともいうべき脚本家の山田太一さんが「いまの日本は木下作品を受け入れにくい状況があるが、また輝くときが来るはず」と弔辞を述べていらっしゃいました。
たまたま、昨年の暮れに、木下監督が亡くなる直前に、「お便りコーナー」で話題になっていた「記念樹」も木下監督の作品でしたが、その「記念樹」とか「喜びも悲しみも幾年月」とか、1950年代から60年代にかけて、私達が一生懸命見ていたような暖かく人間を描いてみせたテレビドラマは、確かに、ここ暫く見たことがありません。
時代の違いと言えば、それまでかもしれませんが、愛弟子の山田太一さんはもちろん、倉本聡さんや山田洋次さんなど、木下監督の作風に連なる映画やドラマをお書きになる作家の皆さんには、まだまだ、頑張っていただきたいと思った次第でありました。
私も、この「60年代通信」というホームページで、木下作品はもちろん、60年代の懐かしく暖かい映画やテレビドラマなどを振り返らせていただこうと思いますので、引き続き、よろしくお付き合いいただきますようお願い申し上げます。
主宰者敬白

1999.01.01
皆様、新年あけましておめでとうございます。
この年末年始の休暇は、これまでの遅れを取り戻すべく、データ更新に励むつもりでしたが、会社の仕事と年賀状書きとに追われ、思うようには進みませんでした。
ということで、年明け早々から、いきなり、言い訳をさせていただいておりますが、せっかくの新年のご挨拶でありますので、「60年代通信」の非力で不埒な主宰者として、非力は非力なりの、不埒は不埒なりの、今年の抱負などを、読みたくもないでしょうが、書かせていただこうかと思います。
何しろ、新年ということでありまして、このコラムも金色の地に赤い文字という、お目出度い色の組み合わせにしてしまいまして、気分は、ほとんど、染之介・染太郎師匠のように「おめでとうございますゥ〜」という状況になっているわけでありますが、書いている本人も、見にくくて、書きずらいこと夥しく、お読みになる皆さんも、読みにくくてしょうがないんじゃないかと思いますが、縁起物でありますので、御辛抱いただければと思う次第であります。
ちなみに、画面調整で、明るさを強めにすると、比較的、読みやすくなります。
ということで、とにかく、今年の抱負ですが、去年は、やりかけたままで、完結しなかった企画がやたらに沢山ありましたので、まず、今年は、もうちょっと、計画的に、できれば、年初に年間計画のようなものを策定し、それに従って、データ更新作業を進めていくようにしたいと思います。中途半端なままになっている企画につきましても、できるだけ早い時点で、それなりの形にしていきたいと、気持ちを新たにしている次第です。
それから、今年の最大の目標として、ホームページ開設以来、まもなく丸2年が経とうとしているにも関わらず、いまだに手付かずのままになっている「60年代の暮らし」というコーナーに、積極的に取り組んでいこうと思っていますので、皆様におかれましても、ご理解とご協力を賜りますようお願いいたします。
それから、暫く、放ったらかしの状態になっている「60年代の子供たち」というコーナーも、幼稚園に入るまでのつまらない私の個人史のような内容にとどまっておりますが、このコーナーこそ、皆様の記憶や体験を集約させていただくことで、昭和30年代前後の子供たちの生活ぶりを再現させていただき、この「60年代通信」の中核となるべき部分であると考えておりますので、こちらにつきましても、皆様のご理解とご協力を、伏してお願いする次第であります。
会社の仕事も、色々な意味で、今年が正念場というような事態になることは間違いなく、それなりの覚悟で臨まなければならない状況に追い込まれつつありますが、逆に、そういう状況であればこそ、この「60年代通信」のページ作りを進めながら、々なことを考えることが出来ればとも思っています。
ということで、新年早々、訳の分からない迷えるオヤジのタワゴトをお読みいただく形となってしまい、誠に失礼をいたしました。
そういうクドクドと訳の分からない能書きは、もう、どうでもいいことにしまして、とにかく、今年は、できる限りデータ更新の頻度を高め、皆様にお楽しみいただけるホームページ作りを目指そうと思っておりますので、今年も、よろしくお付き合いくださいますよう、お願いいたします。
最後になりましたが、皆々様の御健勝と御多幸を、お祈り申し上げます。
主宰者敬白


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