60年代の漫画

伊賀の影丸  

 横山光輝が1961(昭和36)年から1966(昭和41)年にかけて『週刊少年サンデー』に連載した「伊賀の影丸」は、間違いなく1960年代の少年忍者漫画を代表する作品でありました。
 横山光輝という人は「鉄人28号」や「バビル2世」、「魔法使いサリー」、「コメットさん」などでも知られ、その対象とする漫画ジャンルには幅広いものがあるわけですが、もともとは、貸本漫画からスタートしており、漫画家としてのデビューは、1954(昭和29)年に大阪東光堂から出した「音無しの剣」という、やはり、時代ものの作品だったのです。

 私がマンガを自分の意思で積極的に読み出すようになった頃は、もちろん、すでに、少年漫画雑誌の全盛時代だったわけですが、当時の私の認識では、横山光輝という人は手塚治虫と並ぶ、日本漫画界の2大巨匠というイメージでありました。それは、月刊漫画雑誌の『少年』に「鉄腕アトム」と共に「鉄人28号」が連載されており、何れも、最も初期のテレビアニメ作品として、私達の世代に絶大なる人気を誇っていたということが大きかったわけですが、それ以上に、手塚治虫には、時代物では、これといった代表作品がなかったのに対し、横山光輝の方は、「伊賀の影丸」という大ヒット作品があり、時代物の漫画家では日本を代表する人なんだというイメージが大きかったからだと思われるわけです。

 ということで、手塚治虫ほどには知られていないであろう横山光輝という漫画家のプロフィルを簡単に紹介させていただきますと、本名は横山光照、1934(昭和9)年に神戸で生まれ、神戸市立須磨高校を卒業した後、神戸銀行に入行、しかし、わずか4カ月で退行し、映画宣伝の仕事をしながら、漫画を描き始め、1954(昭和29)年、20歳の時に「音無しの剣」で漫画家デビューしたのでした。
 2作目の単行本の「白ゆり行進曲」が、そのまま、月刊少女雑誌『少女』に連載され、それが『少年』の目にとまり、すでに冒険科学漫画「鋼鉄人間28号」として描き進められていた作品が、「鉄人28号」として登場することになりました。 「伊賀の影丸」に話を戻しますと、その習作のような作品が「忍者影丸」というタイトルで、1960(昭和35)年に月刊雑誌『日の丸』に登場しています。その予告ページ(左)には「まんが界No1の鬼才横山光輝先生が特に『日の丸』のためにかかれる忍術漫画の決定版!!」のコピーが踊り、ストーリーについても、「きびしい忍術の修行をおさめた“少年”影丸をまっていたものは、おそろしい術をつかう甲賀流の忍者だった。影丸は、かれらに、どう立ち向かっていけばいいのか?」と簡単に紹介されています。
 『別冊太陽・少年マンガの世界U』では、横山光輝や白土三平などによって黄金時代を迎えた1960年代の忍者マンガブームにいたるまでの経緯が、次のように解説されています。

 「立川文庫によって人気者となった猿飛佐助や霧隠才蔵は、大正時代に忍術ブームを巻き起こしたのだが、それ以後、忍術使いは子供たちにとってのヒーローの定番となっていくことになる。昭和20年代から30年代にかけても、杉浦茂や山根一二三などによって忍者マンガは描かれていたのだ。だが、多くは巻物咥えてデデンデンというリアリティもあらばこその魔術的ファンタジー世界であり、のんびりとした忍術合戦を繰り広げていた。また少年剣士がヒーローとなると忍者は敵方のその他大勢として捉えられることになっていく。山田風太郎の忍法帳ブームを経て、少年マンガに新しいタイプのスーパーヒーローとして忍者を登場させることになるのは、白土三平と横山光輝。奇しくも、二人とも“影丸”と主人公に命名したのである」
 ということで、若い方だと、この解説でも「よう分からん」ということになるかもしれませんので、さらに、この解説について説明をさせていただきますと、「立川文庫」というのは、いわゆる人気の高い講談ものを少年向けに書き直したもの、だったと思います。昭和ヒト桁生まれのお父さんをお持ちの方、あるいは、周りの昭和ヒト桁生まれのオジさん達がいらっしゃる方は聞いてみてください。それから「少年剣士がヒーローとなると…」という辺りは、「隠密剣士」を思い出していただければよろしいかと思います。 白土三平と横山光輝が、何故、主人公の名を影丸としたかを明らかにしている資料が手元にないため、これは今後の宿題とさせていただきます。我が家では2〜3年前に一家揃って「伊賀の影丸」を必死に読んでいた時期があり、基本的に、60年代の少年マンガのことなどあまり知らないウチのカミさんは、近所の古本屋で白土三平の「影丸伝」を見つけ喜んで買ってきましたが、家に帰ってから「アラ、これは『伊賀の影丸』じゃないのね」と気が付いて、私に大いに馬鹿にされたのでありました。

 上の画像は、1964(昭和39)年の『少年サンデー』の口絵でありまして、連載開始から4年目を迎え、最も脂がのっている(?)ころの絵であります。私達の世代にとっては、この絵の感じが、一番、馴染みのあるタッチで、いかにも「伊賀の影丸」という感じがするわけです。
 このページの一番上にある1961(昭和36)年当時の連載第1回の時の絵に比べると、かなりタッチが変わってきていることにお気づきになられるのではないかと思います。
 また、左の画像は、秋田書店が1977(昭和52)年に発行した『別冊プレイコミック〜帰って来たヒーロー特集・ビッグまんがBOOK』に掲載された1977年に横山光輝が書き下ろした「伊賀の影丸」でありまして、さらにタッチが変わってきていて、興味深いものがあります。


 再び、『週刊少年サンデー』に連載されたいた頃の「伊賀の影丸」に話を戻しましょう。上で紹介させていただいた『別冊プレイコミック〜帰って来たヒーロー特集・ビッグまんがBOOK』には、横山光輝の話も掲載されていますので、そのまま採録してみます。
 「この『伊賀の影丸』は、手塚治虫先生の『鉄腕アトム』や、ぼくの『鉄人28号』のようなSF漫画(当時は冒険科学漫画などといっていた)に人気があった頃に『少年サンデー』に登場した作品です。依頼した出版社も、ぼくにSFを描いてもらいたかったようです。ところが、ぼくが忍者物を描きたいと言い出したので、最初は出版社側も難色を示したものでした。だが、発表してみると、意外に公表を博し、描いた僕も、ほっとしたものでした」

 「伊賀の影丸」は、現在も、秋田書店から出ている単行本が古本屋で入手できますし、秋田漫画文庫なら、通常の書店でも購入できるのではないかと思いますが、一応、作品そのものについて説明しますと、物語は全体で9部作となっています。第1部から発表順に並べると、「若葉城のひみつ」「由比正雪の巻」「闇一族の巻」「半蔵暗殺帳の巻」「七つの影法師の巻」「地獄谷金山の巻」「邪鬼秘帳の巻」「土蜘蛛五人衆の巻」「影丸旅日記」ということになりまして、今、こうして書き出してみると、やはり、タイトルを見ただけでも、胸をときめかせながら読んだ当時のわくわくした気持ちが甦ってきます。
 さらに、この『別冊プレコミ』によりますと、もう一本、少女版ともいうべき「胡蝶の巻」というのもあるそうで、16ページの短編ながら、百姓一揆にまつわる物語は、『伊賀の影丸』のインサイド・ストーリーとしても異色のものになっている」そうで、何とか入手して読んでみたいものだと思っています。

 もう一つ、当時の記憶を引っ張り出して書かせていただきますと、「伊賀の影丸」が『週刊少年サンデー』に連載されている頃、確か、2カ月に1度くらいの頻度だったと思いますが、「伊賀の影丸」の総集編のような『別冊少年サンデー』というのがあって、雑誌の帯に影丸のシールがついていたり、巻頭に厚紙の影丸ゲームなどというのが付録としてついていたりして、時々、購入して、本を読むだけでなく、シールやゲームで遊んだりしたのを思い出します。今は単行本というのがありますが、少なくとも、昭和30年代には、まだ、連載漫画が単行本化されるというようなことはなく、こうした別冊なんかが、単行本の役回りを果たしていたわけです。光文社も、「鉄腕アトム」や「鉄人28号」などの別冊を“カッパコミックス”とかいうネーミングで出しており、こちらも、雑誌の帯にシールがついていたのを覚えています。また、昭和30年代の後半には、集英社が出していた月刊漫画雑誌の『少年ブック』には、別冊付録の漫画を厚くしたような感じの“まんが新書”という新書版の付 録がついていて、他社の雑誌で掲載されていた漫画でも、過去に人気の高かったものを単行本風にまとめたものがあり、ここら辺が、単行本化への一つの布石となったような記憶もあります。

 ちなみに、1966(昭和41)年11月から「伊賀の影丸」の後を受けて、同じく『週刊少年サンデー』に連載されたのが「飛騨の赤影」でした。これは、既に、この「60年代通信」ホームページ版の「60年代のテレビ」でも紹介させていただいている「仮面の忍者・赤影」のオリジナル漫画バージョンであります。漫画の方は、「伊賀の影丸」の後を受けて「飛騨の赤影」という、いかにも二匹目のどじょう風なタイトルでしたが、私自身も、依然に書かせていただいた通り、「赤影」については、『週刊少年サンデー』に連載された漫画よりも、特撮時代劇として画期的だったテレビドラマの方が印象に残っています。
 「伊賀の影丸」は、さきほども書かせていただいた通り、我が家のように、平成の現役小学生である娘や息子も、熱中して読みふけるほどの漫画ですから、やはり、昭和を代表するというか、60年代を代表する名作漫画の一つであることは間違いないのだろうと思うわけであります。

 『別冊太陽・少年マンガの世界U』は、この「伊賀の影丸」の少年マンガ史における役割を次のように意義づけています。
 「忍者マンガをスタートさせたのはまちがいなく白土三平であったのだが、少年マンガに忍者を定着させ、ブームに火をつけたのは横山の『伊賀の影丸』だった。そこには味方の忍者と敵方の忍者が、さまざまな忍法を使って闘うゲーム的面白さがあった。ユニークなキャラクター、驚くべき秘術、スリリングな闘い、生き残るのは誰かという興味、まさに少年マンガにうってつけのスマートなエンターテインメントとして子どもたちを魅了したのだ」
 「道具と技、体術を駆使する忍者は、忍術使いと違ってよりリアルなスーパーマンであり、スピード感あふれるアクションの連続と闘いの面白さは、少年マンガの行く道を示していた。のちに『少年ジャンプ』で繰り広げられる永遠のトーナメント制の闘いの原型は『伊賀の影丸』の中に見ることができる」










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