60年代の遊び・おもちゃ

打撃練習器

 この「60年代通信」のトップページのメニューでは、当初、「60年代のおもちゃ」となっておりましたが、「メンコ」のデータをアップする時に、「おもちゃ」という括りに違和感を覚え、「遊び・おもちゃ」という形に改めさせていただきました。今回、取り上げさせていただく「フリーバッティングボール〜打撃練習器」も、「遊び・おもちゃ」というメニューの中で取り上げさせていただくことに違和感を覚えないこともありませんが、この物自体も、「練習器」などと呼ぶほどの代物とも思えませんので、一応、「遊び・おもちゃ」ということでいいのかなと思っているわけです。
 当時、既に、私が育った新潟県長岡市にも、我が家から自転車で15分程度のところにバッティングセンターがあり、大の野球好きだった親父に連れられてバッティングセンターにも行ったりしておりましたが、自分の小遣いで行けるようになったのは中学に入った頃からで、野球部仲間とは、よく行ったものでありました。小学校の頃は、この「打撃練習器」のようなもので“バッティング練習”をしたものでありました。
 今時は、こんな貧乏くさい代物でバッティング練習をする野球少年はいないでしょうし、大体、やりたいと思っても、こんなことが出来る場所も少なくなっていますから、今の野球少年は、イチローの少年時代とと同じように、頻繁にバッティングセンターに行ったりしているのでしょうか。
 私が使っていたものが、この広告にある打撃練習器そのものだったのか、類似商品だったのかは、もはや、知る由もありませんが、これがどういうものだったかといいますと、要するに、準公式ボールのようなもの、つまり、外は軟式ボールと同じようにゴムなのですが、中は空洞ではなくウレタンのようなものが入っているボールに、フックのついた木ネジが差し込まれていて、フックにはナイロン紐が繋がっていて、ナイロン紐の端を木の枝などに結び付け、振り子のようにぶらさがった状態のボールをバットで打ち、逆放物線を描いて戻ってきたボールを再びバットで打つという単純なものでありました。
 広告を見ますと、何と、あの“打撃の神様”と呼ばれ、当時、V9の巨人監督を務めていた川上哲治氏が真剣そうなポーズで、この子供だましのような「打撃練習器」と対峙されております。商品の説明文として、「直球、変化球にもなり、打撃練習のほか、選球眼も養います」と書かれたりしておりまして、やっぱり、「60年代の広告」のコーナーで取り上げるべきだったかな、などと思わせられたりしています。さらに、「投手、捕手、守備不用」と書かれていますが、「投手、捕手不要」というのは当たり前なわけですが、「守備不要」というのはウソというか真実ではありません。ちょっと強めに打ったりすると、フックからナイロン紐が外れてしまったり、繰り返しボールを打っているうちに木ネジが緩んで抜けたり、というようなことが結構ありまして、転がっていったボールを慌てて追いかけなければならなくなったりするのであります。さらに、一見、簡単そうに見えますが、ボールをバットの芯で捉えず、いわゆるキャッチャーフライ状態の打球になったりすると、木の枝にナイロン紐が巻き付いてしまったり、ファールチップ状態になるとナイロン紐がバット に巻き付いてしまうという、かなり情けない事態に陥ってしまうのでありました。

 何れにしましても、何故にこんな「打撃練習器」なる商品が登場してきたのかといいますと、やはり、1960年代のプロ野球界の超スーパースター、長嶋茂雄と王貞治という二人の多大なる影響があったのだろうと今さらながらに思うわけであります。私が初めて作ったスクラップブックは、長嶋関連のものだったということは、以前にも書かせていただきましたが、そのキッカケになったのが月刊マンガ雑誌『少年』に掲載されていた長嶋の特集記事でありました。当時は、長嶋や王をテーマにした特集記事や伝記マンガ、フィクションであっても長嶋や王が実名で出て来るマンガというのが、それこそ毎週、毎月のように露出されていて、野球少年は、皆、長嶋と王を目指して、日夜、練習に励んでいたのであります。
 そうした野球少年にとって、チーム練習とは別に、個人練習を、いかに楽しく、効率よくこなしいくかということは、それなりに重要なテーマでありまして、素振りはもちろんですが、こういう「打撃練習器」というようなものは、結構、重宝したものでありました。商品名にあるような「フリーバッティングボール」というのは、ちょっと大袈裟かもしれませんが、確かに、「トスバッティングボール」というような意味合いでは、それなりに、いい練習になるものではありました。
 私の場合、初めだけは、この「打撃練習器」というものを買って練習していましたが、さきほども書かせていただいた通り、ナイロン紐が切れたり、木ネジが緩んだりということで、あまり長持ちするものではありませんでしたので、最初に買ったものが使えなくなってからは、当時、軟式ボールはネット状の袋に入って売られているものもありましたので、そのネット状の袋に軟式ボールを入れ、ボールが飛び出さないようにネットの上を閉じ、ネットの袋の紐に長い紐を足して、木の枝に結び付けて、「打撃練習器」と同じ要領で練習をしたというか、遊んだものでした。



 ということで、野球少年として、野球に狂いはじめていた頃の私の写真も、ついでに、紹介させていただきこうと思います。当時、野球大好き少年は、バットとグローブまでは買ってもらうのは珍しくありませんでしたが、ユニフォームまで作ってもらっていたのは、私の周囲では、私だけでありました。それだけ、親父が野球好きだったということだと思います。
 この写真は、多分、私が小学校4年の時のもので、ちょうど、この頃から、自宅前の福島江沿いの土手を毎日走るようになりました。以前、「60年代のマンガ」のコーナーでも書かせていただいた通り、その日課を達成すると、ご褒美として、「鉄腕アトム」や「スーパージェッター」、「ワンダースリー」などの朝日ソノラマのソノシートなどを買ってもらったものです。
 私の仲間うちでも、ユニフォームを買ってもらっている人はいませんでしたし、私自身、ユニフォームを着て仲間達の前に出て行くのは、非常に気恥ずかしい感じがして、恐らく、このユニフォームは、この写真を撮った時に着ただけだったと記憶しています。この写真を撮るときも、親父は、「グランドまで行って撮ろう」というようなことを言ったはずですが、グランドなんかに行って、友達とでも会ったりしたら、もうお嫁に行けない、と思っていた私は、頑強にこれを拒否し、結局、自宅前の庭というか雑草の生えまくっていた空き地で撮ってもらったのでありました。本当は、写真を撮られるのもいやで、これは、ユニフォームを買ってもらった親父に対する最大限の妥協の結果の写真だったと思います。でも、その割には、結構、にやけた顔をして写っているような気もしますが…。
 で、このユニフォームを作るときにも、私は、無地のままでいいと言ったのですが、この写真では、はっきり写っていないものの、胸には「SUZUKI」、背番号は「3」が縫い付けられておりまして、恥ずかしくて、とても、人前で着られるものではありませんでした。
 私達の場合、当時、ニュニフォームを着るというのは、非常に特別な意味合いを持つものでありまして、小学校5年生から正式に小学校の野球部員になることができたわけですが、練習の時は基本的に普通の体操服を着ていたもので、試合の時にしかユニフォームは着せてもらえませんでした。それは、中学校に入ってからも、そうで、普通は、無地のユニフォームを着たりするものですが、何故が、私が通っていた中学校では、野球部の練習の時も、体操服を着ていました。それほどでしたから、ユニフォームというものは、野球少年にとっては憧れの晴れ着というような位置づけで、まだ、小学校4年生で正式な野球部員でもなく、しかも、仲間内で野球をするだけなのに、自分の名前が入り、恐れ多くも長嶋と同じ背番号「3」を縫い付けたユニフォームを着るなどということは、素人のど自慢の予選のリハーサルに、紅白歌合戦の小林幸子の衣装を着て出るようなものでありまして、非常に謙虚な少年だった当時の私には、とうてい、出来ないことでありました。

 左の4枚の画像は、私の自宅の前で、友人たちと交互に、ゆっくりと長嶋のバッティングフォームを真似て、インスタント・カメラで撮り合ったときのものです。これは、多分、小学校6年生の時のものだと思いますので、上のユニフォームの写真から、2年ほど後ということになります。この画像の右側に写っているのが、玄関前にあった栗の木で、私は、この栗の木の枝に「打撃練習器」をぶら下げて遊んでいました。
 これも、以前、どこかで書かせていただいたと思いますが、私が通っていた新潟県長岡市立川崎小学校の野球部は、チーム名としては「やまなみチーム」と呼ばれておりました。
 長岡の東には鋸山と呼ばれる連山があり、川崎小学校というのは、その連山を見通すことのできる場所にあったため、校歌の歌い出しも「のこぎりかすむやまなみに…」というもので、野球部のチーム名も、その歌詞の「やまなみ」にちなむものだったのだろうと思います。
 で、私達は、5年生の時、「やまなみBチーム」として、市内の神田小学校の6年生のチームとの公式戦で勝ってしまい、周囲から大いに期待されたものでありました。私も幸い、小学校5年生の初めから、サードで3番というレギュラーのポジションをいただき、長嶋と同じ守備位置となった上にクリーンアップの一角を占めることになり、大喜びしたものであります。
 当時、長岡市内の小学校の野球大会としては、地元紙である新潟日報が主催する日報杯、地元の興行系有力会社だったシバタ観光の主催するシバタ杯、さらに、この2つの市内大会の上位チームが参加できる地区大会としての中越杯という3つの公式トーナメントがありましたが、期待とは裏腹に、市内大会の準決勝で惜敗し、地区大会に進出することはできませんでした。
 左の4枚の画像は、地区大会が行われたいた初秋の頃と思われ、周囲も本人達も確信していた地区大会への出場が果たせず、その脱力感というか無力感を抱きながら、遊んでいた風景なのであります。右下の画像に、初めて味わう挫折感から、厭世的な思想を持ち始めた私の気持ちが表現されているわけです。
 それでも、基本的に、結構、野球にはこだわり続けた仲間達でしたので、ほぼ、小学校の時と同じメンバー構成だった中学の野球大会では、地区大会はもちろん、東北中学校の野球部史上初めての県大会出場も果たしたのでありました。中学では、私は肘を壊してしまったことと、非常に守備の上手い選手が転校してきたことなどから、守備はファーストにコンバートされてしまいましたが、レギュラーポジションを獲得した3年生になってからの初打席でホームラン、県大会の1回戦でも、1回裏に先制の2点タイムリー2塁打を放つなど、3番打者としてもそれなりの役割を果たすことができました。
 そういうことで、小学校、中学校を通じて、クリーンアップでレギュラーポジションを維持できたのも、幼い日に、この「打撃練習器」でバッティングの基本であるボールをバットの芯で捉えるという技術をきちんと習得していたからだったのではないかと振り返る今日この頃であります。








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