60年代のカレンダー


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「60年代通信」主宰者・鈴木清美のプロフィル

 勝手なことばかり書きなぐっている「60年代通信」の作り手はどんな奴なんだろうと思っていらっしゃる方もいらっしゃるかもしれませんので、以下に、その履歴・賞罰関係などを簡単な年表にしてみました。

年 月 日

履歴と主な賞罰関係など

1955(昭和30)年4月 新潟県長岡市宮内町で生まれる
1960(昭和35)年4月 新潟県長岡市稽古町の聖母幼稚園に入園
 入園テストで先生とのお遊戯を頑強に拒否するも、めでたく入園
 お絵描き教室に通い、県のジュニア展に入選。生まれて初めて賞状というものをもらう
 同じクラスのおカマっぽい奴が大嫌いで、そいつをいじめ、母親が呼び出される
 女の子のスカートめくりの主犯格として礼拝堂に3時間正座の謹慎処分
1962(昭和37)年4月 新潟県長岡市立川崎小学校に入学
 幼稚園の年長から小学2年まで3年連続して県ジュニア展入選の偉業を達成
 小学3年の時、朝日新聞の児童詩コラム「小さな目」に自作の詩「ゆでたまご」が掲載される
 小学4年の時、日本商工会議所の珠算検定3級に合格。神童と騒がれる
 小学4年の時、仲間達と市内の四郎丸小学校に野球の試合を申し込み、先生に止められる
 小学5年の時、市内の小学校野球大会で神田小学校の6年生のチームに勝ってしまい、大騒ぎに
 小学6年の時、地区大会進出がかかる市内の小学校野球大会の準決勝で敗れ、初めて大きな挫折感を味わう
1968(昭和43)年4月 新潟県長岡市立東北中学校に入学
 中学2年の時、初めてバレンタインデーにチョコレートをもらい、バレンタインデーというものの存在を知る
 中学3年の時、野球部創設以来、初めて県大会に出場。2回戦で後にヤクルトに入団する黒坂のいた糸魚川中学に延長押し出しで敗れる
1971(昭和46)年4月 新潟県立長岡高等学校に入学
 2年の時、制服が廃止され、キャンパスを私服で裸足というスタイルで歩いているところを獅子てんや・瀬戸わんやにインタビューされる。てんや・わんやがレポーターをやっていた新潟放送と信越放送の共同制作番組「17号線膝栗毛」で放映され、テレビ初出演。
 同じく2年の時、靴を手にぶら下げ、裸足で歩いて友人と下校する姿が、新潟県の地方紙「新潟日報」夕刊の写真記事として掲載される
 3年の時、新聞編集委員会の和同祭イベントとして「長高七不思議」を企画。空前の観客を動員
1974(昭和49)年3月 新潟県立長岡高等学校を卒業
1975(昭和50)年4月 早稲田大学政治経済学部政治学科に入学
 入学と同時に文化系サークル「政治野人会」に入り、麻雀研究に専念するも、1年の早稲田祭のときには、北方領土問題で研究発表を行う。その準備のため、延長18回で再試合となった早慶戦を見逃し、入学以来、神宮の早稲田戦は全て見ていただけに、後悔しきり。
 1年の時、体育で軟式野球を選択。あの長島茂雄も憧れ、野球殿堂入りさえ果たしているアマチュア野球界の大御所・石井藤吉郎センセイから数少ない「優」をいただく。
 4年の秋の早稲田祭の時、政治野人会主催の講演会で、後に、民社党書記長や委員長を務める大内啓吾議員に自腹で買ったソニーのステレオマイクを壊される。
 4年の秋から2年間、日米会話学院へ。クラスに女の子が多く、仲良くなりたい一心で、月曜から金曜まで毎晩、まじめに通う。マージャンの途中でも抜けるほどだったため、友人にいぶかしがられる。6年間も在籍した早稲田での授業出席回数を軽く上回り、その甲斐あってか、6年の春、英検1級に合格。
 5年の春に歌謡曲研究会の創設に参画。スポニチで伊東ゆかりと対談したほか、日本テレビ「紅白歌のベストテン」で山口百恵、榊原郁恵、倉田まり子らと共演(?)するなど、華麗な芸能生活を送る
 5年の秋の早稲田祭で、野中小百合などナベプロのアイドル歌手を招き、歌謡コンサートを開催。
 6年の秋に、高田馬場・BIG BOXのビクター・ミュージック・プラザで歌謡曲シンポジウムを開催。「グッドナイトベイビー」や「昭和枯れすすき」の作曲家・むつひろし氏、「神田川」や「いつか街であったなら」「暑中お見舞い申し上げます」などの作詞家・喜多条忠氏、歌謡評論家の中根幸夫氏などと激論を繰り広げる。
1981(昭和56)年3月 早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業
1981(昭和56)年3月 海外旅行情報の専門出版に入社。現在に至る
家族構成  妻(38)と長女(11)、長男(8)と次男(3)、それに猫[アメリカン・ショートヘア](4)の5人と一匹家族



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