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ニッポニアニッポン事情 交流日本激流史 近代編 
南極探検 



  白瀬探検隊 サハリンとオーストラリアの記念碑

2006/8/23〜2006/9/12
南極・極地研究所
南極物語と隕石
タロとジロ、カラフト犬の南極物語
科学博物館「南極展」白瀬矗のすりこぎ
白瀬矗の探検行
千島探検
極点はふたつある
開南丸
船長野村直吉
27番目の隊員
スパイ嫌疑
氷山の海
ふたりのアイヌ人花守信吉と山辺安之助
花守と犬たちとの別れ
大和雪原
白瀬探検隊の残したもの
砕氷船しらせ
未知の世界

南極・極地研究所

 夏休み好きなことめぐり。「未知の世界へのあこがれ」。
 8/11に、偶然「国立極地研究所」の前を通りかかりました。自転車で「王子新道」を走っていて、見つけたのです。
 板橋区加賀にある、極地研究所。ここで極地の研究が行われていること、知る人ぞ知る存在ではあるのでしょうが、私はぜんぜん知りませんでした。

 科学博物館で開催中の「南極展」を見に行こうと思っていたところだったので、「おや、こんなところに極地研究所なんてのがあったんだ」と思って、中に入ってみました。
 好奇心のおもむくまま、「知らないこと」を知りたがるのは、こどものころから変わりません。

 こどものころ、「探検家になりたい」という夢を持っていました。
 スコットやアムンゼンの極地探検記を読み、リビングストンの「アフリカ探検」やスウェン・ヘディン「さまよえる湖ロブノール」を読み、とにかく「探検家」になって、未知の世界へ行くのだ、と決めました。

 行方不明になったリビングストンを探し出したスタンレーが新聞記者だったことから、小学校卒業文集の「将来の希望」には「ジャーナリストになる」と書きました。
 20世紀後半には、もう、探検家が地理的探検する土地は残されていないってわかってきたこともあって、ジャーナリストとして、未知の世界へ飛び出そうと思いました。
 本多勝一の『極限の民族』(1967)など、ジャーナリストによる「知られざる土地」の記録は、お手本に思えました。 

 泉靖一、石田英一郎、川田順三、クロ−ド・レヴィ・ストロ−ス、トール・ハイエルダールらの仕事を知ってからは、「文化人類学者になって、未知の文化を知ろう」と、思いました。
 文化人類学のなかでも神話と演劇芸能に焦点をあてた演劇人類学を志し、フィールドワークの地として東アフリカ・ナイロビで9ヶ月すごしました。

 ナイロビでは、民族舞踊の練習などもしましたが、サファリツアーで動物を見たり、マサイ族やキクユ族ソマリ族の家にホームステイさせてもらって、楽しくすごして終わりました。

 結局、最終的な専攻は日本語言語文化・日本語学になり、今日に至っています。
 世界中から日本の大学・大学院へやってくる留学生とふれあうことが楽しいです。
 知らなかった土地や文化について、たくさん教えてもらえました。今でも未知の世界への探求心は、消えたことがありません。

 現在、人類に残されている未知の世界は、「宇宙」「深海」「地底」そして「極地」
 極点に立つことができた人間は、まだ少数です。極地はまだまだ「未知の世界」の魅力に富んでいます。

<つづく>
00:25 |2006/08/23 水

南極物語と隕石

 極地研究所、管理資料棟の1階は展示ホールとして公開されています。
 極地で採集された隕石や南極探検に使った雪上車が展示してありました。
 しかし、「白瀬中尉の遺品」などは、プレートのみで、展示品は「南極展」のために、上野の科学博物館で展示中ということでした。

 「極地研究所」は、極地に関する総合的な研究をしている大学共同利用機関であり、大学院大学として、博士課程で研究者を育てています。
 また、南極の昭和基地、みずほ基地、飛鳥基地を使う南極観測隊の統括を行っています。

 管理資料棟の1階で、極地研究所発行のパンフレットをもらいました。南極展を見る前の予習によさそうです。

 去年の暮れにフランス映画『皇帝ペンギン』を見ました。野生のペンギンを追いかけた記録映画です。
 今年6月にディズニーの『南極物語』を見ました。

 1958年、昭和基地に起き去りにされた15匹のカラフト犬。その中でタロとジロの2匹が生き残りました。
 タロとジロの実話をもとにして、高倉健主演の日本版「南極物語」が制作され、1983年公開。
 さらにをディズニーがリメイクした動物ものがディズニー版「「南極物語」。
 こちらには、8匹のシベリアンハスキーが登場します。

 「皇帝ペンギン」も「南極物語」もどちらも、南極がとても美しく撮影されていました。
 実際には美しいばかりではない、過酷なブリザードと夜ばかりの極寒の季節もあるのだけれど、映画で見る限りでは、一度は行ってペンギンの姿やオーロラを見たいと思える映像でした。

 南極、北極へは、近年観光ツアーも出ています。「探検」ではなく、ツアーのイージーな観光旅行でもいいから、飛行機や船で近づける場所まで行って、南極、行ってみたいなあ。

 ディズニー版『南極物語』で、主人公の「極地ガイド」ジェリーが案内を引き受けたのは、隕石学者デイビス・マクラーレン博士の探索行。
 死にかけるような苦労をして採集した隕石は、学術的に貴重なものでした。
 博士の学会での発表は大成功をおさめました。

 映画を見て、はじめて「へぇ、南極で隕石を採集できるんだ」と思ったのでしたが、実は、日本の南極研究は、隕石研究の分野で世界有数の採集数を誇っているということを、極地研究所のパンフレットで知りました。
 極地研究所の展示ホールに隕石が並んでいます。

 宇宙から地球へやってくる、「宇宙の秘密を解き明かすための手紙」とも言える隕石。他の地域に落ちた石は、ほとんどが風化してしまうのですが、南極へ落ちた隕石は氷によって包まれ、そのまま保存されます。天然の冷凍庫。

 極地研究所南極隕石センターは1万7千個もの隕石を保管しており、世界最高水準の研究が行われています。
 しかも、研究者はどの国の学者でも、極地研究所の資料をつかうことができるよう、オープンにされているってところがすばらしい。太っ腹です。

 月から来た隕石の写真など、こちらで見ることができます。
 http://yamato.nipr.ac.jp/AMRC/collection/index.html

<つづく>
00:01 |2006/08/24 木

タロとジロ

 南極ときいて思い出す名前が、「タロとジロ」。
 私が子供の頃、日本中にその名が知られたカラフト犬、日本版『南極物語』の主人公です。
 ディズニー『南極物語』のもととなった映画、高倉健主演『南極物語』(1983)。
 南極でロケが行われ、本物のオーロラが映画画面に映されたのは、はじめてのことでした。

 8/24、夏休みの親子連れでにぎわう科学博物館を観覧しました。科博と極地研究所の共同主催による「極地観測50周年記念」のイベントです。
 南極展の第4コーナー。
 剥製のタロジロが向き合って立っています。
 ジロの胸の下には、白い毛があります。タロにはありません。同じカラフト犬の母から生まれた兄弟で、よく似ている2匹ですが、この白い毛で見分けがつきます。

 ジロは、1960年に南極で病気のため死にました。剥製になって科博に展示されていたので、見たことがありました。
 タロは、南極から日本へ帰ったあと、北海道大学植物園で15歳まで余生を送り、1970年に死にました。
 タロ剥製は北海道大学に展示されていて、私は見たことがありませんでした。

 展示のわきでは、南極記録映像のなかから、カラフト犬が映っている場面を編集した「タロ、ジロ物語」が数分のビデオになって上映されていました。

 タロとジロは、北海道生まれのカラフト犬の兄弟です。犬ぞりをひくため、1957(昭和32)年、第一次南極観測隊とともに南極昭和基地へ。
 しかし、天候悪化のため隊員はヘリコプターで脱出。15匹の犬は、当座分のエサを与えられて、つながれたまま残されました。

<つづく>

白い大地のカラフト犬

 天候回復次第、第2次隊員が犬のところへ来る予定だったので、戻ったらすぐにも犬ぞりが使用できるよう、犬ぞりの係留鎖につないだままにしておかれました。
 しかし砕氷船宗谷は氷に囲まれて動けず、第2次隊は南極に上陸することなく撤退。
 第3次隊員が昭和基地に戻れたのは1年後でした。

 放置された15匹のカラフト犬たち。
 7匹は首輪がはずれず、そのまま死んでいました。犬の遺体には損傷がなく、どんなに飢えても、犬たちが共食いをしなかったことがわかったそうです。

 首輪がはずれた8匹のうち、一番若かったタロとジロの2匹のみが、昭和基地に残っていました。1年間の過酷な南極の月日を、自分たちの力だけで生き続けたのです。
 1958年2月から1959年1月までの1年間、2匹は助け合って狩りをし、野生の暮らしを続けました。

 南極の冬(6〜8月)は、一日中太陽がでない夜だけの世界。そんな中をよくも生き延びたものです。
 タロとジロは、ペンギンやあざらしのフンなどをエサにしていました。
 兄弟が2匹で連携しながらペンギンを狩っているようすが第3次越冬隊により、目撃されました。

 1958年、「タロとジロ生存!」というニュースは、日本中で歓迎されました。
 1952年のサンフランシスコ条約発効により独立を回復して6年、ようやく復興が見えてきた時代、タロとジロは、日本の人々に「どん底からのサバイバル」への勇気と元気をあたえてくれました。

 1960年のジロの死から別々の場所に分かれ、剥製になってからも、2匹は別々に展示されていたので、2匹がいっしょにすごすのは、8年ぶりなのだそうです。
 ひさしぶりの対面。

 きっと、南極の白い大地、南極の氷原をともに駆けめぐったこと、ペンギンやあざらしのこと、天を彩ったオーロラや満点の星、さまざまなことを語りあっていることでしょう。

タロジロの写真など、稚内市のHP
http://www.city.wakkanai.hokkaido.jp/main/gaiyo/tarojiro/index.htm

 タロとジロにとっては、南極で「野生の日々」をすごしたこと、彼らの一生にとって、決してつらいばかりの日々ではなかったのだと思います。
 自らの力で生き抜いた1年間は、一日一日が貴重なものであったことでしょう。

<つづく>
2006/09/09 土

白瀬矗のすりこぎ

 南極展、展示の最初のコーナーは、1912(明治45)年日本人として最初に南極探検を行った白瀬隊について。
 隊長、陸軍中尉白瀬矗(しらせ のぶ1861〜1946)。
 白瀬は、開南丸という漁船を改造したにすぎない帆船で南極へ行き、苦難の末、南緯80度まで達し、日章旗をうちたてました。

 他国の南極探検隊が、イギリスのスコット隊全滅をはじめ、多くの犠牲のうえに行われたのに対し、白瀬は貧弱な装備にもかかわらず、ひとりの死者もださず、全員無事に帰国をはたしました。

 8月11日に訪れた極地研究所の展示ホール、白瀬中尉遺品とかかれたパネルの中は、からっぽでした。科博の南極展で展示中というので、どんな遺品があるのかと思って、興味をもって科博の展示を見ました。

 白瀬の遺品として展示されているのは、白瀬の生地にある記念館に保存されていた寝袋ひとつ。極地研究所所蔵の遺品というのは、「防寒手袋一組」「金槌ひとつ」「すりこぎひとつ」
これで全部だった。ほかに何もない。

 「えっ、すりこぎ?なんで、よりによってすりこぎを展示してあるの?」
 最初、遺品として「すりこぎ」をみたとき、「これ、南極と関わる特別な用途があったの?」と思いました。

 展示室に立っていた係りの女性に「このすりこぎ、何のために使ったのですか」と、質問したが、用途はわからないといい、極地研究所の担当者に電話で聞いてくれました。

 担当者が来て、説明してくれたところでは「ただのすりこぎです。料理に使っただけです」
 南極で料理につかったすりこぎ。これ以外に、白瀬が南極でつかった品物が遺されていない。
 そのためにすりこぎも大事な白瀬の遺品なのです。

 白瀬は、1912年に成功した南極探検行の借金を、一生かかって返済し続け、85歳で死んだときには、すりこぎがひとつ遺されたのみ。 

 国家事業として取り組むべきだった南極探検。議会は白瀬の探検に3万円を支給すると決議しながら、結局実際にはお金を1円もだしませんでした。

 探検には12万円(現在で1億2千万〜2億円)の費用がかかりました。大隈重信が中心となって、民間の寄付によって集められたのは、7万円。
 
 帰国後、南極までを往復した開南丸を2万円で売却したものの、それでもなお4万円(現在のお金で4〜5000万円)の借金が残り、白瀬ひとりが背負うことになりました。

 白瀬の後半生は、借金返済に苦しみながらの生活となりました。
 全国各地を講演して歩いたのも、帰国後2年ほど。大正時代になると、人々は南極探検競争の熱気も忘れてしまったのです。

 売れるものは全部売りはらいました。探検に使った品を所望されれば、幾分かの謝礼とひきかえに手放さざるを得ませんでした。こうして栄光の白瀬探検隊の品は散逸し、白瀬が亡くなったとき手元に残されていた品はいくつもありませんでした。

 白瀬は、魚屋の2階に間借りした小さな部屋で、すりこぎ1本を「ともに南極ですごした記念の品」として一生を終えました。
 すりこぎは、南極での料理に使った思い出の品。しかし、他の記念の品とちがい、ほしがる人もいなかったために最後まで白瀬の手元に残ったのでしょう。

 1946年、敗戦後の荒れた世相の中、明治の探検家の偉業は忘れ去られており、白瀬の葬儀は寂しい限りだったといいます。
 遺族の生活は困窮し、ある寺の住職の世話によって、かろうじて遺された家族が露命をつなぎました。

<つづく>
01:18 | 2006/08/25 金

白瀬矗の探検志願

 こどものころ、私が夢中になって読み続けてきた「探検もの」の主人公として、白瀬矗は数少ない日本人のひとり。
 私が読んだ白瀬中尉の伝記は、南極から無事帰国したところまでの記述でおわり。そのあとの白瀬について、何も知りませんでした。

 偉業を成し遂げたあとは、陸軍軍人でもあり、栄光につつまれて余生を送ったのだろうと思っていました。
 まさか、すりこぎ一本しか手元に残らないほどの苦しい生活をおくって世を去ったとは、思いもよりませんでした。

 白瀬は、1861年秋田県(旧金浦町)で、寺の住職の子として生まれました。11歳のときに北極探検の話を聞いて「探検家」を志しました。

 1879(明治12)年、東京浅草にある僧侶のための学校に入学したのですが、探検家になる夢をあきらめられず、当時探検を行うのに一番近い職業、軍人になることにしました。
 西欧の国々は「帝国主義の時代」、新たな土地の領有権を主張するために、軍人探検家を前人未踏の地へ派遣していました。

 僧侶になるために名付けられた知教という名を、一存で矗(のぶ)に改名。「矗」は、「直」が三つ重なって立つ。いつの日か、極点に直立することを心に誓い、陸軍教導団騎兵科での勉学に励みました。1881(明治14)年、騎兵科を卒業し、下士官伍長となりました。

 矗は、兵士としては、「軍隊」にふさわしくない軍人でした。上官の命令はどんな理不尽なことでも従うのが「よい軍人」だったからです。矗は、上司にも率直に意見を述べ、自分が納得するまで命令に従わない異端者でした。

 たとえば、当時「支給の軍服は、軍のものだから、直接名前を書き入れてはいけない」とされていたのに、矗は「軍のものであっても、支給されている間は、所有権使用権は与えられた者にあるはず。他の軍服とまちがえずに責任を持って管理するためには、名前があったほうがよい」と、軍服軍帽に名前を書き込み、上官との対立を辞さない、そんな兵士でした。

 また、当時の軍には、「結婚に際しては、保証金を軍に納める」という軍事法がありました。(この軍事法については、『軍事史学』通巻26号(1971年9月号)日本軍事史雑話(二)松下芳男「結婚の保証金」などに論究されている)

 矗は、仙台赴任中の1886(明治20)年に、やすと所帯をもったのですが、これは非公式なものでした。保証金を用意できず、子供がふたり生まれても、妻の私生児として戸籍にのせていました。

 他にも結婚保証金が払えずに、法律上の結婚ができないまま子供を私生児にしている軍人が多いことを知り、このような保証金制度は廃止すべきだ、という意見を投書し、大問題をひきおこしました。軍の法律に逆らうなど、前代未聞のことでした。

 軍隊内では問題児であった白瀬でしたが、そんな白瀬の人柄を認めてくれる人もいました。
 「戦争をするためでなく、探検をするために軍隊に入った」という白瀬のまっすぐな気持ちを、陸軍の雄、児玉源太郎が認めてくれたのです。
 1890(明治23)年 児玉源太郎は、白瀬に樺太・千島の探検をすすめました。

<つづく>
00:05 | 2006/08/26 土


千島探検

 児玉源太郎の知己を得たおかげで、白瀬は問題をおこしながらも軍務を負われることもなく、1893(明治26)年、白瀬32歳のとき、郡司成忠海軍大尉(文学者幸田露伴の兄)を隊長とする千島探検隊に隊員として参加することができました。

 しかし、この千島探検は、郡司の指揮の不備と暴風による船の沈没などの不運が重なり、悲惨な探検行となってしまいました。
 隊員の多くが死亡する中、白瀬が誓ったのは、「探検のためにひとりも犠牲者をだしたくない」という思いでした。
 このときの強い思いは、後年の南極で生かされます。

 政府は1893年、郡司大尉の千島探検には10万円の資金を提供しました。しかし、官費でのこの探検は、隊員の多くが死亡する結果となりました。
 船が暴風雨にあって沈没、隊員19名がこの沈没で死ぬという不運のほか、越冬の島で、寒さや野菜不足など食料準備不足から、15名の隊員が死亡しました。

 生き残った隊員は、白瀬矗のほか、1名のみ。
 しかも、隊長の郡司大尉は、白瀬矗に千島越冬を命じて自分は父親の幸田成延(こうだしげのぶ・幸田露伴の父)が乗船していた軍艦に乗って、内地へ帰ってしまったのです。

 日清戦争へ向かう時節、海軍士官予備役郡司大尉には、いつ召集があるかわからない。お国のため軍人としての職務をまっとうさせるため、郡司を連れ戻す、というのが、幸田老人の論拠でした。
 しかし、それなら、白瀬矗も陸軍予備役。白瀬にも召集令状がくるはずだ、という考えは、老人にはありません。

 実際、日清戦争中、白瀬宅には7度も召集令状が届けられ、留守宅は、「のぶさんは、戦争に行きたくないから、千島から帰らないでいるそうだ」という中傷にみまわれたのでした。

 死んだ隊員のかわりに、幸田成延が連れてきた5人の新しい越冬隊員が白瀬に託されました。
 郡司の主宰する報効義会の会員で、なんの準備も訓練も受けたことのないまったくの素人です。

 新入り5人を、白瀬はよく指導し訓練し、暴風吹きすさぶ厳寒の島での2度目の越冬に耐えました。食料は自分たちでアザラシなどを狩るほかなく、洞窟をみつけての穴居生活でした。

 しかし、食糧不足からくる体力低下、野菜不足からくる壊血病と千島の風土病(水腫病)のため、3人が死亡。白瀬自身も水腫病にかかりましたが、かろうじて生き残りました。

 生き残ったのは、白瀬のほか、2名。しかも、越冬の島から救出されて乗船した船が暴風にあい、せっかく生き残った1名が死亡。

 白瀬の留守宅には、「千島越冬隊全滅」の連絡が来ており、白瀬が帰宅したときは、自分自身の葬式の真っ最中でした。

 後年、白瀬は、このときの郡司大尉の指揮命令に疑問をもち、郡司とは生涯不仲になりました。
 幸田成延は、我が息子郡司成忠を厳寒の島から連れ戻すことに成功したかわりに、彼が連れてきた越冬隊員5名のうち生きて帰れたのは1名だった。いわば、息子の命を、青年4人の命とひきかえにした、と白瀬には感じられたのです。

<つづく>
00:36 | 2006/08/28 月

千島の教訓

 郡司が組織した千島探検隊は、彼の主宰による「報效義会」が資金繰りや連絡を取り仕切っていました。千島を日本領土として確立し、千島への移住開拓することを目的とした集まりでした。

 しかし、「意気に感じて集まった」集団によくあるように、主宰者と事務担当責任などがはっきりしないまま、指揮系統がどうなっているのか曖昧なままの集団でした。

 郡司は日清戦争に従軍するに際して、千島占守島に残してきた越冬隊員について、報效義会に何も指示しないまま出征してしまったのです。
 郡司にしてみれば、すでに島から退去した自分は越冬隊の責任者ではなく、越冬隊への処置は自分からの命令ではなく、報效義会が自主的に行うものと思っていたのでしょう。

 郡司と報效義会のどちらに責任があったのか、という「ことの真相」はわかりませんが、とにかく、島に置き去りにされた6名のうち半分の3名は死んでしまったのです。
 日清戦争の開戦も終戦も、白瀬は知りませんでした。6名の越冬隊員を千島にのこしたのに、郡司が何の処置もとらずに出征したことも知らず、白瀬は、連絡の途絶えた厳寒の島で飢えと闘い続けました。

 後年、この事実を知った白瀬は、自分の目の前で死んでいった隊員を思い、慚愧の念に沈みました。白瀬にとっては、「郡司に置き去りにされ見殺しにされた」と感じられ、裏切られたという思いでした。

 隊長が、隊員の生き死ににかかわる連絡をとることもせずに、自分自身の出征を優先させたなどということは、白瀬には信じがたいことでした。隊長とは、何よりも隊員の生命を尊重すべき存在であるからです。

 郡司大尉が有能な軍人であることは認めつつも、隊長が隊員の命を守る処置をとらなかったこと、白瀬には許すことができませんでした。

 千島探検は、34名もの犠牲者をだして終わりました。
 しかし、白瀬にとっては、千島での越冬は得難い経験となりました。零下30度の寒さとはどういうものか、ブリザードとはどんなものか、食料はどうすべきか、すべてが教訓となりました。
 何より白瀬が肝に銘じたのは、「探検のためにひとりの犠牲者も出してはならない」ということでした。

 白瀬は、千島探検から帰ったあと、1904年、日露戦争に弘前第八師団陸軍少尉として従軍、左手と胸部に負傷。
 しかし、命は助かり、この戦功により、中尉に昇進しました。

 白瀬中尉が探検の準備にとりかかるまで、まだなお5年がかかりました。
 日露戦争から凱旋した児玉源太郎(1852〜1906)が、次期首相との期待がかかる中、54歳で病死してしまったからです。
 児玉は、直属の部下になったわけでもない白瀬を暖かく見守り、極点探検への志を常に励ましてくれました。

 最大の精神的支援者を失ってしまった白瀬を、さらに打ちのめすニュースが重なりました。
 1909年4月6日、白瀬が生涯の目標としていた「北極点」にビアリー大佐ら6名が到達。北極点には、アメリカの星条旗が掲げられました。

 白瀬は、このニュースを知ると、まるで死んだように憔悴し、うつろな日々をすごすようになりました。
 これまでの全生涯をかけて邁進してきた目標がすべて失われてしまったと感じ、生きている意味がなくなってしまったのです。

<つづく>
10:34 | 2006/08/29 火

極点はふたつある

 「ビアリー北極点一番乗り」の報で落ち込んだ白瀬が再び立ち上がることができたのは、「極点はふたつある」と考えついたからでした。
 白瀬は、目標を「北極点到達」から、前人未踏の南極にかえました。

 「南極へ行く」と決めた日から、白瀬は資金調達と南極へ航海する船探しに奔走しました。
 議会へ嘆願書を提出し、当初は千島探検と同じ10万円の資金が与えられると決定したのに、いつのまにか、3万円に減額。
 しかも、文部省大蔵省の両省のあいだで、金をどちらが出すかでたらいまわしにされました。

 「学術探検は文部省の管轄」という大蔵省と「お金を出すのは大蔵省」という文部省の両省の間で、「千島の失敗は糊塗されたが、失敗が2度目になったら、責任を追及されるだろう。南極の失敗をいったいだれがとるのだ」という思惑が、いきかっただけで、結局、どちらも、1円の資金も出さなかったのです。

 日本最初の南極探検は、資金の面でも人材の面でも、完全なる「民間事業」でした。白瀬は軍務を退き、「予備役」となり、自身に借金を負って探検を行ったのです。

 しかしながら、資金をもらえなかったかわりに国からの口出しもされずに、白瀬は自分自身で探検計画をたて、実行することができました。
 もっとも難航したのは船探し。

 大型船を買うには資金が不足し、手持ちの資金で買えそうな船は、報效義会の所有する第二報效丸、ただひとつでした。報効義会の主宰者は郡司大尉。白瀬にとっては、千島探検の因縁がからむ船です。
 過酷な厳寒の千島で命を落とした34名の隊員。白瀬はたった2名生き残ったうちのひとりです。白瀬にとって、第二報効丸は、千島で命を落とした隊員の無念をはらすための、供養の船でもありました。

 積年の恩讐を越えて、白瀬は郡司に頭を下げ、船を譲ってくれるよう頼みました。
 白瀬は千島探検の一部始終を本にして出版し、「郡司大尉が隊員を見捨てた」と、断じました。
 むろん、郡司は白瀬を快く思っていません。千島探検記の中で「隊長の資格なし」と書かれたのですから、白瀬の頼みもがんとして聞き入れませんでした。
 膠着状態の交渉の間に入ってくれたのは、郡司の実弟、幸田露伴でした。

 2万5千円で船を譲渡。船は開南丸と改名されました。
 名付け親を引き受けたのは、東郷平八郎。南極展に、この命名の書が展示されていました。

 白瀬が南極探検に出発できたのは、49歳になってからでした。
 平均寿命50歳の時代に、49歳での南極行きは、精神的にも肉体的にもたいへんなことだったでしょう。

 しかし、白瀬にとっては、11歳のときから38年ものあいだ、願い続けた極地探検がようやく実現するのです。年など感じている暇はありませんでした。

 資金繰り、船の準備、隊員の選出。どれもこれも難航しました。
 大隈重信が中心となって集めた民間からの寄付金が7万円。
 一方、白瀬、アムンゼンと南極一番乗りを争ったイギリスのスコット隊は、40万円の資金を国家から支給されていました。

 アムンゼン隊の南極船フラム号はノルウェーの国家威信をかけて建造された船で、資金資材の準備において、白瀬隊とは比べものになりません。
 しかし、万全の装備を誇ったアムンゼン隊ですら、クレバスやブリザードの難所で、隊員が命をおとしたのです。

 白瀬隊の隊員27人が全員無事に帰国できたことは、極地探検史のなかでも、壮挙といえます。
 南緯80度を越えたのは、世界史上4組目。アジアでは最初のことです。何のデータも経験もない中、手探りでの探検でした。

 白瀬隊の開南丸。
 白瀬が南極探検に使った船は,1910(明治43)に三重県大湊で進水した3本マストのスクーナー型木造漁船(当初199トン)です。たった200トンの木造船でした。

 開南丸の帆だけでは南極の氷海暴風域での航海に耐えられないために、18馬力の中古蒸気機関を購入し、かろうじて補助エンジンとして装備しました。

 南極で白瀬隊と出会ったアムンゼンが、「そんな船でよくも南極までやってきたものだ」と、驚きをかくさなかったという貧弱な船でした。

 南極展に展示されている開南丸の模型。いっしょに並べられている砕氷船に比べると、ほんとうにおもちゃのような、小さな帆船です。

<つづく>
09:45 | 2006/08/30 水

 やっとの思いで手に入れた船でしたが、また問題が起こりました。
 200トン足らずの船で出航すると知り、それまで「記者同行で独占報道」を条件に援助を約束していた朝日新聞社は、手のひらをかえして「失敗するとわかっている暴挙に対して、これ以上支援できない」と、手をひきました。

 資金集めの苦しさは倍加しました。なにもかも不足のまま、出発せざるを得ませんでした。これ以上出航を遅らせたら、朝日以外の支援者も手をひいてしまうかもしれない、というギリギリの選択でした。

 資金の面では不足でしたが、南極から全員生還の壮挙は、国や軍の意向に関係なく白瀬が自分自身で緻密な計画を立て、自分の目で隊員を選ぶことができた結果だと思います。
 隊員の人物を知ると、白瀬の「人間を見る目のたしかさ」が感じられます。

 「探検に必要なのは、船や装備、資材だけではない、一番大事なのは人間だ」と考え、300人の応募者のなかから、白瀬がひとりひとり面接して26人を自らの目で選びました。

 南極展に展示されていた船長の航海日誌や絵、隊員の墨絵による南極風景を見ても、白瀬隊のメンバーが、豊かな感性を持つすぐれた人物であったことが感じられます。

<つづく>
00:08 |

船長野村直吉

 白瀬は、開南丸船長に野村直吉を選出しました。
 野村は、300人の応募者中、まっさきに応募してきたうちのひとりです。
 野村船長は探検隊の右腕として、資金募集の演説もするなど、もっとも重要な人物となりました。

野村直吉の写真と年譜
http://www.city.hakui.ishikawa.jp/bunkazai/rekimin/o_rekimintop/rekishitanhou/ijin/nomuranaokichi.htm

 南極への往復を果たした野村直吉は、詳しい航海日誌と南極の風景画を残しています。
 南極展の展示第2コーナーに、野村船長の細かい字で克明に記録された日誌と絵がありました。

 南極の澄み切った空の青い色が94年後もそのまま残っている美しい絵、心うたれました。
 1912年に描かれた南極の光景、まだ、南極を見た人が世界にわずかだったころの絵です。

 たった200トンの、もともとは漁船であった船で南極までを往復できたのは、野村直吉が卓越した航海術をもっていたからです。
 野村は、緻密な計算とするどい感と技術で、南極の海を渡りきりました。

 1910年11月28日開南丸は東京芝浦埠頭から出港。1911年2月11日ニュージーランド・ウェリントン港から南極へ向かいました。

 しかし、1度目の南極行きは、さすがに失敗でした。
 氷の海を航海するなどということは、まったく経験のないこと。200トンの小さな帆船は氷に阻まれ、シドニーに引き返しました。
 一行は、シドニー近くの海岸キャンプ地(現ウラーラ市)で再起をはかることになりました。

 再度の南極行きをめざし、船長・野村直吉は、多田書記長と一時帰国しました。責任者としてシドニーに残った白瀬に代わり、探検行への寄付をつのるためです。野村は大隈重信へふたたびの資金調達を要請し、演説会を開いて支援を訴えました。

 野村のことば。「今にして我々が帰国すれば、必ずや列国の物笑いを招くであろうと思う。なんとかして再挙を決行して帰還したいから、それだけの資金の調達をお願いしたい」

 しかし、二度目の資金集めなかなかうまくいきません。キャンプ地での足止め待機は半年にもおよびました。

<つづく>
00:05 |2006/08/31 木

27番目の隊員 

 船長野村直吉の航海日誌の絵とともに、隊員三宅幸彦(1884−1965)の墨絵が、94年前の南極の姿を私たちに伝えてくれます。

 三宅は紀州の材木商の家に生まれました。祖父について渡米し、英語を身につけたのち、職を転々としながら世界を放浪しました。
 1911年、貿易商会番頭としてシドニーで働いているとき、白瀬と出会い、通訳兼見習運転士として南極探検隊に参加することになりました。白瀬隊27番目の隊員です。
 三宅が中途採用になったのには、理由があります。欠員があったからです。

 白瀬が探検隊員を募集したとき、次のような条件が新聞広告に載りました。
 募集は、船員十五名。50トン以上の帆船に3年以上乗り組んだ経験が条件。
 陸上隊十名。「身体強壮にしてよく摂氏氷点下四十度の寒気に堪うべき者」

 探検隊員の資格
一、身体強壮にして、身長五尺二寸(一五七・六センチ)以上。
二、年齢二十五歳以上、四十歳未満の者にて、堅忍不抜の精神を有し、かつ多量の飲酒をせず、歯力強健にして梅干の核(たね )をくだき得るもの。
三、家族の係累なく、あらかじめ関係者の承諾を得、さらに後顧の患いなき者。
四、現に兵役に関係なき者。
五、所要の隊員は五名とす。内理学専攻者一名、天文学専攻者一名、労働者一名、大工・鍛冶各一名とす。

 氷点下40度の寒さに耐える条件として、「酒を飲むものはだめ」はわかるとして、「梅干しのタネをくだき得るもの」とは、なにか。これは、白瀬が千島で体験したことがもとになっています。
 氷点下では、はき出す息も食べ物も何もかも凍りつく。凍って固まった食べ物をのどにとおすには、梅干しのタネをかみ砕く強い歯を持っていないと、栄養を補給できないから。

 また、「現に兵役に関係なき者」とは、郡司大尉が日清戦争に召集されるかもしれないからと、さっさと帰ってしまった苦い経験からきたこと。
 この厳しい条件を通って採用された隊員は27名。

 船員の選出は順調にいきましたが、学術要員の人選は難航しました。
 「民間事業」である白瀬の探検に、学術界は冷ややな対応をとりました。そのために、探検に必要な気象天文に通じた者がなかなか決まらなかったのです。

 武田輝太郎(たけだてるたろう)(32歳)福岡県出身、日本気象学会会員。五高教授の助手として天文・気象・動植物を研究した経験をもっています。
 もう一人は、粟根鉄蔵(44歳)広島県出身、測量と天文学、写真記録を担当予定でした。

 しかし、粟根は出航直前になって参加をとりやめまてしまいました。
 新聞社さえ「失敗するとわかっている暴挙」と断じた、たった200トンの船を見て、「こりゃダメだ」と逃げ出したのか、「家族の係累なく後顧のうれいなき者」という条件をのんだはずなのに、後顧のうれいができたのか。

 三宅がシドニーで中途採用となったのは、この「ひとり抜けた穴」があったからであり、また、シドニーの生活には英語が話せる者が必要だったからです。

<つづく>
2006/09/01 金

スパイ嫌疑

 シドニー市から100km離れた海岸のテントで白瀬隊は心細く暮らし、野村が資金を得て戻ってくるのを、待ちました。「テントでの待機生活」というものの、要するに野宿です。
 地元のオーストラリア市民からみれば、「得たいの知れない野宿者集団」にすぎません。
 英語がわからない隊員たちの生活を、三宅幸彦が通訳として支えました。

 南極探検から日本へ帰国後も、三宅は日本には落ち着かず、ボルネオなどで事業に従事しました。
 子孫の消息などはわかっていませんが、彼の遺した南極の墨絵は、今も静かに南極の美しさを伝えています。

 シドニー待機中も波乱の日々が続きました。
 シドニー・パースリー湾に面したキャンプ地の近くに海軍基地があったことから、「彼らは日本のスパイではないか」と、地元の新聞に書きたてられ、疑惑の目を向けられてしましました。

 苦境におちいった白瀬隊を救ってくれたのは、シドニー大学の地質学研究者デビット博士。博士は白瀬隊に出会う2年前の1909年に極地帯を探検し、南緯72度2分東経155度16分に南磁極があることを発見した人です。

 デビッド博士との出会いは、白瀬の「南極探検の理念」に大きな影響を与えました。博士の南磁極発見を知り、「極点一番のりだけが価値があるのではない。南極での学術調査すべてが人類にとって大きな貢献となる」という考えが、白瀬隊に理解されるようになりました。

 このキャンプ地跡(現・ウラーラ市)の記念碑には次のように記されています。
「 白瀬隊の最南地点到達90周年と日本とオーストラリアの初期の友情を記念し、両国の永遠の友好の証しとして、この記念銘板を設置します。」

 オーストラリア大使館のHP、デビット博士と白瀬の写真など
http://www.australia.or.jp/gaiyou/japanese_resources/pdf/06_shirase.pdf

 さて、一時帰国組の野村船長らが奔走したものの、南極再挑戦の資金はなかなか集まりませんでした。
 後年、白瀬はこの時の不足資金(船員の給与、食料、資材その他)を借金として背負い、後半生すべてを借金返済のためについやすことになります。

 積み込んだ資材食料は十分とはいえませんでした。しかし、南極の天候を考え、1911年11月、再度の挑戦がはじまりました。
2006/09/02 土

氷山の海

 再びの南氷洋暴風域では、日本の海では出会ったこともない高さの波が開南丸をおそいました。帰国後の新聞談話で、白瀬は「40尺(約120m)の高波」と表現しています。
 暴風域をぬければ、流氷と氷山の海です。
 氷山にぶつかったら、ひとたまりもない200トンの開南丸。

 白瀬たちが南極に達した3ヶ月後の1912年4月14日、豪華客船タイタニック号が北極海の氷山に接触し、翌日未明にかけて沈没。
 総トン数4万6千328トンのタイタニックでさえ、氷山に接触しただけで沈没してしまったのです。

 200トンの船での氷海航行を「暴挙」と言われたけれど、白瀬には、「大きな船だから大丈夫というわけではない」という確信がありました。これも千島越冬の体験からきています。凍りついたオホーツクの海を、小さな「ロシア密漁船」が航行しているのを目撃していたからです。

 大きな船でも大丈夫ではない、というのはタイタニックの沈没をみればわかりますが、それにしても、氷山の海を、たった200トンの開南丸が航海したこと、今考えても、驚嘆に値します。
 最新の設備を整えた現代の砕氷船でさえ、南極海暴風域と氷山浮かぶ海は危険きまわりないものであり、毎回何がおきるかわからない緊張の航海だといいます。

 野村船長と白瀬は意見をぶつけ合いながら氷塊の海をきりぬけ、1912年1月15日、南緯78度30分に至りました。
 もはや船では進めない氷原までたどり着いたのです。
 探検隊は「観測隊」「突進隊」に分けられ、突進隊は極点めざして氷海から氷原へと進みました。

 白瀬たちが南極にたどり着く前に すでにアムンゼン隊は、1911年12月14日、南極点到達をなしとげたことを知り、白瀬は「極点一番乗り」という目標を、「極地学術調査」に切り替えました。

 デビット博士と知り合ったことによって、白瀬は「一番乗りだけを目標とすべきではない、南極を知ることは、人類にとって、計り知れない価値をもたらす」と、悟りました。
 白瀬は北極一番乗りを逃したときのような落ちこみをすることなく、極地探検を続行できたのです。

<つづく>2006/09/03 日

ふたりのアイヌ人花守信吉と山辺安之助

 観測隊は、開南丸を拠点に、さまざまな南極調査に従事し、白瀬隊長ほか5名の突進隊は、犬ぞりで極点をめざしました。
 1912年1月16日出発。1月28日、南緯80度5分の地点に到達。
 極点は目前でした。しかし、過酷な天候が行く手をはばみました。

 南極展の展示写真。白瀬隊を撮影した記念写真のなかに、アイヌの風貌の人がいました。
 「あれ?アイヌの人みたいだけど」と思いましたが、詳しい説明は展示写真についていませんでした。

 南極探検隊にアイヌの人が加わっていたことを、これまで知りませんでしたが、白瀬隊が犬ぞりを使用したのなら、アイヌの人が参加したのは考えられると思いました。
 しかし、犬ぞりの説明のところにも、「犬ぞりを担当した人」の解説はみあたりません。

 墨絵を遺した三宅幸彦と野村船長の名は掲示してありましたが、南極展にふたりのアイヌ人の名は、どこにも書いてありませんでした。
 名前は、ネット検索でみつけました。

 樺太アイヌの花守信吉(はなもりしんきち)と山辺安之助(やまべやすのすけ)です。
 山辺と花守、ふたりがカラフト犬の統率と犬ぞり走行を受け持ちました。

 私が40余年前に読んだ子供向けの「南極探検記」に、花守と山辺がアイヌ人であるという記述が加えられていなかったのは、当時でもまだアイヌの人が、その出自を隠して生きなければならないような社会情勢があったからかもしれません。

 アイヌの人たちが、その文化を誇りとして生きられる社会になったのは、萱野茂さんらの長い努力があってのち、つい最近のことです。
 アイヌ文化振興法(「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及び啓発に関する法律」)が制定されたのは、今から9年前の1997年のこと。

 アイヌの民族性とその文化の価値を国として初めて公認し、アイヌ文化の振興とアイヌ民族としての誇りが尊重される社会への歩みがやっと実現したのです。
 それまではなんと、「旧土人法」でした!
 アイヌが自由にかけめぐっていた大地を勝手に奪っておいて、アイヌの人たちを「旧土人」であると差別したのです。

 花守信吉(アイヌ名シシラトカ 生没年不詳)樺太のアイヌ。樺太最大のアイヌ部落出身。
 山辺安之助(アイヌ名ヤヨマネク)(1867〜1976)。
 花守と山辺は、「南極で死ぬかもしれないけれど、南極行で実績をあげ、アイヌ民族の地位向上をはかりたい」と願って、あえて危険な探検隊に志願しました。

 白瀬隊の南極走行に、犬ぞりはもっとも大切なものでした。
 馬そりを使ったスコット隊は全滅しています。寒さに強い犬ぞりこそは、南極輸送の要でした。
 白瀬隊が一人の死者もださず、全員無事南極から帰還できたのも、カラフト犬の優秀さがあり、犬を的確に取り扱い、犬ぞりの進路を確保したふたりのアイヌ人の優秀さがあったからだと思います。

 明治時代のアイヌは、強い差別をうけており、もし、「官製の南極探検」だったら、アイヌが隊員になることは難しかったのかもしれません。しかし、白瀬は、偏見なく「もっとも的確な技術を持った者」として、アイヌ人を正式な隊員として迎え入れ、犬ぞりの係りとして信頼しました。

<つづく>2006/09/04 月

 白瀬の「南極探検隊・隊員募集」の条件として「係累をもたないこと」という一条がありました。これは、南極で死ぬ可能性を考え、あえて、家族係累がいない者を選んだのです。花守も山辺も独身、山辺は両親を早くに亡くし、係累はいませんでした。

 山辺安之助は、1967年、樺太島(現ロシア・サハリン州)弥満別(ヤマンベツ)に生まれました。
 樺太千島交換条約によって樺太がロシア領になったため、841人の樺太アイヌとともに北海道へ移住。両親がすでに亡くなっていたヤヨマネク(山辺)は、親戚につれられて北海道へ着きました。

 1904年の日露戦争のとき、山辺ら樺太アイヌは、日本軍の物資輸送に協力しました。
 日露戦争後、1906年、樺太が日本領に編入。北海道に強制移住されられていた山辺は、生まれ故郷の樺太へ帰りました。

 山辺は、樺太アイヌにとって最初の学校を樺太落帆村(現サハリン州レスノエ村)に建設したほか、樺太・富内村(現サハリン州オホーツコエ)の村長として、終生アイヌ民族の誇りをもって、同胞のために働きました。
 1910年、山辺と花守は白瀬の「南極隊員募集」を知り、村内のカラフト犬を無償で提供。ともに、自ら犬の係として働くことを申し出ました。

 後年、山辺は、アイヌ人として初めて日本政府から勲八等瑞宝章に叙せられました。
 日露戦争のときの功績をあらためて認める、というのが叙勲の理由であって、アイヌのために学校を建てたり村のために働いたりという功績を認めてのことでもなく、「南極での功績を認める」でもありません。

 このとき受けた金一封をアイヌのために寄付したのをはじめ、山辺はアイヌの生活向上のために生涯つくしました。

 花守と山辺の名を探してネット検索中、
「 山辺安之助氏(1867〜1923)の子孫を探している。山辺氏は、そりを引く樺太犬の担当として、白瀬中尉の探検を支えた。自叙伝「あいぬ物語」や、言語学者金田一京助氏による著作で、アイヌ民族の生活向上に尽くした人生が広く知られている。今年6月にサハリンで行う追悼行事を前に、同会では「ぜひ名乗り出てほしい」と願っている(20014.16)」

という「たずね人掲示板」のコメントをみつけたのですが、花守と山辺の顕彰碑落成に、子孫が立ち会ったという記事は見あたりませんでした。

 花守と山辺の功績を称えた慰霊碑が、稚内市サハリン課などの協力により、サハリン州レスノエ村(旧落帆村)に建立されました。
 建立者は、白瀬南極探検隊慰霊碑再興会。

 2000年に功績を記録した木碑が建てられ、2004年に御影石にステンレス板をはめ込んだ顕彰碑がたてられました。

碑文。
『 1910年 この地より山辺安之助と花守信吉と犬達は南極探検に発つ。
彼らを偲びつつ日露友好の記念としてこれを建立する
2004/7/7 白瀬南極探検隊慰霊碑再興会 』

サハリン島コルサコフ地区レスノエ村(旧樺太・落帆村)。サハリンの南東部、トゥナイチャ湖の北岸にある小さな集落です。
 ふたりの墓のありかは、もはやレスノエ村の人にもわからなくなっているそうです。

<つづく>2006/09/05 火

大和雪原

 山辺安之助と花守信吉が大切にしたカラフト犬26匹。
 ふたりにとっては、「家族」の犬たちでしたが、白瀬隊にとっては「南極を走る足」。
 白瀬隊が船から降ろしたカラフト犬26匹のうち、23匹が氷原の走行に耐えられるとされ、10匹ずつが2台の犬ぞりを牽きました。

 2台の犬ぞり、一台は花守、一台は山辺が操縦します。
 白瀬隊長らを乗せて、犬ぞりは白い氷原を疾駆しました。
 激しい寒さ。吹き付ける風。走っても走っても、極点は白い氷原のさき。
 犬ぞりは限界まで走り続けました。

 悪天候が突進隊の走行をはばみました。
 白瀬の胸中「一歩を進むあたわず。進まんか、死せんのみ。使命は死よりも重し」
 しかし、ついに1912年、2月28日、極点到達を断念。

 白瀬隊は、西経156度37分・南緯80度5分の地に日章旗をうちたて、一帯を大和雪原(やまとゆきはら)と命名しました。

 大和雪原に建てた旗を囲む突進隊の写真が、南極展に展示されていました。
 深く首をうなだれた姿、南極に日章旗をたてた晴れがましさよりも、まるで半旗をかかげた通夜のような雰囲気です。

 このうつむく姿、どれほどこの地点での退却が無念きわまりないものであったか、白瀬のくやし涙が見えるようです。
 直線距離にしてあと極点まで千百キロでした。

 「使命は死よりも重し」しかし、白瀬は、南極点に立つ栄光よりも隊員の命を優先しました。
 探検に必要な食料がつきかけたのです。
 「隊員の命をまっとうしてこそ、探検の成功である」白瀬は、千島での教訓を忘れませんでした。

 南極点一番乗りのアムンゼン隊から遅れること1ヶ月。スコット隊は白瀬隊に先んじて極点に到達しました。しかし、馬そりを使ったスコット隊は、馬が氷原に耐えられず食料もつき、帰路全滅していました。
 
 白瀬隊が到達した大和雪原は、南極の大陸上ではなく、氷原が海に押し出されてできた棚氷の上にあります。大和雪原は、ロス棚氷の上の地点です。
 地球温暖化の影響が南極にも押し寄せています。ロス棚氷も、どんどん溶けて、大きな氷の固まりが海に崩落していっているそうです。
 大和雪原が、溶けて無くなってしまうなどということがないように、、、、

下記HPの中程に大和雪原に立つ白瀬の写真があります。(著作権の切れた写真画像を集めているサイトです)
http://www.tanken.com/nankyoku.html

<つづく>2006/09/06 水

花守と犬たちとの別れ

 花守信吉と山辺安之助、歴史に残る快挙にたずさわり、犬ぞりによって隊員の命を預かる重要な働きをしたのに、帰国後の花守は不遇な一生をおえました。

 すでに天候悪化の時期をむかえた南極を去り、開南丸で無事戻るために、探検に要した荷物はできる限り少なくしなければなりませんでした。
 隊長が下した決断は、「犬26匹のうち、連れ戻ることができるのは6匹のみ」。
 20匹の犬は船に乗ることを許されませんでした。

 犬たちは悲しげに泣き続け、船が離れていくのを見送りました。
 「南極を離れる際に犬との別れに耐えられず、花守は泣き続けた」と、白瀬は書き残しています。

 故郷に戻った花守と山辺は、仲間のアイヌから「アイヌ・チャランケ(査問)」を受けました。チャランケは、アイヌの裁判のようなものです。
 必ず連れ戻ると約束した犬を置き去りにしたことへの査問。

 犬を南極においてきたのは山辺や花守の責任ではありません。隊員の命を優先し、南極暴風域から生きて戻るためのやむを得ない措置でした。
 しかし、犬を家族同様に思うアイヌにとっては、家族をおいてきたのと同じ、許されないことだったのです。

 山辺はアイヌ同胞のために一身を投げ出すことで、後半生をすごしました。
 山辺安之助は、南極から帰国後、アイヌ語研究者金田一京助の求めに応じて自伝を語り、「あいぬ物語」として博文館から出版されました。『金田一京助全集』に所収。

 花守は、犬を置き去りにしたことの呵責から立ちなおれないまま、不遇な生涯をおえたそうです。

 探検記に興味をもってきた私なのに、これまで知らなかった花守と山辺の名。南極探検の壮挙に、花守と山辺のふたりのアイヌ人が加わったことを誇りに思い、ふたりの功績を忘れないようにしたいと思います。

<山辺と花守についてくわしく知りたい方の参考として> 
佐藤忠悦「南極に立った樺太アイヌ―白瀬南極探検隊秘話」東洋書店2004
金田一京助翻訳編集、山辺安之助著「あいぬ物語」金田一京助全集所収

下記HPのページ一番上に佐藤忠悦の著作紹介、下の方に花守と山辺の写真があります
http://homepage1.nifty.com/~hassy/Ochiho.html

 白瀬隊からのち44年後の南極観測隊。第1次南極観測隊撤退の際に置き去りにされたタロとジロのお話はよく知られています。(タロジロ物語は9/09に記載)
 タロとジロが自力で生き延びたことを考えると、白瀬隊が南極の地においてきて、花守信吉を嘆かせた20匹のカラフト犬たち、おそらくは協力して狩りをして、何匹かは南極で生き続けたのではないかと思います。

 白瀬隊が犬を南極に放ったこと、花守には痛恨の悲しみとなりましたが、犬への扱いとして、次の例とも比較すべき。
 南極点に一番乗りをしたアムンゼン隊は、用済みになった犬を、遠慮無く食料としていた、、、、

 花守信吉にとって「アイヌの家族」を南極から連れ帰らなかったことは、一生の悲しみであったろうけれど、20匹のカラフト犬に野生の大地が与えられたのだ、と、私は思っています。

<つづく>2006/09/07 木


白瀬探検隊がのこしたもの

 南極展の展示物のなかに、白瀬から大隈重信あての書状がありました。巻紙に筆で記された立派な書です。探検隊援助への感謝の手紙です。
 白瀬探検隊を支えた大隈のため、白瀬は開南丸の接岸した湾を「大隈湾」と名付けました。

 早稲田大学には、探検隊同行カメラマン田泉保直技師が撮影した映画フィルムが遺されています。白瀬隊長以下27名の姿が15分間の映像に刻まれている映像、図書館AV室にて閲覧可能。
 そのほか、極地研究所にもこの映像フィルムがダビング保存されています。

 のこされた記録映像も、私たちにとって、貴重な宝です。映画というメディアが誕生したばかり、明治45年の映像記録そのものが、映画史ドキュメンタリー史の上でも貴重です。

 写真や映像のなかにのこされた白瀬探検隊の姿。また、白瀬の著書『南極探検記』も、大切な記録のひとつです。
 さきにのべたように、白瀬矗がのこした物品は多くありません。「寝袋」「防寒手袋」「南極でつかったすりこぎ」、、、、
 だが、何より、彼は私たちに「探検精神」「未知の世界へ挑戦する心」をのこしてくれました。

 白瀬京子は、秋田県金浦町に設立された白瀬南極探検隊博物館初代館長となりました。
 京子は白瀬矗の孫にあたり、「雪原へ行く」という白瀬の伝記を執筆出版しました。
 白瀬の妻の胸中など、家族子孫でなければ知りえないことなども書かれており、白瀬自身の探検記録とともに、貴重な伝記です。

 白瀬京子は、1970年34歳のとき、3人乗り小型ヨットによる日本初の世界一周航海を成し遂げた女性です。
 白瀬はコック長。長といっても、コックはひとり。船長と機関長の男性ふたりとともに、3人のチームで、堂々世界一周に成功しました。
1969年5月5日〜1970年8月22日までの、475日の西周り一周でした。

 窮乏生活の中で一生を終えた白瀬矗でしたが、孫娘が小型ヨット世界一周航海を成し遂げたのを知って、なんだか、とてもうれしい気がします。矗の探検精神がしっかりと受け継がれた、と感じるのです。

 南極展は、1956年第一次南極観測から50周年を記念する展示が中心なので、白瀬隊についての話は、ごく簡単な説明しかなかったため、南極展を見たあと、白瀬矗について調べはじめました。

 多くの探検ファンと同じく、これまでは、昔読んだ伝記でしか「白瀬中尉」の姿を知りませんでした。
 今回、白瀬の生涯を知り、想像以上の波瀾万丈の一生であったことがわかりました。

 以上、春庭コラム「白瀬矗の南極探検・未知への挑戦」は、「南極展」に展示してあった「白瀬矗のすりこぎ」「野村直吉の航海日誌」「三浦幸彦の南極光景墨絵」「開南丸の模型と命名書」「白瀬隊の写真」などの展示物を見た感想から発展し、春庭が下記図書やリンクをつけたHPを参照しながら構成執筆いたしました。

@参考
白瀬矗「私の南極探検記」日本図書センター
白瀬京子「雪原へ行く」秋田書房

 また、稚内市役所に「サハリン課」がある、というようなことも、今までまったく知らなかった。調べ出すと、興味深いことが次々に見つかります。
 書きはじめたときは、「極地研究所」「南極物語」「南極展」の3回で終了の予定だったのですが、21回連載となりました。

 南極展は9月3日で終了しましたが、春庭の「南極展」紹介、エピローグとして、タロジロの話、砕氷船の話が続きます。

<つづく>2006/09/08 木

未知の世界

 南極展、南極から運ばれた氷にさわってみるコーナーもありました。
 月から南極へと届いた隕石と火星からの隕石にも「さわってみよう」というコーナーがあり、隕石にタッチできました。

 もちろん、私は好奇心丸だしで、自由研究のメモをかかえた小学生といっしょにさわってみました。
 南極の氷は、雪が圧縮されて固まってできたものなので、不透明です。

 タッチしてみて、楽しかったけれど、これ、小さく割って、「南極の氷入りジュース」
とか、「南極氷のオンザロック」とか作って、南極展おみやげ販売コーナーで飲めたらいいのに、って思いました。「ペンギンぬいぐるみ」とか、「南極まんじゅう」とかより、お金出す気になるのになあ。
 南極の氷、「未知の味」への挑戦!してみたかった。

 「未知の世界」への挑戦。宇宙や深海や極地だけが「未知の世界」ではありません。

 先日偶然見たドキュメンタリー(日本テレビ放映8/27日)も、感動的な未知への挑戦でした。
 ヨーロッパアルプス・ブライトホルン(標高4164m)登山を行った、隊長・野口健さんと隊員30人の記録。

 筑波大学で開発された2倍の力を出せるロボットスーツ、このロボットスーツの名前はHALです!
 HALを着た理学療養士松本武志さんが、交通事故後下半身麻痺の内田清司さんをおぶい、隊長野口さんの指導によりアルプスを一歩一歩登っていきます。
 他の隊員は、筋ジストロフィの高校生・井出今日我(きょうが)さんをそりに乗せてひいて上ります。

 不自由な体でもアルプスに登ってみたいと望んだ内田さん井出さんにとっても、アルピニスト野口さんにとっても、ロボットスーツを開発した山海教授にとっても、大きな「未知への挑戦」でした。

 大切な文化への「未知への挑戦」を取りやめた例もあります。
 まだ全巻が完成していないアイヌユーカラ。
 金成まつ(1875〜1961)が語り、ローマ字で記述されたノートの日本語訳、金田一京助が9話を翻訳したあと、アイヌ文化継承をめざす萱野茂さんが日本語訳を続けてきました。

 しかし、萱野さんが2006年5月に亡くなると、文化庁は予算がないからと、翻訳の中途打ち切り決定、未知への挑戦を放棄しました。
 米軍へは3兆円の「思いやり予算」を出すのに、アイヌ語翻訳の予算百万円は出せないという。

 中間子という未知の存在の探求をつづけ、後半生は世界平和のために尽くした湯川博士のことばです。
『 未知の世界を探求する人々は、地図を持たない旅行者である。地図は探求の結果として、できるのである。目的地がどこにあるか、まだわからない。もちろん、目的地へ向かってのまっすぐな道など、できてはいない。

 目の前にあるのは、先人がある所まで切り開いた道だけである。この道を真直ぐに切り開いて行けば、目的地に到達できるのか、あるいは途中で、別の方向へ枝道をつけねばならないのか。「ずいぶんまわり道をしたものだ」と言うのは、目的地を見つけた後の話である。 』湯川秀樹「旅人」より

 さまざまな「未知への挑戦」
 私も、わたしなりに「未知への挑戦」を 続けます。

@参照パンフレット(極地研究所で8/11にもらったもの)
「Japanese Anterctic Activities  日本の南極観測」
「南極 地球を考える情報ポケット 環境の鍵を握る氷の大陸」南極地域観測50周年
「昭和基地の生活(南極地域観測隊設営部門)」

<南極展 おわり>
2006/09/12 火



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