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話しことばの通い路
Workshop for Nipponianippon Communicative Language& Culture Studies
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ポカポカ春庭のニッポニアニッポン事情
  
交流ニッポン激流史 古代〜近世編

日付2005 交流ニッポン激流史 古代〜近世編
05/15 留学生の出身国と日本の交流史
05/21〜23 鑑真和上(1)〜(3)
09/19、20 井真成墓誌(1)(2)



日本事情・交流史>

留学生出身国と日本の交流史
2005/05/15 日

 1996年から、学部留学生の「日本事情」という教科を受け持っている。
 「日本事情」という科目は、「日本に関する内容」であるなら、何を扱ってもいい。学校により、「日本の社会と習慣」もあるし、「年中行事」やら「日本地理、全国の特徴と名産」もある。また教師の専門によって、「文学」あり、「現代サブカルチャーからみた日本社会」あり。

 私はオーソドックスに「日本の歴史と文化」を、広く浅く扱っている。深く教えるほどこちらの知識がないので。

 「日本の歴史と文化」について、留学生が興味をもって取り組むことと、自国と日本が作り上げてきた交流の歴史を調べて発表することを授業のメインにしており、10年の間には、さまざまな人物・文物の交流について知ることができた。

 学生達は、交流史の課題の取り組むとき、まず何をとりあげたらいいのか、誰について調べたらいいのか考える。自国の人物、文物がどのように日本と関わり合ってきたか、日本のだれが自国にやってきて交流の足跡を残したか、それぞれ調べてレジュメを書き上げる。

 「将棋」の交流について、古代に中国から日本へ将棋が伝わった歴史や、日中のルールのちがい、日本で活躍している中国の棋士などについて発表した学生もいたし、琵琶や琴がどのようなルートで伝播し、日本の正倉院に残されたか、また琴の糸の数や奏法のちがいを比較してレポートした学生もいた。
 「饅頭伝来記」というレポートで、中国の饅頭が日本へ伝わった経緯や、饅頭に関わった人物の報告も面白かった。

 タイの学生は、過去何人かが「山田長政」を取り上げた。ほかにもタイで活躍した日本人はいるが、一番資料が集まりやすく、とりあげやすい人物であるのだろう。

 韓国からの留学生。安重根を取り上げた学生もいたし、従軍慰安婦問題を論じた学生もいた。
 去年はヨン様ブームの影響か、ふたりの学生が「韓日映画の交流」というテーマで発表したいと言うので、テーマを分けた。ひとりには、日本の映画がどのように韓国で紹介上映されてきたかを主に発表させ、もうひとりには、韓国映画の日本での上映とその反響について調べるようにアドバイスした。
 「先生の好きな韓国映画がありますか」という質問には『西便制』と『八月のクリスマス』と答えた。

 日本民芸館創始者の柳宗悦をとりあげた韓国の学生に「なぜ彼を選んだのか」と質問したら、「朝鮮陶器や民芸品の芸術性について、彼が評価してくれたおかげで、韓国の人も自国の芸術のすばらしさに気づいたからです。柳宗悦は、芸術において朝鮮韓国を高く評価しただけでなく、植民地時代であっても、韓国の人を差別しない思想をもって活動をしていた」と、理由を説明した。

 1919年に起きた朝鮮独立運動の際、多くの日本人有識者が沈黙した中で、柳は「朝鮮人を想う」という文を発表し、朝鮮の人々へ寄せる思いを述べている。

 それぞれの国の人物がどのように日本へ来て活動したか、また、日本の人が自国へきてどんな事績を残したか、交流の歴史を調べていく学生は、「私も両国の交流のために役にたちたい」という気持ちを新たにする。

 しかし、最近の中国情勢で「中国人は中国に帰れ」という心ない言葉を投げかけられた留学生がいるし、「どんなことが起るかわからないので、電車のなかでは友達とも中国語で話さないようにしている」と、気をつかいながら通学している学生の話もきいた。

 文京区の日中学院に石が投げこまれた事件もあった。
 どのような主義主張があろうとも、他国の領事館に石をなげたり塗料を壁にぶつけたりする破壊行為は、その主張をよい方向へ進展させることができない方法だ。同じように、中国語を学ぶ日本人学生と日本語を学ぶ中国人学生が集まっている学校に石を投げるなど、何の主張にもならない卑劣な行為だ。

 意欲を持って留学してきている彼らの、「両国の交流に携わっていきたい」という志を潰すような出来事が、これ以上続かないように、願っている。<つづく>
14:04 |



鑑真和上
2005/05/21 土
(1)

 武蔵国分寺の史跡を訪れたみどりの日、国分寺国分尼寺建立を命じた聖武天皇の事績を復習した。
 聖武天皇は東大寺と大仏の建立、国分寺建立のほか、日本の仏教史に残る事業として、「戒律を伝えることのできる僧」の招聘をおこなった。この招聘に応じて渡海してきたのが、鑑真である。

 例年、中国の学生に人気の「交流史上の人物」は、古代なら鑑真和上、近代は孫文、魯迅。
 鑑真和上は、中国から日本へ来た人のなかで、「尊敬する人物」として、中国人学生がよく選択する人物のひとり。

 日本へ仏教戒律を伝えることを請われ、さまざまな不幸な出来事を乗り越えて来日した意志の強さ、日本に残した足跡の大きさは、人々の心をうつ。
 5度の渡航失敗、度重なる遭難で失明するに至ったなどのエピソードはすでに知られている。

 よく知られた事績を手際よくまとめることも交流史の基礎として大切なことだが、できれば、日本の資料になく、中国でのみ知られていたようなエピソードや資料を教えてくれたら、花丸の「優」をあげるのだけど。
 鑑真が生まれた江陽県のこと、最初に修行していた寺、長安時代のようすなどは、日本の研究も進んでいるだろうが、まだ埋もれている資料などが中国にあるかも知れない。

 鑑真は、唐時代688年楊州江陽県で生まれた。鑑真が江陽県から長安(現在の西安市)へ赴いたのは707年のこと。
 753年に日本へ渡航するまで、鑑真は長安で40年以上の仏道修行を続けた。唐の高僧として育てた弟子は4万人に上る。

 私が昨年、留学生に紹介した人物は、井真成。日本から唐へ留学した学生のひとり。
 717年、19才のとき吉備真備、阿倍仲麻呂らと共に唐に渡り、734年一月に36歳で急病により長安で死去。真成はたいへん優秀で、皇帝にも期待されていた人物だった。その死を悼んだ玄宗皇帝より尚衣奉御(尚衣局の責任者・従五品上)を追贈されたことが墓誌に残っている。

 日本への帰国後、奈良で活躍した吉備真備や、望郷の思いを和歌に残しながら唐に骨を埋めた阿倍仲麻呂らは知られてきたが、井真成は2004年10月に墓誌が発見されるまで、歴史の中にうもれていた。

 717年に唐へ渡った井真成は、亡くなるまで17年の間、鑑真が暮していた同じ長安で勉学を続けていた。ふたりは長安のどこかで出会っていたかも知れない。
 長安は当時世界最大の都だったが、いかに人口が多くても、皇帝の期待を受けた日本からの留学生と、高名な大徳の鑑真は有名人同士。出会ったことがない、とはいえない、と想像している。
 井真成が鑑真の寺を訪れた記録など、探し出す学生はいないものだろうか。(つづく)
08:48 |

2005/05/22 日
日本事情・交流史>鑑真和上(2)

 奈良時代の日本、仏教が盛んになっていたが、正式な仏教戒律を教えられる僧はいなかった。日本から唐へ渡った留学僧の普照(ふしょう)と栄叡(ようえい)は、戒を授けることのできる高徳の僧を日本へ招聘する役目を負って長安に赴いた。

 普照と栄叡に来日を請われたとき、鑑真は弟子達に「日本の仏教のために海を越える気持ちのある者がいるか」とたずねた。
 弟子達はだれも返事をしなかった。当時の渡航技術で海を渡るのは、命をかけて行う危険な行為。小さな新興の島国から「来て欲しい」と請われても、だれもためらうことだった。

 630年から894年までに約20回渡航した遣唐使船は、平底で不安定な上、天候の悪さや重量過剰などで、遭難しやすいものだった。乗り組むには、決死の覚悟が必要だった。
 誰も進んで日本へ行こうとはしないことがわかり、鑑真は、「それなら私が日本へ行こう」と言った。

 唐の皇帝は、鑑真の徳を惜しみ、渡航を禁止した。鑑真の渡航は「密航」となった。
 禁をおかして出航したことを密告されて連れ戻されたり、海賊に追われたり、嵐に船をこわされたり、5度の渡航失敗の末、63歳の鑑真は失明した。

 753年、6度目の渡航で、ようやく九州薩摩の国、阿多郡秋妻屋の浦(現在の坊津秋目)に着いた。来日を発願してから11年目のこと。
 奈良の都へ着いて以後、聖武天皇光明皇后はじめ僧たちへ戒を授け、奈良仏教のために尽した。(授戒とは、正式な僧となるための戒律(四分律)を与えること。これを受けていないものは俗僧とされた。)

 鑑真は759年72歳のとき、律学の根本道場として唐招提寺を創建。多くの僧が教えを受けた。 
 763年5月6日に76歳で結跏趺坐(けっかふざ)のまま入滅。

 この日付の5月6日は旧暦だと思うが、若葉は鑑真によく似合う気がする。
 芭蕉が唐招提寺の鑑真和上像を拝観した時期も若葉のころ。紀行『笈の小文』のなかに芭蕉が鑑真の生涯に感銘を受けて作った句がある。

 若葉して御目の雫 ぬぐはばや(芭蕉)

 鑑真像は、たいへん写実的な像と言われている。鑑真の病がもはや回復しないだろうと思われたとき、弟子達は和上のお姿を残そうとし、和上の入滅後、早い時期に像が造られた。
 私は鑑真像を2度拝観することができた。20年ほど前と、今年はじめ。

 鑑真像をはじめて見たのは、20年くらい前のこと。
 上野の国立博物館で公開された鑑真像をみつめたとき、私は深い宗教的な感銘を受けた。
 もし鑑真が1200年前になくなったお坊さんでなく、現代の人だったら即座に帰依して出家したいと思うほど、感激した。この世で苦しむ者悲しむ者すべての悲哀を受け止めてくれる人のように思えた。(つづく)
12:31 |

2005/05/23 月
日本事情・交流史>鑑真和上(3)

 2005年1月12日から3月6日まで、国立東京博物館で鑑真像が公開された。
 現在、奈良の唐招提寺が改修中であるため、ご本尊の国宝・盧舎那仏(るしゃなぶつ)坐像はじめ、梵天(ぼんてん)・帝釈天(たいしゃくてん)像、四天王像と、鑑真和上像が巡回展示されているのだ。
 今回は、金堂と御影堂を再現する展示方法がとられ、ご本尊は金堂を模した空間に配置されている。ご本尊はこれまで寺の外にでたことはなく、寺外初公開。

 唐招提寺で拝観するときと異なることは、仏様の裏側にまで回って全身を観ることができること。後ろ姿まで全部見られるのは貴重な機会でもあるが、なんだか仏様に申し訳ないような気もする。すみませんね、おさわがせして、と思いながらもしっかり裏側へ回って見てきた。

 鑑真像がある御影堂の再現。東山魁夷(ひがしやまかいい)の畢生の大作である障壁画を合わせてみることができた。鑑真誕生の楊州江陽県の風景など、迫力ある絵、また静謐な絵、すばらしいものだった。
 ガラスの箱におさめられた鑑真像、今回、私は「すぐれた芸術品」という気分で観賞した。前回のような宗教的な気分というのは、一生のうち、そうちょくちょくあるものではなかったのだろう。

 そして、今年の鑑真像は、私にはなぜかとても悲しそうなお顔にみえた。伏せられたまぶたの奥に、悲しみが宿っているように思えたのだ。その悲しみをおひとりで背負わずに、私たちにも引き受けさせて欲しいと思えるような、寂しげなお姿だった。
「若葉しておん目をぬぐいたい」と、芭蕉が感じたのもこのようなお顔だったろうか。

 私が東博で唐招提寺展を見たときは、まだ日中間の軋轢が表層には出ていないときだったのだが、今思うと、鑑真さんは、なかなかスムーズに仲良くできない両国の状態を見通し、悲しんでいたのではないかという気さえしてくる。

 次ぎに鑑真像に出会えるのはいつのことになるだろう。奈良に旅行できたとしても、鑑真像の公開は年に一度のご開帳のときだけ。
 鑑真和上。この次ぎお目にかかるときは、両国のあいだの誤解やわだかまりが氷解していますように。(交流史つづく)
08:36 | コメント (4) | 編集 | ページのトップへ



井真成墓誌
2005/09/19 月
(1)

 2005年の中秋の名月、十五夜は9月18日夜。昨夜のお月様、きれいでした。
 さまざまな人がさまざまな思いをいだいて、この十五夜の月、望月(もちづき)を見上げたことでしょう。

 1300年以上の昔、「望月望郷の歌」を中国の地で詠んだのは、阿倍仲麻呂。
 古今和歌集巻第九羇旅哥より

 『天の原 ふりさけ見れは 春日なる み笠の山に 出し月かも

 この歌は昔安倍仲麿といひける人は、唐土(もろこし)に、物ならはしに、遣しけるに、あまたの年を経て、え帰りまうでこざりけるを、此の国より又使まかりいたりけるにたぐひて、まうできなむとていでたちけるに、明州といふ所の海べにて、かの国の人むまのはなむけしけり。夜になりて月のいと面白くさし出でたりけるを見て、よめるとなむ語り伝ふる』

 西暦753年(天平勝宝5)、仲麻呂は717年から37年間に及んだ中国での生活を終えて帰国しようと、遣唐使藤原清河と共に遣唐使船に乗り込んだ。
 しかし、船は嵐にあい、仲麻呂の船はベトナムへ漂着した。こののち、仲麻呂は帰国することあたわず、中国の玄宗皇帝に仕えて一生を終えた。

 遣唐使船は4隻が船団となって海を渡る。
 仲麻呂の乗った船と別の一隻には、鑑真が乗っていた。仲麻呂が「日本へ来て仏教を教えてください」と懇願し、共に日本へ向かうことになったのだ。
 鑑真の船は嵐に翻弄されながらも九州にたどり着いた。日本への渡航を試みて、5度失敗し、6度目の日本到着だった。

 今年5月の「いろいろあらーな」に、留学生の授業「日本と自国の交流史」の紹介や、鑑真の話を書いた。
 阿部仲麻呂といっしょの遣唐使船で717年に中国へ渡った留学生の中で、日本へ帰国できなかったもうひとりの人物、井真成(セイシンセイ、いのまなり)の墓誌を見てきた。

 後期の授業「日本と自国の交流史」では、人物、文物がどのように交流してきたか、往来の歴史とおつきあいの内容をレポートにまとめて発表する。
 また、毎年、夏休み前に「博物館見学」を宿題にしている。日本各地のどの博物館でもいいから見学し、見た中のひとつの物、またはひとつの事柄を選んでレポートを書いて9月に提出。

 今年は、「地方の郷土博物館や歴史博物館でもかまわないが、特に予定のない人は、上野の東京国立博物館へ行き、日本から遣唐使と共に留学した井真成の墓誌を見てください」と、注文しておいた。
 今年の「日本事情」のクラスは、イランや韓国の留学生もいるが、中国からの留学生が多い。留学生として来日した人にとって、1300年も昔に日本から海を越えて留学した人の事績を知ることも興味深いだろうと思い、井真成について知る機会を作ったのだ。

 東京国立博物館平成館の2Fで9月11日まで開催されてきた「遣唐使と唐の美術」展。私は、最終日の一日前、9月10日に見学してきた。
 目玉は、「おかえり」というコピーがつけられた「井真成墓誌」の展示。

 井真成は、8世紀前半(717年〜718年の第9回遣唐使派遣のとき)に、遣唐使船で大陸へ渡り、唐の都長安で亡くなった。
 体は中国の土になったが、魂は墓誌とともに帰ってきたであろうか。
 「おかえり真成さん」
<つづく>

12:40 |

ぽかぽか春庭「井真成墓誌(2)」
2005/09/20 火
日本事情・交流史>井真成墓誌(2)

井真成は、699年に生まれ、18歳の時に阿倍仲麻呂や吉備真備とともに唐へ向かった。736年に長安で亡くなり、従五位にあたる「皇帝の衣服を用意する官職」を贈位された。

 墓誌は40cmx40cmの石で、16文字12行の文字が刻まれている。上辺に欠字がある。
 墓誌の拓本、文字パネル、日本語訳パネルなどが展示してあった。わが国の国号が「日本」であることを書き記した最古の記録としても貴重な発見である。

(以下■は不明字、欠字)
公姓井字眞成國號日本才稱天縱故能 
■命遠邦馳騁上國蹈禮樂襲衣冠束帶
■朝難與儔矣豈圖強學不倦聞道未終
■遇移舟隙逢奔駟以開元廿二年正月
■日乃終于官弟春秋卅六皇上
■傷追崇有典詔贈尚衣奉御葬令官
■?以其年二月四日?于萬年縣?水
■原禮也嗚呼素車曉引丹■行哀嗟遠
■兮?暮日指窮郊兮悲夜臺其辭曰
■乃天常哀茲遠方形?埋于異土魂庶
歸于故コ

(概訳)
『公、姓は井、あざなは真成。国号は日本。才能があり、命じられて遠方に赴き、馬で入国した。礼儀作法をわきまえ、衣冠を整えて朝廷に出仕し、並ぶ者がないほど活躍した。怠ることなく学問に励んでいたが、思いもかけず、道半ばにして、志を遂げることなく終わった。玄宗皇帝の開元12年(西暦736年)の正月に36歳で亡くなった。

 皇帝は彼の死を惜しみ、「尚衣奉御」という官位を贈り、唐の費用で2月4日に礼式によって埋葬した。(略)
 体の形は異土に埋葬されたが、魂は故郷に帰ることを願っている。』

 墓誌のほか、遣唐使船の模型や、吉備真備の入唐絵巻模写などと共に、唐時代の工芸品がたくさん展示してあった。
 その中で、中国洛陽博物館が所蔵している恭陵哀皇后墓から出土した文物は、井真成より少し早い時代に埋葬された皇后の墓に陪葬されたもの。去年見た「唐三彩展」でも、哀皇后墓出土の陶磁器が展示されていた。

 井真成は、このような文物を毎日の生活で使ったり見たりしながらいっしょうけんめい勉強していたのだろうなあ。いっしょに唐へ渡ったうち、吉備真備は帰国でき、阿倍仲麻呂は帰国を試みて失敗し、死ぬまで中国の高官として皇帝につかえた。

 真成は、生前には位も与えられていなかったところを見ると、科挙試験に合格した阿倍仲麻呂ほどの出世頭ではなかったのかもしれない。が、唐への留学生として選ばれたのだから、秀才であり、将来を嘱望されていた人材であったろう。

 墓誌は西安市内の工事現場から出土したというが、その工事現場がどこなのか、はっきりしていない。お墓の所在地もまだ解明されていないが、これからさまざまに研究が深まっていくことだろう。

 「井」という姓は、藤井寺と関わりを持つ葛井(ふじい)氏なのか、井上氏なのか、ということも、これからの研究ではっきりしていくのだろう。中国文献学や考古学の学者たちの研究成果を待ちたい。

 こうして墓誌だけでも帰国できた。
 1300年前に、新しい文化、異国の文化を学ぼうと志し、海を渡っていった人がいたこと、志を果たして帰国することはできなかったが、その人の実在を裏付けるものを目の当たりにして、彼の心は伝わってくること。
 見学した留学生達、どのような感想を話してくれるだろうか。後期授業で聞きたいと思う。
<おわり>
00:02 |

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