Workshop for Nipponianippon Communicative Language& Culture Studies


ポカポカ春庭のニッポニアニッポン事情・日本の歴史と文化

ポカポカ春庭のワークショップ ニッポニアニッポン事情
日本の歴史と文化 古代編 目次

| 日付2006 |
日本の歴史と文化 古代編 |
| 02/11・12 |
神話の日 |
| 02/13 |
大王の名前と言語学 |
| 02/14 |
古事記口承 |
| 02/15 |
歴史ファンタジー |
| 02/16 |
蝦夷共和国総裁選挙 |

2006/02/11 土
古い古い日本の姿、曖昧な部分もあります。歴史上の出来事のはっきりした日付がわかるようになったのは、6世紀くらいからでしかありません。
日本の建国の日が2月11日だなんて!
日本の建国はUSAのような新出来の国の独立記念日みたいに、はっきりわかっていないのです。
長い歴史が続く中で、日本が「何月何日」とはっきりわかるような建国の日を持ってこなかったのは当然でしょう。「日本」という国号でさえ、いつ出来上がったかははっきりしておらず、ニッポンなのかニホンなのかも「テキトー」でいいのに。
それなのに、2月11日を「建国の日」と区切ってしまうのは、旧石器時代縄文時代以来の私たちの先祖がはぐぐんだ長い長い歴史に対して、申し訳ない思いです。
伝説上の初代天皇(神武天皇)は、現在の歴史研究では実在したことが確認されていません。言語学の命名法研究からみて、神武の和名は、後世に作り上げられた名であることがはっきりしています。神武から9代の天皇は実在しておらず、その名は後世の創作です。
架空の神武天皇が即位した日を、切りがいいからと1月1日(太陰暦)とし、それを太陽暦になおすと2月11日になるという計算です。こういう「伝説上」の日付で建国の日を決めてもらっては、人文科学としての歴史が泣きます。
2月11日を祝日にしたいのなら、「神話の日」としてほしいです。
<つづく>
00:01
2006/02/12 日
旧「紀元節」が決められたのは、「近代国家」として、建国の日を内外に示すべきだという国家観によります。
戦後いちどは廃止された「紀元節」が「建国記念の日」として復活したのも、この国家思想のためです。
「国民のために国家がある」のか、「国家のために国民がある」のか、という2つの考え方が拮抗するなかで、「国家のために国民がある」と考える人々にとって、「建国記念の日」は、よりどころのひとつになっています。
「建国記念の日奉祝」派の人々にとって、初代天皇が即位した日を祝うことが、この国にの建国を祝うことになる、と考えられているようなのです。
しかし、『日本書紀』の記述を見ていけば、この国を最初に統治した天皇(スメラミコト)という名乗りを与えられている人はふたりいます。
始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラミコト)=神武、と、御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)=崇神です。
スメラミコト(天皇)という称号を考え出した人は、天武天皇です。天武以前は「おおきみ(大王)」という称号を名乗っていました。
a*****さんからのコメント。ありがとうございます。
「 昨日のNHK,「その時 時代は動いた」壬申の乱 で、天武天皇(大海人皇子)が大友皇子を破った後、それまでの大王をやめて、初めて自らを天皇と名乗り、それ以前の大王を天皇と呼び直した、という話でした。神話の日というのもいいですね。。
投稿者:a***** (2006 2/11 0:20)
NHK『その時歴史が動いた』、天武天皇の事績を広く伝えてタイムリーな企画でした。NHK番組では伝えていない天武朝9代と明治以後3代の天皇の関係について、のちほど今シリーズの中でお話ししていきたいと思っています。
『古事記』での神武天皇の和名は「かむやまといわれひこ(神倭伊波禮毘古命)」。
初代神武だけがさまざまエピソードを持ち、2代から9代まで、第2代綏靖、第3代安寧第4代懿徳第5代孝昭第6代孝安第7代孝霊、第8代孝元、第9代開化、までは、后の名子供の名を羅列するのみですっとばしています。
次に詳しいエピソードが出てくるのは、10代目の崇神天皇から。
初代と同じく10代目も、「ハツクニシラス(はじめてこの国を統治した)」という和名を持っています。歴史的には、崇神からが実在の「ヤマトの大君(おおきみ)」であろうとみられています。
2月11日を祝うなら、自国の長い長い歴史を振り返り、日本語が豊かな言語文化を築いてきたことを、一同そろって寿ぐ日としてほしい。
「神話と伝承の日」とし、アイヌのユーカラや沖縄のおもろそうしなどといっしょにことばの豊かさを味わうと共に、日本語の長い歴史と言語文化の変遷をふりかえる一日として、祝いたいなあ。
<つづく>
01:44

2006/02/13 月
日本の言語文化にとっても言語学にとっても、アイヌ語と琉球語(沖縄方言)を日本が保持していることは、とても喜ばしいこと。
私は、縄文文化あるいはそれ以前の旧石器時代も含めて自分たちの長い歴史を誇りたいと思います。日本語の豊かな響きを寿ぎたいと思います。
「日本」という国号にこだわるのなら、大宝律令に「日本」の文字が記載された701年に注目したらいいのかもしれないし、「帝国日本」ではない、新生の現在の日本を寿ぎたいなら、大日本帝国から「日本国」へと生まれ変わったときを「建国の日」としたらよかろうと思います。
世界的には、占領下や、植民地状態にあった国が独立した日を「建国の日」と呼ぶのが大半ですから、日本が「オキュパイド・ジャパン(占領下の日本)」でなくなった日(1952/04/28)を「建国の日」とするのが、世界的、歴史的には納得の記念日かもしれない。4月29日と連休になるのでいいかも。
日本語を母語として読み書きしてきた者として、ことばの使い方には気をつけたい。
歴史を無視して、今から2666年前(紀元前660年)という伝説上のある一日を記念して「建国記念の日」と呼ぶのは、無理がある。その日に即位したという伝説上の人は実在しないのですから。
歴史学考古学から考えても、言語学命名法からいっても、「2月11日は建国記念の日」とするのは、誇るべき日本文化日本歴史に対して、不誠実なことです。
天皇の和名や陵墓の研究によって、初代〜9代の天皇名は、後世に作り上げられたものであると判明しています。
天皇の中国風の名、神武とか、応神とかの名は、天武以後につけられた、新しい名前です。
中国式天皇名より古い時代につけられたはずの天皇和名を、命名法(ネーミング、命名法は言語学の一分野です)によって、言語学的に調べると、いつごろその名がつけられたのか推定できます。
10代以後の天皇和名よりも、新しい方式の名がつけられているのが、初代から9代までの名前です。
初代から9代までの和名は、天武天皇持統天皇の時代以後につけられたことが判明しています。すなわち、初代〜9代の天皇は、天武朝になってさまざまな伝承をもとに作られたのです。
<つづく>
00:58

2005/02/14 月
実在の神武天皇は存在しなかったけれど、神話伝説上の神武天皇は、後世作り上げられました。
「きっと最初の天皇はこんな人だったのだろう」と、さまざまな伝承、地方に存在していた伝説を混ぜ合わせ、中国の思想などを取り入れながら、ハツクニシラス伝説が確立して出来上がっていきました。
12日に書いたように、天武天皇(大海人皇子)は、「大王(おおきみ)」の称号を「天皇」という称号に変え、天武以前の大王にも中国風の名と天皇の称号を与えました。
各地の伝承を取捨選択し、統一王朝の記録として「古事記」や「日本書紀」の編纂を意図したのも天武天皇です。
中国に対して、また地方の豪族に対して、統一王朝の正当性と権威を知らしめるため、天武天皇は稗田阿礼に命じて、各地に伝わる伝承を暗唱させました。
「稗田阿礼」とは、一個人ではなく、阿礼を長とする朗唱職能集団の一族であったと私は思っています。
「伝説」や「神話」を集めたものを稗田阿礼が朗唱し、太安万侶が編纂したものとして私は「古事記」を受け止め、20代から30年以上にわたって読んできました。
1974年に『古事記』を卒論として提出して以後も、おりにふれて読み直すたびに、万葉仮名の発明と工夫に感嘆し、世界各地の伝承神話との異同が次々に見つかるなど、新しい発見が増えてきました。
古事記編纂の過程でどのような取捨選択、あるいはもっと踏み込んだ改竄が行われたかについては、ここでは論議を置いておきます。
漢字漢文は伝来していたけれど、まだ日本語表記法が出来上がっていなかったので、暗唱する以外に伝える方法はありませんでした。
口承は、文字がある地域にとっても、そうでない地域にとっても、言語文化の重要な伝承方法です。
『ユーカラ』はアイヌ神謡集、『おもろそうし』沖縄の古代歌謡集。日本の言語文化にとって、たいせつな宝物です。
口承の伝統は、アイヌユーカラや琉球おもろそうし、日本語文芸でも将門記、平家物語、仏教説話などで続いてきました。
文字ではなく、口移しで物語を覚えていく方法を残していたのが越後瞽女(えちご ごぜ)。最後のごぜさんだった小林ハルさんは2005年に105歳で亡くなり、耳からの情報だけで伝えていく口承の保持者はいなくなりました。
口承文芸の伝承者、現在もいますが、皆、文字記録も利用しつつ口承を伝えていて、耳からだけで受け継いだ人はいなくなったのです。
稗田阿礼の口承を文章表記にうつすに当たって、漢文で書くか漢字によって日本語を記述するか、ふたつの方法が考えられました。
漢文方式が『日本書紀』となり、漢字を日本語の音節にあてはめる「万葉仮名」方式で『古事記』が書かれました。
日本の神話についてはさまざまな論がありますが、『古事記』や『日本書紀』に書かれた、古い神話を持つことは、日本語言語文化にとって、とても心豊かなことです。
<つづく>
00:01

2006/02/15 水
「古事記」「日本書紀」などにに書かれていることを吟味せず、天皇についての歴史的事実を知りもしないで、明治以降の国家神道だけを奉じて「日本は神の国だ」とか発言する政治家が出てきてしまうのは、わが国の歴史に対して不遜なこと。
千年の伝統を破壊する形で急ごしらえでつくりあげられ、まとめられた明治以後の国家神道は、南方熊楠が案じたように、自然のなかに息づいていた素朴な神々を破壊し、おろそかにしてしまいました。
各種の「歴史」というのは、ファンタジーの一種であり、ある社会が一致して信じたいと思うことが記述されていきます。
歴史がファンタジーであることを認識せず、書かれていることがそのままそっくり事実と思いこんだり、歴史事実への検証なしに「これが『国民の歴史』である」という態度で主張するのは、「科学としての歴史」ではありません。
人文科学としての歴史記述は、冷厳な目で検証を行っていくべきです。
一般に流布している「日本の原像」、天照大神アマテラスオオミカミが皇室の祖先神であり、神武天皇以来万世一系の皇室が存在している、というのも、そう信じたいひとが信じているファンタジーです。
伊勢神宮天照大神と天皇家を結びつけたのは、天武天皇です。アマテラスを「祖先神」として祀るのは、天武朝から始まったこと。
聖徳太子の時代まで、「やおろずの神々の中の有力なひとつ」ではあったけれど、「皇室祖先神」という扱いではありませんでした。
「天皇は神の子孫であり、自らも神である」という思想を積極的に政治利用し、自分たちの権威を高めるために周囲への宣伝材料として行動した天皇は、天武天皇からはじまる9代と、明治以後の3代のみ。
125代の天皇の中の実在した116人のうち、天武朝の9代(8人)と、明治以後の3人の合計12人だけが、日本史の中で、特殊な天皇だったのです。
他の歴代天皇は、周囲に対して「天皇は神と同じように権威あるもの」として押し出さなくても存在理由があったし、アマテラス神の子孫を強調する必要もありませんでした。
明治以後の天皇とことなり、他の歴代天皇は仏教を信仰し、聖徳太子以来の仏教に基づく教えを守って行動してきました。
天武朝の天皇も、天武自ら仏教者として出家したし、聖武天皇は深く仏教を信仰し、東大寺大仏を建立しました。
聖徳太子時代以後で、仏教と切り離された天皇は、明治以後の4代だけ。
周囲内外の競争勢力に対して、積極的に「自らの権威」を作り上げなければならない存在だった天皇が、歴史上ふたりいます。
天智天皇系統の大友皇子(弘文天皇)と対抗しなければならなかった大海人皇子(天武天皇)と、旧幕府徳川将軍を圧倒する権威を、大急ぎで持たなければならなかった明治天皇です。
内での権威確立と同様に、外国勢力へも自身のよって立つ威信を誇示しなければならなかったのが、天武帝と明治帝。
天武天皇は、圧倒的な大国中国に対抗していかなければならず、明治天皇は弱冠16歳での即位後、これまた圧倒的な力で開国を迫り、すきあらば植民地化の機会をうかがう欧米諸国と対抗しなければなりませんでした。
天武天皇と明治天皇は、「自分たちは祖先神アマテラス神の子孫である」ことを強調して自らの統治者としての権威をうち立てた、という共通点を持っています。他の天皇には見られない特異なことでした。他の天皇は、「神の子孫」なんてことは強調せずに、仏教思想のなかで一生をすごしたのです。
<つづく>
00:01

2006/02/16 木
明治以降、皇室は「国家神道」のみに関わって、仏教信仰から離れました。
国家神道の思想とは、明治期、急ごしらえで作り上げられた「中央集権型国家のための新思想」でした。
源流は水戸史学などに求められるものの、国家的な思想として、天皇が「神道」一辺倒になったのは、明治からです。
「皇室は、アマテラス神の子孫であり万世一系」と考えることは、歴史ファンタジーとして信じたい人が信じていけばいいのであって、「天皇家は125代続いたというが、それなら、「我が命も、岩宿遺跡の先祖以来200代だか300代だか続いた末の命である」と、考える人がいてもよい。
125代連続だろうと、私みたいな「どこの馬の骨やら」の者だろうと、命の価値は等しい。
天武帝が自家の正当性を主張し、各地の豪族を圧倒する威信を確立しようと懸命だったのは、壬申の乱後もすぐには支配権が確立せず、天智系の子孫をかつぐ勢力の豪族を圧倒しなければならなかったから。
明治維新期に天皇の権威を認めたのは、一部の人間であり、他を圧倒する確たる力を持っていなかったからこそ、威信の表示が必要でした。
明治初年の民衆にとって、「テンノー?ミカド?いったい何それ?」という程度の存在でしかなかったのです。
明治維新を押しすすめた人たちも、倒幕後の構想はまちまちでした。公家の三条や岩倉は天皇中心にしようと考えていたでしょうが、他の人々はそれぞれの考えでまとまってはいませんでした。
坂本竜馬が「入れ札(選挙)」によって「国の代表」を決める共和国を構想していたこともあったようだし、短期間ではあったけれど、榎本武揚が「函館政庁(蝦夷共和国)」を樹立し、入れ札によって総裁を決めていたことなどを考え合わせると、歴史の「もしも」が少しずれていれば、日本が138年前に共和国へ移行していた可能性もありました。
明治10年の政変(西南戦争)終結まで、明治新政府は存続できるかどうか、薄氷ふむようなあやうい政権でした。
近代社会の確立にあたって、天皇が政治権力に直接関わることになったことは、強力な中央集権を作り上げた半面、近代の破綻にも繋がる要因ともなりました。
近代以後の共同体のありかたと近代制度の枠組みが、今、大きくきしんでいます。国民統合のシンボルとは一体どのようなものであるべきなのか、そこまで立ち返って考えたいのです。
「私にとっての共同体とは何か」を、もう一度考えてみたいと思っています。
共同体と自分自身を結びつける手がかりのひとつが、私にとっては「日本語」です。
日本語を母語としない人との共同体形成はどう行っていったらいいのか、についても含めて、日本語について考えてみること、母語、共通語としての日本語についてあれこれ考えること。私のアイデンティティのひとつの源泉です。
00:06


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