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ポカポカ春庭のニッポニアニッポン言語文化研究

ニッポニアニッポン語2005年1月a  

ポカポカ春庭のニッポニアニッポン語 挨拶語も変わる2005年1月a

日付 タイトル 今日の一冊 著者
2005
01/18
挨拶言葉も変わる@どうも
01/19 挨拶言葉も変わるAこんにちは
01/20〜01/22 挨拶ことばも変わるBあけおめ
ぽかぽか春庭のニッポニアニッポン語「挨拶言葉も変わる@」
2005/01/18(火)
「ニッポニアニッポン語>挨拶言葉も変わる@どうも」

 「挨拶(あいさつ)」という語は、もともと仏教用語。指導的立場にある僧と門下の僧とが、教えについて問答を取り交わすことをさした。
 それが「人が他の人と会った際に取り交わす儀礼的な動作、言葉」さらに「儀礼の場などで発する言葉」も意味するようになり、現在は「単なる応対、返事」もいうようになった。

 「残業もそのくらいにしてもう帰ろう、と声かけたのに、なんの挨拶もない」と、先輩が憤慨するのは、返事が返らないことを怒っているのであって、仏教問答をしているのではない。

 「挨拶」という語自体の意味も、時代によって変化している。なんといって挨拶をするのか、取り交わされる挨拶のことばも変化する。

 いしいひさいちによる新聞連載のヨンコマ漫画、『ののちゃん』。『となりの山田君』のタイトルのときから愛読している。
 ののちゃんは、小学生。とても元気な女の子で、言葉遣いが「超現代っ子」。同級生たちもののちゃん同様、少々荒っぽいことばを使う。

 2005年1月17日の漫画「ののちゃん」。「3組3バカトリオ」と呼ばれるクラスの人気者たちが、先生に「オハゴザー」と挨拶し、注意されると「ドモスミ」と謝っている。
 私も、学生たちから「今出来の日本語」を聞く機会が多いが、「ドモスミ」はまだ聞いたことがない。

 先週の「時代によって動詞の用法や活用も変化する」に続き、今週は挨拶語の変化について。
 「どうも」「こんにちは」「あけおめ、ことよろ」この3つをとりあげてみます。

2005/01/18 08:09 t***** どもどもです^^ オハヨウ御座います^^
という足跡をいただく。朝のご挨拶、うれしく拝見。

 でも、人によっては「どもども、なんて挨拶はいや」という人もいるだろうし、「どうも、と挨拶されると不愉快」と感じる方もいる。でも、「どうも」という挨拶はこの30年ほどで、確実に増えた。

 私も、ちょっとした挨拶を交わさなければならないとき、「すみません」と言ったらいいのか、「お世話になりました」でもないし、どうしようと、迷ったとき「どうも、、、、」と、口の中でもごもご言って終わりにしてしまうことがある。
 
『挨拶から謝辞陳謝の他、何でも言い切ることをせずに事足らしてしまう言葉「どうも」の一言は、便利ではあるけれど、天邪鬼の私は、「どうも、何でしょうか・・・?」と、言いたくなるし・・・、』
 というご意見を読み、自分の貧弱な言語生活に恐縮してしまう。「どうもすみません」

 NHKアナウンサーが「どうもどうも高橋圭三です」と言ってテレビ画面に登場した頃から「どうも」が「単独の挨拶語」として広まった。

 当時から「『どうもどうも』は、日本語の挨拶として不愉快」という反対派と、「お堅いNHKに、気軽で身近な雰囲気をもたらした」という賛成派、賛否両論があった。

 「どうも」は、元々は「どうも覚えられない」「どうも怪しい」「どうも気に入らない」など、「どうしても〜できない、だめだ」というような、否定的なニュアンスを含む副詞、また、「どうも出かけるようだ」「どうも事実らしい」というような熟考を経た推量のニュアンスを含むことばだった。

 それが「どうもご苦労様」「どうもありがとう」という使われ方をするようになり、その当時の年輩者は「『どうも』は、どうもよろしくないって場合につかうのであって、『ありがとう』といっしょに使うなんて言語道断」と、思ったという。

 しかし「どうもありがとう」の言い方は定着し、いまでは「ありがとう」より丁寧な挨拶として受け止められている。「正統派『どうも』の使い方」を主張する人が「どうもありがとう」という感謝の挨拶を聞いたら、大いに嘆くだろう。

 「どうもどうも」「どうも」「どもども」が、挨拶の言葉として「省略されている」と感じる人がいるのは、「どうも」が「単独の挨拶語」としてまだ定着の過渡期にあるからだ。

 「どうもよろしくない」という使い方から「どうもありがとう」が派生し、「どうも」が否定や推量のニュアンスから抜け出す変化がおきた。私たちの世代にとっては、変化が完了したあとなので違和感なく受け入れ、日常的に「どうもありがとう」を使っている。

 自分が生まれる前の変化は受け入れ、自分が母語を獲得したあとの変化は受け入れにくいというは、当然のことなのだ。人は自分自身の感覚で語感をみがき、自分の受け入れられる語を用いていけばよい。

 自分の好みの言葉を使用し、自分の世代のことばで生きていけばよいのだが、他の人が「どうも」と言ったときに「どうも、という挨拶では中途半端に感じる」という点については、「これは世代のちがい、好みの違い、言語感覚の相違で、しょうがない」と思ってもらうしかない。
 「どうも」をあいさつに使うことを否定するなら、「どうもありがとう」という言い方も否定しなければ、すじが通らないからだ。

 「挨拶」という語が仏教語としての用法のみに留まらず、「応対、返事」の意味まで拡大して使われるようになったのと同じく、「どうも」の用法も変化していく。
 「どうも」も、他の語と同じく、変化の流れの中で生きてゆく言葉なのだ。

 「どうも」が単独の挨拶語として定着していったあとに生まれる世代の人にとっては、「どうも」「どもども」と挨拶を交わすことに違和感を持たなくなるだろう。
 さらには、「どうもすみません」のかわりに「ドモスミ」が広まっていくのかもしれない。

 次は「こんにちは」も省略された挨拶ことばだった、という話。
10:54 | コメント (6) | 編集 | ページのトップへ
2005/01/19(水)
「ニッポニアニッポン語>挨拶言葉も変わるAこんにちは」

 「省略表現」「縮約形ことば」は、若い世代に好まれる。
 縮約形。たとえば「〜してしまう」→「〜しちゃう」、「〜しなければならない」→「〜しなきゃなんない」口語ではすでに定着している。

 若者はあいさつも、短く簡単にすませたい。「オはようございまス」の最初と最後だけくっつけて「オッス!」など。
 「オッス」は、女性に広まらなかったせいか、一般の挨拶用語としては「男性が親しい相手にいう挨拶」という位置から変化せず、「丁寧ではない挨拶語」から「一般的な挨拶語」へと上昇しなかった。
 「おはよう」「こんにちは」という挨拶言葉も、もともとは、省略したもの。こちらは、世代、男女をとわず、だれでも使う挨拶になった。

 「こんにちは」は、「今日(こんにち)はお日柄もよく、まことに上々吉。御当家の皆々様も、ご健勝にておすごしと承り、恐悦至極に存じます。さて、本日まかりこしましたのは、うんぬんかんぬん」とか、「こんにちはよいお天気になり、けっこうなことで。つきましては、先日お申し越しの件でございますが、、、」などというあいさつの、出だしの「こんにちは」だけが残り、あとは省略したものなのだ。

 「おはよう」も「お早いお目覚めでまことにけっこうにございます。旦那様におかれましては、ご機嫌もうるわしゅう、お喜び申し上げます」「おはようおこしいただきまして、ありがとう存じます」とかなんとかという、長々しい朝の挨拶の最初のところ「おはよう」だけ残して、あとは省略した。

 昔々の人に「こんにちは」と声かけたとしたら、「こんにちは、だなんて、省略した短いことばで挨拶するなんて、なんという不見識。きちんとした挨拶もできないなんて、しょうもない人ですね」と、怒られたかもしれない。
 現代では、省略語の「こんにちは」が標準的な挨拶のことばとして定着している。
 「こんにちは」さらには「こんちわ」「こんち」「ちわっ」と言う人もいる。

 省略したという意識もなくなって、今では「こんにちわ」と書くことも許容範囲。
 「今日は」の助詞「は」は、もはや助詞として機能していない。『助詞を示す「WA」を「は」と表記する』という表記法の決まりに従う意味がない。
 私は挨拶の語としてひらがなで書く場合、留学生の作文では「こんにちわ」を認めている。ただし、自分で書くときは「こんにちは」と書く方が多く、「表記のゆれ」の過渡期。

 「さようなら」は、「これこれ、しかじか〜」と、話し合った最後に「左様の(そのような)次第にて話がまとまりましたならば、けっこうなことと存じますので、これにて失礼いたします」「左様なら、これにて」「さようなら」と、短くなった。
 「さらば」も「左(さ)に、あるなれば、これにて失礼つかまつる」「さ、あらば、これにて失礼」「さらば」
 「じゃ、また」も、同じこと。「では、またお会いしましょう」「じゃ、また」「じゃぁね」

 省略語も、人々が受け入れれば定着するし、一時期流行しても、たちまち飽きられて使われなくなる言葉もある。「超ベリーバッド」の省略として一時のはやり言葉になった「チョベリバ」など、たちまち死語となった。

 子どもたちの間で人気となった朝の挨拶「おっはぁ!」
 テレビ東京の朝の子ども番組から発生した挨拶語が、バラエティ番組の「しんごママ」の挨拶語として広まった。一時期の大流行に比べると、子どもたちの間から聞くことが少なくなった気がするが、はたして「おっはぁ!」の命運やいかに。定着か死語か。
 「おっは」が友達へのあいさつ「おはござ」が目上への挨拶、となる日も近いのか。

 次は「あけおめ、ことよろ」について。
12:49 | コメント (9) | 編集 | ページのトップへ


ぽかぽか春庭のニッポニアニッポン語「挨拶ことばも変わるBあけおめ」
2005/01/20(木)
「ニッポニアニッポン語>挨拶ことばも変わるBあけおめ」

 今年の正月に、大阪で編集をなさっている方からのおたずねコメントを読んだ。「あけおめことよろ、という表現を日本語教師としてどう思うか」という内容。

 「あけおめ」も、使いたいと思う人は使えばよろしい。学生へは「友人にはメリクリでもアケオメでも自由にどうぞ。ただし自分の親世代より年輩の人に使ったら、いやがる人もいるよ」と注意はする。

 メール時代。クリスマスカードや年賀状を送るよりメールであいさつをかわす若者が多くなった。クリスマスのメール挨拶として「メリクリ」、新年の賀詞として「あけおめ、ことよろ(あけましておめでとう、ことしもよろしく)」

 会話、チャットがわりにメールでやりとりするのが、日常生活に定着している10代20代前半の人には「あけおめ ことよろ」のやりとりも、「おはよう」と同様に使う。
 私たちが「こんにちわ」や「おはよう」を、省略語などという意識を持たずに普通の挨拶語として使っているの同様、「メール世代」の「フツーの挨拶語」になっている。

 メールというコミュニケーション手段を取り入れたのが、母語形成過程と同時進行だった人にとっては、「あけおめ」も、違和感がない。逆に、母語形成を完成し、「社会生活にふさわしい言葉遣い」なんてものを身につけてしまったあとで「あけおめ」を聞いた人にとっては、「違和感」「拒否感」が全身をおおう。

 挨拶語の省略シリーズ、「どうも」「こんにちは」の次は「あけおめことよろ」と、予告したら、さっそくコメントをいただいた。

 30代の方からのコメント。
「あけおめ」はわかったけれど、「ことよろ」って何? としばし熟考。あぁ、「今年もよろしく…」ってこと?本当にわかりませんでした。私にとってはもはや暗号です。気になる言葉。「いくらなんでもそりゃああんまりです」…この言葉もそうとう省略されていそうですね☆ 投稿者:h*** (2005 1/20 0:22)

 春庭から>優しい人柄あふれる言葉で児童文学の紹介HPを続けているh***さんにとっては、かなり違和感のある挨拶のようですね。「いくらなんでもそりゃああんまりです」と、感じる世代が使う必要はありません。でも、20代10代の人がメールでやりとりするのは、もはや止められません。

 40代(たぶん)の方からのコメント。
 「あけおめ ことよろ」は大嫌いです。メール代金くらい気にせず、きちんと書きます。というより、新年の挨拶はメールではしませんね。ましてやそのまま口に出すなんて、とんでもないです。 投稿者:m******* (2005 1/19 23:10)

 春庭から>若い人たちはパケット料金で、文字の長さがメール代金と関わりない人でも「あけおめ」を使っています。
 「こんにちわ」「こんばんわ」は、メール代金を気にしなくてもいい昔の人が口語として省略したのであって、挨拶語の変化は何時の時代でもおこること。

 m********さんはメールで新年の挨拶はせず、年賀状をきちんと出す方、ご自分の言語生活のポリシーを守っていらっしゃる方と推察します。どうぞ、ご自分のスタンスでことばを大切になさってくださいね。

 しかし、言葉の変化は止められません。
 10代20代の若者で、今年年賀状を出した人は確実に減少しています。元日に友達と待ち合わせした友達同士では顔をあわせて「あけおめっ!」と口に出している。30代以上の方、自分が使わなければいいのであって、若者が使うことには、目をつぶってください。

 50代の方からのコメント。
 実は私も「アケオメ」メールを新年早々賀状代わりに送ってしまいました。後輩だからまーいいか?投稿者:s********* (2005 1/19 20:29)

 春庭から>わぁ、若い!「アケオメ」を若者言葉として容認派の春庭も、自分では使えません。後輩の方、何歳でしょうか。「あけおめことよろ」を違和感なく受け止めるメール世代の人あての挨拶だったのでしょうね。

 50代の方からのコメント。
 あけおめって年賀状貰った時は驚いた(^^)オイオイ!正月からなんじゃ〜
意味聞いてからホット胸撫ぜ下ろしましたけど・・ 投稿者:t***** (2005 1/19 15:9)

 春庭から>「あけおめことよろ」を「開けおめこ」「とよろ」と区切って読んで、「姫始めの挨拶」かと、びっくりぎょうてん!だったのかしら。フフフ。
 (プロフィールでは年代が分かりませんでしたが、2004/12/16カフェ日記に「50の声聞くまでは、風邪なんか引いた事無いのに」とあるので、50代の方と推察)

 「あけおめ」を「いやだ」と感じる年代の方、自分で使わないことは自由。省略した賀詞を受け取ることが不愉快であることに、共感してくれる世代の人と、おつきあいしていけばいいのです。
 しかし、20代10代の人が「あけおめ」とメールを送りあったり、対面して「あけおめ!」と声をかけ合うことは、彼らにまかせておきましょう。「気にしないでほっておいて」と、申し上げるしかない。<あけおめ続く>
11:18 | コメント (9) | 編集 | ページのトップへ


2005/01/21(金)
「ニッポニアニッポン語>挨拶ことばも変わるCあけおめ」

 40代の方からのコメント
 あ、そうそう「あけおめ ことよろ」は見る側、受ける側からすると短すぎてぞんざいに感じてます。市民権を得るまでには至らないのではないかと思っています。投稿者:a***** (2005 1/20 1:13)

春庭から>「受ける側からするとぞんざいに感じる」というのは、母語形成過程に「あけおめ」を聞かなかったからぞんざいに感じるのです。「こんにちわ」をぞんざいに感じないのは、この省略化が完了してから生まれたから。

 私も「あけおめ」はこれ以上定着しないと考えていますが、それは「ぞんざいだから市民権を得るに至らない」のではありません。「正月」「新年」に対する意識が、若い人の間で、確実に変化しているからです。

 「あけおめ」が若い人々の間で、新年の挨拶として定着するかどうか。
 たぶん、しない。
 「あけおめ」という挨拶語を言わないというのではなく、新年に「新しい年がはじまった」という挨拶を交わす習慣そのものが、なくなっていくような気がする。

 「新年だからといって、特別なことは何もない。昨日のつづきが今日であるのと変わらず、2004年12月31日のつづきが2005年1月1日であるだけ」と、感じている若い世代の日記を、いくつかのサイトで見た。「カレンダーをとりかえるだけ」
 紙のカレンダーを壁にぶら下げる習慣がなくなり、多目的モニターに、時間もカレンダーも環境音楽環境映像も全部映し出す時代になれば、カレンダーの取り替えもなくなるし。

 郵便局が時代の変化に応じたつもりでパソコンプリント仕様の葉書を売り出してみたものの、年賀葉書の売り上げはジリ貧だという。紅白歌合戦の視聴率低下と、年賀状交換習慣の廃れ方は、連動しているのかもしれない。

 「あけおめ、ことよろ」が生き残るとしたら、「簡略賀詞でもいいから、正月には挨拶を交わし合いたい」という意識が若い世代に引き継がれていく場合のみ。

 大晦日を一年終わりの特別な日、元旦を一年はじめの特別な日、と感じる人が少なくなれば、「一家そろって一年振り返りながら歌番組を見る」という習慣も「新年おめでとう」の挨拶もなくなっていく。
 「明けましておめでとうございます」も、テレビバラエティ番組専用のことばになっていく。<あけおめ続く>
07:44 | コメント (4) | 編集 | ページのトップへ


2005/01/22(土)
「ニッポニアニッポン語>挨拶ことばも変わるDあけおめ」

 「あけおめ」にたくさんの方からのご意見コメントありがとうございます。ことばについてあれこれ考えるのが仕事の一部でもあり趣味である春庭にとって、さまざまなご意見をお寄せいただくことは励みとなり、また自分の考えの足りない部分をさらに深めていくための契機でもあります。
 さて、「あけおめ」という省略賀詞がこれから先も生き残るかどうか、ということについて、さらに続けます。

 年がひとまわりし、切り替わる正月は、「時間のリセット」であり、「魂の新生の契機」として機能してきた。リセットによってすべてが新しくなり、この先1年間生き続ける活力を得たのだ。新しい太陽、初日が上るのを見、新しい水、若水をくみ上げる。一年最初に言葉を交わしあい、ともに酒を飲む。
 時間がリセットされることにより、新たな生成が準備される。ことに農耕社会にとっては、土地と時間の新生は、新たな生産のために重要なことだった。土地と時間の新生は「めでたし(メデ(愛で)イタシ(甚し)」と感じられる出来事だった。

 今は満年齢で年をいうが、「数え年」のころは正月にいっせいに年を加えた。時間のリセットによって、自分の年齢も切り替えた。年齢がふえるということは、一歩死に近づいた、ということになる。
 「正月は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」という歌(伝承では一休禅師作だが、確かではない)は、正月という時間を意識するふたつの面をうまく表わしている。

 人の一生の中で、特記すべき通過儀礼(イニシエーション)は、誕生、命名、成人、結婚、葬儀などであり、世界各地にさまざまな儀礼が存在する。成人の儀礼では、人は「子ども」の自分をリセットして「大人」へ生まれ変わる。葬儀では「生身の人」から「ホトケ、カミ、タマシイ、ゴセンゾ」などと呼ばれる存在にリセットされる。自分のいるステージがリセット変更されるのだ。

 一生の時間のステージリセットと、毎年の生命力のリセット新生が組合わさって、ひとりの人間のすごす一生の時間が進んでいく。これにより「新年おめでとう」なのだ。
 
 これらの「リセット新生」を感じない人が育っていき、新年がめでたいものでなくなれば、「あけましておめでとう」のあいさつは形骸化し、やがて消えていくのもしかたがない。「あけおめ」という簡略賀詞が生き残る確立も低い。
 「今年もよろしく」と、賀詞を言い合うことにより、これから先1年の交流継続を確認する意味が薄れれば、きのうの続きとして今日もなかよくすればいいだけで、ことさら新年用のあいさつを交わさなくても、友達づきあい商売づきあいができるのだ。

 昔は、取引先や上司の家への年始まわりが正月の大切な行事だった。江戸時代には、正月松の内に60軒や70軒の年始にまわりは当然というところもあったとか。

 しかし、昨今では「年始回り」も「親の顔を見に行くだけ」という人も増えた。今年、年始挨拶のために松の内に何軒のお宅を訪問しましたか?ほら、50軒まわったなんて人、いないでしょ。昔だったら、そんな不義理をしたら非難囂々だったかも。

 年始回りの習慣がこれまでの100年で消えたように、年始回りの代用として機能していた年賀葉書交換も、50年後には廃れているかもしれない。
 友人知り合いと新年の賀詞を言い合う習慣が意味をもたなくなれば、「新年おめでとう」も「あけおめ」も、消えていく。

 50年後100年後に、「新年が来たことを寿ぎ、あいさつをかわす」という習慣が残るのか、先細りになった末に消えるのか。これから生まれてきて、50年後100年後に日本語を社会の中で使う人たちが、それを決めるだろう。

 「明けましておめでとう、新年おめでとう、のあいさつを大切にしましょう」と、声高に主張する必要はない。変わる必要がある言葉は変わり、残る言葉は残る。

 新年あいさつのことばが残るかどうかは、これから生まれる世代の人たちがどのような社会のなかで、どのような生活をしていくのかによる。
 その社会を用意し、作り上げるのは今の10代以下の人々であり、今の20代10代を育てたのは、私たち親世代なんだけど。<あけおめ終わり>
12:00 | コメント (8) | 編集 | ページのトップへ

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