60年代の町並み
[栃尾鉄道の部]
下長岡〜下新保間の栖吉川鉄橋

前回の「60年代の町並み/栃尾鉄道編」で「どあいぐち〜ながくら〜ゆうきゅうざん」を取り上げさせていただいてから、既に、2カ月以上が経過してしまいました。長岡駅から片方の終点である悠久山まで一気に行ってしまい、今度は、長岡駅から栃尾方面に向かって少しずつ進んでいこうと思っておりましたが、袋町駅や下長岡駅周辺の写真などの材料がなかなか揃いませんので、手元に残っております唯一の写真である下長岡(しもながおか)〜下新保(しもにいぼ)間の栖吉川に架かっていた鉄橋を取り上げさせていただきます。
このページのトップを飾っている画像は、恐らく、1975(昭和50)年3月のものと思われます。栃尾鉄道は栃尾〜上見附間(10.4km)と長岡〜悠久山間(2.8km)が1973(昭和48)年4月に廃線となり、長岡〜上見附間(13.2km)が1975(昭和50)年3月に廃線となりました。
「なが年ありがとうございました」の横断幕を付けたトッテツの電車が、この鉄橋を渡っている画像は1975(昭和50)年3月、長岡〜上見附間が廃線となる直前に撮影されたものと思われるわけです。ちなみに、画像の右端の方で、4両編成の電車の先端部の向こうに小さく見えているのが、私の母校の長岡市立東北中学校です。はるかに見える2棟の鉄筋校舎の間の玄関や、左側の鉄筋校舎の前にあった武道場の切妻型の瓦屋根などもご確認いただけるかと思います。
長岡〜悠久山間が廃止された辺りの状況については、当時、長岡高校の3年生だった私は、同級生のY君と長岡駅から廃線になった線路の上を悠久山の駅まで歩いたりしましたので、はっきりと覚えていますが、長岡〜上見附間が廃線となった辺りになると、ちょうど早稲田に入学する前後のバタバタしていた時期だったこともあり、ほとんど記憶にありません。記憶にないというよりも、実は、今回、このページを作るため、手元の資料を確認していて、初めて、長岡〜悠久山間と上見附〜長岡間の廃線の時期が違っていたということを知ったほどであります。私は、これまで、栃尾〜長岡〜悠久山間は、全線が同時に廃止されたものとばかり思っていました。
何れにしても、栃尾鉄道は廃線になってから四半世紀に近い歳月が経過しており、その沿線を辿ってみても、往時を偲ぶことのできるものが殆ど無くなってしまっているわけですが、この下長岡〜下新保間の栖吉川にかかる鉄橋だけは、今も、その橋台と橋脚が当時のまま取り残されています。
今月の初めに、春休みで長岡の実家に帰っていた長女と長男を迎えに行った際、実家から自転車で10分ほどのところにある、鉄橋跡の周辺の様子をビデオカメラに収めてきましたので、併せて、紹介させたいただきます。
まず、このページのトップにある画像のすぐ下にあるカラーの画像は、私の気憶を頼りに、似たようなアングルでビデオを撮ってきたつもりだったのですが、こうして並べてみるとトップの画像の写真は、栖吉川の土手の上からではなく、岸辺まで下りていって撮影されたものだったことが分かります。私は、土手の上からビデオを撮りましたので、水平方向のアングルは、ほぼ同じような感じでありますが、垂直方向のアングルは、当時、この周辺に殆ど家がなかったということもありますが、一応、トップの画像は下からあおる形となっていますので、東山連山もより広い角度で捉えられています。
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その辺の違いも含め、1967(昭和42)年当時の航空写真と、ほぼ現在と同じ状況である1991(平成3)年の航空写真とを比較しながら、この鉄橋の周辺がどのように変貌してきたのかを、より正確かつ詳細に説明させていただこうと思います。
まず、この2枚の画像のうち、上の1967年当時の航空写真の画像ですが、赤い線で辿ってあるのが栃尾電鉄の線路、赤い丸数字の@が下長岡駅、Aが下新保駅のあった位置です。ピンク色の矢印が、このページのトップにある画像の写真が撮られたアングルで、アルファベットは、Aが長岡市立東北中学校、A’が旧東北中学校の跡地、Cが私の実家のある地蔵町、Dが長岡市立川崎小学校ということになります。特にマーキングはしてありませんが、画像の中央を蛇行する太い川が栖吉川、右下から中央に向かい、中央部で栖吉川と交わる直線的な流れが福島江です。
その栖吉川と福島江が交わるところに架かっている橋が、出合橋と呼ばれる橋で、私が東北中学校に入学する前後に、真新しい木造の橋に架け替えられ、まだ、下駄履きの生徒も少なくなかった当時、登校・下校時には、下駄と木造の橋がぶつかり合うカラカラという音が、それなりの風情を醸し出していたものでありました。
また、中学時代、私が所属していた野球部は、練習の際、ちょっと長い距離を走る時には、グランドから栖吉川の土手まで出た後、この栃尾電鉄の鉄橋までを往復するというコースもよく利用していましたので、そういう意味からも、この鉄橋には、懐かしさと思い入れを感じないわけにはいきません。
次に、下の1991年の航空写真ですが、アルファベットのBは、私が長岡を離れた後、多分、1970年代後半から1980年代前半の頃だろうと思いますが、東北中学校周辺の田んぼの宅地化に伴なうこの地域の人口増加を受けて、新たに設立された川崎東小学校です。このページのトップの画像の下にあるビデオをキャプチャーした画像で、右端に見えている鉄筋コンクリートの校舎は、一見、東北中学校のように思われるかもしれませんが、実は、川崎東小学校なのであります。
この1967年の航空写真と下の1991年の航空写真の画像を見ていると、改めて、この四半世紀の間の、東北中学校周辺の変貌ぶりに驚かざるを得ません。
まず、何よりも目を引くのは、下の1991年の航空写真の画像で中央部を上から下に縦断している道路で、これが、長岡の東部と西部の幹線道路を結ぶバイパス道路であります。現在は、この道路沿いに、今年の4月から私の姪が就職して配属されることになった郊外型の大規模ショッピングセンターや、レンタルビデオと本屋が一つになったTSUTAYA、モスバーガーやケンタッキーフライドチキンなども出店し、それなりに便利にはなりましたが、それより何より、この道路が造られたことにより、上の画像の赤い丸数字@の場所にあった栃尾電鉄の下長岡駅界隈の景観が一変しています。特に、この辺りは、愛宕神社を中心に古い町並みが残っていた地域でしたが、愛宕町は、その面影を偲ぶことも出来なくなりましたし、愛宕神社も移築され、無粋なコンクリート作りの社殿になってしまいました。その変貌ぶりは、往時を知るものにとっては、ほとんど、嘆きを通り越して怒りに近い感情が込み上げてくるほどです。
以前、長岡市の中央図書館で調べものをしている際に、1960年代の長岡市の行政用の白地図と出くわし、その地図の上に、このバイパス道路を含む新しい道路計画を示す鉛筆の線が無造作に引かれているのを見たことがあり、私は、その時、こんな紙切れ1枚と鉛筆で、実際に暮らしている人間の生活が一変してしまうことに愕然とし、無性に悲しくなってしまった気憶があります。
私が住んでいたのは激変してしまった愛宕町に隣接する地蔵町でしたが、幼稚園の頃、同じクラスだったS君の家に遊びに行って、一緒に紙芝居を見たりしたのはこの愛宕町でしたし、私が最も頻繁に行った駄菓子屋さんも、愛宕神社の隣にありました。小学生の頃、レーシングカーのセットを持っていて、よく遊びに行ったW君の家も愛宕町にありました。高校時代、新聞配達をしていた私が、販売店で新聞の束を自転車に乗せた後、一番、最初に配達する区域だったのが、この愛宕町でした。越後交通が1960年代に経営多角化の一環として展開を始めたスーパーのマミーストアも、越後交通の社員寮の跡地を利用する形で、この愛宕町にも出店されていました。
そして、もう一つ、この辺の景観を変貌させた大きな要因の一つが、1991年の航空写真の画像の中央下部から左斜め上に直線的に伸びている上越新幹線であります。下長岡駅の周辺には、お寺が沢山あって、その中には、立派な造りの庭のあったお寺があり、銀玉鉄砲の打ち合いをするには格好の場所で、よく悪ガキ同士で遊びに行ったものでしたが、新幹線の敷地にひっかかってしまったそのお寺の庭も、今はもうありません。
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ということで、このバイパス道路と新幹線による町並みの激変に対する恨みつらみを書き始めますと、とどまるところを知らないという感じになりますので、また、機会を改めて、この辺りについては書かせていただくことにして、今月の初めに取材をしてきたばかりの、この“栖吉川鉄橋遺跡”について、ご報告をさせていただこうと思います。
まず、左の2枚の画像は、上の1991年の航空写真でいうと、ピンク矢印3のアングルで撮ったものです。つまり、トッテツの電車が走っていた頃でいうと、鉄橋の下長岡駅側で撮ったものです。
橋台の部分は、まだ、当時、使われていたものと思われる木材が朽ちかけながらも残っておりました。廃線になった後、線路は剥がされ、鉄橋の素材だった鉄材なども撤去されてしまったわけですが、こうした橋台のようなコンクリート素材だけは、再生がきかないためなのか、当時のままに残されており、今となっては、往時を知る者に懐かしい気分を味わわせてくれる貴重な存在となっています。
右の4枚の画像は、上の2枚とは逆に、鉄橋の下新保側で撮ったものです。こちら側も、橋台の部分は、かなり、しっかりと残されており、橋桁との連結部分を支えていたと思われるボルト・ナットなども錆びてはおりますが、当時のままの姿をとどめています。さらに、橋脚の上部も、左下の画像をご覧いただけば分かるように、やはり、橋桁を橋脚に固定するために使われていたと思われる金属部分が、錆びた茶色の姿でそのまま残っていました。
ここで、一応、、これまで使わせてきていただいている「橋台」、「橋脚」、「橋桁」という3つの言葉について、皆様の理解をより正確にしていただく意味も含め、CD−ROMの広辞苑第四版によりまして、その定義を明らかにさせていただきます。
「橋台」…橋の両端で橋を支える構造物。
「橋脚」…橋桁(ハシゲタ)を支える柱。橋台とともに、橋の下部構造をなす。
「橋桁」…橋で、橋脚の上にわたして橋板を支えさせる材。
ということで、さらに、「橋板」という言葉の定義です。
「橋板」…橋桁の上に敷いた板。
最後に、鉄橋近辺の線路跡がどんな様子になっているかをご覧いただきます。
左の2枚の画像のうち、左側が鉄橋の下長岡駅側の端から、下長岡駅跡方面を撮影したもので、線路跡は遊歩道になっていて、その途中に公園も作られたりしていました。
一方、右側が鉄橋の下新保駅側の端から下新保駅跡方面を撮ったものでありまして、こちらは、何とく線路跡の土地だけ空白地帯のようになってはいましたが、ごく自然に住宅街の中に溶け込んでいく感じで、そのつもりで見なかったら、かつて、ここに線路が敷かれ、電車が走っていたなどということは、及びもつかないのではないかと思われるような光景に変わっていました。

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